m19Bm第二十一波mテラの地に人はとどまる冬の月m3中城のテラ(ニライF67)

宮良そば東への脱出路

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
*宮良そば〜サンエー西原

良そばは330号線沿いなので,乗用車で来る人には何てことないんだろうけど,日本内地の道路感覚の人がバイクや自転車で訪れるにはなかなか苦労します。脱出が那覇方面ならR330を道なりでいいけれど,それ以外の方角へ向かうには何も情報がないと戸惑う。だから東への脱出路メモを残してみます。

宮良そばから浦添大公園前道路への経路

度も失敗したのは,宮良そばから浦添大公園への抜け道。
 1149,宮良そばすぐ裏の三叉路を,リサイクル市場看板が出てる南側細道へ右へ入る。
 1151,一つ目の三叉路を右折。右手に積載場みたいなとこの向こう,三本電柱があります。
 1153,ミラーのある三叉路を左折。ad当山一丁目9。
 道なりに進むと当山一丁目11の三叉路。1155,右折して車道を西へ下るとすぐに左手に浦添大公園入口が見えてきます。──ちなみにこの道路を東へ向かえば近そうなんだけど,道がないのか複雑なのか,必ず路地に迷い込んでしまいます。だから西へ。
 その向こうの沖縄紙業前の三叉路を左折。
🛵
159,橋を渡ったT字路を左折。園内橋をくぐると亀甲墓。これで前田高地北側下に出たことになります。もう三叉路は気にせずに進む。右側傾斜に集合墓地。
 この先で信号のあるT字路。これを右折すると陽迎橋通りという片側3車線の広い道路が西原入口交差点へ続きますが──この高台の交差点でまた方向を見失いやすい。右折で浦添中心部へ前田高地南から帰る道。直進すると運玉方面。左折で西原方面。
 1216,なので左折。──ところがこの時は全面通行止め?一つ前の高架下へ強引に戻って左折。
 あとは道なりに走る。1235,小那覇交差点右折。国道329号,サンエー西原前。

Xへ

🛵
津覇というところで強引に右折。1247。北浜とある方向へ。小さな川沿いです。
「堅龍寺」と矢印のある十字路を左折北行。
 1253,事前にプロットしてたXが近づくと「中城村指定文化財 津覇のテラ」という表示が現れました。畑地のど真ん中としか見えない場所なんだけど……その指し示す細道へ,とにかく入る。

覇と安里のテラ
〔日本名〕沖縄県中頭郡中城村津覇付近
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-

▲1254津覇のテラへの道

歩立ち入って,これまで訪れた御嶽との違いに気づきます。
 威圧感を感じない。
 例えば前頁の伊祖城の「心して入るべし」といった佇まいを,全く持たない。野道のような軽妙さを感じる参道です。

津覇のテラ:押明キヤウ笑キヤウ スンキヤウ笑キヤウ

▲津覇のテラ正面

にかかった字は「津覇乃寺」。
 テラの漢字にはやはり「寺」を当てるらしい。それを和えてカタカナで表示するのは,地元感覚に「アレとは違う」というものがあるのでしょう。

▲神体の石

の中には様々な形の石六つと鏡。
 由来記の表示は──

約四百年前にカマドゥ勝連という人の先祖が霊石を権現としてまつるためにお宮を建立したのがはじまりといわれております。

 別に,村の表示もあります。「霊石と崇められている8つの自然石」と書かれていて──

『琉球国由来記』(略)によると神名は,『ヨヤゲセジヨヤゲツカサ』『スデル君ナシ』『押明キヤウ笑キヤウ』『スンキヤウ笑キヤウ』で(略)中城村周辺に多く分布する霊石(ビジュル)信仰の性格を知る上で学術上貴重なものとして

 何というか闇を感じない。吹っ切れた信仰の手触り。

(GM.航空写真)津覇のテラの鳥観

なみにここを航空写真で見ると,上のようになってます。
 当時ここに注目したのは当然で,田畑と住宅地ののっぺりした土地に,完全なヘソ状の森を確認できます。
 他の御嶽と違うのは,森を削った空間がやや広いこと。ヘソというより鍵穴状です。参道部も今から見ると非常に広いスペースが取ってあります。

▲中城のテラへの道路風景

安里のテラ:笑キョ,押明ガナシ,イベヅカサ,寄キヨラ

し北東へ。
 1314,安里のテラ。

地元では『ティラ』と呼ばれ,社祠所には四体の霊石が祀られている。『琉球国由来記』(略)に,神名は『笑キョ,押明ガナシ,イベヅカサ,寄キヨラ』とされ,神体は権現の御告げで掘りだした三体と,海から漂着した一体であることが記されている。

▲2つ目のテラ外観

ィラ」という別の表記というか発音が出てきました。
 津覇の神体も同じでしょうか。掘り出されたり流れついたりした,何だか神々しい石を祀ってある……だけといえばだけなのです。
 しかも安里の方には森さえない。平地の緑地ブロック,という……だけといえばだけなのです。

▲テラ西正面

体四体は,どれも形が全く違う。どう神体を選んだのか見当もつかない。
「北の寺は昔から打ち紙は入りません。」と管理人手書き。──津覇のテラは「南の寺」なのでしょうか。

▲焼香壇

お,うち左手一体だけが別の祭壇に祀られます。
 津覇の案内板にはビジュル信仰との関係が匂わせてあったけれど,安里のを見る限りどうもビジュルっぽい形状(チンコ形)ではありません。
 細かい違和感は数えていくときりがない。

▲神体の石

グラウンドかグランドか

344,渡口交差点右折。ここに、最強食堂あるのね。
 1355,まるながに着くも……やはり遅かった!「骨は12時頃なくなりましたね」とおばちゃんがニヤリ。ううっ!
 もう口が骨の口になってるので,沖縄市へ急ぐ。
 一丁目ストアが逆の場所に建てかわってる。
 通りの名前は「グラウンド通り」と,やはり「ウ」が入るらしい。もう地図も見ずに坂を下っていきまして──

▲久々のグランド食堂でやはり骨

」はこっちには入らない。
1417グランド食堂
骨汁550
 ここは変わらんなあ。ここに骨汁がなかったら,チャンポンとか頼むんだけどなあ。いつ来ても骨汁あるからなあ。
 もう20回来ているかもしれんけど,骨汁しか頼んだことがない。というかここで骨汁を初めて食べたんだから。
 一度来た骨を「ごめん,あっちだった」と引き取られる。こういうのもここゆえです。

(ニュース)宮良そばがとうとう骨汁のレトルトを出したらしい。

った有名店を食べ歩いたせいか,このごく普通,おそらく本来の骨汁が凄く染みた。
 味噌汁に骨を入れて,スープにはそれほど脂が染み出てはいない。肉も脂ぎってない。茹で肉,もしくは髄を食ってるような渋い肉料理です。汁もやはり味噌汁とは微妙に違い,脂ではない肉の香をじんわりと纏う。
 骨汁の本来──元々これは中部の下層の庶民料理だったはずです。そば屋で出るのも出汁を取った残り肉を食べる工夫だったでしょう。
 ただなかなかこういうB級骨汁って探せないんだよなあ。
 15時頃には常宿・ホテル赤坂に入ったけど,ここの居心地ゆえか骨の満腹感か,ひとしきり爆睡してしまいました……がっ!

コザ的な あまりにもコザ的な

▲南山の山羊汁

とよもぎは普通に?」といつものように訊かれたから,よもぎを,のつもりで「はい,多い方が」と応えると厨房で「山羊,大,脂多め!」と声がしたけどあの臭い脂…大丈夫か?
1803やぎ料理南山
山羊汁550
 いや?──これはものすごい旨さだぞ?
 人によってはものすごい臭さ,というのかもしれないけれど,独特の脂が汁に溶け,よもぎの香気もあってか強い味なのにさらりとしてる。ご飯というより……確かに酒に合いそうな味覚です。
 確かに,というのは隣衝立の向こうで三々五々おじいが集まりつつある。えらく他愛もないことでけたたましい笑いをあげてるとこを見ると,既に相当出来上がってます。
 ここに28歳山梨出身と名乗る男が15分ほど顔を出す。移住組らしい。地元の長老格のおじいなんだろか。山梨男は話を合わせるような口調で合わせ笑いをして去る。ないちゃーも大変だなあ。
🛵
の南山前の道,ライカムから胡屋交差点へ抜ける迂回路として機能し初めてるらしい。交通量はえらく増えてる。
 まっすぐ北へ抜けて胡屋交差点からさらに北へ。
 間違えた!美里大通りからA&W過ぎてから十字路を左だった!
1905jimmyうるま店
ジャーマンケーキ250
 このジミーまでの道(GM.:具志川環状線)は,何と言うか,コザ的です。左右に行方も知れぬ幾つものの横路を伸ばしアップダウンしつつ外来のいくつもの郊外型店舗を過ぎる。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
*A&W美里店〜JIMMYうるま店

■レポ:それで結局テラって何?

──という思いが,訪問時の印象が如何に清々しかろうと残ってしまうのが知識に侵された愚者の定めでございます。
 この時から,一つ,また一つと雫の垂れるような,周辺情報……かもしれない事々を列記してみます。

沖縄絶滅危惧古語「てら」「てぃら」「うてぃら」

「てら」は別に不思議でもないのです。意味はほぼ「寺」と重なる。明らかにしたいのは,重なるのになぜいまなお「てら」と差別化しようとする意識が働くのか?です。

ティラ(てぃら)
または:ウティラ
意味
1_寺
2_お寺
3_寺院
4_祠
耳にする度 使用頻度2
詳しい人は知っているかもしれないけど、沖縄でも殆ど使われない方言。[後掲あじまぁ]

 これによると,うちなーぐちはうちなーぐちだけど,酷くマイナーなものらしい。
 また,「てら」は「てぃら」又は「うてぃら」とも呼ばれる。これが正しく,かつ当字の「寺」の日本語呼称「お寺」からの逆輸入的な変化でないとすれば,うてぃら→てぃら→てら
と単純化してきた可能性があることになります。
*なお,後掲「おきなわ物語」には本文中の安里のテラも,地元では「ティラ」と呼ばれるとの記載がありました。

中城以外の「てら」

 それほど頻度は高くないけれど,「てら」の名を冠するウガンジュ(拝所)は本島中部にいくつかあるようです。(前掲あじまぁは「てら」の挿絵に崇元寺入口の写真を掲げており,ここもそう呼ばれているかもしれません。)

浦添市牧港の「テラブのガマ」

牧港テラブのガマ(洞窟) [市指定史跡]
地元では方言で「ティランガマ」とも呼ばれている自然洞穴です。この洞窟には伝説があり、伊豆大島に流刑になった源為朝が、潮流に流され沖縄に辿り着き、そこで大里按司の妹と結ばれ子供を授かりますが、源為朝は、ひとりで故郷へ戻ってしまいます。幼い舜天と母が源為朝の帰りを待ち続け、牧港の地名は「待港(まちみなと)」に由来するという説もあります。現在も「御嶽(うたき)」(祈りの場所、聖域)として信仰を集めています。[後掲浦添市]

 為朝伝説を真に受けると全く関係ないイメージになるけれど,為朝に拘らない観点から池宮さんが地名を論じたものがあります。

浦添市牧港にティラプヌガマがある。ティラプのガマであるが、ティラプがここでは問題である。わたしは、ティラとアプから出来ているのではないかと考えている。「ティラ」はこれも、列島の各地にある洞穴で、神事が行われるところが多い。本土古代に中国から招来された「寺」を、ジではなく、「てら」と訓じたのはどういう訳か。沖縄の「ティラ」(しばしば寺があてられている)はこれを解く鍵になりそうである。アプも穴や深い溝.淵を意味している。つまり、ティラ・アプ・ガマと似たようなことばを連ねたもので、意味を忘れるとこういう現象がみられる。古事記「ひら」が坂を意味することは、つとに有名である。[後掲池宮]

 一つ議論が進んできます。中国文化に近く中国仏教も早く入ったはずの沖縄で,「てら」がもし仏教由來ならば,音読みの「じ」(現代中国読みならば「すぅ」)であるはずで,日本語訓読みの「てら」になるはずはないのです。
 もう一点,「てぃら」≒「あぶ」≒「がま」という捉えと,そういう同語反復名称の文化環境として,それが同語反復でおかしい,という感覚が失われた,つまり「意味を忘れ」られた言葉について起こる,という指摘です。これも先の,「てら」の語義が古語独特とする観点を補強します。
 なお,この場所に後に訪問した時の記録へのリンクを参考に掲げます。

北谷町砂辺村内原の「てぃら」

(北谷町砂辺村内原49番地)
 砂辺区公民館の西側には、ティラと呼ばれる拝所が在る。古老の話によれば、この拝所は往時の寺の跡、あるいは、「中北山時代」(1187から1322まで)に今帰仁按司の子千代松が、難を逃れて過ごしたティラであるという。
 現在、この拝所へは旧暦9月15日に、ティラメー(テラ参り)と称した参詣を行う。[後掲北谷町HP]

読谷村のティラのゴウ内部図面(愛媛大探検部測量)

読谷村都屋の「てぃら」

 都屋集落のはずれ、漁港の南東近くに「ティラのゴウ(壕)」と呼ばれている洞窟があります。そこは、芝生の広がりとモクマオウの木立がある中央部に垂直に口を開いた天然の鍾乳洞なのです。(略)ここは地元都屋の拝所となっており、毎年旧暦9月18日には「ティラ拝み」といってお参りしています。
 言い伝えによりますと、昔、中・北山の乱に際して落ち延びた按司一族が身を隠した所だとされています。[後掲読谷村戦跡めぐり]

 その他,今帰仁歴史文化センターのお知らせ頁に辺名地の歴史ツアーのコースとして「ウティラグンジン/崖中腹の墓」という記述がありますけど,これは全く他のヒットがなく未確認です。

中城村登又の「ギイスのテラ」

 ぼんやりと,以上の本島中部西海岸の「てら」は,東海岸の中城のものとどうも手触りが異なります。どれも,現・御嶽の感じでおどろおどろしくなる。
 西海岸の他の「てら」も見てみます。

添石村に住むマス島袋という人の先祖が、村の上洞に霊石を安置し、祭祀を行ったのが始まりとされています。神名は「ギイス森、ナンダイボサツ」と記されていますが、由来などについては当時から明らかではなかったようです。
現在の地番は登又ですが、もともとは添石の拝所です。「夜半前(ヤハンメー)御嶽」とも称されています。[後掲中城村]

北中城村渡口の「ティラ」

渡口は北中城高校の裏手にある畑地にあって、国道329号から細い路地を入った場所にあります。(略)
安里のテラが瓦葺きの屋根を持つのに対してこちらには石積みの屋根になっています。
屋根の頂上に宝珠を乗せているのが特徴となっています。
内部の正面にニービ(砂岩)の霊石が4つ置かれています。
[後掲 沖縄の裏探検]

渡口のティラ 祠内部

渡口のティラは和仁屋間(わにやま、今の読み方は、わにま)の寺、浜崎の寺、テラモーヌメー、ワナマヌティラ等と様々に呼ばれています。
琉球國由来記には『和仁屋間神社』と記されています。中の霊石は『推明旧(おしあけきょう)』、『笑旧(わらいきょう)』、『威部司(いべつかさ)』、『寄旧加那志(よりきょうがなし)』という神名となっています。(略)
渡口では旧暦9月9日にクングヮチャーとして拝されており、隣の熱田(あった)集落では旧暦6月25日にウハチ(御初穂)に拝されています。
流れてきた石が妊婦の形をしていたというところからきたのか、子宝祈願や子孫繁栄として各地からも参拝者が多いという事です。[後掲 沖縄の裏探検]

 神名がやや津覇に似ていて,「笑きやう」(笑旧∶わらいきょう)などは重複します。
 でも両者とも平地の眺めのよい場所に置かれて,翳りがない。

共通項∶「北山」「9月」「洞窟」

西海岸の「テラ」のいくつかに共通した事項を横軸に,ここまで見た7つをクロス表に落としてみます。
ーーーーーーーーーーーー
 a)北山 b)9月 c)洞窟
ーーーーーーーーーーーー
(中城)
津覇△(勝連)ー ✕(平地)
安里 ー  ー ✕(平地)
登又 ー  ー  ○
(北中城)
渡口 ー  ○ ✕(平地)
(浦添)
牧港 ○  ー  ○
(北谷)
砂辺 ○  ○  ー
(読谷)
都屋 ○  ○  ○
ーーーーーーーーーーーー
 9月の祭祀が多い。この時期は,沖縄では「カミウガミ」(神拝み)という聖地巡礼の時期です。「東廻り」(あがりまーい)と「今帰仁上がり」(なちじんぬぶい)が有名なコースです。
 洞窟かどうかは,地形の違いでしょう。東海岸には洞窟が少ないけれど,地形に係わらず「てら」の発生要因は同様にあった,ということになります。

安里のテラは沖縄における霊石信仰や洞窟を伴わないテラの形式を知る上で貴重なものとして沖縄県の有形民俗文化財に指定されています。[後掲おきなわ物語]

 そして西海岸の「てら」には,由緒を北山と伝えるものが多い。

試論:「てら」北山落ち武者村説とその矛盾

 北山由緒は北谷砂辺の「てぃら」が最も明瞭に伝えます。
 中山王国の第一尚氏の実質初代・尚巴志が1406年(1416年)に北山を「滅ぼした」というけれど,ここでいう北山とは諸勢力の群雄割拠する「エリア」に近かったらしく,砂辺に落ちたと伝わる「今帰仁按司の子千代松」の時代(中北山時代:12C末〜14C前半頃)はその争奪戦が最も激化した時期です。
 当時の沖縄本島の軍事・政治・経済の中心は,完全に山原,今帰仁や馬天にあったと考えられます。
 その落ち武者勢力が,周辺に落ち延びては再起を図って今帰仁を奪還する,というのが中北山の歴史です。その際,仮住まいとした場所が後に「てら」として拝まれる,という北谷パターンは「てら」共通の事象ではなかったか。──つまり「てら」を核とした開拓村が中部から南部に次第に広がって,その中の(おそらく前期倭寇を引き込みその軍事技術を吸収した)一つが後に沖縄を統一した。
 北山が尚氏に糾合されてからも「再興」を期する集まりが年一度の恒例化し,カミウガミとして信仰化した。
 ただ,その図式だと西海岸のものはある程度説明できても,東海岸がこれと差別化した信仰に発展したことまでは汲み取れません。東に落ちた勢力は土着を志向したけれど,西のそれは攻撃的で永く再起を志向していた,と考えることもできますけど,根拠はありません。
 なので,本稿では結論にはたどり着けていません。

「うてぃら」ん:落ちない

 ここからは,議論を発展できそうな言語学上の知見を紹介して,締めに代えます。
 翻って,そもそも日本語の「寺」が何に由来するかというと──

礼拝所の意の朝鮮語chyölからとも、長老の意のパーリ語theraからともいう[後掲goo辞書]

 chyolよりはるかに「thera」の方が発音は近いのは明白なのに併記されるのは,なぜ小乗仏教と関わりの深いパーリ語なのか,という点に疑念が残るからでしょう。[後掲wiki]
 例えば,仏教の衰退原因になった大乗・小乗の分裂(根本分裂)は,サンスクリット語でスタビラ・バーダSthavira‐vādaと呼びますけど,パーリ語ではテーラ・バーダThera‐vādaです。[後掲世界大百科事典]だから小乗仏教の英訳はTheravada Buddismです。
 これらの用法の「Thera」は,長老とか指導者を指すらしい。
 これが「寺」の音の語源とすれば,仏教的共同体の長老が宗教指導者に転用され,後にその活動根拠を指すようになったことになります。
 だから「てら」の初期のパーリ語そのままの語彙,「長老」又はその居場所を前提にするなら,北山から落ちてきた指導者とその住まう家屋を「テラ」と呼んだことに違和感はない,ということになります。

沖縄古語に見る「うてぃら」

「てら」又は「てぃら」の2音節ではヒットが多すぎるんですけど,一部に残る「うてぃら」の音にはやや有意な反応があります。

ウティラウティラ[ʔu⸢ti⸣raʔutira]▶副 落ちそうになるさま。今にも落ちそうになる。落ち零れそうになる。
ウティルン[ʔu⸢ti⸣ruŋ]▶自動 落ちる。落下する。「落ちる<上一段>」の転訛したもの。
ウティルン[ʔu⸢tiruŋ]▶他動 鍋、釜、湯沸し(薬缶)などを竈の火の上から下ろす。火のある竈から鍋、釜、薬缶類を移動させる。移す。[後掲鳩間方言音声語彙DB]

 日本語の「落ち武者」のような用法で沖縄語の「落ちる」が使われるかどうか,少し疑問が残るけれど,「落ちる」の活用に「うてぃら」が用いられることはあるらしい。
 つまりこれは,北山の中央政界から「落ちて」きた者を指すのではないでしょうか。

伊是名村諸方言(字伊是名方言、字勢理客方言)の動詞活用資料
熟したら、木の実は自然に落ちる。:ウモー キーヌ ナイヤ ナンクル/ドゥーヘー ウティーン/ウティタン。
青い実は木を揺らしても、落ちない。:オーサヌ/オーハヌ ミーヤ ウージャンティン、 ウティラン。
木を揺らしたから、落ちた。:キー ウージャトゥ ウティタン。[後掲シマジマのしまくとぅば]

沖縄県伊江島方言の動詞活用の資料
熟したら、木の実は自然に落ちる。:ウメー キーヌ ナイヤ ドゥシ ウティユン/ウティユツァ。ジュクーツェー キンナイヤ ドゥシ ウティユン。
青い実は木を揺らしても、落ちない。:オーナイヤ キー ’ウーティン ウティラン。
木を揺らしたから、落ちた。:キー ’ウータトゥ ウティタン。[後掲シマジマのしまくとぅば]

うるま市宮城島方言の動詞活用資料
熟したら、木の実は自然に落ちる。:ツンードーレー キーヌ ナエー ナンクル  ウティーン。
青い実は木を揺らしても、落ちない。:オールーナエー キー ンズカチン ウティラン。
木を揺らしたから、落ちた。:キー ンズカタクトゥ ウティタン。[後掲シマジマのしまくとぅば]

 想像を逞しくするなら,「うてぃら」のさらに以前は「うてぃらん」,落ちない,つまり「落ちた我々は滅びずに再起を期すぞ」という決意表明だったのかもしれません。

「照屋」姓との関連

 もう一つ,音の連想で出てくるのは沖縄に独特の姓「照屋」です。
 姓としては,全国に12千名。うち沖縄県が10千名余。2位以下にも東京・大阪周辺がほとんどで,これを移住者と見ると,ほぼ沖縄にしかない姓と考えていい。

照屋姓の沖縄県内分布図(なまえさあち/小地域別)

 地名としては,3件が認められます。

①沖縄県島尻郡南風原町照屋発祥。琉球王国時代に記録のある地名。琉球音はティーラ。
②沖縄県沖縄市照屋発祥。琉球王国時代に記録のある地名。琉球音はティーラ。同地に分布あり。
③沖縄県糸満市照屋発祥。琉球王国時代に記録のある地名。琉球音はティラ。同地に分布あり。[後掲日本姓氏語源辞典]

 何れも古い。そして何れも,琉球読みは「てぃら」です。
 武家や王族の出身記録がないため,消去法的に庶民出身姓と考えられるけれど,一部に北谷王子の末裔という伝えがあるらしい[後掲なまえさあち]。
 北谷王子は英祖四男とされ,大村御殿に住んでいます。中国で法術・妖術を会得し当時首里にいた黒金座主という悪僧が悪さをするので,英祖二代・大成王が弟・北谷王子を呼び,碁の勝負の末,なぜか黒金座主の耳を落とした上で殺してしまう。憤死した黒金座主の呪いから,北谷王子の家系には男子が育たないから以後男子が産まれても「うふいなぐ(良い女子)が生まれた」と言うようになった……という話が,照屋姓にも伝わっているらしい。──ちなみに,歌詞を知ってる人ならお気づきの通り,この黒金座主をモデルにしたのが民謡「耳切坊主」[後掲首里あるき]。
 ここまで見た「てら」≒長老という観点からすると,その名前が拝所だけでなく地名や姓名に残ることも同様にあったのではないかと考えられないでしょうか。
 また,尚王朝が神代との梯子として記述する英祖王朝の実態がそもそも北山亜流系の本島中部移住者集団だったなら,妖術僧との対決を強要されることで兄に半分殺されかけた「第四王子」というのも,要するに本島中部の開拓指導者だったようにも思えます。

参考資料集

*あじまぁ/ティラ(てぃら)とは | 沖縄方言辞典
*池宮正治「沖縄ことばの散歩道」おきなわ文庫, 2014
*wiki/上座部仏教
*浦添市/ 牧港テラブのガマ(洞窟) [市指定史跡] | うらそえナビ
URL:http://www.urasoenavi.jp/kankou/2013010900176/
*沖縄の裏探検/渡口(とぐち)のティラ
URL:https://ameblo.jp/quox-umiyamagusuku/entry-12375667428.html
*おきなわ物語 沖縄観光情報WEBサイト/安里のテラ(県指定有形民族文化財) |
URL:https://www.okinawastory.jp/spot/30000098
*goo辞書/てら【寺】 の解説
*シマジマのしまくとぅば1 危機的な状況にある言語・方言のアーカイブ化を想定した実地調査研究,令和元年度
/伊是名村諸方言(字伊是名方言、字勢理客方言)の動詞活用の資料 當山奈那
/沖縄県伊江島方言の動詞活用の資料 狩俣繁久・島袋幸子
/うるま市宮城島方言の動詞活用の資料 中本謙
*首里あるき(監修:NPO沖縄伝承話資料センター)/むぬがたい:耳切り坊主
URL:http://shuri-aruki.jp/folklore/mimikiri.html
*世界大百科事典,株式会社平凡社
←コトバンク/Thera-vāda (英語表記)Theravada
URL:https://kotobank.jp/word/Thera-v%C4%81da-1239360
*北谷町公式ホームページ/ティラ 
URL:https://www.chatan.jp/smph/haisai/rekishi/bunkazai/uganju/teira.html
*中城村|有形民俗文化財 テラ|心豊かな暮らし~住みたい村、とよむ中城~
URL:https://www.vill.nakagusuku.okinawa.jp/detail.jsp?id=53508&pageStart=0&menuid=11696&funcid=2
*今帰仁歴史文化センター/20期 第7回 「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ(平成24年12月8日 土:開催)
URL:https://yannaki.jp/20kimurasimakouza.html
*なまえさあち/苗字 照屋の由来
URL:https://name.sijisuru.com/Roots/fname?fname=%E7%85%A7%E5%B1%8B
*日本姓氏語源辞典/テルヤ 【照屋】
URL:https://www.google.com/amp/s/name-power.net/a/fn/%25E7%2585%25A7%25E5%25B1%258B.html
*鳩間方言音声語彙DB
URL:https://www2.ninjal.ac.jp/hatoma/6.html
*読谷村の戦跡めぐり/10 ティラの壕
URL:https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/senseki/map/guide/guide10.html
*レキオ・島唄アッチャー≠/北山王国をめぐる興亡、その3〜6
URL:http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-9c17.html

「m19Bm第二十一波mテラの地に人はとどまる冬の月m3中城のテラ(ニライF67)」への1件のフィードバック

  1. Do you mind if I quote a couple of your articles as long asI provide credit and sources back to your website?My blog site is in the very same niche as yours and my users would certainly benefit from some of the information you present here.Please let me know if this okay with you. Thanks!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です