喃語聞く神屋 水臭う九月
※※中の句「水濃く匂う」も可
※※※選考∶「濃く」に推敲の余地有
②七月や背に喃語を聞いており 立教池袋
[前日日計]
支出1300/収入1000
▼13.0[365]
/負債 300
[前日累計]
利益 -/負債 614
九月二十四日(六)
0914あやぐ食堂
牛肉炒め650
1120宮良そば那覇店
赤骨汁(カムジャタン風)500
2000琉球かりんとう250
[前日日計]
支出1300/収入1400
▼13.0[①001]
負債 100/
[前日累計]
利益 -/負債 514
九月二十五日(天)
▼▲
ベランダには確かに雨粒が残る。
降水確率は名護70%,那覇50%。那覇の降水は7時代まで,その後3時まで曇。雷警報が出ている。荒天らしい。
最後まで35km自主規制を徹底してまいります。
0758出発。
0811山川交差点。左折してみよう。桃原本通り。
0817知念商店前に少し停めてみる。ああ,思い出した。ここが以前来た加良川(F63-3)になるのか。南側にはゆいレールが見える。前回徒歩で南側へ降りたので北側へ。
祈りの痕跡はないけれど,西側駐車場に切込積が残る。0824
ゆいレール儀保駅を過ぎた。石嶺本通り。やはりここでにわかに緑が増す。
北森を左手に見て過ぎ平良交差点。左折。次の三叉路でやはり左の道へ,そこからは道なり。
3台の乗用車の裏にしっかり亀甲墓。0835。
大名町自治会掲示板。この前に左折道があったはずだけどやむを得ない。掲示板向こうに左折,回ってみる。
歩きでしか行けなくなった。バイク停めて防虫スプレー。
物凄い密度の墓地。古墓も混ざる。
0845北方向撮影。
回り込むと野道になった。
0849あった。左折。入口右手にシーサー。
0851古墓?いや,洞窟?
0852岩場を抜ける場所。神域です。
古墓の右手にさらに階段が続いているけど──
北側路側に「南の坂」(ふぇーぬひら)案内板
この坂道は尚質王時代につくられた歴史の道です。(略)首里大名町自治会〔案内板〕
平良交差点直進のあやぐまでの道は地図上では連なっているんだけど,交差は複雑だわ対抗車は多いわでなかなか凄い。これは車道の方が早い。
──「あいさつ通り」という表示を見て思い出しました。ここあやぐ初回辺りでパニクった路地です。
0914あやぐ食堂
牛肉炒め650
天ぷら定食もABランチも姿を消した。他の客の麻婆豆腐みたいなのが気になったし,昨日食ってなきゃゆし豆腐定食だけど──あえて山原的なコレにしてみました。
おおっ,とかなり前田チック!
食ってるうちにまた,ささっと降る。おばちゃん方も「変な天気ねー」と言っております。
0957ゆいレールの右折する経塚の交差点で左折。ロスタイムに入る。
ファミリーマート前の三叉路右折。1010。
経塚交差点直進。
バス停第一沢岷。やはり何とはないのに異様な土地です。
右への湾曲手前で右の脇道へ。
ad.沢岷一丁目39。右折してさらに登る。
1017那覇側遠望。突き当りを右折。▼▲
平成三十年付けの「御先祝女神墓」
右脇に階段。階段上で猫が見張りを続けてる。
目録
□閑話休題:変な那覇▼▲



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■レポ:今あやぐ食堂,昔あんにゃ村
あやぐで食った後,いつもタバコを吸うローソンの前の道端に,行脚村跡(アンニャムラアト→GM.∶地点)という小さな碑がある,と後に知りました。
安仁屋村とも書くようですけど,まず当て字です。ここにはニンブチャー(念仏者)又はチョンダラー(京太郎)と呼ばれた人々※が居住したという。〔後掲那覇市歴史博物館〕
※当面,用語の統一上,「念仏者」を用いる。
それだけなら,これほど悔しがることもないんだけれど──この人たちこそ沖縄エイサーを典型とする沖縄人の身体に染み付いた舞踏の直接の祖,という説があるのですから,もう悔しいったらありゃしない。
存在証明∶首里久場川村の行脚屋敷
18世紀初頭に作製された「首里古地図(しゅりこちず)」には、首里城の北東、久場川村(クバガームラ)(現首里久場川町(くばがわちょう))の東端に「行脚屋敷(アンニャヤシチ)」とあり、1945年(昭和20)の沖縄戦に至るまで、ニンブチャーの頭(かしら)(勢頭(シードゥ))一族が居住していたという。〔後掲那覇市歴史博物館〕
正確に言うと,久場川にあったのは,念仏者のリーダー層の定住地だったようです。史料上の実証として,この「行脚屋敷」の四文字を「首里古地図」にまず確認しておきます。
「首里古地図」は,琉球王朝の役所・平等所(読み∶ふぃらじゅ。首里の番所)で使用されたものと推定されています〔東恩納寛惇〕。
一定の期間に書き継がれた地図と推定されるため,製作年代の推測は複数の説があります。(代表的なものでは,東恩納寛惇∶1702年~1714年説,嘉手納宗徳∶1703年~1707年説,真境名安興∶1715年~1732年説など)
原図は廃藩置県後,旧首里市役所に引継がれ保管されていましたが,沖縄戦時の空襲で焼失。戦災を逃れた複製で現在確認されるのは,東恩納寛惇が絵師(具志)に1910年に委託複製した原寸図のみ。
ガラス乾板では,おそらく原図を鎌倉芳太郎が撮影したと推定されるものが残ります。〔後掲沖縄県立図書館〕
後掲沖縄県立図書館がネット上で公開しているものは東恩納寛惇文庫蔵(資料番号:1001999380,227×330cm)ですけど,高精度拡大できる部分が限られており,残念ながら「行脚屋敷」部分はそれに含まれていません。なので,原図から取ったと思われる次の図を挙げます。
伝承∶アブジャーマー男原型
念仏者たちの人数規模はよく分かりません。下記のような記述は,おそらく沖縄県人定住者の視線に映って伝えられたものでしょう。
ニンブチャーは、正月やお盆、また、法事がある家々を回って、祝い歌や念仏歌を唱え、時にはフトゥキ(仏)と称する人形を携え、人形芝居を演じる門付(かどつ)け芸を行った。葬儀の時には、ニンブチャーが呼ばれ、朝から鉦鼓(しょうこ)を打ち、葬列に加わって、墓前で念仏歌を唱えた。葬儀に僧侶を頼めない時は、ニンブチャーが代わりを務めたという。
ニンブチャーが唱える念仏歌や、チョンダラーの芸は、七月エイサーや組踊・歌劇などに取り入れられ、琉球・沖縄の芸能の発展に大きく寄与した。〔後掲那覇市歴史博物館〕
映画「ナビィの恋」に山里勇吉演じる「アブジャーマー男」という謎の人物が登場します。おばあ(ナビィ∶平良とみ)のセリフに「この頃はよく宴会なんかに呼ばれて唄ってるみたいよ」と語られる,この人物のような立場の人々が,一定規模で存在していたことになります。
けれど,盆踊り※のような祭礼時のほか,葬祭時の看取りにも必須だったというのは,日本内地の浄土宗系念仏者とイメージが重なります。
※沖縄のエイサーはもちろん,日本内地の盆踊りも,中国の普度に通ずる異界とのボーダーでの所業と考えられる。ただし沖縄・日本圏で特徴的なのは,大人数での舞踏の形式で,元は共に中世の念仏者の集団舞踊と想像される。
※上記は念仏者の看取りに限定したが,後掲網野では例えば次のようや多様な業種・生態の非農業定住民を扱っている。河原者・童・刑吏・芸能民・箕作・バサラ・鋳物屋・牛飼い。職の社会的未分化な状態では,非農定住以外の「その他」は無数の形態があってむしろ当然である。
ただ,ここでこの「異類異形」者群を網羅しようとすると「異形の王権」〔後掲網野〕とこれに連なる膨大な民俗データの世界に入ってしまう。沖縄だけで見ても,念仏者や京太郎に関する同データは相当量の蓄積があります〔後掲坂本など〕。
ここでは,データのトレンドを2点書き出すにとどめます。一つは,現在京太郎の流れを受継ぐ泡瀬京太郎などの本島各地の芸能が,名前の通りの①京都からの流転伝承のほか②首里寒川を起源と伝えていること。
泡瀬の京太郎は,首里の寒川芝居で上演されていた舞台芸能を役者であった冨里のターリーから喜屋武盛宏さんが習得し,泡瀬の若者に教え,保存継承されてまいりました。
泡瀬では明治39年,葬儀に使われる轟(ガン)の仕立祝に,余興として京太郎が始めて上演されたのであります。〔後掲沖縄市教委「泡瀬の京太郎」中「報告書発刊によせて」泡瀬京太郎保存会会長〕
もう一つは,京太郎の伝播が近年非常に激しく,かつ地域差が大きいことです。
これらから,
a)琉球王朝と何らかの結びつきを有し,琉球処分後に拡散したと推定されること
b)地域差の傾向を大まかに見ると,海港を有する地域に根付く傾向があること
がぼんやり読み取れるようです。
舞踏∶沖縄化した念仏踊り=エイサー
本国念仏者、万暦年間、尚寧王世代、袋中ト云僧(浄土宗、日本人。琉球神道記之作者ナリ)渡来シテ、仏教文句ヲ、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ。是念仏ノ始也。〔琉球国由来記巻4〕※下線は引用者
袋中上人(たいちゅうしょうにん)は道号・弁蓮社入観,法諱・良定。1552年磐城国(現・福島県いわき市)生,1639年没。浄土宗名越派の僧,成徳寺(福島県双葉郡広野町)13世。
岩城貞隆※と親交が深く,関ヶ原役でのその改易を期に渡明を志したと推定されます。
渡航時の上人は51歳。。
しかし上陸は許されず,1603年琉球に漂着※,3年間滞在。この間に浄土宗布教に努め,尚寧王に帰依され桂林寺(現・那覇市松下町)建立。浄土宗の易行易修(≒ただ念ずることのみで救われる)の教えは多くの琉球人に影響を与えたと言われます。『琉球神道記』五巻を著作。〔後掲JCCweb美術館,奈良地域関連資料画像データベース〕
袋中が伝えた浄土宗の念仏が沖縄に広がる過程で,念仏踊りも民衆に定着したと伝わります。沖縄の伝統芸能を代表する舞踏「エイサー」は,精霊送りの時に行われる盆踊りが原型とされますけど,その起源は袋中上人の伝えた念仏踊りにあるとする考え方から,袋中は「エイサーの祖」とまで呼ばれるようになりました。〔後掲JCCweb美術館〕
精霊送りを済ませた後、円陣になって神に奉納する舞踊である。村の重要な宗教行事で、お盆には欠かせない鎮魂の踊りとして演じ続けられている。古くから伝わっていたエイサー踊りに、袋中上人が考案した念仏踊りが融和して今日の形になり、祭事の行事として定着したようだ。〔後掲沖縄拝所巡礼〕
……と言っても,たった3年間袋中和尚さんがご自身踊りまくっても異国社会にそれが広まるでしょうか?尚氏王権が奨励したとも思えません。ましてキリスト教と並んで浄土真宗を弾圧した薩摩島津が,同等の社会騒乱の色彩を持つ浄土宗の念仏踊りを良しとしたはずがない。
とすると,日本内地から一定規模の念仏者が沖縄本島に流入したとしか思えないのです。もちろん彼らが琉球王朝や薩摩島津に招かれるはずもなく,海民とともに流れて,あるいは何かを逃れてきたものでしょう。
伝承者:てーらしかまぐち 平良の案内人
と,袋中エイサー祖説の信奉者には散々な見方を示してしまったけれど……袋中とエイサーを繋ぐ触媒のような人が一応います。シンポジウムなども開かれて豊見城市が売り出してる新規観光アイテムの色彩も拭えないけれど……テーラシカマグチと伝えられる人です。
豊見城市平良を領地とした役人で、袋中上人が琉球語に訳した念仏を琉球に広めた人物とされる。豊見城市平良のシカマ(雇人の紹介)する人というあだ名で呼ばれた。あの世(後生)と現世を行き来できた、七つ墓で幽霊の子として生まれた等、様々な伝説で語られる人物である。現在、豊見城市平良にテーラシカマグチが眠ると伝えられる金武御墓と呼ばれる墓がある。〔後掲久万田〕
首里の汀良(てら)※に近似する地名,豊見城市平良に墓がある。尚豊王との関わりも実証されており,王朝高官だったと推定される人で,この方が内地人・袋中の通訳と案内をし,その帰国後は念仏踊りを広めたとする説があるのです。
※行脚村碑の位置の現住所は首里久場川町。そのゆいレール首里駅側が首里汀良町。
墓碑に銘のある人物の内、テーラシカマグチは太宗の上間親方長胤(うえまおやかたちょういん)か、次男の上間親方長徃(うえまおやかたちょうおう)のどちらかとされています。
『テーラシカマグチ』とは『テーラ』が『平良』、『シカマ』は『年期奉公』の事で、平良で年期奉公を貸し出しする元口であったという意味です。〔後掲沖縄の裏探検〕
従って,墓銘が正しいなら上間親方長の「胤」又は「徃」が本名,テーラシカマグチはあだ名ということになります。
ただ,どうやらこの人が浄土念仏又は念仏踊りを広めた事実は特に残らない。高官で通訳だったところまでは実証されても,念仏者との関わりは不明確です。客観的にも,王朝の貴族が沖縄社会の底辺の人々に親しんだとは考えにくいし,薩摩の侵攻を受けた後の沖縄社会でそんなことをしていたらかなり反体制の振る舞いです。
一応,金武御墓の位置も確認しました。豊見城総合運動公園と平良城の間です。
見逃してきたけれど,この豊見城平良という場所はかなり拝所も残る伝統集落らしい。
現在,金武御墓前では高良青年会がエイサーの奉納を行っているという〔後掲シーサーのプログ〕。
テーラシカマグチは,内地人袋中に代わってエイサーの祖として再発見されつつあるようです。こうして沖縄の新しい神が生まれていくのでしょう。
事例:浄土宗の文段(無蔵念仏・親の御恩)
沖縄の踊り念仏の歌詞については,伊波普猷が収集したものが「念仏集」(伊波普猷文庫)として編まれています。その歌詞を,後掲島尻勝太郎は次の七つに分類されるとしています。
(イ)浄土宗の文段(無蔵念仏・親の御恩)
(ロ)浄土宗が孝諭(コーフダイの歌)
(ハ)継親念仏
(ニ) 天神世界
(ホ)梅の談義
(へ)阿の経
(ト)春咲く花
このうち,「念仏集」で「親の御恩」と題される(イ)は,歌詞が同じのまま,
石垣市登野城(とのしろ)・竹富島・小浜島・黒島・西表島祖内(そない):「無蔵念仏」
竹富島・小浜島・黒島・波照間島:「孝行念仏」
と号され海を隔てた広範囲に残っています。内容は,親の子に対する気遣いを唄う次のようなものです。
歌詞「無蔵念仏」・「親の御恩」『沖縄人形芝居』所載
親の御恩は深きもの/父御が御恩は海深く/母御が御恩は山深く/
海の深さは悟られぬ/山の深さは悟られる(られぬ?)/
晝晩父御が足が上に/夜晩母御が懐に/十重ね八重ね御衣が内/
濡れたる方には親が寝る/乾く方には子を寝せて/
尻口濡るれば胸が上/是ほど親に思われて/(略)
親てふ姿も拝み度し/蕉の館に押し戻て/
父御が手近さも取り擴げ/母御が形見も取り並めて/
其の見て涙の休まらぬ/涙は袖さへ押し流し/
是程あさましき事のあるか/波阿弥陀仏は見えぬ仏/〔後掲坂本〕

行動様式:京太郎と念仏者
首里の行脚村に住んだ人々は「ニンブチャー(念仏者)又はチョンダラー(京太郎)」とされていますけど,この二者は名称が異なるだけでなく元々は(定住者にとって)別の機能を帯びていたようです。ただし──
チョンダラー(京太郎)は門付け芸人であり、ニンブチャー (念仏者)との役割は異なっていたはずだが、いつの間にか相互に融和して区別がつかなくなってしまったようだ。〔後掲沖縄拝所巡礼〕
門付け芸人が浄土宗起源とは考えられません。この点からも,元々沖縄に存在した「異形」の衆が京太郎になったり念仏者になったりしたのであって,実体は同じと想像されます。
また,後掲坂本では沖縄北部にも「行脚村」は存在したと言っており,ここに住んだのは京太郎だったとしています。
ニンブチャーは近年までいて葬式時に鉦を叩いて念仏を唱えていた。一方、那覇北部の行脚(あんぎゃ)村には京太郎(チョンダラー)がいたとされる。京太郎は本土から渡ってきたフトキ(仏)まわしという人形を操る人形遣いで、沖縄を行脚していた。念仏歌の代表的なものは「継母(ままおや)念仏」「七月念仏」「無蔵念仏」「親の御恩」などで八重山地区に色濃く残っている。一方沖縄本島北部では「仲順流れ」や「二合節(酒たぼれ)」などの京太郎の物語歌や口上が念仏歌とされている。エイサーに京太郎が道化として登場するのも念仏歌をもたらしたことによるものであろう。京太郎が念仏歌の伝播に果たした役割は大きい。〔後掲坂本〕
別の呼称の類似も,これは意外なところにありました。沖縄救癩史によると,ハンセン氏病の呼称のひとつに「ナンブチ」というのがあったというのです。
ナンブチはニンブチャー(念仏者)の転訛でニンブチャーとは一九三〇年頃まで首里に残っていた賎民のことである。彼等は葬儀の鐘打ちを業としていたが、その親分はクンチャーシード(物乞勢頭)と呼ばれ、乞食を支配してその貰いものを幾分か徴収していた。このニンブチャーと混同されて癩患者の乞食もそう呼ばれるようになり、後にこの語はナンブチと転訛した〔後掲やいまタイム〕※原典∶上原信雄 編「沖縄救癩史」沖縄らい予防協会,1964
さらにクンチャーシード(物乞勢頭)という呼称が出てきました。
1909(明治42)年,沖縄県は首里の行脚村の場所に癩療養所の設置を計画しています。以下は当時の新聞報道ですけど,ここでは行脚村を「乞食勢頭の住所」と言っています。つまり,念仏者≒乞食勢頭と同視しています。
首里地区汀志良次に設置すべく同地の調査を為したるは同地が昔より乞食勢頭の住所なるを以此の乞食勢頭をして癩病患者の監督を為しむるは便利ならんといふ意味より単に候補地として選定したる譯けにて(略)〔後掲やいまタイム〕※原典∶「沖縄毎日新聞」明治四十二年六月二日号 ※※下線は引用者
なお,この首里へのハンセン氏病療養所設置は地区の反対運動で計画変更されます。第二候補地・その後、天久崎樋川(現・那覇市曙一丁目付近と思われる。)でも猛烈な反対運動があり,沖縄本島での同療養所建設は1938年の国頭愛楽園設置まで実現しませんでした。
このように見ていくと,定住者の視線からは念仏者,京太郎,癩病患者,乞食勢頭は非定住の「異形」の集団として同視されていたことが伺えます。実態としても,念仏者と京太郎は容易に流入し合ったでしょうし,そのきっかけが癩病罹患ならナンブチ,経済的困窮ならクンチャーシード,元より定住しない人に常態はない。
──「海域アジア編」的には,ここに,沖縄念仏者の起源で推定した海民の姿が加わるのではないかとも考えましたけれど,そうした事実は見当たりませんでした。ただ,特に中国で近年までほぼ異民族視されてきた「異形」としての海民(蜑民)は,彼らと同等の位相に生きた人々ではないかと想像するのです。
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FASE90-1@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#喃語聞く神屋 水臭う九月\首里大名御嶽 – ダイエット遊記 外伝増々築
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