m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm4台南老城西

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

*メモからすると真東に歩いた風になってるけど,地点を結ぶとグルッと大回りしてる。何かに化かされてたんでしょうか……。

(台湾歴史地図/1875年)神農街〜西門(下図赤丸)付近

スルーしかけた観光通り

▲民権路

722民権路を東へ歩くと中規模な市場。もちろん閉店後」
と当時メモしています。東西を何かのきっかけで誤ったらしい。
 ということは,この時通り過ぎた市場が水仙宮市場。
 おかげで……町の様子が何だかんだ古びてきました。1724,神農街板登巷。

▲板登巷

石焼きの店?ここになぜ?
 どうも観光ストリートらしい。もう一本北には神農街というさらに雰囲気いい道があるけど,ここはさらに,もう明快に観光地です。これはスルーして…いやこれがルートなのか。東行して通過。──というか,方位を間違えてるので実際は西行。

見当違いだけど神農街

▲神農街
章前(→鄭成功軍と行く17C安平湾仮想紀行/①赤崁)で見たように,三兄弟のあった民権路が台湾最古の繁華街・赤崁街に当たります。
 この神農路は,その北西,西門を西に出た庶民の門前町だった場所です。

神農街は、清朝時代に台南に入る重要な港への入口でした。もともと川だったところが道路に変わりました。当時、大変なにぎわいだったそうです。
*参考 Rti 台湾国際放送/台南市の神農街、100年の歴史を持つオールドストリートに芸術の香り – ニュース
URL:https://jp.rti.org.tw/news/view/id/91922

▲神農街の街角

だったところが道路に変わ」った,というのは……暗渠にする技術はなかったろうから,この幅3m程に細い水路が流れ,両岸が商店だった,といった景観でしょうか?

▲1730神農街の街角

とするとかなりゴミゴミした場末的な「繁華街」だったわけで,由緒正しき繁華街・赤崁街の西門外に続いていた猥雑な通りだった昔を想像できますけど──何せ今は観光地。
……などという,全く見当違いな想像をしておりました。事実は巻末参照。
▲1729「夢の屋」──ってユーホーキャッチャーじゃねーか!

分かってないけど海神だらけ

闇が降りてきてます。
 1732,神農路を抜けた西の康楽街を北行,康楽牛肉湯という店に至る。「公休」(週休日)と看板。
──この康楽路の南北1kmほどが戦前頃の盛り場のようです(巻末参照)。
 さて,フラれたからにはまっすぐ東行。民族路。
▲1733民族路を東行する。

だらけの街です。
 片側二車線車道を渡ると景福祠。韓国・景福宮のパクりじゃないらしい。
▲1740名もないお宮。当時は「臭豆腐」の方に目が行ってます。

──変な方向に当時は頭が働いてますけど,ここが宮だらけなのは港だらけだったかららしい。つまりこれらは全て海神らしい。またまた巻末参照──と当時はホント何も分からずに歩いたわけなのです。トホホ。

気づいてないけど西門跡

▲1741「姥焼鳥」おばあが焼く焼鳥か?焼かれる鳥がおばあなのか?

──んて言葉は生粋の中国にはありえません。まず間違いなく日本の食文化の影響を受けた老舗なのでしょう。
 そうするうちに着きました,西門路と民権路の交点のロータリー脇。
1747小公園担仔麺
担仔麺300
▲1752夜ラーメン

南だから担仔麺!なのでしたけど──
 あらら?ここは観光地でした。周りで有難そうに碗を抱える方々は皆日本人。店主は日本語で注文とりにくるし,来たラーメンは淡麗な出汁でしたけど,まあラーメン。──まあ一度はね。
 と諦めて麺を啜ったこのロータリーは,これも当時は気づいてないけど……台南城西門跡だったのでした。

■レポ:北極から西へ積まれた海岸線──台南城西門外の「川」とは?

「台南歴史地図」アプリ内の「1896年台南城図」にはこの「川」が明瞭に書かれているのが確認できました。
 はっきり書かれたものはないけれど,台南城のこの歪な方形は,西辺だけがまっすぐです。これだけでも,この西ラインが海岸線だったことは想像されます。

台南歴史地図/1896年台南城図に描かれる川筋(赤線)

 これを遮るように東西方向に流れる小さな川の一つがかつての神農側のラインだったことになります。

海岸線より海側にある「川」

 遠浅の海の三次元イメージがなければ,海岸線より海側に川がある,というのが矛盾のように聞こえますけど,これはおそらく常時かつ地盤の確かな陸地のラインより西に,遠浅の砂洲が広がっている地形が想像できます。──これは,現在でも台湾最南端,台東の南辺りで見ることができます。

(GM.アース)台東県太麻里郷→GM.(位置)

(沖縄県宜野座村潟原)遠浅の海に川が沖まで伸びている。

 これらの川は,城内にものたうって流れています。
 この蛇行は,台南城壁の西側以外の歪なラインに似ています。おそらく,台南城の東・南・北辺はかつての河川を活用したものではないでしょうか。
 地質データがあればハッキリしますけど──赤崁城地点は小島又は岩礁のような特異地形で,当初は安平城と似た発想の砦だったけれど,砂洲の拡大と埋立の進行により市街に飲み込まれていった,と推測できます。
 このような形であれば,台南はかつて広い中洲の砂洲群だったわけです。
台南運河
(上)台南州台南安平附近運河開鑿平面図(大正10年,臺灣總督府。臺灣總督府公文類纂)
(下)GM.∶現在の同運河

台南運河=新運河

 上図は台南運河のルート図です。
 広島の太田川放水路や熊本の白川がまさにそうですけど,遠浅の海(熊本の場合は氾濫原∶下記リンク参照)の上を埋立てて造った都市を水害から守りつつ水利を維持しようとすれば,既存の自然水域の一部を人工的に維持するしかありません。

 同じ観点で,台湾を領有した日本帝国は安平港から永楽町(現・永楽市場付近→GM.∶地点)までの運河を整備しました。設計者は基隆港も手掛けた台湾開発の巨星・松本虎太です。

松本虎太(1879生1959没,台湾電力社長など)

大正11年(1922年)4月16日安平港至永樂町間的新運河工程開工,位於古運河的南側(即今日所見的臺南運河),隨後在大正15年(1926年)3月竣工,並於4月25日舉行開通式。新完工的運河為臺灣總督府技師松本虎太所設計,長3,782公里,河面寬37公尺、河底寬27.3公尺,退潮水深1.8公尺[2],主要用途取代已不能航行的舊運河,讓外海船隻能循水路直抵臺南市中心
*後掲維基/臺南運河
**注2 《臺南市讀本》,加藤光貴,昭和14年11月29日

 ちなみに,この運河建設計画は現在も続行されています。──2008年に許添財・台南市長は「安平歴史水景公園」構想の中に,新運河の未完成部分・「洋河運河」の完成を織り込みます。この「運河」は船舶が航行するものではないけれど,松本虎太さんの悲願の達成を現出させようとしたもののようです。
 これだけなら日帝の台湾開発貢献の美談なんですけど──ここで奇妙に感じられるのは,下線を引いたように現運河が「新運河」と捉えられていることです。これが「取代已不能航行的舊運河」(既に航行不能になった舊運河の代わりに)流れている。
 この「古運河」「舊運河」とは何でしょうか?──維基は次のように書きます。

清治時期道光三年(1823年),曾文溪改道入台江而遂漸淤積使其失去通航水運之便,臺南三郊僱工開闢運河,為府城對外水路交通要道。至日治時期明治36年(1903年)8月因洪水導致曾文溪及鹽水溪氾濫,舊運河潰堤且淤積,於是後來有了開闢新運河的計畫。
 今日古運河舊址位於臺南市安平區安平路406巷至安北路100巷間綠帶,於100多年前因颱風淤積後失去了海上運輸的功能,之後古運河兩側廣植樹木,已為供休閒的綠色隧道[1]。
*後掲維基/同
**注1 臺南市政府衛生局健康飲食運動地圖-古運河綠色隧道

──1823(道光3)年に造られた運河があり,今では台風で堆積が進み,海上運輸の功能は失われ,両岸から樹木が倒れこんで「綠色隧道」(緑のトンネル)になっている。特に1903(明治36)年の洪水で曾文溪と鹽水溪が氾濫した際,舊運河が崩壊した。これにより新運河建設が課題として浮上するようになった。
 この失われた古運河は,どこを流れていたのでしょう?

①古運河の水系[後掲隨意窩/台南五條港的故事(以下「故事」という。)]

②古運河と現在の道路配置を重ねたもの[隨意窩/故事]

③同 神農路付近[後掲岩田,原典∶中西區公所]

古運河=舊運河+支流「五條港」

 一気に3枚掲げました。
 海側から古運河を辿ると,四草湖(→GM.∶地点)から鹽水溪に入り,民権路四段から三段(本稿推測∶GM.∶経路)のラインを通って,同三段と大新街の交差点(GM.∶地点*)でまず二分岐し,これが五本の支流(五條港∶ただし末端ではさらに分岐)になっている。
*民権路三段から北東に伸びる同234巷と,南東に伸びる民生路二段230巷は,位置と形状からまず間違いなくこの分岐点と推測されます。

舊運河→五條港 分岐推定地点

 ちなみに中国語の「港」には,もちろん「ハーバー」の意味はあるけれど,副意(付属形態素)として「河川の支流」の語彙もあります。この「五條港」の「□□港」は,支流最終地点を指すとともに,そこへの水路も意味したものらしい。
 五本の支流は概ね城壁西面(≒現・西門路)ライン前後で途切れています。これが赤崁城創設時期の海岸線ラインですから,ここに並んだ(日本語の)積下港を終点としたわけです。

五條港(略)也是台江內海逐漸陸化殘餘之水道。五條港以前是臺南府城最重要的商業門戶,如今是臺南市地下水道的中幹線[隨意窩/故事]

──五條港は,台江内海(古・安平湾)が次第に陸化した後に残存した水域から成る。当時(清代)の台南府城の最重要な商業ゲートである。今でも台南市の地下水道の幹線として機能している。
 ここまでを総合・推測すると,
1)土木機械力のない清道光期に造られた古運河は,概ね,本流(舊運河),支流(五條港)とも旧湾の残存水域を繋ぎ合わせたもの。
2)古運河は「緑のトンネル」となった部分以外に,現在も地下水脈の幹線として活用されているものがある。つまり後者部分は暗渠化している。
という形で稼働したと思われます。
 個別に見ていきます。

【1】新港墘港∶外海に抜ける唯一の水路

 この支流だけが北に入る。現・民族路を過ぎて分岐。

新港墘港〈老古石港〉沿今文賢路直到兌悅門與集福宮為止, 在文賢路與金華路四段交會處與來自東北方的禾寮港相接。由於當時該港用來運送水肥,故亦稱「糞溝墘港」。其支流新港墘(普濟殿)是最晚淤積之港道,是1830年代唯一可通安平外海之港道。[後掲故事]

 分岐点に集福宮がある。
 東側の支流は禾寮港。「水肥」(人糞を液状にした肥料か?)を運んだため別名「糞溝墘港」。
 西側の水路はさらに北へ延びます。新港墘が水路名で普濟殿がそこにあった宮でしょうか。1830年代には外海まで行ける(本流の舊運河以外の)唯一の水路だったという。

【5】安海港∶最後に出来た水路?

 民生路の南側に沿う。舊運河からの二分岐から考えると本流とも見え,五條港のうち最も南側に当たります。

安海港的西側端點與南河港西側端點在差不多的位置上,約沿著今日民生路二段南側東行,而在過了康樂街之後分成三條港道,分別是北邊的松仔腳港、居中的外新港與南邊的番薯港。[後掲故事]

 康楽街を過ぎて三分岐する。北から松仔腳港,外新港,番薯港。
 ただし,前掲地図①を見る限り南へさらに細かく分岐があったようです。
 このように比較対象としては興味深い水路です。他と比べ,水路の終点に著名な宮が見当たらない*。水路の名前も,何となくおざなりで思い入れが感じられない。
 水路の終点が中程3本に比べ東であることからも,やや新しい水路に見えます。安海港は,中程3本より後まで自然状態で残されていた,という推測も成り立ちます。

海鮮熱炒で有名な八吉境總趕宮併設の松仔腳燒烤海產

*やや因習が感じられる「松仔腳」については,八吉境總趕宮という小さな宮(松仔腳燒烤海產というシーフード店の所在地として有名)があることは確認できましたが,創建年代は不明。台南で最も知られる總趕宮(中正路131巷)が1796(嘉慶元)年創建とされるので,八吉境總趕宮がその分祠ならば19Cに入ってからの創建ではないかと思われます。[後掲 台湾の風,観るとこだってあるぞ,維基/總趕宮]

【2】佛頭港・【3】南勢港・【4】南河港 総論

「子三本」と総称することにしますけど──これらは,先の二本に比べ相当類似しています。
{1}概ね並走し,西門路前後で並んで止まっている。
{2}並走方向が一つではなく東西南北とも合致しない。(舊運河二分岐地点から一度東北に伸びた後,一斉に東南東に折れる。)
 これらは漢民族の城砦のスタンダードとも異質なら,風水の匂いがまるでしないことも頗る奇異です。
 ただし,単にユニークというのでもない。それならば,並んで走り,並んで曲がって,並んで止まることはない。明らかに連動しているのです。
 台南城の都市計画上の格子方向が先にあっての連動とは,考えられない。それなら,そもそも東南東-西北西の半端な傾きで道を設ける理由がない。また,二分岐東での屈曲は明らかに格子方向から逸脱しており,水路が先にあってクッキーしていたから都市計画が屈曲の前後いずれかを基準として選ばざるを得なかった,としか考えられませんが──推論の前に,もう少し各論を押さえましょう。

(再掲)②古運河と現在の道路配置を重ねたもの[隨意窩/故事]

【2】佛頭港∶ドラゴンボートレースの地

 現・民族路の南側を東行し三分岐します。

佛頭港有三支流,即關帝港(開基武廟)、媽祖港(大天后宮)與王宮港(廣安宮),在景福祠合流成佛頭港、再流入舊運河。 該港為昔日龍舟競渡之處。[後掲故事]

 分岐点に景福祠。
 三分岐した支流は概ね並行して東南東へ流れ,倒れた「ψ」字を成します。北から
・王宮港(民族路三段)
    →廣安宮
・媽祖港
   (新美街125巷又は
   永福路二段227巷)
    →大天后宮
・關帝港
   (西門路二段307巷)
    →開基武廟
 廣安宮の東に赤崁城がある。従って,王宮港の「王宮」とは赤崁を指すことが知れます。
 これに呼応して,媽祖港と関帝港も天后(媽祖)宮と武(関羽)宮を終点とする水路を意味しています。
 この三つの孫支流(「孫三本」と略す)の全体の形状は,先に挙げた子三本と概ね相似する。{1}並走し終点が縦に揃うし,{2}並走方向が東西南北とズレます。
 孫三本に特有なのは,東側が東南東に伸びる子三本に対し,南東南に伸びていること。そしてその方向が,台南城全体の格子状の方向と概ね合致することです。
「日龍舟競渡」は日本人向けの観光用語ではドラゴンボートレース。沖縄の奥武島や糸満で開催されるハーリー(ハーレー)です。つまり海神信仰の伝統を持つ。

【3】南勢港∶商業カルテル「三郊」本拠

 水仙宮に繋がる水路です。

南勢港從臺南市協進國小西南往東北回溯至今神農街南邊後,平行神農街延伸至今臺南水仙宮前。其中有一分岔通向海安宮港頭廟是水仙宮,為西區最有名的菜市埸 ,亦是後來府城三郊的總部。[後掲故事]

「三郊」というのは「府城三郊」「臺郡三郊」とも称し,清代,1720年代に成立したとされる台南三方面の商業組織。北郊・蘇萬利,南郊・金永順,糖郊・李勝興という分割で[後掲維基/府城三郊],共食いを避けるための一種のカルテルだと思われます。
 その調整会議が,水仙宮の「三益堂」という建物だったとされます。即ち18Cにはここが経済のコアでした。

【4】南河港∶日本官吏の上陸ルート

 民生路二段〜金華路四段〜和平街と繋がります。

南河港的港道從民生路二段與金華路四段的交會處,沿和平街一直東行至大井頭附近。昔日來臺的官員皆從南河港的接官亭進入府城,亦從這裡離臺。另外臺南做十六歲的風俗據說也是從此港的郭姓工人開始的。[後掲故事]

 日本からの役人はこの水路を通って城内に入ったと伝わる。また,「郭姓工人」というのがよく分からないけれど,16歳になるとここから出港していたとも書かれます。

子三本と孫三本から推定できるもの

 なぜかどこにも書かれないけれど,子三本,孫三本の{1}並走性と{2}非方位性から自然に推定できることがあると思います。
 東西南北の方位に合ってないからには,人為による水路配置ではない。けれど,それが並走しているからには,何かの強力な力が働いている。
 台湾南部のこの地形では,水流しか考えられないと思います。
 海流ではないでしょう。海の水流は安平城南に七つの「鯤」(→前頁/安平参照)を造っていますけど,それは当然南北方向です。
 すると,川が浮かんできます。
 子三本も孫三本も,いずれかの時代の川流の跡ではないでしょうか。
 ある川が海に流れこんでいて,内陸側に町があれば,その河口部に港が出来る。港には海人の神を祀る宮が出来る。やがて川は堆積し,河口が海側に遠ざかると,宮までの水行路を維持しようとする人為が働きやすい,水流の乏しくなった川の跡を水路とする。
 つまり,子三本と孫三本の東側終点に南北に並ぶ宮のベルトは,2つの時代における河口部=海岸線だったのではないでしょうか。

前掲①地図の子三本東終点及び孫三本付近拡大図 [薄緑線]17C頃の海岸線 [水色線]18C以降の海岸線

「古城内川」の想定

 確かに,この辺りに現在大きな川はありません。
 けれども,大状況として台南がデルタ地帯であることは明らかです。また,現に前掲1896年地図でも城壁北辺及び南辺には川が流れる。それは,地質的知見を待たなくとも,現在台南市北部を流れる鹽水溪の水系により形成されたものと推定できます。

鹽水溪の現水系 [上]台南地域全体 [下]鹽水溪水系アップ
[後掲禁限建查詢資料庫/臺南市水環境]
 川の名前にどうしてもたどり着けないのですけど──仮に「古城内川」*と呼びます。台南歴史地図アプリの「1896-台南地図」は朱線で水路を示してあり,大変分かり良い。これには,現・台南車站の南から赤崁城の東・忠義路の手前で北西に折れて流れる川が描かれます。
(再掲)台南城内を東から北へ流れていた川 *左手の朱線は孫三本と推定される。[後掲1896-台南地図]

 古城内川が忠義路で北部屈曲せずに,西へまっすぐ流れて海に出ていた時代があった,という推定は,ですから地図上で見る限り突飛ではないと考えます。
古城内川屈曲点から赤崁城,孫三本部分のアップ [水色補助線]古城内川が屈曲しなかった時代の推定流域[後掲1896-台南地図]
*現街区との相関が分かるよう,現地図と1896原地図を50%ずつに透過させた。以下同様。

*幻の城内河川「德慶溪」

 僅かに維基に上記の名の記事を見つけています。状況は似てるのですけど,流域は必ずしも一致せず,しかも現在は残存部が完全に暗渠化してしまっているらしいので,確かめる術がない。なので本論ではあくまで参考として考えました。
 ただ,幾つか参考になる情報があります。

荷蘭殖民政府17世紀於德慶溪出海口南岸闢建普羅民遮街,通往鷲嶺,是臺灣第一條西式規劃的道路。(15)
[後掲維基/德慶溪/歴史
*原典(15)∶遠流博識網,http://www.ylib.com/taiwan/tainan/city/middle/m13.htm (頁面存檔備份,存於網際網路檔案館)]

 德慶溪は「鷲嶺」を通って普羅民遮街(赤崁街)に出ていたとあります。
「鷲嶺」というのは,最高で海拔12mほどの微高地で,現在の湯徳章紀念公園(GM.∶位置)周辺とされる。赤崁城から東南1km。北極殿や天公廟(台南天壇)がある場所です。[後掲維基/鷲嶺。以下本項について同じ]
 これに連なる山稜群を「府城七丘」「鳳凰七丘」と総称し,これは與崙仔頂,山川臺,山仔尾,尖山,そして赤崁などから成っていました。
 要するに,デルタの中程に地質的に硬い微高地が残り,17C以降の「侵略者」たちがそこへ寄り付くように住み集っていった,という場所だったようです。

1752年的臺南,上為東方*,城的周圍已建起了木柵城,城池輪廓出現雛形。德慶溪水系大部分被納入城的範圍內,主流和支流於市街中心北側交匯之後穿越鎮北坊,於西北方的水門流入台江。[後掲維基/德慶溪/水文]
*引用者が回転させ,北を上にした。次図も同じ。
 上図は維基の掲げる德慶溪のある図で,色塗り部がそうだと言ってるみたいですけど──よく分からないし,台南歴史地図とも照合しません。
 ただ,この1752年図を下の1807年図と比較すると,現・西門付近のみ城壁がなく,港が連なっている状況が見てとれます。──この部分は,後でもう一度振り返ります。
1807年的臺南,德慶溪上跨越更多的橋梁,木柵城也已改建為土城。[後掲維基/德慶溪/水文]

 德慶溪には,1752年図よりさらに多数の橋がかかっていることが確認できます。
 台南城内が,元々,「水郷」の情景を呈していたことは,中世の景観をイメージする上で参考になります。
 なお,「鷲嶺」部については次の成句が伝わっているといいます。

臺南當地有句諺語「上帝廟埁墘,水仙宮簷前」,意指鷲嶺之上的北極殿(即上帝廟)階梯,與鷲嶺之下的水仙宮的屋簷同高,反映地勢的落差。[後掲維基/鷲嶺]

 鷲嶺に位置する「上帝廟」は「埁墘」で,水仙宮は「簷前」である。形容が難し過ぎて理解できませんけど……鷲嶺の上に位置する北極殿(=上帝廟)から水仙宮までの高度の落差を表現しているらしい。
 これは,陸の七丘から海の水仙宮へ,というイメージにも取れる。城壁が出来る前の赤崁城は,つまり周囲を水流と浅瀬に囲まれた半ば島のような七丘の上にあり,デルタそのものを天然の濠にした城塞だったのでは?という印象も受けますけど……やはりここでは参考にとどめます。

古城内川の痕跡

 理屈の上での推量以外に,実際の微地形への残存と思われるものを3つ挙げます。

赤崁城南端の水路

 まず孫三本東側,赤崁城付近ですけど──

 現・赤崁城南側には短く東西に伸びる水域があります。こういうものは,細かく見るともっと見つかるのかもしれません。
 小さいので観光用とか城の庭園として造られたものという可能性も捨てきれませんけど,上図のように,関帝廟の建物もこの水域上を避けているので,少なくとも関帝廟創設期には存在した「細長い池」と思われます。
 赤崁城の立つ場所を「赤崁台地」と書く案内もあります[後掲韓国の城 など]。先述の七丘の一つがここにあり,これを縫うように古城内川が流れていた。德慶溪が赤崁城北を流れているところ,古くは城の南を流れた時代があった,ということになります。

孫三本終点ラインの河口跡

 先に德慶溪の資料で見た1752年図で,台南城西側に城壁の代わりに水域と港群があったことを確認しましたけど,その港群付近を拡大したのが次の図です。

前掲1752年図の西門付近拡大

「紅毛城」(赤崁城の別称∶赤丸)が書かれているので位置は現在と比較しやすい。「関帝港」「媽祖港」の文字も見え(赤四角),この図では水路らしきものを挟む両岸のように描かれます。
 この間のものを含め,河口としか見えない地形が3本,はっきり描かれています。西が海ですから,水路以前の時代です。──位置的には孫三本の原型のように見えます。
 この図の精度に疑問を感じるので,はっきりした実証とは言いにくいけれど,当時の感覚でこのエリアを捉えると,そこは港とそこに流れ込む川あるいはその名残りの地形が並んでいるように見えた,というところまでの推測は可能だと思います。

四聯境普済殿西側,新港墘港(跡)南の台地

 孫三本終着ラインと子三本のそれのズレは,海岸線の西への移動に原因するとして,両「ψ」になぜ方位のズレが生じるのか──海岸線移動だけなら「ψ」が同一ゾーンに連なるはず──という問題が残されています。
 孫三本の位置は,赤崁台地によって規定された──台地にぶつかった水流が台地の南に回り込んだように見えますから,子三本でも同じような過程が別の台地によって引き起こされたのではないか。
 と考えると,この位置ではないかと推量できます。

普済宮西部の状況[後掲台湾歴史地図/1896-台南府迅速測図(拡大)]
 中央左端の水路が新港墘港です。これが普済宮の西で3分岐して孫三本になっていたのですけど,1896年のこの地図には既に描かれていません。
 ただし,近代的な測量に基づいた感じのあるこの地図で,新港墘港北方,普済宮西方のエリアだけが,周囲よりもドットが大きい筆になっているようです(東∶海安路〜西∶康楽街,北∶成功路のブロック)。
 即ちこのエリアは遅れて聖地・開発されたと思われ,それは元の地形が台地か地質が特異だったかであったためで,孫三本の元の水流が直進できない地形だったと推測されます。あるいは,このブロックが孫三本の直進流域であったものを,その中州を後代に開発したかもしれませんけど──遺憾ながら実際に歩けてないので判然としません。

……とまあ,こういうおぼろげな史料を連ねる形での推測です。まとめると次のような形。

孫三本と子三本の古城内川推定流路 [緑線]孫三本が河口だった時代の流路 [緑両矢印]同時代以前(17C末?)の推定海岸線 [青線]子三本が河口だった時代の流路 [青両矢印]同時代以前の推定海岸線(18-19C?)

 なお,年代は両矢印上の宮の由緒から推定してます。
(緑矢印)台南大天后宮∶1664年築の明朝王族・寧靖王朱術桂邸。1684年に媽祖廟に改築,大天后宮と改称[後掲台北ナビ]
(青矢印)景福宮∶(旧福徳宮)伝・1750(乾隆15)創建。宮内の「佛頭港福德祠碑記」に1780(乾隆45)年,「重建景福祠碑記」に1811(嘉慶16)年記載有。[後掲一步就出走]
普濟宮∶伝・康熙年間(1662-1722年)。ただし文史工作者・田野調査(2011年)では1870(同治9)年と推定。(相良吉哉「台南州祠廟名鑑」(臺灣日日新報社臺南支局出版,民22年)に書かれる同1870年説を追認)[後掲文化資源地理資訊系統]
*なお,先に德慶溪の経由地として触れた鷲嶺にある北極殿は,伝・1661年築で鄭成功軍の部隊が祀ったものとされる。大天后宮の元の建物の主・後明寧靖王の「威霊赫奕」扁額は1669(永暦23)年に書かれたと伝わります。[後掲おいしい台湾]
北極殿 (上)寧靖王「威霊赫奕」扁額 (中)宮本殿 (下)由緒書(中国語)

赤崁が「サッカム」だった時代

 長くなったのでもう締めたいんだけど──実はもう一点だけ記すべきマターがあります。
「赤崁」名の由来は,先住民族の呼称の音からと推定でぎますけど(→2章前/[地図帳]鄭-蘭一年戦争の地・安平湾が消えるまで),この音(漢音∶シーガン,チーガン,シンガン)の原語を台湾「原住民」研究*は突き止めています。
*念のためですけど,言葉狩りが人権・差別対応だと思い込んでる日本と違い,台湾は行政がシンクタンクを造って本気で「事実」を確認しようとしています。だから「原住民」呼称を日本の価値観で云々すべきではない。


 分かり良いので「みんなの修学旅行ナビ」を引用しますけど,後掲asianprofileなどを見ると,原典は2000年頃の研究**のようです。
**ブリュッセ、レオナルド; エバーツ、ナタリー(2000)。Formosan Encounter:Formosa’s Aboriginal Societyに関するメモ— Dutch Archival SourcesVol。I&Vol。II。台北:順益台湾原住民博物館

1.赤崁楼という名前の由来は何ですか?
「赤崁」(日本語で「せっかん」、中国語で「チーカン」と発音します)という漢字を見ると、赤いレンガの建物なのかな?と思うかもしれませんが、この漢字そのものには特に意味はありません。台南にはかつてシラヤ人という先住民族が住んでいました(後に漢人と同化して「平埔族」と呼ばれます)。このあたりはもともとシラヤ語で「サッカム」(Saccam)と呼ばれており、その発音を漢字で「赤崁」と表記したのです。[後掲修学旅行ナビ]

陳金鋒(1977生)∶台南市出身の元プロ野球選手。台湾人初のメジャーリーガー。シラヤ族出身

 すみません,ここまではおさらいです。原義については──

2.赤崁楼は誰が建てたのですか?
シラヤ語の「サッカム」とは魚や漁港を意味します。実はむかし、ここと安平の間には台江内海という海が広がっており、赤崁楼はその沿岸に位置していたのです。1624年にオランダ東インド会社が安平の砂洲にゼーランディア城という堅固な城を築いたのですが、生活上は不便でした。そこで、対岸の赤崁でシラヤ人から土地を購入して街をつくります。これが台南の街の始まりです。[後掲修学旅行ナビ]

 つまり,シラヤ人が「漁港」と呼んだ音から来ている,とします。漢族とオランダ人の間だけでなく,何度か先住民の「清政府陳情」や襲撃といった衝突もあったようなので、シラヤ人にとって二束三文の土地を買い取った体を取った,というのではなく,先住民にとっても有意な土地だったらしい。
 その証拠に,だと思います。以下の意味の文章が何度かヒットしました。

オランダ人が1624年にタユアン(安平)港に到着したとき、近くのサッカム村からシラヤ語を話す代表者がすぐにオランダの柵に物々交換と交易のために現れました。[後掲asianprofile]

 台南城西壁がなく,港が並んだ時代。港がなく,赤崁城だけが築かれていた時代。さらに,赤崁城がなく,漁村 Saccam サッカムがあった時代──17C以前の、赤崁南に遠浅の入江があった時代には,そこはシラヤ人の漁業基地だったと考えられるわけです。
 即ち,赤崁(又は七丘)から水仙宮にかけてのエリアには,台南の先住民時代以降の地層が東から西に積み上げられているとも言えるのです。
 なお,オランダ人がシラヤ族から間借りしたこの土地に町を築いた1624年は,平戸で鄭成功が生まれた年でもあります。この男の生きた40年足らずの時代は,漢族がシラヤ族他原住民の土地だった台湾へ流れ立国に至る過程そのものでした。

「m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm4台南老城西」への1件のフィードバック

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