m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m2唐の船御嶽(ニライF68)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

豆腐に白滝 忍び寄るオジイ


て,本島南端まで何を求めて来たかと言えば,媽祖であります。
 沖縄本島の古媽祖は,旧久米村と波之上宮隣が著名です。いずれも那覇で,あと近いところでは久米島になる。
 ところが本島にもう一箇所,媽祖宮と伝わる場所が八重瀬町にあるというのです。位置的な意外さからして,尚王朝の関わったものとは思えない。……ならば何なのじゃ?
🛵
935,具志頭三叉路。左折東行。
 0938,具志頭ドライブイン前バス停。スマホの位置情報をオンにする。
 0943,向陽高校を過ぎ雄樋川の前で迷う。左手に下る道,これしかないだろう。左折というか脇道を下る。
やはりそれが橋下の道でした。T字路を左折北行
何もない。T字を右折。
 コインランドリーにぶつかる変則十字路を右折南行。「あわいしどおり」と表示が出てます。──目指す媽祖宮の由来から来てるっぽい。
 左手に曲がって川に出る右手,南に無事みつかりました。
🛵
舎の情報網はネットより速い。
 原チャを止めるか止めないかのうち,おじいがフラリと寄ってきて「○○関係の人?」と事情聴取を受ける。いやあ通りがかりで,と殊更に内地っぽい標準語でヘラヘラしてると,他に三つの井戸があるぞとご紹介頂けました。それは知らない。てゆーか,地域の哨戒兵の任務を忘れとるぞ?
 真裏,南と西側へはブルドーザーの工事現場が迫ってる。──おじいが再度戻ってきて(まだ居る!)言うには……そこ,港川原人の公園なんだって。──確かにGoogleマップには「港川フィッシャー遺跡」とある。
 北は一軒家。東の川も整地されてる。知らずに通れば住宅地。

の船御嶽
〔日本名〕沖縄県八重瀬町長毛290-13
〔沖縄名〕とうのふにうたき
〔米軍名〕95高地(日本軍は91高地と呼称)東

▲唐の船御嶽を東正面から

域にも馴染んだところで──ってゆーか,ここ,そんなに観光客が珍しいのか?
 0956,唐の船御嶽。
 ルビは「とうのふにうたき」とある。豆腐に白滝,にちょっと似てる。

海から来て天妃を祀って去った群

▲神体の岩。うーん,岩じゃのう。

は一つ。
 神像は海の珊瑚石と見えるもの。
 右手に箒があり,手入れは行き届いてる。
 焼香跡はない。これについておじい(…まだ居る!?)が言うところでは「正月には拝みに来るから」とのこと。初詣か?

▲神体の岩アップ。ますます岩じゃのう。

ーん。これは……これ以上何も出ないぞ。
 左手にも小さな祠,かもしれない岩がある。けどこれも……何とでも取れるほどに,岩じゃのう。

▲左手(南側)の神体の岩

ヒイてしまってたし,オジイもいたので書き写しもしなかったけど,ここには案内板も一応ある。

 昔、中国の貿易船が難破し、船が使用不能になったので、船員はこの地に上陸し仮小屋を建てて住んでいた。彼等は食糧に窮し、附近の甘藷、野菜はもちろん、にわとり、豚等までも盗んで食べるようになった。住民は、これを公事(間切の番所)に訴え出た。公事では遭難した不運の船員に深く同情し、間切の公費でもって食糧を供給した。当地滞在中彼等中国の船員は、この地に祠を設け中国に於いて深く崇信している、航海の安全を守護する「媽祖(まそ)」と称する女神を祀り、故郷中国へ帰る航海の安全と、健康を祈願した。願いがかなって中国へ帰ることが出来た。
 帰るに際し、彼等はこの地の住民に、この祠に祀られている神様は、海上安泰、豊漁、豊穣、子孫繁昌、健康を御守りする守護神である。ひとしくこの神の庇護を受けるようにと伝えた。人々はこの神を崇信し、この祠を「唐の船御嶽」と呼ぶようになった。

*唐の船御嶽(とうのふにうたき) | 沖縄歴史探検URL:https://okinawarelics.blog.fc2.com/blog-entry-59.html?sp
──海域アジアのお勉強のちょっと進んだ現時点(’21)では,このお話からも色々汲み取るべき点がありますけど……少し後に,まとめてお話しましょう。

本島南部一の流れ 雄樋川

▲雄樋川大橋をくぐる。

嶽の東がすぐ雄樋川です。川に出ると南に雄樋川大橋が掛かっています。
 これをくぐって南側へ向かおう──として,その手前(北側)でふとバイクを停める。右手(西側)後方を振り返ると,さっきの公園工事現場上の丘があります。かなり大きい。遺構があるようには見えないけれど,単なる墓……なのか,これも神域だったような雰囲気なのです。

▲唐の船御嶽の西側の高台

川フィッシャー遺跡」の「フィッシャー」というのを,この時はfisher 漁師・漁夫だと思ってました。多分,行政が観光売出し用に冠したんでしょ?と決めつけてたんだけど──fissure 裂け目でした。
 上写真の丘の石灰岩の裂け目から,港川人骨は発見されたのです。
🛵
っと海の香を嗅ぎました。
 1018,西への道を道なりに進む。「港川」と住所表示看板がある。この辺りが港川集落の中心になるらしい。その対面,途中の道を左折──した後は,ほとんど道は勘で選んでいきました。位置情報を何度も開いて進むうち,人家は絶えて畑の合間へ入りました。
 1024。「ゆったちじょうのお嶽」に到着。

野の只中に世を立てる

ったちじょうのお嶽
〔日本名〕沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-

▲ゆったちじょうの御嶽

志頭村教育委員会の案内板があります。

先史時代から古琉球時代の初期にかけて,このお嶽の周辺に存在した,「よりたち」と称する村落に属するお嶽で,よりたちの人々の崇信する祖霊神を祀ったお嶽である。
 具志頭村内に現存するお嶽の中では,最も古いものであり,沖縄におけるお嶽の原型をとどめている。祀られている神名は不明である。

▲1034ガジュマルの根本にある御嶽です。

内板は,後半を使って「ゆったちじょうのお嶽が琉球国由来記の具志頭間切のお嶽の条項に見えないのはなぜか」と問題提起しています。通常,祭神の名前までは同記に記してあるからです。その理由を案内板は,同記の編纂時には「よりたちは,具志頭村に移動合併しなくなっていた」からと推測している。でもそれだけではない対立図式もあったように思える。
 樹の根っこ右手に丸石。祭壇はブロック。供え物なし。ただ佇まいは確かに古式です。
「ゆったち」は「世立」で,具志頭の村のはじまりの場所,と書くプログもあるんですけど……他で言う「腰当」と表現も違う。全てが分からない場所です。
*ゆったちじょうのお嶽 | 八重瀬遺産  -たくさんあるよ-
URL:https://www.google.com/amp/s/tobu102.ti-da.net/a5019937.html

▲ゆったちじょうのご神体(おそらく中央の球体の石)

魚場らしき池を渡ると,西正面に岩肌のごつごつした丘が見えてきました。
 突き当りはT字。左手は海へ。右手へ回ると「クラシンウジョウ」という場所への階段が見つかりました。「拝所利用」なら入っていい,みたいな微妙な立入禁止表示。
 当然,登る。1044。

らしんうじょう
〔日本名〕沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭137 *防空壕だったと伝わる。
〔沖縄名〕同 *漢字では「暗御門」
〔米軍名〕-

▲いきなりの巨石

おっと?いきなり巨石と祭壇?
──後でググると「クラシンウジョウ壕」の方がよくヒットします。県下では,防空壕跡として,平和学習に使われるらしい。どうもこの正面の穴から入っていけるらしいけど……それは怖いぞ。
 階段曲がりに第二の祭壇。
 階段の尽きた場所に第三の祭壇。その先は岩の間を通る道。これは明らかに入口です。
 惑うが進む。

くらしんうじょう御嶽

▲1049奥への岩の隙間

シにはここは,御嶽としか映りませんでした。
 奥手へのこの隙間も,沖縄の御嶽によくある「心して入れ」サインです。

▲さらに岩の隙間の道

窟だらけの岩場に出ました。
 だらけだったのは,日本軍が掘りまくったからだったのかもしれないけれど──それを知らない当時は初めての相貌に戸惑いました。

▲1050岩陰の祭壇

奥に第四の,大きな祭壇…らしき場所。戻る。
 藪を突っ切れば,ひょっとしたら海側まで回れるのかもしれません。でもここから先は,装備がないと進めそうにない。
 戻る。

異世界からローソンへ浮上

▲1054戻り道

の船御嶽のある長毛(ながもう)と,先に通った港川(みなとがわ)が,現在車両で通過すると集落の中心のように見えます。
 でもここは明治になって新設された字。近世の中心は村名(ぐしかみ)と同じ漢字の具志頭。つまり「くらしんうじょう」の北側の集落です。
 同じ漢字を「ぐしちゃん」と読む。
 他の字は6つ。安里(あさと),新城(あらぐすく),仲座(なかざ)のほか,大頓(おおとん),後原(こしはら),玻名城(はなしろ)。前三者は新しい集落でしょう。後三者の読みや用字は沖縄でも異様です。

(字)具志頭周辺(地理院地図)

名の読みが「ぐしちゃん」から「ぐしかみ」に変更されたのは1954年。戦後です。
 港川は江戸期,尚王朝期には存在しなかった。「地名のない漁村」だった,ということになる。これは前掲「ゆったちじょう」が地誌上「存在しなかった」のに似てます。
 数しれぬ不存在はある。でも何が存在したのか,皆目分からない。そういう土地なのです。

▲1057具志頭の集落風景

103,ローソンで一服。頭を異世界から現世に切り替える。
 ここは,深度が途方もなさそうです。そもそも……「くらしんうじょう」とは何の語義なのかすら分からない。
 空がやや雲に覆われてきました。

■レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観

 最初に,この場所・具志頭(旧村域)の「謎」性について考えてみます。
 周知の謎として最右翼なのは港川人でしょう。専門性を欠くし当面本稿の論点ではないのでこれを解く気はないけれど──港川人がなぜ謎なのかというと,彼らが大陸・台湾(高砂族など先住民を含む)と日本のどちらの先史の通説でも位置づけられないかららしい。
 骨格は「骨格は中国南部の柳江人や山頂洞人とは違い,インドネシアのワジャク人と類似」しており,遺伝子配列には高砂・漢族に類似すると言われてきたけれど[後掲katzu],2021年の総合研究大学院大・東邦大などの研究チームによるミトコンドリアDNA解析では「港川人1号は,現代日本人や縄文人,弥生人に多く見られるタイプの祖先型の遺伝子を持つ」という。
 素人的には,どういう事なのかもう訳がわからない。

アイヌ・日本・琉球人と高砂・漢族のGm遺伝子配列には「高砂・漢民族とは絶壁のような違いがある」(伊藤俊幸)

(基本情報)港川人の骨格上の特徴

 港川人骨は,放射性炭素年代測定で約1万8千年前のものと確定しています。発見されたのは成人4体の全身人骨を中心とする。

港川人は、男性で身長153cmほどと小柄であり、上腕骨は細く筋付着部も発達していないことや、鎖骨も細く短いことから、肩幅は狭く、上半身はかなり華奢だったとわかる。脚はかなり鍛えられている。顎は華奢だが、狩猟採集民によく見られように歯の咬耗が著しい。骨格の特徴からは、小柄だが、起伏の激しい沖縄を歩きまわり、狩猟採集を行っていたことが推測される。[後掲日本文教出版]

 那覇市の実業家・大山盛保さんが1970年代に動物化石の発見を期に執着し続けた結果,人骨発見に至り,これを偶々来沖した専門家に見せたところが発端になっています。
 沖縄で先史遺跡が見つかるのは,大陸からの土砂を沖縄トラフが遮ることと,日本内地より火山が少なく火山灰に覆われないためと推測されています[後掲琉球style]。沖縄に化石人類が多く住んだことは立証されないけれど,それが残り易いということらしい。

日本本土と沖縄の旧石器時代人の発掘状況[後掲馬場]
*「日本列島本土で旧石器人と見なされるのは、浜北人の一部だけである」のに,沖縄では「1968年以降1980年代にかけて、本島の山下町人骨・港川人骨・上部港川人骨、宮古島のピンザアブ人骨、久米島の下地原人骨などの旧石器人骨が発見されてきた」。[後掲馬場]
 骨格的には,身長153cm程度と小柄。これを沖縄の小規模環境への適応,いわゆる「島嶼効果」とみる向きもある[後掲Baba]。また,うち熟年女性骨と見られる第IV(4)号人骨から見つかった人為的損傷(上腕骨下端部(肘)左右ともに切断・打割り,尺骨の肘頭も同様に打欠け有)は,何らかの葬送儀礼の痕跡と見られています[後掲小田]。

 また、港川人とともに大量のイノシシ骨や絶滅動物であるシカ類化石が発見され、ヤンバルクイナやアマミヤマシギなどの鳥類、ケナガネズミなど、琉球列島に固有の動物たちも発見された。更新世の沖縄島南部には、彼らが生育できる豊かな森林が広がっており、港川人は、そうした環境で生活を営んでいたのである。[後掲日本文教出版]

「豊かな森林」?現在は沖縄本島の南端の海辺であるこの地に,防風林ならともかく,多種の動物が生息する森林があったのでしょうか?──曰く「動物の生活環境は、森林に覆われ水源の豊富な、現在の山原(ヤンバル)の動物相に近いとされる」[後掲野原]。
 さらに,リュウキュウイノシシの動物考古学研究からは,更新世の陸橋を踏破して琉球に入ったのではなく,食糧として人により持ち込まれた動物群があった可能性が示唆されています[後掲高橋]。
 2万年前のこの土地と港川人は,現在の具志頭のイメージを根底からひっくり返さないと理解できそうにない。港川人が琉球人の祖なのか,それとも日本人のそれなのか,どうもそういう定番のパースペクティブで捉える限り彼らの存在は謎の中から姿を現してくれそうにありません。
 もう少し知的に,学術論文原文に近いものを以下読んでいきます。

(参照)論文プレスリリースより

 人種的な系統性について,論文の原分析は朝日新聞の記述よりもっと微妙です。

現代日本列島人集団は、縄文時代に日本列島にいた集団と、弥生時代開始時に大陸から稲作文化を持ち込んだ渡来系の集団の混血であることが、様々な研究から示唆されています(埴原和郎の「日本人の二重構造仮説」(注4))(略)[後掲東邦大学]

(注4)日本人の二重構造仮説
埴原和郎が提唱した、現代日本列島人集団の由来に関する仮説。この仮説では在来の縄文系集団と、稲作をもたらした渡来系集団の混血集団として現代日本列島人集団があると説明されています。数多くの人類遺伝学的研究からもこの仮説が支持されています。[後掲東邦大学]

 簡単に言えば,今回のDNA分析は埴原「二重構造仮説」を揺るがすものではない。港川人は,この二重構造に非常に近いところにいながら,二重構造のどこにも合流しなかったグループだった可能性が高い。

図2 .ベイズ法によって再構築されたmtDNAの系統樹

 mtDNAの系統関係を示した結果からは、縄文時代の人骨のmtDNAと弥生時代の人骨のmtDNAは現代日本列島人集団のmtDNAと非常に近い関係にあることがわかり、埴原の二重構造仮説が改めて支持されました(図2、3)。港川1号人骨のmtDNAは、縄文時代、弥生時代、現代の集団の直接の祖先でないことが示唆されました。一方で、港川1号人骨のmtDNAはハプログループ(注5)Mの祖先型であることがわかりました。ハプログループMは広くアジアに分布しているmtDNAのハプログループで、現代の日本列島集団にも多くみられます。このことから、港川1号人骨のmtDNAは現代の現代日本列島人集団の直接の祖先ではないにしろ、現代日本列島人集団の祖先のグループに含まれるか非常に近いものだということがわかりました。[後掲東邦大学]

 周辺でありながら近接した存在。これだけの叡智を結集しても,縄文系と弥生系のいずれにも位置づけし難いユニークさを持ち続けてる。

図3 .多次元尺度構成法を用いて示された個々のmtDNAの関係

第三項イメージでは捉えられないもの

 繰り返すけど全く分からない。分からないけど,既知のA)日本系とB)中国系のどちらにも属さず,さりとてその中間でもない,でも非常に近いという位置にC)港川人はあるのです。これを,やや本稿に近い言語学の分野に言い換えた記述がジャパンナレッジにありました。

もし、琉球語が弥生時代以降に日本祖語から分岐し、南下して琉球列島にひろがったとするなら、港川人たちが話していたのは日本語ではなく、日本語とは別の基層語を想定しなければならない。(略)残念ながら、現在の琉球語研究は琉球人の起源をめぐる議論の入り口にすら到達していない。[後掲ジャパンナレッジ]

 日中いずれでもない基層が存在する。あるいはその可能性がある。
 このイメージは、海域アジア研究がたどりつきつつあるものに似通っています。

(略)基層語はどんな言語で、現在の琉球語にどんな影響をあたえ、どのような形でのこっているのか。(略)東北地方にのこる蝦夷・アイヌ系言語起源の地名のように、琉球列島の地名に基層語の痕跡は残ってはいないだろうか。[後掲ジャパンナレッジ]

 ただ,この議論をする時に気をつける必要があるのは,第三の存在(C)が質的にまとまりを持っているかどうかは留保されてる点です。AやBと同等の均一さや構造性・系統性を持たないかもしれないし,いわば第四の存在を否定するものでもない。
 言語文化で言えば,基層語が中国語・日本語と同等の求心性を持たない,例えば方言の集合体である可能性は否定されません。

縄文人-弥生人-港川人復元図比較

東南アジア海洋集団の流入可能性

 さて,港川人の「故郷」としてネット上でよく語られるのがインドネシア付近にあったと推定される旧半大陸「スンダランド」です。

 東南アジアではじめての古代人骨格調査でホアビン省カオザム村ハンチョウ洞窟のハンチョウ人と名づけられたベトナム古代人の頭骸骨と港川人の比較結果で、そっくりであるという結果が出た。
 もともと港川人のでっぱったみけんは、インドネシアのワジャク人に似ていると言われていた。[後掲民俗学伝承ひろいあげ辞典]

 あるいは──

世界中の現代人と港川人の骨格を比較していった結果、オーストラリア原住民であるアボリジニが最も近かった。[後掲民俗学伝承ひろいあげ辞典]

港川人:スンダランド→沖縄本島南部 イメージ

 考古学的に,東南アジアのある地点の化石人類と港川人が完全に同定されることは,おそらく期待できないでしょう。スンダランドの海洋民が船団を組んで沖縄に集団移住したわけではなく,あくまで漂着であっただろうからです。
 だから,南洋の何処かからの来沖者があったなら,それはパラパラと来たと思われます。──唐の船御嶽の伝えにもあるような漂着をイメージすれば近いのではないでしょうか。帰国を手配する国家とその国際関係がなければ,漂着者は漂着地に住み続けるしかなかったろうからです。
 この点は裏付けにくいですけど……あえて言えば,宮古島の上野字野原から発見されたピンザアブ洞人(推定年代:約25,800〜26,800年前)の骨格は,はっきりとオーストラレーシア人(オーストラリアやニューギニアの先住民)に近いと断定されてます。港川人がそうと断定できなくとも,南洋からの渡来人口は港川人より前の時代に既にあったのです。
ピンザアブ洞人復元図

 だとすれば,港川人Cが縄文人Aの祖か弥生人Bのそれか,という問題の立て方が誤っています。港川人がパラパラと来た小集団であるなら,縄文人や弥生人を単独でその子孫に持つことはあり得ない。
 着目すべきは,港川人がその一部だった「パラパラと来る」雑多な海洋民ΣCの流れです。彼らの渡来の形跡としてたまたま港川人,あるいはピンザアブ洞人の骨格化石が出土したとしてもそれに,大集団A・Bと同様のアプローチで執着し続けるべきではないと考えます。
 海洋民群ΣCすら縄文・弥生人A・Bに対しては周辺であるのに,CとA・Bを比べて相互の包含関係(ex.A⊃C,B⊃C)を検証しても,それが仮に成立しようとしまいとそれは本質たりえない。
 では,その本質とは何でしょう。

海人の時空∶小規模・異質・連携志向の群

 狭義の漢族の祖は,黄帝を奉じた姬水(陕西武功漆水河)流域の小部族と考えられます。

 それが,主に中国南部の越族(≒現・苗族)とのジャイアント・インパクトを経て彼を飲み込み中国大陸全土を支配域にする巨大惑星と化しました。

 その周辺たる日本は,西九州の海民の一族が瀬戸内海を転々と流浪した果てに,近畿奥地に籠った王朝に端を発します。

 その日本に後に侵略・併呑される琉球も,北山亜流の朝貢組と前期倭寇の一分流の連合勢力が,経済力で前代の支配勢力・北山に辛くも勝利して始まりました。

 どの惑星(陸上国家単位の文化)も,最初は,パラパラと流れついた微惑星が暴走成長することで国なり王なりを名乗るところまで来たわけです。
「縄文人」や「弥生人」が歴史の教科書ではその前代に書かれるから混同するけれど,彼らは中国・日本・琉球といった求心力と構造性と排他性を持った存在ではない。だから当然,パラパラしてる集団です。
 港川人は,そのような時代──ここで意図して使っている太陽系生成期*の用語で言えば「後期重爆撃期仮説」──に南洋からパラパラと降り注いできた海洋民の一派です。当然に骨格やDNA上も他と同定し難いユニークな存在なのです。
*太陽系生成期の用語については,後に一項設けたのでご参照のこと
 ユニーク,というのは港川人が他に秀でて特殊,ということではない。惑星生成前のプレ人類世界では,統合・構造化・排他のパワーが基本としてないからユニークなものしかない。そういう普遍的ユニークさのことです。
 アステロイドベルトのように,そうしたユニークな集団だけのエリアが現代にも存在した(かつてのパキスタンの連邦直轄部族地域 Federally Administered Tribal Areasやアフガニスタン,現ビルマ北部など)。けれど有史上メジャーには,惑星に近隣したトロヤ群のような微惑星群として残存し続けてきました。それらは──
①小規模で,単一で惑星と直接に重力関係を築けないけれど,群としては惑星の運動と共鳴している。
②群の中の個別微惑星の性格は多種多様で,平均値も意味を成さず,惑星のように均質な想定での分析は有効でない。
③にもかかわらず,一定の重力モーメントを共有する。例えば,互いに交易利益を欲しているから,海賊行為も含め恒常的なルールと市場が存続されていく。

(再掲)(木星)トロヤ群の小惑星
凡例(図上,木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群,後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星

 置換関係を整理してみる。──太陽の連星と言ってもいい木星,太陽と木星の連鎖に影響される天王星や海王星,そしてこれらのトロヤ群微惑星という三者。そのような作用の関係に,中国,日本・朝鮮・琉球,海人群は置かれています。
 海人は単独では惑星,なかんずく木星の引力に従属する。ただ,ニースモデルの示す38億年前頃の惑星移動に見るように,微惑星群総体は時に木星の軌道を揺るがし,天王星と海王星の軌道を逆転せしめるほどのインパクトを発する。
 小規模でもユニークでかつ定流にまとまる群は,そうした流動を造る。何となれば,巨大惑星もまた元々は微惑星に起源を持つのだし,要するに惑星系全体の根源的状態が微惑星の流動だからです。
 巨大惑星の物理位置ではなく,微惑星の流動からのみ,歴史は有効に語ることが出来ると信ずるわけです。
「細部に神は宿り給う」(英∶God is in the details. 独(伝・原語)∶Der liebe Gott steckt im Detail.)とは,倫理や美学の観点のみならず,根本的には明知についての箴言なのです。
「ジャマシチ」(南城市玉城前川付近,サキタリ洞遺跡上流)かつてはテナガエビ(タナガー)やフナ,ウナギなどが棲んだという水辺

雄樋川流域の3万年

 港川人の発掘されたフィッシャーは,雄樋川の河口付近にあります。
 石灰岩台地に広く覆われた沖縄島南部は,概して川らしい川は流れにくい土地です[後掲沖縄県立博物館]。けれどこの雄樋川だけは,それなりに大きな川なのです。
 現代の流域は,概ね開発され切ってしまっているけれど,幸い玉泉洞などの自然公園化によって中流域には上記写真のような清流風景が残存します。──ただ写真のジャマシチでさえ,現在は流れとしては淀み,生態系はほぼ破壊され生物は少ないけれど。
 人類代におけるこの川の概観をなぞって,長引いたレポを一旦締めます。

国土数値情報河川データセット 雄樋川水系 (色別標高地図)

 糸満壕(糸満アブラチガマ)に発して西南西に進んだ後,前川ガンガラー付近で東南東に折れて狭い氾濫原を形成しています。
 現在,玉泉洞やガンガラーの谷がある辺りでは,何と川は自然の暗渠状態になり,地表からは姿を消します。元々はもっと長い流域が地中水流だったものが,上部構造が崩れて地表に表出したとも考えられています。
三次元イメージ:雄樋川流域(国土地理院地図タイル∶Kashmir 3D)

 ガンガラーの谷付近に2007年から発掘調査が始まったのがサキタリ洞遺跡。港川フィッシャーの1.5km上流に当たる。
 2点で日本考古学を震撼させた遺跡です。
 2010年に1.2万年前の人骨と石器が発掘。旧石器時代の人骨と石器の同時発見は日本初だったけれど──2013年に県最古の土器(8千万年前)発見に続き,2014年2月には2.3〜2.0万年前の貝製のビーズと道具,人骨が同時発見。古さの記録を二倍に自己更新したのに加え,日本初の旧石器時代初の貝器発掘遺となりました。

サキタリ洞遺跡で、2万3千~2万年前(旧石器時代)の地層から、貝製のビーズ(装飾品)と道具、人骨が見つかったと発表した。旧石器時代の遺跡から貝器が出土するのは国内初。[後掲沖縄タイムス2014.2]

 けれど発見はこれに終わらず2016年には──

サキタリ洞で発掘された世界最古の釣り針。幅14mm程度。ニシキウズ科の貝の底面を割り,平らな部分を砥石で磨き上げて製作されたと推定されている。(沖縄県立博物館・美術館所蔵)

世界最古の釣り針(2.3万年前)が発見されています。この遺跡では3.0万年前の幼児人骨も発見。日本国内で山下洞人(3.2万年前)に次ぐ古さです。[海洋政策研究所]
 つまりサキタリ洞では,短くとも2.2万年間に渡る人間の生息が確認されており,明確な漁撈技術の痕跡がある。──釣り針発見後,動物遺物から人為的に解体された魚骨が分別されるようになったところ,川棲のオオウナギ,海棲のブダイ・アイゴを発見。数が多かったのはモクズガニとカワニナ(川蜷∶淡水巻貝)だという。
 特に,カワニナ殻は成長線に沿った酸素同位体比から漁獲時の水温が推定できる便利な動物遺物だったため,これを集計すると7割が秋,残りも夏と推定されました。つまり,漁獲時期を選択していたという推測までなされています。
 港川で推定された「現在の山原の動物相に近いとされる」[先述,後掲野原]という点からも,石灰岩が骨を残しやすい事に加え,極めて有利な居住地だったことは否定しにくい。そこに南方からの漂着が重なったとあれば──雄樋川中下流域が,2万年以上,農耕以前の時代人の生活知が蓄積される土地であり続けたのは,むしろ当然であったと考えられます。
 もう一つ付記するなら,にも関わらず港川フィッシャー付近の字名が明治以降だというのは,雄樋川河口部にさして大規模な集住圏がなかったことを予想させます。
 唐の船御嶽を造った人々も,海人からすると利点の多いその空き地を最初は半ば不法占拠した格好だったのでしょう。幸いこの中国系の集団は帰路につけたんけですけど──おそらく「ゆったちじょう」の人々はゼロからの開拓を選んだ。そのようにして,流れ着いた人々が累積して住み着いて築いていったのが,雄樋川流域3万年の歴史だったのではないでしょうか。

 さて,このような特異な陸上地形(どう結びつくのか素人には理解し難いのですけど)ゆえなのだと思われます。この雄樋川河口周辺の海底地形を掲げて,次章へのバトンと致します。

雄樋川河口付近のやはり特異な海底地形

地球の生成──太陽生成時の小物体が引力で次第にまとまったとされる。[全地球史アトラス]

[異分野参照]太陽系惑星成長過程:原始惑星系円盤(京都モデル)とニース・モデル

 太陽系の惑星の生成は,まだまだ謎に包まれているけれど,①水平面に②中間に大型惑星を挟んで配列し③月のような大型衛星が存在する諸事実を同時に説明するモデルとして,1970年代〜1980年代に京大の林忠四郎さんらの研究グループが提唱したものが,今のところ有力な基盤仮説です。[後掲exoxyoto]
 これによると,太陽の周囲に残存する星間物質は,系全体の回転のために分子雲を形成し,これが自身の重力で潰れ,密度を上げていく。

惑星系は太陽に比較して小質量のガスとダストからなる太陽周りの回転する円盤から形成される。[後掲理科年表]

──とここまでは何とか素人の想像でついていけます。問題は,それがなぜ恒星ではなく惑星になるのか,です。というのは,星間物質が集まってもそれは互いに破壊されるだけで大型にまとまるだろうか,という疑問が従来から呈せられていたからです。

太陽系形成の標準シナリオの模式図
( 原始太陽系円盤を横から見た場合の片側だけを描いている[理科年表]

 現在想定されている,惑星形成までの作用は,概ね次の3つがあります。

作用1:ジャイアントインパクト(大衝突)

 原始惑星は、お互いの重力により長い時間をかけて互いの軌道を乱し、いずれ衝突合体を起こします。(略)例えば地球の場合、火星サイズの原始惑星10個ほどが互いにジャイアントインパクトを繰り返し、地球サイズにまで成長したと考えられます。
 最終的に、原始惑星同士の間隔が十分に広くなり、衝突合体が終了したところで、「地球型惑星」の形成が完了することになります。
 ちなみに、ジャイアントインパクトの際の衝突破片が原始惑星の周りにばらまかれ、その破片が集まることで「月」が形成されると考えられています。[後掲exoxyoto]

 この作用だけであれば,巨大惑星は形成されません。その形成は,次の2つの作用で説明されています。

作用2:暴走(的)成長

大きくなった微惑星ほど重力が強く、またサイズが大きいため衝突もしやすくなるため、衝突合体のペースが速くなります。つまり、最初にちょっとだけ大きくなった微惑星が、他の微惑星を差し置いて、どんどん大きくなっていくことになります。[後掲exoxyoto]

 少し大きな微惑星が出来ると,他を吸収して加速度的に大きくなる。上記1の火星規模の惑星同士だと互いに砕け散るけれど,規模の差があると衝突合体する。

原始惑星の形成(10∧6-10∧7年)
 微惑星は太陽のまわりを公転しながら衝突合体(集積)して成長する。大きな微惑星ほど強い重力で周囲の微惑星を集めて速く成長する。これは暴走的成長と呼ばれる。微惑星の暴走的成長により原始惑星(10∧23-10∧26kg)が形成される。[後掲理科年表]

作用3:寡占成長

最初多量にあった微惑星は、最終的に少ない数の「原始惑星」を形成することになります。この過程を「寡占成長」とよびます。[後掲exoxyoto]

 最後に難問になっていたのは,惑星の成長の暴走はなぜ今の規模に止まっているのか,という点です。暴走成長の理論を作った物理学者たちは,同時にそれを止める理論も作らなくてはならなくなった。

原始惑星はある程度大きくなると重力で周囲の微惑星を振り回してしまうため成長が鈍り、また重力による相互作用によって隣どうし一定の間隔を保ちながら成長する。[後掲理科年表]

 つまり,惑星の成長を止めたのは既成惑星自体の引力が一定規模以上に大きくなりすぎたためと考えられているわけです。規模成長が他の規模成長を阻害する。──この作用は,海域アジアに転用する時に最も重要です。

作用3@:惑星形成阻害

 太陽系惑星のもう一つの古典的な謎に,アステロイドベルト(メインベルト)があります。
 小-大-小と円盤状に揃った惑星サイズが,なぜ火星と木星の間でだけ乱されて,小惑星だけのベルトしかないのか?──17Cにヨハネス・ケプラーが第5惑星を予言し,19C初めジュゼッペ・ピアッツィがようやく発見した準惑星ケレスは,冥王星が惑星から脱落した21Cの国際天文学連合会議で冥王星同等と見なされています。
 かつて言われた既存惑星の崩壊説は,現在の通説では否定されており*,次の木星干渉説が有力です。
*巨大惑星の痕跡となる熱変成が発見されないため。

先に形成された木星の強大な重力の干渉で、惑星の形成を阻まれた素材たちが、バラバラのまま惑星軌道を回るようになった、というのが現在の有力な仮説です。[後掲日本気象協会]

 木星は,単に最大規模の惑星であるに留まらず,太陽系の中で唯一「太陽の周りを回っていない」(太陽と木星の重心バランスが,太陽の外の宇宙空間にある)。つまり厳密には,太陽系は太陽と木星の連星系であることが判明しています。
 これは,先の寡占成長による逆作用として惑星成長が阻害される作用が,たまたまこのベルトに強く働いたことを意味します。

外惑星と微惑星帯のシミュレーション*。
上図) 木星と土星が 2:1 軌道共鳴 に入る前の初期の配置
中図) 海王星 (暗い青) と天王星 (明るい青) の軌道が変化した後に微惑星が内太陽系へと散乱される様子
下ズ) 微惑星が惑星によって弾き出された後
*原典: R. Gomes; H. F. Levison; K. Tsiganis; A. Morbidelli (2005). “Origin of the cataclysmic Late Heavy Bombardment period of the terrestrial planets”. Nature 435 (7041): 466–9. Bibcode: 2005Natur.435..466G. doi:10.1038/nature03676. PMID 15917802.

2005シュミレーション:ナイスなモデル Nice model

「はやぶさ」の活動もその外縁にあるように,小惑星を巡る議論は年々そのホットさを増しています。現代の論点は,内太陽系における後期重爆撃期(38億年前),オールトの雲,エッジワース・カイパーベルトの天体,海王星・木星のトロヤ群,海王星の重力の影響下にある多数の共鳴外縁天体など──内容の詳細はほとんどがwikiに項目化され詳述されています──と全てを説明し切る状況にはほど遠いのです。
 でもその中で,コンピュータシミュレーションという現代の武器により最もこれら諸事象に整合する結果を出したのが,で出版されたロドニー・ゴメスら国際的科学者チームによるニースモデル(2005年ネイチャー誌発表)です。──ちなみにニースは提唱場所たるコート・ダジュール天文台のあるフランス地名と,英語のナイスをかけた駄洒落。
 前記の初期原始太陽系星雲が惑星形成をした後に,4巨大惑星(木星・土星・天王星・海王星)と小惑星群の相互作用による現在位置への移動(40〜38億年前頃)をシミュレーションしたものです。
 現代まで様々な改良が重ねられていますけど,「Tsiganisらによる初期のモデルでは,シミュレーションの約50%で海王星と天王星の位置が逆転する[*]」。つまり半々の確率で,海王星が天王星の内側を回っていた時代があるらしい。
*原典:Tsiganis, K.; Gomes, R.; Morbidelli, A.; F. Levison, H. (2005). “Origin of the orbital architecture of the giant planets of the Solar System”. Nature 435 (7041): 459–461. Bibcode: 2005Natur.435..459T. doi:10.1038/nature03539. PMID 15917800.

ニースモデルの4巨大惑星の太陽からの距離変化例(赤:木星,黄緑:土星,薄青:天王星,濃青:海王星)。上記シミュレーションでは天王星と海王星の位置関係が逆転し,この時に木星・土星軌道も少しズレている。
*原典:Tsiganis et al., “Origin of the orbital architecture of the giant planets of the Solar System, Nature 435, 2005

このシナリオではカイパーベルトは数百万個もの微惑星を持ち、外縁がおよそ 30au と現在の海王星の軌道付近にあったと仮定している。太陽系が形成された後、4つの巨大惑星の軌道は残存している大量の微惑星との相互作用に影響を受けてゆっくりと変化を続けた。5〜6億年経過した後 (今からおよそ40億年前)、木星と土星の軌道はお互いに離れながら 2:1の軌道共鳴の位置を通過し、木星が太陽を2周する間に土星が1周するという状態になった。

*原典:Harold F. Levison; Alessandro Morbidelli; Christa Van Laerhoven (2007). “Origin of the Structure of the Kuiper Belt during a Dynamical Instability in the Orbits of Uranus and Neptune”. Icarus 196 (1): 258. arXiv:0712.0553. Bibcode: 2008Icar..196..258L
 微惑星と4大惑星の衝突は個別には微惑星を飲み込むだけだけれど,それが数億年重なるうちに,海王星と天王星の軌道を逆転させるとともに,木星と土星の関係性にも影響を与えながら,大半を損じつつ現在の火星-木星間と冥王星外に移動した。
 その過程の残滓が,主に木星が同公転軌道のラグランジュ点に従える,トロヤ群と呼ばれる小惑星群であるらしい。

(木星)トロヤ群の小惑星
凡例(図上,木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群,後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星

木星と土星の軌道が離れた後にトロヤ群領域は「力学的に閉じた状態」となり、トロヤ群領域にいる微惑星は捕獲され、多くは現在までこの領域に残っていると考えられる[*]。(略)
木星が内側へ移動するにつれ、多数の微惑星が木星との平均運動共鳴に捕獲されたと考えられる。(略)ニースモデルでは、これらの過程によって初期に小惑星帯に存在した天体のうち質量にして90%が失われたとされている[**]。この侵食 (erosion) による天体のサイズ頻度分布のシミュレーションの結果は、観測と非常によく一致する[**]。このことは、全てがD型小惑星からなる木星のトロヤ群、ヒルダ群、および小惑星帯外側のいくつかの小惑星群は、この捕獲と侵食の過程を経験した微惑星の残骸であることを示唆している[**]。

*Morbidelli, A.; Levison, H.F.; Tsiganis, K.; Gomes, R. (2005). “Chaotic capture of Jupiter’s Trojan asteroids in the early Solar System”. Nature 435 (7041): 462–465. Bibcode: 2005Natur.435..462M. doi:10.1038/nature03540
**Bottke, W. F.; Levison, H. F.; Morbidelli, A.; Tsiganis, K. (2008). “The Collisional Evolution of Objects Captured in the Outer Asteroid Belt During the Late Heavy Bombardment”. 39th Lunar and Planetary Science Conference 39 (LPI Contribution No. 1391):

 トロヤ群と言うとその数(現在発見数五千以上)から通常は木星のそれを指すけれど,他の惑星ももちろん持ち,地球のものも2011年にカナダのマーティン・コナーズが発見してます。流石はメディア社会の科学者で,コナーズさんは苦労して分かり易い説明をしてます。──この奇妙な小惑星の状態は,伸ばした腕の先にオレンジを持った人が観覧車に乗っているようなもの。オレンジはトロヤ群小惑星,持っている人は地球,観覧車は太陽の周りを回る地球の軌道。

オレンジは観覧車の周りを回るが、そのオレンジを伸ばした腕の先に保持しているのは人間だ。(略)主にそれ(トロヤ群小惑星)を動かしているのは太陽の重力だが、地球もいくらか影響を及ぼしている。地球の重力がなかったら、小惑星は軌道を外れてしまうだろう。オレンジを手放したら、地面に落っこちてしまうのと同じように。[後掲ナショナルグラフィック]

地球に初めて見つかったトロヤ群小惑星は、地球の軌道(青色の点線)に対して奇妙に傾いた軌道(緑色の線)を持つ。

参考資料

*Baba H.(2000) Physical adaptation of the Minatogawa people to island environments. Tropics,10:231-241
*exoxyoto/惑星形成理論 – 太陽系外惑星データベース
URL:http://www.exoplanetkyoto.org/study/formation/
*Katzuの環境BOXブログ/港川人のなぞ
URL:https://www.google.com/amp/s/kazu0103.ti-da.net/a3585934.html
*wiki/具志頭村 日本の沖縄県島尻郡にあった村
 同/ニースモデル,後期重爆撃期仮説,惑星移動
*朝日新聞/日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析:朝日新聞デジタル 石倉徹也,2021
URL:https://www.google.com/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASP6F4FX4P6BULBJ016.html
*沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)/雄樋川(ゆうひがわ)の環境史 | 学芸員コラム
URL:https://okimu.jp/sp/museum/column/122/
*沖縄タイムス/国内最古の貝器出土 南城市・サキタリ洞 2014年2月16日
URL:https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/36848
*小田静夫「港川フィッシャ-遺跡について Minatogawa Fissure as an Archaeological Site」『南島考古』No.28(2009.5)pp.1-17
URL:http://ac.jpn.org/kuroshio/minatogawa2009.htm
*海洋政策研究所-笹川平和財団 / THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION世界最古の釣り針が語る沖縄旧石器人の暮らし
URL:https://www.spf.org/opri/newsletter/400_3.html
*国土数値情報河川データセット/雄樋川 [4700110001] 雄樋川水系 地図
URL:https://geoshape.ex.nii.ac.jp/river/resource/470011/4700110001/
*ジャパンナレッジ「歴史地名」もう一つの読み方: 第6回 琉球語と地名研究の可能性(2):初出『歴史地名通信』<月報>50号(2005年・平凡社)
URL:https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=13
*高橋遼平「ancient DNAを用いた先史時代 琉球列島へのイノシシ・家畜ブタ導入に関する動物考古学的研究」総合研究大学院大学,2012
*東邦大学/港川1号人骨のミトコンドリアDNAの解析で 過去から現在までの日本列島人の遺伝的関係性を解明 | プレスリリース
(論文本文:雑誌Scientific Reports「Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences」2021年6月13日,オープンアクセス)
URL:https://www.toho-u.ac.jp/press/2021_index/20210616-1140.html
*ナショナルジオグラフィック日本版サイト/地球のトロヤ群小惑星、初めて見つかる
URL:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4644/?ST=m_news
*楢崎修一郎・馬場悠男・松浦秀治・近藤恵(2000)日本の旧石器時代人骨. 群馬県立自然史博物館研究報告, 4: 23-46
*日本気象協会/太陽系形成の謎と秘密がそこに?アステロイドベルトとは【地球の兄弟星たち・外惑星編】(tenki.jpサプリ 2021年09月18日)
URL:https://www.google.com/amp/s/tenki.jp/amp/suppl/kous4/2021/09/18/30628.html
*日本の地形千景 沖縄県:鍾乳洞に吸い込まれる雄樋川(前川ガンガラー)
URL:
*日本文教出版/港川人をめぐる調査と研究の最前線|社会科教室(小・中学校 社会)|機関誌・教育情報
URL:https://www.nichibun-g.co.jp/data/education/shakaika-kyoshitsu/shakaika-kyoshitsu055/
*野原朝秀・伊礼信也2002「港川フィッシャー遺跡の動物遺骸」pp29-87,『港川フィッシャー遺跡』141p,具志頭村文化財調査報告5,具志頭村教育委員会
*馬場悠男「特集 日本旧石器人研究の発展:沖縄の現場から幻の明石原人から実在の港川人まで」学術の動向,2020.2
*松浦秀治(2009)日本の旧石器時代人類――特にその編年に関する現状と課題. 日本第四紀学会50周年電子出版編集委員会編「デジタルブック 最新第四紀学(CD-ROMおよび概説集 )」 , 日本第四紀学会, CD-ROM所収.
*民族学伝承ひろいあげ辞典/縄文人はどこから来たか2010
URL:http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16261744.html
*理科年表オフィシャルサイト/特集/惑星系形成論 : 最新 “ 太陽系の作り方 ”
URL:https://x.gd/aNLy6
*琉球新報Style/沖縄で大昔の化石が発見される理由 ◇人類のルーツに迫る 沖縄考古学探検〈1〉
URL:https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-523833.html

「m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m2唐の船御嶽(ニライF68)」への1件のフィードバック

  1. Very nice post. I just stumbled upon your blog and wanted to say that I’ve really enjoyed browsing your blog posts. In any case I’ll be subscribing to your feed and I hope you write again soon!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です