m19Qm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm幸崎能地(下)&尾道吉和

~~~~~(m–)m能地編(出)~~~~~(m–)m

漁村らしからぬ能地は海人の里

※ 三原市幸崎能地/GM.:地点

他サイト掲載の能地写真。ワシの腕が未熟ゆえではなく,やはりこういう集落なのです。三原市幸崎町能地の町並み

崎神社の石段を降りる。1216。諦め悪くしばしうろつくも,やはりこの神社一帯には他に特記すべきものがない。
 1223,右手西側へ。ad幸崎四丁目4。
▲(再掲)幸崎能地住所表示図

西の太い道は一本しかない。湾曲してるから元の海岸線でしょう。
 けれどこれがどうも目を引かない。面喰らうほど,無機質な住居や店舗が並びます。
▲能地本通り

こで1228,北側裏に見つけた細道へ入る。さらに西へ。
 ただ,この路地道もどうにも変哲がない。あまり起伏やブレはない。
▲能地の路地

久保田さん地図でも間違ってない

──章の久保田さんの手書き地図(大正末)を次に再掲します。
 本通りは,正確には海岸線ではなく「東波止」(場)と「西波止」の湾奥を結ぶラインと考えられます。この時進んだ路地は,大東区域の北側奥。だから概ね間違ってはいないのてすけど──

(再掲)(上)能地集落図 (下)うち右上部拡大 ※青字は引用者〔久保田登・編『豊田郡佐江崎村誌』復刻版,大正15年(1926) 扉絵←後掲太鼓台文化・研究ノート〕

の地では,船に金を掛け,仕事にすべてを懸けるという別の心意気があった。そのためか,家屋には凝った小細工はせず,荒々しく壁に船板を打ち付けた家を数多く見る。〔再掲 三原市役所「三原市史」

▲能地の路地2

の「漁村らしからぬ集落」はむしろ,この土地らしさを語っていたのかもしれません。おそらく,集落としては寂れた後,一気に現代風家屋に建て変わったのでしょう。
 1229,線路脇に出る。共同井戸あり。
▲線路脇の共同井戸

が途切れた。北側,線路の向こうにも少し家並みはあるけれど,鉄道以前の道が続いている風はありません(巻末参照)。
 南へ,同じく路地を抜ける。

老婆社の丸々狛犬 磨耗仏

▲能地の路地3

第老一目的地,老婆神社に出ました。1230。
 丁度,真裏を列車が過ぎる。
 ad幸崎能地四丁目11。
 子ども向けアニメのような,丸々した狛犬がお出迎え。
▲丸々狛犬

手西側,狛犬の影に石九神社と彫られた石柱。よく見ると磨耗した祠一つ。
 この地点(GM.:地点→巻末地図)のさらに左手西側には緩い登り坂。能地には珍しく個性的な道が老婆神社前で交わる,その地点の祠です。
▲老婆神社脇の磨耗した仏の祠

ったけれど左の坂を登ってみる。
 1235。神社付近を振り返って一枚。神社手前の道幅は微妙に太く,かつてはパティオとして利用されていたように見えます。
▲振り返った老婆神社付近

南山をショートカットして線路

の坂を登らず南西に道を採るなら,南山資料館に出たはずです。
──後で調べると,文化財らしい。元は診療所と接客の建物ですけど,詳しい由緒は分からない。能地の富者が建てた最後の徒花だったのでしょうか。

南山資料館。上部にアーチ窓を設ける正面中央の玄関が意匠上のアクセントとなっている洋風建物〔後掲文化遺産オンライン〕

 清水南山(本名・清水亀蔵,1875生-1948没)は,当地能地村出身,広島県出身者として初めて特待生として東京美術学校(現・東京藝術大学)入学,彫金(金属に鏨などで彫刻する)家として名を成す。
 日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄で,平山に大学進学時の日本画進路を勧めた(強いた)人らしい〔後掲広島県立美術館,三原市,平山郁夫シルクロードコレクション〕。
 この人の資料館です。
清水南山「波に龍文水瓶」一部

て当時のワシは,またまた線路沿いに出てました。
 この集落は……何でこんなに道が途切れちゃうんだろ?

路地奥の観音に掌を合わせ

▲線路脇の道

側,線路の向こうで石垣が草にまみれてる。線路を違法横断しちゃえば野道が続いてるようにも見えるけど……。
 弱気に負けて引き返す。──でも今地図をよく見ると,当時の勘は大外れでもなかったみたい(巻末→地図)。
▲線路脇の道……では最早ないなコレ

の後,どこをどう通ったのか,昔のことなので忘れましたけど──1242,本通りに戻る。
 さらに西行。
 ad幸崎能地四丁目11,幸崎郵便局。
 ad四丁目14。左手南側路地奥,2仏。右は観音らしい。薄く「西国一番」と彫られているのは,能地にも巡りのコースがあるのでしょうか?
▲路地奥の観音

磐神社に着いてしまいました。1249。
 鳥居は道左手,本殿は道右手と分断されてる。つまり道の出来る前,海から参道が伸びてた形です。
 おそらくこれは,老婆神社の旧態とも相似しているのでしょう。

獅子太鼓 唐突に雨粒落ちる

▲常磐神社脇から国道方向

祭りで「ふとんだんじり」をするのはここ,と案内板にありました。
 全然知りませんでした。広島でダンジリ?そんなんあるの?
 曰く──「各町内から上に七枚のふとんを飾った(略)だんじりには化粧をして着飾った二人の子供が乗り込み,太鼓を打ち続け,町内の若者がそれを肩に担いだり引っ張ったり,ときにはだんじり同士がぶつかり合って練り合いをする。」

能地のふとんだんじり……岸和田並に無茶やるらしい。〔Facebook〕

「(続) た,常磐神社・老婆社・幸崎神社の前では獅子太鼓が奉納される。(略)太鼓を打ちはじめると,二頭の獅子がそれにおそいかかる。太鼓打ちは,それを前後,左右にさけながら三十八手の太鼓を打つ。」
 つまり(狭義の)だんじりと獅子太鼓がメインの神事みたい。
▲国道脇の段差

突に雨粒が落ちてくる。ふと時計を見れば1258。そろそろタイムアップです。
 東へ転じる。
 国道前に段差四段。──道路建設時の嵩上げとの間を渡した段とは考えにくい。元々段差がある何があった跡でしょう?

能地浜大石燈籠に想う

▲今治造船を望む

地集落の海側を埋めるのは今治造船広島工場。〔後掲Baseconnect〕。
 1949(昭和24)年9月に幸崎船渠株式会社としてスタート)創業者:木曽清※)。1951(昭和26)年に幸陽船渠と改名,新造船建造を主業とする。でも造船不況下で1986(昭和61)年に今治造船グループ参入(買収)〔後掲蔭山〕,ついに2014(平成26)年に同造船に吸収合併〔wiki/幸陽船渠〕。現・敷地面積は516千平米,面積的には幸崎全集落より大きい感があります。

※木曽清という人は,経緯からして能地の地元人に思える。戦後,能地が過去の蓄財を投入して地元振興を託した会社だったかもしれないけれど,データがない。なお,他の関係者として,幸陽船渠時代の社長を務めた元衆・参議及び三原市長の溝手顕正(1942-2023年)があるけれど,この人は幸崎出身ではない。

(上)今治造船広島工場:海側から (下)同:陸側から ∴下側集落が能地〔後掲蔭山〕

302,バス停の先「さいざき歯科」と指す矢印の路地から,再度集落に入る。
 1304,本町公民館「能地浜大石燈籠之跡」石碑。おそらく唯一残る,海岸線位置の物証です。ただ,肝心の位置を記録し損ねてます……。※GM.にも登録がない。
▲大石燈籠跡

積と言えば……幸崎神社脇の橋下には,古い浜石が残っているように見えます。
 雨はまた止んでる。東南アジア系カップルがジャレてる。
 1325,幸崎発三原行きに乗車。

🚈🚈 🚈🚈

351,三原発糸崎行きに乗換。
 1357,糸崎発福山行き──って一駅ごとに乗り換えかい!
 やっと尾道に着きました。遅い昼飯はベタなのを選ぶ。
1412麺屋響
尾道ラーメン650

~~~~~(m–)m吉和編~~~~~(m–)m
吉和の太鼓踊り〔後掲ひろしま文化大百科〕

足利尊氏(あしかがたかうじ)の水軍に加わって戦功があった吉和の漁民が,戦勝祝いにおどったと伝えられているが,確証はない。恐らく元来は念仏おどりであろう。享保3年(1718)の記事や嘉永3年(1850)の古図によってその歴史の古いことが分かる。〔後掲ホットライン教育ひろしま〕

初めての尾道の西の栗原川

444,まだ小雨が続くけど……強行しよう!
 西御所バス停──というか尾道駅のバス停の場所がわからないので……。
 1451,尾道工業団地行きのバスに乗ると──おいおい!北へ向かっとるがな。
🚌
駅ほどで下車。
 なかた美術館?何だここは?ん?なぜか好い感じのフレンチレストランがあるぞ?→なかた美術館
 ad日比崎町。川辺に細い道が続いてます。栗原川と書いてある。
 西はすぐ山。かなり険しい崖っぷちです。──ただ,春には桜土手が続く人気スポットらしいです。

~(m–)m 吉和編の行程 m(–m)~
GM.
(経路:なかた美術館
〜木曽病院〜吉和八幡)

▲1507栗原川川辺

いぜい。1510,線路まできた。
 1518,小降り。R2を歩きで西行。
 1527,半分来た。雨は小雨のまま。セブンで一服。尾道の町の西は初めてです。こっちへも市街はだらだらと続いてるんだなあ。小さな盛り場もポツポツある。それぞれが浦だったんでしょうか。

吉和川沿いを歩いてしまう

Walking qi-yue
537,ad古浜町,ケーズデンキ。
 そろそろ北へ入りたい。
 1541,尾道商業高校入口交差点を右折北行,線路を潜る。
 1545,吉和小学校。ad東元町──いやいや外れてる外れてる。北へ大回りしとるぞ。
 1550,東元町30から左の脇道へ入る。これで西行に戻れるはず。
▲1555吉和元町川辺道

沿いに出た。木曽病院。
 左折南行,右岸を下る。
 1557,予定の道に戻ったけど,この川沿いは何か好い。そのまま下る。
▲1601吉和川沿い

d沖側町。不思議なネーミングです。
 川岸の石垣がところどころ古い。ただこの辺りが,吉和の浦町にとってどういう土地だったのか,想像し難い。
▲1602両岸の家並み

もう呉線が見えてます

和西元町15。1604。
 好い川辺です。
 いいんだけど……傘をさして,かつ結構交通量は多い。もちろん良い光はないしで……あんま良い写真は撮れてないですね。
▲1603,よく見ると川辺と分かる写真です。

験道尾道教会(→GM.)で右岸の道途絶える。そこで左岸へ渡るとad東元町8の住所表示を見る。
 左岸が東町,右岸が西町──みたいですね。
 上記GM.を開いて頂いて,航空写真で見てもらうと,東西に綺麗に分かたれた集落が確認できます。
▲1610路地にも味が出てきました。

うやら──西元町の奥に小路があるらしい。1611。
 右岸を再び道が伸び始めたので,こちらも再び右岸へ渡る。もう南に呉線の踏切が見えてます。
▲右岸へ橋を渡る

奥の路地が凄いぞ!

もっての予想では,本日の三浦歩き,大体こういう集落に出会すかなあ,と思ってた通りの集落が,日の終わりになってやっと現れてくれました。
 これは,モロに瀬戸内沿岸の漁村の路地です。
▲1611吉和西町の路地

う一本奥,ad吉和西元町21へ進もうとしたけど──いや,もう恵比寿神社が見えてる。先に神様にご挨拶しましょう。
 本殿左手石碑によると「胡ス神社再建」は「明治廿三年」。大修繕は昭和12年。いずれも棟梁と大工の名が連ねてある。
 本殿の向く川辺が船着き場だったのでしょうか。
▲1621。恵比寿神社の向く方向。

らに南へ西元町を進──もうと思ったけど……
 1621。これは!?
 奥の路地が凄いぞ!
──とここを結構歩いたはずなんですけど,以下の一枚しか写真は撮ってません。見てお分かりのように,洗濯機の並ぶこの裏道,プライベートが剥き出しになってるような感を受けまして,少し気圧されてしまってたのでした。
▲1624西町路地裏

射場と城と階段と

の向こうにパティオが現れました。
 1626,「射場」(いば)。広さ40平米ほどか,そう広くはないけれど,この狭い集落にわざわざ残すこの空間は明らかに有意です。ad吉和西元町26。
▲1629「射場」

かしの漁民は海賊から身を守るためこの広場で弓矢の練習をしました」と吉和民俗資料保存会の案内が綴る。
 浦が独自の練兵場を持っていたことになる。
 そこから山手に階段。これでしょう。登る。
 曲がりの多い階段。これは……城です。
▲1632「城」への登り口

こが八幡神社でした。1636。
 本殿左手に小社,記名なし。そこからの階段上に湊神社。これはコンクリート製。
▲1638階段上から集落

吉和八幡に集う八百万神

形は細長い台地状です。
 湊神社の左手に,名前の読めない鳥居を構える木造社。
 さらに左へと祠が続きます。造形から,金比羅と思われる木造社。社の左に小さな狐が無数に並ぶ。
▲狐さんの雛壇

のさらに左,これはぐっと離れて石社一つ。
 火の神か不動に見えるけれど定かでない。でも……怖い空気の社です。
▲最奥の社

音に振り向くと──手水場脇に水神3柱。
 南九州でよく見るけれど,瀬戸内にはあまりない神様の祠です。でもはっきりと「水神」。なぜここにコレがおわすのでしょう?
▲水神3柱

手にも小社多数。こっちにも狐さん雛壇がありました。
 全部が金毘羅とも思えないんですけど……何でこんなにお狐様が並ぶんでしょう?
▲右手の社群

吉和から帰る緊急事態かな

晴らしのきく場所に──神宮遥拝所?
「伊勢神宮は東方向320キロメートルです」って……戦時中に元を造ったものでしょうか?
▲伊勢神宮はこちら

がようやく止みました。
 1716、バス停尾商入口。1733に尾道駅行きがある。少し時間はあるけど,もう動けまへん。ベンチに座りこんで待つ。
 とにかく……回れたぞ!
🚌
あっそうか!吉和方向のバスって……国道じゃなく北側の裏道を通るのか!尾道駅前を通らなかったはずでした……。
 ところで──明日から何と緊急事態宣言が発令されるそうである。おおっそれは大変なことじゃ。予想だにしていなかった。急ぎ,居住地に引き返さなければなるまい。なのでこれも「不急」の移動ではないと解されるであろうから,防疫上特に問題はない。

■レポ(下):家船三浦断章群─能地(本町以外)・吉和・その他の浦─

 前章巻末でも,まあ何も分からないわけですけど──どうやら「能地の家船」というステレオタイプとは,ちらりちらりと異なるものが像を結んできました。
 もちろん前章と本章は,「家船の里」を訪ねて深掘りをするためのものでしたけど──そういうストライク球よりも,この話題はむしろボール球の方が本質に近づける臭いを嗅ぎつつあります。
 後編となる本稿では,能地の非・定説から初めて,家船論上はあまり注目されない吉和,そして他の浦へと視線を動かしていきます。結論に到れるかどうか,自信はないですけど。

【能地】四丁目〜五丁目ベルト

 この日の能地歩きで,路地を道なりに行くと二度も線路に行き着いてしまったのは,弁解半分ですけど……どうやらこれは,線路のない頃は集落が●●●●●●●●●●連なっていたから●●●●●●●●だと考えられます。

老婆神社付近地図

 老婆神社北の線路突当り地点から,もし強引に北へ進んでおれば──結構まっすぐの道が続きます。また枝道は,幸崎神社裏手(北側)や山道へと随分深々と続いています。
 また,老婆神社北西の線路突当り地点を突き進んだとすると──
上地図の西側付近(登り坂の細道が途切れた地点)

──これはもう,行き止まりにならずに,平気で線路北の集落に連なっていきます。
 どうも,呉線は,能地山側集落のド真ん中を南北に断ち割って走っているようなのです。そのことは,地図をもう少し大縮尺にするとよく分かります。
 これは,普通に考えると,能地の元集落だと考えられるのですけど──そんな記述はどこにも見つかりません。
幸崎神社・老婆神社エリアから幸崎能地五丁目ベルトの地図

 前章で,能地は「能地の浮鯛あるも期間短く漁獲高も少なし」〔前掲久保田〕,即ち漁獲に貧しい土地と理解されていたことを紹介しました。──一人能地が,というのではなく,この海域全体が,ということでしょう。特殊な漁法なしに,シンプルな一本釣りでは,ということかもしれないけれど,その辺りはよく分からない。
 重要なのは,この集落配置からは,能地五丁目付近の能地川沿いの集落がまず先にあり,彼らが利用しない貧しい海浜部が,四丁目の浦集落になったと推測される点です。
 この両地域の境,普通にはまだ利用価値のある平坦地に,なぜ呉線の線路は通ったのでしょうか?
 呉線は元々,広島から造船都市・呉に伸びていた軍事用の官営鉄道です。1903(明治36)年開業(呉-海田市駅),日露開戦の前年です。呉から三原は,関西・関東へ軍事物資を輸送する直通路・呉三線として1935(昭和10年)にようやく開通。安芸幸崎駅まで伸びたのは1931(昭和6)年。〔wiki/呉線/歴史/三呉線〕
 太平洋戦争前の突貫工事の都合もあったのかもしれません。でも遠洋漁業,さらに石炭運輸の基地と目まぐるしく展開した後の段階の能地の漁港(四丁目)側にとって,内陸(五丁目)側は既に異質なエリアで,両集落の境にはやや家屋の少ないベルトが形成されていたのではないでしょうか。
 それ故に,そこを線路で分断されても反対する声は少なかった。

[復習]金柄徹「家船の民族誌」より

 実は,図書館で初めて見つけた家船関係書は,この金さん※の書でした。

※金柄徹:2016年〜 慶應義塾大学文学部教授。1986-1989年に国連司令部板門店共同警備区域(JSA)兵役歴を持つ。〔後掲慶應義塾大学研究者情報データベース〕

 いわゆる通説を辿りながら,本稿が到りつつある論点を確認していきます。

 瀬戸内海の各家船集団は漁法上の特色として,家船民の間に一般的に共通している潜水漁は行わず,同じ海域でも集団ごとに特定の漁法(能地は手繰り網による雑魚引き,二窓は延縄,吉和は一本釣)を行い,近代に至るまで一種の分業によって共存しあっていた。
※ 金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003

 時折記される「共存関係」に関する記述には,既に疑問を持ってます。
 最終的にそうした棲み分けが成されたように見えるのは,それまでの時代に彼らが散々争ってきたからだと想像します。想像ですけど,先の能地の山側集落との差別化ぶり,吉和の私兵団練兵場から窺い知れます。
 吉和の「射場」の案内にあった「海賊」は,アニメや映画のような専門職だったわけじゃない。真に窮して「海賊化」した集団だったと想像するからです。

二窓は能地の西方にあり,二窓の家船は延縄漁に従事していた。(略)彼らは一本釣漁民(引用者注:吉和漁民)と同じく,延縄の餌になるエビや小魚を能地の手繰り網漁民から購入していたので,三者は海上で一種の共存関係を保っていた。[前掲金2003]

 この文章も基本的には「共存関係」論なのですけど,前引用の能地の「手繰り網による雑魚引き」が,二窓漁民による「延縄の餌になるエビや小魚」を提供している,とあります。さらに吉和の一本釣の餌も供給したらしい。
 これをそのまま理解すると,二窓と吉和の漁業素材を能地が供したわけで,産業連関上,能地は二窓と吉和の下位にあります。少なくとも,この構造で能地の方が儲かったとは考えにくい。
 つまり,三浦の定住漁民中,最も窮していたのは能地のそれだったと考えられます。家船というと能地が引き合いに出されるから,どうもトップランナー視しがちですけど,単体の漁村としては最も貧しかったのではないでしょうか?
 この点に,金さんも以下のように言及してます。

 能地の家船の生活や性格は「藻が三本ありゃ曳いてとおれ,家が三軒ありゃ売ってとおれ」[瀬川1971:9]という諺にも、よく見られる。(略)彼らの獲る雑魚やエビなどは貨幣価値の低いものであったが,毎日の生活に必要なだけの穀物が農民との交換で手に入ればそれで十分というような生活感覚を持っていたようである。このような性格が,一般に漁村の成立の最大条件とされる大きな消費地(城下町・港町・宿場町)や好漁場の有無とは無関係に,漁民集団としての家船の存続を可能にしたのであろう。[前掲金2003]

 結論づけがしっくりこないけれど,解釈を加えれば──能地の貧しさは,その立地にも起因していた。二窓は竹原市街,吉和は尾道市街にぶら下がれたけれど,能地はそういう「親」を持てず,在地では二窓や吉和にぶら下がるしかなかった。だから遠洋に出て他地に多数の「親」を探さざるを得なかった,ということになります。
 能地は最も徹底して「家船」移民集団となった。二窓や吉和は,能地ほどのプッシュ要因はなかったけれど,能地の「成功」を見て不徹底ながらこれに追従した。いわば「不完全な家船集団」だった,とも言えます。
 二窓・吉和と能地の間には,決定的かどうかは分からないけれど,何らかの段差がある。
 能地の「見えにくさ」がこの徹底度,言うなれば「徹底し過ぎ」た家船集団化にあるのだとすれば,吉和の漁民集団がやや史料的に分かりやすいのは「不徹底」度ゆえなのかもしれない。
 以下,吉和のデータを拾ってみます。

【吉和】地誌等関係資料群

 この日に歩いてみて,漁村としての吉和にはそぐわない「吉和」を見ました。これは最初に見た能地五丁目に似ています。

角川日本地名大辞典より:漁業経済圏「吉和漁師町」

 現在の吉和中心部,東西「元町」の付近は,少なくとも1720(享保5)年時点では吉和村とは分かたれた「吉和漁師町」だったらしい。この呼称は,明らかに「元町」が吉和の外縁だった時代があったことを示しています。

吉和漁師町・吉和村漁師町ともいう。尾道水道に注ぐ吉和川河口付近に位置する。広島藩領。蔵入地。村高は,「芸藩通志」では吉和漁師町と見え6石余,「天保郷帳」では吉和村659石余のうち,「旧高旧領」6石余。寛永9年因幡守様御領分小物成目録の吉和村に加子役600目・振売札9匁があり,漁業専従者と魚行商人のいたことが知られる。享保5年三次(みよし)藩から広島藩領へもどった時,吉和村から分村。「国郡志書出帳」(ママ※)によると,屋敷地高6石2斗余,免66.1%,町の広さは東西1町51間・南北32間,戸数169うち漁師135・商家5・百姓5・浮過15など,2端帆の漁船131,諸年貢類は年貢米・小物成・船床銀・浦役銀で10石7斗余,諸入役3石6斗余のうち伊予岩城島漁場への入漁料2斗8升3合(銀15匁),漁場は近海で三原・因島・向島との入会漁場もある。〔角川日本地名大辞典/吉和漁師村〕

 能地ほど遠洋には出ず,隣接海域(伊予岩城島・三原・因島・向島)へ出漁しています。能地と同様,在地だけでは漁場として貧しかったのでしょう。

吉和に戻る二百の家船

 ところで上記角川では,1819-20(文政2-3)年時点で「2端帆の漁船131」を数えています。
※「国郡志書出帳」は「国郡志御用ニ付下調書出帳」(文政二〜三年成立,「芸藩通志」編纂のための基礎資料:前章参照)と同一史料。
 なお,続く角川資料によると1878(明治11)年段階で和船320。
 さらに後述の尾道市立中央図書館展示の約130世帯(昭和42年の漁民専用市設アパートへの入居数)を併せて考えますと,
 家船は「夫婦船」と呼ばれるように基本的に世帯単位で暮らす場だったことを想定すれば,先の2係数に連ねて次のようにまとめられます。

吉和の家船数の推移
1819-20(文政2-3)年 「2端帆の漁船131」
1878(明治11)年 「和船320」
1955(昭和35)年頃 「約130世帯」

 明治初めの320隻が全て家船とする確証はないけれど,相当数減じた戦前期でも130×2≒3百人弱ほどは水上生活者がいたことになります。

(吉和)幕末期の人口・船数の推移〔文久二年(1862),慶応四年(1868)漁師町船床しらべ帳集計表←後掲吉和町史〕

 上記は後述する吉和町史が掲載する,おそらく藩側の統治用統計を地誌編纂者が各年の編年形にまとめたもののうち,数値が最も大きい幕末期のものです。
 この数字でも,200〜250人です。船数とほぼ同数なので船主・世帯主単位だと考えると,実人数は倍掛けした4〜5百人。この「しらべ」は単に船を数えてるだけなので,その運用が家船だったかどうかは分かりません。
 ただ,いつでも浦から出撃できる,あるいは既に出撃している2〜3百艘の船を室町〜戦後の間,吉和衆が動かしていたことは,確実なのです。
石畳小路(尾道魚市場跡):「本通りの桂馬蒲鉾店(→GM.)の東角から土堂海岸通りに抜ける路地」〔後掲路地ニャン公の尾道ホッと情報〕

吉和に魚市場があった頃

 次の資料中,1772(明和7)年と1809(文化6)年の二度,これは訴訟史料に残るという意味でしょう,争いを起こしている「三原東町漁師」とは旭町(前章参照)のことだと思われます。

一本釣による鯛漁専門とされ,このほかアコウ・鯖・鱧なども釣り,鮹壺漁も行った。ほかに明治19年の漁業慣行調査によるとボラ・チヌも釣り,イカナゴ漁に網を使用している。「尾道漁村記」によると,寛政2年に魚市掟が決められ,魚問屋を中心に仲買・小売と取引し,直接市へ来た客に売ることも認められた。尾道町魚市場へも出荷しており,価格を左右する程であった。また入会権にかかわるいざこざが明和7年と文化6年に三原東町漁師との間に起こっている。寺院に文禄元年僧桂岩開基の臨済宗寿量山阿弥陀寺がある。明治4年広島県に所属。同11年の戸数349・人口1,875,人力車2,和船320。同22年吉和村の一部となる。〔角川日本地名大辞典/吉和漁師村〕

 1790(寛政2)年に「魚市掟」が定められたとあるのは,吉和に独自の常設市があったことになります。「尾道町魚市場へも出荷」とあるのは,時系列関係がむしろ逆で,それまで尾道の市で販売していたのが,あまりに「価格を左右する程」のシェアを占めたから独立に至ったのでしょう。
 明治初めには少数とは言え,人力車営業が成り立つ土地だったわけです。
 ただ,それが1878(明治11)年には吉和村として統合されてます。この段階では独自の経済圏が損なわれたと考えると,ざっくり17C後半から18C半ばの百年ほどが漁師町として栄えた期間ということになります。

尾道商工会議所記念館はそれ自体がレトロに荘厳な建物です。

展示in尾道市商工会議所及び尾道市立中央図書館

 もう少しコロナの流行が谷間になった他日,尾道市の中央図書館に寄ってみました。なぜか「コロナのため」座席に座っちゃいけないルールが出来てて,立ったまま転記しまくったんですけど──で,その内容の前に,商店街の中の市商工会でやってた宮本常一関係の展示と,図書館ロビーの吉和古写真展を偶然にも見れました。
 まずその時の収穫を列挙しておきます。先に,図書館の古写真ですけど──まずこの写真に度肝を抜かれました。

「正月の漁港(吉和)」1955年頃(中央図書館展示)

1年の殆どを海で過ごした漁船が帰港し,びっしりと停留しています。この頃,船で生活する人々の世帯が約130世帯ありましたが,昭和42年に建てられた漁民専用の市設アパートに多くの方が入居し,昭和45年には船上での生活はほぼ営まれなくなりました。〔尾道市立中央図書館 同写真キャプション〕

 先述の吉和家船数からも130世帯≒130隻(戦前期)というのは妥当な規模です。
 それが1967(昭和42)年築の漁民専用市設アパートに収容されることで,吉和の家船の歴史は幕を閉じたのです。
 以下3枚は,「吉和漁港の元旦風景から 家船(えふね)と子ども達」と題する古写真です。1957(昭和32)年1月1日・土本壽美撮影とありました。

(吉和港)家船前に並ぶ履き物

 上の写真は,謎でした。家船の中は,確かに日本人の淨不浄観念から考えると土足ではなかったでしょうけど,陸地側に脱いだ靴を置くものなのでしょうか?──中国映画「長津湖」では土足で入っていたと記憶します。
 あるいは,正月に外地からの船が多数集まる時だけ,例えば他の船を通って自分の船に戻るから,こうして脱いだのでしょうか?
(吉和港)家船前からのお出かけ

 陸人ならば,玄関先,という感じの風景です。
 内と外,という概念で見ると,家船の民には船縁から向こうが外だったのでしょう。陸人が玄関先に盛る塩のような呪術行為を,海民がどのように行ったのか分かりませんけど,あるいはそれが船柱に仕込む船霊(フナダマ)だったかもしれません。
(吉和港)家船への渡し板を辿る女性
 
 これも正月の,船で溢れた港特有の光景でしょうか。海上の揺れに余程慣れてないと,この女性のような子どもを負うて細い板を渡れないと思う。
 ただ,家船の時代,現代のようなコンクリートで垂直に立つ岸壁は少なかったでしょうから,あるいは家船には常にこんな板を積んでいて,陸との往来は常にこんなものだったのかもしれません。

吉和版「浮鯛抄」としての「尾道漁村丿記」

「尾道漁村丿記」表紙〔尾道市立中央図書館蔵,後掲「近世 北前船で賑わう”みなと尾道”」(以下「近世尾道」という。)〕

 さてもう一つ,尾道市商工会議所の展示物に,「晩寄りの起源を記す」ものとして「尾道漁村記」がありました。
 それは写本(江戸時代以降の作成)で,尾道市立中央図書館蔵のものを持ってきたらしい。──調べたところ,原本は失われたようだけれど,「江戸時代の後期と推定」〔後掲近世尾道〕するのが通説のようです。

江戸時代の尾道漁師町で伝承されていた伝聞・記録を綴った「尾道漁村の記」の冒頭部分に,晩寄りの起源を記す「尾道漁村記」が収録される。歴史資料としては扱えないが,民俗学的観点においては尾道漁民の伝承世界に触れられる資料として興味深い。〔同展示キャプション〕

 
 歴史学というより浮鯛抄と同列の民俗資料と見られており,著者も年代も分からない以上やむを得ないけれど──バンヨリ(行商)の起源?

「尾道漁村丿記」冒頭頁〔後掲近世尾道〕

 八幡浩二「『尾道漁村記』考 ―近世海民の歴史伝承―」)尾道大学,2007)という著作が先行研究の代表,ということまでは辿りついたけれど──まだ探せてません(→国立国会図書館リサーチ)。だからバンヨリ起源と目した記述を確認してないのですけど──おそらく冒頭の「御調」由来に関する記述のことでしょう。

 そもそも此の浦に、住なれる海士人の言ひつだへることの葉すたれて、わつかに残れるを聞くに、往古玉の浦といひけむ時より、須加の根ながき江のおくふかく、長江の岸のそばたちし、ひむがしの傍に、艸のいほりのまバらにありしとなむ伝へ云ふ、其の頃の事にや。
 足長彦天皇(ひたつながひこのあめろき)気長足姫之尊(をきたらしめのみこと)※をいさなはせ給ひ、天皇二年水無月のつきこもる此等の江に、御船を泊させたまひしに、あま人をめされて、是より三韓に至るまで、御船毎に水を貢よと、大御命ありしより、即(すなわち)従人(しどりびと)となり奉る。天皇三韓御征罰(伐)は、天皇八年より始り同九年御帰朝と也。大君御国に帰りませし後、ふかく芽出させたまひて、この郡を水調の郡となむ云ふとぞ。〔後掲近世尾道〕

※足長彦天皇(ひたつながひこのあめろき):仲哀天皇
 気長足姫之尊(をきたらしめのみこと):神功皇后(仲哀天皇の后)
※※ふりがなは「近世尾道」,下線は引用者

 この「御調=水貢」説は,角川日本地名大辞典によると芸藩通志も伝えるところです。

「和名抄」国郡部では「三豆木」と訓む。古くは「水調」「三調」とも表記された。郡名の由来は,水貢(みずみつぎ)の意で,神功皇后が当郡長井浦に着船したとき,木梨真人が水を献上したことによると伝える(芸藩通志)。
(古代)平城宮跡から発掘された,霊亀元年以前のものとみられる木簡に「備後国御調郡諫山里白米五斗」とある。〔角川日本地名大辞典/御調郡〕

 それにしては上記霊亀元年以前推定の木簡に「水貢」でなく現・御調名で書かれるのは矛盾しますし,三韓征伐軍への補給行為は行商の行う売買とは性格が異なるのだけれど……この後つらつらと歴史上の人物との関わりを記す構成は,浮鯛抄に類似してます。
 おそらく,吉和の行商は尾道市内を含めあちこちで在地の商売人から阻害又は敵視されたのではないでしょうか?
 成立推定年代が吉和経済圏の最盛期と重なることからも,吉和の行商人はこの伝承をもって「神功皇后以来バンヨリを許されてきたのだ」といった伝承を盾にしたように思えます。能地の海民が各地で浮鯛抄の,少し考えれば滑稽無糖な伝承を本気で「紋所」に掲げてきたように。

地誌:吉和町誌の綴る吉和衆

 では,尾道市立中央図書館で転記した地誌群の記述をご紹介していきます。
 まず,地名「吉和」の初出は1306(嘉元4)年の厳島神社文書があるという。

吉和の地名が出てくるのは嘉元四年(1306)沙弥覚道から歌島左衛門二郎宛の文書の吉和郷(厳島神社反古紙経)が初見参で,次に貞和元年(1345)の大炊寮頭中原師守の日記「師守記」で「吉和栗原公文」として見られる。続いて25年後の応安三年(1370)十月の今川了俊(貞世)の「道ゆきぶり」の文中に「よしわが磯」である。(ママ)〔後掲吉和町誌〕

 厳島の原文等を検出できてないけれど,いずれにせよ南北朝前後から急に史料記述が増えてることは確かなようです。
 この点は,次の「吉和水軍」の由緒譚と時期的に整合するのです。
 政治史的には,兵部入道了円が鎌倉末期から1423(応永30)年(鳴滝城)まで吉和を支配した時代です。正規の守護地頭支配を受けない独立地域だったらしい。政治史は本稿では背景なので,詳細は以下展開部に掲げます。


吉和の軍事演習「弓懸猟」

兵部太夫入道了円
 大炊寮領の雑掌として吉和保に入部した了円は,妙音寺山の南西岬,吉和浦が一望できる城山(太夫殿城)に館を構えて,先の西国名誉海賊高王太夫吉村孫次郎助行を倣って水軍を組織し領内貢米の輸送を始め,足利尊氏西下の節は吉和水軍を率いて九州までの水先案内を努めた(ママ)。戦勝後の尊氏は吉和水軍(漁民)に御座船の使用を許した。兵部太夫入道了円は水軍の将として本拠を太夫殿域より鳴滝山城に移して,吉和,栗原,深(久山田)等,半農村・半漁村を支配して宮地姓を名乗った。時に吉和に本拠を置く了円は船を作り「遊猟」と称して乗り込み,漁船を集めて船戦や競船の訓練をして,日常の漁労に対しても常に武具を搭載し何時何処でも船合戦に臨む事が出来るよう怠らなかった。今日伝えられている「吉和の弓懸猟」の起りとも言われている。〔後掲吉和町誌〕

吉和の「射場」(上)広場全体 (下)説明書きと祠〔後掲街並みめぐり〕

 この日に通った「射場」での訓練は,海上軍事演習「遊猟」の一部門に過ぎなかったと考えられます。
「日常の漁労に対しても常に武具を搭載」したというのは,考えると凄い状態です。普通に考えれば,重い武具を積んで「漁労」する,というのは漁労中でも,常に海賊に変身する準備のように見えるからです。

(続)太夫殿城は城山と呼ばれ,前記了円の館跡で,南面の坂道「太夫坂」もその名残りである。また妙音寺境内の南側に「秋葉明神」が祀られてあるが,もとこのあたりに了円一族が勧請して吉和の氏神とした八幡神社のあった所で神田の地名も神社の祭料としめ寄進された「神田」地の名残りである。吉和の地名も字名もこの時代の呼称が定着したものと考えられる。〔後掲吉和町誌〕

「本拠を太夫殿域より鳴滝山城に移して」いるのは,吉和の人々を権力基盤として掌握しようとしたからでしょう。このことは,了円(宮地氏祖)が吉和水軍を「創設」したのではなく,海上民としての吉和衆が既にそこに居たことを暗示させます。
 太夫殿城には浦があったらしく(下記芸藩通志),了円が水軍を新設することは出来たはずで,この悪党的勢力はそれよりも既存の吉和海上民との「連合」を選んだのです。

(再掲)(上)吉和〜鳴滝山城 (下)うち太夫殿城付近〔後掲とんぼ草〕

『芸藩通志』などは、鳴滝山城の麓にある出城の大夫殿城(水迫城)について、かつて船溜まりがあったこととともに、この城が「宮地宮内」の別居であり、宮内は木梨杉原氏の船奉行であったと伝えています。〔後掲戦国日本の津々浦々〕

 鳴海山城が陥落(1423(応永30)年,上記展開部参照)した後,宮地氏は,因島中庄に移り,大江城(中庄町大江)を拠点として,因島村上水軍の寄騎となったようです。史料的には因島時代の宮地氏の方が記録が多い〔後掲戦国日本の津々浦々,史料は下記展開部参照〕。
 吉和町史は村上麾下の宮地氏が,「中国大陸にまで船を乗り付けた」と書くけれど,おそらくこれは希望的観測なのでしょう。

吉和保は事実上木梨杉原氏に属していく中で、吉和水軍も一部は宮地氏と共に因島に渡り、村上水軍に属し宮地氏を助けて活躍するが、大方は杉原氏の水軍として遠く中国大陸にまで船を乗り付けた者もいたろうと考えられるのである。〔同吉和町史「吉和と宮地氏」〕

 ただ,宮地氏をまとめ役に戴いた中世吉和衆が海上軍事演習「遊猟」を,地域の軍事力育成としておそらくは自律的に行ったことまでは,かなり確からしい史実です。室町期前半の政治史上,宮地氏の勢力拡張として記されるものは,実質的にはこの地域で突出して軍事スキルを高めた吉和水軍のことだったと思われるのです。



統治側からの視点と家船根拠地の大推移

 細論に入ると中部瀬戸内の歴史は,実にとりとめもない。だからなかなか積み上げた議論もし難いのですけど,危険を承知でその大きな潮流を書いたものもいくつかあります。
 15Cの勃興期に前期倭寇を最大の課題とした李氏朝鮮は,西日本の海賊の状況を大観しようとしました。

1428年に来日した通信使朴瑞生は帰国報告で,日本の海賊は「対馬・壱岐・内外大島・志賀島・平戸島などの赤間関(下関)以西の賊と,四国以北・竈戸社島などの赤間関以東の賊に分かれる。その兵は数万で,船は千隻を下らず,もし東西の海賊が同時に兵を興したら,防御しがたい。(略)」(『朝鮮王朝実録』世宗11年(1429)12月乙亥条)として,九州・瀬戸内海地方における海賊の分布状況や,海賊・海民がその地域の守護や国人によって掌握されていることを正確に指摘している。さらには彼は当時瀬戸内海に横行していた海賊衆も倭寇に転じる可能性が高いことも認識していたのである。[前掲金2003]

 このように可能性は指摘されるけれど実証し難いのが,瀬戸内海の海民がどれほど倭寇化したか,という点です。
 朴さんが言う赤間関以西と以東の海賊,というのも,関門海峡の東西に賊がいた,というだけのことで,東西両派に質的に分割されていた,とする根拠はありません。宮本さんが時折触れる,家船-夫婦乗込と陸住-男性専業の区分も地域的には混ざり合っていて,大地域的な棲み分けがあったわけではないようです。また,事実,近代以降の能地衆はかなり当たり前に西九州に出ています(→前章)。よって,瀬戸内海賊が倭寇に混ざっても不思議はない。でもどれほど主体だったかは不明です。

瀬戸内海の家船の根拠地は,大きく分けて能地(広島県三原市)・二窓(広島県竹原市)・吉和(広島県尾道市)の三ヵ所に分布していたが36),家船がこれらの地をその根拠地として定めるようになったのは中世末頃とされている37)。その背景について宮本は,瀬戸内海の小島をその根拠地としていた家船が,秀吉の海賊禁圧により新しい根拠地へ移動させられたが,その移動先が能地,吉和,二窓,音戸などであったと推測している[宮本1964:193-5]。[前掲金2003]

 三浦の形成期は中世末。宮本説では,織豊期の海上鎮撫と並行した統治側主導の「海賊の陸上がり」があり,中部瀬戸内の三浦を形成した,とします。
 その民俗的な傍証として,金は可児弘明の家船呼称を掲げています(上記注36の原注釈)。

36)瀬戸内海の家船は所属する根拠地によって「ノウジ」「フタマド」「トヨタモノ」などと呼ばれることもあったが,「船住まい」「船所帯」「ヤウチ船」と総称されていた[可児弘明「日本の民族学」日本民族学会1986:23←前掲金2003]。

 おそらく地名の一般呼称化は初期で,次第に態様を一般呼称にしたのであり、逆は考えにくい。「あの船で生活してる人たちは誰だ?」「能地から来たそうだ」「でもあの『能地』たちは……」──と一般名詞になったのが,後に家船が瀬戸内一円に見られるようになると地域を特化する意味が薄れたであろうからです。
 ところが,同じく注記の情報ですけど,河岡武春は三浦の伝承上の起源=紀州と触れているのです。

37)河岡は能地の家船漁民の口碑とその背景を統合・分析した結果,彼らが紀州出身の伝承を持っており,中世末に移ってきたと考えている[河岡武春「海の民―漁村の歴史と民俗」平凡社選書,1987:68←前掲金2003注釈]

 三原・旭町にははっきりした形で紀州起源譚があり,裏付け史料も発見されたことには前章「ポスト・二窓能地としての旭町」で触れました。
 この辺で,真面目に考えてると頭が痛くなってきます。そこで,上記宮本説を宮本原典で探してみました。
 すると,微妙な差があります。
 金論文では秀吉に移動させられた●●●●●●●,と受動態で記述されるけれど,宮本原典を見ると,自発的に移り住んだ●●●●●●●●●ようなニュアンスで書かれる。長くなるけれど,このニュアンスを損なわないようそのまま一段を引用します。
 確かに考えてみると──当時の既存漁村の間隙地に住み,漁場も既存漁業権の外の自由海域を採っている。客観的にも,そのような巧みな選択は陸上の統治側にできるものとは思えません。

島々を根拠にしていた家船群は一たいどこへいったものであろうか、それらが討伐の対象になって根絶させられてしまったとは思えない。記録も伝承ものこっていないのである。
 ただ一つ推定せられるのは秀吉の海賊禁圧にあって小島居住を禁ぜられた仲間は一たん本土の海岸に新しい根拠地をもとめて移動したのではないかということである。広島県のうち尾道の吉和、三原の能地、忠海の二窓、吉名、川尻、長浜、音戸などがそうした漂泊漁民の集中移動した所ではないかと見られる。これらの漁村のうち吉和、能地、二窓など「小早川文書」などにほとんどその名を見出さない。少なくも中世末までは、ささやかな漁村がそこにあったのであろうが、海賊禁圧の政策によって沖の島々から本土の沿岸に移動して来たものと見られる。しかし彼らには漂泊性がつよかった。そこでまた移動漂泊をはじめるのであるが、彼ら自身は特別の漁業権を持つことはなかった。大名政策の協力者ではなかったからである。したがって彼らは漁業権外の海で稼がねばならなかった。これらの漂泊漁民が近世初期以来活動したのは瀬戸内海でも主として灘とよばれた所である。水島灘、燧灘、伊予灘、安芸灘などで、彼らは新しい漁場の開拓者としてその名を知られて来る。[前掲宮本1964]

 史料に「ほとんどその名を見出さない」と言いながら,多くは宮本以降の研究の成果として,特に吉和については以上のような史料記述が見出されています。二窓・能地の善行寺は善行など浦氏との関連が(→前章)指摘されます。
 つまり──伊予・河野氏や肥前・松浦氏のように独自の政治勢力を成すのではなく※,陸上大名配下に海民衆の姿のままで組み込まれる,「緩い支配下の海賊」状態が実現できたのは,いわゆる「村上水軍」の中部瀬戸内だけに成立した稀有なバランス状態だったのではないか,と考えられるのです。

※朝鮮撤兵時や江戸期後半の密貿易など,実は強大な水軍勢力を維持した中世〜近世の薩摩島津氏は,このような区分を当てはめると,少なくとも加世田以降,海上勢力が陸上大名になった性格が強いと考えます。いわば藩営水軍で,その配下に組み入れた他地の海上勢力が見当たらない。

 海民の側になって考えると──中部瀬戸内三浦だけが,海民の生業を営んだままで,海外統制政策を強化する織豊-徳川政権下で生存を許された。毛利小早川の採ったルーズな海上統制策を浅野広島藩は,なぜか受け継いだからです。それが自明になるほど,この地域の家船海上民の生活と適合した統治手法だったのかもしれません。
 三つの浦の構成員の「詐称」は,行き所を失った戦国末期の海民にとって,非常に魅力的だったのではないでしょうか?──またそれは,統治側にとっても考えうるベターな「海賊吸収の受け皿」だったでしょう。
 このような状況は,16C後半の海賊禁令から17C前半の「鎖国」完成へかけての一世紀,中部瀬戸内の海民の居住域が一新された事実に符合します。

船を家とする海人たちの移動ははげしくて,転々として居住地をかえていったもののようであり,高崎は近世に入ると漁村の面影は消えてしまう。高崎ばかりでなく近世初期には斎島・蒲刈島・風早なども,一時,海人はほとんど居住しなくなったとみられるのである。能地もまた同様の現象が起こったようで,一時は四散していたが,十七世紀の中ごろから,また定住をみるようになったと考えられる。今住んでいる人たちのもっとも古い居住地域が町の東部の大師堂の西の山手付近であるとの口碑があり,大師堂に関する記録のもっとも古いものは,「善行寺過去帳」の元和元年(1615)の項に「浜大師堂平之丞」とあるものであり,漁民の死者の名が出るのは明歴三年(1657)からである。このことからいったん立ち去った者がもう一度この地にもどってきて住みつくようになったと考えられるのである。〔後掲三原市史 第七巻 民俗編,第六章 漁業地区とその成立〕

 ただし宮本さんは,以下で,17C半ば以降に「帰ってきた」能地衆が,なお中世以来の禅宗・善行寺を壇那寺とし,真宗寺院の門徒とならなかったことが,彼らが新来の海民ではなかった証拠である,と論じています。

(続) ということは,能地浜の人々が善行寺(禅宗)を壇那寺とすることにうかがわれる。善行寺は宝徳二年(1450)三月九日に丸山城主浦善行が建立したものといわれ,浦氏の菩提寺であった。能地浜の人々はその檀家となっている。もし新来の漁民ならば,真宗寺院の檀家になったはずである。このことは竹原市忠海町二窓の漁民にもいわれるところであって,二窓の漁民も善行寺の檀家が多い。
 秀吉による海賊の弾圧,小早川隆景の伊予・筑前への転封,関ヶ原合戦による浦氏の没落と毛利氏に従って周防への転出にともない(ママ),一時能地の地を離れて小早川船手組の水主を勤めていた者が,旧主浦氏の一族が神主として佐江崎八幡宮(幸崎神社)に奉仕していることから,縁故を頼って再び帰住したというのが,この地の漁民の歴史ではないかと考える。〔後掲三原市史 第七巻 民俗編,第六章 漁業地区とその成立〕

 ただこの点は,全国的にも過激で特殊な安芸門徒(浄土真宗)の信仰圏からの「新来」であれば言えることですけど,その圏外からの海民なら真宗への帰属意識は薄いはずです。二窓・能地衆への同化を擬態する意識からも,外地仏教に幾分近い点でも禅宗を選択したはずで──つまり,善行寺への帰属者が多かったのは,単に,彼らが安芸門徒圏外から来たことの証しだったのではないでしょうか?

〔NHK放送文化研究所「データブック全国県民意識調査1996」←後掲社会実情データ図録〕※ピンク枠は引用者

 16C後半-17C前半の百年,瀬戸内海賊とその周辺の数では倍する海民衆は,大規模に移動しました。北山一揆で遠洋航行に長けた紀州からの海民がこれに加わると,これと合し,あるいは技術を吸収してさらに激しく,ある者はまだ統制の弱い九州,中には中国大陸や台湾へ。あるいは瀬戸内外縁へ。後者は,近世大名の加護が比較的存続した竹原〜尾道域の海民衆を詐称,あるいは合することで,17C後半以降も例外的に瀬戸内で漁業,海運,造船に携わり続けることができました。より後の時代には,俵物や国内産物,さらに石炭の輸送を手掛けて西日本から対馬,朝鮮沿岸まで販路を広げたものの,近代の大型機械船の時代にはその優位性を失い,各地に陸上がりしていきました。
 このような像が,史料に隠れた海民の歴史だったろうと考えられるわけです。
 以下では,こうした海民の残した残像をスポット的に見ていきながら,この地域の手触りの違和感をもう一度確認しておきます。

尾道市史:電報で相場を調べて宿決める

 明治,通信インフラが整ってきた時代の尾道の商人気質を記す記述がありました。海民そのものではありませんけれど,同様の耳敏い行動様式で彼らも活動したはずです。

 明治,大正に至るまで,その気風を身に沁みこませていた大鍜冶屋の当主,阪井善兵衛氏は,よく昔語りに次のようなことを話していた。
 北前船が尾道に入港すると,まず宿につく前に,電報で玉島や坂出などの問屋へ,米や肥料の相場を照会してみて,相場が高ければ,すぐ,そちらへ船をまわすし,尾道の相場が高ければ,尾道へ船をつなぐ。そのころは問屋が,即(そく)宿屋を兼ねていたから,問屋へ泊まる。自家も問屋をやっていたから,よく客衆が泊まっていたものである。
〔後掲尾道市(青木茂※)〕

※青木茂:1898(明治31)生(広島県因島市)-1984(昭和59)年没。尾道短期大学教授,広島県史料総合調査員。社会経済史・地方史に広く通じ,主な著作に尾道市史(旧版)・新修尾道市史・因島市史・「近世に於ける富籤の社会経済史的研究」など。
※青木茂氏旧蔵文書:青木氏が尾道の豪商橋本家から譲渡された尾道町年寄の公用日記「尾道町年誌帳」を中心とする尾道町関係文書。橋本家のほか,鰯屋(勝島家)や油屋(亀山家)・東屋など,複数の尾道町商家の文書が混在している。大部分は商業関係文書であるが,尾道町の町政や頼母子講関係文書なども多く含まれている。これらの文書は,青木氏が尾道市史編纂の過程で収集したものと思われ,市史の記述にも数多く活用されている。尾道町関係の古文書としては,当館所蔵橋本家文書(請求番号8806)に次ぐ,まとまったもの。なお,当館が撮影収集し,後に金光図書館から当館へ寄贈された文書は,いずれも近世・近代の古文書類に限定されており,青木氏が調査研究のために収集した図書やノート・メモ類は,金光図書館で架蔵している。〔後掲広島県立文書館〕

 もう一点,問屋が宿屋を兼ねていたことが記されています。尾道,吉和,二窓・能地とも,旅籠屋の数はそう目立ちませんけど,そのような事情から,往来する交易業者に宿の心配はあまりなかったのかもしれません。

【箱崎】傍証:漁民の活動範囲

 家船緊急調査では,三浦に加えて因島・箱崎(→GM.:地点(箱崎治療院),現・因島土生町箱崎区)の家船についても相当に注目していました。
 現地名としては区の名称に過ぎません。ネットでのヒットはほぼないのですけど──
※沼隈郡内海町の箱崎ではない。
▲箱崎漁民の主要漁場(昭和37年10月)

 ここに,主要漁場として挙げられる海域名を再掲してみます。

1.愛媛県南宇和郡御庄町を拠点とする豊後水道一帯
2.山口県柳井市東浦町を拠点とする南東海上一帯
3.愛媛県温泉郡中島町 中島-安居島の周辺海域
4.因島-弓削-岩城-生名等因島の周辺を中心とする燧灘※一帯(引用者注:(読み)ひうちなだ)
5.香川県塩飽本島を中心とする海域。丸亀に至る。
6.屋島の庵治を拠点として,小豆島・豊島・大槌・小槌に及ぶ海域
7.香川県大川郡引田町(引田湾)周辺海域
  6の船が南下する
8.淡路島富島町を中心とする周辺海域
9.神戸を拠点とする大阪湾西北部
10.淡路島 由良-友ケ島の由良瀬戸一帯
(図注釈:本図作成にあたっては,昭和37年,土生漁協に在職された参河敏三氏の御教示をうけた。)[前掲広島県教委 昭45]

 箱崎のは厳密な史料に基づくものではなくて,聞き書きによるもので,実証性は薄いけれど──二窓・能地に劣らない広範囲に渡っています。
 これは,二窓・能地に加え箱崎もまた特異だったということでしょうか?
 あるいは──記録に残るかどうかという違いだけで,中部瀬戸内の家船海民は,割と当たり前にこの位の広い漁場を股にかけて漁獲をしていた……という可能性もあるのではないでしょうか?

因島箱崎の民俗伝承

 以下は民俗的記録になります。一般に船乗りの「迷信」は度を越したものがありますけど,箱崎にもそれは色濃い。竹原〜尾道の三浦に共通したかどうかは分かりません。

4.方違え 箱崎丈造談
 漁師たちが縁起をかつぐことは想像以上である。それは「板子一枚下は地獄」であり,対象が生き物であるから漁不漁は常におこる。それでわが身の安全を祈り,大漁をこいねがうのは当然である。さてこそ縁起をかつぐのであるが,その1つに「方違え」がある。
 日と方角とを十二支で現わすことは,昔から行われているが,彼等は,出漁の時に,その日の十二支が示す方角へ向かうことを忌み嫌う。たとえばその日が午の日に当たっておれば,午の方角すなわち南へ行くことを避ける。したがって南方に漁場がある者は,直接南へ行かず,一旦西すなわち酉の方へ向かい,それから辰巳へ廻って漁場へ到着するという方法をとる。あたかも平安時代に,宮中の貴族や女官たちの間で信じられていた「方違え」と同様な信仰である。しかし漁獲という生活に関係のある仕事を行なうのであるから,漁師たちの信心は篤い。[前掲広島県教委 昭45]

 文中にもある平安起源の方違えは,天一神・大将軍・金神・王相など特定の方位神と移動などの方角をズラす信仰です。それが箱崎では日の十二支にシンプル化してます。
 また,平安のものは自宅を起点とした方位なので,起点を変えるために別方位の寺院で一泊して出立するなどの工夫が凝らされたけれど,箱崎など家船の人は「自宅の位置」がそもそも定まらないからか,単に船の進行方向ということになってます。
 ただ,港から沖に出る方向は通常一方向に限定されるわけで,かなり大きな負担だったろうと予想されます。他では忘れられたはずのこの困難な信仰を守ってきたのは,よほど強い伝承だったのでしょう。

広島市街のド真ん中,百貨店に食い込んで存続してる胡子神社 (ad.広島市中区胡町5)

5.蛭子信仰 箱崎丈造談
 蛭子さまは漁業の神である。したがって漁業を生業とする箱崎地区の人々は,蛭子を深く信仰し,箱崎地区に蛭子を祭る神社を建立し,信仰の的にするとともに,旧10月3日の祭礼日には家族親類相集まって和楽するが,この日には,出漁していた漁船は全部箱崎に帰るということである。当日は神輿が出るほか,余興として相撲があり,櫓漕ぎ競争もあった。
 又蛭子信仰の表われとして,蛭子を祭神とする出雲美保関神社の神札をもらい,これを神棚に祭り,朝夕これを礼拝する。
 かような蛭子信仰は漁師の精神生活の中心となってしまったもののようで,たとえば彼等が沖に船を出し,釣具を海に投げ込む時に,「えべす,えべすッ」とか,「おっと,えべすッ」とかの掛声を唱えて投げ込む。あるいは一向不漁の時には「どんと来い,えべすッ」と唱えるなどの風習すら生むにいたっている。[前掲広島県教委 昭45]

 三つの浦では盆正月,という程度の縛りだったものが,箱崎では蛭子の祭礼日に特定されてます。しかもそれが定形の掛け声として定着してる。
 この辺りまでは,信心があついというレベルですけど,以下のものになると,どう判断したものか,ほとんど集団幻聴のような世界です。

1.舟玉様が勇む 箱崎丈造談
 舟玉様はその舟が新造される時,大工の棟梁が舟の中心部──たいていの場合は帆柱など──に5寸角くらいの穴を明け,かね12銅その他を入れて,一見わからないようにきちんと蓋をした箇所をいう。この舟玉様が漁師が漁に出て不漁の際に,微妙な音をだすことがある。この現象を「舟玉様が勇む」という。
 その音はキリコ(こおろぎ)の鳴くような「チリンチリン」という音か,小鳥のさえずりのように「チャッチャッ」という音か,かねの触れ合うような「チンチン」という音などを出すことがある。しかし虫でない証拠には,秋に限らず春でも夏でも聞こえてくるのであり,小鳥でないことは,夜分でも聞こえることでわかる。又舟玉様に入れた12銅でないことは,舟玉様をいわい込めている中心部だけでなく,舟中の方々でこの音が聞こえるのである。したがって漁師は理由のわからないままに,まじめにそれを信じ,一度これが聞こえると,漁をやめて帰路につくということである。[前掲広島県教委 昭45,口頭伝承,次項も同じ]

「舟玉様が勇む」と凶兆である。この感覚は海民──あるいは家船民に広く共有されたらしく,宗像・鐘崎にもあったという。「しげる」「いさむ」とも,日本語の語義では理解し難い。
※ほかに牛深にも伝がありました。(→m17f0m第十七波濤声mm熊本唐人通「フナダマ様がいさむ」)
 船玉様が神威を現すのはこの一事しか見つからない。つまり,航海の凶兆を教えてくれる呪術的「警報装置」だったのもしれませんけど……もう因果など通じない世界なのかもしれません。

(上)漁船の操縦席に祀られるフナダマ様 (下)国立歴博が試作したフナダマ様〔後掲国立歴史民俗博物館〕

桜田によると福岡県宗像(むなかた)郡の鐘崎(かねざき)では、航海中にフナダマがリインリインと鈴虫のように音を出す場合とチンチンチンと強く激しい音を出す場合とがあるといい、激しい音を出すのは凶兆だと言っていた。またこうしたフナダマが音を出すことを「しげる」とか「いさむ」というのだが、熊本県などでは漁師が六〇歳など一定の年齢を過ぎると、その音は聞こえなくなるととらえられていた。〔桜田勝徳「船霊の信仰」『桜田勝徳著作集(三)』、1980年←後掲国立歴史民俗博物館誌〕

 次の「七人の后」(きさき)となると,完全に理解不能です。どうやらこの七人は,①船を止める力を持ち,かつ②移動しているらしい。
 正直,媽祖伝承に通ずるかと思って転記したけれど──類推すべき伝承も他にない。何の評価もできません。

2.七人后(きさき) 箱崎丈造談
 漁師は出漁のために港を出るが,潮の加減で夜分航行することがある。そういう折に,航行している船のミヨシの前方に7人の昔風の衣装をまとった女性が,ありありと姿を現わすことがある。漁師たちはそれを目にすると「あ,7人のきさきだ」といって船をとめ,一心に念じて早く立ち去ることを祈る。そうしないと船が安全に進まないのである。彼等が「きさき」と称しているのは,恐らく昔の貴婦人らしい装いをしているところから名づけたものであろう。その女性たちが何者であって,何故に航行が不可能になるかは明らかでない。一種の幻視としか思われないが,漁師たちは7人の后が船をとめるのだと信じて疑わない。[前掲広島県教委 昭45,口頭伝承]

 最後に,箱崎の湾の前面にある三段重ねの岩についてです。蛭子伝承と村上水軍伝承が書かれてるけれど──もう何が何だか分からない。
▲亀島の南の浅瀬にある重ね岩
※ せとうちたいむず/ふるさとの史跡をたずねて【75】竹島城跡(上島町生名)

3.竹島の重ね岩 浅野登一談
 箱崎地区前面の海面にある3箇の積み重なった岩をいう。下は海中に蟠居して最も大きく,中は半ば海上に現れて小さく,上は常に海上にあって最も小さい。その最上段の岩は陸地から遠望すれば,西面している蛭子さまの顔のように見える。
 口承によれば,この重ね岩は,昔村上水軍の繁栄したころ,その家臣で因島西方の見張役をつとめていた竹島十兵衛なる者が見張りをするために岩を3箇積み重ね,その頂上に立って見張りをしたものであるという。[前掲広島県教委 昭45]

 こう見ていくと,箱崎の海民の感覚は他に類推しようがないほど独自の,何物かになっていることが分かります。
 最後にこれらを挙げておきたかったのは,彼ら海民の世界観が,我ら陸人の想像を遠く絶していることは,まず念頭に置いておくべきと考えるからです。

広島中南部の朧なる山岳信仰ベルト

 尾道・吉和から北へ4km程の地点らしい。尾道市久山田町大峰山中腹に大峰山遺跡というのが出土しています。
「標高289.6mの大峰山の6合目付近,西側傾斜面の標高220mの花崗岩塊付近に位置」すると角川日本地名大辞典にあるけれど,細かい位置はどうしても分からない。

久山田町大峰山遺跡出土の銅剣・銅鉾〔後掲尾道市教育委員会,文化庁保管〕

昭和35年,石材の切出し作業中に,折り重なった岩の下に1.5m×1.8m,高さ5mの長方形の大石が発見され,さらに大石を支えていた三角形の石(幅1.2m,高さ60cm)の根元に,斜めに置かれた銅矛と水平に置かれた銅剣2口が発見された。銅矛は長さ66cm,幅6.3cm,黒緑色の中細形銅矛で,鎬も通り,刃も研ぎ出されて,背も高く,樋も鋭い。袋部分に目釘穴状の小孔があり,環紐孔は小さく,装飾化を示している。地金も軟らかく,全体にひわっている。剣はいずれも中細形銅剣で,1口は鋒から31.5cmの剣身と長さ2cmの茎および身端部で,関のくりこみ部はひげ状の突起となり,これと同じ背には鎬がない。関近くに1対の小円孔がある。他の1口は鋒部の長さ18cmの部分がやや幅広である。いずれも弥生中期後半以降九州で製作された祭祀用具であり,この地点から5m下の岩塊中にあった後期初頭の弥生土器を関連づければ,埋納されたのは後期前半ごろであろう。中細形銅矛・銅剣を埋納する例は九州以外では他に例がなく,遠くから眺望できる山の中腹の大岩の下に埋納する点は福田・木の宗山遺跡と同様であるが,当時の山岳信仰の一端をも示すものであろう。〔角川日本地名大辞典/大峰山遺跡〕

 まだよく素人向けに分析されていないようで,ちょっと専門的に難解過ぎて煙に巻かれるけれど──つまり弥生後期前半(1C)の山岳信仰遺跡で,しかも九州からの渡来が疑われています。
 山岳信仰と言えば,先に見た鳴滝山の西光寺にも,14Cに72坊を擁し,「山伏たちの吹きならす法螺貝の音が,山野を揺すっていた」とありました。
 そもそも,尾道の起こりは1169年に備後太田庄の倉敷地(年貢積出港)に指定されてからとされます。備後太田庄は,中世には高野山が支配,今高野山・龍華寺が建立された土地です。

※現地名・世羅郡の初見は「日本後記」延歴24年(805)12月7日の条に備後国山間八郡のひとつとして書かれるもの。

 前章・本章で見た三つの海民●●の里の山間●●に,先史時代からこれらの聖地が散見されるように見えるのはなぜでしょうか?
 海路があっての山岳信仰だったのでしょうか,それとも逆でしょうか?
 巻末冒頭に触れた能地の山側集落の痕跡のイメージとも,それは響き合います。浦集落の背後の何かのシステムが,浦の根っこ,あるいは背景として決定的な影響を与えていないでしょうか?
 そも広島の山陽中部沿岸には,なぜこれほど中小の町が連なるのでしょうか?
 繰り返しとなります。広島県中南部,特にその中世史には,かくも深い闇が口を開いたままで在るのです。