m175m第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m清水&串木野withCOVID/鹿児島県

清水の城と大龍と

内部リンク(坊津行)→m161m第十六波mm/丸木浜
▲(再掲)スペクターの岩礁
内部リンク(笠沙行)→m171m第十七波mm/野間岳▲(再掲)大当集落の古い小道の向こうに野間岳

ovid19(コロナ)冷めやらぬ年末年始に鹿児島へ来てみたけれど,前回の薩摩半島行きのとても豪快な空振りの後,次にはどこを攻めてみたものか見当がつかずに市内でしばしウダウダしてました。
 ふらりと入った天文館丸善。ここの郷土関係書籍コーナーは割と充実してます。これもふと手にした資料でした。
武田要子「島津氏の南蛮貿易試論」『西南地域史研究1』文献出版,1977
 やはり。江戸期の薩摩の海では何事かがあったはずです。諦めきれずに,とりあえず鹿児島市での島津の一次本拠・清水城方面に初めて足を向けてみました。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路):清水城下

 仁王堂(→GM.:地点)の案内板。

島津氏は一三四三年(六六五年前)山城東福寺城を攻め落とし四十年間居城。大隅地方を治めた。清水中学校辺りに清水城を新築城六十年間居城。合わせて百年間根城に,住家も多数存在街は盛況を極めたと記録されています。(略) 平20.3鹿児島発祥の地 清水町町内会〔同案内板〕

 百年?そんなに長く?南北朝以後貴久代前まで丸々,島津氏の鹿児島とは清水城付近だったのか?
 帰路のバスのアナウンスがバス停名を告げる。「大龍小学校前」という,学校にしては横行な名称にギョッとする。
 何かしら……とんでもない場所に,ワシはとんでもなく迂闊に立ち入ってしまってたんじゃないでしょか?
(巻末参照)
 というザワザワ感を残しつつ翌日──

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路):串木野

雪の晦日の波涛を越えて

晦日と言うならば,小晦日もある。「こつごもり」と読み陰暦の12月29日,陽暦なら30日を指す。古くは大晦日も「おおつごもり」と読んだので,小の方にはそれが残ってる。
 それはともかく,大晦日のJR鹿児島中央駅から0929発。川内行までの鈍行。
 やはりこの鉄道路の沿線光景は異様です。シラス台地の谷間を縫う,陰影の濃い行程。かと思うと,より低い谷を見下ろす台地上を進んでいたりする。
 駅員さんが列車の発車時,こちらへ深々と一礼。乗降客が数人で一時間に一本だから出来る行為です。
 屋根の残り雪。昨夜降ったらしい。
▲1007神村学院前駅の歩道橋より

004,神村学院前下車。
 駅前の車道・国道3号線を北西へ。
 雪が舞ってきた。積もってはないから歩くには絶好か。
▲照島小学校入口

ちき串木野市立照島小学校←入口 平成16年度卒業記念」という看板。1017。やや早いけれど左折西行とする。
 同校門。「波涛を越えて 平成21年度卒業生一同」の看板。
 右折北行。
▲照島小学校校門付近

古・串木野潟の片鱗

道面よりやや高台に入る。
 1026,車道に出る。左折西行。
 1029,金子病院ほか病院が連なる界隈へ。この辺が高台の最高部。「ふんわり館」から緩く下りはじめる。
▲「ふんわり館」付近

〜ん。
 串木野へ神村学園前・照島小側から入ってみる気になったのは,現・串木野駅側の町割が明らかに整然として新しく,対して南側に乱れがあったからです。

(右下外)神村学園前〜(左中央下)照島〜(右上外)串木野 付近の集落地図
 町割の乱れの違いから一見して,現・串木野市街エリアが最近,おそらく干拓技術のない中世位までは,南西を湾口とするクリーク(潟)があったと予想させます。
 海民の安住する潟の口を護り,あるいは外海からの目印になったであろうのが,照島であったはずです。
▲醉之尾川の支流をまたぐ。

黒もんと鈴かけ馬とセンソウマ

辺に出ました。1033。浦だろうか──と思った風情でしたけど,醉之尾川の湾口でした。
 南から回り込むように入ってきてるようです。その湾入路の右手も気になるけれど目標は直進方向。
 1041,島平漁協直営店 「照島海の駅」。少し期待してた店でしたけど定休日表示。でも要するに,ここが照島神社参道入口でもあるらしい。
▲1043照島海の駅前

ぎさ公園。照島へはここから橋が繋がってる。
「薩摩焼開祖着船上陸記念碑100m」??──朝鮮から多数の陶工を「戦利品」として連れ帰った,ということらしい。串木野へは慶長の役の時で,文禄役時に神之川(現・東市来,古帳佐焼創業)へ連行して成功したので,より大規模に本格事業展開したものらしい。他の資料には,その数80名とも記されます。

内部リンク→《第十次{34}釜山・南海岸》オレンマネ・ソメリクッパブの日/亀浦市場/■小レポ:やきもの大戦争/薩摩焼(鹿児島県串木野市~市来市):朴平意 金海 芳仲
(再掲)「黒もん」黒薩摩焼

島の案内板にも朝鮮出兵時の記述。こちらは出港時の情景です。

春の大祭(戦勝馬・センソウマ) 四月九日祭典が行われます。島津義弘公の朝鮮出兵(1598)戦勝を祈って照島神社に鈴かけ馬を奉納したのがはじまりで(略)〔案内板〕

橋口とは少しズレて参道階段

▲照島案内図(なぎさ公園)

祭神は
大巳貴命 少彦名命 大山積命 松尾大明神 馬頭観音
 何とも異能の神仏が集まったものです。松尾と馬頭は仏教色を追加したと考えても,少彦名(蛭子)と大山積が名を連ねるのは珍しいと思う。大己貴はまとめ役のような位置付けでしょうか。
 次の記述からは,けれど実質的主神は少彦名と感じられます。

「日本書紀」(720)には蛭子神が薩摩の国「照島潟」で魚釣りをしていた,と記されています。このことから,当時すでに照島には蛭子(エビス)信仰があったと思われます。〔案内板〕

 ただ後述(巻末)のように,書紀に該当する記述は見当たりません。先代旧事本紀の夷子三郎記述と誤認したものでしょうか?
▲照島への赤橋

に染められた橋が島へ伸びてます。
 橋口とは少しズレて神社への階段が見えます。場所からして,明らかに船から登るのをメインに想定してます。現・串木野が潟であった時代,内湾にたゆたう家船がこの階段口に直接船着していたのでしょう。
 では渡ってまいりましょう。
▲照島神社への登り口が見えた

■レポ:君は清水城を見たか?

 いやワシは見てないけど。

清水城の山城主郭〔後掲古城盛衰記〕

 これがッ!これが清水城じゃああああ!
 ……どれ?
 いや,あなたが心の清い方ならば見えるはずである。中世島津氏が築城の粋を集めたこの山城が!

鹿児島清水城 ─守護大名島津家の本城─
 清水城は,一三八七年,島津家七代元久が築き,以後十四代勝久に至る約一六〇年間,薩摩・大隅・日向の守護の拠点として鹿児島本城といわれました。
 平城と山城で構成された清水城の城下には,武家屋敷や寺社・町屋がひろがり,かごしまの町(上町地区)の発祥となりました。
 山城l部分は,北側を吉野台地と堀切(空堀)で区切られ,東側は稲荷川に沿う断崖で,西側は鼓川の広い谷で守られています。台地を東西に分ける堀切は,東側の主曲輪群を防衛するとともに,通路としての役割をもつ壮大な空堀となっています。平城部分には,守護所としての屋形があり,正面十二間(約二十一m)の巨大な御主殿や御前様屋敷・厩(馬屋)などが建っていまLた。
 一五五〇年,一五代貴久が内城(現大龍小学校)を築いて拠城としたため,清水城は空城となりました。屋形跡には大乗院が建てられましたが,一八六九年に廃仏毀釈で廃寺となりました。現在は清水中学校となっています。
 二〇一六年五月
 鹿児島清水城整備推進協議会〔清水城跡案内板:GM.〕

 では1550年の内城新設,一五代貴久代に廃城になったのかというと,次のような論争の記録から考えて,違うようです。

 慶長六年(1601年)、徳川家康から所領と家督を安堵された島津忠恒は鹿児島城を築き始めるが、忠恒の父・義弘は、関ヶ原の合戦後で政情不安な時期に鹿児島城は要害の地ではなく本拠として不適格であること、家臣も新城建築の負担に耐えないとして、既存の城である清水城か一宇治城を使うように苦言を呈した。
 しかし、忠恒は鹿児島城建築に固執、慶長九年(1604年)に鹿児島城が完成したため、清水城は実質的に廃城となった。〔後掲古城盛衰記〕

 つまり一国一城令を受けて,忠恒は鹿児島城を選んだ。それは父で「鬼島津」な義弘の反対を押し切ってのことだった──ということは,義弘の,つまり四兄弟の時代まで清水城は少なくとも「万が一の時の最終要塞」として機能を存続させています。

島津が室町期を生き抜いた城

 島津氏が現・鹿児島市域に入ったのは南北朝期と伝わります。北朝方・五代島津貞久(さだひさ)は当時の本拠・加世田方面から,同地の南朝方(矢上・長谷場・谷山・肝付諸氏)領に侵攻し,1343(暦応4・興国2)年にまず東福寺城を獲って拠点とします。ここを南の後詰めの城として清水城の広域城郭を構築〔後掲ムカシノコト、ホリコムヨ〕。北にはもう一つの後詰城・橋之口城を築き,何れかが獲られても回復の芽を残す構造です。実際,伊集院頼久(1413-1417(応永20-24)年)の反乱で清水城が奪取された際,八代島津久豊は東福寺城を拠点に奪回戦を展開しています。
 つまり山谷一つ一つを巡って死闘を繰り広げた薩摩の中世の,極めて実戦的な城郭です。

清水城案内図に描かれた曲輪群と大空堀〔GM./清水城〕

 土地勘がないのでそろそろどこがどれだか分からなくなってきたので,以下地図に落としてみます。
清水城と東福寺・橋之口両後詰城及び大乗院・内城の両居館の位置関係

君は清水城に登りたくなる

 以上の事実でお腹一杯なので,ワシは清水城に登らないと思うけれど──実際登った人曰く,登り口は清水中学校の南東角。

清水城への登山ルート。緑は橋之口城〔後掲古城盛衰記〕

 北に登ってゆくと三台程の駐車場があって,その先に山城石垣群が姿を見せる。そこから山神権現の碑を経て山頂,前掲の心の清い人の前にだけ聳え立つ清水城本丸があるらしい〔後掲古城盛衰記〕。
 いや,登らないと思うけどね。
清水城の大手の石垣〔後掲古城盛衰記〕

■レポ:照島に魚釣りする蛭子の記

 案内板にありました,
蛭子が照島へ釣りをしに来てた,という日本書紀記述はどうしても見つかりません。
 蛭子の釣りの場所として伝える地には,兵庫県の西宮神社(西宮大明神)はあります。ただしこの場合は,ほぼ夷三郎としてで,出典が源平盛衰記や神皇正統録なので鎌倉・室町以降の生成です。

蛭子は三年迄足立たぬ尊とておわしければ、天石勝樟船に乗せ奉り、大海が原に推し出して流され給ひしが、摂津の国に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顕れ給ふて、西の宮におはします。〔源平盛衰記 剣巻←後掲中村〕

蛭児トハ西宮ノ大明神夷三郎殿是也此御神ハ海ヲ領シ給フ〔神皇正統録 上←後掲中村〕

※原注3 夷三郎殿には、(1)〔流され-帰って来る〕という彦火々出見型、(2)〔やって来て-去っていく〕という少彦名神型といった二種類の漂着神としての性格がある。

 また事代主神としてなら美穂関(島根県)がある。──経津主(ふつぬし)と武甕槌(たけみかづち)の二神におそらく侵攻して,出雲・五十田狭之小汀(いたさのをばま)に突き立てた十握剣にあぐらをかいて出雲の支配権を強談判,という大己貴神(大国主)最大のピンチの場面で,何を思ってか「我が子に尋ねた後で返事をしましょう」。その際の事代主神の状況についての記述です。

其子事代主神、遊行、在於出雲國三穗三穗、此云美保之碕、以釣魚爲樂、或曰、遊鳥爲樂。〔後掲日本書紀、全文検索〕
【現代語訳】この時、その子の事代主(ことしろぬし)神は、出雲國の三穂之碕(みほのさき)(引用者注・原文注釈=三穗は美保之碕:現・美保関)にいて魚釣りを楽しんでいた。あるいは、鳥の狩りをしていたとも言う。〔後掲日本書紀現代語訳〕

 ただし,次のような記述があります。これは,日本書紀編纂に先立って存在したともされる先代旧事本紀の記述です。

平安時代前期(806~906)頃に編纂された「先代旧事本紀」によればイザナギ、イザナミの第三御子、夷(蛭子)の三郎の神は薩摩の国「島平」の浦に流れ着き、近くの美しい小島にご上陸なされ、この小島に「照島」とお名付けになり、お躰がご回復になるまでの間、終日この小島で釣りを楽しまれ、釣りの場所を那岐池(ナギイケ、現、男池)那美池(ナミイケ、女池)と称され、ご両親をしのばれたと記されています。〔後掲古代文化研究所及び信のつれづれ日記〕 

 残念ながらこのパートの原文又は現代語訳を入手できませんでした。

島成園《無題》大正7(1918)年 大阪市立美術館

照島←下照姫?

 だから諸説のある「照」島の由緒がよく分かりません。
 ここで案内板を離れて考えてみると──なぜか諸説の中には全く書かれないのですけど──下「照」姫を浮かべるのが自然だと思います。大国主命の娘,味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)の妹,天稚彦(あめのわかひこ)の妻。漢字は下光比売命,下照比売とも。別名も多く,高比売命(たかひめのみこと),高姫,稚国玉(わかくにたま)とも〔デジタル大辞泉 「下照姫」←コトバンク/下照姫〕。
 記紀での主な登場場面は,葦原中国を乗っ取ろうとして「天上からの矢」に夫・天稚彦が射殺された後,喪屋にて八日八夜弔う歌舞です。

描かれた下照姫(博多・下照姫神社関係資料)
「照」は「地面に照り映え光り輝くほどの美しい」〔後掲博多の魅力〕の意と解され,天「照」大神にも通ずるとする説がある。下の照vs天(上)の照,という対称は頷けます。
 ところで,記紀の元本ともされる「ホツマツタヱ」※は,下照姫の元の名として●●●●●●●●●●ヒルコ●●●」(昼子)という名称を記します。

※ホツマツタヱ:成立時期不詳※※。五七調の長歌体で記され,全40アヤ(章),10700行余で構成。肯定説によると記紀の「原書」,いわゆる「古史古伝」の一つ。漢訳では「秀真伝」「秀真政伝紀」とも。日本語の元とされる「ヲシテ」文字で記され,同文字は古文書「ミカサフミ」(三笠紀),「フトマニ」(太占)にも使用される。
※※版本は安永8年(1779年)版と安永9年版の二種類があり,江戸時代当時の木版活版印刷出版物「春日山紀」に収録。つまり江戸中期までしか遡れない点が,否定説の最大の主張点。
※※※池田満「定本ホツマツタヱ―日本書紀・古事記との対比」展望社,2002
同「ホツマツタヱを読み解く」展望社,2001 など〔wiki/ホツマツタヱ〕

(下照姫の名は)『ホツマツタヱ』では、タカヒトとイサコの間に生まれた長女ヒルコ(昼子姫)が、結婚した後に天照大神の妹神として名乗ったとされている。〔後掲Japanese Wiki Corpus〕

 別名としての「高」姫は,「高照」から来ているとする説があります。「(日が)高く照る」,つまり「ヒルコ(昼子)」の漢字の字義からの言い換えとする解釈です〔後掲ほつまつたゑ解読ガイド〕。
 つまり,「照」島が照姫に由来するなら,照姫の原名たる「昼子」≒「蛭子」=事代主神=エビスと解するのに無理はないと思えるのです。──記紀は蛭子を「雖已三歲 脚猶不立」(三歳になっても脚が立たなかった)〔後掲日本書紀全文検索及び日本書紀現代語訳〕と記し,水蛭のように手足が異形と解釈もされ,結果性別は記されません。事代主神は男神とするのは固定的ですけど,よく読むと大国主の跡取りだから,という根拠しかない。夷子三郎やエビス様は室町以降同一視された,本来は別の神格です。
 結論として「照」=ヒルコは,国定史書たる記紀の著者が,存在を書かない訳にはいかないけれど如何にしても異形と表現したかった女神だったのではないでしょうか?
 ただ,海域アジア編としては……蛭子の「流される」,事代主神の「釣り」などの色彩はエビス神の海神イメージに重なるけれど,下照姫・高姫には海や水の要素が乏しい。従って,この辺りの総合的な主張は難しいようでした。

 また,蛭子や事代主神を薩摩西岸と結びつける記述を,如何にしても抹消したかった,と推測することも可能です。それを記紀は,海幸山幸伝での火闌降命(ほのすそりのみこと:隼人の祖)に置き換えているようです。──ちなみに火闌降命も,瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の第一子,なのに海幸山幸対決で破れて「芸能の民」に貶められる不遇の神です。物語内での構造的位置が,蛭子や事代主神に共通します。
 なお,「照島」という地名はありがちな印象を与えますけど,角川日本地名大辞典での検索では,串木野の他は福島県(いわき市泉町下川字大畑,500m沖)にしか例がありません。記紀ほか古伝でも,知る限り下照と天照以外に思いつかない。
 その地名が串木野に残るのは,大変重要な意味を持つように思われるのです。

照島海岸から残照の照島

■レポ:琉球侵攻と名付けられた大島入

 鹿児島県立図書館で読んだ喜界町誌が描く薩摩の琉球侵攻は,面白かった。
 侵攻の命令者・江戸幕府は「琉球」に攻め込むよう企画したつもりなのに,実行者・島津薩摩藩は「奄美大島」を攻めた,というものです。

貿易将軍の何処を島津はくすぐったか?

一六〇〇(慶長五)年,関ヶ原の合戦によって島津義弘は西軍に属し敗北する。関ヶ原合戦後,徳川家の覇権が確立した。島津氏は,粘り強い交渉の末,一六〇二(慶長七)年四月,所領を安堵され,同年十二月忠恒が家康に御礼言上の上洛をはたし,徳川の臣としての近世島津氏が誕生,翌一六〇三(慶長八)年,江戸幕府の成立とともに薩摩藩が誕生する。
「貿易将軍」と称されるほど貿易に熱心であった徳川家康は,朝鮮侵略後断絶していた日明の国交回復を明とのパイプを維持していた島津氏に託す。〔後掲喜界町誌(以下「町誌」という。)〕

 小勢とは言え西軍に参加,小勢にして家康本陣を脅かした島津を,実質九州全域から薩摩・大隅への縮退と言え所領安堵された「交渉」は,日明貿易再開への家康の期待を見透かした取引だったとするのが通説です〔後掲尚古集成館〕。琉球侵攻がこの交渉で約されたか否かは微妙ですけど,少なくとも射程には入っていたでしょう。

(続)この間島津忠恒は,ルソン・シャム・カンボジアなどとの朱印船貿易を活発に行っている。日明国交回復が進捗しない状況を見た家屋は,一六〇六(慶長十一)年島津家久(忠恒改名)に対して琉球征討の許可を与える。一方島津義久も尚寧の来聘を促している。また一六〇八(慶長十三)年八月,志布志大慈寺の僧龍雲を琉球に遣わし重ねて来聘を促した。これは幕命によるものである。また坊津の豪商島原宗安は一六〇六(慶長十一)年から一六〇八年まで三度も琉球へ島津氏の使いとして渡っている。しかしいずれの調停も不調に終わり,一六〇九(慶長十四)年三月の琉球侵攻となった。〔後掲町誌〕

 ただし,時系列をより幅広に整理すると次のとおり。1601年の明船強奪が家康への威嚇を目的とする島津の策謀とする説は,以前からあります。上辺通りの「事前通告」と信じるには,当時の江戸-薩摩の緊張関係からは少し無理があります。

1601(万暦29・慶長6・尚寧13)年
 薩摩に来航した福州船が伊丹屋助四郎ら海賊に略奪される.
 幕府,明との通交回復の企図挫折.
 渡航朱印状の交付制度創設.
1604(万暦32・慶長9・尚寧16)年
 島津義久,甑島漂着の琉球船員に書を託し,尚寧王の来聘を促す.
 使者牛助春,薩摩に到着.
 義久,書を尚寧に送り問責する.
1605(万暦33・慶長10・尚寧17)年
 島津氏の使者,将軍家康に琉球出兵の許可を請う.
1606(万暦34・慶長11・尚寧18)年
 島津家久,家康に琉球征討を許される.
 家久(同時点まで忠恒),家康から偏諱を受け家久を名乗る.
 島津義久,書状を送って尚寧の来聘を促す.
 家久,琉球を介して日明貿易を図るが,琉球応ぜず.
1609(万暦37・慶長14・尚寧22)年
 3,000の軍勢を率い琉球出兵,占領し付庸国とする.
〔後掲沖縄県教育委員会,wiki/島津忠恒〕

大島入なくば「後年迄之つかれもなり候ハん」

(続)この間における島津氏権力内部の構造は,藩主家久のグループと,前太守義久のグループとの二つで基本的には構成されていた。家久は国分に隠居しながら実権を振っていた義久に対し,妥協しながら藩政を進めている。例えば,一六〇六(慶長十一)年の「大島入り」(大島侵攻)談合の際,家久はそれに反対する義久の意向に従っている。〔後掲町誌〕

島津家9-18代忠恒(家久)家系図〔後掲戦国ヒストリー〕

 ここでの家久とは,島津四兄弟の家久ではなく,義弘の子・忠恒の家康からの諱での改名です。朝鮮出兵では父・義弘に従い驚異的な戦功を挙げている。単純にはこの人が,先々代の伯父・義久との権力闘争の中で琉球出兵を強行したわけです。琉球出兵談合と同時に家久名を名乗っている(前掲年表参照)ことからも,義久「院政」を家康の後背を得て脱したとも言え,誰が何を策謀したのかは本当には当人間でしか分からないはずです。
 ただ史料からはっきりしているのは,家久が企図したのは「大島侵攻」であったことです。

藩は当初,大島侵攻を計画していた。一六〇六(慶長十一)年四月二日の文書に「仍琉球大島渡海之御談合,於鹿児島御座候ニ付」(「旧記雑録後編」四『鹿児島県史料』史料番号一八四)と談合がもたれたが,「一先日於鹿児島,大島渡之御談合候キ,就夫後日御為ニ罷成間敷儀共御座候」(前同史料番号一九〇)と,前太守島津義久の武力進入に否定的な意向もあり,準備がすすめられなかった。
 そこで,島津家久は,六月六日,家老の島津忠長と後の琉球侵攻の大将となった樺山久高に,「然者,大島入之儀来秋必々可有之事簡要候,③若々ゆたん候てハ不可然候,如渕底当年ハ石漕ふね作,同江戸へ運送,又縁中之儀付而過分之入め被害①上下之つかれにて候間,当年大島之事相調候ハすハ,②後年迄之つかれもなり候ハんま丶,国家之ためを被思候は丶,折角可被入念事此時候」(前同史料番号二二七)と命じている。〔後掲町誌 ※丸付番号及び下線は引用者〕

 後の文書は読みにくいけれど①藩内上下とも疲弊している。そのため②もし大島侵攻がないなら後年までの疲労となるから,③大島侵攻準備に念を入れるよう命じているのです。
 ①の「つかれ」は,幕府への石積船納入や「家久」改名儀礼などによる財政負担のことですから,「大島入」の目的は財政基盤の強化である,と明示しているのです。

琉球入と看板を変えた大島入

 肝心の次の町誌記述は出典が明示されていません。

家康の許可以後,史料上では「大島入」から「琉球入」と変わったのは,大島の獲得を目的とした薩摩藩であったが,幕府は前述した琉球の来聘実現が目的であったため,その意向が反映されたという。〔後掲町誌〕

 家康が日明貿易を復活させるために,既に対明進貢の実績を持つ琉球侵攻を求めた,という説明は,よく考えると意味不明です。朝貢国に侵攻するのは,通常は明朝を敵に回す可能性が危惧される事態でしょう。かといって侵攻後の琉球の二重外交のような綱渡りを,予測又は予定していたとも考えにくい。
 家康は,東シナ海情勢をよく知る島津サイド又は家久個人の何らかの意図的な誤情報に,騙されたか,騙されたふりをしたか──いずれにせよかなり危険な判断をしています。
 対して家久側は,プラン名,または琉球王国そのものはどうでもよく,とにかく大島,または北山海域を軍事制圧したかった。──この点は,既に実際の「琉球」侵攻の日程が大島制圧までに大半の日数を割いていることを見てきました。

内部リンク→FASE79-3@今帰仁から\ぢぢーうゎーぐゎー(北山編)■レポ:薩摩の侵攻した「琉球」とはどこか?
島津軍の侵攻経路(本島到達まで)〔後掲上里〕

 侵攻後に島津が役所を置いているのは琉球本島です。奄美大島については物産を抑えようとしただけ,とも考えられます。
 けれども,さらにその後,江戸期を通じての島津の裏交易支配の実態と,その助走が琉球侵攻だったとする想定に立つと──本稿としては,後期倭寇の裔を漂わせていた北山海域,具体的にはその海民群と彼らの御する海路を抑えることが,島津の「琉球」侵攻の真の目的だったという仮説に拘りたい。この時期の家久家臣団で交わされた用語「大島入」は,それと通底するように思えるのです。