m000m噴出口m水天の世界 土賊刈る彼は誰m海域アジア編首頁

本歌:中腰の世界に玉葱の匂ふ(開成・最優秀句)
※第22回松山俳句甲子園句より。以下同じ。
※木賊:とくさ。砥草とも。トクサ目の常緑性シダ植物。茎をゆでて乾燥させたものを木製器具や角・骨を磨くのに用いる。

~~~~~(m–)mダイエット遊記外伝拾九
海域
アジア
浮動編
~~~~~(m–)m
あるところに高知人が住んでおっての。その夏場は雨は降るわ暑いわで さしもの高知人も水虫になっての 思わず叫んだそうな。「かいーき,足が!」(痒いよ,足が)

§媽祖→wiki/媽祖 繁体字:媽祖 簡体字:妈祖 拼音:ma1zu3
§マージナルマン→Hitopedia/マージナルマン(境界人、周辺人) marginal man
→歴史おたくの歴史日記/「マージナルマン」のそれぞれの学問での用法
「史学(日本史)では倭寇を指す。
倭寇をマージナルマンと呼んだのは、中世史家の村井章介。倭寇を構成するのは日本人・中国人・朝鮮人と様々で、その活動範囲は国家の枠組みを越える。このように倭寇は「海」をクニとしたことから、彼らを「境界に生きる人々」とした。」
§メティス(metis):レンマ学/メティス
〔主題歌〕
①一百万个可能(由Christine Welch(克丽丝叮)演唱作词,陶山(Skot Suyama)制作,外文名称 A Million Possibilities)(抄)
在一瞬間 有一百万个可能 该向前走 或者継続等
这冬夜里 有百万个不確定 渐入深夜 或期盼天明
②ジョルジュ・ビゼー「カルメン」組曲
③中島みゆき「宙船
④鷺巣詩郎「this is the dream, beyond belief…

2019.
09.13m011m第一波mm(福岡県)津屋崎・上海
09.14m021mm福州(1)
09.15m031m第三波mm莆田(1)
09.16m041m第四波mm莆田(2:湄洲島)
09.17m051m第五波mm泉州
09.18m061m第六波mm泉州(2) m065mm漳州(1)
09.19m071m第七波m漳州(2)
09.20m081m第八波mm厦門(1)
09.20m091m第九波mm厦門(2) m094m台北(1)
09.21m101m第十波mm台北(2)
09.21m111m第十一波mm台北(3)
09.28m120m第十二波mm(山口県)防府
10.12m131m第十三波mm平戸
10.13m141m第十四波mm長崎(唐人町)
10.14m151m第十五波mm長崎(四福寺)
※10.19第十次釜山(麗水→普州→馬山→熊川→亀浦→釜山鎮)
11.02m161m第十六波mm坊津
11.03m171m第十七波mm野間岳
11.11m181m第十八波mm厳島
12.27m190m第十九波mm沖縄県立図書館
同m19Am第二十波mm那覇(天妃宮)
12.28m19Bm第二十一波mm那覇→浦添→中城→沖縄
12.29m19Cm第二十二波mm南部(唐の船御嶽・奥部島観音)
12.30m19Dm第二十三波mm台南(開台天后宮)
12.31m19Em第二十四波mm台南・嘉義(北巷朝天・新巷奉天)
2020.
01.01m19Fm第二十五波mm台中(鹿巷・彰化・豊原)
01.02m19Gm第二十六波mm台中(南屯萬和)・台北(淡水關渡)
01.03m19Hm第二十七波mm台北(信義福徳・新荘慈祐)
01.04m19Im第二十八波mm那覇→南部(阿摩美久の道)
01.05m19Jm第二十九波mm那覇(那覇天妃・香港通)
01.06m19Km第三十波mm那覇(首里観音・古波蔵・楚辺)
02.08m19lm第三十一波mm対馬(豆酘)
02.09m19Mm第三十二波mm対馬(金田城)
02.10m19Nm第三十三波mm対馬(豊玉)
02.11m19Om第三十四波mm対馬(厳原)
07.23m19Pm第三十五波mm(大崎下島)御手洗



「文献には,漢字で書かれた旧国名『石見』の文字に重ねるように,スペイン語で『イワニ国 銀が多量にある。当地にはポルトガル人が来航する』と記されていた。」〔山陰中央新報 令和元年8.24(1面)〕※後掲詳細の再掲

シナ海に面する土地を巡るほどに,出会す機会の増えたクニがあります。
 そのクニは正史の表層には現れず,文字に正面から記されず,大抵,分からない歴史を掘って行った地中深くにチラリと顔を覗かせます。
 歴史学はさすがに気付いて,このクニを「海域アジア」と呼んでいるらしい。
 そこで表題はそれに従った。けれど,本音では「海域M」と謎語で呼びたい気分です。なぜならそのクニは,アジアですらないから。というか,アジアの下位概念であるべきじゃないと思うから。
 それほど奔放なイメージとして,そのクニは立ち現れてきました。──Mとは,上記,marginal manの頭文字。そして,今回の福建行き,直接の動機となった媽祖 mazuのそれです。
▲台湾での経験に基づく媽祖イメージ(台湾市長)

るほどに,このイメージに関する歴史の断片が違和感を醸してきた。
 教科書の「大航海時代」,そして「鎖国」のイメージに対して,です。
 非常に迷惑だったと思うけれど──それで思い出すのは中学の授業です。江戸時代の歴史を教わってる最中,教師に質問したことがある。
「日本みたいな海だらけの国で,どうやったら国を閉ざすことが出来るのか?密貿易はむしろ頻繁に行われたんじゃないのか?」
 教師の回答は「とにかく鎖国してたんだ」(そう覚えないと試験で減点になるよ)という感じの繰り返しになった。
 その後,宮本常一の海人の記述を見ても,とても海洋航行を厳格に規制できてたとは思えない。それほど海人は江戸期にも遠方に,気軽に繰り出してました。〔海に生きる人々〕の冒頭には五島列島で宮本の古里・周防大島の漁民の死亡記録が2件あった事が記される。
 瀬戸内の御手洗に残る密貿易の跡。直近では長崎の飽の浦の疑惑。
 正史に記されない海人の行動範囲の広さは,教科書の想定を遥かに超えているんじゃないか。それは「鎖国」日本人だけでなく,東シナ海沿岸一円に同じことだったのではないか。そういう疑念,というか確信は年を負う毎に強まるばかりです。
▲西門守護神・林默娘(媽祖の台湾キャラ)

り過ぎるほどに,魅せられていく土地があります。
 福建には,厦門に立ち寄ったことが一度,それとSEC(中国東海岸行)で福州にもう一度行ってます。
 どちらも何とも不思議な「中国」感覚を覚えた土地でした。消化しきれない,というのが正直なところでした。
 まぎれもなく中国なのに,中原でも南中国でもない淡白な感覚。かといって台湾のような潤いもない。
 この土地に,正面から取り付いてみようと思います。
 直接の動機,というかイメージは,台湾の近世史を見ていて浮かび上がった漳泉械門。漳州出身者と泉州のそれとの内戦です。それは単なる派閥争いというより,17世紀の台湾入植時,つまり鄭氏王朝の独立国時代に根を持ってました。漳州と泉州,二つの海上国家の植民地が台湾という外地で行った戦争,と捉えてます。
 福建は,ルネサンス期のイタリアのような政治状態だった時代を持ってるように見えました。
 今,現地を歩いてそうした事が感じとれるのか?もちろんそれは不確定です。昨年の山東では,小松左京の描いた殷代・蓬莱の影は,無念にもほとんど感じとれなかった。
 ただ,今回の時代はずっと近い。福建人が和寇を騙って人類史上初めてマーケットを造りだしたのが16~17世紀,清朝を悩ませたのが17世紀末~18世紀初。大阪城や長崎出島ほどの近さです。
 何も見えないことはない。
 では何が水鏡に映せるのか?
その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ お前が消えて喜ぶ者にお前のオールを任せるな その船は今どこにフラフラと浮かんでいるのか その船は今どこでボロボロで進んでいるのか 流されまいと逆らいながら船は挑み船は傷み 凡ての水夫が畏れをなして逃げ出しても(Re.) その船は自らを宙船と忘れているのか その船は舞い上がるその時を忘れているのか 地平の果て水平の果て それが船の離陸地点 凡ての港が灯りを消して黙りこんでも(Re.)
§ 過去の関連領域 (m–)m

■外伝9 香港蓮華編.Activate Category:香港八次 Phaze:第二日昼Range(屏山)/■小レポ:围
■外伝18やまと潜航遍 長崎県\茂木街道完走編\005-5転石の谷転石の谷/■小レポ:合戦場
変電所の坂/■小レポ:コガネ島と飽の浦の近世

ダイエット遊記外伝拾七 蓬莱浮现編首頁

§ 本編の要点イメージ (m–)m▲ユーラシア海ネットワークと港市
※ 野間 晴雄「アジア海域ネットワークと港市 : 生成・展開・衰退の東と西」関西大学,2009

シシル文化
パシシル文化とは、沿海文化のことである。
マレーシアからインドネシアにかけての沿海地域では、民族や言語は異なるけれども、漂泊的な漁撈と船による交易を背景にして、非常に均質な文化がひろがっている。それをパシシル文化と呼んでモデル化したのは、アメリカの人類学者、ヒルドレッド・ギアーツであった)。これをうけて大林は、東シナ海沿岸域についても、古代の海人文化から現代まで、このモデルによって説明できると主張している。
※ 出典:浅川滋男「東アジア漂海民と家船居住」公立鳥取環境大学
※ 出典における引用文献:大林太良「海と山に生きる人々」『日本民俗文化体系 山民と海人』小学館
寇=海民
日常的には海民として漁撈や水運,そして農業にも従事し,また,商品や財宝を積んでいる船を発見すると海賊化し,船を襲う。倭寇はこれらの人々が「国境」を越え,掠奪行為を行う際付された名称であり,その「倭寇=海賊」を海民と分離してはその実体がつかみにくいのであろう。
※ 金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代日本に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003

▲能地・二窓移住居留地図(西半分:広島県以西)▲能地・二窓移住居留地図(東半分:岡山県以東)

予水軍
「惇。秋山家の先祖は伊予水軍であることを知っとるか?源平の頃,我が祖先は既に瀬戸内の海を暴れ回っとった。伊予人の中から出て初めて日本海軍の士官となるか!」
坂の上の雲第二話:海軍兵学校入学の入学の承諾を弟(真之)から求められた際の秋山好古の返答
見銀山
山陰中央新報 令和元年8.24(1面)
「ポルトガル商人石見国来航」
「桃山時代,日本の貿易国ポルトガルの商人が銀を直接取引するため,石見国を訪れていたことを示す文献がスペインで確認された。」
「文献には,漢字で書かれた旧国名『石見』の文字に重ねるように,スペイン語で『イワニ国 銀が多量にある。当地にはポルトガル人が来航する』と記されていた。
 さらに,現在の広島県西部に当たる『安芸』の部分には『アキ国 当国の王は上述の(イワニ)国のすべての銀を享受する』と書かれ,毛利氏による石見銀山支配の状況を説明。」
「文献は1587年7月4日付の『フィリピン司教ドミンゴ・デ・サラザール(キリスト教ドミニコ会士)のマニラ来航日本人への質問録と日本情報』と題した冊子。スペイン国立文書館(マドリード)に残されているのを,東京大大学院情報環の岡美穂子准教授(45)=対外関係史,キリシタン史=が確認した。」
(26面)
「ポルトガル人往来 11人の日本商人名も記載 石見銀 流通の実態分かるか」
「キリスト教の洗礼を受けた日本人の商人11人の名前も記されていた。」
「日本人の商人がスペイン人司教の聞き取りに応じた場所は,当時の国際貿易の最前線だったフィリピン・マニラ。11人の名前の詳しい判読はこれからだが,それぞれ平戸や博多,堺といった中世末期の日本の代表的な貿易港を抱える地域の出身者だった。」

国論
「『鎖国論』は『廻国奇観』第 2 巻第 14 章の論文である 。」
「ケンペルは、しかし、鎖国を現実に基づいて分析した。切支丹の追放―キリスト教の禁止―貿易相手国の制限―という江戸幕府の一連の禁止令の結果としての鎖国について、ケンペルは妥当性をもつとして是認したのである。」
「果たして1801年当時の日本人にいわゆる『国を鎖して』いるという意識があったのであろうか。むしろ、諸外国との交渉を『鎖して』いる外交政策は、それを有益と捉えたケンペルと有害と捉えたドームらによって初めて日本人の意識にのぼった、いわば逆輸入の概念ではなかったか。なぜならば、少なくとも江戸幕府日本は、ヨーロッパとはオランダと東アジアでは中国、朝鮮と交易関係は維持しており、また、世界情勢や医学、科学に係る情報・知見はそれなりに獲得できていたからである。」
(渡邉直樹「ケンペルの『……国を鎖している日本』論―志筑忠雄訳『鎖国論』と啓蒙主義ヨーロッパ―」,宇都宮大学国際学部研究論集 2015第39号)
ティス metis
「分析能力の高い古代ギリシャ人は,タコやイカのような海洋生物に備わっている知性を,言語的ロゴスと区別して『メティス(metis)』と呼んで関心を持っていた。メティスは海の女神である。陸上のロゴスは言語の意味を確定しようとする。ところがメティスは言語の秩序を乱して,意味を多様性の渦に引きずり込むのである。それはタコのように変幻自在に姿を変え,周囲の環境にまぎれて自分を見えなくしておいて慎重に近づいていき,いきなり相手に襲いかかるなど,策略にみちた行動を可能にする知性である。この知性は人間にも動物の世界にも見出される。
 人間の世界でこのメティスの知性の持ち主と目されるのが,職人(彼らは一様でない素材の変化に合わせて繊細に道具や筋肉の使用法を変化させていく),ソフィスト(哲学者のように真理の表現を目指すのではなく,ソフィストは相手を説得するために表現を自在に変化させていく。彼らは真理を語ることよりも,演説によって状況に変化がもたらされることのほうが重要と考える),政治家(彼らも真理を語ることには関心がなく,嘘をつくのも平気で,そんなことよりも発言ができるだけ効果的であることにこころがける),海洋民(動き変化を続ける洋上で安全に航海を続けるための知性に富んでいる)たちである。たえまなく動き変化している実在を,厳密な論理命題によって取り押さえるのではなく,みずからを多数(multiple)多様(polymorphe)に変容させながら世界に変化をつくりだしていくのが,メティスの知性の特質である。」
(中沢新一「レンマ学」講談社,2019)
びなかった倭寇
「倭寇(後期)は多国籍海上集団であって今日的なナショナリティを問うことに意味はないが、媽祖を中心に据えた点では宗教結社に近いかもしれない。彼らの活動拠点は寧波・舟山列島、平戸・五島列島におよんだが、媽祖が彼らだけ の守り神であったという認識は誤っている。元代以降は『官民』ともに媽祖を祀る風習が定着し、敵味方関係なしに信仰が広まった(海の嵐はだれでも平等に襲う)から、単なる民間信仰ではなかった。倭寇もそれを討伐する官軍も双方が守り神としていた。それは後述する鄭氏家臣(芝龍に従って成功と袂を分かった)にして台湾平定の功労者であった施琅にも見ることができる。
 江戸期になり日本の外国船寄港地が平戸から長崎に替わるが、やってきた多数の唐船も乗組員はおなじであった。そもそも倭寇が消滅したと言う通説は誤りであり形を変えたのである。『鎖国』体制で もシャム船・アンナン船は来ている。これらは倭寇の衣替えである。そして長崎の3福寺(崇福寺・興福寺・福済寺)はもともと唐人が寄港した際の『ボサ挙げ』媽祖堂が起源であり、のち曹洞宗と臨 済黄檗派の唐僧が来日し寺院としての体裁を整えたのである。」(佐藤雅信「日本に来た媽祖―東アジアの航海神の足跡をたどって―」)
へさまは、ほんきんのミやこに御さ所をなされ、又それをもたれそ御すへなされ、につほん のふなつきにんぽうふ(寧波府)[  ]きよ所を御きわけなさるへき[  ]
※ 私訳:上様(豊臣秀吉)は香港の都に居所を置かれ,またはそこへも誰か他の者を据えられて,日本の船着き寧波府に居所を置かれるべきである。
(「組屋文書」小浜市立図書館)
「北京は天皇に預けて,みずからは寧波を居所とする。それが秀吉が明らかにしたアジア支配構想の眼目であった。いわば寧波からアジアを支配するということである。そのアジアの海には,デマルカシオン(世界領土分割)を国是として世界支配をねらうポルトガルとスペインが姿を現していた。」
(平川新「戦国日本と大航海時代」,中公新書,2018)

ぜ越南が海岸べりに細長く南方へ延びているのでしょう。じつは,漢字文明圏は,南シナ海,東シナ海,黄海,さらに北へ行けば日本海(東海)と,いってみれば極東の海沿いに広がる文明圏であるからです。
 ある意味で異様ともいえる,細長いベルトのような越南の国のかたちを見ていると,越南は漢字・漢詩・漢文によってつくられた地方であり国であることが明確にわかってきます。越南という国が生まれたのは,インドシナ半島の東岸に民族的なまとまりをもつ人々がいて越南というひとつの塊が自然発生的に存在したからではありません。そうではなく,大陸側から漢字・漢語の文化と文明が海沿いに南進することによって生まれた国家です。
(略)たしかに文字が生まれたのは内陸部で,黄河沿いということが強調されますが,全体的には「漢字文明はアジアの東海岸に広がったひとつの文明・文化である」と考えると,今までと違う視座で漢字文明圏をとらえることが可能になります。漢字文明の姿を考えるときには,「大陸に中心があって,そこから海辺に広がった」と考えるよりも,「海という存在が漢字文明の成立に重要な役割をなしている」ことを前提にして考えることが大切だと思います。
※石川九楊「漢字とアジア──文字から文明圏の歴史を読む」2018,ちくま文庫

~~~~~(m–)m 福建関係
・閩菜 ミンツァイ Min3cai4
・福建省は、もともと閩越族が住んでいた地域と言われ、秦代以降に兵士や役人などの中原地方の漢族が移住し、混合文化を形成した場所と考えられている。
・唐の徐堅が著した『初学記』は漢の王粲の『七釈』を引用して「西旅游梁,御宿素粲。瓜州紅麹,参糅相半,軟化膏潤,入口流散。」と記しており、当時西域や中原地方で用いられていた調味料の紅麹が移民とともに福州に伝えられ、「紅糟羊」、「紅糟魚」など、現在も作られている料理につながっているといわれる。
・北、南、西の各地区で食べられている福州料理(閩北料理)、閩南料理、閩西料理に大きく分類される

※ wiki/福建料理

※ 古代・中近世史 総論
「1553 年からの数年間が倭寇の最盛期で、王直の部下たちは江蘇・浙江の各地を無人の境を行くごとく縦横に荒らし回った。しかし 1557 年、王直は貿易の公許という餌に釣られて官憲に投降し、2年後に殺されてしまう。王直は投降に際して、五島から大友義鎮の使者をともなって舟山諸島の岑港に入った○30。日本の勢力も貿易の公許に期待をかけていたのである。同時期、王直の配下から自立した徐海は、日本の大隅・薩摩を本拠に江浙で活動したが、これも 1556 年討伐された。徐海と運命をともにした者のなかに、大隅の辛五郎がいる。その後倭寇の活動は規模を縮小して福建・広東地方に移り、1561 年に漳州府の沿海
土豪が倭寇と結んで反乱を起こしたが、3年後に鎮圧された(月港二十四将の乱)。そして 1567 年の海禁解除は、倭寇発生の根本原因を除去するものであった。」
「中国の場合こうした同族結合は、古代中国文明の中心地だった華北よりもフロンティアだった華南に多く見られる。王朝政府の庇護やサービスが得られない中で、先住民族の抵抗を抑えつつ入植活動を進め、開墾事業を行うためには凝集力の高い人々の結束が必要だったからである。その結果江蘇、浙江から福建、
広東など華南の広範な地域において父系出自集団である宗族組織が発達した。」
「こうした移住を促す要因となったのが中国の人口増加であった。もともと中国の人口は長い間六五○○万人前後で推移し、一六世紀頃にようやく一億人を超えたに過ぎなかった。だが温暖な気候と政治的安定が重なった一八世紀には、人口も一億五千万人から三億人に倍増した。これらの人口を吸収したのが従来手つかずであった山間部や辺境の少数民族地区であった。また開発が頭打ちとなって余剰人口に苦しんだ福建と広東の人々は、かつてフロンティアだった時代に培ったノウハウを生かして海外への移住を試みた。東南アジアを初め世界各国に散らばる華僑は多くがこの地域の出身であった。」
「日本も 1898 年 4 月に福建省不割譲に関する交換公文を中国と締結し、台湾の対岸の福建省を勢力範囲とした。」
「1933 年 11 月、福建に移駐させられた 19 路軍と反蔣勢力が手を結んで福建人民政府を樹立したが、翌年 1 月の国民政府中央軍の総攻撃で同政府は壊滅した。」

※ 百度百科/闽民系 https://baike.baidu.com/item/%E9%97%BD%E6%B0%91%E7%B3%BB
「汉人入闽由汉武帝攻打闽越开始,在五胡乱华时大量商家迁入福建沿海地区,使当地商业开始发达,唐宋元明初泉州港亦成为世界第一大港,闽民系又由闽南中心泉州港扩展至整个中国东南(包括广东、福建和浙江)沿海,漳州一带则是唐朝时开发的。」
「整体来说,闽民系于汉朝开始初步形成,晋朝到唐朝为大量人口迁入福建而成为现今闽民系的主要成份,最后在唐末五代时期定型。明朝到清朝则是闽民系向广东、福尔摩沙扩散的时期,清末以及民国则是大量人口向香港、台湾以及南洋移民的时期。」