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沖縄&台湾旅行 最終日は奇妙な 迷宮に迷います。 |
支出1400/収入1450
▼14[213]
負債 50/
[前日累計]
利益 -/負債 120
§
→一月六日(一)
1000中村屋
よもぎそば
じゅーしーおにぎり550
1135島ちゃん
マーボー豆腐(並)550(1000)
2030ポーリー酥300
[前日日計]
支出1400/収入1400
▼14[214]
負債 0/
[前日累計]
利益 -/負債 120
§
→一月七日(二)
目録
傾斜の分かり過ぎる自転車行
奇妙と言えば,こんなに奇なことはありません。媽祖追い掛け旅行の最終日に,なぜここを目標に思い付いたのでしょう。
首里観音。
観光客なら誰もが絶対知らないこの場所が,どうしても気になったのでした。
GM.(経路)
〇800ジャスト。ゆいレール県庁前のコインロッカーに荷を入れて,自転車を東へ。
なんとクリスタルを偶然通る。でもオープンが11時になったらしい。開いてたら朝飯食ったと思う,昔は朝からAランチの食えたこの店で。
松尾交差点を直進,0808,坂を登る。う〜,この自転車ではきついな。
0812,那覇高校前左折
自転車だとこの高地の傾斜がよく分かる。分かり過ぎて……ヘタりそう。
0817,国道へ。思った以上にきついな。東へ。
0820,昨日の壺屋坂道の対面辺りを東へ入る。ad壺屋二丁目5。
松川 まつぃがー 茶湯崎邑
〇824,昨日はバイクで通ったローソンの交差点。この道が安里川に沿って北へ湾曲,首里への道に出るはず。東へ直進。
しかし雰囲気のある界隈です。写真に撮っても全く説得力ない景観だけど。
0834──よし出た!と思って松川小学校と書いてある風情のある方へ曲がりかけたけど……あれ?まだまだ先らしい。次の信号機を右折,ad松川一丁目。
そういえば松川──まつかわ,媽祖(まーづ)かわ?でもそれを言うと,日本の「松」地名が全部そうだしね。
▲0838松川一丁目付近
バス停松川医院前の三叉路を……ここ直進でいいの?
0841,松川橋。下の川は安里川です。水面は車道面よりかなり深い。地を穿っている感じです。
▲0841安里川渡る
〇843,五叉路,高架下。なるほどこれを北東へ潜ればいいのか。
傾斜が出てきました。首里から安里への尾根に入ったらしい。
上なちじなーむい を振り仰ぐ
急坂を押してようやく首里への車道。前にヒルズガーデン那覇。0847。
ミリオンの自販機で百円ルートビアを求める。
とはいえあと二百mです。漕げるか?
▲0854官松嶺記案内板にあった写真・2嶺
バス停ノボテル沖縄那覇前。首里からの車道,R29に出ました。
いつも見る官松嶺記。案内板に,ここと万歳嶺が「茶湯崎橋」から見ると二つの嶺だったという明治代の写真あり。
石碑が建立された丘は俗に「上ナチジナームイ」と呼ばれ,万歳嶺(ばんざいれい)(俗称「上ナチジナームイ」,現観音堂)の西方に続く均整のとれた小高い丘陵〔案内板〕
茶湯崎橋は現・松川(西)交差点の東辺り(→GM.∶松川2-13-20)にあった古橋らしい。
媽祖の匂い無き海の守護神

松川東交差点から右手の細い坂へ入ると,そこが目的地。
0904,臨済宗妙心寺派 萬歳嶺慈眼院・首里観音堂。
入ると,入口すぐに碑文あり。
「萬歳嶺記
大化出氣凝結成山産萬物塞六幽矣夫山之得名由其形勝也兹嶺以萬歳為名蓋取嵩呼之義以中山之一都會馬於是(略)」
▲0928堂々たる漢文の碑文
本堂額「観音堂」。
左手「西院阿弥陀堂」。
本堂内案内板は「当寺院の歴史(略)1618年に徳庵禅師によって創建された。」と縁起を記す。寺院としては薩摩侵攻後に建ったわけです。
▲首里観音堂本殿
本尊・千手観音。法事中で写真撮れる雰囲気でもなかったけど──まあ,普通に千手観音です。従神らしきものもない。(→後掲首里観音堂公式HP/首里観音堂について)
つまり,少なし意識的には媽祖として祀られてるわけではありません。
のびやかな野辺へ下る
▲0922観音堂から北の眺め(指が入ったけど示唆的なので残しました)
やはり,というか期待を外したので北方向を眺めやる。
丘。面積は広い。
0932,松川東の歩道から北へ。細道をかなり降りる。
▲0936坂の途中から観音方向
〔日本名〕那覇市松川
〔沖縄名〕めーんはらーぬうたき
〔米軍名〕Charlie Ridge南方,Half Moon東方
しばらくは集落が続きました。家並は新しいけれど,筆の形には古さを感じます。住所的には首里山川町一丁目。
……と?いきなり集落が絶え,川沿いに出ました。真嘉比遊水地という公園地で,幅はかなりある。地形だけ見るとのびやかな場所なのですけど……どうも野辺のような寂しさがある。
思わず左折。おもろまち方面への脱出を,無意識に優先してました。
▲0936丘の方向
拝所と書かれないから聖地
元は観音堂から見えた「丘」に入ろうとしてたのでした。後掲KAZUさんは実際入ってますけど……「ハブに注意」標識がいっぱい。さっき予想したよりかなり深い山です。
それに──
▲0937丘を回り込んだ場所に祠
真北側に小さな祠。ここは,明らかに拝所です。
案内板も記名もない。
タイトルに記した「前之原御嶽」という名は,ずっと後に知ったものだし,これそのものがKAZUサイトに載ってただけで確証はありません。
さらにそこから,道沿いに亀甲墓が続きます。
▲0938亀甲墓続く
GM.(グーグルマップ)でこの丘を見ると,墓地とラベリングされています(GM.∶地点)。
真嘉比遊水地案内図。洪水時の調整池として機能してるらしい記述です。──沖縄ではこの,拝所と全く書かれない聖地は,本当に土地の人が護りたい霊域です。
川沿いをさらに進むと,ようやく家並に入りました。ad松島一丁目20。
──位置を確認すると……何と。ここがおもろまちのすぐ東。
沖縄は誠に昏い土地です。
0953。大道交差点。栄町市場東口から安里駅方面へ向かう。

■レポ:蜂の巣の丘から首里城突入
シュガーローフ戦の主体となった米第6海兵師団は,それ以前の十日で2662名の死傷者と1289名の戦闘疲労者を出したと言われます。けれど,5.19段階では天久の三つの主目標のうち,まだハーフムーン(現・おもろまち駅東南)は日本軍独立混成第15連隊が維持していたし,その向こうには分厚い日本軍陣地が取り巻く首里高地がありました。
上図の5.20から十日間近く,米軍は首里を半円に包囲しているにも関わらず,一進一退でほとんど進撃てきなかったらしい。日米の主戦場は首里東方・弁ヶ岳方面で,雨が激しかったこともあり,米軍は何度も逆襲を受けています。
首里観音堂 無血占領
ところが,膠着は予想外の箇所から打開されます。
快晴だったらしい5.28,安里川北岸──ちょうどこの日に訪れた真嘉比公園の北側地点──にあった第5海兵連隊第3大隊が,偵察結果から急遽決した作戦行動のようです。同F中隊が,これもちょうどこの日にワシが下った坂を,逆に登って観音堂付近(米軍名∶Beehive Hill)を占領します。1015に進撃開始,昼前までに占領したというから,1時間半程度の……結果的な奇襲です。ただ奇襲というほどの戦闘は全くなかったらしい。
米軍の中隊(Company)ですから約120人。詳細は分からない。けれど,天候回復,日本軍の偶然の部隊交代と,タイミングがぴったりハマった結果のようです。
戦史叢書では、「松川付近の防衛に任じていた独立混成第15連隊第3大隊を27日夜繁田川付近に後退させ、独立第2大隊第2中隊を配備した」とあるが、細部位置は不明である(地図上の部隊位置は推定)。 また特設警備第223中隊も配備されていたと思われるが細部位置は不明であり、米軍側資料にも日本軍歩兵部隊と遭遇・交戦した記録がない。〔後掲沖縄戦史/首里地区の戦闘,欄外注〕
仮に本当に独立第2大隊第2中隊がいたとすれば,日本軍の中隊(120〜150名)が弱体化していても,互角程度の激戦があったはずなのてすけど……それは勃発せず,とにかくF中隊はスルリと観音様を拝むに至ってしまいます。
F中隊追って首里城へ駆け上る
観音堂から首里城は尾根づたいに真っ直ぐです。
分からないのは,弁ヶ岳方面であれだけ逆襲を繰り返した日本軍が,観音堂のF中隊を放置したことです。米軍もなぜか同じで,このF中隊ルートを後続部隊が追従したのは20時間以上後の翌朝になってからでした。
この後続部隊(大隊規模)は,投入後3時間かからずに首里城を占領してます。
5月29日0730、第5海兵連隊第1大隊は前日の偵察結果から敵の抵抗が弱いとされた方向へ攻撃前進を開始した。 当初、B中隊とC中隊が攻撃部隊となり、A中隊はC中隊の後方を進撃し、短時間で首里高地帯の一角(28日にF中隊が占領した松川高地 [Beehive] )に達した。さらに第1大隊長は配下の1個中隊を首里城址に進撃させる許可を連隊長に求めた。 首里城はそもそも陸軍第77師団担任区域にあったが、連隊長はその申し出を許可した。
指名されたA中隊は長くぬかるむ稜線を日本兵を駆逐しながら更に東に向かって進撃した。そして1015、ついに首里地区の核心である首里城址を確保するに至った。〔後掲沖縄戦史/首里地区の戦闘,米軍側史料〕

首里坂を先に見つけたアメリカー
米軍の首里攻撃方針が転換されたのは,この首里城占領の後になってからのことです。米軍は,首里城北側にあった第32軍司令部を,南から攻撃するオプションを採用していきます。
第5海兵連隊第1大隊(A中隊)の首里城突入により、第1海兵師団は急遽攻撃計画の変更を決定した。大名渓谷で攻撃中の第1海兵連隊第3大隊と首里高地に突入した第5海兵連隊第1大隊とを交代させるように命令した。 午後の中頃にはこの交代が完了し、第5海兵連隊第1大隊は松川高地付近に配置された。
第1海兵連隊第3大隊長は、K中隊とL中隊に破壊された首里城の外壁に沿って防御線を構築させた。 その後、首里城址の北側に第1海兵連隊第1大隊の2個中隊(A・B中隊)が進撃し、第1海兵連隊第3大隊と連携を取ることが出来た。〔後掲沖縄戦史/首里地区の戦闘,米軍側史料,1945.5.29午後〕
32軍が首里撤退を決するのが5.31ですから,南背後の首里城の米軍占領が首里陥落の決定打になったのは明白です。
こうなると,観音堂から首里城に続く龍のような尾根が,生き物じみて見えてきます。彼の者は,日米兵に早く戦闘を終えて出ていってほしかったのでしょうか?
さてさて,以上の首里の32軍最後の10日間の戦闘推移から浮かぶのは,日米両軍とも当初は全く見過ごしていた首里観音〜首里城のベルトの重要性です。
戦闘経験を即座に戦略に反映させる体質を持った米軍が,このベルトに戦力転換を行い,首里城に大兵力を注入したのが日本軍にとって決定打になったわけです。
このベルトを,那覇港を開いた後の第二尚氏は既に重視していた気配があります。それどころか,首里の人の感覚はかなり古くから,北東の弁ヶ岳同様に南東の観音堂方向を意識してきたように感じられるのです。以下は,このベルトの古伝についてです。
■レポ:首里を出で観音堂から那覇港
【歌謡】上り口説が唄う鹿児島旅行
上り口説は伝・屋嘉比朝寄(1716-75)作。薩摩支配の始まった琉球の王朝にヤマト文化の流入が最も激しかった時代,ヤマト口の作詩をウチナーグチの発音と七五調※で唄った口説(くどぅち)だと言われます。
画像は首里観音堂で舞われた上り口説(定例ではないらしい。この画像の時点は不明だが,2022年4月には琉球古典音楽演奏会で上り口説の舞踊有)
※click→youtube(登川誠仁)
この一番に観音堂が描かれます。上記趣旨からの順序としても,航海安全という拝みの内容からも,首里観音堂に間違いないでしょう。
一、旅の出立ち観音堂 先(ママ∶千)手観音伏せ拝で黄金尺取て立ち別る
二、袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺
三、美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
四、沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
五、船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未
六、又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て
七、伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く
八、燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
〔後掲たるーの島唄〕
七・八番の島外の描写は荒い。「富士に見まがふ」と言えば開聞岳の方でしょう。地名を並べただけの感が強くて,おそらく作者は沖縄本島,それも那覇近辺だけを実見してます。
それにしても,薩摩への船出地というイメージはなぞっています。──観音堂の縁起は,琉球王朝の佐敷王子(のちの第二尚氏第8代・尚豊王)が人質として薩摩に連行された時,父・尚久王が子の無事帰国時の観音堂建立を誓願して祈ったところ,子が生還したので1618年に首里・萬歳嶺に建立したというもの。〔後掲首里観音堂/寺院案内〕
何だか現在言われる「横暴なる侵略者・薩摩」への対応っぽさがありません。わざわざ七五調というのも,戦後日本の60年代に歌われたロックのような新し物好きさの浮ついた曲調です。
1番:旅の出発は観音堂
上記8番までのうち,観音堂の出てくる1番を精読してみます。薩摩までの行程描写が内容ですから,1番は起点,旅立ちの場面になります。
【読み】たびぬ’んじたちくわぁんぬんどーしんてぃくわぁんぬんふし うぅがでぃくがにしゃくとぅてぃたちわかる
【発音】tabi nu ‘Njitachi kwaNnuNdoo shiNtikwaNnuN fusi wugani shakututi tachi wakaru
【和訳】旅の出発は観音堂 先手観音を伏せ拝み 別れの黄金の盃を交わして立ち別れる
【語句】
・んじたち 出発。「いんじたち」と振り仮名がある場合が多いが、「いん」と発音するのではなく声門破裂音の「ん」と発音する。
・うぅがでぃ 拝み。<うぅがゆん 拝む。今度は声門破裂音ではなく「うぅ=wu」。
・くがに 黄金、または黄金色の、または「大切な」という意味がある。
・しゃく 「酒を盃につぐこと。また、神酒を盛る盃」【「沖縄古語大辞典」沖縄古語大辞典編集委員会編】(以下【沖古語】と略す)とある。「尺」という当て字があるが「酌」が妥当である。
・とぅてぃ とぅゆん。取る。の連用形。「しゃくとぅい」という語句があり「酌をする手並み。手つき」【沖古】。
内地薩摩へ出立する旅人(多くは「宗主国」への政治的使節)は,親族や知己と観音堂で別れの盃を交わした。黄金の盃を用いる含意は分からないけれど,重大な離別,あるいは富裕層が旅の果報を呼ぶ祭具でしょうか。
沖縄の拝所前のパティオで催される宴を想像します。首里からの坂道の海側の先に当たる観音堂は,この別れの宴の常設場だった訳です。
そこに祀ったのが観音菩薩だというのも,航海安全の神・媽祖の変化という要素も原初にはないこともなかったのではないでしょうか。けれどそれが頻用された理由が「侵略者・薩摩島津の危害から護り給え」という祈願であってみれば,より穏当な仏教神の仮面を深く被らざるを得なかったように思えます。
では,観音堂から旅行者が見下ろした,侵略者の国・薩摩へ発つ港の光景はどのようなものだったのでしょう?
何より,その港とはどこにあったのでしょうか?
【図絵】琉球交易港図屏風の上の観音堂
首里城から那覇港までを描いた図絵は複数現存しています。その中の一つに,観音堂も描かれたものがあります。
緑色の丸部を拡大したものが次の図です。観音堂と文字がはっきり書かれているのは,確認される限りこれだけでした。
けれども……何という妙な建物でしょう。日本の感覚でサッと見ると庵のように見えますけど,それが観音を祀るお堂というのも有り得ない。よく見るとさらに奇妙で,前面が赤みがかった方形から,横に回廊状の耳が飛び出てるけれど,そんな構造が何の役に立つのでしょう?
ただ,前面の赤みある窓と耳付き建物構造は,次に掲げる他の図にも共通するから,少なくとも完全なデタラメではないはずです。
この鳥瞰図には,下部に膨大な船を浮かべる港が描かれます。観音堂-港間は今日同様距離があるようですけど,この港はどの位置にあったのでしょうか?現・牧志や安里を最奥としたのでしょうか?
【図絵】首里古地図の描く水域
18C前半成立(→詳細:F90-1)の首里古地図に,この港の位置ははっきり書かれていました。茶湯崎橋の場所です。
1.茶湯崎橋(ちゃなざちばし)
2.耕作地
3.官松嶺(かんしょうれい)
4.慈眼院(じげんいん)
5.観音堂(かんのんどう)〔後掲沖縄県立図書館/首里古地図 部分拡大図9〕
首里から下ってきた道は5.観音堂の先,3.官松嶺の辺りでさらに下り,1.茶湯崎橋で入江を渡る形だったわけです。
1.と2.が拡大可能になっているので,さらに拡大してみます。
2.の川岸部には幾つもの「田」の文字が見えます。
1.茶湯崎橋部の形状は明らかに港です。けれども,2.同様の「田」らしき文字が三つあり,これで水路部が塞がれています。
一体どういう現況を地図に落とすとこうなるのでしょうか?
水田だった場所を港湾にするには,現代の土木機械の力が要るでしょう。まして橋など渡す必要はなく,畦道を通るかそれを太くすればいい。
その逆しかありえないと思います。
1.茶湯崎橋付近付近は,かつて港湾として機能してきたところが,遅くとも(首里古地図成立の)17C前半頃までに水田に変わった場所だと考えられるのです。
【史料】那覇港の奥はどこだったか?
上記案内板の要点を5点挙げます。
b.1674年に木橋から石橋に架替え(橋の創建年は不明)
c.橋付近まで船が遡ってきたと伝わる。(蔡温(18C)が港湾設置を推奨)
d.妖精伝承があり,1519年に日秀上人(にっしゅうしょうにん:日本僧)が碑を建立(橋の北側。俗称「ムジンクジンワカランマチガーヌヒブン」(意:文字も故事も判らない松川の碑文)。明治まで存在)
e.茶湯崎村付近に別に「指帰橋」有(架設場所不明。現「指帰橋」は名称のみを承継)
※後掲那覇市歴史博物館などにも同様の記述あり
何れも観音堂の性格を傍証する要素を持っています。観音堂は茶湯崎橋付近の港を見下ろす場所だったし,茶湯崎橋に入った船は観音堂を目印とし,上陸者はまず,かの丘を仰いだでしょう。
扱い易い論点から順に読み解きます。
b.1674年石橋架替え
石橋架替え自体は「球陽外卷・遺老說傳」第19話指帰橋に記述されています。
往昔之世設杠此地(在茶湯崎邑西自首里往那覇大路)人民往還然而爲蟲蛀所爛屡次修葺不堪其憂至于近世□王令輔臣築石爲橋此時海潮出入水深江廣而北山諸船到此灣泊而海水漲來有爲溪水被歸因名其橋曰指歸橋 ※□は欠字
【現代語訳】 遠い昔の時代、小さな橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。
そして木食虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。
近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。
この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々いろいろな船が、ここに到着して停泊していました。
そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。
そんなわけでその橋を名付けて「指帰橋」(さしけーしばし/さしかえしばし)といいます。
〔原典:「球陽外卷・遺老說傳」第19話指帰橋 後掲神の島「Okinawa」。原文は後掲「琉球沖縄を学びながら……」〕
ただ,各記述にある「1674年」という時代は,ここにはありません。
※王朝時代の橋に多い「橋碑」は茶湯崎橋には伝承や拓本等も含め存在しない。これは他に泉崎橋の例があるだけで,やや稀な事象である〔後掲植村〕。
1745年編纂の「球陽」の外巻142話は,実際は球陽編纂以前から存在した遺老説伝と呼ばれる古民話,自然異変ほか口碑伝説を集めたものが,外巻に組み入れられたものとされます。
〔後掲琉球新報,原典:『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社発行 後掲世界大百科事典 第2版 など〕
1674年の年代記述が何を根拠にしていても,遺老説伝に書かれないのは変です。
ただ少なくとも本稿の趣旨からは,石橋架替えの年代はあまり問題ではない。「往昔之世設杠此地」昔からこの地の往来が甚だしかったので「爛屡次修葺不堪其憂」絶えず憂慮し橋を直し続けた,つまり民衆が自発的に維持したい道で,後代になって王朝がこれを公認して石橋をかけた,というだけで十分です。肝心なのは,長虹堤のように王朝主導で初めて出来た道ではないこと。
茶湯崎橋は長虹堤のない太古から,つまり久米や那覇港への通路となる以前から,民の道として常用されてきた古道だったのです。
e.指帰橋:橋は何本架かっていたか?
上記案内板e.の箇所には,茶湯崎橋の近くに指帰橋が架かっていた,としています。
けれど,上記球陽を普通に読むと,石橋に架替えられたのは指帰橋だと書かれており,茶湯崎橋という別の橋のことは記載されていません。
ここでは仮に指帰橋=茶湯崎橋説を採ります。そもそも民衆が自主的に修繕してきた橋が,ある時代には複数あっても別に不思議はない。それにやはり本稿の趣旨からして,それはどちらでも,同じ機能と目的の橋だったはずです。
だから差別の必要のない場合は,ここからもここまでと同様に茶湯崎橋と略記します。
問題は,この指帰橋という名前の由来です。
球陽の表現では「海水漲來有爲溪水」──「海水が満ちてくる時はいつも,川からの水のために押しかえされる」と書かれていました。これは潮の満ち引の影響を受ける「感潮区間」又は「汽水域」,実態上の海水と川水の境界が茶湯崎橋付近にあったということです〔後掲Jタウンネット〕。
これがどういうことかというと、川から海へと繋がる潮位をうまく利用し、海が満潮になる頃には満ち潮に乗って上流へ向かい船を漕ぎ、潮が引く頃には引き潮に乗って下流へ下ることを意味する。いわば現代にまで残る橋の名前からも、当時は川の水路を使って那覇から松川、金城あたりまで船で移動していたとの証明でもある。
そして昨今においても、安里川では潮の満ち引きが大きく働いているのではないかという面白い現象も見受けられる。そう、安里川、蔡温橋付近まで上ってきて発見されるサメである。海の生物であるサメが淡水であるはずの川まで上ってくるということは、やはりある程度のところまで潮が上って来ている事実を物語る。〔後掲HUB沖縄〕
現在の真嘉比川や安里川の風貌からはとても想像できませんけど,真嘉比川も安里川も暴れ川です。本文で見た真嘉比親水公園,さらに牧志駅下の「さいおんスクウェア」も,増水時の遊水域として設置されたものです。
安里一帯の安里川水路は川規模の割に細く、しかも急カーブ続きで大雨になる度水の勢いを抑えきれず、氾濫してしまっていたのだ。それ故、近代になって洪水防止を目的に安里川上流に金城ダム、そして安里川に合流する真嘉比川上流にも真嘉比遊水池が整備された。しかし2007年の安里川大氾濫は、その双方の整備後に起こってしまったのだ。〔後掲HUB沖縄〕

d.文字も故事も判らない妖精のくに
「ムジンクジンワカランマチガーヌヒブン」(文字も故事も判らない松川の碑文)は,現物は損なわれているけれど,「ムジンクジンワカラン」,更に訛って「イミクジピーマン」という「訳の分からないもの」の意の成語になっているといいます〔後掲神の島okinawa〕。現地の伝えだと思うので,真偽は図り難い。
案内板の「妖精」というのも,他にヒットするものはありません。
ただ,茶湯崎橋の元の位置は,「チャナザチバシアト」という拝所になっているようです。これも位置は分からないけれど,次の写真からぎりぎりの補修はなされている見かけです。
別に首里や泡瀬の京太郎(≒賤民)に触れましたけど,観音堂下にある寒川芝居跡(→GM.)という場所があります。
京都などのアジールのあった場所の感覚だと,これは六条河原の「河原者」のような芸能自由民がいた痕跡です。御嶽など沖縄の普通の拝所とは,どうも雰囲気が異なります。古い港町の「自由民溜まり」が一種の聖性に転じていった可能性があります。
観音堂〜茶湯崎橋エリアの妖気の,前之原御嶽もその名残りかもしれないのです。
a.首里〜観音堂〜茶湯崎橋〜崇元寺〜久茂地チンマーサ ルート
琉球王国時代の「首里・那覇を結ぶ重要な橋」と聞いて普通思い出すのは長虹堤です。
長虹堤は,那覇-安里を結ぶための約1kmの浮道(海中道路,石橋七座より成る),1451年築造。崇元寺橋〜イべガマ(久茂地のチンマーサー)を結んでいました。ただし,その後の路面電車(1914年首里・那覇間に開通,1933年廃止),新県道(現・国際通り,1934年開通)とその後の那覇空襲で今は僅かな痕跡を残すのみ〔後掲那覇市観光資源データベース/長虹堤跡〕。
1466(文正元)年の喜界島制服直前です。帝国の完成期に,持てる琉球の労働動員力を注いだ,沖縄の万里の長城と言っていい歴史的土木工事だったはずです。
※※1735年8月〜翌1月に行われた現・名護市の大浦川(別名・大川)の河川改修事業では,蔡温の指揮監督のもと,ピーク時で2586人/日,3ヶ月で93,270人/日を国頭全域から動員〔琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ/羽地大川修補日記〕
よって,首里〜那覇の旧往来は,具体的には,首里〜茶湯崎橋〜長虹堤というルートと想定されます。この位置関係はどうなっていたのでしょう。
やや不明確な点は,長虹堤の始点と終点です。一般に崇元寺と言われる首里側(東側)は,安里橋跡(→GM.),つまり崇元寺から安里川を渡った橋の西口と推定しました〔後掲真和志市誌の「安里橋」記述より〕。また那覇側(西側)は,久茂地マンション(2022年現在,炭火焼肉居酒屋「しん吉や」入居)の那覇市久茂地三丁目29-41を仮にとりました(詳細は下記展開参照)。
そうすると,首里〜観音堂の先を旧・那覇浮島まで結んでいた茶湯崎橋〜崇元寺〜久茂地チンマーサの三地点は次のような位置関係になります。
長虹堤より,崇元寺〜茶湯崎橋の距離は少し長い。石橋に架けかえてまでしてわざわざ安里川を渡す道を造っているわけですから,茶湯崎橋から安里川南岸の川堤を辿って崇元橋西口まで往来していたと考えられます。
なお,久茂地のチンマーサの位置は久茂地大通りを経て孔子廟へ,つまりさらに久米三十六姓の町・久米大通りに通じていたということになります。
久茂地大通りは、孔子廟付近(セーヌカンとの交差路)から、チンマーサー(潟原と崇元寺への道の交差路)までの通りで、通りの西方(潟原へ向って左)を久茂地、東方(右)を譜嘉地と呼んでいた。〔那覇市史資料編第2巻 中の7 P298、299,後掲グダグダ(β)〕
長虹堤が単独運用された二百年
何となくイメージしがちなのは,王朝政治の中枢・首里を起点に
ただし,それにしては長虹堤築造から茶湯崎橋石橋化までの期間(223年)が長過ぎます。
1469年 第二尚氏王朝立つ
1547(嘉靖26)年 久米三十六姓の福建籍を明皇帝否定
1674年 茶湯崎橋石橋化
長虹堤ルートは第一尚氏最盛期から第二尚氏が薩摩支配下に入るまでの二世紀以上,茶湯崎橋が木橋のまま使用されてきた訳です。長虹堤の実用途が17C後半に転換したとは考えにくく,その実用上,茶湯崎橋は不可欠な存在ではなかったことになります。
木橋は現代の技術でも15年以上は持ちません〔後掲土木学会〕。民間の,おそらく有志の寄進による修繕が2世紀間継続されたとは想定しにくい。木橋すらそれほど古くない時代,早くとも17C前半の建設ではないでしょうか。
けれども,それならその二百年間,直虹堤はどう「単独運用」されてきたのでしょうか?
その時期の首里〜那覇(浮島≒久米)間の往来を,「グダグダβ」さんの図で想像してみましょう。
(中)長虹堤建設(1451年)後。前島の潟原も半陸地化,久茂地周辺も内海から川に近づく。
(下)現代の那覇を前島潟原より海側と西新町を海没させた図〔後掲グダグダ(β)/浮島(那覇)〕
上図には,古・那覇湾とその真ん中に浮く浮島の姿があります。湾の東南奥(右下)の二股の入江は,下が現・安里川,上が現・真嘉比川。──首里から久米への海路は,真嘉比川から浮島東南に沿って湾を横切ればいいように見えます。
ところが中図では,まさにその横切りルートがピンク部,浅瀬域で遮断されています。
上図と中図の差は,長虹堤築造前後という点。つまり,この不自然な堤の周辺に暴れ・安里川の土砂を堆積させる触媒になったと考えられます。
このピンク部は長虹堤以前から浅瀬ではあったのでしょう。だから首里から真嘉比川に入った喫水線が一定の長さ以上の船は,久米へ西行できず,北から大回りするしかなかったと考えられます。ただ,そのルートは夫婦岩や現・波之上の岩礁のみならず,八重島付近の小島を縫う必要があり,危険も伴う。
なお,下図で確認できますけれど,その北回りのための安里川本流自体は現地形でもそのままです。βさんの描く堤のライン(オレンジ線)は安里川東側(崇元寺付近)まで伸びてますけれど,もしそうだったならこのラインにも堆積があるはずです。──でも,それはない。堤は安里川を跨がず,川西側を始点としたはずです。
さて,中間の図に,前述の首里〜茶湯崎橋〜長虹堤〜久米ルートを落としてみたのが下の図です。
茶湯崎橋がない時代,首里から久米への往来者は,真嘉比川※を舟で渡って久米に入ったと思われます。
海民である琉球人が,舟に乗る行程を苦としたとは考えにくい。まして前期倭寇の裔たる第一尚氏や久米三十六姓は,海路のルート設計に難を示すセンスを持っていないと想像します。けれど,首里〜真嘉比川から浮島を北へほぼ270度大回りするのは,危険であり無駄と考えたのではないでしょうか。
よって,琉球王朝最大海域の統一を目前にした首里の王権は,那覇・首里を含む新都市圏の象徴を兼ね,古・那覇=浮島≒久米への陸橋を築造した。
けれども,長虹堤を築造してもなお,真嘉比川に石橋は架かりませんでした。それは,真嘉比川から安里川が海運路として機能し続けてきたからだと考えられます。
c.山原船を見た観音堂
前に触れたタカマサイ公園(→GM.:那覇市上之屋一丁目)から宮古島を懐かしむ光景が見えたということは,現・泊港は王朝時代にもっと遥かに大きい湾入部だったと想定されます。
「此時海潮出入水深江廣而北山諸船到此灣泊」〔前掲「球陽外卷・遺老說傳」第19話指帰橋〕──古・泊港には,宮古人・タカマサイの乗って来た八重山船だけでなく,球陽の書く山原船が入港していました。
球陽は,それらの船が茶湯崎橋までは上ってきたことを伝えます。ただし,茶湯崎橋が古「安里湾」の最奥だった,と書いてはいません。感潮区間が茶湯崎橋地点だったということは,それより河川上流に大きな水域があったことを意味します。
次の図は,国土地理院地図の陰影起伏図を,上から順に三段階で拡大したものです。
茶湯崎橋のある安里川との合流点から,真嘉比川は現水域より遥かに巨大な流域痕を残しています。
那覇湾が現・真嘉比川水域方向に大きく湾入して時代,ここには「安里湾」最奥の大きな入江があったように見えます。位置は現・真嘉比遊水公園。前之原御嶽の西,官松嶺の直下です。
ここに古・首里湾があった。
真嘉比川の上流,現・宝口桶川付近からの小舟の水運を想定すれば,末吉宮や北森の聖性も理解しやすくなります。
山原船や八重山船は,この湾から南北へ出港したのだと想定します。
何より,この古・首里湾から東を見上げると,そこに観音堂があったはずです。このお堂で別れの宴を催した旅行者が,ここから北の方・薩摩への船路についたのではないでしょうか。
そしてこの古い湾は,真嘉比川と安里川の堆積により,古首里地図に見るように水田化し,最終的に1674年に石橋が架かることで機能を停止した。
以上のように考えるなら,首里観音堂の「媽祖信仰もどき」も理解できるものになります。古・首里港は久米三十六姓の福建人たちの港と,少なくとも二百年近く競合関係にありました※。ここに媽祖の国人・福建人は住まなかったでしょう。媽祖がしばしば変化する観音菩薩を,琉球人が福建の媽祖信仰を真似て拝んだ,と想像すれば,首里観音堂の
海の向こうで歌い継がれる替歌
うちなんちゅの海外雄飛として,進貢船搭乗者たちや前後期倭寇,戦後密貿易時代のウェーキたちと同じ位,いや人数的にはむしろはるかに大きな群像があります。
その実態を語るには,数字が最も雄弁です。
戦前の台湾移住 約3万人
昭23〜平5 17,726人
計 約12万人
〔後掲統計トピックス〕
明治32年から昭和13年の移住者数は72,134名となっており(表1)、昭和15年当時の沖縄県の人口※で割ってみると、実に沖縄県民の約12%が移住した計算になります。
※ 昭和15年における沖縄県の人口574,579名
(総務省統計局「国勢調査」)
戦前の台湾移住(≠国外)3万人を含むと18%近くなる計算です。沖縄県人は約2割が海外移住した後,1/4を戦争で失った,と考えると,人口の4割が県域から姿を消したことになります。
当然,都道府県中では最高値で,戦後の数字だと東京都を上回ります。
先述の1940(昭和15)年段階の沖縄県人口57.5万人に対し,東京都は735万人〔東京都政策企画局数値〕,日本全国で7,307.5万人なので,人口比では東京都及び全国の12.5倍規模の移住があったわけです。
【歌謡】移民口説
前述の「上り口説」と同じメロディーで,「移民口説」という歌があります。元歌の薩摩行きが,ハワイや南米へ移る人々のイメージとも重なったのでしょう。
「上り口説」はさらりと聞くとのんびりした,また平調な曲です。けれど反面,ドライで冷酷なトーンも,繰り返し聞くと滲ませてくる,魔性を持つ曲でもあります。
この島の人たちは,本質的に「琉僑」の心根を持っています。
一、ひとつ開くる此の御代は四海同胞睦まじく共に稼ぐも面白や
ニ、二つ二親兄弟と別れてはるばると八重の潮路を押し渡り
三、三つみ国と我が家の富を増さんと雄々しくも尋ね尋ねて此の国に
四、四つ夜昼時の間も忘るまじきは父母の国馴れし古里沖縄よ
五、五つ幾年経るとても親に便りを怠るな親に孝事を忘れるな
六、六つむつびて働けよ金は世界の廻り持ち稼ぐ腕には金がなる 「世界のウチナーンチュ36万人分布図」〔琉球新報/ウチナーンチュ分布図,2012〕
七、七つ那覇港の桟橋に別れ告げたるあの心いかで忘るる事やある
八、八つ山より尚高き立てし志望の一筋は岩をも貫く覚悟あれ
九、九つ心は張弓の緩むことなく他の国の人に勝りていそしめよ
十、十と所は変われども稼ぐ心は皆一つエイ錦飾らん古里に親の喜び如何ばかり
〔後掲たるーのマジメな島唄〕※原典∶沖縄民謡大全集 伝・作∶普久原朝喜 昭和10年頃作
