005-4若菜川\茂木街道完走編\長崎県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ(経路)

夕刻の迫るのに茂木へ

屋橋から浦上駅前へ。1417。
 自分的にブレッド・ア・エスプレッソと並び行かずに済まなくなってるパン屋・マルコポーロに寄る。
 さらに長崎駅前へ。

木街道完全踏破。目論んだのはこれでした。
 1500頃から長崎駅前南でバス待ち。茂木行きが来ない。1530,つまり30分待って乗車。時々こうなるんだけど…そんなに間隔が開くのは考えにくい。う~む──何を見逃してるんだろう?
 このバスはNagasakiBusFree_Wi-Fiというのが繋がって…ない?どうも不安定です。
 1544,バス停上愛宕通過。この高みを歩いて越える…と思うと気が遠くなってくる。
 1556,茂木到着。さあ遅くなったぞ,スタートしよう!

▲茂木の橋を初めて渡る

えてみたら…何と!茂木のバス停から,北へ進むのは初めてでした!
 ここへはほぼ南のパン屋・オロンを目指して来てました。パンを買う,あるいは食ったらほぼまっすぐ帰ってた。
 十八銀行茂木支店を過ぎると,弁天橋という橋。その手前にタマヤというミニスーパー。水を買っとく。
 橋向こうにはS MARTという,これはれっきとしたスーパーが夕方の売り出し中。

若菜川河口:好い集落じゃないか!

▲川東の茂木集落

い集落じゃないか!
 茂木の集落というのはオロンの界隈,現在のコンクリート港の辺りだと思いこんでた。なぜって,バス停辺りは明らかに風情がないから。よもや,逆側に集落があるとは──というか,これは川の配置からして,まず間違いなくかつての湾を埋め立てて,川を北に寄せたんでしょう。
 だから南北に集落が向き合ってる。そしてその両者のうち──

▲レンガ壁の旧家

側,こっちの方が間違いなく元町でした!
 片町集会所とバス停片町。──この地名はおそらく南岸に対する「片方」という語義でしょう。
 古い土蔵も見えてますし,道筋のうねりに人工を感じない。
 古くは茂木と言えばこの片町辺りを指したものでしょう。→巻末小レポ:リチャード・ワーグマンの寺下水彩画

裳着神社から切通へ信じられない回り込み

▲裳着神社

着神社に着く。1612。
 今回の茂木歩きの発想は,この裳着神社の存在を知ったことに端を発してます。「裳着」はもちろん茂木の古名,それも神功皇后由来。でも神社自体はそう印象的ではなかった。
 書かれてた説明書き。
「当初は,弁天山(Sマートの上方)に祀られていました。そして,約八五○年前に現在地に遷座し」──なるほど,キリシタンの破壊後の新宮なのか。
「境内の御垣内の左中央に,特別信奉者で茂木ホテル(後のビーチホテル)の創業者『稲佐おえい』こと,『道永えい』の名が記されています。」──外国人別荘地だった往時の名残です。

▲最初の峠。既に息切れ

着神社からは東へ小山を迂回する。1621。
 今の国道ルートからは信じられない。今日,ここへ来るバスから見てもまだイメージできなかった。
 旧県道が今の国道下の川沿いに出来る前,江戸期までの茂木街道は,北北東への川を辿る。
 1625,写真の小さい峠を越える。右手道端に「道路開通碑」昭和31年前田茂木町長代に施工とある。
 峠の向こうが見渡せる。茂木港に出る前,若菜川が形成する盆地状の土地です。
※ 巻末:茂木街道(茂木側)マップ〔市HP散歩道〕

若菜川沿線の明るい農村

▲若菜川沿いの農村

の辺りの地名は柳山だと思われる。1632,「柳山部落一同」と「奉」のれんのあるお堂が現れました。
 境界の祠だろうか?
 茂木は,自身の物産のあまりなかった土地と聞く。往時にはただの道だったんだろうか?→〔市HP散歩道〕写真2/21pに昭30とある写真有
 下に集落が見えてきてる。長崎とは思えない平地の農村です。

▲1644祠

がちりほらある。手入れも行き届いてる。
 1643,56番札所とあるお堂。
 西陽が凄まじい。堂の隣の水道に,今回は要るかな?と持参した手拭いを浸して首に巻く。蛇口から熱水がほとばしったのが記憶に残る。
 道は,川の東麓をうねうねと延びていく。川縁を辿らないのは増水を恐れてだろうか。

▲北の行く手

から地図を辿ると,どうやらこの辺りで若菜川を西へ渡るのが,本来の茂木街道だったらしい。
 川を渡る橋は,安政5(1858)年に江波市左衛門という漁商が私財で造ったものだったそうです。柳川橋という。今は建て変わって,ない。
長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋

大山祇神社。そしていよいよ峠へ!

▲1653お堂を覗く

の丘,そこがやはり大山祇神社でした。
 1650,三浦園芸の先,「新鮮朝採り野菜100円」と書かれた小屋の対面。
 ここは霊気があった。鬱蒼とした樹々の中の階段を登った高みに社。境内右手に昭51植林記念碑。
 お宮の戸が開いてた。覗きこむと,ありふれた折りたたみテーブル。たった今まで誰かがいたように蚊取り線香がくゆってる。

▲大山祇神社階段

社を出て西へ。間違えてたわけだけど,ここで若菜川を渡る。
 紫の小花が咲き乱れる岩壁が,妙に記憶に残ってます。

▲一面に紫の花咲き誇る壁

の西から北へ回り込むように行く。坂になってきた。
 ここから国道側へ,バスから想像できなかった峠を越えるはずです。
 暑い。登る。

▲見下ろす。かなり上がってきた。照り返し激しい。

菜川の沿線が見下ろせるようになってきた。
 時折車の通るだけの車道。あまり古びたものや気配はない。──柳山橋側からの本来の道はどうだったのでしょう?

▲金網。赤花

■小文献紹介(リンク):「茂木の散歩道」その他茂木街道関連

 茂木街道の総合情報はあまりない。あるいは便利でない。どうも,茂木は茂木,長崎(狭義)は長崎という感覚が住民側にあるらしい。
 けれど各論では深いのがかなりあるので以下,ほとんど自分の次回用にまとめる。
 長崎側の情報は「山口広助」によるもので,順序立ってて分かりやすく,前回までも度々参照しました。高名な「ヒロスケ」さんと同一人なのかどうかは不明。
 茂木側がまた凄い。市HPにさりげなく掲げてあるリンクの先のPDFで,探すのに苦労したし,著者名もないんだけど,現在の風景との照合が小まめに出来るように写真がまとめられてます。非常に地道な資料。今度歩く時には印刷して持って行きたいと思います。膨大だしこれ以上にはまとめは不要というレベルなので,本稿中では「市HP散歩道」として度々リンクを掲げていきます。
【茂木側】
※長崎市HP/
茂木をたずねて
/茂木のあゆみ
/茂木の散歩道
/古写真をたずねて
P43~75
P76~107
懐かしい写真
【長崎側】
※ (仮称)山口広助のプログ/長崎案内



■小レポ:ワーグマンの寺下水彩画

 上記は幕末の茂木・寺下の水彩画。記録者はチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman,1832年- 1891年),イギリス人の画家・漫画家。当時,記者として来日した外国人。
〔市HP散歩道〕は奥手が玉台寺の下,左手が一口香(当初の「えのき屋」)だとする。→(9p)ワーグマン画
 まさに今のオロンの界隈です。
(1) 人口規模
 現在,長崎市の中央地域人口は17万(176,036人:下記市HP参照),対して茂木地域は1万(10,414人:同)。どうもこの現在の状況を前提にしては,当時の茂木は想像できないらしい。
 長崎県史による長崎中央地域(資料上の内町・外町)の人口を,世紀の区切り付近だけ挙げると次のとおり。
元和2年1616年24,693
元禄7年1694年53,522(max)
元禄16年1703年50,148
寛政元年1789年31,893
明治6年 1873年29,656
 対して,〔市HP散歩道〕(あゆみ)による茂木地域の人口は次の状況。
正徳4(1714)年3512人
明和7(1770)年5859人
慶応2(1866)年7695人
大正3(1914)年11718人
 つまり,長崎中央が江戸中期以降衰退して初期からほぼ半減した頃には,茂木は約1/4程度まで比重を高めていたことになる。

※ 長崎市HP/住民基本台帳に基づく町別5歳別人口(各年末)/平成30年
※ wiki/近代以前の日本の都市人口統計(長崎部分の典拠は長崎県史)


(2) 茂木地域内の人口分布
【同様の点については,後日再整理しました。→內部リンク:010-8潮見崎観音/■レポ:茂木湾に向き合う二つの聖地──潮見崎観音と茂木ホテル
 上の写真は,明治か大正頃,裳着神社の上手,円成寺から東方向を撮ったもの。(〔市HP散歩道〕収録,長崎大学付属図書館蔵,年代不詳)
 左手の片町付近から集落が右手・寺下辺りに続いている。どちらかと言えば寺下側の方が家屋の密度は濃い。
 村役場が,旧庄屋跡(現郵便局裏)から片町に移されたのは明治22(1889)年。
 裳着神社は古代(神功皇后渡海)に由緒を持つけれど,この時代の裳着神社は元々,現厳島神社辺りにあったらしい。つまり茂木の中心は,中世まで旧庄屋辺りの湾口にあり,それが江戸期に川南の寺下に移った後,明治末期に川北の片町に移行。しかし現代の埋め立て後,再び寺下に戻って今に到る,という複雑な経緯を辿ってるらしい。

(3) 茂木集落の三点
「お宮の銀杏は雄銀杏、お寺の銀杏は雌銀杏」という成語が住民に伝わるといいます(下記サイト。原典:平野露治氏「茂木史談」)。両者を合わせ「夫婦銀杏」と呼ぶ。
「お宮」裳着神社と「お寺」玉台寺の建立はいずれも寛永3年(1626)。計画的に再興されてる。年代からして禁教令(1612・3)後の宗教対策の一環です。
 それは分かるけれど,この両者にそれより百年早い樹齢5百年の大木が並び立つ,というのは何を意味するか。
 厳島神社の岬,寺下,片町の3点のうち,厳島側はいわば聖域,後者2つは俗域。その関係は16世紀頃から既にあり,夫婦銀杏はその里宮のような位置を既に持っていた。
 厳島側の旧庄屋は「壕に囲まれまるで城郭のようであった」という〔市HP散歩道/古写真1:25庄屋〕。確かにここは,湾口入口の屈曲部高台,軍事的に明らかな要地です。そもそも,だからこそ神功皇后由縁の聖地ともなったわけでしょう。

※ みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”/裳着神社と玉台寺の「夫婦銀杏」
「平野露治氏著「茂木史談」昭和63年刊、第4章名所・旧蹟等42~43頁による説明は次のとおり。
   夫婦銀杏
 茂木の町に、四季折々の風情をそえる2本の大きな銀杏の木がある。町の人はこれを、「お宮の銀杏は雄銀杏、お寺の銀杏は雌銀杏」といっている。
 お宮というのは、茂木の氏神様裳着神社、お寺というのは松尾山玉台寺のこと。いずれも、寛永3年(1626)の建立で、今から353年前のことになる。」
「2本の銀杏の樹齢は、もちろん推定だが、どちらも500年位だろうといわれる。」
※ 茂木のあゆみ
「  浦見番所
 寛永の頃、田上に村目附をおき、寛文 5(1665)年から茂木海岸に浦見番所が置かれた。番所役は治安行政を掌っていたと思われるが、後問屋を兼ね、商業を営むなどのこともしていたようである。明治 12(1879)年 4 月 25 日の浦役人名簿から、この頃までは置かれていたことがわ
かっている。」


(4) 茂木の地政学的位置
 となると,茂木の三点の性格は,聖-俗-俗の関係から江戸期に軍-民-民のそれに急速に置き換えられたと言える。
 茂木は長崎とともに「日本でなくなった」時期がある。天正8年(1580),大村領主・大村純忠によって長崎6ヶ町とともに茂木はイエズス会に寄進された。天正15年(1587)に豊臣秀吉が素早くバテレン追放令を出し,寄進領を「没収」したから,7年程度で日本領に復帰した。
「寄進」は口頭とかじゃなく文書による契約で行われてます。原文は日本文らしいけれど発見されておらず,上記のスペイン語訳のみ現存。
 これに対し,秀吉側の「没収」にはまるで根拠がない。秀吉側自身もその無法性は認識していたはずです。その10年後には二十六聖人処刑と,当時の日本はキリスト教世界全体に喧嘩を売ったような状況。松岡洋右も真っ青だ。
 なぜそこまでして,とか,それでなぜ戦争にならなかった,とかも俄然興味深いけれど,今は茂木の話。いつ奪回戦を仕掛けられてもおかしくない情勢下で,茂木はおそらく最有力の敵上陸地点だったでしょう。
 厳島神社の高台は,記録に残る江戸期以前からその防衛の最前線だったはず。軍-民-民の新三角形は,そうした当時の急激な変転中での再構築されたものでしょう。
※ gooブログ/大村純忠の長崎寄進状
「1580(天正8)年、肥前のキリシタン大名大村純忠ドン・バルトロメオが長崎と茂木をイエズス会に譲渡することを息子の喜前ドン・サンチョと連署でしたためた寄進状」
※ 歴史魂/「長崎と茂木をイエズス会に譲与」大村純忠の寄進状

■回想:茂木街道茂木側登り

 という訳で,茂木街道茂木側は密度の割に過酷な道でした。よく倒れなかったものですね。ははは。
 ただ,柳山橋側に未練が残るし,〔市HP散歩道〕を見ると,意外に旧県道,つまり国道下の川沿いの道は風情を残してるらしい。これから歩きたい方がおられたら検討されてみてください。
 もう一つ忠告するなら,そっちの道なら…特に夏は,虫除けがあった方が良さそうです。
▲茂木街道〔市HP散歩道〕

「005-4若菜川\茂木街道完走編\長崎県」への1件のフィードバック

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