外伝17-078 泉城に八角嗅ぐや水の国/济南駅~j4w7

~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m本編の行程:Googleマップ(経路)~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m

充電が40%を超えたら

▲济南站(駅)南側の条里構造エリア(GM.)

の南側を歩いて見たい。
 济南最終日の夕刻が近づく中,部屋でゴロゴロしながら,残り時間の使い道を考えるうち思い付く。
 百度地図の画面には,綺麗な升目が並んでる。東西に8ブロック,南北に5ブロック。バスから何度か見た「経二路」とかの道名は,南北が「経●路」(北が若い番号)で東西が「緯●路」(東が若い番号)らしい。ニューヨークみたいです。
 その区画の西側真ん中辺りを,仮の目標に定める。経十二路緯五路というバス停。ほとんど座標表示です。百度地図でひくと90,98,302路が行く。
 スマホの充電が40%を超えたら出発しよう。

▲j1に入ったところ。j1w4-j2w4辺り。まあ中国によくある下町の通りです。

からつまずく。1609。
 そんなバスないぞ?
 とりあえず徒歩で南西を目指す。経一路を西行。(jing1:以下「j1」と略)
 1611。この辺りかなあ。緯四南行。(wei3:以下「w4」)

JとWと阡陌書店

▲j2w4交差点。少し町に生活臭が出てきたか。

619,j2を越える。交通量は多い。そのままw4を北へ。
 1623,j3に達す。いい感じだな。右折西行。

▲j3w4交差点。真ん中を通過するは中国名物三輪車。インドや東南アジアと違いタクとしてでなく専ら運搬用。

陌書店とある店。1627。
 いい感じです。覗きこむと,書店というよりカフェになってる。ケーキもあるけど──日没まで時間がない。断腸の思いで東行。
 今調べても,かなり有名で,かついい雰囲気のお店だったようです。
※ 济南人都知道这家书店,你还不知道吗?(济南人みんな知ってるこの書店。えっ?あなたは知らないの?)→GM.

▲阡陌書店。中国の若い衆がこういうとこを好むセンスになってきたんだなあ…と驚きつつ,昨日の世茂を思い出せばまあ当然か,とも思えてくる。

に济南市公安局市中区分局。長げーよ。
 16時半を回った。
 すぐに南に中山公園。

ここはどういう由緒の場所なのか

▲j3xw6。賑やかな路面です。

緯六路。「緯」シリーズの小道版らしい。1635。
 えっと…どう略すればいいですか?小(xiao3)だからxw6と略す。…ってそうまでして略すなって?
 北行。少し登り道。東に梅苑・珍珠大酒店。

▲同じくj3xw6からj4xw6辺り。家並みがややレトロになってました。

640,j4。左折西行。
 勘の示した通り,かなり好い界隈です。小雨の残る天候もあってか,乾いた雰囲気なのに潤いがあり,生活臭はあるのに端正な雰囲気。
 ただ,ここがどういう由緒の場所なのかは触れたものがヒットしない。現代,つまり解放後や経済発展後ではなく,近代,おそらく日帝実質支配時代の都市計画の一部のように思えるんだけど…。→概観:小レポ 济南事件

▲j4xw6交差点

西へ向かってすぐに济南市商埠文化博物館という洋館。蔡公時記念館ともある。あと,何とか基地にいっぱいなってて大変そうなとこ。→概観:小レポ 济南事件

▲「山東省愛国主義教育基地」──何じゃそりゃネタですけど,事実はとんでもない場所だったりする。

ぐ西,緯六路沿いに山東省眼科医院のデカい建物。
 この緯六路は太い車道です。このj-wエリアは東西に二分されてる格好。

▲どうしても「ギャートルズ」を思い出してしまう山東省眼科医院の表示。j4w6交差点南東角。

金徳利民快餐にて最後の長豆角食

6を渡る。1646。そのままj4西行。
 1652,W7。ここであの店があった!
1654金徳利民快餐
インゲン豆八角煮
黒々煮豚
キクラゲとキュウリとメンマみたいなのの卵とじ
白米飯22.5元550
 問題のインゲン豆(後日注:長豆角=ささげ)が…ここのは特に豆が異様に豆豆しい。──って何を言ってるのか分からんね。
 けれど,要するに豆の野菜味が異様に強い。素材が強いのか,やはり効いてる八角が強めてるのか,その辺は理解しきれない。この強さの代わりに後味は極めて自然だから,やはり八角なんだと思えるけど。
 とすると…同じインゲン豆なのに八角の使い方が異なる。またまた汁を最後に飯にかけて食べたから分かるけど,八角と香油はかなり効いてる。闇雲に味が強いだけでなくて,素材との融合度が高い,あるいは融合度をコントロールして,いわば豆の周波数に同調させるのに成功してる。

▲晩ごはん。j4w7交差点南西角。

公廟の店での感動の余波で取ってしまった煮豚。これへの八角の効き方は廟のと同じです。
 同じですけど,ここのは,特に赤身の部位に効く。それもじわりと芯まで染みてる。先味から後味へ,豚肉から入って八角に抜ける,この感覚が止められまへん。
 さてもう一品,複雑な卵とじ料理。実はこれこそ,八角の効き方としては本腰入ったものだったのかもしれません。
 元々非常に複雑な,それぞれに個性の強い素材の上に,八角が作用してる。その結果,個性それぞれが別々の影を引いて交差する。キクラゲは淡い茸臭さを,キュウリは癖のある青臭さを,メンマは淡麗な漬物の苦味を。
 それらが,何がどうなってるのか,口の中で焦点を結んでくる。全然付いていけない美味です。

■小レポ:蔡公時と济南事件

「蔡公時」を検索して驚いた。
 この人は济南事件の一場面とされる「中国人外交官・職員虐殺事件」で殺害された中国外交団のトップでした。
 それを端緒に,この1928年,日中戦争開戦直前の山東省を,青島に引き続きもう一度調べ直してみました。

[1898年]清朝-ドイツ帝国,独清条約締結。ドイツ帝国,膠州湾の99年間の租借権と山東省の鉄道敷設権を獲得
[1899年]ドイツ帝国,条約に基づく山東鉄路公司を設立
[1899年]膠済線着工
[1904年]胶済線(中国語:胶济铁路)開通
[1911年]第一次大戦始まる。
[1914年]日帝胶済線占領
[1922年]山東還付条約が中華民国-日帝間で締結,胶済線及びドイツ租借地の中華民国返還が約される。ただし,胶済線は日本への租借が同時に約された。
[1927年](昭和2年)第一次山東出兵(北伐を進める国民革命軍が日本人居留民の多い山東省に迫ったことによる居留民保護のため)
・同年末外務省調査:山東省の日本人居留民数は総計約16,940人,うち青島付近約13,640人,済南約2,160人
[1928年1月]第一次国共合作(1924年)により中止されていた北伐を蒋介石が再開
[同年5月]济南事件
(日本側見解)麟趾門街にある満州日報取次販売店の吉房長平方を掠奪,主人を暴行したため攻撃を開始(第二・三次山東出兵)
(中国側見解)中華民国外交部山東交渉署の向かいにあるキリスト教病院(城外商埠地)に入院した中国兵が殺害。続いて戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時、済南交渉公署職員8名、勤務兵7名、まかない夫1名、計16名の中国人外交官・職員も殺害されたため攻撃
[1937年頃]日中戦争下で日帝が胶済線再占領

 この推移の中で,この日に歩いた济南駅南側エリアはこういう状況の場所だったと推定されます。
・元々は,胶済線の济南駅の駅前街区としてドイツ帝国が「第二の青島」を企図し開発。(駅前に立つ山東郵電博物館(山东邮电博物馆)など。この建物は,建設当初は山東郵政長官官舎,日本軍が入ってからは軍司令官の官舎)
・この時期のドイツ街の規模は,济南事件端緒とされる殺害された民国外交官・蔡公時のいた山东交涉公署(经四路370号)建物もドイツ人の設計とあるから,今の緯6路辺りまでの東半分程度には広がっていたと思われる。
・日本が実効支配した1920年代には,現経二路~三路に日帝軍政官舎が増えた(領事館:経三路238号,軍駐在司令部:経二路162号など)。これに伴い,高島屋百貨店(済南出張店,戦前の3番目の中国進出店舗:経二路276号)など商業資本も進出。济南事件端緒となった満州日報取次販売店のあった麟趾門街(→済南清真南大寺辺りの回族地区の旧地名らしい)のように,j-wエリア南外縁まで日帝の「城下町」になっていた。
・济南事件とは,マクロの地理的ベクトルで言えば──このように青島から東方向へ進出し济南に至っていた日帝勢力地に,蒋介石の北伐に伴う中国の南北軍の戦線の北への後退ラインが重なったため,その三つ巴の混乱下で起きた虐殺及び戦争を指す。
・ミクロの地理で言えば──北伐軍は北軍を追って济南城(旧城)を占拠したのに対し,急派された日本軍は居留区であるこの駅南地域を警護した。ただし,日本軍3500人ほどに対し北伐軍は約10倍の兵力を保有。これが北伐軍側の一部の「ちょっかい」を誘発したという見方もある。
・再構成されたばかりの北伐軍は,各勢力の寄せ集めで統率が取れていない中,南京事件同様に情報戦で日帝への攻撃を意図する勢力も含まれていたとも言われ,インテリジェンス上は見せしめ又は口実作りとして行われた可能性のある日本人居留民や蔡公時ほか中国外交官の殺害が,この実質的な日本租界で展開された。
(この程度の堀りでも,「中国も虐殺した」論や「日本から手を出した」論はいずれも極めて浅い見解と分かる。なお,この半年前に似た構図で発生した「南京事件」(南京大虐殺)の性格も,それよりは少し史料の多い本济南事件から推考するのは有効なアプローチではないだろうか。)
・このエリアはそのまま日中戦争終了まで日本人街として20年強存続したことになる。なお,中国共産党が济南を確保するのは1948年9月(※維基/济南战役(中国語))。
・現在,蔡公時記念館が「愛国主義基地」になっているのは,この愛国主義教育の一項に抗日戦史学習が含まれているためで,济南事件を「五・三惨案」(5月3日の虐殺)と教えている中国では,この建物こそ歴史素材になっているから。HPには来館のべ15万人,うち青少年10万人とその実績が紹介されている。

※ wiki/済南事件/中国人外交官・職員「虐殺」事件
(1928年(昭和3年)5月)「3日夜、戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時、済南交渉公署職員8名、勤務兵7名、まかない夫1名、計16名の中国人外交官・職員が殺害された。」
「交渉員の蔡公時が耳や鼻を銃剣で削ぎ落とされて虐殺されたと吹聴して騒ぐ国民党軍の話を聞いた斎藤瀏少将は、あまりの事実歪曲と宣伝のうまさに呆れて、「支那人の宣伝上手にはよほど気を引き締めてかからないととんでもないことまで責任を問われるな。蔡は交渉公署に立てこもった敵兵掃討中に射殺されたに過ぎないんだよ。第一、銃剣じゃ耳や鼻は削げない。すべて宣伝さ」と発言している。」(原典:工藤美代子 『昭和維新の朝 二・ニ六事件を生きた将軍と娘』 ちくま文庫)
「「すべての感情偏見を捨てて熟慮したる吾人は挑戦者は支那側であり、彼らに多数の死傷者を生じ、北伐の前途危険に陥ったことは自業自得であると観察せざるを得ない。攻撃が蒋介石に反感を持つ馮玉祥側の陰謀に基因するか、または常に無規律にして給料不渡り数カ月に及び、済南占領で上気した南軍中の排日気分爆発であったか否か、いずれにせよ結果は同じである。南方がいかに巧妙に宣伝したとて世界は最近の支那の宣伝方法を知悉している」」(ノース・チャイナ・デイリー・ニュース)
「邦人虐殺数二百八十」(当時の朝日新聞報道見出し)

※ Record china/済南事件を目の当たりに見た歴史の証人,済南日本領事館跡を訪ねて
(場所:経三路238号)
「この付近は済南駅前の旧市街地にあたり、古い建物がいくつも見える。教会や郵便局日本軍駐在司令部(経二路162号)などもあった。経二路276号は緯五路と交差する東南角で現在公安局交通警察支隊(写真2)となっているが、ここは日本の
高島屋百貨店(済南出張店)の跡である。高島屋の海外進出は、1899年(明治32年)フランスリョンに始まり、中国は1905年(明治38年)に天津事務所、1938年の南京出張店に次いで1941年に済南出張店が開業した。」

※ 每日頭條/濟南蔡公時紀念館與老商埠博物館:銘記歷史,槐蔭尋埠
「蔡公時是江西九江人,早年留學日本,時任國民政府戰地政務委員會委員兼外交處主任、山東交涉員。在1928年春在震驚中外的「五·卅慘案」中遇難,其所在的山東外交交涉員公署即其殉難地。」
「館內展覽以「五·三慘案」和蔡公時先生事跡為主題。自2012年5月3日免費向社會開放以來,蔡公時紀念館已接待各界觀眾15餘萬人次,其中青少年達10萬人次以上,愛國主義教育基地的功能得到了充分發揮。」

※ 毎日头条/济南城内的德式浪漫,你见过吗?
「1904年6月,德国人修建的胶济铁路开通,济南奏请清廷自主开埠,造就了中国近代史上第一个对外开放的内陆“经济特区”。」
・徳華銀行:「建于1901年」「1906年济南第一家外资银行德华银行在此设立」「地址:市中区经二路纬二路东北角」
・山东邮电博物馆:「建于1918年,最初为山东邮政长的官邸,日本侵略时,被日军司令官霸占,后又作为山东省主席、“第二绥靖区”司令王耀武的住所。」「地址:市中区经三路77号」
・德国驻济南领事馆旧址:「该馆的前身是1902年设立的德国驻济南商办处。地址:市中区经二纬二路口西北角」
・山东民生银行旧址「建成于1932年,最初为山东省民生银行所在地,1938年该楼被日军霸占为领事馆。」「地址:市中区经二路纬三路交叉口的东南角」
・山东交涉公署:「19世纪末由德国人设计建造」「地址:槐荫区经四路370号」
・经四路基督教堂:「1926年落成,是济南最大的基督教堂」「地址:槐荫区经四路425号」
・齐鲁大学:「今为山东大学西校址和山东大学齐鲁医院院址。地址:历下区文化西路以南,经十路以北」
・洪家楼天主教堂:「建于1905年」「地址:历城区洪楼广场(山东大学老校南门)」
・小广寒电影院:「地址:市中区经三路48号」
・丰大银行:「始建于1919年,占地面积约500平方米,是济南老商埠区具有南欧巴洛克风格的“孤本”。」「地址:槐荫区纬六路27号」

※ 毎日頭条/老济南老建筑老时光,细品最美老济南风情!

※ wiki/膠済線(日本語)

■小レポ:济南の回族地区

 上記「济南事件端緒となった満州日報取次販売店のあった麟趾門街」を調べてるうち,济南の回族街について分かってきたことをまとめる。
 济南にイスラム教が入ったのは元代で,最初は城内南西角の歴山頂街にあったという。初日に通った按察司街の南延長線,世茂国際広場の西奥です。──迂闊でした。青州の清真の盛んな様から,この地での興隆ぶりも想像がつきます。
 城内での位置は,西安の東羊市(GM.→GM.)に似てます。
 そしていつの時代か記載がないのですけど,城外に移された。「後奉命撤寺」というのは何らかの迫害を受けて精神的支柱の寺を壊されたのでしょうか。
 移った先は,「永長街和西青龍街為主要幹道,與禮拜寺街、倉巷、小倉街、石棚街、麟趾巷、新街、土街、長春觀街、飲虎池街,斜街等街巷」という辺り。南北の清真寺は以下の場所に認められるので,要するにドイツ・日本街と旧城の間。つまり
          (大明湖)
┏━━━┳━━━┳━━━━━┓
┃ドイツ┃回族 ┃     ┃
┃・日本┃清真教┃ 老 城 ┃
┃新市街┃旧市街┃     ┃
┗━━━┻━━━┻━━━━━┛
          (歴山)
というのが,济南の町の基本構造らしい。
 この回族地区については,ホントに迂闊ながら今回は全く気付けてませんし,見聞してません。
 しかしこの感じ──異質な創造者がそれぞれに造った町が隣り合っている。やや広がりがありますけど,青島に似た感じです。

※ 毎日頭条/講述濟南老街巷的故事:麟趾巷
「歷經明、清、民國數百年的發展,這居住區的範圍東自五路獅子口,西至順河街,北起城頂,南到上新街、南新街,即今回民小區一帶。聚居區內以城頂、永長街和西青龍街為主要幹道,與禮拜寺街、倉巷、小倉街、石棚街、麟趾巷、新街、土街、長春觀街、飲虎池街,斜街等街巷相連成片,構成了西關特有的回民群落。」
「伊斯蘭教傳入濟南始於元代,至今已有七百多年的歷史了。教民先於舊城歷山頂街附近居住,並建有禮拜寺,後奉命撤寺,在寺址建鹽運使司,寺便遷到濼源門西,即禮拜寺巷清真南大寺址,廣大穆斯林亦跟隨轉移西關,這裡遂成了濟南回民的聚住新區。」
※ GM.:済南清真南大寺

※ 維基/济南清真北大寺
※ GM.:清真北大寺(東門)

※ GM.:歴下頂街

[前日日計]
支出1500/収入1720
負債 220/
[前日累計]
     /負債1339
§
→九月二十日(四)
[71西門~省府][72起風橋街~曲水亭街][73后宰門街~県西街手前]]
1033超意趣快餐
卵スープ,インゲン豆炒,白米飯8.5元370
[74県西街~省府再び][75省府~将軍廟街][76启明街~西城根街]
1408老济南薬膳把子肉
煮豚
血液ゼリー煮物
白米飯11.5元550
[77周公祠街~楽安街]
1450無糖月餅300
[78济南駅~j4w7]

1654金徳利民快餐
インゲン豆八角煮
黒々煮豚
キクラゲとキュウリとメンマみたいなのの卵とじ
白米飯22.5元550
[79J4w10からの帰還]
1902潼关肉夹馍
ビャンビャン面300
[前日日計]
支出1500/収入2070
負債 570/
[前日累計]
     /負債 769
§
→九月二十一日(五)

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