油煳干青∈0首頁:决赛0∋糟酸麻蒜

中国で一番辛い町を勝手に決します。

油辣:ラー油の辛さ
煳辣:焦がし唐辛子の辛さ
干辣:干し唐辛子の辛さ
青辣:青唐辛子の辛さ
糟辣:糟漬け唐辛子の辛さ
酸辣:酸っぱく辛い
麻辣:花椒の痺れる辛さ
蒜辣:にんにくで辛い
▲松江虎楼/四川麻婆豆腐

※主題歌:KeepRolling 謙遜ラヴァーズ
   :やつらの足音のバラード

エントリー
○【成都】:言わずと知れた蜀都。四川料理のメッカにして,陳麻婆豆腐のふるさと。
2011.12 初訪

★【重慶】:現代中国でのチェーン店の冠としては一番辛いイメージ。自分的にも未知の土地
2012.1 初訪 ※但し正味3時間程

◎【貴陽】:八つの辛さを使い分ける土地として,地味だけど定評有。個人的にも超入れ込んでる。
2013.9:一次 2015.7:二次
2017.4:三次

▲【長沙】:辛い湖南料理という名は四川を除けば知れ渡ってる。非四川の最右翼であることは間違いないが…。
2014.9:長沙編


序:又は長い御託


真辛爽

い」のが唐辛子や塩の強さのことなら,辛いものを食べたけりゃその量を増やせばよい。それだけです。自前で幾らでも出来る。
 ホントの辛さは,そういう辛味調味料の「量」ではない。
「真味淡」という禅語をパロって言えば──真辛爽。つまり…辛さというのは本来人間の味蕾には「不味い」と感じられるはずの刺激です。カプサイシンを皮膚に塗ると痛い。味蕾の場合でも痛覚として感覚されてる。「熱い」という感じに似た形で温度受容体を刺激してるという。
 量を増やすのはこの「不味さ」を増すだけ。それで「俺はそれでも食えるぞ」的我慢大会をしたいなら,そういう方を止めはしないけど,今回求めて歩く辛さではない。
 日本人が旨味を増すように,四川人の言う「爽」と感じられる味覚では,本来の旨味の触媒として辛味が働く。基本的には少しの塩味が甘味を増すのと同じです。だから旨いんである。
 だから「中国で一番辛い」というのは唐辛子の消費量が多いという意味では,単純にはない。「辛さを最も巧みに操る」という意味です。そのためにはそれなりに唐辛子を使うことになるけれど──量そのものは巧みさではない。そんな食文化は,自然で恒常的なものとしては存続し得ない。
 けれど幸い,そういう食文化が現存することは,成都の「爽」,貴陽の「八辣」,長沙の「深」として既に認知してる。
 今回はそのいずれが如何程に巧みなのか,同時接触することで自分の舌に突き付けてみたい。そんな感じの企画です。

填四川

回,この四都を予習する中で再認識したのは,これらの国々が如何に古いかです。
 重慶市巫山県で発見された中国史上最古の人類(巫山人)。三星堆の超古代文明。
 けれども,単純に古い土地と考えるのも甘い認識らしい。ここも中原と同じく,あるいはそれ以上に同じ人間集団が生き継いでいる訳ではないらしいからです。
 17世紀に,四川では人口の9割が死滅したとされる。白蓮党の新興や清王朝への抵抗の過程で,そういう虐殺が行われたのがほぼ確実視されてる。
──しかしそんな無茶苦茶な史実って,現実にあり得るものなんだろうか?
「現在の四川人の方言(西南官話)が北京普通話に近いのもこの時の張献忠による四川人殲滅殺戮によって古代四川人が壊滅したことが大きい」※ユニまこ/張献忠は嗜虐癖が異常に強く、残酷な殺戮を好んだ
「「湖広填四川」とは、明末清初に起こった四川大虐殺の結果、四川省の人口が激減、(一説には人口の9割が虐殺された)その為、人口の空白を補うため清初に行われた移民政策。「湖広」とは、四川周辺の湖南、湖北、広東、広西をさすが、福建等の地域からの移民もあった。従って、現在では純粋の四川人、成都人は皆無と言われている。」
天府漫遊記
「多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。「1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2]だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。」
※wiki/張献忠
※wikiの記す出典
1 ^ a b c d 浅見雅一『教会史料を通してみた張献忠の支配』(史学第五十九巻第二・三合併号所収。)
2
^ 『明會要』50巻
3
^ 嘉慶『四川道志』巻十七

唐辛子ヌーベルの発生環境

該時代の史料がまともに見つからないこと自体が,その事実っぽさを物語ってる…とも見れる。
 事実ならば,サピエンスがネアンデルタールを滅ぼしたのとほぼ同じことが,原四川人に対し行われたことになる。
 ならば,こういう問題設定そのものが不謹慎ではあるけれど──四川の辛味文化というのも,別のストーリーが組み立てうる。
 17世紀という時代が,西欧の大航海時代と重なるからです。事実上無人化した四川に,周囲から流れ込んだ新規入植者たちは,当時は舶来の新奇な味覚だった唐辛子を全く既存の食文化に根付かないところから,つまりゼロベースで作り上げた。だから他で起こったであろう既存食文化との衝突を経ず,全く新しい食文化を作ることが出来た。
 それが四川料理というヌーベル中華料理である。
──という推測には,全く根拠がないけれど,たった3百年前にそんなことが起こったのだとすればむしろ必然とも思える。例えば,食文化の根を亡くしつつある現代ニッポンのコンビニの棚を唐辛子系食品が埋めつつある景色と,それは重なるように思うのですが──どうでしょう?

苗族の一時的躍進期

角だから,もう一つ仮説を重ねよう。
 成都はともかく,貴陽の辛味文化が苗族発のものだということは相当可能性が高い。でも,ここまで人口比の低い少数民族のそれが,堂々たる食文化を持った多数民族のそれを侵食する,という事態をどうも非現実的に感じて来ました。
 漢族と苗族その他少数民族の人口比が,一時的に劇的に縮まる時代があったからではないか。
 白蓮党と清朝との確執は明らかに漢族と満族の民族戦争だったでしょう。苗族は部外者で,丁度追いやられていた山間部で身を潜めていれば大虐殺からは逃れ易かった,とすれば。また,続く清朝による入植が,同様に満族による被支配民族・漢族の「連行」,例えばアメリカに連れて来られたアフリカ系の人々のようなものだったとすれば。
 長く追い詰められてきた苗族の地位と規模が,相対的に劇的に高まった短い時代があったのではないか。
 とは言え──どうせその事実ははっきりとはしないだろう。
 ただ,「ひいっ辛れ~!」とか無邪気に騒ぐのは,ひょっとしたら物凄く恥知らずで平和ボケした見解なのかも,ということは肝に銘じておきながら,取り掛かりたいと思ってます。