m19Pm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm忠海二窓&幸崎能地(上)

※ 三原市幸崎能地/GM.:地点

源流:漳州で考えた家船のこと

南の記録をまとめる中で蛋民を考えた。その類推のために日本の水上生活者のデータを参照してたら,江戸期の瀬戸内海のある地点に行き着いた。
 広島県三原市,現・JR安芸幸崎の集落,能地です。※ m075m第七波m(漳州)m龍眼营再訪/江戸後期の家船所在地拡大と俵物交易
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(再掲)(漳州)m龍眼营再訪

(略)明治以降の記録でも数百隻単位の水上生活集落が日本各地にあったことになります。
 下記の宮本常一著述によると,この規模は江戸後期にはむしろ拡大した形跡があるようです。

 西九州の海には家船が長くのこっていた。「大村藩史」によると、明治初年船を家とするものの船数が一二〇隻、人口が五〇〇人余いる。その中に酋長がいてあたかも君主のようであったという。天保年間の「大村郷村記」には家船六三艘、人口三〇九人とあるから、財冶初年までの三〇年の間にずいぶんふえたことになる。しかし近世初期にはもっと多かったのではないかと思われる。幕末の頃家船のいたのは瀬戸・崎戸・蠣ノ浦であった。そしてそれらが明治初年までの僅かの間に非常に急速なふえ方をしたばかりでなく、五島福江島の樫ノ浦ヘ一船団分村し、別に海上漂泊しているものが一船団あるといわれる。また対馬にも一船団ほど分村している。
 もともと九州西辺の海人の多くが船住いであったことは鐘ケ崎の海人の項で書いた。しかし海人仲間の男が捕鯨事業にしたがうようになって家船は次第に解体し男はクジラ糾に働き、女がのこって潜水作業をつづけることになる。
※ 宮本常一著『海に生きる人びと』双書・日本民衆史三/二〇 捕鯨と漁民,未來社,一九六四年

 この拡大は,下記小川記述によると,18世紀の俵物の生産とこれの対中国貿易の興隆が相関していると見られます。
 教科書的には鎖国真っ只中にある江戸期に,日本海民は中国交易ネットワークを担い,発展を遂げてます。

小川徹太郎は、(略)「近世瀬戸内の出職漁師―能地・二窓東組の『人別帳』から」(1989)では、河岡武春が資料とした善行寺の「過去帳」に加えて、
1833(天保4)年の「宗旨宗法宗門改人別帳」と「御用日記」を用い、近世末期における能地・二窓東組の漁民の出職(出漁)先の分布をめぐる問題を、(略)この時期、幕府は、日中貿易における必要性から俵物の生産力を最大限に拡充するために、「全国」すべての浦浜に強制的に俵物生産を課すことのできる、いわゆる生産高「請負制」を1799(安永8)年に導入しており、両浦漁師の出職は、こうした「全国」ネットの施策の展開とも無関係ではなかったという〔小川 2006.7:190-225 頁〕。小川は、能地・二窓東組の漁師に関して、先の河岡の研究を踏まえながら次の点を指摘する。 (続)

▲(再掲)「瀬戸内海周辺における能地と二窓の枝村分布」[前掲浅川論文 原図:広島県教委「家船民俗資料緊急調査報告書」,1970]

(続)第一に、幕府の俵物貿易が本格的な展開をみせる1700年代初頭(特に享保期1716-1735)の頃に、両浦の漁師による瀬戸内海全域への寄留・移住現象が見られるようになること。
第二に、それから約100年を経た 1800年代に、両浦の漁師の人口増加と他国への頻繁な出職が顕著になること。ちなみに、1833(天保 4)年の「人別帳」によると、両浦出職者の人口は地元在住者の約3、4倍を占めていた。
第三に、1800年代の両浦の出職者は、深く俵物(生海鼠)生産に関与していたこと(18)。
※(18) 小川徹太郎は、二窓に関しては「東浦役所文書」(倉本澄氏蔵)を根拠に、また、能地に関しては、〔池内1956.1〕を手掛かりに、このような結論を導き出している。[前掲山本2016]

 後日,広島県教委の原典資料に当たることが出来ました。上記図の原図は以下のものでした。

▲能地・二窓移住居留地図(西半分:広島県以西)

▲能地・二窓移住居留地図(東半分:岡山県以東)

▲同アップ 最西・東・南の移住村
(最西:現福岡県小倉平松 最南:現大分県臼杵都留 最東:現和歌山県雑賀崎)

▲同アップ 広島県・愛媛県エリア

▲同アップ 岡山県・香川県エリア

 県教委の手法は,善行寺の過去帳に掲載されている移住・出漁先の字名をプロットしていったものですが,これには当然濃淡がある。地図の前に載せられている表にカウント数(「筆数」)も記載されています。多いところはぐんと多く,かつその数は少ない。
 また,相当数の字名が位置が「不明」として漏れています。これは瀬戸内海エリア内を想定しているからで,能地からの出漁民が前掲小川徹太郎の言うように俵物生産と関係があるならば,「不明」字名の幾つかは瀬戸内海外,例えば日本海岸や太平洋岸のどこかである可能性も残ります。
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実地訪問

三原市立図書館が「館内の利用はできません」??
いわゆる4波の緊急事態宣言が近づいているので,県外へ行けないこの機会にかねてから狙ってた三浦行きを企画しました。それにしても「不用不急の外出は極力控え」なければならない。そこで,急に思い立って急遽宿を予約して出かけることに……あ?それは違う?

R30515曇天。昼前には雨と予報。どうせダメ元の道行きですけどね。
0935もう列車はいる。三原から呉線広行き乗車。三原市立図書館がすぐそこに見えてます。
0947定刻発車
まず一度西へまっすぐ筆影山にぶつかるところまで走って,大きく左折,山沿い下を通る。集落の上手をゆっくり走る。この急カーブがかつての海岸線なんでしょうか。石垣は古く路地道もちらほら。でも岸の構造はコンクリート。
0953すぐ左手が海になる。この景観は本当に珍しい。
真下に赤い鳥居。地図によると稲荷神社。
0955須波。見た目は集落に港町の風情はない。
海側に学校。
港。
すなみ海浜公園。車速は非常に緩くなる。
みはらし温泉。トンネル。抜けるとドックが見えてくる。
湾に小島。──後に幸崎で見た地図ではこれが有竜島。対岸は三原方面から久和喜(くわき)海岸,宇和島海岸
路地の道はかなり古いぞ。
1002安芸幸崎。ああ,この,車両で通ると今治造船ドックしか目につかない地域の山側なのか。これは歩くに難解そうです。
バス通る。
この途中の静かな谷は何という集落だろう。
本当にすぐ左手が海。砂浜の上を走るよう。
海が離れ,小さな川のある集落。二窓です。神社も視認。
1010忠海。下車。あんまり考えてなかったけど……ウサギだらけ!
まず東行。
1014右へ行くと忠海港。橋を渡る。信号,興亜橋東詰。ここはまっすぐ。
バス停・大久野島入口。なんじゃそりゃあ!
三原行1059★ 1304 1434
しめた!
1023小さな峠。ad忠海東町二丁目9番
左手に芸南学園校地
1029列車から見えた神社。バス停芸南学園前。三原行き1100

▲最初に目にした「二窓」の文字

国道と線路を渡り南へ。二窓踏切との表示
ad忠海東町五丁目1番

▲神々の集合団地

▲裏手の諸仏

1030氏神国津小丸居神社。寄進も多い。規模も大きい。
まず3社。八坂神社と石柱。個別に記名はない。最左に金比羅大権現の文字のある石柱も。後方に古仏多数,磨耗す。その中央に「水神」の文字
1039本殿。大峰山を敬う信仰なのか?昭9と29の額

▲大峰山の額

右手にも漢字一文字の読めない社2
1041川沿いを辿る。
1044西岸へ。これが集落本道でしょう。
1045恐らく厳島神社。

▲川沿いの道

▲網と川

▲集落道

▲厳島神社?

▲集落道2

▲銭湯

1049銭湯?
1052千手観音のいるお堂

▲千手観音

▲集落道。これがメインロードらしい。

ああっ1100は土日は運休!1125忠海JRか!

山頂南面に社?丁度二窓直上です。あ,これが大峰神社か。直下に観音堂もある。

▲忠海駅のウサギ

アナウンス「間もなく三原方面の列車が参ります。通過列車の場合もございます」って,それは怖いじゃないか!
1125隣の安芸幸崎まで乗車。まだ空は持ってる。

▲最初に目にした「能地」の文字

1133下車。三原行1232 1327 1425 1525
左手,西へ。
荷物を抱えた中国人の一群。
三原市立幸崎中学校

▲線路を渡る

1143川を渡る。踏切。幸崎神社
登り口元鳥居石柱には「安政三丙辰十一月」

▲神社登り口

二つ目の鳥居前左手踊場に木製の社。記名なし
1152本殿見ゆ

▲本殿が見えた

▲八幡宮の文字

▲社と集落

▲右ブッタ切れしめ縄

手前30m,両脇に太いしめ縄の小社。しめ縄はどちらも右側でブッタ切れてる。
手前25m,奉寄進の後に「八幡宮」とある。
20m,両脇に2ずつ社。
10m,やはり1ずつ。
左手にも小社や祠多数。
ここにも右ブッタ切れしめ縄。何の象徴だろう。

▲皇紀二千六百年

皇紀二千六百年とある石柱の脇は恵比寿らしい。
最奥は石鎚神社と再建世話役の碑にある。

▲最奥は石鎚神社

本殿正面左手に何と喫煙所。コンクリートブロックの焼き場所のようなエリアがあるから,やはり今でも何かの儀式をしてるのでしょう。
右手の「水兵一等卒」と書かれた石碑も目立つ。
上から見ると広大な埋め立て地。その北側に集落が列を成すのが旧海岸沿いの家並みらしい。地図上は「本通り」と書かれる。
本殿敷地入口右手に「在阪郷友會」の文字の石柱。

▲本殿正面の方形の焼き場所

▲1214

▲在阪

▲能地集落本通り俯瞰

▼▲1216降りる。
1223右手西側へ。ad幸崎四丁目4▼▲

▲幸崎能地住所表示図
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■レポ(上):▼▲

傍証:箱崎漁民の活動範囲

▲箱崎漁民の主要漁場(昭和37年10月)
1.愛媛県南宇和郡御庄町を拠点とする豊後水道一帯
2.山口県柳井市東浦町を拠点とする南東海上一帯
3.愛媛県温泉郡中島町 中島-安居島の周辺海域
4.因島-弓削-岩城-生名等因島の周辺を中心とする燧灘※一帯(引用者注:(読み)ひうちなだ)
5.香川県塩飽本島を中心とする海域。丸亀に至る。
6.屋島の庵治を拠点として,小豆島・豊島・大槌・小槌に及ぶ海域
7.香川県大川郡引田町(引田湾)周辺海域
  6の船が南下する
8.淡路島富島町を中心とする周辺海域
9.神戸を拠点とする大阪湾西北部
10.淡路島 由良-友ケ島の由良瀬戸一帯
(図注釈:本図作成にあたっては,昭和37年,土生漁協に在職された参河敏三氏の御教示をうけた。)[前掲広島県教委 昭45]

 この図についての本文記述は次のようなものです。この中の図1が上記に当たります。
 なお,表1の係数も江戸期の「土地に縛られた」教科書的住民像からすると驚くべきものなので,下に表を作り直してみています。

 能地から内海への漁民の発展をあとづけるものは,口碑以外には善行寺の過去帳(7冊)と「宗旨宗門改人別帳」(3冊)がある。
「宗旨宗門改人別帳」によると能地浦からの出職先きは64か所,船頭420人,人数2053人に達し,二窓浦のそれは29か所,船頭192人,人数1013人に及び,浜組の人口は646人であるから,約3倍に達する人たちが出職しており(表1)その出職先きは安芸,備後,伊予,讃岐,備前にまたがっている(表2)。さらに出職先を善行寺の過去帳によってみれば,初出宝永6年(1709)から明治30年(1897)の約200年間に,実に150か所を越え,東は紀州新宮から壱岐方面の広範囲に出職していたことが明らかになる(図1)。
 しかし,善行寺は享保12年(1727)に回禄にかかっているために,それ以前の記載の乏しいことも考えあわせると,能地を親村とする枝村の期限は近世初期からと考えられるが,その数がとみに増加したのは江戸時代も中期をすぎ,貨幣経済の台頭により農村を基盤とする封建制度が崩壊の途をたどり,農民層の分解がおこなわれる頃と期を一にしている。[前掲広島県教委 昭45,橋本昭子]

▲前掲表1を基に作成

家船緊急調査:歴史環境▼▲

 三原市幸崎町能地は瀬戸内海のほぼ中間に位置し,南は芸予の諸島に連なり,自然環境にめぐまれた所である。この地の漁業は古くから知られ,口碑によると瀬戸内海漁業の発生地ともいい,能地を親村として内海に多くの枝村を発展させた土地として知られている。日本書紀巻八仲哀天皇二年夏六月の頃に「皇后角鹿より立ちて行まして渟田門に到り,船の上に食す。時に海鯽魚多く船の傍に聚る,皇后酒を以て海鯽魚に灑ぎたまふ,海鯽魚即ち酔ひて浮きぬ,時に海人多く其の魚を獲て歓びて曰く,聖王の賞ふ魚と,故れ其の処の魚六月に至りて常に傾浮ふこと酔へるが如し,其れ是の縁なり」(岩波文庫本)とあるのはこの能地のことであるとの伝承をもっており,今でも有竜島の西の能地堆で節分から40日(おそくても48日)から88夜ごろまでの大潮の時に浮鯛の現象がみられ,それと結びつけられている。[前掲広島県教委 昭45,橋本昭子]

 19世紀初頭「芸藩通志」の編さんにたずさわった頼杏坪は,その中で,倭名抄に沼田郡に七郷あって,その一つに安直というのがあり,松江村,総定村,七宝村あたりを安直の郷というが,古は田野浦・能地・須波をもそう呼んだのではないかと唱えているが確証はなく,能地の古代はベールにとざされているが,中世においては沼田庄内の一部であったと考えられる。江戸初期に三次支藩がおかれたころ,能地,忠海・渡瀬村は忠海村としてまとめられ,その海港が一つとなったが,のちに三村に分けられ能地村となった。古くは「野牛」とも書かれたことが「防長風土註進案」にも「芸藩通志」にも見える。能地は現在,三原市幸崎町であるが,昭和31年9月に三原市と合併する以前は豊田郡幸崎町といい,昭和4年町制を施行する以前は佐江崎村と称し,明治22年以前は能地村といった。[前掲広島県教委 昭45,橋本昭子]

家船緊急調査:宮本常一記述部分▼▲

 能地の人たちはそのはじめはほとんど小網漁であった。そしてほとんど旅へ出ていた。子供も船の上で生むことが多かった。産気がつくと船をつけて,男に産婆をたのみにいってもらって生んだ。橋本トミさんも2人の子を旅さきで生んだ。能地の人で70才以上の者ならば,大半が船の上で生れたといってよい。死ぬる場合も船の上で死ぬることが多かった。そういうときは陸へつけて野焼きして骨をもって帰ることが多かった。海で遭難して死んだ人のあるようなときには浜へ埋めておいてあとからとりにいった。ある女が四坂島へイリコを買いにいったかえりに風に吹きながされて観音寺へ流れついたことがあるが,女は死んでいた。そのときも死骸は浜にうずめてあり,それを村からとりにいったことがあった。葬式はすべて能地でした。そして鐘崎へ墓をたてた。
 船での生活はつつましいものであったが,みなきれいずきでまた陽気であった。どこへ出ていくのにも屈託しなかった。女はみなバネ仕掛のように働き,とった魚は船をおかへつけるとすぐハンボウに魚をいれて売りあるいたものである。[前掲広島県教委 昭45,宮本常一]

 機帆船になるまえに小さな運送船でイワシを買いにゆく船が昔からあった。遠くは平戸・五島までいってイワシを買って尾道の問屋へ売った。これは賃積ではなく金を持っていって買ったものである。その金は尾道の問屋で借り,平戸五島へいって土地の商売人にその金を貸して契約し,イワシを煮干に製造したものをひきとって積んで来た。これはもうかる商売であった。大削若松翁の祖父にあたる人がこの煮干買いをしていたが,大きな壺に藩札が1ぱいつめてあったという。また大きなモッコに穴あき銭を1杯いれてかついで戻って来た家も4~5軒もあったという。そういう船が10艘ほどあった。
 これらの船と九州と大阪の間を石炭をはこんだ帆船は別で,それも10艘ほどあった。この方はそのよい時代はみじかくてほとんど損をしてしまい,船は売り,その人たちは陸へ上った。そしてこの土地にいるものも少ない。[前掲広島県教委 昭45,宮本常一]

網漁から商船にきりかえるものも少なくなかった。そして財産ができると陸上りして商売したり,または三原糸崎などの会社へつとめるようになっていった。商船にのった者がみな財産をつくっている。このようにして漁業だけで生きる人が次第に減っていった。
 しかし働けるかぎりはみな働いている。いま能地ではイカナゴ漁が盛だがその時期になると,漁船を持っていないものもみなやとわれて沖へでる。80才になった老人でも働いている。
 船住まいをしている人は1人しかいなくなった。夫婦と子供でいまも小網をやっているが小網だけでは食えないのでドカチン(土木工事)の人夫にいったり,イカナゴ時期にはイカナゴ網にやとわれるが,この土地には家をもっていない。
 能地というところは大へん活気のあるところで,このようにその経営を充実させつつ次第に陸上りしていったのであって,それでは力のないものだけが漁をしているかというと,そうではなく,海への愛着のたちきれないものがなお漁業をつづけているのである。1日海を見ないと気分がわるくなる人もあるという。ただその人たちのために能地沖の海は魚が少なくなりすぎ,せますぎる。しかも学校教育の関係で昔のように魚を追うての船住まいはゆるされなくなった。[前掲広島県教委 昭45,宮本常一]

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