m19Pm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm忠海二窓&幸崎能地(上)

~(m–)m 本編・次編関係位置図 m(–m)~
能地・二窓・吉和の位置(広域)〔後掲瀬戸の島から/近世小豆島の海鼠加工〕
吉和(尾道市)・能地(三原市)・二窓(竹原市) ※上が西

源流:漳州で考えた家船のこと

南の記録をまとめる中で蛋民を考えた。その類推のために日本の水上生活者のデータを参照してたら,江戸期の瀬戸内海のある地点に行き着いた。
 広島県三原市,現・JR安芸幸崎の集落,能地です。※ m075m第七波m(漳州)m龍眼营再訪/江戸後期の家船所在地拡大と俵物交易
 漳州でのメモを少し振り返ります。なので前置きが長くなります(→本編:実地訪問へ)。

(再掲)(漳州)m龍眼营再訪

 漳州で蜑民の存在を想定せざるを得なくなった時,驚愕した点は,その①移動性・②拡張性・③可変性でした。遠きに逃げるのではなく,その地でむしろ規模を格段に増す。それだけの成功体験に関わらず,新たな変化へさらに挑む。
 近代華僑の海外進出に特化した話かと思いきや,その類似形が瀬戸内にあったわけです。さらに刮目すべきは,陸人から躊躇なく無視されるこの水上生活者が,瀬戸内に限っては国の音頭で学問的にモニタリングされている奇跡的な事例となったことです。

宮本常一(1907-1981)
広島県教委(文化庁補助)「家船民俗資料緊急調査報告書」(1970)の著述者を見ると宮本さんとその門下の民俗学者で,実質の責任者はこの「旅する巨人」だったと思われます。

(略)明治以降の記録でも数百隻単位の水上生活集落が日本各地にあったことになります。
 下記の宮本常一著述によると,この規模は江戸後期にはむしろ拡大した形跡があるようです。

 西九州の海には家船が長くのこっていた。「大村藩史」によると、明治初年船を家とするものの船数が一二〇隻、人口が五〇〇人余いる。その中に酋長がいてあたかも君主のようであったという。天保年間の「大村郷村記」には家船六三艘、人口三〇九人とあるから、財冶初年までの三〇年の間にずいぶんふえたことになる。しかし近世初期にはもっと多かったのではないかと思われる。幕末の頃家船のいたのは瀬戸・崎戸・蠣ノ浦であった。そしてそれらが明治初年までの僅かの間に非常に急速なふえ方をしたばかりでなく、五島福江島の樫ノ浦ヘ一船団分村し、別に海上漂泊しているものが一船団あるといわれる。また対馬にも一船団ほど分村している。
 もともと九州西辺の海人の多くが船住いであったことは鐘ケ崎の海人の項で書いた。しかし海人仲間の男が捕鯨事業にしたがうようになって家船は次第に解体し男はクジラ漁に働き、女がのこって潜水作業をつづけることになる。
※ 宮本常一著『海に生きる人びと』双書・日本民衆史三/二〇 捕鯨と漁民,未來社,一九六四年


 この拡大は,下記小川記述によると,18世紀の俵物の生産とこれの対中国貿易の興隆が相関していると見られます。
 教科書的には鎖国真っ只中にある江戸期に,日本海民は中国交易ネットワークを担い,発展を遂げてます。

小川徹太郎は、(略)「近世瀬戸内の出職漁師―能地・二窓東組の『人別帳』から」(1989)では、河岡武春が資料とした善行寺の「過去帳」に加えて、
1833(天保4)年の「宗旨宗法宗門改人別帳」と「御用日記」を用い、近世末期における能地・二窓東組の漁民の出職(出漁)先の分布をめぐる問題を、(略)この時期、幕府は、日中貿易における必要性から俵物の生産力を最大限に拡充するために、「全国」すべての浦浜に強制的に俵物生産を課すことのできる、いわゆる生産高「請負制」を1799(安永8)年に導入しており、両浦漁師の出職は、こうした「全国」ネットの施策の展開とも無関係ではなかったという〔小川 2006.7:190-225 頁〕。小川は、能地・二窓東組の漁師に関して、先の河岡の研究を踏まえながら次の点を指摘する。 (続)

▲(再掲)「瀬戸内海周辺における能地と二窓の枝村分布」[前掲浅川論文 原図:広島県教委「家船民俗資料緊急調査報告書」,1970]

(続)第一に、幕府の俵物貿易が本格的な展開をみせる1700年代初頭(特に享保期1716-1735)の頃に、両浦の漁師による瀬戸内海全域への寄留・移住現象が見られるようになること。
第二に、それから約100年を経た 1800年代に、両浦の漁師の人口増加と他国への頻繁な出職が顕著になること。ちなみに、1833(天保 4)年の「人別帳」によると、両浦出職者の人口は地元在住者の約3、4倍を占めていた。
第三に、1800年代の両浦の出職者は、深く俵物(生海鼠)生産に関与していたこと(18)。
※(18) 小川徹太郎は、二窓に関しては「東浦役所文書」(倉本澄氏蔵)を根拠に、また、能地に関しては、〔池内1956.1〕を手掛かりに、このような結論を導き出している。[前掲山本2016]

能地・二窓移住居留地図(原典)

 後日,広島県教委の原典資料に当たることが出来ました。上記図の原図は以下のものでした。
 集計・整理は宮本さんの門下・河岡武春さんによるものです。
▲能地・二窓移住居留地図(西半分:広島県以西)

▲能地・二窓移住居留地図(東半分:岡山県以東)

▲同アップ 最西・東・南の移住村
(最西:現福岡県小倉平松 最南:現大分県臼杵都留 最東:現和歌山県雑賀崎)

▲同アップ 広島県・愛媛県エリア

▲同アップ 岡山県・香川県エリア

 県教委の手法は,善行寺の過去帳に掲載されている移住・出漁先の字名をプロットしていったものです。
 二窓と能地の両浦漁師の檀那寺がこの臨済宗善行寺で,その過去帳に,「〇〇行」という記述で死亡時の場所が記録されている〔後掲忠海再発見206〕ため,これを集計することが可能だったらしい。
 江戸前期のキリシタン弾圧下で徹底された檀那寺制度は,戸籍と同様の全住民の属地管理の手法でもあったので,「漂泊的出稼漁民」(愛媛県史の呼称)は出身地の寺に登録するルールだったらしい。年に一度,又は二度(盆と正月)に帰浦したのも寺の人別帳に記載してもらうためで,これに漏れると「帳はずれの無宿」とか「野非人」と見なされ発覚時には捕縛された──と書く記述もありますけど,史料上確認できないから威嚇的な噂だったかもしれません。

宗門人別帳の記載内容〔後掲瀬戸の島から/讃岐の切支丹政策〕※善行寺のものではない。

 ところが時代が下り,移住先(枝村)での居住歴が長くなり,さらに各漁村への俵物割当の消化専門職として優遇されるようになると,二重課税を逃れるためにも正規の転出を希望する者(「本村離れ」)が増えます。そうなった場合でも,人別帳の管理上,死亡日だけは書くルールだったらしい(≒住民票や戸籍の除票)。それで「○○行」記載が結構厳格に記されている所以です〔後掲瀬戸の島から/近世の瀬戸内海NO4〕。役人の小五月蠅い書類仕事が珍しく功を奏した事例です。

※この状態は,戸籍管理感覚からはかなり問題視されたらしい。1833(天保4)年の2〜7月,藩は,善行寺住職ら(∋能地:割庄屋,二窓:庄屋・組頭)に「諸方出職(出稼ぎ)之者共 宗旨宗法勤等乱ニ付」き,として廻船による「見届」実施(宗門改監視船を回航させての出稼ぎ現地確認)を命じています。

 けれど,これには当然濃淡がある。登録漏れや記載地名の不統一がどうしてもあります。地図の前に載せられている表にカウント数(「筆数」)も記載されていますけど,多いところはぐんと多く,かつその数は少ない。
 また,相当数の字名が位置が「不明」として漏れています。これは瀬戸内海エリア内を想定しているからで,能地からの出漁民が前掲小川徹太郎の言うように俵物生産と関係があるならば,「不明」字名の幾つかは瀬戸内海外,例えば日本海岸や太平洋岸のどこかである可能性も残ります。
 だから,河岡さんの整理やプロットが当時の二窓・能地衆の全ての動きを網羅したもの,という訳ではありません。それでもこれだけのダイナミックな動態が現れるのです。
──と,第一印象の驚きと相反し,それ以上はどうにも疑問が膨れるばかり。なのでいつもの通り,とりあえず行って観るのだ,という解決法を選んだわけでした。

実地訪問(二窓)

~~~~~(m–)m二窓編~~~~~(m–)m
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.:二窓
GM.:能地

呉線で一番海に近い車窓

原市立図書館が「館内の利用はできません」??
 いわゆる4波の緊急事態宣言が近づいているので,県外へ行けないこの機会にかねてから狙ってた三浦行きを企画しました。それにしても「不用不急の外出は極力控え」なければならない。そこで厚労省の方針に沿い,急に思い立って急遽宿を予約して出かけることに……あ?それは違う?
 R3.05.15,曇天。昼前には雨と予報。どうせダメ元の道行きですけどね。
 0935,三原駅ホームにもう列車が入ってました。三原から呉線広行き乗車。三原市立図書館がすぐそこに見えてます。
🚞🚞
947,定刻発車。
 まず一度西へまっすぐ筆影山にぶつかるところまで走ってから,大きく左折,山沿い下を通る。集落の上手をゆっくり走る。
 この急カーブがかつての海岸線なんでしょうか。石垣は古く路地道もちらほら。でも岸の構造はコンクリート。
 0953,すぐ左手が海になる。この景観は,呉線の中でも本当に珍しい。
 真下に赤い鳥居。地図によると稲荷神社。
 0955,須波。見た目は集落に港町の風情はない。
 海側に学校。
 港。
 すなみ海浜公園。車速は非常に緩くなる。
 みはらし温泉。トンネル。抜けるとドックが見えてくる。

三原〜(三原市幸崎)能地〜(竹原市忠海)二窓付近地図

に小島。──後に幸崎で見た地図ではこれが有竜島。対岸は三原方面から久和喜(くわき)海岸,宇和島海岸。
 路地の道はかなり古いぞ。
 さて1002,安芸幸崎。能地は?──ああ,この,車両で通ると今治造船ドックしか目につかない地域の山側なのか。これは歩くに難解そうです。
 バス通る。
 この途中の静かな谷は何という集落だろう。
 本当にすぐ左手が海。砂浜の上を走るよう。
🚞🚞

二窓を認む

が離れ,小さな川のある集落。
 ここが二窓のはずです。神社も視認。
 1010,忠海。下車。ここから今や「ウサギの島」に成り果てた大久野島へ行けるけど,それは着いてから初めて思い出しました。しかしまあ……ウサギだらけ!
▲忠海駅のウサギ

ず東行。
 1014,右へ行くと忠海港との表示。橋を渡る。
 信号,興亜橋東詰。ここはまっすぐ。
 バス停・大久野島入口──って,なんじゃそりゃあ!ウサギありきかい!
▲最初に目にした「二窓」の文字

……キレるより,忠海駅に戻るバス便を見ておいた方が建設的ですかね。
三原行1059★ 1304 1434
──しめた!少し時間が近すぎるけど帰路の便がありそうです。
 1023。小さな峠。ad忠海東町二丁目9番。左手に芸南学園校地。
 1029。列車から見えた神社です。バス停・芸南学園前。三原行きは1125※──従って,以下はこの一時間足らずの見聞であります。
※土日祝時刻

道と線路を渡り南へ。「二窓踏切」との表示。ad忠海東町五丁目1番。
 すぐ東に氏神国津小丸居神社。1030。
 寄進も多い。規模も大きい。

町入口に神々の団地

▲神々の集合団地

ず3社。八坂神社と石柱。個別に記名はない。最左に金比羅大権現の文字のある石柱も。
▲大峰山の額

殿,1039。
 大峰山※を敬う信仰なのか,山を描く額にその名。昭9と昭29の二枚が掲げてあります。
※三原市街北5km→GM.:地点
▲裏手の諸仏

殿後方に古仏多数。大層磨耗してる。
 その中央に「水神」の文字の読めるやや大きな石(上記写真中央)。
 右手にも漢字一文字の読めない社2。
 このタイプの「神々の団地化」は近代以降の開発で地元意思に反して立退きさせられた跡です。二窓集落そのものがまだ存在しているということは,今の集落が実は既に再開発の跡であるか,集落周辺から集まったものか,でしょう。
 後者だとすれば,なぜここに?というのが分からない。前者とすれば,かなり特異な再開発で,経緯が想像し難い。

厳島神社への迷走行

▲川沿いの道

沿いを辿る。1041。きっちり護岸された水路です。元の石段スペースを現代になって垂直に直したものでしょう。
 1044西岸へ。
▲網と川

れが集落本道でしょうか?
 右折南行。
 家並みはそれほど古くはない。でも道には微妙な歪みがあります。何だろう,奇妙に歩き辛い,というか軽い引っ掛かりが感じられ骨格を読めない。
▲集落道

045,恐らく厳島神社。
──とメモってるけど,GM.(→地点)掲載の画像と比較しても明らかに別地点です。
▲厳島神社?

覚にも迷ってると感じずに,迷ってたらしい。
 自身が道を失った時,それを敏感に気付けるのが旅行者です。
 迷ってる気がなかったのでスマホの位置情報もオンにしてませんでした。

千年の海辺の町の湯に洗え

二窓集落地図(国土地理院地図)※青字:引用者

,二窓の集落図を見ても,一見,さして難しい筆の配置ではありません。
 でも,よく見ると,中心軸が見えないことに気付きます。小丸居神社の位置は国道側入口に過ぎません。
 上図に落とした真・厳島神社の位置が旧・海岸線であることまでは想像できますけど,明らかにそれ以上の構造があるはずなのに,それが読めないのです。
 あえて言えば,真・厳島神社から百m北のパティオのある三叉路,ここを中心にした方形砦のような印象を受けますけど──
▲集落道2

地の歪みには,道の前に家が建て込んだタイプの乱雑さがありません。極めて角,角と規則正しい。なぜこんな曲がりがここに出来るものか,想像がつきません。
▲銭湯

湯?
 1049。ここにあるはずがない。銭湯というのは相当数の固定客があって経営が成り立つので,家風呂の普及した現代,一定規模のやや貧しいエリアでないとありえないけど──後掲「安芸の小京都」プログにも触れられてて,間違いありません。
 ただ,造りがそうだというだけで,看板も営業時間表示もない。
▲千手観音

手観音のいるお堂。1052。
 かなり供え物はある社でした。祀り方は完全に仏教系です。今画像を見ても特に違和感はない。

二窓を遥か見守る大峰山

▲東西の集落道

西に伸びる道に出ました。これがメインロード……でしょうか?というのは,ここで初めて,住民の方,それも路端会議してるオバちゃん方とすれ違ったからでした。
 という訳で,まあ,何も分かりませんでした。わははは。
 忠海駅へバスで帰る。
 JR駅でタバコを吸いつつ山側を眺める。

忠海駅〜大峰山(≒黒滝山)マップ

頂南面に社?
 少し西,丁度二窓直上です。あ,これが大峰神社か。GM.で見ると直下に観音堂もあるようです。
──調べると標高270mながら奇岩が多い特徴的な地形で,駅から約1時間かかる。頂上からの眺めがまた個性的で,軽登山ルートとしては愛されているらしい〔後掲tabetainjya〕。

大峰山頂上から見た南方海上。手前が大久野島,その向こうが大三島。〔GM.〕

実地訪問(能地)

~~~~~(m–)m能地編(入)~~~~~(m–)m

海駅ホームにアナウンスが流れます。
「間もなく三原方面の列車が参ります。通過列車の場合もございます」……って,それはとっても怖いじゃないか!
 1125,隣の安芸幸崎まで乗車。まだ空は持ってる。
 1133,下車。
 ここからの移動,三原行の時刻を先にチェック。暫くは約一時間毎で1232 1327 1425 1525。
▲最初に目にした「能地」の文字

から左手,西へ。
 町並みはしばらく無機質。造船所勤務者か,荷物を抱えた中国人の一群。
 三原市立幸崎中学校。──学校HPによるとR5.4生徒数は1年17人,2年20人,3年12人の計49人。
▲線路を渡る

岡川を渡る。1143。
 踏切。幸崎神社。
 登り口元鳥居石柱には「安政三丙辰十一月」の文字。
※安政3年≒1856年。芸藩通志は幸崎神社を明応7(1498)年再造と記す〔後掲広島ぶらり散歩〕。
▲神社登り口

つ目の鳥居前左手の踊り場のような場所に,木製の社。記名なし。
 古い。でも綺麗に手入れされて,風格が凄い。
 1152,本殿見ゆ。
▲本殿が見えた

能き地かな 牛蒡 石鎚 三つ柱

功皇后が立ち寄った伝説が,例によって残ってる土地です。
 皇后が「この地の丘」に登り「能(よ)き地かな五穀豊穣すべし」と宣いしにより,この土地に「能地」の名が付いたという。そこで後にこの丘に三柱の神を祀ったのが幸崎神社であると伝わる〔後掲広島ぶらり散歩〕。
▲灯籠に八幡宮の文字。日付は享保八年。

幡宮の文字があります。手前25m,灯籠の奉寄進の文字の後に「八幡宮」とある(上写真)。
「幸崎神社」の名の前に,八幡宮だった時代があるはずですけど,由緒としては伝わらない。
▲社と集落

前30m,両脇に太いしめ縄の小社。しめ縄はどちらも右側でブッタ切れてる。
 このしめ縄の形態は,どの社も統一されてる。後に調べると「牛蒡締」と言われる古い形態ですけど〔後掲団塊オヤジの短編小説goo〕,幸崎神社のは右綯い,前垂れ無しのシンプルさです。何かの象徴でしょうか?
▲右ブッタ切れしめ縄

0m,両脇に2ずつ社。
10m,やはり1ずつ。
左手にも小社や祠多数。記名はない。そのどれもが右ブッタ切れしめ縄。
▲皇紀二千六百年

紀二千六百年とある石柱の脇は恵比寿らしい。
 最奥は石鎚神社,と再建世話役の碑に記されてる。
▲最奥は石鎚神社

能地衆在阪郷友會

殿正面左手に何と喫煙所。
 本殿正面にはコンクリートブロックの焼き場所のようなエリアがある。今でも何かの儀式をしてるようです。
 右手の「水兵一等卒」と書かれた石碑も目立つ。
▲本殿正面の方形の焼き場所

馬厳原の八幡宮を連想します。とにかく細々と古いものが併存して,混乱させる場所です。
 ただ,地域あるいは外地へ出た当地出身者の帰属の拠り所となっている場所であることは間違いない。
▲字「能地」の文字の掘られた石柱

殿敷地入口右手に「在阪郷友會」の文字の石柱。ググっても存在は確認できません。でも京阪に会を作るほどの規模で「郷友」がいるのでしょうか?──後の調べでも,この点は確認できませんでした。
▲在阪郷友會

住所は幸崎四丁目

落を上から見る。
 広大な埋め立て地。その北側に集落が列を成すのが旧海岸沿いの家並みらしい。地図上は「本通り」と書かれるエリアです。
 二窓と同じく,ここもかつての海岸線は完全に埋められて消えています。
▲能地集落本通り俯瞰

からない。とにかく集落を歩いてみよう。
 1216,降りる。
 1223,右手西側へ。ad幸崎四丁目4。ここには住所表示図が掲げられていました。
 このエリアが古い居住地のコアであることは間違いない。なのに「四丁目」?──二窓と同じです。通常,沖縄の「根屋」的なそういう場所は一丁目一番地を掲げることが多いのに,数字が逆転してる。
※ちなみに能地一丁目は幸崎駅を挟んだ東側(→GM.:地点)にありました。
▲幸崎能地住所表示図

■レポ(上):家船三浦断章群─二窓・能地─

 二窓・能地から瀬戸内海各地への出漁は,地域的な遠さが強調されることが多い。けれど,同調査の橋本さんが掲げるところによるとその規模又は比率にも驚かされます。

伝ふる所によれば本村の漁業者中には平家の家臣の落人,職なきため生活上漁業を始めたるもの多しとも言う。又近辺の漁場は殆ど本村の漁業者の行かざる所なく,到るところ漁業の開祖の如き観あり,故に本村能地の漁業家と言えば近辺に知らぬ者なき程に至れり。本村の漁業は前記の知く遠洋漁業者多く目下朝鮮木浦,麗水,内地は下関宇部方面,愛媛県三津浜方面に出漁し本村沿岸漁業者はアナゴ等小魚を漁るものにして大正14年1 2月末漁業戸数128戸の内僅かに3,4戸に過ぎず。〔久保田登・編『豊田郡佐江崎村誌』復刻版,大正15年(1926) 第十六水産←後掲太鼓台文化・研究ノート〕

──という数字(遠洋漁業率97%)もあるけれど,大正代にはそうだったのでしょうか?けれど,江戸期の実証的データでも,二窓・能地を里とする漁民のうち,75%程度が他地へ出漁している計算になるのです。

 能地から内海への漁民の発展をあとづけるものは,口碑以外には善行寺の過去帳(7冊)と「宗旨宗門改人別帳」(3冊)がある。
「宗旨宗門改人別帳」によると能地浦からの出職先きは64か所,船頭420人,人数2053人に達し,二窓浦のそれは29か所,船頭192人,人数1013人に及び,浜組の人口は646人であるから,約3倍に達する人たちが出職しており(表1)その出職先きは安芸,備後,伊予,讃岐,備前にまたがっている(表2)。さらに出職先を善行寺の過去帳によってみれば,初出宝永6年(1709)から明治30年(1897)の約200年間に,実に150か所を越え,東は紀州新宮から壱岐方面の広範囲に出職していたことが明らかになる(図1)。
 しかし,善行寺は享保12年(1727)に回禄にかかっているために,それ以前の記載の乏しいことも考えあわせると,能地を親村とする枝村の期限は近世初期からと考えられるが,その数がとみに増加したのは江戸時代も中期をすぎ,貨幣経済の台頭により農村を基盤とする封建制度が崩壊の途をたどり,農民層の分解がおこなわれる頃と期を一にしている。[前掲広島県教委 昭45,橋本昭子]

 原資料に掲げてある表1は,やや冗長で見にくい。江戸期の「土地に縛られた」教科書的住民像からすると驚くべきこの係数に直に触れて頂くため,下のような表に落としてみます。
▲前掲表1を基に作成
 時代としては,19C前半が最も出漁の盛んだった時期のようです。善行寺人別帳の出稼ぎ先での死亡記載の初出は1719(享保4)年の「備前行」。18Cには同事例数は平均年2件,多い年で8件。これが19Cに入って激増し──
1800-24年:222件
うち出職者 85件
1825-49年:423件
 うち出職者266件
1850-74年:552件
 うち出職者275件
これがそのまま,維新・日清戦争にかけての出漁ブームに連なっていきます〔後掲瀬戸の島から/近世の瀬戸内海NO4〕。
 ただ付言すると,これだけの枝村を支えるのに,人口五千ほど(→後掲表1を基に作成)というのは感覚的に無理がありまなす。同じように「陸上がりした海賊」衆が合流し,二窓・能地衆の看板を掲げていたのではないか,とも思いますけど,少し時期が遅すぎます(後期倭寇や海賊禁止令:16C末)し,ここまでのところでは史料的根拠はありません。なので,周辺データをもう少し集めてまいります。

忠海から西の浦を見たと推測される古写真(∴写真中央の岬の向こうが二窓)〔後掲山本呉服店〕

忠海:旱損ノ患多シ

 まずは地名です。二窓を含む旧村名「忠海」は,二窓よりも史料初出がはるかに早い。室町期前半・義満時代の1389年です。

御舟を洲に押掛てゆかざりければ、はし舟をめしてただの海の浦といふ所のいそぎはに、あしふける小屋にやどらせ給ひける程に、しほ満来りて御舟おきぬとてまゐれり、又めしてこがせ給〔鹿苑院殿厳島詣記(1389(康応元)年)←日本歴史地名大系 「忠海村」←コトバンク/忠海村〕

※「1389年(元中6∥康応1)将軍足利義満の厳島詣に随行した今川貞世が記した紀行文。異称は《鹿苑院厳島詣記》《鹿苑院義満公厳島詣記》。(略)厳島詣といっても,実際は山陽・九州の大名を威圧し瀬戸内海を制圧する政治的ねらいを秘めた旅行であった。」〔世界大百科事典 第2版 「鹿苑院殿厳島詣記」←コトバンク/鹿苑院殿厳島詣記
(読み)ろくおんいんどのいつくしまもうでき〕

 義満の巡察一行がここで潮待ちをした,ということらしい。家並みその他,港町そのものについてはほぼ触れられていません。ただ「あしふける小屋」というのはいかにも貧しげな描写です。

※伝承としては,これより早い12Cのものとして次の地名由来譚があります。──平 忠盛(1096~1153,清盛の父)が,当時「乃美の浦(のうみのうら)」と呼ばれたこの地の名に,自分の名の一字目を結合させて「忠海」と改めた。この際,向いの愛媛県大三島の港には「盛(さかり)」と同じく二文字目を地名に与えた〔後掲山本呉服店〕。

 江戸期後半の国郡志下調書出帳の紹介も,陸の町としては極めて貧弱な土地として記載されています。特に保水力に乏しい集落だったらしい。

向フノ嶋方ヘ海幅壱里斗リ、土地合陽気勝チ、冬分雪霰ナト降トイヘトモ鮮キ方ニテ消易ク、夏分奥筋ヨリ催ス雨ハ陽気ニ押レシユエカ降来ル事ナシ(中略)兎角旱損ノ患多シ、山ハ砂地磆(なめら)岩山等ニテ草木ノ生立悪クシテ肥草ナシ〔国郡志下調書出帳※←日本歴史地名大系 「忠海村」←コトバンク/忠海村〕

※「成立 文政二―三年※※
解説 「芸藩通志」編纂にあたり、基礎資料として各村より一定様式による詳細な書出を提出させた。また下調帳を郡御用係でまとめ、要約して藩府に提出されたものが「郡辻書出帳」である。現在藩に提出されたものは失われ地元控が残る。」〔日本歴史地名大系/同←コトバンク/国郡志御用ニ付下調書出帳
(読み)こくぐんしごようニつきしたしらべかきだしちよう〕
※※文政2-3年=1819-20年
※※※旱損:日照りによる田畑の損害。干害。〔精選版 日本国語大辞典 「旱損」←コトバンク/旱損〕

 行政区画としての忠海は,1889(明治22)年に村から町になり,1958(昭和33)年竹原市に合併されるまで69年間独自の自治体でした。

忠海村古地図(出典不詳・芸藩通志か?)〔後掲山本呉服店〕
上図中「二窓浦」〔同〕

忠海の中での二窓

 実は今回の三浦の中で,二窓が最も探し辛かった。
「二窓」という地名や施設名が無いからです。住所表示上,ここは「忠海東町五丁目」。西には忠海長浜や忠海床浜の住所地名があるのに,です。
 行政区画としての忠海町も,中町・床浦・長浜で構成されてます。二窓という土地は,なぜか,立場が弱いというか正規の行政から漏れるような傾向があったようです。
 そういう目で見ると──

二窓(竹原市忠海東町五丁目)集落地図 ※「十」地点が国津小丸居神社

 二窓集落の外周は全て開発されて筆が整理されてます。生命線だったはずの海浜部さえも,です。中心部だけが,開発地に包囲されたように残存している感じです。

二窓の神明さんの美しき

二窓の神明さん(昼)

 竹原市域には広く「神明さん」と呼ばれる独特の神事が残ります。
 いわゆる「とんど焼き」の体ですけど見栄えを見ると,博多祇園山笠の「清道旗」のようにも見えます。(二窓では後述の通り「大明神」)
・秀吉の朝鮮出兵,浦宗勝が執り行った戦勝祈願が由緒とされ,400年超の伝統有。
・二窓地域の成人の儀式として定着
・毎年2月の第2日曜日開催。14時頃消火訓練と子供太鼓,16時頃から餅投げ,男衆による大明神の引き回し,17時30分頃大明神に点火〔後掲祭の日〕

神明祭(神明さん)冬の風物詩となっている市内ほぼ全域において行われる「神明」行事は、三原市や柳井市の一部で同様の風習が残ることから、その起源は中世小早川氏の時代であると伝えられている。特に竹原市域では、集落規模でそれぞれ神明づくりを行うため、市内全域の約80箇所で同様の光景が見られ、沿岸部では豊漁を願い、農村部では豊作に感謝が捧げられる。小正月に行われる「とんど」が起源ともいわれるが、この地方は「神明祭」、「神明さん」と呼ばれ、中国地方で多く見られる「とんど」とは違い、高さが20m程と高いものが多く、御幣や扇、旗などで煌びやかに飾り付けたものが主流である。材料も松や竹を使用し、杉や桧の葉で全体を覆う等独特の姿を持ち、また、神明には男神明と女神明の別もある。忠海二窓に伝わる神明は、その規模が最大で、準備も古式に則り、約半年間かけて行われる伝統を守っている。〔後掲竹原市〕

 竹原市の分布域を見ると,内陸部(新庄町・西野町)が主で,海浜部は稀です。その中で二窓が最も色濃くこの行事を残してます。海辺にも元はあったけれど他地からの人口流入で消えた,とも考えられますけど,その場合は二窓だけが新規参入の少ない土地だったことになります。

竹原市内神明の分布〔後掲竹原市〕

 要するに竹原市域の中では,何かの意味で他地から「浮いている」土地柄らしい。
 それが能地や吉和にも共通するのかどうかは分かりません。感触として,ということで言えば,二窓だけに感じられたように思ってます。
二窓の神明さん(夜)

▲浮鯛抄
歴史系総合誌「歴博」第173号|バックナンバー|歴史系総合誌「歴博」|刊行物|歴博とは|国立歴史民俗博物館 写真3 「浮鯛抄」
複製・本館蔵、原品はリアス・アーク美術館現蔵

付記:能地の浮鯛抄

 これはどうも能地に限るらしい。能地衆はアイデンティティ又は一種の通行証として,巻物「浮鯛抄」を持ち歩いていたと伝わります。

「浮鯛抄」の成立は,この「能地の浮鯛」に由来する。浮鯛抄の文字によってもわかるように,この浮鯛は古歌の題材となり,また文士の筆のすさびになった。そしてただそれだけであったら,漁民の生活にそれほどのかかわりあいがあったとは思えないが,徳川中期頃から,後にも述べるように「右者能地ニ住ムモノ最モ尊フヘキ暦(ママ)史ニシテ,恐ラ(多)クモ勅言ヲ奉セシ事古昔ヨリ於我家後続者守リツトムヘキ事ニテ敢テ鹿略ニスル勿レ」(山本本※)などとあるように,漁民の歴史となり,また一種信仰の対象となり,そうして巻物として秘蔵され,しかもつぎつぎに書写されていった。「浮鯛抄」の内容はつぎに述べるごとくであるが,その成立は,何時,どのようなことが契機となったものか,漁民とのかかわりあいはどのようにして起ったのか,重要なテーマたるを失わないが,まだ十分解明するにはいたっていない。
 長らく海上漂泊をこととした,日本の漁民史上,特異な性格をもつ能地漁民が,その由緒を巻物にして持ったということは,一見,惟喬親王を祖神とする木地屋の由緒書や,あるいは鋳物師のそれなどと,共通の理由をもったと見ることができる。すなわち渡りの職業集団として,いわば身分を誇示するお墨付といったものが入用だったのである。[前掲広島県教委 昭45,河岡武春]

※ 原典著者別記:山本八蔵(ヒチ)氏旧蔵「浮鯛抄」巻物 18.8cm×359cm 天明四年九月の跋文あり
 なので,巻物自体は各地に残っているようです。
 内容は微妙に違えているらしく,何代にも渡り書写を重ねていったものと推測されます。
▲浮鯛抄(風早のものらしい)
※ 広島市・呉市で在家禅として座禅をする「広島禅会」です – 伝説の巻物 ~浮鯛抄~
 内容を読んでもあまり意味がない。瀬戸内のこの一帯を通過したとされる歴史上の人物が,浮鯛に接した,というのが繰り返されてます。
 ただ神功皇后の処では,日本全国の漁場を保証された旨が書かれていて,屁理屈あるいは作り話でも,各地に出漁した際のハッタリには使えたのでしょうか。

「浮鯛抄」の全文を幸崎支所本であげてみる。(略)
其時皇后刺して浦の海人に永く日本の漁場を許し給ふと。夫故世々今に此処の海人にて何国にても漁をすれとも障方なく運上も出す事なしという。
(略)その内容を摘記すると次のごとくである。(略)
(四) すると,皇后は「此浦の海人に永く日本の漁場を許す」といわれたので,今に至るまで能地の海人はいづこの国で漁をしても故障をいわれず,運上金を出すこともなかった。
(略)浮鯛抄一巻は,まさしく貴人への浮鯛献上の歴史であるといってよい。神功皇后から始めて,中臣連,菅公,清盛,義経,尊氏とおよそこの沖路を過ぎたと思われる有名な貴人には,みな浮鯛を献上しているのである。このことは何を物語るのであろうか。あるいはそれが尊ぶべき歴史になるのか。海人のすがたはどこにあるのか。[前掲広島県教委 昭45,河岡武春]

 海民世界で,こうした書物を一種の手形代わりに携帯する,という風習は,少し異様ですけど,これが船大工一般にもあるらしい。象徴なので書の中身をうんぬん言っても仕方ないようです。
 この船大工の集団も九州~江戸,東北まで,旧世界を移動していった者が多かったらしい。
▲船大工秘事之事※

岩手県宮古市の北村造船所に伝えられてきた『船大工秘事之事(ふなだいくひじのこと)』(岩手県立水産科学館蔵)は、「船造時諸々木ヲ集釿立之大事」にはじまり、船造りの作法や知識に加えて「船霊御夫婦納様事」「十二船霊ノ事」といったフナダマにまつわる記載も見出すことができる【写真7※】【写真8】。この巻物は初代の徳松氏が江戸時代に上方で修業し、和船の技術を習得する過程で授けられたものだという。巻末に摂津、伊勢、筑前、江戸、尾張の船大工らしい人名が記され、巻物が筆写され伝来してきた経路をうかがうことができる。[前掲国立歴史民俗博物館誌]

 この民俗事象は,多くの研究者が頭を悩ませてて,別に記した廻船大法奥書と同じく,謎です。なぜ能地だけにあるのか,なぜそれが浮鯛なのか──脱帽するしかないので,この件は付記するに止めて先へ進みます。

❝内部リンク❞m17fm第十七波残波mm一條御所/高知県/[付記]廻船大法奥書に記す「土佐浦戸篠原孫左衛門」

m17fm第十七波残波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m一條御所withCOVID/高知県014-1一條御所\中村\高知県


▲廻船大法奥書(写真は「諸御書付二十八冊」 毛利家文庫 40 法令 135(17)のもの。ピンク部:土佐浦戸篠原孫左衛門)

三原市史:宮本常一「漁船」(能地における家船)全文

 家船緊急調査を主宰した宮本常一が,三原市史に残した記述がありました。
※ 三原市役所「三原市史 第七巻 民俗編」昭54。題名,パート分けは引用者による。

香港・アバディーン(香港仔)のタイフーンシェルター内に停泊する水上居民の船(家船)〔wiki/蜑民〕

船住居(家船)の造り方

 まず,船体の構造について──

 家船ということばは,もともと能地にはなかった。船住居といっていた。船住居の船は長さが六尋(ひろ)か七尋あり,六尋船,七尋船などといっていた。幅は七尺から八尺くらいで,板水押(みよし)であった。

 家船の表現は当事者にとっては多様で,能地では「船住居」(ふねずまい)。
 1尋≒6尺≒1.8m(10/33m✕6)とすると,6尋は約11m。幅7尺は同様に2.1mほどなので,広さは22平米ほどです。1畳が(京間)1.8平米ですから,12畳余の広さです。
 板水押は,船首先端の水切りが鉄製ではなく木製だということ。

参考:船の部所名(浦安・打瀬舟)〔後掲浦安郷土学習BOX〕

 さて,そのうち部分別の構造,そして「船住居」でどのように運用等をしたのかというと──

船は前からオモテ・ドウ・トモと三つに大きく分かれており,ドウの間(ま)はヤグラといい,上に屋根を張りきって,その下を住まいにしていた。八尺に七尺くらいの広さがあった。そしてヤグラの上で飯を食べたり御飯も炊いた。トモの間は所帯場でいろいろの仕事をした。ヤグラの前は網がおいてあり,また網をひく場所にもなっていた。オモテは二つに仕切って生け間を作り,そこへ魚を生かしておいた。オモテのさきはカンパ(甲板)になっていて,その下に下駄や藁などを入れておいた。
 船には簀板が張ってあって,その下に食料や衣類,所帯道具などをすべてしまっておいた。船の両側には櫓橈(ろかい)をつけ,それを漕ぐ場合はヤグラと所帯場の間で,櫓橈を漕がないときはそこも所帯場として仕事をしたり休んだりした。

東京の水上生活者(1960年頃)とその住居(家船)〔wiki/家船〕
 オモテ・ドウ・トモの三つの四畳半があり,ドウで寝起きし,オモテが倉庫,トモが仕事場になっていた,という感じです。屋根を張った下が住まいですから,船底を利用するレジャーボートの造りとも異なる。
 とは言え,映画「長津湖」冒頭の中国蜑民の家船構造ともほぼ重なります。
 この「船住居」は船の造りとしても他と異なっていたらしく,専門の船大工がいたと宮本さんは書いてます。

 このような船を造る大工はこの土地にいた。この船はこの土地だけのもので,ほかの浦の大工では造ることができなかった。その船も一種類ではなかった。右のような船を小網船と呼び,そのほかに引馬船・アン(網)伝馬があった。大正時代に多く造った愛知県型の船は,今一艘もない。能地の人には性にあわなかった。船は船頭がカワラ(舶)何尺だと注文すれば,あとは大工の才覚で造ったものである。大工の中で名の通っていた人には,マンサン大工・山本大工・藤井大工などがいた。

 大工側の名称らしいものとして「小網船」「引馬船」「アン(網)伝馬」が出ます。聞き慣れない単語ですけど,後掲浦安郷土学習BOXに「小網船」名で紹介されてるものがありました。

小網船〔後掲浦安郷土学習BOX/小網船〕
※原注「刺し網漁(さしあみりょう)という漁に使われた船です。別名(べつめい)「どうしゃか船」とも呼(よ)ばれていました。」

 信仰文化としてはフナダマサマを入れるものだったらしい。この神様自体は海民に共通したものですけど,宮本さんがその詳細を綴ってるので紹介しておきます。
 船大工は,古くはこの際の専門の「神主」役も務めていたという。

船を造ると大工は必ず船玉様を入れた。船の御神体である。帆柱を立てるための柱に鑿(のみ)で穴を掘って賽を二つと銭十二文を入れる。船玉を入れると船は完成するので,神主を招いて祈祷してもらう。まず潮祭りを行い,次に御神体を拝む。そのとき,
  オモテミアワセ
  トモシアワセ
  ロカイゴトゴト
 地六天一
と唱える。賽の目は,前方が三,前方艫の方が四,左右は内側が二,外側が五,そして下側は六,上は一になるように入れるのである。昔は船玉をまつって拝むのは船大工であったが,近ごろは神主に拝んでもらうようになった。

船住居(家船)の行動類型

 船住居(家船)の規模は一世帯を想定したもので,元はこれが群れて動いたという。つまり,海上の村を成していたものらしい。
 一艘だけで「漂流」する,「渡り歩く」ような風情は,むしろ明治以降の姿のようです。

 カワラ七尋の小網船(テグリ船)は,夫婦が乗って出かけるのにちょうどよかった。昔は小網船は組を組んで出かけることが多かったが,明治になってからは,一艘だけで出かけてゆくものが多くなった。出かけてゆく日にはきまりはなかった。

 彼らが他浦で漁をする際,以下は文脈的に明治以降のもののようですけど──能地衆の外航域というのは,そこに住み着いている者は少なく,彼らはいわば「現地事務所」のような立場で流れてくる「海上の村」を次々と受け入れては出立させていた模様が伺えます。

さて出て行ったとき,自分が稼ごうと思う漁場の近くの浦に挨拶をしなければならない。住みつこうとするときは,そのことをその浦の漁業組合へいって指図を受ける。しかし住みつこうとするようなときには,その前からそこに能地から行ったものが住んでいる場合が多かった。一艘か二艘で出かけて行ったときには,その浦の漁業組合へエビス金を出して商売(漁業)をさせてもらう。そのとき「五十円出すから一月商売させてくれ」というように頼む。

「エビス金」という語以外は,対馬や沖縄でよく聞いた手続きです。「臨時営業権」を購入するわけです。

ちなみに「エビス金」ワードでググるとこんなんが出て役に立ちません……。

 日本の津々浦々で漁業権がものすごくウルサいのは,もしかすると江戸幕府の政策との因果よりも,こういう「部外者」の営業を常に想定しなければならなかったからなのかもしれません。
 ただ,宮本さんは次のような裏作法も存在したことまで記します。

中には一番ヤリニゲという悪いことをする者もいた。エビス金の高い所では,エビス金を納めないで,籍をその浦へ移して,その浦の漁民の仲間に入り,半期か一年稼いで,だまってもどってくるのである。籍をその浦に移しても陸に家を持つわけではなく,船だけで生活しているのだから,その浦の人たちには船住居の者の日常の様子はわからない。そのうえ小網船(テグリ船)は人を雇うこともない。

 これも文脈的には明治以降のことと思われますけど,それより前にもあったことは想像できます。海賊の陸上がりは,こういう形で徐々に土地に浸透する段階を踏んで,比較的容易に行われたのかもしれません。

家船緊急調査:歴史環境

 家船緊急調査中に,宮本さん以外が書いた文章にも触れてみます。

 三原市幸崎町能地は瀬戸内海のほぼ中間に位置し,南は芸予の諸島に連なり,自然環境にめぐまれた所である。この地の漁業は古くから知られ,口碑によると瀬戸内海漁業の発生地ともいい,能地を親村として内海に多くの枝村を発展させた土地として知られている。日本書紀巻八仲哀天皇二年夏六月の頃に「皇后角鹿より立ちて行まして渟田門に到り,船の上に食す。時に海鯽魚多く船の傍に聚る,皇后酒を以て海鯽魚に灑ぎたまふ,海鯽魚即ち酔ひて浮きぬ,時に海人多く其の魚を獲て歓びて曰く,聖王の賞ふ魚と,故れ其の処の魚六月に至りて常に傾浮ふこと酔へるが如し,其れ是の縁なり」(岩波文庫本)とあるのはこの能地のことであるとの伝承をもっており,今でも有竜島の西の能地堆で節分から40日(おそくても48日)から88夜ごろまでの大潮の時に浮鯛の現象がみられ,それと結びつけられている。[前掲広島県教委 昭45,橋本昭子]

 やはり浮鯛抄の伝えくらいしかないらしい。「能地の古代はベールにとざされている」(下記)と言うしかないようです。

 19世紀初頭「芸藩通志」の編さんにたずさわった頼杏坪は,その中で,倭名抄に沼田郡に七郷あって,その一つに安直というのがあり,松江村,総定村,七宝村あたりを安直の郷というが,古は田野浦・能地・須波をもそう呼んだのではないかと唱えているが確証はなく,能地の古代はベールにとざされているが,中世においては沼田庄内の一部であったと考えられる。江戸初期に三次支藩がおかれたころ,能地,忠海・渡瀬村は忠海村としてまとめられ,その海港が一つとなったが,のちに三村に分けられ能地村となった。古くは「野牛」とも書かれたことが「防長風土註進案」にも「芸藩通志」にも見える。能地は現在,三原市幸崎町であるが,昭和31年9月に三原市と合併する以前は豊田郡幸崎町といい,昭和4年町制を施行する以前は佐江崎村と称し,明治22年以前は能地村といった。[前掲広島県教委 昭45,橋本昭子]

 一つだけ,「野牛」としう史料記述があるという点。これはコトバンクも記します〔日本歴史地名大系 「能地村」←コトバンク/能地村〕。「のうし」と読み,これが転じて,または雅字にする発想で「能地」としたことになるのでしょう。
 あくまで付記になるけれど,本能地(ほんのうじ)の字木保(きやす)からは縄文後期の磨製石斧片が出土しています。
 また,忠海は中世,沼田小早川氏一族浦氏の根拠地でした。ただ,浦氏の能地村西端,能地と忠海・渡瀬の村境に位置する久津(ひさつ)城に拠った後,忠海村にの賀儀城(→GM.:地点)に移っていて,二窓や能地を中核にした形跡はありません。

[関連]宮本常一「能地漁民と二窓漁民の漁場開発」

 そこで,宮本さんの筆に戻ります。広島県史〔昭和53年1月刊行『広島県史』民俗編初出←後掲忠海再発見205〕に次の文章があります。

広島県沿海の漁村と漁業のなかでとくに心にとめておきたいのは、能地・二窓の漁民であった。古くからの船住居の生活様式をかえず、近世に入ってもなお海上漂泊を事とした。そして能地は手繰網を主業とし、二窓は西組と東組にわかれて、西組は手繰網を主とし、東組は延縄を主業とし、つぎつぎに新しい漁場をひらいていった。

 宮本さんは度々強調しているけれど,浦々は漁法を違えて,海域ではなく対象魚類で「稼ぎ分け」をしていたといいます。図式化すると──

区 分 手繰網 延縄
能地
二窓
/西組
二窓
/東組

 小さいように見える二窓が東西に分かれ,かつ能地から遠い西側が能地と同漁法,という点は,やはり理解できません。
 なお,広島県史では別パートでも同様の指摘をしてます。

二窓は東方と西方で構成された村だが東方の者は遠方に出漁して盆・正月に帰って来るくらいであったのに対し、西方の者は近海で漁、長くても3~4日で帰って来る、という具合に、活動形態には明瞭な相違が見られた〔広島県「広島県史 近世資料編 2」, 1976 p824←後掲忠海再発見167〕

 もう一つ,時期毎の進出方向についての指摘があります。
 そもそも,浮鯛で有名な能地沖の地場でなぜ彼らが沿海漁業をしなかったかというと,そこがあまり豊かな漁場でなかったかららしい。

1.魚族
 本村地先海面に於いては玉姫魚,鯛,ボラ,チヌ,ギザミ等にして有名なる能地の浮鯛あるも期間短く漁獲高も少なし又なめくじ魚あるも僅かに研究標本として漁るに過ぎず。
2.繁殖
 保護設備なし
3.漁業
 本村地先に於いて漁業するものは吉和人雑魚,三津町人のボラ綱位にして本村漁業者は拳げて他府県に出漁しあり。〔久保田登・編『豊田郡佐江崎村誌』復刻版,大正15年(1926) 第十六水産←後掲太鼓台文化・研究ノート〕※下線は引用者

 鯛漁は「期間短く漁獲高も少な」かった,と主観的には見られています。これは宮本さんの見解(能地は漁の餌を供給した好漁業)と矛盾するし,吉和漁民はここで漁をしているのですけど,その点はひとまず置きます。
▲(再掲)「瀬戸内海周辺における能地と二窓の枝村分布」[前掲浅川論文 原図:広島県教委「家船民俗資料緊急調査報告書」,1970]

能地漁民の見つけた愛媛県内の漁場と年代とをあげてみると、次のようになる。
応安四年(1371) 周防灘
天明二年(1782) 燧灘
享和元年(1801) 関前・中島・下弓削(関前:岡村島・大下島・小大下島)
文化十一年(1814) 菊間沖
明治十年(1877) 宇和海
 応安というと南北朝時代であるが、実はそのころは、能地漁民の稼ぎ場はまだ周防灘付近が多かったのではなかったかと思われる。それは慶長年間(1516~1615)に、豊後臼杵の津留に定住を見ていることでも推定される。そして、それからしだいに漁場を東へ開拓していくようになる。この漁民は曳きあげた魚をハンボウとよぶ桶に入れて、女子がそれを頭にいただき、農家を売り歩いた。売り歩くといっても、多くは食料や漁業資材とかえた。内海沿岸の村々や島の村には漁業を営んでいないものが、明治の初め頃までは多かった。そういう人たちに魚を供給したのは漂泊の漁民が多かった。

 大きなトレンドとしては,元々西の周防灘方面へ出漁していたのが,室町期頃から東に出るようになり,その頃から女子が行商の形態を採るようになっていくらしい。

二窓もその初めは能地とおなじように、手繰網を主としていた。二窓の手繰網がひらいた伊予の漁場はつぎのようであった。
宝永元年(1704) 大三島・大下島・佐方島・岩城島
 その手繰網が大型化して打瀬網になったのは文政九年(1826)頃で青島周辺の海で稼いでいる。ついで天保元年(1830)年には燧灘東部へ進出した。そこにはすでに福山藩水主浦の漁師たちが活躍していた。二窓の漁民は弘化元年(1844)頃から燧灘西部の海でも稼ぐようになる。瀬戸内海沿岸に港町や城下町が発達し、魚市や魚問屋が出現すると、そこでは高級魚が取り扱われるようになる。その頃から二窓東組の漁民は延縄漁に力をそそぐようになり、つぎつぎに漁場をひらいていった。
天明四年(1784) 燧灘
寛政二年(1790) 周防の地方と島々
寛政十年(1798) 佐方島・岩城島・生名島・佐島・津波島の周辺
寛政十一年(1799) 岡村島周辺・斎灘・伊予灘・周防灘
文政十一年(1826) 豊予海峡
 これらの漁場はそれまで延縄漁は行われていなかった。それを地元の諒解を得て縄を延えてみる。そして成功すると、その土地の者も技術をならい、他からもやってきて入会漁場が成立していったのである。

 二窓東組の漁民による延縄は,19Cに入ってからの一種の革命で,それは高級魚志向と既存漁業との棲み分けを利点として東へ拡がった,と宮本さんは考えています。即ち金さんの要約するところによると──

 瀬戸内海の各家船集団は漁法上の特色として、家船の間に一般的に共通している潜水漁は行わず、同じ海域でも集団ごとに特定の漁法(能地は手繰り網による雑魚曳き、二窓は延縄、吉和は一本釣)を行い、近代に至るまで一種の分業によって共存していた。〔後掲金〕

三原市史:能地集落 民俗関係

 以下は三原市史に宮本さんが書いている,能地集落についての文章です。重複する部分もありますけど,地誌的に全体の概要を転記します。
※ 三原市役所「三原市史 第七巻 民俗編」昭54

1 能地の町の構成
東の町 幸崎町能地は瀬戸内海三原瀬戸に臨み,町は弓状に発達する。能地の漁民は古くは家船で海上を漂泊し,しだいに陸上がりを始め,今日の町が形作られたという。善行寺の過去帳によると,現在の地への定住は近世初期ごろからのようである。(略)三原市役所「三原市史 第七巻 民俗編」三原市役所,昭54 第九章 住居 三 漁村の住居

(上)能地集落図 (下)うち右上部拡大 ※青字は引用者〔久保田登・編『豊田郡佐江崎村誌』復刻版,大正15年(1926) 扉絵←後掲太鼓台文化・研究ノート〕
 宮本さんも近世初期,17C初を能地衆の陸上がりの時期と推測しており,その根拠は善行寺過去帳としています。
 面白いことに,宮本さんは,能地衆が陸上がりしても家船の感覚で家屋を造り,収納していたと見ています。同じ船大工が,家屋も造ったとすれば頷けることです。

2 船住まいから陸住まいへ
床の下 (略)一般に民家の場合,収納に床下を利用することは,農家でイモを保存する以外あまりみられない。しかし能地の民家では,床下が収納場として盛んに利用されている点が特色である。(略)『家船民俗資料緊急調査報告書』(広島県教育委員会刊,一九七〇)には,船住まいの様子が紹介されている。それによると,家船にはトモノマの下にシモノマがあり,シモノマに生活用具が収納されている。(略)漁家の床下利用の収納は,敷地が狭く,農家のように物置を作る空き地が十分に取れないため起こったとも考えられる。しかし見方によれば,船のシモノマに生活用具を置いていたという船住まいの生活様式が,陸上がりしてからも残っていたものと考えられる。[前掲三原市史]

 宮本民俗学では立ち居振る舞いも対象としますけど,能地では炊事を座って行う風があるという。これも家船での身体運用の延長と見ています。

座った炊事 (略)この地では比較的最近まで,座って炊事を行っていた家がある。今でも井戸端でかがんで洗い物をする光景を見る。(略)能地でこのような炊事方法が最近まで残っていたのは,船住まいの生活様式を伝承したものと考えられる。[前掲三原市史]

 次のものはさらに宮本民俗学的で,「財の感覚」とでもいう側面ですけど──要するに陸上家屋が粗造り,ということです。ただ陸上がり後長く経た現在,そのような色彩は見当たらず,ごく普通の住宅街が続いています。
 ただこういう身体感覚は,重い。沖縄の首里王朝が海事組織の名残りを残したのに似て,そう簡単に抜けないものでしょう。

住意識 (略)「船は金を儲けるが,家は金を儲けない」というような言葉を私たちは耳にした。船を買うときには借金をしてまで買うのが通例である。(略)設備投資は進んで行い,あとはいっしょうけんめいに働いた。
家が立派になることは文化向上の一つの指標とみられる。しかしこの地では,船に金を掛け,仕事にすべてを懸けるという別の心意気があった。そのためか,家屋には凝った小細工はせず,荒々しく壁に船板を打ち付けた家を数多く見る。[前掲三原市史]

浦氏家系図〔後掲武家家伝〕※↑は引用者(浦熙氏)

三原市史:能地の歴史関係

 以下は宮本常一記述と推定されるけれど確証はない。浦氏と二窓・能地との関係についてです。
 上記家系図から熙氏は確認できます。小早川家から養子入りして浦氏を継いだ賢勝(浦宗勝の父)の二代前です。
 善行の名は,他の情報でも確認できません。ただ,これも伝承すら確認できないのですけど……二窓・能地の過去帳・人別帳の残る善行寺の名称は,宗教的な「善行」ではなくこの浦氏分家の名前由来でしょうか?

浦氏は熙氏のとき久津に城を築いた。そして渡瀬に行蔵庵を建てて菩提寺としたから,その辺りに住んだのであろう。浦氏の水軍の水主として二窓の海人たちが雇用されたとみられる。この浦氏の分家にあたる善行が丸山に城を築いた。善行は水軍の水主に能地の海人を雇用したとみられるのである。雇用といっても年じゅう勤務しているのではなく,事あるときに軍船の操縦にあたるのであって,日常は海上を漂泊しており,従って能地付近の海で操業している漁民も多かったとみられる。そして漁業の地域も,小早川氏に結びつくことによって,ずっと広いものになっていったと思われる。江戸時代に百をこえる枝村をつくった所も,もと小早川氏と関係の深かった土地とみられ,小早川氏に関係のなかった土地への進出はほとんどみられなかったようである。
[前掲三原市史同]

 卓見です。小早川景平系を継いだ毛利両川・小早川隆景は,1585(天正13)年に伊予一国,1587(天正15)年に筑前国名島35万石,さらに1595(文禄4)年の隠居時の領地(筑前の5万石余)を含めると豊臣政権下で第十位の大大名になります〔wiki/小早川氏〕。おそらくは本人の希望による西瀬戸内の要地ばかりで,江戸期の島津よろしく独自の海上交易圏を築き,地元の二窓・能地衆(となる当時の元・海賊衆)もこの勢いに乗って西へ進出した……のかもしれません。

西本次郎兵衛さん(明治二十三年・1890生まれ)は
  ずっと昔,殿様のころに,船は殿様がみな持っていって土地の者はその水主として使われ,船は家族の者がここに住み着いたという。ところが,その後に水主が殿様から魚をとるようにいわれて,魚をとるようになった,ということを聞いている。
と話している。(略)ずっと昔の殿様のころというのは,小早川氏時代のことで,それまで船住居をしていたのが,船は軍船として取り上げられ,女子供は陸上がりして能地に住んでいた。ところが,小早川氏の没落から水主を勤めた人々はもう一度能地にもどって漁業を主にするようになったと,この話を理解したい。[前掲三原市史同]

 面白い伝承です。「小早川氏の没落」で船主が漁業に転じたのなら,それを指示した「殿様」は新太守の浅野氏でしょうか?ならば吏員出の浅野系の武士層が,新興広島藩下でわざわざ漁業に誘導するとは思えません。
「船は軍船として取り上げられ」ていたとも考えにくい。海賊衆は群れ単位で諸勢力についたでしょうから,戦向きで食えなくなったから漁業に転じる,という海民独特の変化自在ぶりを発揮しただけでしょう。
 とすれば,なぜこんな「殿様が……」といった伝承が伝わるのか,そもそも分からない。

明治以前に善行寺の檀家になっているものをみると(略)能地浜の人々は浦氏の水主として寺の世話をしていたために檀家になったと考えられるのである。
 善行寺の檀家は,竹原市忠海町二窓にも百軒ほどある。二窓の東浦はほとんどが善行寺の檀家であるが,その中で勢力のある三宝屋はずっと古くは平原にいたということであるから,二窓の漁民も古くは平原の辺りにいたのかもわからない。
 二窓の西浦の漁民は勝運寺の檀家になっている。勝運寺は元亀元年(1570)に浦宗勝の建てた寺で,寺に宗勝の画像が二幅ある。このことから考えて,浦宗勝の配下の水主を勤めたものと思われる。[前掲三原市史同]

 先の漁法の問題で,能地に近かったのが二窓の東組だった,というのと,この檀家寺の分布が重なっています。二窓西組が特に浦宗勝を報じていることを重視するなら,小早川から来て浦氏を継いだ浦賢勝とその子・宗勝が小早川水軍を増設する際,追加要員の受入れ先として「新興団地」を造ったのが西組なのかもしれません。

[関連]三原市史同:プレ・二窓能地としての須波

 こうして見ていくと,この時に執着した三浦(二窓・能地・吉和)に先立って,いくつかの浦の名前が挙がってきます。
 どうも,現代には三原-竹原両市に分かれるこの地域は,近代までほぼ一体的に動いてる。むしろ忠海の海浜の栄華が,その東西端にある三原・竹原,より長期的には尾道に受け継がれたとも言えます。
 以下は小早川氏と須波(三原市街南2km:GM.)の繋がりの始原を探った論考ですけど,これらプレ・三浦の時代が確かにあったことを窺わせます。

小早川家文書には須並浦(ママ※),高崎浦,吉名浦,三津三浦(木谷・三津・風早)などの名を見出し,そこが海島進出の拠点になったとみられ,須波から佐木島への進出は鎌倉後期ごろのことではなかっただろうか。佐木島向田野浦の割石地蔵(和霊石地蔵)の銘文に正安二年(1300)九月平原月臣茂盛とあるのは,小早川家の一族の者ではないかと思われる。そしてこの割石を地蔵を刻んだ石工も,木山寺小早川家墓所の元応元年(1319)の銘文のある宝篋印塔を刻んだ石工も念心とあって,同一の人で,小早川氏に深いかかわりあいを持っていたようであり,同時にこれらのことを通して小早川氏の海島への進出の時期を推定することができるかと思う。[前掲三原市史同]

※須波の古名は漢字の異なるものとして,洲並・須並・角南がある〔角川日本地名大辞典/須波〕。

 史料を確認してないけれど小早川氏の須波衆支配は,14C初めに遡ることができる,と三原市史はしています。そうすると,三原〜竹原海浜の海民は,中世には小早川配下にいたものが,浦氏に移った後,それを乗っ取った小早川に再び服した,という複雑な歴史が見えてくるのです。

(続)そしてこれらのことを通じて須波浦が小早川氏に結びつくのは,能地や二窓より早かったとみてよいのではないかと思われる。小早川家文書には能地・二窓の名を見出すことはできない。浦氏ははじめ沼田川流域におり,南海岸への進出は十五世紀の中ごろとみられるから,須波浦の海人が小早川氏の水主になるより百三十年余も後のことになる。[前掲三原市史同]

 ただそうなると,なぜ須波等の「旧海民域」から三浦の時代に移行したのか,また分からなくなります。これは何より「小早川家文書には能地・二窓の名を見出すことはできない」ことが原因で,能地・二窓・吉和は史料にまるでその影を落とさない。

[関連]三原市史同:ポスト・二窓能地としての旭町

 旭町は現・三原駅から東へ500mほどの町です(→GM.:地点)。江戸期・三原城の水軍主力となった人々の専住地ですけど,これは紀伊半島から移住した人々との伝承があるという。

旭町の漁民(略)は,東町の関木門から東野村の堺までの四十九間ほどの間に住み(略)米田山の麓にあたるので一般に米田漁師といった。その主体をなす者は三原城主浅野忠吉にしたがって,紀伊三輪崎から移住した人々であった。浅野忠吉は浅野長政のいとこにあたり,長政の子幸長が紀伊和歌山の城主であったとき,首席家老として新宮城主であった。幸長の子長晟が広島藩に転封するや,これにしたがって来り,三原城を預けられた。そのとき忠吉にしたがって来たのが旭町の人々であった。そのほかに能地浦の漁民もここに出職して定住したものがあるという。[前掲三原市史同]

 何と,この移住は史料で実証されるに至っています。大阪の陣と呼応した二度の奥熊野土豪の反乱・北山一揆(→wiki/同名)の記録が,三原で発見されたからです。

紀州(北山)一揆・蜂起関係図〔後掲大阪の陣絵巻〕

(略)
旭町の人が熊野から来たということははっきりした記録がなく,「三原志稿」の記事がわずかな手がかりになる程度であった。ところが三藤氏の家に北山一揆に関する戸田家の古い文書が残っていた。これはもと三原浅野家の家老であった戸田家に所蔵されていたものであるが,後,三藤家の所有になった。北山一揆というのは,慶長十九年(1614)十二月,大和北山の郷民が大阪城の豊臣秀頼に味方して兵をあげ(略)郷民を捕らえ三百六十三人を斬殺した。そのころの記録はあまり残っていない。
 ところがその記録が,三藤家に保存されていたのである。[前掲三原市史同]

 何の記録なのか原典に当たれませんけど,近世初めに紀州漁民の移民伝承が西日本各地に残るのは,あるいはこれと類似の背景を持つものかもしれません。つまり,叛乱分子に連なる可能性を念頭に置きつつも,自領海域の海運・漁業振興を企図した諸大名の「黙認」により,紀州漁民は各地へ散った。
 この大掛かりな移住運動は,安芸三浦の海民の動静にも影響したでしょう。例えば,能地衆が早い時代には西方向にしか活動圏を広げれなかったのは,先進漁法を持つ東からの海民群に押されたからかもしれません。

家船緊急調査:宮本常一記述部分

 次には,家船緊急調査内に宮本常一が書いた文章に触れていきます。
 能地についての次の文章は,いつの時代か明記されないけれど,能地衆が海を移動していた往時の姿を活写しています。その伝える能地衆の生死と生業の様は,実に屈託がない。

 能地の人たちはそのはじめはほとんど小網漁であった。そしてほとんど旅へ出ていた。子供も船の上で生むことが多かった。産気がつくと船をつけて,男に産婆をたのみにいってもらって生んだ。橋本トミさんも2人の子を旅さきで生んだ。能地の人で70才以上の者ならば,大半が船の上で生れたといってよい。死ぬる場合も船の上で死ぬることが多かった。そういうときは陸へつけて野焼きして骨をもって帰ることが多かった。海で遭難して死んだ人のあるようなときには浜へ埋めておいてあとからとりにいった。ある女が四坂島へイリコを買いにいったかえりに風に吹きながされて観音寺へ流れついたことがあるが,女は死んでいた。そのときも死骸は浜にうずめてあり,それを村からとりにいったことがあった。葬式はすべて能地でした。そして鐘崎へ墓をたてた。
 船での生活はつつましいものであったが,みなきれいずきでまた陽気であった。どこへ出ていくのにも屈託しなかった。女はみなバネ仕掛のように働き,とった魚は船をおかへつけるとすぐハンボウに魚をいれて売りあるいたものである。[前掲広島県教委 昭45,宮本常一]

 近代後半から,宮本さんによると,能地衆の中からは「商社」的な運び屋として働く者が出たといいます。西九州(平戸・五島)から尾道までの航路をとって,最初はイワシ,後には石炭を運んだとありますけど,これが他の者に出来なかったのは,従来から西日本全域の海上を動いていたからでしょう。
 面白いのは,その範囲が,善行寺文書が示すよりはるかに広いことです。

 機帆船になるまえに小さな運送船でイワシを買いにゆく船が昔からあった。遠くは平戸・五島までいってイワシを買って尾道の問屋へ売った。これは賃積ではなく金を持っていって買ったものである。その金は尾道の問屋で借り,平戸五島へいって土地の商売人にその金を貸して契約し,イワシを煮干に製造したものをひきとって積んで来た。これはもうかる商売であった。大削若松翁の祖父にあたる人がこの煮干買いをしていたが,大きな壺に藩札が1ぱいつめてあったという。また大きなモッコに穴あき銭を1杯いれてかついで戻って来た家も4~5軒もあったという。そういう船が10艘ほどあった。
 これらの船と九州と大阪の間を石炭をはこんだ帆船は別で,それも10艘ほどあった。この方はそのよい時代はみじかくてほとんど損をしてしまい,船は売り,その人たちは陸へ上った。そしてこの土地にいるものも少ない。[前掲広島県教委 昭45,宮本常一]

 そうして宮本さんは,海民としての能地衆の終わりの姿までを伝えています。「1日海を見ないと気分がわるくなる」という感性は,陸人には想像しにくいものです。

網漁から商船にきりかえるものも少なくなかった。そして財産ができると陸上りして商売したり,または三原糸崎などの会社へつとめるようになっていった。商船にのった者がみな財産をつくっている。このようにして漁業だけで生きる人が次第に減っていった。
 しかし働けるかぎりはみな働いている。いま能地ではイカナゴ漁が盛だがその時期になると,漁船を持っていないものもみなやとわれて沖へでる。80才になった老人でも働いている。
 船住まいをしている人は1人しかいなくなった。夫婦と子供でいまも小網をやっているが小網だけでは食えないのでドカチン(土木工事)の人夫にいったり,イカナゴ時期にはイカナゴ網にやとわれるが,この土地には家をもっていない。
 能地というところは大へん活気のあるところで,このようにその経営を充実させつつ次第に陸上りしていったのであって,それでは力のないものだけが漁をしているかというと,そうではなく,海への愛着のたちきれないものがなお漁業をつづけているのである。1日海を見ないと気分がわるくなる人もあるという。ただその人たちのために能地沖の海は魚が少なくなりすぎ,せますぎる。しかも学校教育の関係で昔のように魚を追うての船住まいはゆるされなくなった。[前掲広島県教委 昭45,宮本常一]

 水上生活が困難になってくる背景として,この「学校教育の関係」というのはよく綴られます。教育そのものの必要性より,義務教育の義務感か,あるいはそれを経ないと「国民」として認知されない,という恐れからでしょうか?近代制度の中で,人別帳(≒戸籍)制度も止められなかった海民の移動性を,意外にも義務教育が緩衝した,という点は机上ではなかなか思いつけないと感じます。

[関連]三原市史:大正以降の推移

 上記近代の衰微期の様については,三原市史の別項にも記述があります。これも筆致からして宮本さんでしょう。

打瀬※が増え始めたころ,石炭の運搬がもうかるというので,打瀬をやっている者で石炭船に乗り換えた者が多かった。大正三年から大正八年(1914~19)までの五年間で,北九州から大阪までの間を黒船と呼ばれる帆船で石炭を積んだもので,初めの四年くらいは大変もうかったが,欧州大戦が終わると,大阪が急に不景気になり,帆船を持つ者はみな大損をして借銭が払えなくなって村を去り,大正の終わりから昭和の初めごろには村がからっぽになったような寂しさを覚えたことがあった。しかしそうした帆船は,実際には十五艘くらいあったにすぎない。村の様子は大正の好景気を堺にして少しずつ変わり,陸上がりしたものは商売を営み,漁業から縁を切った者も多かった。
[前掲三原市史 第六章 漁業地区とその成立]
※ 愛知県型の小打瀬。明治20年頃から打瀬船が増え,その行動性の高さから明治末には愛知県型が主流となる。能地の製作の場合,明治末で四百円。

「大正の好景気」まで,家船から商船に乗り換えての栄えの時代があったらしい。前述の西九州からの石炭運送の延長でしょう。ただその好況は短く,遅くとも昭和初めには「村がからっぽ」になる。家船→商船乗り換えの成功組を誹る因果応報譚トーンの伝承ですけど,それと「からっぽ」は対象者層の幅が違うので因果は立たない,と指摘もしてる。
 ここから推測するに,商船に乗り換えなかった者は,つまり大正年間までに家船を捨てたと考えられます。
 また,幸崎神社で見たように大阪で郷友会が存続しているのは,商船組が全面に撤退したというのではなく,大阪に移住したからだとも考えられます。

 地元を中心に漁業を営んでいる者の変化を見ると,第三一図のような数字になる。
(第31図 漁業者の変遷)
年/船/人数
天保4(1833)/146艘/646人
大正14(1925)/128 /-
昭和元(1926)/ 75 /335
昭和7(1932)/ 67 /-
昭和26(1961)/ 24 / 63
ただしこのような数字が,どうして出てきたかを確かめていない。たとえば大正十四年(1925)と昭和元年(1926)のわずか一年の間に五十三艘も減っている。一年間に出先地へ移籍した者がこれほどあったのであろうか。また海から陸上がりした者がこんなにおおかったのであろうか。そのあたりのことは確かめていないが,急速に地元の漁民の数が減っていっている。これは漁民が無気力であったのではなく,むしろ,困難に立ち向かうと,新しい世界を切り開いてゆき,漁業で生活をたてる力を持った者のみが漁業にしたがっていったのである。
[前掲三原市史 同]

 宮本常一が信じがたいと感覚している統計数字です。確かに,数字を信ずるなら,人数ベースで幕末から大正の90年余で半減したところが,昭和の35年余でさらに1/5まで減じています。この間,特に昭和の変化がこの浦でいかに大きかったかを示す数字です。
 いずれにせよ,昭和初めまでに,瀬戸内一円に枝村を持った二窓・能地衆は瓦解してます。その経緯を物語る事績はあまりにも少なく,また実証性も薄い。
 ただ一つ,この半世紀余の急変が意外に滑らかに推移しているのは,逆に海民の可変性を物語るものなのかもしれません。

昭和30年代の尾道のバンヨリ

※「晩寄り 土堂海岸」1961(昭和36)年5月宮本常一撮影(周防大島文化交流センター・宮本常一記念館蔵) 尾道商工会議所記念館「宮本常一とあるく・みる・きく」展示解説

長浜のカベリ フィールドワーク資料

 最も最近まで見られた二窓・能地衆の名残りは,竹原・三原・尾道市内を歩いた「行商」の姿だったようです(→前述「ハンボウ」も参照)。
 家船緊急調査の影響か,家船に関連する生業形態として記述される傾向が従来あったけれど,これには現在は否定的な立場を採る者が増えてきたらしい。

芸備沿岸地帯は、学界では、家族が舟に起居しながら魚の捕獲、販売を行う、所謂『家船』が多く分布した所として知られている。そのため、特に漁師の妻を担い手とする魚売りについては家船との関わりで述べられることが多かった。(中略)ただ、関連文献に目を通しているうちに、魚売りの全てが家船をベースとするタイプであったわけではないのが認識されるようになったのである。〔西日本庶民交易史の研究 胡桃沢勘司著 文献出版, 2000 p154←後掲忠海再発見167〕

 とは言え,先の家屋の特色に見たように,たまたま遠出せず「留まっている期間が長い」家船だったのではないか──という点に対し,同論者が挙げるのがこの長浜(→GM.)の例です。
 忠海長浜は,そもそも漁業集落でないのに行商の風が多く見られるのです。

長浜は、忠海の西端に位置している。近世、忠海村で漁業を主とする浦方に属していたのは二窓のみであった〔竹原市「竹原市史」,1963 第1巻 p377←後掲忠海再発見168〕

忠海本村への魚供給はむしろ長浜が請け負っていたという〔村岡浅夫「二窓の自然と歴史」『フォクロアひろしま』8・9合併号(1981年8月)p367←後掲忠海再発見168〕

 ただ,次の記述を見ると,元は漁をしていた家の女房が,市場での小売が免許制になったために,販売請負のみに特化していった,つまり近代以降の現象とする見方もあるようです。

魚売り行商はカベリ・カベリサンと呼ばれたが、夫婦で出漁して妻が捌きに廻るものと、市場や漁師から購入して売りに行くものとの、二つのタイプがあった。前者は、出先で処理してしまうこともあり、捕獲した魚をかつては市場へ出さなくても良かったから出来たことだが、やがて小売に『許可』が必要とされるようになると、めっきり数を減らしてしまう。一方後者は、漁師から『漁獲量が少ない時、市場へ行く時刻が遅くなった時は、カベリに買ってもらえ。』と言われ、アテにされる存在だった。〔西日本庶民交易史の研究 胡桃沢勘司著 文献出版, 2000 p169-172←後掲忠海再発見168〕

※用語解説:ハンボウとカベリ

頭上運搬する女性(インド カシミール州,1989年)〔後掲うちのガラクタ〕
*用語整理
※ ハンボウ :行商用頭上桶
 沖縄ではティル(竹籠,背負う場合も多い)の語があるけれど,他に別称の記録は見当たらない〔wiki/頭上運搬〕(ただし,民具名なので民俗学者が特記しない限り,世にはでないので,無いとは限らない。)
※※カベリ:行商
 広島・岡山県での呼称
 島根・山口県ではカネリ又はノージ。
〔世界大百科事典内/能地(カベリの言及)←コトバンク/カベリ〕
 他に,イタダキ(徳島県海部郡阿部村(現・由岐町)など),ササゲ,カベリ,ショイカゴボテ,カツギッコ,オタタ,ボテフリ,カタギ,ザル〔世界大百科事典内/販女←コトバンク同上,世界大百科事典内/行商(カネリの言及)←コトバンク/カネリ〕
※※※頭上運搬の動作そのものは,古来,イタダク,ササグと呼ばれた〔wiki/頭上運搬〕ので,「イタダキ」「ササゲ」などの別称は明らかに頭上運搬を伴う。
 また,山口・島根県での「ノージ」は,ほぼ間違いなく能地の地名に由来する。
頭上運搬する女性(日本,年代不詳)〔後掲常足(なみあし)身体研究会〕

カベリさんのライフヒストリー(胡桃沢勘司聞取)

 以下は,胡桃沢さんの聞取り調査による忠海長浜市民のライフヒストリーです。ハンボウ※を用いて魚を売ったカベリ※※さんの日常が記録されています。

ハン氏が売りに行ったのは忠海の町である。ハン氏は魚を二窓で仕入れたが、二窓には長浜の舟が入港することもある。ハン氏は、オヤス・オセキ・オシマ・オトヨの各氏と、五人で仲間を組んでいた。出発は午前三時頃で、連れ立って行くが、道は車両が通れるくらいの幅はある。仲間のなかには車を使う者も居て、他の者の空のハンボウを積んで行ってくれた。車を使っても、カベリと呼ばれたことに変わりはない。カベリは得意を持っていたが、ハン氏たちの場合、二窓で仕入れを済ますと、各々予め決められた所へ手分けをして売りに行く。長浜へ戻って来るのは、午後三時前後だった。ハン氏は仲間のリーダーであったらしく、夜その日の儲けの分配の際は皆が寄能氏宅に集まって来る。売上金から仕入れ金を差し引き、残りを『~はいくら』と言って分け合っていた。この時、子供達が近くで騒ぐと怒られたものである。〔西日本庶民交易史の研究 胡桃沢勘司著 文献出版, 2000 p169-172←後掲忠海再発見168〕

 二窓で仕入れて,忠海市街で売る。上記後半部では初歩的な精算行為を行っていたと推測されるので,小遣い稼ぎではなく血眼になる程度の売上規模だったと推定されます。
 けれど,次の市場(イオンタナ)の話となると──昭和初年の「小学校」がその後の東西いずれの小学校だったのか,そこまでの土地勘はなく全く分かりません。土地勘のある人に読解して頂けるよう,一応掲げさせて頂きます。

魚は、カベリはイオンタナ(市場)で仕入れていた。イオンタナは、昭和2年に出来たが、場所は小学校の一寸西のハト(船着場)の跡付近である。朝、ここへ漁師が魚を持ち込むのを見計らって、カベリたちが集まって来た。魚は、籠に入れられ、サヤス(値を付けること)が、その際、声をかけたのは堀井三太郎、帳付けをしたのは伊勢本兼松である。イオンタナに出入りするにはカブに入っていなければならず、いきなり行っても買うことはできない。イオンタナにはカブ持ちの名札が下げられていた。支払いは数日に一回纏めてしていたが、これが滞ると、名札を裏(赤塗り)返しにされ、出入りを停止される。行先によっては客から代を貰うのが半年に一回になるから、その方面のカベリをするには一定の元手が必要とされた。〔西日本庶民交易史の研究 胡桃沢勘司著 文献出版, 2000 p163-169←後掲忠海再発見167〕

 脱帽したまま本章には,結論はありません。掻き分けて入るほどに森がさらに鬱蒼と広がっていく。確かにそこには何かの輪郭があるのに,辿っていくと途中で途切れる。そんな心地よい無力感に晒される,二窓・能地の時空風景です。
 筆を置きます。