FASE60-5@deflag.utina3103#マーカーの御嶽,九年堂の御嶽,ナスの御嶽\瑠璃の玉と思て肝の持てなしは

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※胡屋~ライカム南

君の臭みあってのヨモギだよ

界に浸った後の身心への後遺症は様々ですけど,この時はホントに寡黙に胡屋の宿へ直行してます。
 平敷屋を1423に出て,1447に高畑方向への右折へ入ってます。勝連半島は意外に時間を食う。
 宿は常宿・デイゴホテル。ここに限らずですけど,胡屋の宿は流れる時間がのっぺりしてて,どうも腰を上げ辛くなっちゃう。
 再出撃は16時を回ってしまいました。

▲山羊汁!

こへ来るのは何度目だろう。ワシにはほとんど山羊汁の代名詞になっちゃってます。
1631山羊料理南山
山羊汁550
 フーチバーをついに多めで頼んでしまった。
 やっばりいい。何がって,フーチバーがいい!山羊はほとんど付け合わせ感覚です。
──とまでメモには書いてしまってますけど,それは山羊さんに申し訳ない。君の臭みあってのヨモギだよ…というのも誉めてるのか貶してるのか分からんけど。
 1708,南山前でタバコを吸いながら位置確認した上で出発。店のすぐ西なんですけど,段差があって南からぐるりと周りこみます。

マーカー&九年堂:バイクから降りて歩くべきでした

ーカーの御嶽,九年堂の御嶽
〔日本名〕ともに沖縄県中頭郡北中城村字島袋。①「東側丘陵(上原山)の東斜面」②「東側の旧米人住宅の北はずれ」
〔沖縄名〕①同。琉球国由来記の記載:マカアノ嶽(神名:マネヅカサノ御イべ) ②くにんどぅぬうたき
〔米軍名〕-(難民収容所設置)

看板立ててはみました。
 島袋交差点から北へ入ったファミマの西側の鞍部を登っていく。
 外観はただの団地なんだけど,地勢的に,祀りの場という空気はすごく感じる。亀甲墓までは相当数ある。それらのヘソになるような場所が,この二ヶ所のはずで──

▲南山の西側丘陵の団地

でしたが!
 バイクで数回往復した。なのにどうしてもそのヘソを感じ取れない。沖縄X探訪以来,これは初めての体験でした。
 要するに…マーカーの御嶽,九年堂の御嶽とも発見できてません。
 後で知ったのは,ここが沖縄戦早期の収容所だったということ。バイクから降りて歩くべきでした。おそらく集落の作りが米軍の発想でシンプルになってる──とか言い訳は浮かぶんだけど。
 北中城村のHPがありますので,探される方はこちらを参照。→巻末:場所の記述

オン・ライカムの巨大モール,最初はその違和感というかアメリカンな郊外店舗の外観にもやっと慣れてきた。
 1737,イオンの裏,東側を通過する。通ると亀甲墓が段々数を増し,最後はそれを縫うように折れて折れて行きました。

ナスの御嶽:集落は御嶽を腰当として発展した??

スの御嶽
〔日本名〕沖縄県中頭郡北中城村字仲順
〔沖縄名〕(琉球国由来記による神名)ナスノツカサノ御イベ
〔米軍名〕-

▲ナスの御嶽の門

中へ入った道路脇のやや高台に,それは忽然と姿を現しました。
 よく田舎に一柱だけ,個人敷地の墓地が出来てることがありますけど,まさにああいう感じ。
 バイクを路肩に止め階段を上がる。まさに御嶽そのもの。門構えのある藪,つまりサンクチュアリだけがある感じ。
──この時は見つけられなかった,というかそういうものを見つける気がなかったけれど,藪の中に石があり「舜天王 舜馬順熈王之霊」と書かれてるらしい。

▲奥の藪

中城村の案内板がある。
「仲順集落は,かつてナスの御嶽をクシャテ(腰当)として南側に発展していったといわれる」
──と書いてある。南を見やると,確かに南の丘陵に尾を引くように集落が伸びてるのがみえます。
 ただ,御嶽からは,写真のように谷間の集落のようにしか見えませんでした。地図で見るとかなり大きい平地が東西に伸びます。この時は思いもよらなかったので,この集落も見逃してます。

▲南側の集落を見下ろす

」という漢字は中国古代の聖王としか認識してなかった。沖縄の古代王の名前でもあるらしい。
 完全に伝説上の「天孫氏」に続く,ギリギリ実在した可能性がある最古の統治者名だという。
 その三代目の義本王あるいはその家臣が,次代の英祖王におそらく当時の政治的中心・浦添城を追われて初代舜天以下の遺骨をここに葬った,というのがこのナスの御嶽らしい。
 仲順集落そのものも元々はここにあったという。落武者村のような場所だったのかもしれない。今は集落も南の平地に移り,始祖たる古王たちの墓だけが残った。
 そういう,考えてみたら非情な場所です。

角なのでそのまま北へ行ってみよう。
──と,南の集落にではなくイオン側へ。軽い思いつきでしたけど,この日はこういう勘が悉く裏目に出てます。旅行にはよくあるセンスのブレです。
 この時もその思いつきが運の尽きでした。物凄い坂道に入る。山道をグルグル回った挙げ句…屋宜原へ出た?
 ライカムイオンの真南,谷を一つ隔てた高速の高架下です。
 美里のJIMMYの道までうろついてから帰る。
 空振りしまくったけど,それだけの謎を抱え込むことができた,ある意味貴重な日でした。
 あと,冬なのに…肌が焼けた焼けた!

久しぶりに向かった読谷。ここの山河にも意外なXが散りばめられてました。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※胡屋:デイゴホテル
~読谷:チビチリガマ
[前日日計]
支出1500/収入1850
負債 350/
[前日累計]
     /負債 320
§
→三月二十二日(五)
1101宮良そば
骨汁650
1412運玉食堂
てびち汁550
1900マキシム沖縄
みかんロール250
[前日日計]
支出1500/収入1450
     /負債 50
[前日累計]
     /負債 370
§
→三月二十三日(六)

胡屋→嘉手納→読谷:アメリカ世を体感する道

時半,デイゴを出発してます。
 まずは東へ。基地前のセンターロードから今は図書館になった突き当たりを右に入ると──R85にすんなり入れました。
 アメリカンな車道を北行。
 0744,池武当から県道R74に折れて西行。昨日,接触事故しかけるヒヤリがあったばかりなので,45キロをきっちりキープして進む。

▲トラックナンバー「777」!!

手納のロータリーに到る。0802。
 うまく北へ曲がれた。カローラ沖縄トヨタウン読谷店。読谷村の広告ビジョンがあります。──以前よりずっと垢抜けてきた印象。

▲嘉手納交差点。新しく建ったロータリープラザ

か書いてるから,我ながら記憶って余程いい加減です。
 沖縄通い最初の頃の記憶にある,原付では無茶苦茶怖かったここのロータリーは,ここ10年ほどで交差点に逐次切り替えられ,その跡に建ったモールには防衛施設局を含む諸施設が入居。嘉手納中心街は一変してます。
 意識の低い旅行者に比べ,琉球朝日放送の次のHPの記述は印象的でした。

※ 琉球朝日放送 Weather News/リポート 消えゆくロータリー 誕生秘話「1945年にアメリカ軍が沖縄を攻撃する直前に撮影した嘉手納町。軽便鉄道や県道が伸び、中部の要所であった様子が上空からもはっきりと分ります。しかし、この年沖縄に上陸したアメリカ軍は飛行場のあった嘉手納を制圧。その年の8月の航空写真では街の様子はすっかりかわり、飛行場とすでに巨大なロータリーが建設されています。軍用車両の行きかうロータリー、そして巨大な基地の横たわる嘉手納の町並みは、それから戦後60年以上にわたって続いてきました。」
[その他資料]

▲0820読谷らしいだだっ広い光景

つも曲がるのは伊良皆交差点です。でも今日はもう一つ北へ。
 0809,伊良皆北交差点を左折東行。
 読谷村は今日本一人口の多い村…なのか?看板あり。──後で調べると平25に一番に躍り出て祝賀会を,この後訪れた城跡でやってました。
 でも下記・人口の多い村トップ5を見てください。沖縄が3村。あと東海村です。──日本唯一の新幹線駅のある村・福島県西郷村を除き,国庫の潤沢に流れ込む村ばかり。

※ wiki/日本の村の人口順位
1 沖縄県 読谷村 39,504人
2 茨城県 東海村 37,713人
3 福島県 西郷村 20,322人
4 沖縄県 中城村 19,454人
5 沖縄県 北中城村 16,148人(いずれも2020年1月1日現在)
※ 読谷村HP/日本一人口の多い村「読谷村」誕生!
「祝賀式典には、石嶺村長が護佐丸に扮して登場!」

▲さらに読谷らしい道を行く

んどん道が閑散としていきます。工業団地のような場所に,工業団地のような縦横に伸びる道。「ゆんた市場」という市場の前で流石に不安になり地図確認。
 明らかに歴史の途絶えた場所──とは感じつつ走り抜けたこの場所は,平18返還されたばかりの読谷飛行機でした。どうやら滑走路跡をそのまま使ってる「道路」らしい。
 さらに後に衝撃を受けたのは──こここそがかの義烈空挺隊が強硬着陸した「北飛行場」でした→巻末参照。
 地図を睨みつつ畑地をさ迷う。0828。何も書かれてないけどここだろう。チビチリガマ。
 そしてこの「何も案内がない」ことそのものにこそ,また沖縄の戦後の悲痛さがあったのでした。

▲0823チビチリガマ辺りにたどり着く。

■転載:北中城村島袋の2つの御嶽の場所

 この2つの場所は,地図上は明確です。GM.にもサイトにも写真まで載ってるわけで,存在することは疑いようもない。
 なのに見つからなかった。
 色々と弁解もしたいけれど,以下を参考に歩いて探してみて頂き,敵を打っていただければ…。
 しかし「マカア」という響きの不思議さ,整備に要した年数で呼ばれる空虚さ,何とも魅力的です。
※ キタポ(北中城観光ポータルサイト)/マーカーの御嶽
「島袋の東側丘陵(上原山)の東斜面にある。
島袋の集落の発祥は、この丘陵の東側の真川原といわれており、御嶽は集落の腰当てであった。祠は東向きで、幅122cm、奥行き141cm、高さ84cmである。『琉球国由来記』(1713年)には『マカアノ嶽 神名マネヅカサノ御イべ』と記載されている。」
同/九年堂の御嶽(くにんどぅぬうたき)
「島袋の東側の旧米人住宅の北はずれにある。
御嶽一帯を整備するのに九年の歳月を要したので、九年堂の御嶽と呼ぶようになったといわれる。祠は東向き、幅88cm、奥行き93cm、屋根までの高さは57cmである。材質はサンゴ石灰岩製で、壁はそれぞれ一枚の石を使用し、屋根の頂上には宝珠が付いていたようであるが、現在は欠落している。神体は2個のサンゴ石灰岩である。」

■資料:北中城村仲順の拝所群

 思ってた印象を数倍越えて,この地域には重い,かつ謎深い遺跡や拝所が散在してました。
 何故なのか?そこのところすら謎です。でも中世イタリア中部みたいに,尚氏政権までの数百年,この地域に織り成す小さな丘に取り付いた小勢力同士が紛争を繰り返してたのでしょう。
 それと,北中城村の文化財担当部署がいい仕事をしてる。細かいスポットまで情報がきっちりあります。下記マイマップなんてこれだけで2~3日かかるほどのデータ量です。
 南山のついでで回れる所じゃ全然なかった。再訪を期し,あるいは今後訪れる方のために資料を再掲しておきます。
■GM.マイマップ:北中城村の遺跡・文化財
※ キタポ/ナスの御嶽
「安谷屋ノロが祭祀を掌っていた。」
「岩の上には、舜天・舜馬順熈・義本の三王を葬ったとされる墓がある。」
※ 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/ナスの御嶽(なすのうたき)・舜天王と舜馬順熈王(しゅんばじゅんき)の霊が祭られている。


※ てんとてん琉球/舜天一族の拝所
「琉球史上最初の王といわれている『舜天』と二代目の『舜馬順熙』三代目の『義本』がまつられている拝所」
※ 沖縄放浪日記/北中城村仲順に点在する舜天一族の拝所や仲順大主之墓などの史跡
(ウフカーの案内板)「仲順集落は、ナスの御嶽付近から現在地に移動したと伝えられており、ウフカーは、現集落のウブガー(産井戸)である。」
(上門ガーの案内板)「仲順集落の起源は、ナスの御嶽付近の上門原に住居を構えた七世帯(仲順七煙)にあるとされる。その頃にウブガー(産井戸)として使用されていたのが上門ガーである。」

■小レポ:沖縄の伝説王統

 wiki以上には掘ってなくて甚だ不真面目ながら,歴史的事実性はともかく,舜天王統が記述として残された意義は,尚王統が次のストーリーを自家の存在証明としたから,という点に尽きると思われます。
『大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ』(1543年(嘉靖22年)『国王頌徳碑(かたのはなの碑)』)
 尚王統は明から冊封を受けた「琉球国中山王」位によって自己規定していた。それはバトル・ロワイアルの末に武力でもぎ取った実効支配ではなく,自家の実質以上の正統的権威に基づいている…ことにしたかった。
 そのためには,アマミキヨに始まる天孫氏から自己の支配時代までの系譜の継続が必要でした。ところが,尚氏は天孫氏でないし,天孫氏から禅譲等で王権を受け継いでもいない。だから中間項が必要になった。それが舜天王統だったのでしょう。
 この物語作りの難しさは,記紀を作った古代大和政権のそれを遥かに凌いだでしょう。だって──天孫氏の権威を継ぐのが聞得大君というのは沖縄の共通認識だし,だからといってアマミキヨ以外の権威は沖縄にない。つまり,天孫氏から連なる正統王権の継承を,既存の権威たる聞得大君を超える強さで主張できる物語づくりが求められたからです。
 論理式めいて書くと
 A→反A→反・反A
      ≒A
      →後反・反A
       ≒A
 時系列で書くと
[沖縄開闢]アマミキヨ降臨
[1万八千年前]天孫氏統治始まる。その後25代継続
[1186年]逆臣・利勇により天孫氏滅ぶ。
[1187年]利勇を討ち舜天が中山王位を継承
[1259年]第三代義本が英祖に禅譲,舜天王統途絶える。
[1406年]佐敷按司・尚巴志が中山王武寧を滅ぼし,父・尚思紹を中山王に据える。第一尚氏王統開始
──と,実際には戦国時代だった11~15世紀のストーリーに物凄く苦心の跡が見える。普通に考えて「それは禅譲じゃないだろ?」「1万年前の王朝?」「一万年ぶりに王統が3度も交代?」と幾らもツッコみたくなるけど…何とかお話になってる。

推論1 中山王権の正統性が求められた背景

 これほど苦労して,うちなんちゅの信仰世界で最高権威たるアマミキヨと中山王権を連結させてるのは,対外と対内の二つのニーズに迫られてのことでしょう。
 まず,対明の朝貢貿易を行うに当たって,我こそは沖縄を代表する政治権力である,と主張できる物語が必要だったこと。
「舜」名にしても,極力軍事色を薄めた禅譲っぽい王統交代の物語にしても,中国人,特に儒教的センスの聴き手にウケのいい創りになっているように思えます。
 でももう一つ,対内の権威づけでもあったように見える。聞得大君,つまりノロ組織に対しこれと同等以上であると主張する根拠作りです。
 天孫氏の始祖の長男が王族,次女がノロ,という物語は,それまで事実上沖縄を牛耳ってきたノロ組織側に配慮しつつ,少しだけ王権の方が上位と位置付ける,気配りに満ちた構成になっている。

推論2 舜天王統の実際

 では,ナスの御嶽に眠る舜天王統とは何だったのか?
「眠る」と言いながら,舜天三代:舜天・舜馬順煕・義本の墓はここだけではない。(行きそびれてるけど)仲順公園にも墓があり,少なくとも拝所としてはこちらの方が沖縄的です。さらに浦添ようどれにも墓はある。(奄美にまであるとの情報も)
「舜天」王統という呼称も奇妙です。つまり二・三代目の存在感が異様に薄い。三代義文は英祖への禅譲者として以外の場面はないし,二代目舜馬順煕に至っては10年の在位に関わらず「琉球の正史には、彼の事績について、一つも記されていない」。
 これは要するに,軍事的に強力な舜天が浦添方面に勢力圏を形成したあと,ずるずるとそれが衰えて,血縁でない英祖が「実力で王位継承」したということでしょう。
 舜天は事実上は一代限りの勢力だった。英祖への正統性接続上,禅譲元の三代目が必要だったから三代続いたことにしてるだけでしょう。
 禅譲元として利用されてしまえばもう政治的価値はなくなるから,一族は浦添方面を追われて仲順まで落ちた。それまでに死んだのか生きてたどり着いたのか,とにかくその地に墓を作って埋葬された。
 そういう事態の冷酷さからして,ナスの方がホントの墓で,仲順公園は元々の集落の御嶽に後から合祀した感じでしょうか。

推論3 アマ(X)信仰の広域分布

 逆の見方から浮かび上がるのは,中山王権がそこまでして自己と繋げようとした「天孫氏」を,いかに沖縄人が重視していたかです。
「天孫氏」には沖縄音でも「てんそんし」以外の読みは当てられてない。いかにもヤマト風で,古くからの言い方ではないでしょう。舜天と同じく,始祖のアマミキヨ(アマミク)が重要であって,そもそも名前すら伝えられていない「途中」は後代に繋げるための創作の臭いが強い。
 けれどこの音,「天」への志向,漂着神の性格。沖縄神話では安須森(アスムイ・アシムイ)やカナヒヤブ,斎場御嶽などの聖地は,人類創世前に出来たことになってる。対馬同様,概念が先行する天照信仰より古い可能性は高い。
 そこで浮かぶ連想は──
[ヤマト]天照:aMaterasu
[沖縄] アマミキヨ・アマミク:aMamikiyo,aManiku
[対馬] 天童→(推定古名)阿麻氐留アマテル:aMateru
 そして
[中国(福建他)]娘媽:roMa
です。
 周辺にも,岩戸を開いたアマノウズメ,前述の安須森(アスムイ・アシムイ),対馬のワダツミ,そもそも天・海の和音であるアマ(島:シマもそうではないか?)と夥しい母音a(の類似音)+M音が現れる。
 対馬と日本の神話比較ではアマテル信仰なる共通信仰の存在が疑われるけれど,それは,日本の「天孫族」について語られるような一民族のものではなく,沖縄を含む東シナ海全体の海民が共有していたような相当広域のものだった可能性はないのだろうか?
 この沖縄の一年後に前のめりになった媽祖信仰は,その広域かつ広年代の信仰の一形態に過ぎないのではないか?という思いがしているわけですけど…手持ちの材料は尽きた。ひとまず筆を置きます。
※ wiki/舜天
「舜天は15歳で浦添按司となり、その後、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる」
「『舜天』という名前は、『首里の王』という意味の『首里天(しゅりてん)』からの連想と考えられ、神号の『尊敦』もそれに近い音とされる[3]。また、中国神話に現れる聖天子・舜を想起させる名前である[4]。」
([3] 池宮正治「舜天」、『浦添市史』(1989年)、pp.336 – 337
[4] 安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日、p.62)
「喜舎場一隆によれば、舜天の活動期がおもろの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の王統の始祖がおもろで聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり、舜天の実在はおもろからすると否定的に考えられるが、1543年(嘉靖22年)の『国王頌徳碑(かたのはなの碑)』に『大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ』と記され、実在性をまったく否定することもできないと述べている[12]。」
([12] 喜舎場一隆「舜天王統と為朝渡来説について」、森・田中編(1975年)、p.293)
「『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き[31]、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたという[32]。しかし、舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられ[33]、首里に遷都したのは、察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と思われる[34]。
『琉球国中山王』と君主号を自称したのは、明の朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ、次代の武寧以降から、明より『琉球国中山王』として冊封を受けた[35][36]。『中山世鑑』などの琉球の正史は、初代の王を舜天としており[37]」
([31]『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.39
[32]安里進 『琉球の王権とグスク』 山川出版社〈日本史リブレット 42〉、2006、p.2
[33]知念勇「浦添グスク」、『浦添市史』(1989年)、pp.225 – 227
[34] 前掲安里(2006年)、pp.2 – 4
[35]「注釈1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.10
[36]同注釈1p.12
[37]前掲安里ほか(2004年)、p.60)
※ 同/舜天王統
「舜天を祖とする王統の通称名で[1]、1187年(淳煕14年)から1259年(開慶元年)[2]、3代73年続いたとされる[3]。しかし、この王統自体、存在さえ不明であり[1]、実在しない伝説上の王統と考えられる[4]。15世紀または16世紀頃、第二尚氏が天孫氏、舜天、英祖の子孫であると称するようになって、史記に系譜的に組み立てたものと思われる[5]。」
([1]高良倉吉「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、pp.407 – 408
[2]前掲 安里ほか(2004年)、pp.60 – 62
[3] 池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.337
[4]前掲 安里(2006年)、p.4
[5]前掲 池宮1989年、p.338)
※ 同/天孫氏
「最初に、国頭村辺戸に安須森(アスムイ、アシムイ)を、次に今帰仁村のカナヒヤブ、斎場御嶽などを創った。しかし、数万年経過したものの、人々は未だ居らず」
※ うらぞえナビ/舜天・英祖・察度 「浦添三大王統」ゆかりの地を訪ねる
「14世紀には浦添グスクを拠点に勢力を拡大し、琉球史上初めて、中国(明)と公式に貿易を始めたほど。残念ながら1406年、後に琉球統一を果たす尚巴志によって滅ぼされてしまいます」
※ wiki/天孫族
「中国東北地方の遼西地方周辺を原住地とし、朝鮮半島を経由して南部の弁辰を根拠地として、紀元1世紀前半頃に日本列島に到来した種族とされる。」
「北九州の松浦半島に上陸した後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、特に高良山の北麓から西麓の辺り、筑後国の御井郡・山本郡を中心とする地域に定着したとされる。この種族は鉄器文化や鳥トーテミズムを持ち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。また、これが『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(高天原)で、このような原始国家を2世紀初頭前後頃から形成し、2世紀後半には分岐国家の伊都国から神武天皇兄弟を輩出した[2]。」
([2]宝賀寿男「神武天皇の原像」『古樹紀之房間』、2014年。)

■用語集:沖縄X探訪のための「軽くは訳せない沖縄語」集 初版

 とりあえず,のメモです。今回「腰当」の意味が分からず資料を右往左往しましたので。
 どうやら北中城付近はホントに古い土地らしく,訳すことの出来ない沖縄語が多すぎる。
■アジ:「按司」。行政長官,地方領主
■イビ:聖域
・ナスの御嶽の説明に出てくる。場所自体が神体になっているようなケースでの,その場所を指す。
■イベ(又はイビ):御嶽の中での神が降臨する目印。御嶽の「本体」のような点。よって概念的には御神体ではないけれど,結果的に御神体と同じ扱いをされることもある。
■ウガンジュ:「拝所」。ウガンとも。
・神を祀って拝む場所。御嶽(ウタキ),井戸(ガー)など形態を問わない総称らしい。
■ウサギムン:お供え物
■ウタキ:「御嶽」。聖域。
・拝む対象が基本的には無い,あるいはあっても目印だけになっているような場所らしい。
■ウブガー:「産井戸」。集落の井戸の中で最も神聖なもの。
・正月の若水汲みなど儀式を伴う。
■ガー:「井戸」
・生活の場というだけでなく,神聖視されていることが多い。→同用語集:生活用水関係編
■カミンチュ:「神人」
・祭祀の中心となる神女。この人だけがイベ(イビ)に入ってよい。
■クシャテ:「腰当」。集落の要?
・北中城村HPのマーカーの御嶽とナスの御嶽の位置の説明として用いられている。
■グスク:城
・日本語でいう城塞の施設というより,かつての政治的・軍事的中心が神聖視されている場所も含む。
■トゥーティークン:「土帝君」
・中国(主に福建省,台湾)渡来神。2月2日の祭祀多数。
■トゥン:「殿」
・一般の人が神を迎え入れて祭祀を行う建物。場所の場合は「神アシャギ」ともいう。
■ビジュル:霊石
・漂着伝承を持つもの多し。内地の「びんずる」と同等と目される。
■ヒヌカン:「火の神」
・台所に祀られる家の守り神。神々への取り次ぎ役とされる。
■ヒラウコー:沖縄線香
■マギリ:「間切」
・行政区画
・「領土」よりやや狭く,集落域だけを指すらしい。
■ムィグァーシ:(供え物としての)お菓子
※(参照) 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/本土の友人たちへ・近況報告 その2
※ ameba/沖縄の民俗~御嶽・ビジュル・土帝君・火の神・屋敷神

■資料:旧・嘉手納ロータリーから現・嘉手納交差点へ

※ wiki/沖縄県道74号沖縄嘉手納線
「2008年(平成20年) 嘉手納ロータリーに代わる新嘉手納交差点完成」
※ 同/嘉手納ロータリー
「直径約120mの『日本一』ともいわれるロータリーであったが、交通量の増加に伴い、休日には交通渋滞が生じ、また、流入部などで交通事故が多発するようになり問題となった。そこで嘉手納町では沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(沖縄懇談会事業)の一つとして『嘉手納タウンセンター開発事業』と称する中心市街地再開発事業を総事業費約200億円をかけて実施」
※ 沖縄の風景/嘉手納ロータリーの風景(1)

■小レポ:義烈空挺隊に左右にブレずに向き合ってみる。

 戦争末期の追い詰められた焦燥,戦後の特攻隊擁護及び非難論と,色んな視点から偏見を持って語られてきたこの部隊の特殊作戦。
 約70名が犠牲となってます。軍事的には,極めて冒険的ながら明確な戦果を挙げた作戦で,米軍も相当動揺してますし,その醜態を隠蔽してる気配もあります。
 呉鎮守府第101特別陸戦隊を始めとする戦争末期の切実な焦燥が産み出した,現代のアラブの兵士に似たほとんどテロに近い「特殊作戦」の一角です。彼らが本当に読谷山中にこもってゲリラ戦をしていれば,それはベトナム戦争でのベトコン兵の戦法に近く,さらに米軍を悩ませたでしょう。
 書きにくいのですけど──やはりどうしても思うのは,日本人組織の戦略の不統一です。テロやゲリラにまで一部の兵士を追い込んでおきながら,ベトナムのようにそれに組織の思想を一本化して戦い抜くこともせず,それなら絶対国防圏崩壊段階で降伏すればいいのにそれもしない。
 朝鮮戦争での中国軍,ベトナム戦争でのベトコンを考えると,日本軍の戦術はほぼそれと近いところまで来ていた。後は,それを戦略にするだけだったのに,それをしなかった。あるいは出来ないまま,セクション間の政治闘争に明け暮れて「時運の赴く」ままに降伏した。
 独ソ戦では,ソ連もドイツも知能の限りを尽くして本土決戦を戦っています。
 沖縄軍の八原大佐の「冷笑」は,決して一個人を責めるべき材料ではなくて,当時の国民感情の一面でもあったと思います。
 行け行けと応援されて,占領地に逆上陸しようと飛び込み台に立ってみたら,後ろに誰も着いてきてなかった。そういう白々しさ。読谷への強硬着陸を試みた彼らに対し,いたたまれなく思うのは,そこです。


 上の写真は,米軍占領前の北飛行場時代のものと思われる航空写真です。飛行場としての供用は1943年夏以降ですから,飛行場施設以外はほぼ元のままのはずです。
 この写真で沖縄Xをしてみます。
 まず,やはり小さな丘に森が点在する沖縄的な信仰風景は見えます。手前の丘にははっきりと亀甲墓が並んでる。
 土地利用は概ね農業のみ。でもエリア毎に方向が微妙に異なるから,公営で一括開発した農地ではなく,少なくともエリア毎,おそらく集落ごとに開発が進んでる。
 ただし,中世の集落にしてはは畔のラインが整い過ぎてます。近代になって西洋の技術で開発してることは否めない。集落の街路が近代技術で区割されている。
 ここが佐久川イモなど紅芋の先進農地であることを考えると,歴史はあるけれども,琉球処分後に開発された農業地だったと思われます。
 丘や森の霊地は残されていたと思われます。写真でも各所にそれらしき繁みは見当たるし,不鮮明ですけどヘソのように見える場所もある。他へ移転する間もなかったでしょうけど,70年間祭祀が行われていない状態では,元の山に戻ってしまっているのではないでしょうか。
 あるいは70年ぶりに拝まれた場所もあったでしょうか。
※ 読谷村HP/読谷飛行場返還の碑:1
※ ユンタンザミュージアム時空マップ/大正
陸軍北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場 (画像多数)
※ wiki/読谷補助飛行場
「『読谷村史』によれば、1943年4月27日に『青い竹竿の赤旗』が立った。1週間ほど経って土地に関係する住民らが学校に集められて、『赤旗』が飛行場予定地の境界であること、接収面積は360町歩に及ぶことの説明と共に土地接収を求められた。65戸が強制立ち退きとなった。」
※ wiki/義烈空挺隊
「義烈空挺隊は北飛行場東北にある220.3高地をゲリラ戦(遊撃戦)の拠点にしようとしていた。同高地は付近に深い谷があり潜伏するにはうってつけの地形で、生存した空挺隊員はそこを拠点とし、毎晩北飛行場や物資集積所を襲撃し命ある限り戦う計画であった[57]。
[57] 田中賢一『帰らぬ空挺部隊―沖縄の空にかける墓標』原書房、1976年, p. 233」
「6月12日に陸軍第6航空軍が発信した戦闘概報によると『義号作戦ニ参加シ北中飛行場ニ強行着陸ス任務終了後敵中突破『具志頭(島尻郡八重瀬町)』附近ニ到達セル一名』の兵士が戦果を報告したとされるが、その真偽と隊員の氏名は判明していない。」
(出典 海軍機密第一二一三四〇番電)
「義烈空挺隊の突入は苦闘する第32軍が陣取る首里山上からも視認することができ、高級参謀の八原博通大佐も嘉手納、読谷飛行場方面で火の手が揚がるのを目撃している。八原は参謀らしく「軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである」と冷静に感想を述べている」
※ 琉球朝日放送 HEADLINE News/語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い
「翌日の昼、最後の空挺隊員が残波岬で米軍に射殺されています。あの修羅場を抜け、彼はなぜ、海に向かっていたのか。」
「読谷山岳(ゆんたんざだけ)に再度集結して、ゲリラ戦に移行するのが第二期攻撃だったのです。
 隣の山には、すでにゲリラ戦を展開中の第二護郷隊がいました。護郷隊を率いるのは特殊なスパイ教育を受けた陸軍中野学校の人たちそして義烈空挺隊員のうち10人が中野学校の諜報員でした。
 名護市史編さん係・川満彰さん『義烈空挺隊の中に陸軍中野学校のひとたちが10人も入っていた理由って言うのは』『第32軍が壊滅したあとも彼らがそこで遊撃隊となって第3遊撃隊第4遊撃隊。その人たちと一緒になって、また32軍が壊滅したあとも遊撃隊となって後方かく乱をしていこうと』」
「重すぎる任務を背負った精鋭部隊。この中に、沖縄出身兵士が二人含まれていました。
 義烈空挺隊最年長の山城准尉は、享年31歳。突撃の日、新聞記者にこう語っています。
『私は沖縄生まれというので特別に関心を持たれているようですが別に悲壮な気持ちはありません。かえって自分の生まれ故郷で戦えるので気易い思いでいます。沖縄県民を救うことができれば本望です』」
※ 同/呉鎮守府第101特別陸戦隊
「1944年初期から館山海軍砲術学校(館砲)で養成が始められた。海軍陸戦隊の中でも特に体力、知力に優れ、風貌や体格が欧米人風という条件を満たした350名を選び編成されていた。」
「1944年12月にはアメリカ西海岸へ上陸し破壊活動をおこなうという作戦も立てられた。目的はロサンゼルス郊外のロッキード、ダグラス等の軍用機工場の破壊活動で、人目の付かないアルグエロ岬にゴムボートで上陸し山中に拠点を構築した後、車を奪いロサンゼルスへ突入するという計画だった。」
「8月に広島・長崎に原子爆弾が投下されると、陸軍諜報機関の情報から原爆貯蔵庫があるとされたテニアンも攻撃目標に追加されて、大規模な作戦に発展した。山岡部隊は、青森県の三沢基地に移動、作戦準備に入ったが、同年7月におきた北海道空襲の際に三沢基地も被害をうけ、作戦に使用する一式陸攻の大半が破壊されてしまったため、作戦決行日は8月19-23日に延期された。」
(参考文献 『特攻S特 – 海軍特別陸戦隊山岡部隊々史』非売品、山岡部隊隊史刊行会、1978年)