上乃裏通になった上通裏通
最近は「上乃裏通」と呼ぶようになった。個人的には件名にした、以前の「上通」の裏の通りというまどろっこしくていかにも俗称っぽい呼び名の方が、好きである。というより、ここの裏道感が具現されてていい。

上乃裏通り 桜井町通りの蚕糸会館の角から香川駐車場付近まで南北四百数十mの路地。黒鍬、一本竹、草葉町、坊主、小坊主、歩小路(かちこうじ)など東西方向の各通りと交差する。かいわいは昭和62(1987)年、飲食店「壱之倉庫」が歩小路に出店したのを皮切りに、平成にかけて若者向けの店が次々に進出。蔵や古民家を再利用した店がレトロな町並みにマッチし、全国的な注目を集めた。98年に一般公募で上乃裏通りと名付けられた。〔後掲熊本日日新聞〕
ファミマの北側の通りが歩小路に当たり(→GM.)、上通りのアーケードが尽きる地点が草葉町通り(→GM.)です。この見事なほど……語感に統一感が全くない通り名は何でしょう。知識層ではなく庶民に長いこと馴染んできた地域であればこういうことも起こりそうですけど──。
手取宮参道



狭義には、手取宮参道付近は上乃裏通りには含まれないかもしれないけれど,どうしても入口出口にしたくなる一画です。
さぞ立派な由緒を持つのかと思いきや,「え?」と驚くような紆余曲折を経て旧長安寺内にまんまと入居し,今では手取社しか存在しないという数奇な変転を経た社らしい。
後光明天皇の御代 承応年間(西暦1650年頃)手取被分町の住人肥後藩士 平井勘右衛門正恒はかねてより天満宮を崇敬し、或る夜菅公が枕に立たれこの家の井戸にきていることを告げられ、翌朝邸内の井底より尺余の天神尊像を得て、一宇を創祀し鎮祭。宝永五年三月平井家大火に罹り焼亡の砌、神祠も延焼。近くの鎮護山長安寺境内の梅の樹より夜々光明を放つ徴があった。寺僧之を怪しみ梅の樹の下に至れば天神様の尊像厳然として出現された。僧かしこみて使いを出し、平井氏は年来の信徒等を率いて来たがその奇瑞を感じ、元の如く邸内に復祭を議れしが火災を遁れてこの地に来られし故に、この長安寺境内に鎮祭されることとなった。その後七十余年月を経て、安永七年七月二十八日再び大火が起こり寺塔悉く回禄となりしも神祠はこれを免れた。〔後掲手取天満宮〕

本道
ここはとにかく歩き辛い。
なぜって狭い道に容赦なく乗用車が突っ込んで来るからで,1台避けたら次の車を確認しなきゃならない感じです。
だから優雅に思索をめぐらしながら歩ける通りじゃないんだけど……それがまた、なぜか上乃裏らしくて好い。

大正代以前
大正より前のこの地区の図は、しかし大層不思議です。
まず大正13年の地図では,既に上乃裏通りの姿をはっきり確認できます。S字のくねり方もほぼ現代のままなのです。
ところがです。その250年前、延宝6-7(1678-9)年頃の地図にはこのくねりがないのです。
また、上乃裏通りそのものが南に伸び切ってしません。現代の南道の途切れはホテル日航と熊本市現代美術館の敷地を無理矢理造ったためかと思ってましたけど──江戸期にも大正期にも現代よりさらに北(おそらく現・セブンイレブン辺り)で止まってます。
つまり,上乃裏通りは南の大通りに
言い換えると、メインの南北道・上通りと熊本城からのの東一本道への接続を意図的に切断された道だった、と思えます。
「坊主通り」と「小坊主通り」の名の由来となったらしい「御掃除坊主の家」という区画が,上図にあります。南北の位置は現・白川公園と同ライン。この名称は全国にあったらしいけれど、少なくとも熊本では「お城で雑用をこなすお掃除坊主の屋敷」〔後掲くまにちすぱいす〕と解されます。「坊主」というのは僧侶ではなく階級は武士で、剃髪していたためにそう蔑称されたようです。最下級の武士階級と思われます。
上乃裏通り最南部の黒鍬通りの名も,武士の階級名「黒鍬」から来ているらしく,これに属する集団が住んだ一帯と推測されます。「当初は苗字帯刀も許され」ない層だったけれど後には「御家人の最下層格」として世襲されたという〔wiki/黒鍬〕。戦国期の戦闘工兵を母体とし,江戸期には「参勤交代の際、行列が通りやすいように先頭で土地をならす役を担った」と伝わります。隠密の活動主体とも囁かれるやはり下級武士層で、これは性格上御掃除坊主群の一部も同様だった可能性があります。
対して長安寺(現・手取社)のベルトには「身分が高い武家の屋敷」があり〔後掲くまにちすぱいす〕、おそらく御掃除坊主や黒鍬衆は彼らの強力な管理下に置かれたのでしょう。上乃裏通りは──この通りにかつて名前がなかったと思われることが唯一の傍証ですけど──こうした下級又は身分制度を超越した集団が暗躍する陰の通路として形成された道だったのかもしれません。