m19Qm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm幸崎能地(下)&尾道吉和

※ 三原市幸崎能地/GM.:地点

▲幸崎能地住所表示図

▼▲1216降りる。
1223右手西側へ。ad幸崎四丁目4▼▲
1228北側裏に細道あり。入る。さらに西へ。
1229線路脇。共同井戸あり。

▲能地本通り

▲能地の路地

▲能地の路地2

▲線路脇の共同井戸

▲能地の路地2

▲丸々狛犬

1230老婆神社。丁度真裏を列車が過ぎる。ad幸崎能地四丁目11
丸々した狛犬
左手狛犬の影に石九神社と彫られた石柱。よく見ると磨耗した祠一つ

▲老婆神社脇の磨耗した仏の祠

▲振り返った老婆神社付近

1235祠脇の山道に入ってみる。振り返って一枚
線路沿いに出た。石垣が草にまみれてる。

▲線路脇の道

▲線路脇の道……では最早ないなコレ

1242本通りに戻る。さらに西行。ad幸崎能地四丁目11,幸崎郵便局
左手南側路地奥,2仏。右は観音らしい。薄く「西国一番」と彫られているのは何だろう?ad四丁目14

▲路地奥の観音

1249常磐神社。鳥居は道左手,本殿は道右手と分断されてる。つまり道の出来る前,海から参道が伸びてた形です。春祭りで「ふとんだんじり」をするのはここ。案内板に曰く「各町内から上に七枚のふとんを飾った(略)だんじりには化粧をして着飾った二人の子供が乗り込み,太鼓を打ち続け,町内の若者がそれを肩に担いだり引っ張ったり,ときにはだんじり同士がぶつかり合って練り合いをする。
 また,常磐神社・老婆社・幸崎神社の前では獅子太鼓が奉納される。(略)太鼓を打ちはじめると,二頭の獅子がそれにおそいかかる。太鼓打ちは,それを前後,左右にさけながら三十八手の太鼓を打つ。」

▲常磐神社脇から国道方向

1258唐突に雨が落ちる。東へ転じる。
国道前に段差四段。

▲国道脇の段差

1302バス停先「さいざき歯科」矢印から集落に再度入る。
1304本町公民館「能地浜大石燈籠之跡」石碑

▲今治造船を望む

▲大石燈籠跡

幸崎神社脇の橋下に古い石積が残っているように見えます。
雨はまた止んでる。東南アジア系カップルがジャレてる。
1325幸崎発,三原行き乗車

1351三原発,糸崎行き
1357糸崎発,福山行き──って一駅ごとに乗り換えかい!
1412麺屋響
尾道ラーメン650

広島県の文化財 – 太鼓おどり(尾道市吉和町) – 広島県の文化財 | 広島県教育委員会
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-210000210.html
足利尊氏(あしかがたかうじ)の水軍に加わって戦功があった吉和の漁民が,戦勝祝いにおどったと伝えられているが,確証はない。恐らく元来は念仏おどりであろう。享保3年(1718)の記事や嘉永3年(1850)の古図によってその歴史の古いことが分かる。

1444まだ小雨。強行しよう。西御所バス停──というか尾道駅のバス停の場所がわからないので……。
1451尾道工業団地行き──おいおい北へ向かっとるがな。3駅ほどで下車。なかた美術館
何だここは?ad日比崎町。川辺に細い道が続いてます。粟原川と書いてある。
西はすぐ山。かなり険しい崖っぷちです。

▲1507粟原川川辺

1510線路まできた。
1518小降り。R2を歩きで西行。
1527半分来た。雨は小雨のまま。セブンで一服。尾道の町は西へもだらだらと続いてるんだなあ。小さな盛り場もポツポツある。それぞれが浦だったんでしょうか。
1537ad古浜町,ケーズデンキ。
そろそろ北へ入りたい。
1541尾道商業高校入口交差点を右折北行,線路を潜る。
1545吉和小学校。ad東元町──いやいや外れてる外れてる。北へ大回りしとるぞ。
1550東元町30から左の脇道へ入る。これで西行に戻れるはず。
川沿いに出た。木曽病院。左折南行,右岸を下る。

▲1555吉和元町川辺道

1557予定の道に戻ったけど,川沿いを行きたい。そのまま下る。ad沖側町。不思議なネーミング。
川岸の石垣がところどころ古い。

▲1601

▲1602

▲1603

1604吉和西元町15。好い川辺です。
修験道尾道教会で右岸の道途絶える。左岸へ。ad東元町8。左岸が東町で右岸が西町なのか?

▲1610

1611西元町の奥に小路があるらしい。再び右岸へ。踏切が見えてる。
これは港町の路地です。

▲1611

▲1612

1614もう一本奥へ。ad吉和西元町21──いや,もう恵比寿神社が見えてる。
本殿左手石碑によると「胡ス神社再建」は明治廿三年。大修繕は昭和12年。いずれも棟梁と大工の名が連ねてある。
本殿の向く川辺が船着き場だったのでしょうか。

▲1621

1621さらに南へ西元町を進──もうと思ったけど奥の路地が凄い!

▲1624

1626射場(いば)。広さ40平米ほどか。この狭い集落にパティオが造ってある。ad吉和西元町26
「むかしの漁民は海賦から身を守るためこの広場で弓矢の練習をしました」吉和民俗資料保存会
そこから山手に階段。これでしょう。登る。
曲がりの多い階段。これは城です。

▲1629

▲1632「城」への登り口

▲1638

1636八幡神社
本殿左手に小社,記名なし。そこからの階段上に湊神社。コンクリート製。
その左手に名前の読めない鳥居を構える木造社。
さらに左に,造形から金比羅と思われる木造社。社左に小さな狐が無数に並ぶ。

▲狐さんの雛壇

▲最奥の社

その左,これはぐっと離れて石社一つ。火の神か不動に見えるけれど定かでない。怖い空気の社。
雨音に振り向くと手水場脇に水神3柱。瀬戸内にこれほどあるものなのか。

▲水神3柱

右手にも小社多数。こっちにも狐さん雛壇がある。
神宮遥拝所?「伊勢神宮は東方向320キロメートルです」

▲右手の社群

▲伊勢神宮はこちら

1716バス停尾商入口。1733に尾道駅行きがある。少し時間はあるけど待つことにする。
とにかく回れた。

ああっそうか吉和方向のバスって国道じゃなく北側の裏道を通るのか!通らなかったはずでした……。
ところで,明日から緊急事態宣言が発令されるのである。大変なことである。予想だにしていなかった。急遽,居住地に引き返さなければなるまい。なのでこれも「不急」の移動ではないと解釈されるであろう。

■レポ(下):▼▲

三原市史:能地 関係記述▼▲

1 能地の町の構成
東の町 幸崎町能地は瀬戸内海三原瀬戸に臨み,町は弓状に発達する。能地の漁民は古くは家船で海上を漂泊し,しだいに陸上がりを始め,今日の町が形作られたという。善行寺の過去帳によると,現在の地への定住は近世初期ごろからのようである。(略)三原市役所「三原市史 第七巻 民俗編」三原市役所,昭54 第九章 住居 三 漁村の住居

2 船住まいから陸住まいへ
床の下 (略)一般に民家の場合,収納に床下を利用することは,農家でイモを保存する以外あまりみられない。しかし能地の民家では,床下が収納場として盛んに利用されている点が特色である。(略)『家船民俗資料緊急調査報告書』(広島県教育委員会刊,一九七〇)には,船住まいの様子が紹介されている。それによると,家船にはトモノマの下にシモノマがあり,シモノマに生活用具が収納されている。(略)漁家の床下利用の収納は,敷地が狭く,農家のように物置を作る空き地が十分に取れないため起こったとも考えられる。しかし見方によれば,船のシモノマに生活用具を置いていたという船住まいの生活様式が,陸上がりしてからも残っていたものと考えられる。[前掲三原市史]

座った炊事 (略)この地では比較的最近まで,座って炊事を行っていた家がある。今でも井戸端でかがんで洗い物をする光景を見る。(略)能地でこのような炊事方法が最近まで残っていたのは,船住まいの生活様式を伝承したものと考えられる。[前掲三原市史]

住意識 (略)「船は金を儲けるが,家は金を儲けない」というような言葉を私たちは耳にした。船を買うときには借金をしてまで買うのが通例である。(略)設備投資は進んで行い,あとはいっしょうけんめいに働いた。
家が立派になることは文化向上の一つの指標とみられる。しかしこの地では,船に金を掛け,仕事にすべてを懸けるという別の心意気があった。そのためか,家屋には凝った小細工はせず,荒々しく壁に船板を打ち付けた家を数多く見る。[前掲三原市史]

 瀬戸内海の各家船集団は漁法上の特色として,家船民の間に一般的に共通している潜水漁は行わず,同じ海域でも集団ごとに特定の漁法(能地は手繰り網による雑魚引き,二窓は延縄,吉和は一本釣)を行い,近代に至るまで一種の分業によって共存しあっていた。
※ 金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003

二窓は能地の西方にあり,二窓の家船は延縄漁に従事していた。(略)彼らは一本釣漁民(引用者注:吉和漁民)と同じく,延縄の餌になるエビや小魚を能地の手繰り網漁民から購入していたので,三者は海上で一種の共存関係を保っていた。[前掲金2003]

 能地の家船の生活や性格は「藻が三本ありゃ曳いてとおれ,家が三軒ありゃ売ってとおれ」[瀬川1971:9]という諺にも、よく見られる。(略)彼らの獲る雑魚やエビなどは貨幣価値の低いものであったが,毎日の生活に必要なだけの穀物が農民との交換で手に入ればそれで十分というような生活感覚を持っていたようである。このような性格が,一般に漁村の成立の最大条件とされる大きな消費地(城下町・港町・宿場町)や好漁場の有無とは無関係に,漁民集団としての家船の存続を可能にしたのであろう。[前掲金2003]

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統治側からの視点と家船根拠地の大推移

1428年に来日した通信使朴瑞生は帰国報告で,日本の海賊は「対馬・壱岐・内外大島・志賀島・平戸島などの赤間関(下関)以西の賊と,四国以北・竈戸社島などの赤間関以東の賊に分かれる。その兵は数万で,船は千隻を下らず,もし東西の海賊が同時に兵を興したら,防御しがたい。(略)」(『朝鮮王朝実録』世宗11年(1429)12月乙亥条)として,九州・瀬戸内海地方における海賊の分布状況や,海賊・海民がその地域の守護や国人によって掌握されていることを正確に指摘している。さらには彼は当時瀬戸内海に横行していた海賊衆も倭寇に転じる可能性が高いことも認識していたのである。[前掲金2003]

瀬戸内海の家船の根拠地は,大きく分けて能地(広島県三原市)・二窓(広島県竹原市)・吉和(広島県尾道市)の三ヵ所に分布していたが36),家船がこれらの地をその根拠地として定めるようになったのは中世末頃とされている37)。その背景について宮本は,瀬戸内海の小島をその根拠地としていた家船が,秀吉の海賊禁圧により新しい根拠地へ移動させられたが,その移動先が能地,吉和,二窓,音戸などであったと推測している[宮本1964:193-5]。[前掲金2003]

36)瀬戸内海の家船は所属する根拠地によって「ノウジ」「フタマド」「トヨタモノ」などと呼ばれることもあったが,「船住まい」「船所帯」「ヤウチ船」と総称されていた[可児1986:23]。

37)河岡は能地の家船漁民の口碑とその背景を統合・分析した結果,彼らが紀州出身の伝承を持っており,中世末に移ってきたと考えている[河岡1987:68]。[前掲金2003注釈]

金論文では秀吉に移動させられた,と記述されるけれど,宮本原典を見ると,自発的に移り住んだようなニュアンスで書かれる。当時の既存漁村の間隙地に住み,漁場も既存漁業権の外の自由海域を採っている。客観的にも,そのような巧みな選択は陸上の統治側にできるものとは思えません。

島々を根拠にしていた家船群は一たいどこへいったものであろうか、それらが討伐の対象になって根絶させられてしまったとは思えない。記録も伝承ものこっていないのである。
 ただ一つ推定せられるのは秀吉の海賊禁圧にあって小島居住を禁ぜられた仲間は一たん本土の海岸に新しい根拠地をもとめて移動したのではないかということである。広島県のうち尾道の吉和、三原の能地、忠海の二窓、吉名、川尻、長浜、音戸などがそうした漂泊漁民の集中移動した所ではないかと見られる。これらの漁村のうち吉和、能地、二窓など「小早川文書」などにほとんどその名を見出さない。少なくも中世末までは、ささやかな漁村がそこにあったのであろうが、海賊禁圧の政策によって沖の島々から本土の沿岸に移動して来たものと見られる。しかし彼らには漂泊性がつよかった。そこでまた移動漂泊をはじめるのであるが、彼ら自身は特別の漁業権を持つことはなかった。大名政策の協力者ではなかったからである。したがって彼らは漁業権外の海で稼がねばならなかった。これらの漂泊漁民が近世初期以来活動したのは瀬戸内海でも主として灘とよばれた所である。水島灘、燧灘、伊予灘、安芸灘などで、彼らは新しい漁場の開拓者としてその名を知られて来る。[前掲宮本1964]

▲浮鯛抄
歴史系総合誌「歴博」第173号|バックナンバー|歴史系総合誌「歴博」|刊行物|歴博とは|国立歴史民俗博物館 写真3 「浮鯛抄」
複製・本館蔵、原品はリアス・アーク美術館現蔵

付記:浮鯛抄

「浮鯛抄」の成立は,この「能地の浮鯛」に由来する。浮鯛抄の文字によってもわかるように,この浮鯛は古歌の題材となり,また文士の筆のすさびになった。そしてただそれだけであったら,漁民の生活にそれほどのかかわりあいがあったとは思えないが,徳川中期頃から,後にも述べるように「右者能地ニ住ムモノ最モ尊フヘキ暦(ママ)史ニシテ,恐ラ(多)クモ勅言ヲ奉セシ事古昔ヨリ於我家後続者守リツトムヘキ事ニテ敢テ鹿略ニスル勿レ」(山本本※)などとあるように,漁民の歴史となり,また一種信仰の対象となり,そうして巻物として秘蔵され,しかもつぎつぎに書写されていった。「浮鯛抄」の内容はつぎに述べるごとくであるが,その成立は,何時,どのようなことが契機となったものか,漁民とのかかわりあいはどのようにして起ったのか,重要なテーマたるを失わないが,まだ十分解明するにはいたっていない。
 長らく海上漂泊をこととした,日本の漁民史上,特異な性格をもつ能地漁民が,その由緒を巻物にして持ったということは,一見,惟喬親王を祖神とする木地屋の由緒書や,あるいは鋳物師のそれなどと,共通の理由をもったと見ることができる。すなわち渡りの職業集団として,いわば身分を誇示するお墨付といったものが入用だったのである。[前掲広島県教委 昭45,河岡武春]

※ 原典著者別記:山本八蔵(ヒチ)氏旧蔵「浮鯛抄」巻物 18.8cm×359cm 天明四年九月の跋文あり

▲浮鯛抄(風早のものらしい)
※ 広島市・呉市で在家禅として座禅をする「広島禅会」です – 伝説の巻物 ~浮鯛抄~

「浮鯛抄」の全文を幸崎支所本であげてみる。(略)
其時皇后刺して浦の海人に永く日本の漁場を許し給ふと。夫故世々今に此処の海人にて何国にても漁をすれとも障方なく運上も出す事なしという。
(略)その内容を摘記すると次のごとくである。(略)
(四) すると,皇后は「此浦の海人に永く日本の漁場を許す」といわれたので,今に至るまで能地の海人はいづこの国で漁をしても故障をいわれず,運上金を出すこともなかった。
(略)浮鯛抄一巻は,まさしく貴人への浮鯛献上の歴史であるといってよい。神功皇后から始めて,中臣連,菅公,清盛,義経,尊氏とおよそこの沖路を過ぎたと思われる有名な貴人には,みな浮鯛を献上しているのである。このことは何を物語るのであろうか。あるいはそれが尊ぶべき歴史になるのか。海人のすがたはどこにあるのか。[前掲広島県教委 昭45,河岡武春]

 海民世界で,こうした書物を一種の手形代わりに携帯する,という風習は,少し異種ですけど,船大工にもあるらしい。象徴なので書の中身をうんぬん言っても仕方ないようです。また,この船大工の集団も九州~江戸,東北まで,旧世界を移動していった者が多かったらしい。
▲船大工秘事之事※

岩手県宮古市の北村造船所に伝えられてきた『船大工秘事之事(ふなだいくひじのこと)』(岩手県立水産科学館蔵)は、「船造時諸々木ヲ集釿立之大事」にはじまり、船造りの作法や知識に加えて「船霊御夫婦納様事」「十二船霊ノ事」といったフナダマにまつわる記載も見出すことができる【写真7※】【写真8】。この巻物は初代の徳松氏が江戸時代に上方で修業し、和船の技術を習得する過程で授けられたものだという。巻末に摂津、伊勢、筑前、江戸、尾張の船大工らしい人名が記され、巻物が筆写され伝来してきた経路をうかがうことができる。[前掲国立歴史民俗博物館誌]

傍証:箱崎の伝承▼▲

4.方違え 箱崎丈造談
 漁師たちが縁起をかつぐことは想像以上である。それは「板子一枚下は地獄」であり,対象が生き物であるから漁不漁は常におこる。それでわが身の安全を祈り,大漁をこいねがうのは当然である。さてこそ縁起をかつぐのであるが,その1つに「方違え」がある。
 日と方角とを十二支で現わすことは,昔から行われているが,彼等は,出漁の時に,その日の十二支が示す方角へ向かうことを忌み嫌う。たとえばその日が午の日に当たっておれば,午の方角すなわち南へ行くことを避ける。したがって南方に漁場がある者は,直接南へ行かず,一旦西すなわち酉の方へ向かい,それから辰巳へ廻って漁場へ到着するという方法をとる。あたかも平安時代に,宮中の貴族や女官たちの間で信じられていた「方違え」と同様な信仰である。しかし漁獲という生活に関係のある仕事を行なうのであるから,漁師たちの信心は篤い。[前掲広島県教委 昭45]

5.蛭子信仰 箱崎丈造談
 蛭子さまは漁業の神である。したがって漁業を生業とする箱崎地区の人々は,蛭子を深く信仰し,箱崎地区に蛭子を祭る神社を建立し,信仰の的にするとともに,旧10月3日の祭礼日には家族親類相集まって和楽するが,この日には,出漁していた漁船は全部箱崎に帰るということである。当日は神輿が出るほか,余興として相撲があり,櫓漕ぎ競争もあった。
 又蛭子信仰の表われとして,蛭子を祭神とする出雲美保関神社の神札をもらい,これを神棚に祭り,朝夕これを礼拝する。
 かような蛭子信仰は漁師の精神生活の中心となってしまったもののようで,たとえば彼等が沖に船を出し,釣具を海に投げ込む時に,「えべす,えべすッ」とか,「おっと,えべすッ」とかの掛声を唱えて投げ込む。あるいは一向不漁の時には「どんと来い,えべすッ」と唱えるなどの風習すら生むにいたっている。[前掲広島県教委 昭45]

1.舟玉様が勇む 箱崎丈造談
 舟玉様はその舟が新造される時,大工の棟梁が舟の中心部──たいていの場合は帆柱など──に5寸角くらいの穴を明け,かね12銅その他を入れて,一見わからないようにきちんと蓋をした箇所をいう。この舟玉様が漁師が漁に出て不漁の際に,微妙な音をだすことがある。この現象を「舟玉様が勇む」という。
 その音はキリコ(こおろぎ)の鳴くような「チリンチリン」という音か,小鳥のさえずりのように「チャッチャッ」という音か,かねの触れ合うような「チンチン」という音などを出すことがある。しかし虫でない証拠には,秋に限らず春でも夏でも聞こえてくるのであり,小鳥でないことは,夜分でも聞こえることでわかる。又舟玉様に入れた12銅でないことは,舟玉様をいわい込めている中心部だけでなく,舟中の方々でこの音が聞こえるのである。したがって漁師は理由のわからないままに,まじめにそれを信じ,一度これが聞こえると,漁をやめて帰路につくということである。[前掲広島県教委 昭45,口頭伝承,次項も同じ]

桜田によると福岡県宗像(むなかた)郡の鐘崎(かねざき)では、航海中にフナダマがリインリインと鈴虫のように音を出す場合とチンチンチンと強く激しい音を出す場合とがあるといい、激しい音を出すのは凶兆だと言っていた。またこうしたフナダマが音を出すことを「しげる」とか「いさむ」というのだが、熊本県などでは漁師が六〇歳など一定の年齢を過ぎると、その音は聞こえなくなるととらえられていた。(桜田勝徳「船霊の信仰」『桜田勝徳著作集(三)』、1980年)[前掲国立歴史民俗博物館誌]

2.七人后(きさき) 箱崎丈造談
 漁師は出漁のために港を出るが,潮の加減で夜分航行することがある。そういう折に,航行している船のミヨシの前方に7人の昔風の衣装をまとった女性が,ありありと姿を現わすことがある。漁師たちはそれを目にすると「あ,7人のきさきだ」といって船をとめ,一心に念じて早く立ち去ることを祈る。そうしないと船が安全に進まないのである。彼等が「きさき」と称しているのは,恐らく昔の貴婦人らしい装いをしているところから名づけたものであろう。その女性たちが何者であって,何故に航行が不可能になるかは明らかでない。一種の幻視としか思われないが,漁師たちは7人の后が船をとめるのだと信じて疑わない。[前掲広島県教委 昭45]


▲亀島の南の浅瀬にある重ね岩
※ せとうちたいむず/ふるさとの史跡をたずねて【75】竹島城跡(上島町生名)

3.竹島の重ね岩 浅野登一談
 箱崎地区前面の海面にある3箇の積み重なった岩をいう。下は海中に蟠居して最も大きく,中は半ば海上に現れて小さく,上は常に海上にあって最も小さい。その最上段の岩は陸地から遠望すれば,西面している蛭子さまの顔のように見える。
 口承によれば,この重ね岩は,昔村上水軍の繁栄したころ,その家臣で因島西方の見張役をつとめていた竹島十兵衛なる者が見張りをするために岩を3箇積み重ね,その頂上に立って見張りをしたものであるという。[前掲広島県教委 昭45]

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