FASE61-4@deflag.utina3103#幸地グスク,旧西原村役場壕\歌乃道ひるく 犬子ねあがりや

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

ふと高台の広場に出た。

240,西原入口通過。
 ファミマの三叉路を左折,すぐオーシロ美容室の十字をさらに左折。
 高架を渡った先の歪な十字を直進,高良電設の十字を右折。
 比嘉空手道場の十字を左折──と本気で迷いそうになりつつどうにかルートを辿って行ってます。

▲1249幸地の路地。何か独特に沖縄。野生の中に間借りしてます,的な。

場を曲がってから,道はどんどん…細くはならないんだけど粗さを増し,最後は山道になった末,ふと高台の広場に出た。
 幸地グスク到着。1251。

地グスク
〔日本名〕沖縄県中頭郡西原町字幸地42
〔沖縄名〕こうじぐすく ※幸地姓の発祥との説も有
〔米軍名〕Kochi ridge(すぐ西の丘がゼブラヒル=日本軍22連隊陣地:現西原町アドベンチストメディカルセンター付近)(前田高地東の日本軍陣地(幸地の壕)が置かれ激戦有。住民は避難中ほぼ全滅→巻末参照)

ハクソーリッジの西,首里の北入口

▲グスクの下側の広場

茶苦茶に走ったので,位置感覚を失ってました。
 広場。──町HPにある「馬場跡」でしょう。
 南東方向だけかろうじて眺望。
 与那原の湾を見下ろす位置です。南,次の写真では右手前方に運玉森。北西,写真方向と逆方向2kmで前田高地南東端の為朝岩。

▲1252グスク前広場から海岸を遠望。南東方向,湾の向こうは知名崎。

まり,沖縄戦のハクソーリッジの防衛ラインの最東端。かつ──地理が飲み込めてないうちは理解しにくかったんですけど,首里の高地の北入口に当たります。
 第22連隊が10日間米軍の攻撃を凌いだ幸地の戦いの激戦地。住民もほぼ全員が亡くなったと書かれてます。壕からは2000年以降18体の遺体が見つかったとそうです。→巻末参照
 碑が建つ。「山元小 ブラジル帰省 記念植樹」とある。これについては検索のヒットが皆無でした。

ビールかと思った。

▲1257グスクの野道に「ビージル」

る。
 最初に現れたのは「ビージル」とカタカナで書かれた祠。ここが入口かと思えたけれど…どうも他の御嶽と異なってる。
「ビール」かと思った…ほど,あっけらかんとした明るい文字と語感です。
 この謎のカタカナに,どっぷりハマッてしまって,巻末に書き綴ってしまってます。
※ 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/幸地城跡の拝所(こうちぐすくあとのうがんじゅ)・ご神体は鬢頭廬(びんずる)様のようだ。
※ 西原町/ > 町の文化財 >幸地グスク
「最高地点には現在祠が建てられているが、周辺を観察するための櫓台と考えられる。」

▲1301グスクガー(城井戸)の脇から郭道を振り返る。

方の尾根に小径が伸びてる。その先は…これは郭だよな?
 つまりここは,凄まじく実戦用の砦です。能島を思わせる。
 とは言え高台部は狭い。150人は入れまい。
 尾根北裏側に「幸地グスクガー」という黒石と2つの円柱。円柱前に祭壇。掃除はされてる。ただ供え物なし。
 ここで道は途切れてる。

砦・関所・政治拠点の複合用途性

▲1303郭の先端部。平坦地が意外に広い。

史の道」という西原市教委の看板。
 首里城と中城城を結ぶ古道に当たるそうです。確かに続いていそうな道ですけど…現在は全ては歩けないと注釈あり。
 なるほど,中間地点というよりは尾根の鞍部なのか。

※ 前傾町HP「幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上にある。この幸地グスクが乗る丘陵は南北に長く、本島の東寄りにあるが、この峰が分水嶺で、南方は首里方面へ、北方は中城方面につながる。」

那覇への尾根は亀甲墓だらけ

▲1304郭への道

地グスクは,名前通りの城砦としても強固だったろうけれど,この位置からしてもその関所でもあった,と町HPにいう。
 その複合用途性こそがこの幸地グスクの顕著な特色なのだそうです。
 通常は,そんな二股をかけたらどちらも果たせず企画倒れになるはずです。ここは,局地的にも大局的にも,複合的効力を示しうる稀有な場所だったわけです。

▲1316グスク帰路の拝殿

り道に「グスク上門ガー」。円柱1つ──とメモしてるのが井戸だったのでしょう。沖縄のガー信仰は特殊性がある気がするんだけど,そういう研究は今のとこ見つけてません。
 1317,空手道場十字を今度は左折,一度南行する。
 幸地公民館。グスクを西から南に回り込むように,集落が出来てる感じです。
 さっきグスクから見えた那覇方面への尾根は,亀甲墓だらけです。これが末吉宮の森に連なる形になる。──してみるとこの間の経塚という地名も気になってきます。→巻末参照

洞窟じゃなくて村役場跡

▲1324旧西原村役場

と止まったバイクの脇。1324,旧西原村役場壕とある場所を過ぎる。
 1944年6月設置とある。米軍上陸直前まで住民台帳や出納簿を運びこんでたそうです。
 むしろそれは災厄の前,最後の平和な引っ越しだったのかもしれません。
 1327,翁長交差点を右折。
 ファミマの十字を左折,すぐ右折。
 祠のある三叉路を左へ。すぐ右へ──と再びナビ通りに動き続けると──

▲1333西原の小さな祠。ミニチュアの煙突が可愛ゆい。
※ 後で偶然見つけた。「西ヌカー」という井戸らしい。→西原町の戦跡・史跡を巡る道

■資料:幸地グスクの歴史と特色

 重点は2点。
①熱田子という武将が覇を張ったグスク
②城砦・関所・政治拠点の複合的用途を持った。
「戦時には道路を封鎖する目的で造られた」という記述には驚いた。まさに沖縄戦で,ここがそういう場所になり,激しい争奪が繰り広げられたからです。
※ 西原町/ > 町の文化財 >幸地グスク
「『遺老説伝』に『幸地グスクの城主は熱田子と呼ばれ、腕力も強く人々から懼(おそ)れられていた。熱田子は隣りの津記武多按司といさかいを起こし、その一族を滅ぼした。訃報を聞いた今帰仁按司は自ら仇討ちに出かけたが、熱田子の策謀にはまり、殺された。その後、今帰仁按司の息子4人が兵を挙げついに熱田子を亡ぼした。』」
「注目すべき点は、峰の上を通過する『峰道』がグスク内を通過することにある。一種の関所的機能を持ち、戦時には道路を封鎖する目的で造られたと考えられる。幸地グスクは15世紀前半にでき、その後数十年間グスクとして、あるいは関所として、また戦乱期の後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性がある。」
※ グスクへの道標 沖縄本島のグスク案内サイト/幸地グスク
「南北に長く馬場跡や峰道(ハンタ道)が通る珍しいグスク と言われ、櫓台や井戸跡等も残っています。
一説では、15世紀前半に、伊波按司(石川市の伊波按司)の2代目から分家してきた者が幸地按司と称しグスクを築いた と伝えられています。」

 
▲前田高地周辺の日本軍防衛ライン

■小レポ:幸地で戦われた沖縄戦

 本文でも触れたけれど,次の2つのラインの交点が幸地です。
①城間-仲間-前田高地(ハクソーリッジ)-幸地-運玉森 の日本軍最終防衛ライン
②首里城から東北に伸びる尾根ライン
 主攻面であるハクソーリッジ,那覇サイドの西側側面のシュガーローフで激しい抵抗を受けていた米軍にとって,「裏口」としてこの幸地から尾根伝いに首里に入るコースは垂涎のまとだったでしょう。
 だから住民の立ち退きが徹底されたのだろうし,伊予の精鋭部隊・第22連隊がここを守ってほぼ全滅した。住民もほぼ全員が亡くなってるから,本人や遺族はなかなか言いにくいだろうから代わって,一言書いておきたい。

いくら何でもその言い方はないだろう。

※ note/【沖縄戦:1945年4月23日】第一防衛線の崩壊と第二防衛線の構築─「いまいましい丘」嘉数高地の戦いから「ありったけの地獄を一つにまとめた」前田高地の戦いへ

第一防衛線と第二防衛線:
(略)
『沖縄県史』各論編6 沖縄戦より作成
 なお第二防衛線の主陣地の一つとされた幸地の集落の住民は、日本軍の各部隊が撤退し陣地を築くため、日本兵に「お前たちは戦闘のじゃまになるから、その壕から出て南部へ行け。出て行かないなら、手榴弾を投げ込むぞ」などと脅され、避難していた亀甲墓や壕から追い出された。そのため幸地集落の住民の死者のほとんどは、幸地を出た南部で命を落としている。

※ NHK/沖縄戦70周年/幸地の壕(西原町)

2009~12年に西原町幸地で見つかった沖縄戦の遺骨18体について、厚生労働省が、同地でほぼ全滅したとされる旧日本軍歩兵第22連隊第11中隊の全国の遺族約100人に、DNA鑑定への参加を促す準備を進めている。しかし、遺骨を発見したボランティアや、幸地で戦没した県民約370人の遺族は、日本兵より多くの住民が犠牲になった沖縄戦の実態を踏まえ、「民間人の遺族にも呼び掛けるべきだ」と求めている。

※ 沖縄タイムス+プラス ニュース/国、西原の沖縄戦遺骨鑑定へ 2014年3月13日
▲幸地から首里への尾根。沖縄戦史掲載の部分拡大。

 沖縄戦の資料を見る度に思うのが,小さな戦闘ほど,ここで起こったことの本当が現れてるということです。大戦略では日米とも事前には考えられないほど失敗してる。
 細部の戦闘では,日本軍は信じがたい頑強さを示した。厚労省が遺骨のDNA鑑定をしている

第11中隊という部隊はかく戦っている。

※ wiki/歩兵第22連隊
「日露戦争以降、『伊予の肉弾連隊』と畏怖された精鋭部隊」
「4月22日から陣地転換が行われ22連隊は連隊本部を幸地に移した。」
「5月1日~3日、幸地では、米軍の火焔放射戦車を含む部隊と交戦し、霧雨にも助けられ、迫撃砲と手榴弾の集中投擲で撃退した。この時、22連隊第11中隊長 木口恒好大尉(士55期 愛媛県八幡浜出身)は(略)自ら志願し、兵士2,3人を連れて敵陣に潜入し、敵の戦車を爆砕した後、無事生還して、22連隊の士気を高めた。」
「5月3日(略)夜には、翌日実施される日本軍総反撃の先駆けとして、斬り込み隊を編成し、米軍陣地へ夜間浸透を試みた。(略)22連隊は、軍旗を弁ヶ岳から幸地に移した。」

▲幸地方面の日本軍(最後の)攻勢。沖縄戦史より。
「5月4日、日本軍最後の総反撃が始まった。(略)22連隊は『中突進隊』と呼称され、アメリカ軍陣地を中央突破し棚原北方の占領を命じられた。しかし、22連隊の前面にはすでに強力なアメリカ軍の野戦陣地が形成されており、八原博通大佐の指示を受け、損耗を避けるため、22連隊の第11中隊(中隊長 木口恒好大尉 士55期 愛媛県八幡浜出身)のみが出撃することとなった。」
「07:00、第3中隊が幸地のホースシューリッジ南側で煙幕を作りアメリカ軍陣地の視界を奪うことに成功した。第11中隊は、機を得てアメリカ軍陣地に接近を図った。(略)アメリカ軍はM4中戦車をもって反撃し、第11中隊は全員戦死した。また、戦車27連隊の戦車もほとんどが撃破された。しかしながら、22連隊の兵士は、この状況下でも敵陣を約1000mも潜入する者も見られた。」

▲第11中隊突出時の戦況。沖縄戦史より。

 でもそれ以上に,うちなんちゅこそが本当にあったのか?と疑いたくなるほど勇猛で強かでした。
 その記述を読んでいると,現代の報道のレベルで,内地の兵隊とうちなんちゅとどちらが悪かったのか,という議論をしたくなくなる。
 例えば,先述の義烈空挺隊の突入時,基地内の正確な施設配置を既に突撃側の日本兵が持っていたのは,誰の集めた情報によるものか。

県民,かく戦えり。


「5月7日(略)米第7師団第17連隊に、22連隊が守備する幸地(米称ゼブラヒル)の攻略命令が下った。米軍の火炎戦車が幸地に侵入してきたが、一通り火炎を放射して反転していくところを背後から猛烈に砲撃して撃破した。」
「5月9日、22連隊は2日連続の米軍の攻撃を受け、さらに損害を受けた。幸地南西にある高地頂上をアメリカ軍に占領された。」
「5月10日、22連隊は、昨日から幸地南西で激しい争奪戦を繰り返していた。10日夜には、夜襲を敢行したが、損害を増やしただけに終わった。22連隊は消耗し、完全包囲される恐れがあったため、弁ヶ岳北東に後退していった。(略)しかし切り通しから140高地と呼ばれる陣地は依然、22連隊が死守していた。」

『私たちの居た部落の女子青年団の人達がおにぎりを作ってカマスに入れて第一線まで運んでくれました。第一線の後ろは無事かというと、そうではありません。道路のめぼしい交差点は全て、日本軍が移動出来ないように一晩中弾を撃ってきます。日本軍の射撃なんかとても目じゃないというほど、どの交差点にも間をおいて集中射撃が加えられます。そういう所をかい潜って女の子達がおにぎりを届けてくれました。そのおかげで、一日一食ですけれど、ご飯を食べて三週間以上同じ陣地で頑張ったのです。(略)よく見ると、豚の脂を燃やした灯のかたわらに女の子が一人だけで、負傷兵が三、四人を看護していました。そして、その女の子は『私はここに残ります。』と言うのです。私としてはもはや何も言うことができませんでした。』※歩兵第22連隊第1大隊長小城正大尉証言

「140高地は、戦後、石嶺地区市営住宅の給水塔となっている。」
「6月17日、真栄里に、奇しくも同名の敵部隊、アメリカ海兵隊第22連隊が侵攻する。真栄里73高地の22連隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ、22連隊の本部全員が戦死した。また、与座岳に派遣されていた22連隊第3大隊も全滅したと推定される。」
「22連隊玉砕の地には、戦後、栄里の塔という慰霊碑が建立され、以下の碑文が刻まれた。
 歩兵第22連隊は第32軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨1万2千柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。  昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会 」
※ 沖縄戦史/幸地の戦闘
「178高地(日本軍名157高地)の南約4kmには海岸部の要衝を制するコニカルヒル(運玉森)があり、この両高地の間は稜線で繋がり東側の海岸部には平地が広がっていた。この海岸平地の一番内陸部に翁長集落があり、更にその西約1kmのところに幸地集落があった。翁長と幸地の間には北側にHorseshoe ridge(ホースシューリッジ)が、またその南側にこれから繋がるKochi ridge(コーチリッジ)があり、このKochi ridgeの向こう側は徐々に標高が高くなり、さらに南西部に向かうとそこが首里であった。」
※ 愛媛県生涯学習センター/データベース『えひめの記憶』/二 太平洋戦争と歩兵22連隊

■小レポ:ビジュル(ビズル)信仰

 首里久場川のビジュル毛以降,色んな場所でこの名前に触れる。一度調べておきたくなって手をつけてみたけど,こんな深みがあるとは思わなかった。

1 沖縄のビジュル信仰:泡瀬など91箇所?

 何と91箇所もあるという。
 言ったことはないけれど,泡瀬のものが一番盛大に祀ってあるらしい。
 共通してるのは
①石が神体であることと
②子宝と航海の神であること
くらいで,ならば何なのか?という点はどうもはっきりしない。
 以下は泡瀬のビジュルについて,一番はっきり書いてある由緒記述です。
 この中に,石の形態が「陽石」に似るというのがある。久場川のもだったけど泡瀬のは祠の奥に収まってるので,露出してるのを探したら,美里ビジュルのものが見つかったので写真を掲げてみます。

「ビジュルについて」泡瀬誌(昭和63年発行)

泡瀬の住民のビジュルに対する信仰は顕著なものがある。
ビジュルの語源は、<賓頭慮(ビンズル)――不動の意>。十六羅漢の中の第一の尊者で、その名前の意味は不動であるという。
ビジュルとは、石神のことで、その石神を信仰する、いわゆる石体信仰の態容をなすもので、沖縄県下に91カ所あるといわれる。
泡瀬のビジュルの形態は、自然の陽石を思わせるもので、安置される場所は神社にならって神殿をつくり、扉の奥深くにビジュルを祀っている。
<機能>無病息災、子安(子育て或いは子授け)、航海、交通の安全 祈願
上記の祈願をするので、住民は年中行事として、ビジュル物参りをする習俗がある。
<祭祀>専ら、男性司祭者にゆだねられており、その係を「ビジュルヒチ」といい、泡瀬の場合は、義正翁の末裔にあたる高江洲義総氏がその役目を果たしている。

※ 琉球新報/ビジュル信仰
「ビジュル信仰 (びじゅるしんこう)
 おもに沖縄本島でみられる霊石信仰で、豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる。16羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方で、多くは人の形をした自然石がティラと呼ばれる洞穴などで祀られている。例祭は旧暦9月9日。」
『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社発行 引用
※ 沖縄コンシェルジュ/沖縄の子宝・出生率No.1には理由がある!そうだ泡瀬ビジュル祈願へGO!
「子宝パワースポットの中でも、特に有名なのが普天満神宮、シルミチュー霊場、そして泡瀬ビジュルではないでしょうか。」

▲美里ビジュルの神体石

▲ネパール・ガレシュワー寺のリンガ

2 ヒンドゥー文化圏の信仰との相似

 多分,気が付いてる人は少なくないと思うんだけど…①柱状の石で②陽石が疑われ③子宝祈願とすると,自然に連想されるのがヒンドゥー教のリンガ信仰を連想です。
──文章がお下劣になるので,「陽石」とか「リンガ」がどういう物体か,未知の方は調べて頂くとして,ここでは真面目に論を進める。
 ちなみに上記写真はネパールの寺のものです。インド現地では,こういう自然石をただ立ててるものの方が圧倒的に多い。
 後述しますけど日本のものについても,それを擬人化してる可能性が高い。
 けれど,なぜそういうものが沖縄に?という部分にはまるで手がかりがありません。ただ航海神でもある,というのはインドネシア系のヒンドゥー教徒が漂着するとかがうっすら推量はできます。
▲日本各地のびんずる様像

3 日本のびんずる尊者信仰とその普遍性

「ビジュル」は日本の「びんずる」で,漢語訳:賓頭盧。原語の梵語はPiṇḍola Bhāradvāja, ピンドーラ・バーラドヴァージャ。神通力では最強で,それ故に釈迦に疎まれた。──この辺りは沖縄でも日本でも,さらに中国でも異論がないようです。
 けれど,功徳と習俗になると途端に多岐になる。
 日本では,上掲のように人物化してる。赤又は黒の異様な顔色をしてる。大抵は外に置かれ,なで仏として拝まれる。
 なぜ日本だけ人物化したのか,この点は分からない。でも色や「撫でる」理由は,先述の由来からすると納得できる。──下記案内板に曰く,頭の赤いのは「生命が充満して生気の血がみなぎっている」ためという。だからそれを撫でる,というのは…。
 必ず堂の外に置かれるというのも,そうした,ストイックな日本の信仰感から言うと後ろめたさを感じるからでしょう。
 有名どころでは東大寺や興福寺のが有名というから,空海との繋がりも探ったけど材料は見つからない。ただ,インドとこの種の崇拝,それに神通力とくると,密教的な信仰には違いない。経典としては理趣経と同方向の信仰として,日本には流入したのではないか。
 中国での食堂への配置,という変化も解釈しようがない。第一次本能,という方向性で食欲と同化した,と考えるなら中国らしいとも言えるけれど。
 全体として…以上が大外れでなければ,の話ですけど…このタイプの信仰がこれほど広域かつ根深いものとは思ってませんでした。

※ wiki/賓頭盧
「賓頭盧(びんずる、Piṇḍola Bhāradvāja, ピンドーラ・バーラドヴァージャ、音写:複数あり)は、釈迦の弟子の1人。獅子吼(ししく)第一と称される。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。」
「漢訳では、賓頭盧跋羅堕闍(びんずるばらだじゃ)、賓頭盧突羅闍(びんずるとらじゃ)、賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)、賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)などと音写する。」
「・中国では像を食堂(じきどう)に安置して祀った。
・日本ではこの像を堂の前に置き、撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が広がった。この像を『おびんづるさん(略)』『おびんづるさま』と呼んで親しまれてきた。」
※ やさしい仏教入門/なで仏
「お賓頭盧びんずるさんは、獅子吼第一と呼ばれ、神通力=超能力がとても強い人だったと言われています。
 ある時、お賓頭盧さんは人のすすめに乗り、神通力を使って座ったまま高いところにある栴檀せんだんの鉢を取って見せました。
 このことを知ったお釈迦様は、修行者らしからぬ行いをした、と叱責され(略)」
※ 奈良の仏像ガイド/賓頭盧尊者が赤い理由?興福寺で確認
「賓頭盧尊者をお堂の内陣で見ることはありません。必ず外にいらっしゃいます。」
「賓頭盧尊者が赤い理由は、酒気帯びによるものではなく、修行により精神が充実して生気がみなぎっているからなのです。」
「梵語では、Pindola と言うようです。
賓頭盧尊者のフルネームは、ビンドラ・バラダージャで、姓がバラダージャで名がビンドラ(Pindola)です。」

▲奈良・興福寺の案内書
※ L/リンガ(男根像)(Lingam)
※ 世界新聞/これが男根崇拝! 南アジアで私が愛したリンガ6選

■小レポ:地震にチョーチカチカ

 この呪文,確か沖縄方言事典のようなもので読んでずっと気になってました。
 経塚──「キョウヅカ」→「チョーチカ」という由緒だったのです。…でも,石垣を初めあまりに分布が広過ぎる。地域ごとの変化があるということはかなり定着してるということで,経塚の地名の方が後と推測するのが妥当に思えます。
 それはもう一つ,経塚単独の由緒の説明が訳分からないからです。妖怪退治のため首里から派遣の坊さんが経を書いた小石を埋めた,というけれど,なぜ石に書いて,なぜ埋めたのか?さらにそれがなぜ氏神たりうるのか?──現存する「金剛嶺」碑は地中に埋まってた,という記述もあり,どうも「埋める」というイメージがつきまとう。地中にまつわる神が元々この地にあって,地震避けの「チョーチカチカ」がダブルイメージになった結果,その方言音が定着した,というところでしょうか?
 それにしても沖縄方言は面白い。雷の「クヮーギヌシチャ」,火事の「ホーハイ」は知らなかったけれど,どちらも漢民族的な能動的かつ御都合主義なイメージです。
 でもチョーチカチカは違うはず。大陸中国の少なし中原部に地震はない。
 何かの中国語音のような気がするんですけど…思い付くものがありません。それどころか頭の中で繰り返してるとこの音,「超チカチカ」としか聞こえなくなってきます。「ビビデバビデブ」クラスの変な言葉です。
※ うらぞえナビ/経塚(きょうづか)の碑 [市指定史跡]
「土地の人々は氏神として参詣し、旧10月1日には、祈願祭をとりおこなっている。尚円王統の尚真王時代(1477年~1526年)に日秀上人(紀州の真言宗知積院の住僧)が1522年、首里から浦添に通ずる道中の丘に、妖怪が出没し、人々を悩ましていることを聞いて金剛経文を小石に写して土の中に埋め、『金剛嶺』を刻んだ石碑をその上に建てた。」
「沖縄民間風俗で、地震や災害などのとき『チョーチカチカ』と三度唱えるのは、この金剛経が妖怪を寄せ付けなかったことにちなんでいる」
※ 沖縄歴史観光/チョーチカ、チョーチカ(地震の時のおまじない)
「石碑が立つ場所は、お経を埋めた毛(森)の意味から、地元で「お経毛・ウチョーモー」とよばれています。」
※ RACO/地震・雷・火事に効く!昔から伝わる沖縄の呪文
「沖縄では珍しい大きな地震が起こりました。浦添のほかの地域では、この地震のせいで大きな被害がおきたそうなのですが、なぜか経塚だけは、ピクリとも動かなかったのだそうです。」
「本島北部の金武地区や宜野座区では、『チョーチカ、チョーチカ』といい、伊是名島では『トーチカ、トーチカ』といいます。」
「『ツカツカ、ツカツカ』(石垣市)
『チョーチカチカ』(経塚以外の浦添市)
『チョーンチカチカ、チョーンチカチカ』(那覇市)」
[雷]「沖縄では、『クワバラ、クワバラ』の代わりに『クヮーギヌシチャ』と言います。『シチャ』は『下』の意味があり、『クヮーギ』は『桑の木』の意味があります。」
[火事]「沖縄では、火事が起きると7日以内に『火かえし』という厄払いを集落内で行っていました。この時に、人々が唱える呪文が、『ホーハイ』です。」
「沖縄で『ホー』とは『女陰』の意味があります。沖縄で女陰は、エッチな意味ではなく、『非常に神聖なもの』という意味があります。」
「『ハイ』には、『露出する』という意味があります。ですから、『ホーハイ』を直訳すると、『女陰を露出する』という意味。」
※ 沖縄コアハーブ/浦添の経塚の碑。妖怪退治と残された”もう一つの伝説”
~石碑は地中に埋まっていた,という記述あり(出典不明)

■メモ:旧西原村役場跡

 調べると大体似たようなことが書いてある。次の2点は,(出典は不明ですけど)珍しい情報だったのでメモしておきます。
 毎日新聞の記事では,重要書類のほか,役人が日常使う陶器らしき破片まで見つかるそうです。
 こうして見ると,当時の西原の人々も,対米戦は「過ぎていく災厄」と見てたんでしょうか。現代のコロナウィルス騒ぎと同じように。
「米軍に発見されないように、墓に偽装して作られました。」
「こうした壕を作っても、結局住民台帳を始め重要書類のほとんどが焼かれてしまいました。いまだに犠牲となった人々の中に、名前すら判明できていない方々も多くおります。」
※ 管理人のうちなーライフかりゆし日記/西原の戦跡3 西原村役場壕跡