009-4@豊玉【特論】異類婚姻譚\対馬\長崎県

和多都美神社の御朱印帳。対馬檜製。

百船の泊つる対馬の浅茅山しぐれの雨にもみたひにけり
(漢字本文)題詞:到對馬嶋淺茅浦舶泊之時、不得順風經停五箇日。於是瞻望物華、各陳慟心作歌三首
 本文:毛母布祢乃波都流対馬能安佐治山志具礼能安米尓毛美多比尓家里
(読み下し文)題詞:対馬島の浅茅の浦に到りて船泊せし時に、順風を得ず、経停まれること五箇日なり。ここに物華を瞻望し、各々慟める心を陳べて作れる歌三首
本文:百船の泊つる対馬の浅茅山しぐれの雨にもみたひにけり

(現代語訳)多くの船が泊る港の対馬の浅茅山は、時雨の雨に美しくもみじしたことよ。
〔後掲奈良県立万葉文化館 巻15-3697〕

■精読:聞け和多都美神社由緒

 まずはこの地の最もメジャーな観光地・和多都美神社の由緒全文を挙げておきます。注意深く読むならば,これだけでもこの神社の異様さは十分に感じ取れます。

 当社の所在地表示は現在「下県郡(しもあがたぐん)」であるが、以前は「上県郡(かみあがたぐん)」であった。平安時代の律令細則である『延喜式』の神名帳の中に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。
 貞観元年(859年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、『三代実録』によれば、永徳元年(1381年)に、更に従一位を叙せられ❛a❜、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つに数えられた。
 縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が当地に宮殿を造り、宮を「海宮(わたつみのみや)」と名付け、この地を「夫姫(おとひめ)」と名付けた。
 その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあった❛b❜という。そして神々しい神奈備(かんなび)「夫姫山(おとひめさん)」のさざ波によるこの霊地に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)のご夫婦の神を奉斎したと伝えている。
 豊玉彦尊には、一男二女の神があり、男神は穂高見(ほだかみ)尊、二女神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)という。
 ある時、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、そして豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生れたもの❛c❜である。
 満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮をを連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の御遺跡や満珠瀬(みつたませ)、干珠瀬(ひるたませ)、磯良恵比須(いそらえびす)の磐座など旧跡も多く、また本殿後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の檀が、豊玉姫命の墳墓(御陵)❛d❜である。
 また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)❛d❜である。
 このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。
 現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。〔後掲月の光〕

❛a❜ 従一位昇格

 個人的に最も引っかかった事象なんですけど,誰も解説してくれたものはありませんでした。
 1381(永徳元)年に「更に」従一位に昇格したのは,なぜでしょう?
 天皇が人臣と並列的な具合に神様へ位を授けるのは,中国で神号を贈る行為に似ているけれど,正五位から正一位まで15階制を定めての運用は日本独自です〔wiki/神階〕。673(天武天皇元)年に壬申の乱で神威を発した(と信じられた)神社に行ったのが初めてなので,859年というのは決して早くない。
 ただ,850(嘉祥3)年に諸神同時昇叙,つまりグループ方式での昇格制度が創始されてます。これは天皇即位時の恩典で,神様への恩赦,ないしは「これからヨロシク!」といった袖の下のバラマキみたいな感覚でしょう。初回850年の対象は「天下大小諸神」と定かでないけれど,2回目の859(貞観元)年は267社。時は清和天皇代,貞観の治と称される安定期です。でもこの時にようやく賜った神階が従五位上,ワースト2の低位です。
 諸神同時昇叙はこの後12回ありました。その11回目,三代実録に記される1381(永徳元)年,北朝の後円融天皇即位時の諸神同時昇叙が,和多都美神社が「更に従一位を叙せられ」た昇格と思われます。
「更に」というのは永徳までの五百年余,昇格がなかったけれど,いきなり従一位になった,という書き方です。

和多都美神社の昇格経緯の推定 ▼展開

元慶3(879)年:従四位下までの和多都美神社昇格歴〔後掲國學院大學デジタルミュージアム/神道・神社史料集成(古代)〕



 では,1381(永徳元)年の直前に何があったのでしょう。──神社の神位は,火山噴火に代表される天変地異に際し,これを「懐柔」する目的で異例な昇格をする例があります〔wiki/貞観大噴火 860年代に発生した富士山の噴火後掲〕。けれど対馬で該当の時代に天変地異は見当たりません。
 その代わり,この時代は前期倭寇の勃興とこれに対する朝鮮の反応が過敏になってきた時代です。

1381(永徳元)年前後対馬の出来事
1350(正平5)年 倭寇が高麗を侵す。
(この頃) 頼次が資国を祭神とする軍神社(小茂田浜神社)を建立〔後掲長崎県:対馬重要歴史年表〕
1352(文安元・世宗26)年宗盛家,朝鮮受図書人就任〔角川/仁位郡〕
1366(正平21)年 高麗国王より和平と倭寇の取り締まりの要請あり,家臣を高麗へ派遣。以後,高麗国との通交始まる。 〔同長崎県〕
1378(永和4)年 宗香の子・澄茂が守護職
〔木坂八幡宮棟札,その他の古文書←前掲角川日本地名大辞典〕
1381(永徳元)年 和多都美神社,従一位下昇格
1389年2月 康応の外寇 「第1次対馬島征伐」
〔高麗史〕
1396年12月「第2次対馬島征伐」
〔朝鮮王朝実録〕
1408(応永15)年 宗澄茂・賀茂の兄弟(仁位中村宗氏)反乱〔後掲角川/仁位郡
 八代・宗貞茂,現・峰町に佐賀館築城
1419年7月 応永の外寇 「己亥東征・第3次対馬島征伐」
〔世宗実録,看聞日記※〕
※明朝の侵攻と誤認し「大唐蜂起」として記す。
1443年 朝鮮-対馬間で嘉吉条約(癸亥約条)締結

 昇格30年前余に創建されている小茂田浜神社が象徴的です。祭神・宗助國は「国難事変に際して神威を顕し命を賭して戦」った宗氏祖先〔wiki/小茂田浜神社〕。
 和多都美神社の特進昇格は,対馬の呪的防衛網を強化しようとしたものとしか思えないのです。それは,「元寇の倍返し」としての「倭寇」の心性と表裏一体だったと考えます。さらに言えば,その暴力的威嚇を背中にちらつかせつつ行われたのが,三浦の交易だったのでしょう。

❛b❜ 広さ八町四方の宮殿

 1町=1200⁄11m。尺・間に直すと1町=360尺=60間,11町=1200m〔wiki/町〕。これは古代の60歩※=1町の時代ともあまり変わらないというから,少なめに見ても1町≒100m換算になります。
※1歩=約1.818182m:左右の歩を進めた長さ〔wiki/歩〕
 つまり,高さ150m,一辺800m四方の宮殿だったことになるわけですけど──

和多都美神社と仁位集落に落とした「800m四方」(赤線方形)

 どこをどうとっても,豊玉付近にそんな建物は設置できません。だいたい和多都美神社にしても仁位集落にしても,中世以前はもっと遥かに海面域が大きかったと考えられていますから,安芸宮島のように海に出っ張りでもしない限り,大宮殿を築けるはずはないのです。
 誇張表現であることは明白ですけど──それにしても,単に「大きな建物」と捉えても,和多都美神社の位置よりは仁位集落側にあったと考える方が合理的です。

❛c❜ 海幸彦・山幸彦の伝説

 豊玉姫のウガヤ神出産の前段となる海幸山幸譚は,記紀で位置情報が付されていません。孫の神武東征の出発地が日向とされることが多いことから,それへの連続上,皇祖神一族の出自は南九州とする説の方が一般的,という実は説得力の弱いものでしかありません。
 南九州の海幸山幸譚は,例えば霧島神社では次のような伝えになっています。

 創建は詳らかでないが、上古開聞の郷は竜宮界で海神豊玉彦命が支配していた。海彦から借りた釣針を紛失した山彦(彦炎出見尊)は海神の宮に捜しに行き海神の娘豊玉姫命と出合い結婚し、入野の聟入に神殿を構え後に霧島社としたと貝石の記に記されている。〔霧島神社境内由緒板←後掲鹿児島県神社庁〕

 海幸山幸譚が対馬での出来事だったとすれば,当然ウガヤ神の出産地も対馬になり,神武東征の始点も対馬です。──東征行程中,記紀に地名のない美々津(日向)を消去し,岡田宮(北九州市八幡)と宇佐(記:宇沙)の順序を逆転させるなら,対馬発の東征路は簡単に描けるのです。山から下りてきて宮崎の浜辺で船を建造した,とするより,島に元々あった船に乗ってきた,という方がはるかに分かりやすい。
 つまり,神代七代は全て対馬での物語である,という──

古事記における東征ルート〔後掲神話を科学する〕※朱書は引用者

──ことになりかねないのに,南九州説が圧倒的に強いのは,宮崎県高原町狭野の皇子原の地名から始まる伝承の濃さです。逆に,対馬には,神武にまつわる伝承がほぼ無い。瓊瓊杵命に由来する「瓊」位地名と,これだけ多くのホオリ神やウガヤ神,豊玉姫にまつわる伝承を持ちながら,です。
 故に神武東征始点は日向説が優勢なのですけど,この状況は逆に,前掲の東征開始時点の神武は●●●●●●●●●●まだ何者でもなかった●●●●●●●●●●,あるいは神武は東征中に創造された●●●●●●●●●●●●という仮定とは整合するのです。〔別章:【Synopsis】八百万の神武東征群参照〕
豊玉姫イメージ〔宮崎市観光協会〕

❛d1❜❛d2❜豊玉姫と豊玉彦

 豊玉姫は,ホオリ神の居所へ出産のため急遽身を寄せ,ウガヤ神を産みます。その出産時に「八尋の和迩に化」けた姿をホオリ神に見られたので,「海坂を塞へて返り入」ってしまいます。〔後掲記原文参照〕
「海坂を塞」ぐというのが何の事なのか分からないけれど,とにかく豊玉姫は海を隔てた場所に帰ってしまって,ホオリ神のもとから去ってしまったわけです。海の世界へ帰ったのですから,父親の豊玉彦命の世界へ,ということでしょう。
 和多都美神社の奥に,その豊玉姫と豊玉彦の墳墓があるということは,和多都美神社の場所は,ホオリ神が行くことの出来ない「海坂」の向こう,海神たちの世界,海幸山幸譚で言う竜宮の世界だということになります。
 つまり,対馬は,ホオリ神やウガヤ神の住む土地ではない。皇祖神の系統が,政略結婚で懐柔しようとして──あるいは,豊玉姫に次ぎ玉依姫が王統に入っていることから,皇祖神系統を乗っ取りをかけた,向こうから来るだけでこちらからは行けない世界が,対馬だったことになります。
 これは何を意味するのでしょう?
 そこで次に,豊玉姫のウガヤ神出産譚を古事記の物語の原文で確認していきます。節の順番としては,海幸山幸と神武東征の間,両物語を繋ぐものになります。

(再掲) 皇祖系図(鵜茅葺合尊周辺)

■レポ【古事記】異類の連続押掛け女房・豊玉-玉依姉妹神伝

 系図を再度掲げました。
 瓊瓊杵尊(ニニギ神)はアマテラス神の子孫で,その子が火折尊(彦火火出見尊の別称。以下「ホオリ神」),その子が鸕鶿草葺不合尊(ウガヤ神),その末子が神武帝になります。
 それに対し,イザナミ・イザナギ神の子が豊玉彦命,その娘が豊玉姫命(トヨタマ神)と玉依姫命(タマヨリ神)。この姉妹は,ホオリ-ウガヤの父子とそれぞれ結婚することで,両系統が姻族化しています。ただし,ウガヤ神はほぼ事績が残らず,架空の代と考えるのが通説化してます。
 また,豊玉彦命と豊玉姫命の父娘はヒメヒコ制※の例として最古のものとされます。

※ヒメヒコ制の概念は高群逸枝によって1938年に初めて唱えられた。高群は次のように言う「古代の祭治形式にあつては、神宣を体する姫の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二職を主長とする制度が生じたのである」。「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」。高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、69, 362ページ、参照 倉塚曄子『巫女の文化』(平凡社1979)〔wiki/トヨタマヒメ,ヒメヒコ制〕

豊玉姫イメージ〔宮崎市観光協会〕

於是海神之女、豊玉毘売命、自参出白之、妾已妊身、今臨産時。此念、天神之御子、不可生海原。故、参出到也。
爾即於其海辺波限、以鵜羽為葺草、造産殿。於是其産殿、未葺合、不忍御腹之急。故、入坐産殿。
爾将方産之時、白其日子言、凡他国人者、臨産時、以本国之形産生。故、妾今以本身為産。願勿見妾。
於是思奇其言、窃伺其方産者、化八尋和迩而、匍匐委蛇。即見驚畏而遁退。(略)
然伺見吾形、是甚怍之。即塞海坂而返入。是以名其所産之御子、謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。〔古事記 上-7 海幸彦と山幸彦←後掲古事記全文検索〕

【読み下し】
 ここに海神の女、豊玉毘売命、自ら参出(まゐで)て白ししく、「妾(あ)は已(すで)に妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。こを念(おも)ふに、天つ神の御子は、海原に生むべからず。故、参出到(まゐでき)つ」とまをしき。
 ここにすなはちその海辺の波限(なぎさ)に、鵜(う)の羽(は)を葺草(かや)にして、産殿(うぶや)を造りき。ここにその産殿、未だ葺(ふ)き合(あ)へぬに、御腹(みはら)の急(あわただ)しさに忍(しの)びず。故、産殿に入りましき。
 ここに産みまさむとする時に、その夫(ひこぢ)に白したまひしく、「凡(すべ)て他国(あだしくに)の人は、産む時に臨(な)れば、本つ国の形をもちて産(う)むなり。故、妾(あれ)今、本の身をもちて産まむとす。願はくは、妾(あ)をな見たまひそ」と言(まを)したまひき。
 ここにその言(こと)を奇(あや)しと思ほして、その産まむとするを窃伺(かきま)みたまへば、八尋鮫(わに)に化(な)りて、匍匐(は)ひ委蛇(もこよ)ひき。すなはち見驚き畏みて、遁(に)げ退(そ)きたまひき。(略)然れども吾が形を伺見(かきまみ)たまひし、これ甚(いと)怍(は)づかし」と白したまひて、すなはち海坂(うなさか)を 塞(さ)へて返り入りましき。
 ここをもちてその産みましし御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあへずの)命と謂ふ。〔後掲古事記の原文〕

 ここまでが前半,ウガヤ神の誕生までです。──連想された方はおられると思いますけど,かのイザナミが姿を覗き見たイザナギを追い黄泉比良坂を掛け追てくる場面に似ています。「海坂」というのも黄泉比良坂のオマージュかもしれません。
 けれどそこから先が,「吾者到於伊那志許米志許米岐穢国而在邪理」(吾(あ)はいなしこめしこめき 穢(きたな)き国に到りてありけり)と身体を浄めたイザナギと違い──ホオリ神と豊玉姫は何と文通までしています。

然後者、雖恨其伺情、不忍恋心、因治養其御子之縁、附其弟玉依毘売而、献歌之。其歌曰、
阿加陀麻波 袁佐閉比迦礼杼 斯良多麻能
岐美何余曽比斯 多布斗久阿理祁理
(略)
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨、玉依毘売命、生御子名、五瀬命。〔古事記 上-7 海幸彦と山幸彦←後掲古事記全文検索〕

 然れども後は、その伺(かきま)みたまひし情(こころ)こころを恨みたまへども、恋しき心に忍びずて、その御子を治養(ひた)しまつる縁(よし)によりて、その弟(おと)、玉依毘売(たまよりびめ)に附けて、歌を献りたまひき。その歌に曰ひしく、
赤玉(あかだま)は緒(を)さへ光れど白玉(しらたま)の
君が装(よそひ)し貴くありけり
といひき。(略)
この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、その姨(をば)玉依毘売命を娶(めと)して、生みませる御子の名は、五瀬(いつせの)命。
〔『アエズの初恋』←後掲古事記全文検索〕

──無茶苦茶です。ストーリーをそのまま読むと,ホオリ神が海民を征服してその姉妹と重婚した,とか無茶苦茶な読みをしないと整合しません。
ア)鵜の羽で産屋を急造(以鵜羽為葺草造産殿)するほど差し迫ってから,なぜトヨタマ神はわざわざホオリ神を訪ねたのか?覗くなと言うなら,訪ねなければよいのでは?まるで,覗き見をさせに来たような強引な「押しかけ出産」です。

分かる人には分かるけど,とある時期のとある企画の松本人志さん

イ)ウガヤ神(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合)の名は,ほとんど「急造産屋で産んだ子」というニュアンス。「厩戸皇子」もあるほどだからそれ自体は異例でないとしても,ホオリ神が驚き逃げ,トヨタマ神の逃走を招いた不幸な事件現場をなぜわざわざ名前にするのか?
ウ)トヨタマ神の憎さ余って……(雖恨其伺情 不忍恋心)的心情はある程度分かるとしても,なぜ姉妹のタマヨリ神を「養育係」に寄越したのか?さらにタマヨリ神が子のウガヤ神と結婚したのだから,憎さ余って……的には怒り心頭の結末になったのではないか?
エ)ホオリ神を驚かせ,海坂で絶交させた海神界のタマヨリ神を,なぜホオリ神側は「養育係」に受入れ,のみならず次代ウガヤ神との婚姻を許容したのか?
卵から孵ったばかりのチビッ子ワニさん

オ)トヨタマ神は出産時に本の姿(ワニ:臨産時以本国之形産生)に戻っており,ホオリ神はそれに驚いた。トヨタマ神の出産も同様のはずなのに,なぜ同じことが起こらなかったのか?
──と,ストーリーとして考えるとどうにもハチャメチャです。これを「異類婚姻譚」として整理した論考があったので,次にそのエッセンスをみてみます。

記紀周辺の異類婚姻譚同形説話

 後掲小島によると,実に13の異類婚姻譚が記紀周辺には繰り返されているといいます。
 なぜかイザナミ神話が除かれているので,これも加えて14説話について

00 古事記 上巻・別天神五柱~神世七代
01 古事記 上巻・鵜葺草葺不合命
02 同 中巻・神武天皇
03 同 中巻・崇神天皇
04 同 中巻・垂仁天皇
05 日本書紀 崇神天皇十年
06 同 雄略天皇二十二年
07 風土記 肥前国風土記 松浦郡
08 同 常陸国風土記 那賀郡
09 同 風土記逸文 山背国
10 同 風土記逸文 丹後国
11 同 風土記逸文 近江国
12 日本霊異記 第二 狐を妻として子を産ましめし縁
13 同 第四十一 女人,大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ,薬の力

 縦軸に構成要素をとった表にすると,次のようになります。

日本上代の異類婚姻譚(1-7/13)〔後掲小島〕
日本上代の異類婚姻譚(8-13/13)〔後掲小島〕

原型ストーリーの抽出の試み

 派生譚,つまり例外が多ければこのグループの「原型」が抽出できるのですけど,小島が試みたこの方法では,あまりトレンドが出ないほど,これらのストーリーは奔放に展開しています。

【性別】〜異類は男か女か?
女:(イザナギ) 01 04 06 10 11 12
男:02 03 05 07 08 09 13

 男女比でもほぼ同数です。男のパターンに大物主が化けるパターンが多いからでもありますけど──小島があえて女性パターンを分析したところが次の文章です。

 異類女性は、そのほとんどが水と深い繋がりを持つ。①、⑥、⑩は所属する世界が海であり、④肥長ヒメは、婚姻したホムチワケの御子が彼女の正体(蛇)に気づいて逃げ出したところ、海原を輝かせながら船で追いかけ、御子が船を引き揚げて陸路で逃走するともう追いかけられなかったようである。肥長ヒメは、その名から斐伊川の女神ともされ水界に関係の深いものだったと考えられる。⑪の天女は白鳥の姿で飛来し、天羽衣を脱いで女の姿になって水浴している時に人間の男伊香刀美に見られて天羽衣を取られて、やむをえず伊香刀美の妻となる。⑫の狐妻以外は海、水と関係があることがわかる。〔後掲小島〕

 水≒海民世界と結びつけることが出来なくもないけれど,やや強引さが必要です。

【子ども】〜異類との間に子を成したか?
有:(イザナギ) 01 02 03 08 09 11 12
無:04 05 06 07 10 13

 これも半々に近い。生まれた子どもの運命となると,もうまるで脈絡はありません。
 ちなみに,変身元・先の動物その他異類も多様です。後掲中村ほか は記紀神話でなく昔話全般を対象にして,これに地域別のベクトルを加味したかなり深い分析を行ってますけど,全体を貫く解釈には至れてません。ただ,蛇が異様な数あり,北陸など日本海側と九州には地域的に魚がやや多い,という,先の海民との関連性をやや裏付けてはいます。

異類が嫁の場合の動物等〔後掲中村ほか〕
異類が嫁の場合の動物等の種類(近畿以東)〔後掲中村ほか〕
異類が嫁の場合の動物等の種類(近畿以西)〔後掲中村ほか〕

 次は異形(異類たることの発現)の形態ですけど,これも様々で捉えようがない。

【異形の発現】〜異類たることはどう発現するか?
人→異形:(イザナギ) 01 03 04 05 07 12
異形→人:02 06 10 11
異形語られず:
08 (人(男)が夜毎来訪し,その家の女は子を産む。)
09 (丹塗矢が流れてきてそれを女の寝所に置くと女は子を産む。)
13 (大蛇が女を襲う)

 ただ,初めは人として登場したものが実は異類だった,という「人→異類」パターンがやや強く現れてはいます。

日本上代の異類婚姻諏に多く見られる「見ることによる破局」は、③をのぞく(1)グループの全例に語られており、他グループには見ることができない。すなわち、人間の姿で婚姻の相手と出会い婚姻をなすが後に異形を現すという話型の結末は、必ずその異形を見たことによる破局となるのである。この破局が人間の女に起こった場合、女は必ず死ぬ。人間の男に起こった場合は死なずに別離を迎える。〔後掲小島〕

異類婚姻譚の必須項目の抽出

「人→異類」パターンに「見ることによる破局」が対応するのは,ストーリー又は教訓としてセットし易い,というに過ぎないとも言えます。異類が人になったのを見たからといって,破局が帰結しにくいからてす。
 代わりに,異類の性別と人⇋異類の方向をかけ合わせて2✕2のクロス表にしてみると,次のようなやや意味のありそうな傾向が読めてきます。

区分 人→
異形
異形
→人
異形
の女
イザナギ
01 04
12
06 10

11
異形
の男
03 05
07 08
09 13
02

 異類=男性パターンを,ギリシャ神話でゼウスが様々に化けるような超能力を誇る物語の混入と捉えると,人⇋異類パターンと異類=女性パターンの組み合わせが基本形と仮定することができそうです。この場合,基本プロットは次のようになります。

a 我らは異形に遭った。
b 我らは異形と交わり「子」を成した。
c しかし異形は突然変転した。
d 我らと異形は憎み合い,殺し合った。
e しかし「子」は我らを新たに導いた。

 こう考えると,ストーリーは記紀神話に語られる代表的事績に似てきます。神武東征譚です。

異類婚姻譚に反射された皇祖神たちの原体験とは?

異類婚姻譚と神武東征譚
 豊玉姫譚 神武東征譚
a 三年海の国に住む
      槁根津日子
      に案内される
b ウガヤ神出産
      【?】
c 出産時にワニに戻る
      ナガスネヒコ
      の襲撃
d ホオリ神は逃げ
 トヨタマ神海坂を閉ざす
      敗走
      五瀬命死亡
e ウガヤ神の子
 神武帝初代天皇となる
      【?】

 類似していなくもないのはご理解頂けると思います。けれど【?】部分,つまり豊玉姫譚のウガヤ神誕生と,さらにその子の五瀬命や神武帝の偉業,に相当する要素が記述上は記紀に見当たりません。
 東征一行は,「異類」と交わっていなかったのでしょうか?
 そんなことはあり得ません。一行は宇佐,岡田宮,安芸,吉備,さらに浪速で先住者と相応に関わり,時には這々の体で逃げのびるような辛酸を嘗めています。
 穏当には,神武東征譚の「子」=リーダーとしての神武帝そのものであろう,というのが本稿の結論です。──より過激には,それらの何れか,特に浪速のナガスネヒコ勢力との間に子を成し,それが神武帝ということも仮定し得ますけど,そんな事実は徹底的に秘されるでしょうから,あまり論じても詮無いことです。記紀の記述するところでも,神武帝は奈良に入ってすぐ現地のイスケヨリヒメと婚姻しています。
 異類婚姻譚のストーリー構造そのものは,世界各地の海民に広く流布するものだったでしょう。ただし,皇祖集団にとってのそれは,九州各地を,さらに「東征」路を流れ歩く中で否応なく関わることとなった「異類」の衝撃と,その関わりの中に出自を持つ彼らの指導者に対する信頼又は権威付けの物語として再解釈された,より強烈な原体験イメージとして記紀の古層に焼き付いたものだったのではないでしょうか。
 あるいは──海民の首領であろう豊玉彦命と接触した時代,瓊瓊杵命の(おそらく豊玉彦命に比べ陸民的な)集団は,もしかすると神武東征時代よりさらに苦境に瀕していた可能性があります。何らかの理由で海民集団と関わらなければならなくなり(おそらくは下位に立たされ),ほとんど豊玉彦命側に乗っ取られるところまで行ったとも解釈できます。だって,嫁が勝手に来て世継ぎを産んで,勝手に帰ってしまって戻らない,また戻れとアクセスすることも出来ない状況だったわけですから。その時代の苦境の方が,皇祖神代のトラウマのような原体験として伝わったのかもしれません。
 あるいはどちらもなのかもしれない。いずれにせよ,海幸山幸や東征一行の時代,「異類」集団に翻弄された皇祖神集団の畏れと不安,さらに半ば異類に侵食されつつのドロドロの遍歴の記憶こそが,雲霞のような異類婚姻譚の噴出口になったのではないかと考えるわけです。

※蛇足ですけど──網野善彦「異形の王権」論は,後醍醐帝時代において特に「異類異形の輩」と王権が深く関わった,とする説でした。けれど,6章前(【特論】隼人東征)で触れた「周辺の中央への関与」の常態性を考慮しますと,日本の王統は他に例がないほど「異形」と近しい傾向が否定できず,それは後醍醐代に限られなかったのではないか,との想定も成り立つように考えます。
 そう仮定すると,日本王権そのものがその出自に由来する基層的な「異類近似性」を有している,と考えることはできないでしょうか?
 当然ながら,本稿では陸民にとっての「異類」に海民を含んでおり,豊玉姫譚の場合にはその色彩が濃い,としてきました。日本王権はどうも海民の直系に出自を持たないようですけれど,以上のような意味で海民を主とする異類を吸収しながら当初の大勢力を築いてきたからこそ後代の祭礼や伝承にその残滓が残った,とするのは,けして「不敬」でなく,むしろ言祝ぐべきイメージであるように考えています。

豊玉彦命一族に対する劣位

 これらの物語構成の背景色として,打ち消し難く滲み出ている点が一つあります。
 瓊瓊杵命一族が,豊玉・玉依姫の属する豊玉彦命一族より弱かった,という点です。
 ホオリ神は押しかけてきて出産をしたいという豊玉姫に,慌てて産屋を造らされます。そこで産んだウガヤ神を置いて,豊玉姫はプイと里帰り。その後でラブレターを送ってきたストーリーが,この点をやや不明瞭にする効果を持ちます。けれどさらに,こんな振舞いをした豊玉姫の妹・玉依姫を再び嫁に迎える,というのは,豊玉姫というワガママ女のパーソナリティに皇祖神一族が振り回された,というよりは,豊玉彦命一族と瓊瓊杵命一族の明瞭な発言力の格差を示しているとしか考えようがありません。
 その後,瓊瓊杵命系のウガヤ神の子孫は「東征」の物語で活躍するわけですけど,豊玉彦命一族との力関係を念頭に置くと,「追い出された」,ないしは良くとっても「東征させられた」という姿が見えてきます。
 その「させられた東征」ですら,結果的に豊玉彦命一族の子孫が活躍し,わざわざ記紀に「異類の子孫」であることを明記しているのは,成吉思汗が狼の子を称したように,その血脈たることが神威を持つものと語られたからでしょう。
 つまり異類婚姻譚は,もう一面で,少なくともその物語の原型においては,異類の神威をその子孫が自らの権威付けに利用していたからだと推定できます。
 瓊瓊杵命の一族,東征においては五瀬命や神武帝の掲げた神威の「御旗」は,物語の展開した当時においては,「海民の王」の子孫である,という事だったのかもしれないのです。
 このことは,海民の王としての豊玉彦命一族の有名が,東征の行程,玄界灘から瀬戸内海一円には轟いていたことを予想させます。その系譜を,記紀においては「異類」,つまり禍々しいものと色付けなければならなかった由縁はどこから来ているのでしょうか。

仁位地区中心部 (上)地理院地図 (下)航空写真〔後掲仁位区〕

■レポ:豊玉彦の海辺 瓊位(仁位)

 長崎県対馬市豊玉町仁位は,対馬のはじまりの土地です。そのこと自体は,史料からも考古学的証査からもほぼ疑いようがありません。

地名の由来は,美しい玉を意味する瓊(に)から仁位になったといわれている(津島紀事)。地内の堂ノ内・貝吹壇・仁位浜などに弥生時代~古墳時代の遣跡(ママ:遺跡)がある。西の天神山は古代に烽が置かれ,天神神社があった。(略)県立対馬歴史民俗資料館所蔵の応仁鐘は,刻銘により地内清玄寺の梵鐘であったことがわかる。中世,当地は対馬八郷の1つ仁位郡の主邑であったとみられるが,仁位村・仁位浦は見えず,当時は仁位中村といわれ,郡主の本拠地であった。〔角川日本地名大辞典/仁位〕

1469年鋳造:応仁鐘(清玄寺)

 文中の「応仁鐘」という文化財は,企画・対馬✕鋳造・九州✕加工・朝鮮という,当時の対馬の国際性を雄弁に語るものです。

梵鐘(旧清玄寺),長崎県立対馬歴史民俗資料館所属,昭50国重文指定※〔後掲長崎県の文化財〕

※ 二匹の竜が渦巻形の宝珠を噛む竜頭の形式は、異形ながら和鐘系であるが、鐘身はほぼ朝鮮のデザインによっている。即ち、肩の四方に葉状の飾りをつけ、四方に乳廓をつくって4段4列の笠形乳を配している。鐘身中央には飛天像をあしらい、下半分には撞座を竜頭の長軸線上に二個配し、撞座をはさんで、向いあった竜が瑞雲を吐いて、海波上におどるさまを陽鋳している。鐘身の陰刻銘文によって、応仁3年(1469)に、仁位の清玄寺鐘として宗盛家らの発願でつくられたことがわかり、作者は筑前芦屋金屋大工大江貞家らで、対馬に渡って鋳造したと伝えられている。江戸時代、享保12年(1727)には対馬藩主の居所である府中の宗家菩提寺・万松院に移り、さらに城下町内に移され時鐘として利用されていた。中世における朝鮮半島文物影響の北部九州で消化しえた数少ない例証である。〔後掲長崎県の文化財〕

 清玄寺は次の角川中では「清玄禅寺」と記載されます。1418(応永25)年に宗満茂(仁位宗氏・宗香の孫)が宗香・菩提寺として建立した寺で,そもそもこの寺名は宗香の法名「清玄寺殿梅渓宗香大禅門」に因んで渓岳山清玄寺と号したものといい,創建時には臨済宗でした。1635(寛永12)年に天台宗に改宗〔後掲お寺めぐりの友〕。
 仏像だけでなく華厳経(元版新訳)も発見されており,朝鮮との直接の深い交流が推定されています。

現在,厳原(いずはら)町の県立対馬歴史民俗資料館の所蔵になっている梵鐘は,応仁3年に島主宗貞国,仁位郡主宗盛家が鋳造させたもので,銘に「大日本国対馬州仁位郡渓岳山清玄禅寺」とあって,本来仁位の天台宗清玄寺の鐘であったことがわかる。同寺には,高麗時代の誕生仏もある。また,仁位の天台宗東泉寺で行われた最近の史料調査では,77冊にのぼる元版新訳華厳経が発見され,対馬の勢力が室町期に朝鮮を通じて入手した可能性が指摘されている。これらの版経は本来仁位の臨済宗妙幢寺(廃寺)の什物であり,さらにさかのぼれば小綱の観音寺にあったことが,華厳経の奥書などからわかる(仏教史学28-2)。〔角川日本地名大辞典/仁位郡〕

 中世の禅寺は外交の庶務方でもあったことが多い。その方面の史料が見つかってはいないけれど,後掲の如く朝鮮受図書人(→角川)

1325年:充行状写に「対馬島爾伊郡内わいた」

 仁位の歴史を史料的に年代確定できるのは,応仁鐘より150年足らず前の,次の1325(正中2)年の記事が初出とされます。鎌倉幕府の滅ぶ8年前です。

(中世~近世)鎌倉期~江戸初期に見える郡名。対馬国のうち。対馬八郡の1つ。爾伊・二位・二などとも書く。正中2年5月13日の宗宗慶(経茂)のものと推定される充行状写に「対馬島爾伊郡内わいた」と見えるのが初見(仁位郷御判物写/県史史料編1)。〔角川日本地名大辞典/仁位郡〕

「宗宗慶」という人がまず謎の人物です。実在は疑いようがないのに,どこで何をしたのかどうも雲をつかむようです。──角川と異なり多くの記述は「宗慶」を出家名と書き,本名を宗経茂とします※。
※朝日日本歴史人物事典 「宗経茂」←コトバンク「宗経茂」 など

応安1/正平23(1368)年11月,宗氏としては初めて高麗に使者を遣わし,米1000石を与えられ,朝鮮通交の基礎を作った。また,少弐頼尚の代官として九州でも活動し,九州内所領の宛行状も残っている。経茂ののち,対馬島主の地位は庶流仁位宗氏の澄茂に移った。
<参考文献>長節子『中世日朝関係と対馬』
〔ibid.コトバンク〕

 佐伯弘次・有川宜博両氏の研究により「大山氏が掌握していた」「製塩・漁業・交易を生業としている海民」が浅茅湾に存在したこと,彼らを緩い統治下に収めていたのが宗慶さんだったことが推測されています。

宗慶さんの事績 ▼展開

美津島町大山の位置〔GM.:位置〕



〔後掲関〕
 当時,宗慶が対馬島内のどこを拠点にしていたのかははっきりしません。
 次の角川日本地名大辞典の記述によると,宗慶が南北朝期の騒乱に参戦した留守中に弟・宗香が勢力を伸ばし,仁位中村家を成して宗慶直系と争ったことになっています。

南北朝期に入ると建武元年10月27日の宗慶宮司職安堵状案(長岡文書/南北朝遺150),暦応2年8月23日の宗慶宮司職充行状案(同前/南北朝遺1387)・康永元年7月12日の宗資家充行状(同前/南北朝遺1810)・康永2年正月23日の宗宗慶充行状(水上文書/南北朝遺1890)などに「にいのこをり」が見え,鎌倉末期~南北朝中期まで宗宗慶の発給文書が多く見られる。宗慶は対馬の守護・地頭の少弐氏の地頭代で対馬の実質的島主であった。南北朝の内乱期は九州本土に転戦し,留守がちで,仁位中村を本拠にする弟の宗宗香が代官として島内に勢力を張っていた。応安7年頃には宗香の子息澄茂が島主の地位につくが,応永5年,宗慶の孫の貞茂が仁位中村宗氏の島主頼茂から島主の地位を奪い返し,再び宗慶の系統が島主となる。これに対して,応永8年,仁位中村宗氏の澄茂・賀茂の兄弟は反乱を起こし,まもなく鎮定されるが,その勢力は仁位郡を中心に温存された。〔角川日本地名大辞典/仁位郡〕

 1402(応永8)年の「反乱」の年は,まさに宗本家が佐賀(現・峰)に本拠を構えた年です。つまり,近代宗氏は仁位の「反乱」鎮圧軍がそのまま居座った,と捉えることもできます。
 そしてその後,仁位に「温存された」勢力が前期倭寇に連なっていったことは,11年後,同じく応永年間に襲来した応永の外寇が如実に物語っています。

(再掲)1381(永徳元)年前後対馬の出来事
1350(正平5)年 倭寇が高麗を侵す。
(この頃) 頼次が資国を祭神とする軍神社(小茂田浜神社)を建立〔後掲長崎県:対馬重要歴史年表〕
1352(文安元・世宗26)年宗盛家,朝鮮受図書人就任〔角川/仁位郡〕
1366(正平21)年 高麗国王より和平と倭寇の取り締まりの要請あり,家臣を高麗へ派遣。以後,高麗国との通交始まる。 〔同長崎県〕
1378(永和4)年 宗香の子・澄茂が守護職
〔木坂八幡宮棟札,その他の古文書←前掲角川日本地名大辞典〕
1381(永徳元)年 和多都美神社,従一位下昇格
1389年2月 康応の外寇 「第1次対馬島征伐」
〔高麗史〕
1396年12月「第2次対馬島征伐」
〔朝鮮王朝実録〕
1408(応永15)年 宗澄茂・賀茂の兄弟(仁位中村宗氏)反乱〔後掲角川/仁位郡
 八代・宗貞茂,現・峰町に佐賀館築城
1419年7月 応永の外寇 「己亥東征・第3次対馬島征伐」
〔世宗実録,看聞日記※〕
※明朝の侵攻と誤認し「大唐蜂起」として記す。
1443年 朝鮮-対馬間で嘉吉条約(癸亥約条)締結

「仁位郡主の独立性」の正体

 してみると,仁位には宗氏分派が一時的に拠点にしたという正史に書かれる姿ではなく,正史にない時期から連綿として自律的な海民集団が群れを成していた,と捉える方が理に合っています。

仁位郡の支配は他郡と比べると特異で,他郡では島主が各郡内の住人に直接宛てた文書が多く残るのに対して,当郡ではその比率はきわめて低く,島主は仁位郡にほとんどその勢力を及ぼすことができなかったとみられている(対馬島宗氏領国支配の発展と朝鮮関係諸権益/朝鮮学報39-40)。この仁位郡主の独立性は,朝鮮貿易の面でも見られ,独自に朝鮮へ使いを送り,「世宗荘憲大王実録」世宗26年(文安元年)11月丙子朔条によれば,宗盛家は4隻の派遣を許され,受図書人となった(李朝実録之部2/日本史料集成)。これは癸亥約条成立の翌年である。そして,「海東諸国紀」には,「尼老郡」と見え,郡主盛家は島主貞盛の「再従弟」と記され,歳遣船を3隻加え,計7隻の派遣を許可され,李朝政府から米・豆あわせて20石を支給される待遇を受けている。また,同郡には「護軍 多羅而羅(太郎二郎)」(盛家の弟盛吉カ)が受図書人として居住しており,米・豆あわせて10石を李朝政府から支給されている。〔角川日本地名大辞典/仁位郡〕

 1352(文安元・世宗26)年は,倭寇が朝鮮を荒らしたと伝えられる直後の時期です。
 受図書人は文引の前に用いられていた対朝鮮交易権限です〔wiki/受図書人〕。原則として一代限りですけど,この時期には倭寇の表経済化を目的として濫発され,後代の三浦の乱の遠因にもなったとされます。
 宗盛家の弟・宗盛吉が名乗っていたらしき「護軍」(ホグン 호군)は,古代中国由来の官名で,この場合は完全に朝鮮の職名のようです。元・倭寇が朝鮮の軍職名を冠せられて「慰撫」され,「進駐軍」と位置付けられてるわけです。
 どうやら仁位宗氏又はその母体たる海民勢力は,近世宗氏本家にとって,政治・外交・経済の多様な面で「あってはならない」存在だったと推測でき,かの痕跡の徹底的消除ぶりがかえってその証査になってます。元寇から日本を守ったのは宗氏本家でなければならないし,朝鮮王朝の官職を得た軍人の率いる軍事組織が対馬にいてはならないし,本家以外の主体が朝鮮から交易を認められていてはならない。それはなかったことにしなければならないし,まして日本中央政権に伝達されることは絶対的に阻止せねばならない。
 芳洲理論(→前掲【特論】人参潜商)で言う「対州は外国を引受,日本藩屏之地」でなければならないからです。

(再掲)お館様の画像〔前章後掲(上)九州旅ネット,(下)城郭放浪記/仁位館〕

(再掲)「宗氏家譜」にはないが,澄茂の子頼茂より,経茂の孫貞茂が奪権して守護職となり,府を佐賀(峰町)に開くまで,仁位に島主の館があったことは疑いなく,その後も仁位の宗氏は守護代として続いた。現在県立豊玉高校の裏に「お館(たて)様」と称する祠があり,仁位氏(宗氏の裔)がこれを祀っているのが屋敷神に違いない。高校建築の際,掘り起こした土中から中世の陶磁片が採集されたのも傍証となる。〔角川日本地名大辞典/仁位館〕

浅茅湾の14Cは豊玉姫に繋がるか?

 浅茅湾に,14Cには確実に独立性の高い海民集団が存在したと推測できそうです。では彼らと,さらに千年前の豊玉彦命の海民集団とは一連のものと言えるのでしょうか?
 二つの時期は,歴史記述の発想を持つ(又はその近い子孫が持った)集団が,浅茅湾を通過した時代です。通過者が海民の姿を記録したのは,偶然です。
 中間の千年には,両者に匹敵する史料上の記述は,けれどあまりありません。
 魏志倭人伝の有名な一節程度です。

m133m第十三波m水盆の底や木目の眩みをりm川内観音(急)



❝狗邪韓國一千餘里始度因海千餘里至對馬國(略)
有千餘戶無良田褒海物自活果船南北市糴

 市糴※する方向が「南北」と明記されます。対馬の東と南西の大海を当時渡れる船舶がない,と言えばそれまでだけど,単独では自活し得ない,朝鮮半島から壱岐・九州へと続くマーケットの結節点たる態様を,1700年前に明確に描かれているのがこの四文字なのです。
 ただし,この姿が浅茅湾だと推定できる語句はありません。

※「糴」①かう。穀物を買い入れること。「糴糶(テキチョウ)」 ②かいよね。買い入れた米。いりよね。↔対 ①②糶(チョウ)
〔糴 | 漢字一字 | 漢字ペディア〕
URL:https://x.gd/OonCa(短縮)

遺跡統計的に見た有史以前の対馬

 それに対し,考古学的な対馬の魏志倭人伝時代以前は,明瞭な地域別のグラデーションを示しています。

弥生中期後半〜後期前半の遺跡〔阿比留2001 9p図←後掲俵〕


湾岸には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多く,特に仁位浦・佐保浦・貝口浦の集中度が高い。分布密度の濃厚さは島内に並ぶ所がなく,出土資料の貴重さにおいても他に比類がない。殊に大量15口の広形銅矛を一括出土した黒島遺跡,多種多様の舶載青銅器を一括出土した佐保の遺跡が知られ,その他にも国産品と舶載品を共伴した例が多いことから,「魏志倭人伝」にいう「南北に市糴」した対馬の中心が,この湾岸にあったことが考察される。なお延喜式内名神大社和多都美神社と同式内波良波神社があって,現在不明の大島神社(同式内社)も仁位にあったといわれるなど,この入江の辺に倭の水人の本拠があったのではないかとみられている。〔角川日本地名大辞典/仁位湾〕

対馬遺跡地図〔長崎県教育委員会←後掲邪馬台国大研究〕


 多くの論考が,魏志倭人伝の記した「対馬」の風景は浅茅湾のものであったろう,とする根拠は,ほぼこの遺跡分布によるものであるようです。
 即ち,魏志が記す「対馬国」とは,緩やかに統率されていた浅茅湾の海民集団てあり,豊玉彦命や豊玉姫が属していたのもこの集団であったろう,と考えられます。
「統率された」というのは,魏志著者が「国」と記した上で卑狗と卑奴母離という王名を記していることから推定されます。また「緩やかに」というのは,先の宗慶関連史料が税制の問題に特化していたことからも予想されますけど,帝政下の陸人のような強制状況で「南北市糴」は出来なかったろうことからも想像できます。
 

■レポ:「みね」という土地の残響

──と結論するにしては,唯一の根拠である遺跡地図の中心に,妙なブレが見えます。
 先の二図のうち一つ目,弥生中期後半〜後期前半の方では,仁位湾より北へ10kmの三根湾の方が遺跡数は多い。
 この日のバイク行では凍えて断念した「峰町」です。仁位宗氏の勃興に対抗して本家宗氏が佐賀館を築いた(1408→前掲年表)峰町ですけど,佐賀は峰町の東岸側で,遺跡の集中する西岸側の湾は「三根」と書かれる。音の類似からして,広域・峰町の「根屋」(ニーヤー:沖縄)が三根と思われます。

古代対馬のブラックホール:みね

 古称の多い土地です。峰,三根の他,三禰・嶺・美女と書かれます。おそらく漢字に意味は薄く,漢字伝来以前から「みね」と呼ばれた土地だったでしょう。

三根は大きな村落で,「和名抄」に見える古代三根郷の主邑。弥生前期から後期に及ぶ遺跡が随所にあり,また古墳時代の遺跡も多く,南の支浦吉田,湾外西面の木坂を含めて,この辺に弥生時代~古墳時代の一中心があったことは疑いなく,特に国産・舶載の青銅器の出土情況は,仁位湾沿岸(豊玉町)と並んで多く,原始対馬国の文化中枢が仁位湾から三根湾の付近にあったことが考えられる。「海東諸国紀」は対馬の82浦についてその戸数を列記しているが,その最も多いのが「美女浦〈六百五十余戸〉」,この美女浦が三根浦であることは巻頭の地図によって証明される。〔角川日本地名大辞典/三根湾〕

「この辺」又は「原始対馬国の文化中枢が仁位湾から三根湾の付近にあった」と書く一方で,角川は,海東諸国紀の記述する対馬82浦中,最大戸数650余戸なのが美女浦(三根)とも記します。
 次の記述は,三根集落を流れる三根川についてのものです。

流路延長5.563km・流域面積30.30km(^2)。田志川・佐賀の内川などの支流を合わせ,本流に沿って上里・中里・井手・坂根・田志・浜などの集落を形成,これらの集落を総称して三根という。三根は「和名抄」にも見える古代三根郷の主邑であり,また島央部の交通の要路として,旧来四方に山道が通っていたが,その道はいずれも三根川の本流・支流に沿ったもので,川筋が主要な通路となっていた。下流域は島内で最も早く開けた所で,弥生初期の井手遺跡から,中期のガヤノキ遺跡,高松壇遺跡,後期の坂堂遺跡,古墳時代のシオツボ遺跡と続く。(略)「海東諸国紀」に見える三根の戸数は650余戸とあり,これは当時における島内第一の戸数である。〔角川日本地名大辞典/三根川〕

 上記によると,つまり三根川岸を唯一の「道」としていた状況下では,その道が主要な幹線道だった,と推定されています。確かに,浅茅湾の通過行程を除けば,三根から東岸への行程は対馬で最も短いように見えます。その代わり,川筋以外に居住に適す場所はなかったのでしょう。

三根集落港側光景〔後掲対馬全カタログ〕
 現代の三根のほとんどの居住区は,上記写真を一見して分かるとおり埋立地です。この埋立地を隠してみると,古代の三根の姿が見えてきます。
 ここに千戸の家を構えるには,どうしても半・水上生活,つまり家船が適していたようにも思えますけど……そういう記述は一切ありません。
 ただ,魏志倭人伝にある「山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戶無良田」という表現は,やや盆地状になだらかな仁位よりも,三根の地形の方が近いように思えはします。これも確証を持って言えはしないのですけど……。

ついでなのか ついでじゃないのか 中世「みね」

 史料初出は1359(延文4)年。仁位で宗盛家が朝鮮受図書人就任したのが1352(文安元・世宗26)年ですから,中世になると史料に記述される政治的勢力としてはほとんど「ついで」の存在になってます。にも関わらず,八代・宗貞茂が1408(応永15)年に佐賀館築城を築いたのは現・峰町でした。仁位と対峙するに当たり,三根の勢力を交えた均衡を意識してのことだと思われます。この辺りがよく分からない。

(中世~近世)南北朝期~江戸初期に見える郡名。対馬国のうち。三禰郡・峰郡・嶺郡・美女郡とも記す。対馬八郡の1つ。延文4年12月5日の宗経茂充行状に「つしまのしまミねのこほりのさいちやう新兵衛太郎のあとの田地畠地くりす等」とあるのが,早い史料である(阿比留学所蔵文書/南北朝遺4162)。このあて名は「ミねの大せう九郎とのへ」となっており,当地には峰を称す氏族がいたことが知られる。〔角川日本地名大辞典/三根郡〕

 宗貞茂は,佐賀館を設けるに当たり,西岸の三根を「小」,自らの居す東岸を「大」と差別化しています。在地の海民集団に対する上下関係を作ろうとしたのでしょうか。
 けれど以下の地域名の推移を見る限り,そうして作った「大峰」地名はほどなく消え,「小峰」だけが残って,そのうち三根に逆戻りしたようです。

なお,島主貞茂が佐賀に居館を構えた応永15年頃より,郡内の西部を小峰郡,東部を大峰郡と呼ぶようになったといわれ,文明4年9月2日の宗貞国書下写,文明17年11月1日の宗盛俊書下に「小峰郡」「こミねのこうり」が見え,永正18年12月22日の宗貞勝書下写に「小峰の郡司」が見える(同前)。しかし,大峰郡については,史料に見えない。寛政15年の当郡の所属村は,「こみね・したか・つやなき・かれう・よし頭・さか・かさ・あふミ・くちへ・くし・きさか」の11か村(寛永15年毎日記/県史藩政編)。元禄年間に郡は郷と改称し,当郡は三根郷と称されるようになる。〔角川日本地名大辞典/三根郡〕

対馬中世に乱舞する謎の「峰氏」

 ところで先の角川引用に峰氏(→峰氏)という一族の影が,おぼろに見えてました。

この人だった!
 その正体は──
 まさかこの一族名前が先行したはずはないから,勢力縮小後に三根へ本拠を後退させた阿比留氏が名乗った姓でしょう。

この峰氏は本姓阿比留氏であり,阿比留峰氏は代々対馬の大掾職を相伝してきた一族で,宗氏の勢力が峰郡に浸透するまでは,当郡に大きな勢力をもっていた。文明13年3月5日の阿比留長門守跡所領注文写の段階においても,阿比留氏は峰郡の小峰の内で36か所の田畠・木場を所有していた(三根郷御代々御判物写/県史史料編1)。〔角川日本地名大辞典/三根郡〕

 上記中の文明13年は1481年。下記によると1399(応永6)年には宗氏支配下に入ったはずですけど,在地の土地所有者としてはなお勢力を保持していた模様です。

室町期に入ると,応永6年正月11日の宗貞茂書下写によれば,「つしまの島ミねの郡内しミやう(死名)跡之事」が,宗六郎に充行われ,宗一族の勢力が扶植され,峰郡は完全に島主の直轄領となる。宗氏7代目の島主貞茂は三根郡佐賀に居館を置き,以来,貞盛・成職・貞国の4代78年間にわたって対馬国の統治の中心となった。〔角川日本地名大辞典/三根郡〕

 下記によると1458(長禄2)年段階でも,交易・軍事の各方面に渡る細かい指示が宗氏から発せられています。
「厄介な旧勢力」と言わんばかりの宗氏の言い草です。

直轄領であるため,郡主は置かれなかったが,長禄2年2月7日の宗茂(成)職書下写によれば,宗右馬助およびその子孫に対して「一,峰之郡京賤之事,一,嶺之郡まるいち之使之事,一,殿中ゑたによらすはせ入の事,一,依自讃哥所望佐賀之浦之使の事,殊他国和国之船ニよらす下知之事,一,荒山之きりあけ之事,一,佐賀之津いち之事,宗上総守殿と両奉行津いちより外ハ,存知之人有間敷候,一,宮寺によらす下知之事,一,軍陣在陣之時之下知之事,一,八郡之人かすへの狩使之事」などの権限を認めているが,この中に峰郡内に関する権限がいくつか含まれているのが注目される(歩行御判物帳/同前)。このほか,峰郡・三根郡・三禰郡・嶺郡の称は三根郷御代々御判物写等に散見し,「海東諸国紀」には「美女郡」の称が見えるが,宗氏の発給文書の上では,貞享5年の宗義真の書下を最後に峰郡の郡名称は見えなくなる(三根郷御代々御判物写/同前)。〔角川日本地名大辞典/三根郡〕

 下記に挙がる文書群の記載は,殊更に細かいけれど,何のアクションにせよ峰氏が絡んできた様をよく現しています。

流石だな!フジコ!

①建武三年(一三三六)「対馬島大掾職」に「峯太郎掾光家」が補任されており(同年四月五日「少弐頼尚書下」三根郷給人等判物写、以下断りのない限り同判物写)、大掾という令制下の役職名が残ることも注目されるが、この対馬島大掾職は峰氏を称する阿比留氏が代々相伝してきた職分で、宗氏の勢力が強まるなかでなお存続していることが知られる。
②貞和四年(一三四八)「ミねのくんし」や伊奈郡司らは、鶏知(現美津島町)の大掾から近年「すいしうやくのようとう」が無沙汰であるとして訴えられ、本年は納入するよう命じられている(同年一〇月八日「宗妙意書下」宗家判物写)。
③正平一〇年(一三五五)「みねのくんし」に「いつのあつかり」(「きやうかく房」跡の預職)が暦応三年(一三四〇)五月の書下にまかせて安堵されている(正平一〇年四月二九日某書下)。(略)
④正平一〇年「ミねのくんし」の「もりなを」が伊奈(現上県町)の「こわう」と「さしき」の席次について争論を起こしている(同年五月二日「宗維茂書下」与良郷宗家判物写)。
⑤延文六年(一三六一)「峯郡司」の九郎三郎が御神事の際の「あひる氏同性并清原氏神人等」の「さしき」について年齢次第にするよう指示されている(同年三月一五日某書下)。
⑥貞治四年(一三六五)「ミねのくんし」らは下津しもつ八幡宮(現厳原町)の大床の材木を一月二〇日までに用意するよう命じられている(同年一一月一九日「某書下」宗家判物写)。
⑦応永一五年(一四〇八)上津八幡宮(現峰町)・下津八幡宮の舞別当として「峯郡使」の彦太郎が公事などを免じられた(同年六月三日宗頼茂遵行状)。〔日本歴史地名大系 「三根郡・三根郷」←コトバンク/三根郷(みねごう)〕※丸付き番号は引用者

 何とも総括し辛い。辛いけれども,とにかく「五月蝿い」集団がいたことは確かです。分かりやすいところでは,④の「こわう」(講?)と「さしき」の席次争議を起こしてる伊奈(現上県町)は三根から約10km北です。公的には苦苦しく思われつつも,実質的な政治力を有していたということです。

吉田と三根 どちらがどちらの影なのか?

 ……といったわけで,この章で言えるのは「浅茅湾の歴史を辿る上で三根付近は何か重要地点らしい」といった程度のことに過ぎません。そこで以下では,検討課題を列記していくことにします。
 文化財の原典上,先の三根湾地域の遺跡は,三根と吉田に大別されるようで,「三根・吉田遺跡群」と呼ばれるものが多い。
 ここでいう吉田は,三根川沿いに東北東に蛇行する集落群ではなく,湾奥から南へ伸びる小平地のベルトです。

三根・吉田遺跡群の遺跡分布〔後掲俵〕

吉田はかつて朽木といった。この浦も遺跡が多く,「海東諸国紀」には「仇知只浦〈百五十余戸〉」とある。朽木浦には大蛇の伝説があり,海底に蛇瀬という暗礁があって,干潮時には岩頭を出すが,この岩礁は本来海底の磐座で,大蛇とは海神の変化ではないかと思われる。朽木の対岸狩尾にも口江という地名があり,「クチ」という両者の共有語が,この湾のもとの名に関係しているのではあるまいか。〔角川日本地名大辞典/三根湾〕

 吉田の恵比寿山遺跡では,「弥生中期の丹塗土器を供献した祭祀遺跡」が発見されてます〔後掲俵〕。海東諸国紀の15C初頃には戸数は三根集落の7分の1(三根:吉田=1000:150)。──古代までに繁栄を閉じたか,祭祀に特化した集落か,いずれでしょうか?
 後者の仮説は通常なら奇説ですけど,三根湾口から北側の青海(三根から西北西へ直線4km)ははっきりした両墓制の残る土地です。呼応するように,三根にもそれと類似した集落と墓地の呼応関係が指摘されてます。

❝内部リンク❞m153m第十五波mm梅園/■小レポ:梅園の時空寸描/梅=「埋め」たのは何か?(青海の両墓制)

m153m第十五波m坂の街ぺろり舐めとる妈祖が舌m梅園


(再掲) 対馬市岬町青海の(上)地理院地図及び(下)拝み墓・埋め墓の位置

三根地区における集落-墓地モデル〔後掲俵〕

 以上,三根湾の中でも空間的に「段差」らしきものがある,という点の指摘でしたけど,実は三根湾岸には次の表のように時間的な段差の気配もあるようです。

BC2-AD1C:楽浪→三根移住集団の残像

三根地区6・7区土器の組成〔後掲俵〕

※原典 俵2008:俵寛司「境界の考古学 対馬を掘ればアジアが見える」風響社,2008
※6・7区:三根遺跡の丘陵部中,中央部の比較的低い位置〔後掲俵p57〕
※Ⅰ期:縄文晩期 Ⅱ・Ⅲ期:弥生前・中期 Ⅳ期〜:弥生後期〜〔後掲俵p61〕

 弥生前・中期に,半島及び楽浪系土器が突出する時期があるようなのです。
 楽浪は「楽浪郡」,つまり朝鮮半島北部,後の高句麗相当地域のこと。漢朝の地域名としての楽浪郡が存在したのはBC108-AD313年。
 弥生時代中期は,通説的には紀元前2世紀〜紀元1世紀。
 これは単純に考えると,朝鮮半島から紀元前後に対馬・三根に渡来した相当規模の集団があったことを意味するはずです。

楽浪郡時代の朝鮮半島の政治状況〔wiki/朝鮮の歴史〕

 当時の朝鮮は戦国時代,というより小国家が初めて成立し※,動乱の最中です。半島から東海に流出する難民的な集団があり,これが弥生時代の技術革新の主体となったことは教科書的な定説です。
※この時代以前に「古朝鮮」が存在したとする説は,通説に従い,当面神話的なものと見る。
 彼らの境遇に,先に抽出した異類婚姻譚プロットを重ね合わせてみましょう。

a 我らは異形に遭った。
=朝鮮小国移民(遺民)が三根に上陸し,隣接する浅茅湾海域の海民と友好関係を持った。
b 我らは異形と交わり「子」を成した。
=三根・朝鮮移民団と浅茅湾海民の有力者間に婚姻関係が結ばれた。
c しかし異形は突然変転した。
=朝鮮移民団と地元海民の争いが起こった。
d 我らと異形は憎み合い,殺し合った。
=地元海民との争いを避け朝鮮移民団は三根から去り,再び流浪した。
e しかし「子」は我らを新たに導いた。
=朝鮮移民団に同行した浅茅湾・海民の分派の人的・技術的支援により,朝鮮移民団の末裔は新移住地に辿り着けた。

 ツギハギだらけでこれ以上進めるのはためらわれますけど──「新移住地」を九州と読めば海幸山幸になるかもしれないし,近畿と読めば神武東征になるかもしれません。
 その場合,三根時代の皇祖神集団は,まだ前途に続く波乱の行程を夢想だにしなかったでしょう。

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