m19Lm第三十波@m総合m9_福建台湾琉球編_レポ総合リンク集(ニライF71@)

※本頁は人向けの読み物としてでなく,デジタルでの検索用に重きを置いて,「検索ワード集」として作成しています(重複有)。あえて人の目で読む場合は,「位相」パートのみをご覧頂くと,海洋アジアの議論の体系に近いものとしてお読み頂けます。

目録

位相

基礎フレーム

▲ 東アジア時計回り90度「逆転」地図(By網野さん)

【十次{11}沙上】(韓国南海岸,3百万年前からの南方海峡の形成過程,後期鮮新世〜前期更新世の海峡:沖縄トラフ北縁部,沖縄トラフ北縁部のリフティング,南方海峡から育った東シナ海,①オホーツク海・②日本海・③東シナ海・④南シナ海の4つの円の連なり,対馬海峡?Korea Strait?大韓海峡?朝鮮海峡?)基礎資料:対馬海峡周辺図
▲海水面80m低下時の東シナ海の古地理

▲ 地球惑星科学分野の科学・夢ロードマップ(改訂)2020の概要〔日本学術会議地球惑星科学委員会地球惑星科学企画分科会地球惑星科学地球・惑星圏分科会「報告 地球惑星科学分野における 科学・夢ロードマップ(改訂)2020」2020 p14,図2〕

(木星)トロヤ群の小惑星
凡例(図上,木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群,後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星

【19Cm唐の船御嶽】(沖縄,①ジャイアントインパクト(大衝突)+②暴走(的)成長+③寡占成長,(③の反作用)微惑星の惑星形成阻害,NICE MODEL,トロヤ群)レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観/[異分野参照]太陽系惑星成長過程:原始惑星系円盤(京都モデル)とニース・モデル
【19C2唐の船御嶽】(琉球,漢族←黄帝:姬水(陕西武功漆水河)流域小部族,日本王権←西九州海民一族,琉球王権←北山亜流朝貢組+前期倭寇分流,後期重爆撃期仮説,
①小規模で,単一で惑星と直接に重力関係を築けないけれど,群としては惑星の運動と共鳴している。
②群の中の個別微惑星の性格は多種多様で,平均値も意味を成さず,惑星のように均質な想定での分析は有効でない。
③にもかかわらず,一定の重力モーメントを共有する。

木星(≒太陽の連星):天王星・海王星:トロヤ群微惑星≒中国:日本・朝鮮・琉球:海人群,
God is in the details)レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観/海人の時空∶小規模・異質・連携志向の群
【190沖縄(大密貿易時代資料集)】(琉球,①実体がほぼ無い ②にも関わらず確かに,かつ本質的に遍在)イメージ:古池や海域アジアの水の音
(基礎フレーム終)



【可変性】海民を含む人類アイデンティティ

※微惑星※※形状←蛋民
※※惑星≒社会的コード
【075龍眼营再訪】(漳州,新橋囝仔唔驚水,进发宫 進発宮,连家船 連家船,蜑家,パシシル文化説(ギアーツ),那覇波上宮,シャア(都留),夫婦船(瀬戸内))レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]
【075龍眼营再訪】(東アジア・東南アジアにおける家船分布,ルイス・フロイス:1586(天正14)年10月17日付書簡,漢書五行誌「呉地以船為家以魚為食」,機帆船,水上浮城,かき船,湯治舟)レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]/(総論2)//(総論3)海域アジア圏全体における家船分布
東アジア・東南アジアにおける家船の呼称分布[浅川滋男「東アジア漂海民と家船居住」公立鳥取環境大学]
【075龍眼营再訪】(マカオ:総人口13%・漁民9割が蛋民,カンポン・アイール Kampong Ayer,曲蹄囝,福佬・鶴佬:広東人→福建人蔑称)レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]/(総論2)//(総論4)蛋民社会の地域差と推定される内部構造
【075龍眼营再訪】/(海人・海士・海女・白水部・海部・蛋,頭無岳・鮑作干)レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]/(総論2)//(付記1)水上生活者は何と名付けられてきたか?
【075龍眼营再訪】(マカオ:総人口13%・漁民9割が蛋民,カンポン・アイール Kampong Ayer,曲蹄囝,福佬・鶴佬:広東人→福建人蔑称)レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]/(総論2)//(総論4)蛋民社会の地域差と推定される内部構造
▲ 共同売店マップ(英語版)
【190沖縄(大密貿易時代資料集)】(琉球,物品運搬中の損害:船長全面負担,「みやきせん」全海域)資料集+レポ:共同売店の規約とその背景の展望/船舶規定[全文]とその海上法規観
▲ 山原船(撮影年代不詳)
【190沖縄(大密貿易時代資料集)】(琉球,無断欠勤→1948.8.25米軍政府通達(8.17公表)→9日後保留,当間重剛回想録,瀬長亀次郎・人民党を率い反対運動→”飢餓宣言”)資料集+レポ:共同売店の規約とその背景の展望/[史料集]共同売店閉鎖事件に関する断片的史料
【19C3奥武島観音】(琉球,中国型世界秩序-{日本国内のみ通用の観念的構築}日本型華夷観念=鎖国〔ロナルド・トビ「変貌する『鎖国』概念」〕,政治的境界:)バウンダリー(boundary・線)とフロンティア (frontier・面)〔ブルース・バートン「日本の『境界』」〕,17-19C日中間の広い面的国境→近世琉球存立基盤,≒{清}遷海令,≒{米}2005年100マイル国境ゾーン)レポ:唐船はなぜ奥武島に着いたか?//[発展]異質な陸上国境群の周縁に棲む海民群
▲ 中国型世界秩序-日本型華夷観念との間における琉球王国並びに薩摩系及び福建・浙江系の海上勢力のイメージ図
【19G4淡水まで】(台北,「康煕台北湖」仮説の非地学的事象との整合性確認:歴史・民俗面,現・台北駅-艋舺の岬部,台北媽祖宮の環状配置,湖上の海民(蛋民 蜑民)→蛋民陸上りの地=18C台湾,廣東沿海で清軍と交戦した鄭成功軍=蜑民:平南王・尚可喜「官兵進剿蛋賊」→遷界「無令失所 番禹蚤戶」「有居陸成村者」→台湾上陸)レポ:基隆河の異相の先に見る湖上民の幻/康煕台北湖に初めて戻ってきた陸地
▲ 康煕台北湖推定図。ただし艋舺の位置は引用者追記
【19G4淡水まで】(台北,「蛋民」ラベリング:陸上民が「我々と異なる非人類」に付けた名称→台湾:陸上漢族のまだいなかった土地,海域アジア中心部=台湾・琉球:「蛋民のいない」エリア,実態としての蜑民と(差別)観念としての蜑民,魚課(税)≒迷惑料?,1728(雍正7)年雍正帝「賎民解放令」発令「不必強令登岸」「諭蛋戶 開墾荒地 播種力田」→台北の経済基盤構築の主体)レポ:基隆河の異相の先に見る湖上民の幻/蛋民が「我々とは違うX」ではない土地
▲「東アジア・東南アジアにおける家船居住の分布」〔浅川滋男「東アジア漂海民と家船居住」2003〕図中,「蛋民」未確認エリア(桃色円は引用者)
(可変性総論終)

【可変性-1】水上居住

※蛋民,家船,船住い,趸船({繁}躉)=浮桥 浮き桟橋
▲「昔日浦頭港內的定潮樓,每逢民俗節慶,周邊的村民就在港里划龍舟。 (周卓謙 攝於1978年)」〔毎日头条/孟孟走漳州走過繁華:見證漳台水運的浦頭港〕
──浦頭港の中にあった定海楼には,民俗行事の度に,周辺村民が龍舟でこぎ寄せた。

【071柑仔市】(浦頭探花码,明万歴代(○1573~1620年)萬商雲集,九龍江故道,平底木船 龍舟,浮洲十八社,月港,厦門)レポ:柑仔市→浦頭→過溪について現時点での知見
▲仮想できる旧九龍江川筋
▲本稿の想定する過溪合流面の位置
【075龍眼营再訪】(海人・海士・海女・白水部・海部・蛋,頭無岳・鮑作干)レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]/(総論2)//(付記1)水上生活者は何と名付けられてきたか?
▲「1950〜60年代の沖縄。那覇の波上宮からの景観。当時撮影されたカラー写真です。」カラー撮影された貴重な日本の水上家屋画像。ガーブ川域から溢れたものと水族館される。〔 【昔】波の上の水上生活 | 沖縄ライフと文化 | 沖縄のうわさ話〕▲「1927年福州の蛋民(曲蹄)」〔wiki〕
▲かつて林立していた「機帆船」(北九州市洞海湾)〔北九州市立若松図書館〕
【091狐尾山】(バターフィールド&スワイヤー Butterfield & Swire(B&S) 中華圏用名称:太古 taikoo,1880年補修,趸船(繁体字:躉)=浮桥 浮き桟橋,水上集落のパーツ,1931年:固定港湾化,大小三十二码头)小レポ:太古碼頭から和平碼頭へ▲趸船の形状〔百度百科画像を引用者が結合〕

【可変性-2】輸送

※移動の対価 ※※船(移動用具)自体を含む。
▲明清代の中国内水域-外水域連携図式〔徐州:Phaze:廃黄河は西へ/小レポ:試論・淮水中心中国史観/③倭寇的状況が元代以降に発生したこととの関係
【102艋舺天后宮】(独木舟,巴赛语:Bangka,龍舟,アウトリガー OUTRIGGER CANOE,百越,邊架艇,凱達格蘭族 ketagalan ケタガラン族,蟒甲 MANGKA→艋舺,平埔族の外航船集落・プレ艋舺)小レポ:貴陽街/大溪口街以前:艋舺の名称の由来から
▲「(台湾)龍船の図」(年代未詳)
【103啓天宮】(台北,料館口,料館媽祖啓天宮,番害守護神・番王爺,黄阿禄嫂,福材 ランダイスギ,紅船,相傳1841(道光21)年,阿里山林業鉄路,放木排(放竹仔):四川岷江・東北鴨緑江・河北馬家寨村,一方水土一方人,各处乡村各处例,“在移动中”的社会,メティスの知,大甲渓,大鎮瀾宮,隘勇線)小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景――――阿里山材,放木排,大甲渓
▲四川での木材流送〔美国人西德尼·戴维·甘博,1917年-1919年在中国共拍摄了〕
【10s変な日本語&中世福建船史料】(台北,1973年泉州湾后渚港沈没船発見,標準規模:四百科船≒千石船≒百人乗り≈朝鮮出兵標準船,大阪市「なにわの海の時空館」千石積模型:全長29.4m・船幅7.4m・深さ2.4m・帆柱長約27m・帆18mX20m)小レポ:福の船 冥き陽揺れて那覇港(福建船等資料集)
▲中国各地(広東-福建-浙江-山東)の船の船首・船尾の特徴比較〔海と船の歴史2(6章-10章)〕

(-2輸送終)

【可変性-3】漁撈その他共通文化

※水域での生産,その他海域アジア共通文化項
【075龍眼营再訪】(漳州,remain significant characteristics of coastal people 海岸地方の人々の中に重要な特徴として残存している。,Pasisir culture is characterized by its flexible modes of ecological adaptation パシシル文化は 経済的な適応力のフレキシブルな形態によって特徴づけられる。,the people often have several different souces of income その人々は 数種の異なる収入源を持つことがある。〔University of Chicago Press, 1963〕)試読:ギアツ本文を読んでみる
【19D3安平古鎮】(台湾,{大陸}魚鬆・魚脯 {台湾}肉酥・肉脯 {越}cơm chiên chà bông(肉田麩入り炒飯)・バインミーの具,{日・江戸前寿司}おぼろ・力煮,≒{莆田}炝肉?)レポ:魚酥≒田麩(でんぶ)?
【19D@5北港(補稿)】(北港(笨港),宮口街西側の細長地割≒東南アジアのプラナカン様式家屋敷地,「スパン」(=奥行き/間口比):北港宮口街西側10超←東南アジアにない特殊要因?)補論1:北港朝天宮の建築学的論考/18世紀の北港宮口街の風景(短冊状筆)
▲ 大正期における朝天宮周辺街区の地割〔伊藤裕久・吉野菜月2014 ※原文出典表記「大正6年「嘉義縣北港下水溝及道路敷地図」に拠る」〕
▲鹿港市場周辺に干してあるカラスミ
(漁撈終)(可変性終)

【無明性】海民-陸民の相互・動態的世界史観

※対惑星力学←海賊
【062承天禅寺】(泉州,大城隍口,监察司民城隍威灵公,宋嘉祐年间(1056-1063年)侍郎赵涯建,东萼辉铺(現・镇抚司巷),1544(嘉靖23)年发生特大火灾,嘉靖大倭寇)小レポ:北へ動いた泉州府城隍廟▲泉州城の明清増築部分。「湫隘喧嚣,圮剥殆尽。岁甲辰(嘉靖二十三年,1544年)大祲」〔泉州历史网/清·道光《晋江县志·卷16·祠庙志·府城隍庙》收录“陈让为记”〕
【132川内観音(破)】(平戸,「世界システム」の時代を準備,更紗(インド・コロマンデル),VOC,バティック(ジャワ),リアウ,スカダナ(西カリマンタン))小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係/4[結果]東シナ海大航海時代を準備した「静寂」
▲[上図]更紗の模様帖。左上の模様は「阿蘭陀(オランダ)ツナギ」とある。おもにコロマンデル地方で日本向けに特別に生産された更紗(古渡:こわたり)。
[下図]染物屋に生まれた浮世絵師歌川国芳(1797-1861)の3枚続きの錦絵[前掲nippon.com 原典:ともに国立国会図書館ウェブサイト]

(無明性総論終)

【無明性-1】交易

※異社会間交換
【166八坂宮】(南さつま,蝦夷語辞書「上原先生著蝦夷語箋」(嘉永七甲寅年仲夏新刻豊雲楼蔵版),航海日誌(横折張),実際は昆布等諸色海産物(昆布・鶏冠草・所天草・若布・鯣(スルメ)・干魚・干貝・鰹節)>俵物,裏経済比率7〜9割,長崎商法=闇経済の正規化,浜崎太平次支店:指宿・鹿児島・甑島・那覇・長崎・大阪・新潟・函館,「肥後は隠し 薩摩はばらし」,「長崎表え後れて入津之二艘之唐船(略)空船同様之儀有之由」「越後国ニて密売買有之 薩州え相廻り候由」〔通航一覧続輯〕)資料:地誌に書かれた坊津/坊津人が蝦夷地で交易した物証
【173玉林】(南さつま,加世田再撰帳(19C半ば),18C末唐通事・鮫島正次郎の片浦出張記録,1634(寛永11)年「後領分片浦へ去年入津仕候唐船 不審成儀御座候間」(張紙)「はハん(八幡)不仕由申候」〔旧記雑録 後編五〕,1620(元和6)年「片浦へ着岸之唐船ばハんの由 長崎之唐人共達而申出」〔同 後編四〕,1589(天正17)年「今度至于片浦黒船着岸(略)於日本之地者 聊其妨不可有之候 糸之儀被召上儀者」〔秀吉御朱印状〕)レポ:史料に落ちる片浦の淡い影
▲「ボサド」バス停とレジデンス・ボサド
【174加世田】(南さつま,阿多∶近世島津に先立つ薩摩の光景,薩摩塔,鬼島津:関ヶ原→堺→(海路)薩摩,五代夏夫「薩摩的こぼれ話」,「三十三反薩摩ばい船に黒糖六十万斤」,おいとせん,黒樽,島妻,十島村中之島で深夜の密議,幕吏とともに七島灘に沈む,島津の長期経済戦継戦力,ボサド通り)本編(別章リンク集)
【190沖縄(大密貿易時代資料集)】(琉球,1617年平戸出帆オランダ船積荷横み荷の九割は海賊産,(琉球)ちんすこう≒(嘉義)方塊酥,二十日ウェーキ・香港行きぎり,ヌルガン沖のダイナマイト事件,(那覇)香港通り,(与論)久部良港海岸通り,(八重山)蘇澳ルート「復興交易」,大和-トカラ-沖縄-蘇澳)本編(別章リンク集)
本編(うるま新報1巻)
本編(うるま新報2巻)
【19D@5北港(補稿)】(北港(笨港),1992(民国81)年北港朝天宮隣の中央市場改築工事中の発掘→2001(民国90)年県政府 北港東側・崩溪缺発掘:清代磚瓦等∋「呉周」銭(呉三桂下流通)・日本銭(元豊通寶:長崎貿易銭)・安南銭(全出土の1/4)→①唐宋時代〜交易 ②古銭混入 ③宋銭許容 ④越銭のバーゲニングパワー)補論3:崩溪缺遺跡からの銅銭出土
▲ 崩溪缺出土 安南(ベトナム・私鋳=安南手類銭):治平通寶
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,【ツール】楚辺周辺の迷宮街路※群:①直線路と十字交差がない ②沖縄X(航空写真)では探知不能 ※高橋誠一「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」2008,→与儀公園-首里とを結ぶ迷宮状集落ゾーン∴けす〔真珠湊碑文〕=庶民=与儀〜古波蔵〜国場のプロト那覇港居住集団,首里城御嶽・京の内:御嶽だけだった頃の「首里城」→南志向,16C前半の首里城正面逆転:綾門大道整備←海洋王国琉球:×倭寇を排除して交易を行った 〇微妙なバランスの上に倭寇を下部化又は周辺化して成功した経営体 「倭寇は琉球と接触することによってその影響範囲を拡大」〔田中健夫1997〕)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/迷宮集落の偏在と首里へ伸びるベルト
(交易終)

【無明性-2】陸民社会と海民社会の軍事衝突

※海賊,密輸,結社
【165鶴見山】(南さつま,宮本常一:過大視せず,大陸航路要衝・遣唐使の本土最後の寄港港「入唐道」,百済渡来僧:一乗院創建,慶長年間:シャム行き英国船鰹節を積み入港,伝・○1722(享保8)年「享保の唐物崩れ」(坊津拾遣史:享保 (1716年)初め),坊津港→枕崎港,「坊津港のひそかな繁栄時代」,「唐物崩れ」後,江戸期「海民」はどこへ行ったのか?)資料断片:唐物崩れとは何が起きた時空か?
【19G5淡水關渡】(台北,(1711)「自四十九年洋盜(略)鄭盡心潛伏在江 浙交界之盡山 花鳥 台州魚山 台灣淡水」(:海賊鄭盡心が淡水他に潜伏)「淡水一港則閩省內地商船及江 浙之船皆至焉」〔後掲諸羅縣志〕←江・浙・閩・廣四省水軍(舟師)が探索,(1712)「康熙51年(略)洋盜鄭盡心在淡水外海窺伺」〔宮HP〕,「洋盗鄭盡心・陳明隆自遼海竄據淡水 地方騒動」〔淡水大事記年表・原典淡水鎮志〕→1711年鄭盡心捕縛→1712年賴科關渡宮創設)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ//淡水を狙う者 護る者
【19G5淡水關渡】(台北,鄭盡心:①1711(康煕50)年三月丙申条(No.83)「緝獲海賊餘國梁 系鄭盡心之黨(略)令其指拏逸賊八十三等」,②1719(康煕58)年(=關渡宮山麓移転年)五月己酉条(No.179)「拏獲旅順營脫逃海賊孫森等、系海賊鄭盡心之黨(略)擬斬 立決 從之」〔清實錄康熙朝實錄〕,周鍾瑄失脚→鄭盡心残党:淡水媽祖信仰の矯正=關渡宮の漢化,∴關渡宮は三度創建①17C明鄭(原住民主体・山上)→②1715(康熙54)年(原住民+周鍾瑄・山麓)→③1719(康熙58)年(鄭盡心残党・川辺),→(日軍焼討)④1897(明治30)年(地租+海商・林大春ほか寄付))賊犯仍不改惡∶鄭盡心の時代
(軍事衝突終)(無明性終)

【創造性】メティス知の包含による創造性

※惑星間空間←行商
【十次{42}釜驛&砂市&大学】(韓国南海岸,釜山地下鉄内行商,松浦鉄道車内同,福清人行商,
海人と行商総論(宮本常一「天草海人」論)
[ワード①イサバ]家船の進化形
[ワード②商船乗]海人生業の可変性:塩飽諸島・小豆島
[ワード③バイセン]半漁半商から半交易半物流への流れ
[ワード④沖ウロ]半漁半商の生業
[ワード⑤いさばや]日本式商業の原型)参考まとめ:これまでの海人と行商の関係データ
▲昭和30年代の尾道のバンヨリ
【154福州寺】(長崎,❨A❩幇+資本:興福寺・福済寺・聖福寺vs❨B❩船員(水夫)個人集合:崇福寺,❨A❩:❨B❩→支持階級の差,❨B❩福清出身船員(副業:抜荷)→個人貿易(副業:布地行商)→呉服行商,インドネシア福清華僑:ジャワで布地の販売・生産,「船員募集」は18Cの常套密航手法,昭30代:盆祭時に長崎崇福寺に全国福清人集合)レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清//船員個人抜荷→行商説
【155漳州寺】(長崎,1649(慶安2)年泉州人唐僧・蕴謙禅師開山,福済寺復元模型(長崎歴史文化博物館展示),原爆後媽祖堂は再建漏れ,村長宅→幇会館→1628(寛永5)年泉州道者・覚悔が小庵に天妃聖母を祭祀→住職は覚悔以後七代連続泉州系,「青蓮堂は(略)媽祖堂と呼ぶことはなかった」,八閩(福建各域)共有看板「潁川陳家」,媽祖祭に泉漳幇華商集合)小レポ:福済寺は泉州寺か?漳州寺か?
【19C3奥武島観音】(琉球,琉球知識人(≒久米村外交家)の役割=日中両者の論理に共に整合する解法を見出す,「琉球でこの船を買い取り置いたことは(薩摩への届けに)そのまま書いてはいけない」〔歴代宝案校訂本第四冊〕)レポ:唐船はなぜ奥武島に着いたか?/[時代]C-1)1687年はいつだったか?aligncenter
▲ 1749年中国人漂着民対応の報告事例
(沖縄県立図書館史料編集室編『歴代宝案』校訂本第四冊、沖縄県教育委員会、1993年、No.2-30-16。『歴代宝案』台灣大学、1972、2558頁)
赤枠:清への咨文(報告)
青枠∶薩摩への報告時の改竄部分
黄枠∶参照用のメモ(和文)
(太字は渡辺。各色枠は引用者による。)

【19C3奥武島観音】(琉球,蔡温(1682-1762),具志頭親方文若,評価≒売手側(中国)希望小売価格→実質定価,1719年冊封使節団:600名(琉球史上最多・「皇輿全覧図」測量官2名含)→琉球側購入資金ショート,折衝担当:程順則→「首切り要員」蔡温,○1719年〜(1800年冊封使〜?)売れ残り商品の琉球買上げがシステム化,民間資金ストック「模合」←1733年模合の法〔球陽〕:伝・蔡温創設≒半強制貯蓄,裏ルートの必要性?)レポ:唐船はなぜ奥武島に着いたか?//[事件]E1)評価事件は琉球経済をどう変化させたか?(民間資金貯蓄としての模合)
【19C3奥武島観音】(琉球,薩摩→琉球「自らの決して踏み込めない空間を琉球側に構造的に保障」〔渡辺美季2004〕,「検見の薩摩役人(略)在番仮屋へ座を用意し戸口に簾などを掛け 琉球の装束で 与古田親雲上(鎖之側代理)と共に 御見分」,奄美諸島も琉球領の建前,日本=「宝島(七島)」と詐称,幕府・薩摩からの薩摩領実態の隠蔽要求→琉球の外交的武器:渡辺「自律的(autonomy)両属」論)レポ:唐船はなぜ奥武島に着いたか?//F4)なぜ薩摩にバレないのか?
(≒薩摩人はなぜ関与してないのか)

(創造性総論終)

【創造性-1】海民的世界観

【創造性-1-1】媽祖

※≒宗教
【035十字街】(甫田,ラトゥ・キドル,蛋民,林默娘,960年生987年没,南竿島,千里眼,順風耳)資料:媽祖信仰で語られる媽祖関係基礎データ
【046河滨路】(樋泉克夫,1995年澳門媽祖信仰歴史文化検討会論文集,
最古5件①湄洲島・天妃廟=宋天聖年間(1022-31年) ②山東省登州・天后聖母廟=宋崇寧年間(1102-06年) ③山東省長島県廟島・顕応宮=宋宣和四(1122)年 ④浙江省寧波・天后宮=宋紹煕二(1191)年 ⑤福建省泉州・聖妃宮=宋慶元二年(1196)年 {中国大陸外}マカオ/媽祖閣=明弘治元(1488)年)小レポ:莆田文峰宮関係資料から見る媽祖信仰/各地天后宮創建年代リスト
【161丸木浜】(南さつま,「野間」(のま:日本語)←「娘媽」(のま:漢音)説,娘媽山記,
海辺に在って拝む:交易地(点)の神↔
遠く仰ぎ見る場所に置かれる:交易路(線)の神)野間岳における媽祖
【172大当】(南さつま,神代「笠狭宮」,神阿多都姫・木花開耶姫,江戸期媽祖セット所在:①野間岳西宮・里宮 2+②林家 2(又は3)+③愛染院1,片浦林氏「林氏先祖は林北山ト云者ニテ 唐国ノ乱ヲ避 慶長之頃従者十七八人召列 当国ヘ罷渡」,愛染院本堂正面額:「野間権現」1615(元和元)年唐人建立)レポ:野間岳と権現の大いなる空虚
▲同図会「野間権現社」山頂に「本社」,麓に「本地堂」がありそれぞれ僅かに人の姿も描かれる。
【19C2唐の船御嶽】(琉球,唐の船御嶽縁起)海から来て天妃を祀って去った群
【19D6台南老城東】(台南大天后宮,初出:1683(康熙22)年「靖海將軍侯疏請崇祀奉」〔福建通志〕,天后号への「昇格」は1684・1737・1757年の三説並立,「(嘉義城隍廟大天后宮)在城南縣署之左。康熙五十六【1717】年,知縣周鍾瑄鳩眾建」〔1717(康熙56)年 諸羅縣志〕,「(鹿港新祖宮)在鹿港海墘,乾隆五十五【1790】年,大將
軍福康安倡建」〔1835(道光15)年彰化縣志〕∌艋舺龍安寺(1840年竣工))メモ:台湾の媽祖廟創建史(古いもの順)
【19E6嘉義天后】(嘉義,大媽は神殿に鎮まる 二媽はくそったれ 三媽は戦に出る,山上天后宮→17C:「應景雲遊」山上・三崁→20C後半:嘉義に復帰=嘉義天后,嘉南平原山間部:朝天・奉天宮系とは別系統の媽祖信仰?∵すぐ東の北港・新港に由緒を求めず)レポ:嘉義宮媽祖の旅程/大媽∶不動如山 二媽∶従順如柳 三媽∶侵掠如火
【19H1信義福徳】(台北,宮子域:内湖路一段411巷・二段〜環山路一段・二段,「神あれど廟なし」,日帝代:寺廟整理→神体を家内に隠匿→戦後:「十五個國軍」眷村,南港:古名「南港仔」)レポ:三百年前の台北平野東端はどこだったか?//(付記)内湖媽祖にはなぜ廟がないのか?
▲ 内湖媽祖として時折挙げられている画像。首の下の身体や衣類は,巡行時に適宜着せてあげるらしい。
(1-1媽祖終)

【創造性-1-2】媽祖類型

※女性的海神・死体漂着神
▲(厦門)沙波尾,士王出巡,閩台送王船
【082石坊巷】(厦門,巡幸するカミ≠聖-俗・ハレ-ケ,移動するマレビト≒女性,漂着する死んだマレビト≒遭難,巡幸し漂着したマレビトを拝む,沙波尾,朝宗宮,士王出巡,閩台送王船)小レポ:海神信仰の共有するイメージ
【十次{52}西面&釜田】(韓国南海岸,済州島朝天里:竜王に豊漁を祈る,旧暦2月1日「一目人島」(海上他界)から老婆のヨンドン神来訪≒奄美:ウムケー・オーホリ)忘れ物レポ:韓国の海神様
【181厳島】(大聖院木造十一面観音=媽祖像?,「御たくせん(託宣)により。まづかりどのをはじめとして。まづ大ごんせんと申なり。あしびきのみやの御事也。」〔本地垂迹資料便覧〕,西方さいしよう国の第三王女あしびきの宮〔お伽草子〕,12世紀=妈祖信仰興隆期=前期倭寇興隆期=十一面観音流行期,市杵島姫命:宗像三女神・三鬼信仰への転換)本編
(3-1-2媽祖類型終)

【創造性-1-3】海神一般

※媽祖とは異質なもの
▼【19E5新巷奉天】台湾の寺廟における主祀神歴年資料統計〔三尾裕子「王爺信仰の歴史民族誌-台湾漢人の民間信仰の動態」東京大学,2004/資料表8,原典:余光弘1982,(推定)馬公的寺廟與市鎮發展。中研院《第一屆歷史與
中國社會變遷研討會論文集》,頁 451-480〕

▲ <神>/<祖先>/<鬼>対比イメージ〔三尾2004,資料編表13 先行研究に見る<神>/<祖先>/<鬼>〕
▲ 上:24)福建の三一教による霊魂救済儀礼(九蓮)下:25)韓国慶尚南道密陽の病身舞(ビョンシンチュム) 
【061北山古地】(泉州,宋:保甲制・厢坊制→明清:铺境制,铺境廟,∞沖縄:御嶽∞日:道祖神∞ローマ:テルミヌス,外部(水域の向こう)への恐怖?→境界神)メモ:泉州老城外縁に並ぶ中国御嶽・「铺境」廟
▲「テルミヌスは、しばしば境界石(boundary stone)の上の胸像として描かれる。」〔wiki〕
【154福州寺】(長崎,普度≒「蘭盆勝会」・普度勝会・普度法会・❨日❩裏盆会・❨台湾・閩南❩中元節・鬼節,施餓鬼の営みを重視,霊的ファイアウォール,文革:完全禁止,野村伸一「東方地中海」論:普度=東シナ海世界独自)補足レポ:崇福寺の普度とその源流
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),1625(天啟5)年9月顏思齊没,「皇天庇蔭」×媽祖,「將兩碗擲下 連得聖筊而碗不破者 即推之為徴収首」〔台湾外記〕,ポエ(筊杯)→「共成聖筊三十」,楊經「我們尊拜一官為首」)レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)/①顏思齊と鄭芝龍の日本から台湾への移動/[台湾外記]顏一家26人衆∶鄭芝龍破壊命令
【19E5新巷奉天】(北港(笨港),狀元虎「君王夢見鬼怪騷擾」,「笨港媽祖 蔴園寮※老虎」※新港古名(漳州人移住前),新建奉天宮碑記≒偽作?,「何でもない村」)レポ:靈乩の18C新港/狀元虎爺 君王は鬼怪騷擾の夢を見た
▲ 台湾・新港「狀元虎」どアップ
【19E5新巷奉天】(北港(笨港),「笨港太公廟」,呂尚(姜子牙・師尚父・斉太公・太公望):BC11C周軍師,1670(永暦23)年張姓信徒 漳州・詔安県→新港付近「一面墾拓一面討海」→1763(乾隆27)年太公廟創建(共同出資))レポ:靈乩の18C新港/姜太公廟∶太公望を奉じた移入漳州裔群
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),日治時期:紛争解決儀式を地蔵庵で実施≒斬雞頭∈毒誓:神・死者・生者との契約)林論文∶新荘を拓いた慈祐宮の泉州裔とその反動拠点・地蔵庵/地蔵庵はなぜそれほど栄え 現存するのか?/3.死者,カミ,あるいは生者との和解
▲ 桃園錫福宮で「斬鷄頭」を待つ3羽の公鷄〔自由時報〕
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),①-④別掲,⑤文武大衆爺∶平時・戦時の数多の「行き倒れ」祖霊←「移民渡台拓荒 多單身隻影 舉目無親 死於溝壑 無人孜葬」〔蘆洲市文武大眾爺廟〕)補論2:俊賢堂に関わる未確認情報群/文武大衆爺∶平時・戦時の数多の祖霊
▲ 蘆洲文武大眾爺廟の祭壇脇〔森玄通/蘆洲文武大眾爺廟 – 道教廟の世界〕

(1-3海神一般終(媽祖とは異質なもの))

【創造性-1-4】倫理・規範

【022紫陽】(福州,山海経,三足烏,八咫烏,日照天台山,莒,日照老母庙)資料:太陽神・帝俊について
▲漢代壁画中の三足烏
【056四堡宮】((漢数字X)堡街,日月太保神,日月太保神紀:「这些船帮的帮众就把日月太保这一秘密信仰带回了家」船帮(船乗りの結社)の秘密信仰として拡大,1295~1297年創建)小レポ:連なる漢数字プラス「堡」地名
▲Facebook上の日月太保神像
【068打錫巷】(漳州,关圣帝君,关圣帝君,帝君爷,关老爷,关公,山西夫子,汉封侯,宋封王,明封大帝,盖天古佛,协天大帝,伏魔大帝,武财神,塩密売,山西幇,信仰の普遍化)小レポ:二人の関羽 山西と漳州
【084石浔巷】(厦門,黄炎培,張謇,範旭東,陳嘉庚,儒是思想 商是行動,儒和商的結合,義和利的均衡,徽商,賈而好儒)小レポ:「儒商」概念
(倫理終)

【創造性-2】非定住性

※移住・移民,労働力移動,政治的難民
【041海上ポタラ】(ペスト,アブー・ルゴド13世紀世界システム)小レポ:福建が何だったから五福神が拝まれたのか?/初・世界システムは初・世界パンデミックで自壊した?
▲五福横並びの図(台北市北区白龍庵)
【046河滨路】(樋泉克夫,漢民族は大移動を繰り返す,仁井田陞,内面構造,媽祖信仰の担い手)小レポ:莆田文峰宮関係資料から見る媽祖信仰/「移動する民族・漢族」イメージ
【075龍眼营再訪】(家船民俗資料緊急調査(1968・1969(昭和 43・44)年度,因島市土生町箱崎(現・尾道市)・三原市幸崎町能地等),船住居(宮本常一),俵物)/(総論2)蛋民はどこにいたか?/江戸後期の家船所在地拡大と俵物交易
▲「瀬戸内海周辺における能地と二窓の枝村分布」[広島県教委「家船民俗資料緊急調査報告書」,1970]
【19C2唐の船御嶽】(琉球,港川人(放射性炭素年代測定:約1万8千年前),アイヌ・日本・琉球人と高砂・漢族のGm遺伝子配列には「高砂・漢民族とは絶壁のような違いがある」(伊藤俊幸)→二重構造のどこにも合流しなかったグループ?:日中いずれでもない基層≒ベトナム古代人(ハンチョウ洞窟ハンチョウ人)?≒アボリジニ?,島嶼効果,来沖者はパラパラと来た)レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),1563(嘉靖42)年海賊・林道乾*入台-(60年後)1621(天啟元)年「顏思齊 鄭芝龍引倭踞其地」〔諸羅縣志〕,「天啟元年 漢人顏思齊為東洋國甲螺 引倭屯於台 鄭芝龍附之」〔續修台灣府志(余志)〕:鄭芝龍はが顏部隊「倭」兵の一人?,「遭風始至此」「既而 荷蘭人舟遭颶風飄此 甫登岸 愛其地 借居於倭」〔余志〕→顏思齋ら西九州海民勢力が倭=日本系海民交易ネットワーク圏域の東北端から南西端に避難)レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)/②顏・鄭時期に台湾西部で描かれた倭又は日本人
▲ 近世初めの中国系海民(顏・鄭・倭)の移動イメージ
▲ 1907(明治40)年の沖縄県人のハワイ移民旅券〔沖縄県公文書館/土地と移民〕
【19K1首里観音への道】(那覇松川,明32(1899)〜昭13沖縄県からの移住者数72,134名α÷昭15沖縄県人口β≒「沖縄県民の約12%が移住した計算」〔総務省統計局国勢調査〕,(α+戦前台湾移住約3万人)÷β≒18%,上り口説と同メロディー:「移民口説」)レポ:首里を出で観音堂から那覇港/海の向こうで歌い継がれる替歌
▲ 「世界のウチナーンチュ36万人分布図」〔琉球新報/ウチナーンチュ分布図,2012〕
(非定住性終)

【創造性-3】陸域開拓

※移住村,業種創造,起業
【065北京路台湾路】(漳州,开漳圣王 開漳聖王,陈圣王 陳聖王,威惠圣王 威恵聖王,蛮獠啸乱,669(唐高宗总章2)年陈元光 陳元光入植)基礎資料:漳州が東シナ海沿岸各国史に落とす影[可動パーソナリティ]漳州を開いた聖王
▲「中央研究院台湾史研究所と国立清華大学などの研究グループが、約400年前に書かれた、漳州語の発音・漢字・スペイン語対照の『漳州語辞典』をフィリピンの大学で発見した。中央のあたりに『洗門風』が見える。」〔中央研究院提供、中央社〕
【083夏商市場】(厦門,赖厝埕,広場,台北・大稲埕,過去積上げた人間の生活痕,「埕」字地名流行期)補稿1:地名「埕」が遺すイメージは何か?
▲ブルネイ・カンボンアイールの水上集落風景〔Asean Records World〕▲地図に書かれたブルネイ・カンボンアイール
[上図]グーグルマップ [中図]同航空画像 [下図]他の地図

【132川内観音(破)】(平戸,国姓爺忠義伝:「国姓爺深智乞和兵」節,○1646(正保3)年鄭芝龍発南明要請)小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係/江戸日本と清の内地への航路転進
▲(上)日本の江戸時代の耕地面積増と人口増 (下)中国の人口推移〔岡本隆司「中国近代史」筑摩書房, 2013
あすなろ学習室/社会科/幕府の豊かな財源 その1〘▶現在リンク切〙 原典:国土交通省水資源局〕

【190沖縄(大密貿易時代資料集)】(琉球,
[負担]所定量の販売物(木材)蓄積
[運用財産]共有船舶
[利益]那覇市場小売値✕95%での物品購入,
「部落の共有財産に属する共同船あり、部落民の伐採薪木を一手にて共同店引き受け之を共同船にて那覇市場に販売し帰路は雑貨を搭載す。」〔田村浩「琉球共産村落之研究」〕,模合機能を兼,無料共同浴場経営,薬代払,飢饉時食糧品配当,学校入学時書籍購入費)資料集+レポ:共同売店の規約とその背景の展望
(陸域開拓終)(創造性終)

空間軸

インド洋以西

❝ヨーロッパ❞
【011津屋崎】(南蛮,フスタ船)1587(天正15)年秀吉博多に来る
❝中東❞
【041海上ポタラ】(ペスト,アブー・ルゴド13世紀世界システム)小レポ:福建が何だったから五福神が拝まれたのか?/初・世界システムは初・世界パンデミックで自壊した?
【047東大路】(莆=アラブ人名冠頭語:アブ Abu,阿蒲)メモ:「莆」字 アラブ由来説
【052順済天后宮】(1527-1602年文学博士,蒲等有阿拉伯血統的通婚,伊斯兰教 イスラム教)元の思想家・李贽の暗がり
❝インド❞
【047東大路】(僧伽藍摩)七堂伽藍で町造り

中国大陸陸域広域

【023能朴天】(福州,閩越)明代地図に見る能补天巷と祠二柱
▲武夷山~広州鎭行程(GM.):福建→信江・河口鎮→南昌→籟江→南安府(現・大余)→大庚嶺・梅関→広東省南雄州(現・南雄市)→広州〔松浦章2002〕
【077美食街】((漳州)武夷山脈南側→河口鎮→信江→南昌→籟江→南安府(現・大余)→大庚嶺・梅関→南雄州(現・南雄市)→広州,ロバート・フォーチュン(植物学者)Robert Fortune:A Journey to the Tea Countries o China,陸上苦力運送)外伝の外伝:武夷山茶の通った道
▲「上質茶葉の輸送」スケッチ〔Robert Fortune , A Journey to the Tea Countries o China 1852〕
【093華僑博物館】(厦門,康熙帝)メモ:啤酒鴨──ビール・ダック
【101晋徳宮】(台北,①悬山 ②硬山 ③庑殿
④歇山 ⑤卷棚 ⑥重檐
⑦盝顶 ⑧圆攒尖 ⑨盔顶
⑩三角攒尖 ⑪四角攒尖 ⑫八角攒尖,九脊頂)小レポ:福建晋江からの渡来神・台北晋徳宮に関する諸点/2/中国古建築 12の「基本顶」

南・東シナ海広域

南シナ海

【084石浔巷】(厦門,華僑総数四千万,うち東南アジア三千万,インドネシア一千万)(基礎資料集)華僑人口分布
▲ 華人系インドネシア人の有名人8名
【154福州寺】(長崎,インドネシア:バンドン(小梧瑞)集住,林紹良(インドネシア名:スドノ・サリム,1938年ジャワ入り→衣類行商)→タバコ・コーヒー豆商→独立戦争軍へ物資納入(スハルトと人脈),インドネシア農村の掛貸行商人=Mindering・Kolontong,スカルノ期の排華運動で標的,ジョン・リー)補足レポ:南海の向こうに棲まう福清人/福清華僑の4割はインドネシア人

台湾海峡(福建側)

(福建側)/閩北

❝福建共通❞
❝福州❞
【021前屿】(福州)基礎資料:3つの反乱,3枚の地図
▲清末(推定)「福州古城」地図
【154福州寺】(長崎,陳平順{長崎ちゃんぽん:日式什锦面考案},風呂敷南京,好条件①鎖国下:水夫層として抜荷可 ②戦前:行商∴日本資本と競合せず ③戦後:行商ネットワークが機能 ④裏社会:日本規制弱,ベトナムCholon:三山会館重修碑記,三山幇)補足レポ:南海の向こうに棲まう福清人
❝甫田❞
【032廟前】(甫田,宋末抗蒙,興化府城隍廟,陈瓒,莆阳玉湖陳氏,興安)小レポ:興化府城隍廟と民族英雄・陈瓒将軍
▲(再掲)莆田老城位置図〔BTG〕
【033広福巷】(甫田,興化府城,阮駿)資料:莆田「九頭十八巷」と馬巷
【033広福巷】(甫田,西岩広福寺,陳経邦,興安書院,西岩晚眺)資料:西岩広福寺と兴安书院红瓦出土
【033広福巷】(甫田,楓亭西隱寺)小レポ:22年間の華麗なる潜伏
【033広福巷】(甫田,三教,夏教,林兆恩,転蔵,牽塔)小レポ:莆田仏教の裏の実体?かもしれない三一教
▲三一教の転蔵(牽塔)儀礼:2001莆田市仙游県大済鎮鐘峰村仙源祠
【034后巷街】(甫田,龍徳井街)新城や龍の徳あり井戸の街
【044仪门】(清代莆田城,莆田県城,堀川跡)小レポ:「仪门」域はどこだったのか?
【045沟头】(莆田城,嘉寧路,兰渓街)「沟头」おそらく最後のレポート
【046河滨路】(甫田,十字街,二重橋,莆田文峰宮)船着き場だったならそれもあり得る
❝湄洲❞
【035十字街】(甫田,湄洲,5G)記録:2019年鳩山元首相,湄洲でツイート
【035十字街】(甫田,賢良港媽祖廟,重建天后祠記,歴朝褒封徽号)小レポ:もう一つの媽祖の島/島にはない媽祖生誕地
【041海上ポタラ】(湄洲島,朝天閣,観音堂)過剰なる海上ポタラの迷い初め(本編)
【041海上ポタラ】(湄洲島,1683(康熙22)年,姚启圣,施琅,神女祠)小レポ:媽祖祖廟の正殿と朝天閣の関係
【041海上ポタラ】(湄洲島,五帝,五福王爷,五瘟大王,疫病退散,显灵公 張元伯,1475年福建大疫)小レポ:福建が何だったから五福神が拝まれたのか?
【043妈祖】(经沧海者叹观止焉,神龟出巡,苍鹰戏鼠)小レポ:「牛头尾」への視覚・聴覚
(閩北終)

(福建側)/閩南

閩南/共通・泉州

❝閩南広域❞
▲福建省全図。黒塗りが山系を示す。
【051閩南概観 又は海人棲める場所】(地理的他者論,東南山国,閩江,九龍江,八閩,当什七無田,月港,厦門港,福州港,汀州,客家大本营,客家首府,関冊,遷海令,太平天国)本編
▲表3 1820年代福建各府省人口密度と移動〔李紅梅「清代における福建省の貨幣使用実態――土地売券類を中心として――」2007〕
▲表14 17世紀福建船数(長崎側入港管理資料)〔同李2007〕
【067香港路】(発財猪脚,デジチョッパル,屏东县万峦乡 万峦猪脚)メモ:豚足 てびち 猪脚
【077美食街】(漳州,[彰化県田頭村]九龙大榕公,[彰化県福興村]永靖古树公,[新北市山溪里代天府圣明宫]千年神猪树公,ムン,猪八戒,薄い国際的共通性)小レポ:榕树公≒ガジュマル信仰の広域性
【19F1鹿巷まで】(台中,台湾キャベツ:雪翠高麗菜,高麗菜{北京語}Gao1lii4cai4 カオリーツァイ {閩南・台湾語}kole (tshai)←{フランス(ピカール地方)方言}caboche(頭でっかち) {英語}coleslaw(cole)←{ラテン語}colis,∴閩南語にまず容れられた外来語,異説:日本人が珍重した高麗人参→同等の栄養価の野菜∴高麗菜)小レポ:高麗菜の名称由来
(閩南広域終)
❝泉州❞
【047東大路】(Zaiton,刺桐,骑楼 騎楼,闽南 閩南,恵安県,面线糊 面線糊,咸饭 咸飯)メモ:直前にかき集めた泉州データ基礎資料:泉州城域図
▲泉州城域図
【051泉州站】(泉州,ザイトゥン,顺济宫 順済宮,12~14C,蕃舶客航聚集之地,德济门遗址 徳済門遺跡)小レポ:泉州城にはなぜ顎が伸びたのか
▲八舎后尾における「民俗活動」[順済天后宮HP]
【053泉郡富美宮】(富美宫,车桥头 車橋頭,来运驿 来運駅,八舍后尾,金青龙 银聚宝,青龙街,聚宝街,后山四王府宫)小レポ:八舎后尾になぜ壁があるのか──「泉州圍」仮説
【057旧館驿】(泉州,护城河,泉州圍,唐〜宋代, 鞆・大河島砦)小レポ:(泉州城南突出部再考)唐代車橋頭海上砦
▲林廉平民居の側面の蚵壳厝〔泉州TV〕
【054南環城河】(三落五開間,Y落(進)X開間,三進,大厝,柴欄厝,手巾寮,竹嵩厝,竹筒屋,蚵壳厝)小レポ:青龙巷の林さん家
▲福建蟳埔村の蚵壳厝を構成する蛎殻のサイズ〔京都府立大〕
【056四堡宮】(肉羮,水春香醋)上海人が食ったらキレる远芳小笼包 
【056四堡宮】((漢数字X)堡街,日月太保神,日月太保神紀,1295~1297年創建,慈济铺浦 慈済舗浦,铺 舗 と 境,泉州铺境,丝绸货物,帆船穴,船帮)小レポ:連なる漢数字プラス「堡」地名
【056四堡宮】メモ:水門巷と泉州八水門
メモ:涂門街に集結する各種宗教信仰
【057旧館驿】(「9000年前(略)今的泉州才渐渐“浮出水面”」〔手机搜狐网/守护古城千年 泉州“护城河”的前世今生!〕,①护城河その他市内水路は三日月湖の連続体 ② 唐代城域南に浮かび上がった「島」,「車橋頭」砦→「泉州圍」)小レポ:(泉州城南突出部再考)唐代車橋頭海上砦
▲唐代→宋代泉州城の水域変化〔同手机搜狐网〕
【061北山古地】(泉州,三国呉代,元妙観)小レポ:北山古地は古・泉州島の北海岸
【063清浄寺】(泉州,1009(北宋大中祥符2)年創建,元代1310年再建,麒麟寺,艾蘇哈ト大寺,Masjid al-Ashab,四大モスク,蒲寿庚,提挙市舶司(提挙市舶),元寇:人類史上最大の外洋航海艦隊,重修清淨寺碑記,重立清淨寺碑記,アラブ人の香港)メモ:調べた中で最も詳しい泉州清友寺情報
【064龍宮】(始建唐末禧宗(874—888年),泉州龍宮廟,龙宫城隍庙,泉州浮上,雨乞い)小レポ:小城隍廟・龍宮廟についての僅かな記述

閩南/漳州・厦門

❝漳州❞
【065北京路台湾路】(漳州,永靖路,渔头庙-东闸口)記録:昔・永靖路,今・北京路
【065北京路台湾路】(漳州城域図,明代万歴漳州府地図,漳州薌城区と唐宋古城,同家屋構造別)基礎資料:漳州城域地図
▲漳州城域図(外城全域)〔BTG〕
【066太平天国侍王府】(漳州,龍眼营漳州最古老的街名,太平天国(1851-○1864年),漳州通元廟,王謝安,謝玄,陳元光)太平天国は夢の跡
▲街路別地図(龍眼营ブロック拡大)〔趙冲ほか「樟州旧城・薌城区(福建省)の住居類型とその分布に関する考察」2014〕
【067香港路】(漳州,龍眼营一巷,南端が鉤状,大厝)疑問点整理:龍眼营ブロックの何が不可解なのか?
▲大厝の中庭〔百度百科〕
【068打錫巷】(漳州,濠)小レポ:打錫巷の南北ラインは何だったのか?
【073新華東路】(漳州,岳口囝仔唔驚鬼 新橋囝仔唔驚水,新橋の子は水を見て驚かず,東嶽,東岳)小レポ:「岳口徳進廟」に関するエピソード2つ
【074東橋亭】(漳州,新華東路,頭浦港を囲む半弧,新橋囝仔唔驚水)メモ:斜道は牛庄を抜けて東へ続く
▲斜道の北側延伸路?らしき道「新華東路」。この半弧が,かつての頭浦港商業エリアの陸地側の境と推定される。
【076湖内】(漳州,士林・芝山,紫芝草,漳州芝山三亭,芝山紅楼)小レポ:芝山寺町に関する断片情報群
▲かつてはこの山麓に祠が多数建って,いわゆる寺町の風情だったことがわかる。〔後掲BTG『大陸西遊記』~福建省漳州市薌城区~:明~清代のものと思われる地図
▲19C厦門の伝教士が撮影した芝山と思われる写真
※ 前掲每日头条 「这是厦门的外国传教士或旅行家的摄影作品。只见在黑白的老照片上,用英文标注着“THE Gentry College at Chiang-chin,Amoy”,翻译成中文就是“厦门,漳州贵族学院(大学)”。老照片上所属的拍摄时间是十九世纪末。」

❝厦門❞
【081江夏堂】(厦門,唐朝天寶年間(天宝:742-756年),釣仔路,洪濟山麓,閩東福安・閩南漳州移民)小レポ:中山路南東裏手ブロックの位置と相貌
▲江夏堂(赤星地点)西ブロックの航空写真と街路地図(百度地図)
【081江夏堂】(厦门志 厦門志,明・万里海防图,清・鹭江志 厦门岛全图,清・厦门旧城市图,1915年厦门城区与鼓浪屿)基礎資料集:厦門古地図集
▲清《鹭江志》厦门岛全图▲图说厦门に描かれた厦門と「筼筜港」〔图说厦门:清乾隆年間(1760年代)〕
【082石坊巷】(厦門,東坪社媽祖宮,朝天宮,龙泉宫 龍泉宮,南寿宮,大担岛前国宫 大担島前国宮)小レポ:厦門で媽祖を拝むなら
▲百年前の厦門湾岸写真「1920年代堤岸修筑前的海后滩」
【083夏商市場】(厦門,中山路~開元路~夏商市場,双莲池街 双蓮池街,「赖厝埕湾」,ブルネイ・カンボンアイール,1920年林尔嘉・黄奕住等进行旧城改造,厦門市政会,小破壊による大破壊回避)レポ:厦門海水上に開元路が立ち上がるまで
【083夏商市場】(厦門,地図学:陸と海の境界は明確,何をもって陸地と捉えるのか,ブルネイ・カンボンアイール)補稿2:「赖厝埕湾」がなぜ英字地図にのみ描かれるのか?
▲1906-1940の厦門港岸壁〔騰訊網〕
【091狐尾山】(厦門)メモ:消えゆく「文灶」地名が分からない
▲厦門港遠景。航空写真と思われる。時代不詳だが船舶の黒煙から推して20C初頭か。〔後掲百度百科〕
【091狐尾山】(厦門,一殿二何,厦门志:店前,颍川陈氏聚居北宋仁宗嘉佑年间(1056—1063年),長崎福済寺,僑郷,伽羅:ちりとり,鼎脐穴:鼎のヘソの穴,物吃埕 mi jia dia:殿前中央十字路,四社,七山七池七宫七祖厝,幕青宫,媽祖と龍信仰の重複,何厝村)資料:最初に在りし厦門=殿前
▲「位于殿前西池口的陈贵贱“新厝”」殿前の西池口にある陳氏の「新厝」様式の家屋
【092殿前】(厦門,大屿盘礴,篔簹渔火,江头 江頭,厦门舆图,江頭広福寺,鄭成功,隠元禅師,备舟护送,拨船护送者,隠元江頭出港1655年)レポ:鄭成功は海上にあり──「厦門中央湾」篔簹湾考
▲1969年の衛星写真に写った「江头街」。水上集落の連結のように見える。〔Amoymap〕

李2007による閩南交易期3期区分
第一期:順治初期―1684(康煕22)年前 密貿易期
第二期:1684年(展海令)-道光初期 厦門港貿易拡大期
第三期:1843年以降 福州・厦門開港場繁盛期
051閩南概観
※李紅梅「清代福建省における経済発展と貨幣流通」第1節 経済発展の趨勢と地域差 1.人口の推移と経済的な要因の移動,松山大学論集 巻19 号1 ページ153 – 200 ,発行年2007 URL:https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1397&file_id=21&file_no=1 ※引用者が項目化

台湾海峡(台湾側)

(台湾側)/航路・陸域広域

❝福建-台湾航路❞
【035十字街】(連江県馬祖島,南竿島,媽祖遺体漂着,馬祖天后宮,漂着した女神)小レポ:もう一つの媽祖の島
【042土地公】(湄洲島,朝天路,蔡辅雄,1981年,两岸交流)小レポ:「朝圣路」の意味
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),顏思齊(振泉・36歳・漳州府海澄県→「日本」逃亡・仕立て屋(裁縫為生))の移動:1624(天啟4)年8月〔台湾外記〕,「華船多至長崎貿易」「芝龍最少 年十八」〔臺灣通史〕,鄭芝龍 鄭一官〔外記〕 Nicholas Iquan(ニコラス・一官,8/4日本→8/14台湾)〔西洋史書〕,「即安設寮寨 撫恤土番」,外記:「諸伝承集」として有意)レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)/①顏思齊と鄭芝龍の日本から台湾への移動
(福建-台湾航路終)
❝台湾陸域共通❞
【19D1安平まで】(台湾,①蔣志:(康熙)臺灣府志・②高志:臺灣府志・③宋志:重修臺灣府志・④周志:重修福建臺灣府志・⑤劉志:重修福建臺灣府志・⑥范志:重修臺灣府志・⑦余志:續修臺灣府志)ツール:臺灣府志七版
【066太平天国侍王府】(台湾各種信仰出身地別一覧,(海神)天上圣母(妈祖 媽祖),玄天上帝,水仙尊王,临水夫人,四海龙王,水部尚书,巡海大神(三宝太监郑和),普庵禅师,温府千岁,懿德夫人,海晏公)メモ:台湾郷土神簡表
【094王記府】(三尾裕子,漢人による台湾の開拓年代,台湾漢人の入植地と祖籍(1926年))ツール2 台湾全土の移民史基本地図
【101晋徳宮】(独自用語,主要勢力,私設地方自治体)用語集:台湾黒社会
【102艋舺天后宮】(台北,田都元帅,右手を挙げて左手を突き出す決めポーズ,迎神赛会,西皮派-桂竹筒-田都 vs 福禄派-壳子弦-西秦王爷,西皮倚官福禄走入山,双連文昌宮)疑問点:劇団員は劇場神の為に闘う?
【103啓天宮】(台北,料館口,料館媽祖啓天宮,番害守護神・番王爺,黄阿禄嫂,福材 ランダイスギ,紅船,相傳1841(道光21)年,阿里山林業鉄路,放木排(放竹仔):四川岷江・東北鴨緑江・河北馬家寨村,一方水土一方人,各处乡村各处例,“在移动中”的社会,メティスの知,大甲渓,大鎮瀾宮,隘勇線)小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景――――阿里山材,放木排,大甲渓
【104巌恵済宮】(王爺・天上聖母・観音菩薩……)別記資料:台湾寺廟の主神シェア
【113中山地下街】(台北,甫田・仙游県九鯉湖,招宝七郎→千里眼)伝承:九匹の鯉に乗って(九府仙師論)
【113中山地下街】(台北,古代漢語→華南漢化→中原漢語,華南漢化:越族言語→呉語(中国語クレオール)→福建語→日本語,宜蘭クレオール Yilan Creole-日本語-アタヤル語,先住民のリンガフランカ(共通言語)としての日本語)小レポ:台湾人の会話がなぜ日本語に聞こえるか?
▲宜蘭クレオール-日本語-アタヤル語間の語彙の置き換え例〔人間文化「海を渡った日本語」〕
【19E1鄭成功祖廟】(台南鄭成功祖廟:伝・1663(明永曆17)年建築,1930(昭和5)年鄭氏親族「臺南鄭氏宗親會」補修∴≠信仰の場,1771(乾隆36)年「士紳」鄭其嘏ら改修→鄭氏大宗祠・昭格堂,施琅「軟弱植民政策」を清中央はなぜ容認?,鄭氏→清統治:労働人口・田とも△4割〔台湾府志から李1997集計〕→外部流出?,元清朝側海賊・施琅は「台湾」の本質を熟知, 1786年林爽文反乱→清朝統治側「御匾」(皇帝発の篇額)を乱発,義民廟多設→逼迫した公民化運動,「嘉義」地名←「嘉其死守城池之忠義」(城を死守した忠義を嘉す),「清朝は 鄭氏政権を滅ぼした後 台湾を放棄するつもりであった」〔三尾裕子2004〕,鄭氏末裔を奉じた第二王朝は企図されず)レポ:清朝は滅んだ鄭氏を恐れなかった
▲ 「施公案」※ポスター ※施琅息子。清代中期以降に流行した小説「施公案」のヒーローで上記はそのTV版
【19F2鹿巷興安】(鹿港,古代中国語の特徴:入声(にっしょう・にゅうせい {中・言語学}陰陽 {俗語}仝(găng)),「鹿港人講話無相仝」,連続変調:一般に統語的置換 but中国語他アジア語「範列的置換」)レポ:鹿港興安宮が見てきた風景/鹿港泉州弁と宜蘭漳州弁
【19G3公有第二零售市場】(台中,(阿爌肉飯)ゆるり,でもシャキシャキ
滷肉飯6段活用表 ▲滷肉飯6段活用表〔Festa Chow note〕
【19G7忘れ得ざる師大夜市】(台北,①「混」(=靈活)流動性 ②滋味←原住民食文化? ③(東京から帰ると)味がしない ④台湾素食の濃厚味 ⑤非中華な清粥小菜(味:清淡) ⑥日本演出=日帝時代の宴会料理)台湾の負け組の町に何が残るのか?
(台湾陸域共通終)

(台湾側)/台湾北部

台湾北部/広域

❝台湾北部❞:新竹・宜蘭以北
【19G4淡水まで】(台北,基隆河:全長約90km 流域面積約490km2,独立三河期→河川襲奪期→(台北盆地の陥落→)河道大転換期)レポ:基隆河の異相の先に見る湖上民の幻/三本の河を束ねて基隆河
【19G4淡水まで】(台北,1694年4月〜5月台北大陥没→康熙台北湖(推定面積100km2超),「甲戌四月,地動不休,番人怖恐,相率徙去,俄陷為巨浸,距今不三年耳」〔郁永河:裨海記遊,1697〕,山腳断層(首都・台北を縦断),過去一万年山腳断層の活動の痕跡無,日月潭相当?,雍正台灣輿圖に描かれた康煕台北湖,一万年前の古台北湖の一時的復活?)レポ:基隆河の異相の先に見る湖上民の幻/台北が湖底にあった時代
▲ 基隆河形成過程中(上)河川襲奪期,(中)河道大転換期と(下)康煕台北湖推定図
【19G4淡水まで】(台北,「康煕台北湖」仮説の非地学的事象との整合性確認:歴史・民俗面,現・台北駅-艋舺の岬部,台北媽祖宮の環状配置,湖上の海民(蛋民 蜑民)→蛋民陸上りの地=18C台湾,廣東沿海で清軍と交戦した鄭成功軍=蜑民:平南王・尚可喜「官兵進剿蛋賊」→遷界「無令失所 番禹蚤戶」「有居陸成村者」→台湾上陸)レポ:基隆河の異相の先に見る湖上民の幻/康煕台北湖に初めて戻ってきた陸地
▲ 台北の媽祖宮の配置は,艋舺以外は,康煕台北湖岸に環状になっているように見える。〔台北天后宮,青円は引用者〕
【19G5淡水關渡】(台北,現・ケタガラン族={淡水}沙巴里(Tappar)社+{基隆}金萬里(Kimaur)・金包里(Kimpaur)社,關渡:両大社の交通線上「若河水上漲之時 由河路比較容易」〔スペイン文献〕,關渡山手:嗄嘮別社,「淡水開墾自奇裏岸始」〔淡水廳志〕)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ//17C・漢人のいない關渡の風景
(台湾北部総論終)
❝❝台湾北部(台北除)❞❞
❝❝❝新北❞❞❞
▲ 新荘歴史時期空間紋理簡圖〔痞客邦/迷走新莊日治空間〕
【19H2敦化北路4巷】(新北(新莊),乾隆嘉慶年間(1736〜1820年)最盛「千帆林立新庄港 市肆聚千家灯火」,創建年三説①「慈祐宮:在興直堡新莊街 康熙二十五年建 祀天上聖母」〔臺灣通史〕:元の小祠? ②「天后廟:(略)一在淡水新莊街;雍正九年建」〔續修台灣府志・余志〕 ③「天後宮(略)一在新莊街,乾隆十八年府志作雍正九年建」〔淡水廳志〕,松山等東部との差:a.19C末鉄道拠点としての再興(↔日:鉄道を板橋経由で再設) b.日本統治代にも重用(20C初:新荘-艋舺-松山 並立地域拠点) c.大台北衛星都市化,台湾常住戸口統計 昭和17年末:①内国籍(日本人)少 ②一時現在者多)レポ:トップランナーの西に三新荘
【19H2敦化北路4巷】(新北,大稻埕(集散):台湾茶葉+三重:香花→新庄:輸出販売,「畫舫笙歌古渡頭 (略)三重埔接二重埔 萬頃花田萬斛珠」〔台湾通史著・連雅堂〕,頭重(頭前埔≒現・新荘)→二重→三重:台北地域開拓民の足跡?)レポ:トップランナーの西に三新荘/新荘発の抱合せ特化商品=香水と柑橘
▲ 頭重→二重→三重の集落展開推測図〔台北百年歴史地図/台湾/日治二萬分之一台灣堡圖(明治版),1904〕※朱書きは引用者
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),「剪黏」装飾,薛志亮古匾「霛衛[舟弟]航」,林富士論文「中國帝制晚期以降寺廟儀式在地方社會的功能」2011,①港(現・後街仔海側)に面した交易場(媽祖宮付設)→②北へ道路延伸(現・MRT新荘駅)→③さらに東西の新荘路沿いに街区発達,❴東❵頭前-竹仔市(ラグーン入口の船着場兼市場?)-地蔵庵∶新荘頭前の骨格,東西に長屋状地籍群)レポ:新荘慈祐宮とその太極図
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),新荘慈祐宮∞泉州・厦門裔∋新来商人ギルド「新莊五十六城」→1790(乾隆55)年頃:(慈祐宮-武聖廟)❴中❵西半分の商業建築を形成↔地蔵庵∞旧来・農民層,1764(乾隆29)年建造「慈佑宮聖母香燈碑記」:「淡水撫民同知胡邦翰給示」徴税権と会計・財源配分機関を持つ実質的自治体,寄進土地を神田経営(1778(乾隆43)年寄進))林論文∶新荘を拓いた慈祐宮の泉州裔とその反動拠点・地蔵庵
▲ 新荘主要宮廟位置図(全)〔原典 Paul Katz2003
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),1890-1900年代伝染病爆発→神明会が暗訪儀礼:巧みな「儀式工作」(儀式の企画・運営)by「分工」俊賢堂・辜顯榮支持)林論文∶新荘を拓いた慈祐宮の泉州裔とその反動拠点・地蔵庵/地蔵庵はなぜそれほど栄え 現存するのか?
▲ (上)「新莊大拜拜」文武大眾爺祭典の光景〔後掲新莊地藏庵(公式)〕 (下)同祭での巡回経路〔RIEのアジアンライフ〕
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),俊賢堂:1912(大正元)年杜逢時ら発起←新庄街・中港厝庄・頭前庄の親分衆(角頭的頭人)協議)林論文∶新荘を拓いた慈祐宮の泉州裔とその反動拠点・地蔵庵/地蔵庵はなぜそれほど栄え 現存するのか?/対外行動専門集団・俊賢堂
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),中港俊賢堂(宮):道光年間(道光(1821-1850年)中港区所に祀った田頭田尾土地公→1992(民国81)年正式名・新莊中港厝俊賮宮,河跡〔日治二萬分之一台灣堡圖(1904年)〕)補論:ボーリング調査2件/地点2=中港俊賢堂(新莊区中港里1鄰中港路483巷8号)
▲ 地蔵庵〜中港俊賢堂付近広域∶日治二萬分之一台灣堡圖(1904年),透明度50%〔後掲台湾百年歴史地図〕
【19H3新荘慈祐】(新北(新莊),①1910(明治43)年五月一日之大祭節で巡行<俊賢堂設立〔原典∶臺北庁庄寺廟宇関スル調査〕,②俊賢堂発起人「杜逢時」:1865-1913・台湾三筆の一,③地蔵庵文武大眾老爺聖誕祭発起主要メンバー〔林富士〕,④俊賢堂下部組織・「十二結」と「撿緣錢」財源→各組俊賢堂,⑤文武大衆爺(別掲))補論2:俊賢堂に関わる未確認情報群
【19H4蘆洲】(新北,蘆洲≒鷺洲≒南港仔,文武大眾爺廟〜受玄宮に旧集落?,位置的には最良港,蘆洲李宅,中州縦断水域,蘆洲を囲む縦長・長径2kmの楕円)レポ:蘆洲南港仔の地図をひたすら眺める
(新北終)(台湾北部(台北除)終)

台湾北部/台北

台北/台北城以西

❝❝台北❞❞
▲ 2004年と1905年の台北街区密度の比較イメージ〔台北百年歴史地図/台湾/二萬五千分之一經建版地形圖(2004)及び日治十萬分一臺灣圖(1905)〕
【19H2敦化北路4巷】(新北(新莊),現・北北基(台北都市圏=台北市+新北市+基隆市)人口約7百万人←1897年:大稲埕+艋舺5万≒台南,台湾全体)1943年∶658.6万人←1896年∶258.8万人∴半世紀で2.5倍,米生産量百倍増)レポ:トップランナーの西に三新荘/広域台北は如何に巨大化したのか?
▲ 日本統治時代における台湾の変化〔李宜晉1995〕
【19H2敦化北路4巷】(新北(新莊)・新荘神社,新荘地蔵庵内に遺構移設,{日帝代}台北メガロポリス化→基隆・高雄・嘉義・台中・彰化も追従→{戦後}外省人百万流入:都市人口率上昇,新北市三重区:(台北橋の下)全省最大の人力市場→現在:国際移工(外国籍労働者),台北五段階発展〔李宜晉1995〕,
台湾∶北部=100∶42.5
北部∶台北都会区=∶66.4
台北都会区∶台北市=∶46.9
台北市∶中心七区=∶59.4
)レポ:トップランナーの西に三新荘/新荘神社の遺物群をリサイクル
▲ 台北への一極集中の階層構造〔李宜晉1995〕台北都市圏が突出する一極集中型台湾はここ百年間に急激に造形された。
(台北総論終)
❝❝台北(台北城以西)❞❞
【094王記府】(台北,1884年築城完成,1904年日本全城壁撤去,艋舺→台北城→西門,[山/坎][脚-去+谷]断層)恥ずかしレポ:台北城はどこにあったか?そして艋舺は?
【094王記府】(台北,臺北市北投區戶政事務所日據時期住所番地與現行行政區域對照表台北歴史地図)ツール:日本時代の地名と現・地名の対照表
【101晋徳宮】(台北,助顺将军 助順将軍,黄道周,乾隆时谥忠端,九怪)小レポ:福建晋江からの渡来神・台北晋徳宮に関する諸点
【102艋舺天后宮】(台北,清康熙代(1662~1722年)居住開始,大溪口街時代,番薯市,龍山寺創建1738年,八甲庄,1877年马偕(ジョージ・L・マッケイ)伝教,歓慈市街,直興市場)小レポ:貴陽街 台北最古の道はどこへ通じていたか
【102艋舺天后宮】(独木舟,巴赛语:Bangka,龍舟,アウトリガー OUTRIGGER CANOE,百越,邊架艇,凱達格蘭族 ketagalan ケタガラン族,蟒甲 MANGKA→艋舺,平埔族の外航船集落・プレ艋舺)小レポ:貴陽街/大溪口街以前:艋舺の名称の由来から
【105何度でも師大夜市】(台北,淡水河三大支流・新店渓,亀川発電所,山区原住民交换货品,現・翡翠ダム→(木材流送(放木排))新店北后宮→(川船)古亭付近(陰公主家)→(福建船)料館口等)補考レポ:新店渓に木排は流れたか?
【111朝天宮】(台北,万華5エリア:(北部)西門町 (中部)艋舺・下崁 (南部)加蚋仔・南機場,雷里社 蘭:Rivrijcd,1740(乾隆5)年加蜡庄設置,六庄头,中核エリア:堀仔头=現・東園街)レポ:高槻ではない加蚋仔を知らなかった件
【114文昌帝君】(台北,双連文昌宮,魁星爺,田都)公務員試験専用神
【19G6西門天后】(台北,新興宮:1746(乾隆11)年創建「舊屬渡頭」〔淡水廳志〕,①1792(乾隆57)年作・堂鐘(江蘇無錫鑄造)「佛日增輝」 ②1820 (清・嘉慶庚辰)年作・八仙香爐現存←1943年日帝寺撤去?,古・艋舺街(=直街仔・直興街(直兴街=(さらに古)番薯市街)):現・貴陽街西園路〜西昌街,「ボサ揚げ」宮「因此再度將神像請上岸 一行人才順利離開」〔宮HP〕,①旧新興宮跡 ②晉德宮 ③青山宮へ媽祖巡行)レポ:闇に闇重ねて台北天后宮
【19G6西門天后】(台北,黃啟瑞・再建地差配:西寧南路の「法華寺」跡地→「因該廟是坐西朝東」(1948年)「民國37年農曆6月1日入廟 從龍山寺後殿一路盛大遊行至成都路進廟」「至1952年8月間,該廟的主持人林味始為配合天上聖母尊稱於是將廟名『新興宮』改稱為『臺灣省天后宮』」〔萬華區誌〕,1948(民国37)年末陳情多数→行政訴訟:黃勝訴,弘法寺:日本僧管理→台湾仏教徒・陳宗坦(俗名・陳火炎) {管理団体}護国十全会→十善会(改名),退去命令(1948.6.21)>大遊行,中国仏教会陳情)レポ:闇に闇重ねて台北天后宮/新興宮は何を狙って移動したのか?
【19G8どうしても西門の夜】(台北,西門の道のほとんどが20C初には存在しない,城内南川の注いでいた西門,台北三大灌漑水路(瑠公圳・霧裡薛圳・大坪林圳),艋舺江瀕街,日本統治下:西門外街,三日月湖ライン)レポ:生きた化石としての成都街27巷
【19H3新荘慈祐】(新北,辜顕栄(1866(同治5)年-1937(昭和12)年):塩・阿片専売特許獲得(大稲埕を拠点に淡水河系交易路独占)・台湾公益会主宰・貴族院台湾勅選議員∈台湾五大家族→地蔵庵を「普通」=現世のパワーに転換)林論文∶新荘を拓いた慈祐宮の泉州裔とその反動拠点・地蔵庵/地蔵庵はなぜそれほど栄え 現存するのか?/日帝御用紳士・辜顕栄が奔る
【19H3新荘慈祐】(新北・大稲埕,辜家塩館:辜顕栄(新荘地蔵庵興隆フィクサー?),船舶の直接接岸可,想定:私有港湾「港」〔1928年大日本職業別明細図〕→1928〜1945年に私有港撤去)補論:ボーリング調査2件/地点1=辜家塩館(大同区歸綏街303巷9号)
▲ 広域・1928年大日本職業別明細図第156号台北市〔台湾歴史地図〕
(台北(台北城以西)終)
❝台北城より南❞
【19G7忘れ得ざる師大夜市】(台北,師大夜市異国街vs台大周辺「異国料理」エリア)メモ:未知なる台北異国美食街

台北/台北城より東

❝❝台北(台北城より東)❞❞
【112中崙】(台北,1960年中崙市場創設,坤鳳宮,八徳路斜線ライン,诏安客家人)地図遊び:中崙は尾根道の途中にあったか?
▲ 信義古道廟宇整理:糶米古道中に14の媽祖宮が所在〔部落格/南港山系信義古道追源〕
【19H1信義福徳】(台北,仮称・三張犁:康熙台北湖東南岸・(古)基隆河デルタ南端,古・山道ネット「糶米古道」←{日帝代}德興煤礦進入路)レポ:三百年前の台北平野東端はどこだったか?/【水面観察】康煕台北湖上の福徳天后の位置
▲ 淡蘭古道群
【19H1信義福徳】(台北,臺北舊地籍圖(1930):「一二〇三ノ一」,臺北附近地形圖(1895):内湖媽祖・松山慈裕宮・信義福徳宮→古湖岸ライン)レポ:三百年前の台北平野東端はどこだったか?/【ダイブ】20C初までの三張犁が在った時空
▲ 1895年・三張犁広域〔後掲臺北市百年歷史地圖/臺北附近地形圖(1895)〕
【19H1信義福徳】(台北,農作物:糶米古道→三張犁→基隆河デルタ→康煕台北湖)レポ:三百年前の台北平野東端はどこだったか?/【海底】最初期の古・台北=基隆河デルタ
▲ 雍正台灣輿圖/三張犁付近拡大(1723~1734年)
【19H1信義福徳】(台北,宮子域:内湖路一段411巷・二段〜環山路一段・二段,「神あれど廟なし」,日帝代:寺廟整理→神体を家内に隠匿→戦後:「十五個國軍」眷村,南港:古名「南港仔」)レポ:三百年前の台北平野東端はどこだったか?//(付記)内湖媽祖にはなぜ廟がないのか?
(台北(台北城より東)終)

台北/台北城より北

❝❝台北(台北城より北)❞❞
【19G5淡水關渡】(台北,スペイン文書:Casidor→干豆:1箇所(臺灣府志・蔣史・1689)→乾豆:高志(1696年)3箇所→關渡:史料初出は續修台灣府志(余史・1763年完成:19箇所中18が「關渡門」),關渡庄:1758(乾隆23)年民間契約,關渡宮:1763(乾隆28)年民間契約〕)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ/關渡KANTOUの初出と古名
【19G5淡水關渡】(台北,1661年福建臨濟宗派和尚石興創建説〔宮由緒〕→1712(康熙51)年通訳賴科鳩眾創建〔諸羅縣志〕→1715(康煕54)年改修・知縣周鍾瑄「靈山」命名)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ/鄭成功没年に創始された關渡宮
▲ (右手)淡水〜(左手)台北の古絵図(江頭の呼称から日帝時代作成と推定)
【19G5淡水關渡】(台北,關渡山:獅象捍門(獅子と象とが守る水門),「天後宮(略)一在關渡門 原建山頂 康熙五十八年移建山麓」〔淡水廳志(陳本)〕:元は山頂にあった媽祖宮を1719年に山麓に移転)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ/諸羅縣志巻十二 古跡∶「靈山廟」時代
▲ 關渡宮対岸からの宮北側の尾根も含めた景観〔GM.〕
【19G5淡水關渡】(台北,「落成之日 諸番並集」〔宮HP〕:漢番合建=信者の多民族性←1699(康煕38)年「吞霄」原住民役人(土官)卓個・卓霧・亞生反乱(吞霄・淡水之役:7ヶ月・官軍数百人疫病死),關渡宮龍柱の「弟子」表記,創建者名「通事賴科鳩眾建」,「眾」→「番眾」(原住民集団),「茅葺」原住民住居,「諸番並集」=原住民共同作業で建築)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ/諸番並集人皆稱異 原住民が勢揃いして皆驚く
【19G5淡水關渡】(台北,龍湖岩:「寺院為岩」「偽官陳永華※建」「邑治名勝」〔諸羅縣志〕,※「鄭氏執政」・洪門(天地会)創始者・1680年排斥・直後死去→=關渡宮原型?→媽祖宮)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ/此與龍湖岩皆近時所建∶龍湖岩とプレ關渡宮は同時期建
【19G5淡水關渡】(台北,「有趨利賴科者(略)東番知其唐人 爭款之」〔裨海記遊〕,「1640年代 何斌※父親何金定(略)有帆船到淡水採硫」〔{蘭}台湾日記〕※=何廷斌 ピンクワ,「都有派船到淡水裝載大量粗製硫磺 荷蘭公司並派船保護」〔ゼーランディア城日誌〕:淡水積出硫黄を中国商人が蘭に売却,関渡宮:硫黄採取労働者の安全祈願?)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ//通訳を名乗る冒険商人 賴科さん
【19G5淡水關渡】(台北,麻少翁「地險固 數以睚眥殺漢人 因而蠢動」〔諸羅縣志〕,1713(康熙52)年通事賴科ら正規の開墾許可〔臺北縣志〕,1712〜15年關渡宮の漢人化∞干豆「門」→關渡「荘」)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ//麻少翁と內北投はもう最難治
▲ 關渡宮駐車場から東。伝・1897(明治30)年以前の宮位置 (右)財神洞 (左)古佛洞
【19G5淡水關渡】(台北,鄭盡心:①1711(康煕50)年三月丙申条(No.83)「緝獲海賊餘國梁 系鄭盡心之黨(略)令其指拏逸賊八十三等」,②1719(康煕58)年(=關渡宮山麓移転年)五月己酉条(No.179)「拏獲旅順營脫逃海賊孫森等、系海賊鄭盡心之黨(略)擬斬 立決 從之」〔清實錄康熙朝實錄〕,周鍾瑄失脚→鄭盡心残党:淡水媽祖信仰の矯正=關渡宮の漢化,∴關渡宮は三度創建①17C明鄭(原住民主体・山上)→②1715(康熙54)年(原住民+周鍾瑄・山麓)→③1719(康熙58)年(鄭盡心残党・川辺),→(日軍焼討)④1897(明治30)年(地租+海商・林大春ほか寄付))賊犯仍不改惡∶鄭盡心の時代
(台北(台北城より北)終)

(台湾側)/台湾中部

台湾中部/総論

❝台湾中部❞:苗栗・台中・彰化・南投・雲林,但笨港除
【19F1鹿巷まで】(鹿港,最盛期の商家6〜7百・うち1/3泉州裔〔兩岸犇報〕,交易調整場・鹿港藝文館:漳州裔築,廈郊(≒漳州人商工会)が泉州系の蘇府王爺を祀る)レポ:鹿港史の表は短く裏は永い/鹿港八郊=泉2∶漳1∶広1
【19F1鹿巷まで】(鹿港,16C半〜18C初 大肚王国:台湾原住民の部族連合王国,22個村落中18はQuataong(王)統治下〔ゼーランディア城日記〕∴鄭氏・清統治と並立?)レポ:鹿港史の表は短く裏は永い/TACKAMAHA二百年王国
▲ 台湾等がオランダとスペインによって統治されていた時代の台湾島の略地図(1624-1662)
【19F3鹿巷勅建及彰化南瑶】(鹿港,彰化媽祖的信仰圈〔林美容1990b〕:「其範圍約在大甲溪以南 濁水溪以北的中部地區」「大部分都是漳州人與潮州籍」「只有少數的村庄」,開拓地型媽祖信仰,「內裡卻有深刻的社會基礎(略)揭示著台灣民間社會自主性發展之澎湃的活動力與組織力。」)レポ:大日本帝国と彰化南瑶宫/【付録2】林美容論文∶彰化媽祖的信仰圈
▲「各個區域性宗教組織之族群特色」マップ化 ※クリック:林美容1990b論文
【19F4彰化から豊原】(豊原,1723(雍正元)年張達京掘削・下埤→+上埤(1733-1734) +下渓洲圳(1823-1867)=葫蘆墩圳→台中まで接続)レポ:慈済宮と豊原の朧なる点景群/葫蘆墩圳∶フルトン・ダムの掘削▲「葫蘆墩圳開闢歷程分析圖」〔李豐旗2008〕
凡例 赤∶下埤(ほぼ現・豊原部) 青∶上埤 緑∶下渓洲圳
資料來源:陳炎正(2000) 頁90,100

(台湾中部総論終)

台湾中部/鹿港

❝❝鹿港❞❞
【19F1鹿巷まで】(台中,鹿港:鹿仔港←馬芝遴社←パゼッヘ族Rokau-an,「鹿仔港」史料初出:台灣府志(高志)・台灣水師左營分防「實在官六員 步戰守兵九百名 馬二十匹 戰船一十八隻」,鹿港民間成語「頂到通霄 南到瑯嶠」∵正規港(官方口岸)←1784年(乾隆49年)正式開港,1785(乾隆50)-1845(道光25)年全盛)レポ:鹿港史の表は短く裏は永い
【19F1鹿巷まで】(鹿港,歴史学者・張其昀(1901-1985年),①澎湖・②安平・③台南・④鹿港(1683(康熙22:台湾設府)※-1842(道光22:南京条約→五口通商停止))・⑤淡水・⑥台北・⑦台中・⑧基隆・⑨高雄期,鹿港期159年/台湾史750年,※=正式航路就航※※:1784(乾隆49)年-1C,※※=福建将軍永德の台湾米商人規制を中央容認,「公共事業皆由八郊處理」〔鹿港舊志〕≒八郊自治体)レポ:鹿港史の表は短く裏は永い/台湾史9区分説と「鹿港期」160年
【19F2鹿巷興安】(鹿港,歴史的媽祖宮「人群廟」 ①勅建天后宮(1791(乾隆55)年創建)∶泉州人 ②鹿港天后宮(1736(乾隆初)年同・1591(萬曆19)年原型)∶泉州人 ③鹿港興安宮(1684(康熙23)年同・最早期)∶甫田人 ※彰化縣志記載有(但③のみ創建年記述無),興:興化府?)レポ:鹿港興安宮が見てきた風景
【19F2鹿巷興安】(鹿港,「鹿港多泉籍 彰化多漳籍」,隘門,1862年戴潮春の乱:最後の台湾三大内乱(朱一貴・林爽文))レポ:鹿港興安宮が見てきた風景/彰化地域最大だった鹿港械門
▲ 鹿港渓の河岸ライン推定図
紫線∶最盛期(1785〜1845年)
水色線∶それ以前(16〜17C前半)

【19F2鹿巷興安】(鹿港,宮経営者が自らの社への進入路の所有権を自ら有す,1886(光緒12)年「清光緒興安宮街區古地圖」:広大なパティオ,1887(光緒13)年「奉憲勒碑」(前殿壁面碑文):興安宮の祭祀・運営の外部業者(公業之屋舍者)貸与実施を碑文で告示・応分の納税)レポ:鹿港興安宮が見てきた風景/興安宮地籍図から見える光景
▲ 清光緒興安宮街區古地圖(写)
【19F3鹿巷勅建及彰化南瑶】(鹿港,1738(乾隆3)年創建〔彰化南瑤宮志〕→1916年改修「正殿的型式以西方的建築語彙及日式的風格為主」→虎仔爺会→現信徒団体構成員4万超,新港奉天宮への彰化南瑤宮進香団)レポ:大日本帝国と彰化南瑶宫/異相なる彰化南瑶宮
【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,新祖宮:1787(乾隆52)年創建←同年林爽文の乱鎮圧時の軍属武神∴「勅建」「全臺唯一官設媽祖廟」,軟身媽:藤編みの胴体+木製の頭・手・首,地籍:(推定)創建当時から一筆の方形)各論一 新祖宮
▲ 國家文化資產網地籍図(新祖宮)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶南北の道ライン
   赤線∶東西の道ライン
   青矢印∶宮敷地に続く台形の脚ライン

【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,別名:鰲亭宮←1839(道光19)年泉州永寧(別名:鰲城)からの移民創建,交相帶式,「鹿港不見天街」唯一の港口大廟)各論二 鹿港城隍廟
▲下部に日本語の記述がある鹿港不見天
【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,亭仔腳(騎楼)の発展形「暑行不汗身 雨行不濡履」〔詩人・洪棄生(1867-1929)〕,「看不見女人」,1933(昭和8)年台中州知事・竹下豐次撤去→昭和9年(幅)約4m道を15m道に拡張,地籍:城隍廟<不見天)各論二 鹿港城隍廟/不見天∶「空が見えない」街の暮し方
▲ 國家文化資產網地籍図(城隍廟)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶(推定)旧道ライン
   赤線∶(符合用)道ライン
  青矢印∶宮敷地南東縁ライン

【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,人群廟∈①閤港廟 ②角頭廟 ③人群廟 ④宗族廟 ⑤其他(官立),1783(乾隆48)年創建後「廈商」(厦門商人)基地:港墘,漳州人・人群廟→泉州人・角頭廟(高雄移転の漳州人から献金),鹿港公会堂→鹿港芸文館)各論三 鹿港南靖宮
▲ 國家文化資產網地籍図(南靖宮)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶推定旧道ライン
   赤線∶(符合用)道ライン
   青矢印∶宮敷地と類似隣接地の四方の縁ライン

【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,潮州客家人創建?→1799(嘉慶4)年「三仙國王弟子王合成叩謝※」※=頭を叩きつけるように感謝・謝意≒全面降伏,廟そのものが不見天に吸収)各論四 鹿港三山國王廟
【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,國定古蹟,古地名「船仔頭」→1683(康熙22)年施琅神像安置→1709(康熙48)年士紳・施世榜竣工→1725(雍正3)年現位置へ移転,元宮:三条巷付近起点?)各論五 鹿港天后宮
▲ 國家文化資產網地籍図(天后宮)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶推定旧道ライン
   黄線∶(符合用)現道ライン
   青矢印∶宮敷地の横倒し台形の脚イメージ

【19F3鹿巷総合(勅建天后周辺域)】(鹿港,5地籍図を接合配置→不見天の推定位置図,不見天化阻害要因①前代(三条巷)港湾付近の既形成街区 ②清側強権による(新)勅建天后宮設置,鹿港街鎮發展圖,逆「凹」字の配列,不見天構造物は何のため?,1897(明治30)年?鼠疫の爆発,不見天の精神分析「泉州裔たちも怖かった」?)総論零 不見天の広がりと三媽祖廟の位置
▲ 北東(北北東)⇔南西(南南西)向き筆のエリアを網掛▲ 「鹿港街鎮發展圖」鹿港の街区の発展図〔後掲痞客邦/百年鹿港滄桑〕
凡例 緑点∶早期(17C?)
   黄点∶中期(18C?)
   赤点∶全盛期(19C?)
   水色線∶早期の河岸ライン

(鹿港終)

台湾中部/台中ほか(鹿港以外)

❝豊原❞
【19F4彰化から豊原】(豊原,廟東市場←廟東大樓←{日}精油工場(煉油廠),ビビアン・スー:1975年豊原市豊原区生(父:客家人 母:タイヤル族),豊原区(1920年内地風地名に)←旧名:葫蘆墩(ころとん)←1733年潮州客家人・張達京+岸裡社平埔族土官・潘墩仔が開墾許可獲得←{原住民}泰耶爾墩 Holotun(パゼッヘ語 巴宰語):松柏の林)レポ:慈済宮と豊原の朧なる点景群
【19F4彰化から豊原】(豊原,「葫蘆墩街」天后〔彰化縣志1788-1826〕,駐屯兵〔彰化縣志〕:彰化605-豊原40,丘(土墩)=墩頭+墩身+墩腳)レポ:慈済宮と豊原の朧なる点景群/史料上の慈済宮と葫蘆墩
▲ 豊原3土墩(=墩頭+墩身+墩腳)巡りの行程
【19F5豊原慈濟】(豊原,豐原慈濟宮創始①雍正年間(1723〜) ②1777(乾隆42)年,乾隆(1736-1795)〔岸裡社古文書※〕「觀音亭」,※パゼッヘ族(巴則海族)「岸裡社」部落頭目・潘家保管古文書→台北帝国大学理農学部学生・張耀焜が学士論文のため収集整理)レポ:岸裡社文書が語る「慈濟宮前身」観音亭
【19F5豊原慈濟】(豊原,「觀音亭」は元々「座北朝南」,「庙埕为地方唱戏或杂耍表演主要场地」(寺前で地方伝統歌劇・雑技開催)〔岸裡社古文書〕,南側にパティオを持つ原住民祠→1847年頃械門発生「無明顯進展」〔豐原慈濟宮〕・・1853(咸丰3)僧人による火事→1864(同治3)年林珠・廟再建(水路・市街方向)∴回れ右)レポ:岸裡社文書が語る「慈濟宮前身」観音亭/豊原媽祖は回れ右したか?
▲ 臺中市政府・臺中市政府文化局「岸裡大社巴宰語繪本」の一頁
(豊原終)
❝台中❞
【19F6台中萬春】(豊原,(伝)朱一貴の乱時に藍廷珍持参の湄洲媽祖:大天后宮→1723(雍正元)年乱を避け大墩庄店(現・台中市三民路一帯)移転「藍興宮」→萬春宮(現・成功路-平等街交差点?)→「1896年(明治29年)日本本願寺佔領萬春宮 改為中尊寺」→1911年宮排除・媽祖民家に避難→伝・1917年「五媽會」:台湾中部七媽祖集合≒対日媽祖信仰統一戦線?→1937年{日}媽祖迎神遶境活動禁止→2017年媽祖再集合:鹿港天后宮欠席)レポ:「看不見的萬春宮」萬春宮の消えた30余年
▲ 1917年に台中に集合し萬春宮媽祖を囲んだ台湾中部の七媽祖「民国六年(1917)的五媽會」
【19F6台中萬春】(豊原,乾隆代:張鎮莊(≒現・南屯?中心地:犂頭店)として史料初出〔後掲臺海使槎錄〕→1786(乾隆51)年林文爽の乱で南屯付近荒廃→中心地:大墩(現・台中中心部)へ移行→1889(光緒15)年台中省城建設開始「八角形ナル土塁」〔台湾形勢概要〕)レポ:20C初頭のバビロン 台中
▲ 省城の建築物と東大墩の位置〔後掲陳・池田 原典∶頼志彰「1945年以前台中地域空間形成之転化」p20に陳・池田が加筆〕図中、萬春宮付近〔後掲陳・池田〕※指差し:萬春宮比定地は三角地
【19F6台中萬春】(豊原,1908(明治41)年台湾縦貫鉄道(基隆-高雄間)開通:中部中枢都市として台中駅開業∴大墩街・萬春宮の存在が障害に)レポ:20C初頭のバビロン 台中/大東亜共栄圏台湾国土計画の要としての台中新市建設
▲ 1911年頃の市内整備状況〔前掲陳・池田〕
【19G1南屯萬和】(台中南屯,南屯萬和宮敷地面積≒北港朝天宮?,1726(雍正4)年創建←犁頭店居住民12氏族共同出資(筆頭:浙江定海總兵・張國),萬和・地名←「萬眾一心 和睦相處」,犁頭店街・地名←(史料初出)重修福建台灣府志1740,犁頭店開拓は整然としたムーブメントか?)レポ:台湾史のブラックホール 犂頭店
【19G1南屯萬和】(台中南屯,彰化県志(1829(道光9)年頃)「天后聖母廟」項列挙23媽祖廟の一:付帯情報無,巡檢署設置:犁頭店(1722年設置→1788年重建)・鹿港(1718年設置→1809年大甲署に移転)のみ〔彰化縣志巻二規制志「官署」項〕:県内随一の治安の悪さ?,県内計16社学中3が犁頭店文昌祠(現・文昌公廟):騰起社・騰起社・文林社〔同巻四「社学」項〕:開拓センターとして高機能システムを自生)レポ:台湾史のブラックホール 犂頭店/天后聖母の一つは犁頭店街に在り
▲「1945(昭和20)年の南屯区青年(義務的)奉仕活動の写真。写真最右部「信用……組合」は現・南屯農会,最左部は三角街の中心の土地公仔店。〔開放博物館〕
【19G1南屯萬和】(台中南屯,アリクイ=鯪鯉=穿山甲:原始生物相の多彩さ,躦鯪鯉:1980年頃拡大,犂頭店は群を抜いて見捨てられ無視されている?)レポ:台湾史のブラックホール 犂頭店/動物虐待?犁頭店穿木屐躦鯪鯉
【19G2五権自立街辺り】(台中南屯,(阿彰飯担地点)1943年:林森路(周囲市街と不整合)←1913年:現・柳川ライン以北に市街無←1895年:荒野,最古の日本人町?「朝陽街」,(第五市場〜第二市場)1943年:閑静な洋館通り←1913年:第二のみ複雑な既存ブロック←1895年:第二も荒野)レポ:1895-1913-1943 三期比較で見る台中
▲ 台中駅。記載内容※から台湾縦貫鉄道開設直後の1910年代と推測
※「轟轟たる車輪の音,汽笛の響き絶へず,乗降客を以て常に雑踏を極む,基隆を発し已に百二十里。」

(台中終)(台湾中部終)

(台湾側)/笨港

❝北港・新港(笨港)❞
]▲ 漢人による台湾の開拓年代 (黒塗)オランダによる入植以前の開拓地
*下図:澎湖・台南・嘉義地域拡大 (赤丸)同三箇所の位置〔三尾1993〕

【19E2嘉義から西行】(嘉義-北港:笨港,1750(乾隆15)年笨港溪(現・北港溪)大氾濫→笨港南北に分離(北街=笨北港・南街=笨北港)→1782(乾隆47)年漳泉械鬥で泉州人:笨北港-漳州人:笨南港に棲分け,再氾濫で笨南港滅亡→漳州人新港へ移住)レポ:北港朝天宮創建のヴァーチャルとリアル/5KM東に新造された「新・笨港」新港
▲ (上)漳泉械鬥較嚴重的地區略圖[維基/漳泉械門](漳泉裔間の民間私闘が激しかった地域の略図)及び(下)笨港→南港→新港
【19E2嘉義から西行】(嘉義-北港:笨港,朝天閣:湄洲島分祀,1700(康熙39)年「天妃廟」創建〔諸羅縣志・重修臺灣府志とも〕,重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記:創建1930-31(雍正8)年,康熙帝:在位中笨港天妃宮を容認せず:「海賊乃疥癬之疾 台灣僅彈丸之地 得之無所加 不得無所損」〔大清聖祖仁皇帝實錄〕)レポ:北港朝天宮創建のヴァーチャルとリアル/1694(康熙33)年北港朝天宮創建伝承
【19E2嘉義から西行】(嘉義-北港:笨港,1775(乾隆40)年三川殿・拜亭・聖母殿・觀音殿・東側六室を拡張設置〔碑記〕≒それ以前は現・媽祖正殿部分のみ∴実質創建年,1862(咸豐11)年同拡張〔雲林採訪冊〕≒実証的創建年,ロータリー構造:日帝大正期(1917(大正6)年),大拡張よりも1812(嘉慶17)年朝天宮改名の方が先行?→媽祖信仰の旧中心・大天后宮とまずヴァーチャルに序列逆転し後に実体を構築)レポ:北港朝天宮創建のヴァーチャルとリアル/重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記と朝天宮「大拡張」
▲ 大正6年∶朝天宮付近のロータリー建設計画図〔伊藤裕久・吉野菜月2014〕
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),笨港漢人移民の初発:明・天啟年間(1621〜1627年)漳州人・顏思齊,根拠史料:江日昇「台湾外記」(清・章回小説)←江日昇の父・江美鰲(元名・林兆麟:南明将軍→鄭彩麾下→鄭成功麾下))レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)〔史料解説〕
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),顏思齊(振泉・36歳・漳州府海澄県→「日本」逃亡・仕立て屋(裁縫為生))の移動:1624(天啟4)年8月〔台湾外記〕,「華船多至長崎貿易」「芝龍最少 年十八」〔臺灣通史〕,鄭芝龍 鄭一官〔外記〕 Nicholas Iquan(ニコラス・一官,8/4日本→8/14台湾)〔西洋史書〕,「即安設寮寨 撫恤土番」,外記:「諸伝承集」として有意)レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)/①顏思齊と鄭芝龍の日本から台湾への移動
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),1563(嘉靖42)年海賊・林道乾*入台-(60年後)1621(天啟元)年「顏思齊 鄭芝龍引倭踞其地」〔諸羅縣志〕,「天啟元年 漢人顏思齊為東洋國甲螺 引倭屯於台 鄭芝龍附之」〔續修台灣府志(余志)〕:鄭芝龍はが顏部隊「倭」兵の一人?,「遭風始至此」「既而 荷蘭人舟遭颶風飄此 甫登岸 愛其地 借居於倭」〔余志〕→顏思齋ら西九州海民勢力が倭=日本系海民交易ネットワーク圏域の東北端から南西端に避難)レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)/②顏・鄭時期に台湾西部で描かれた倭又は日本人
【19E3北巷朝天】(北港(笨港),「顏思齊因往豬朥穛山 一作豬羅山 即諸羅縣 打圍回來 歡飲過度 隨感風寒 自知不起」〔台湾外記〕,「諸羅縣故統名台灣(略)天啟元年 顏思齊 鄭芝龍引倭踞其地」〔諸羅縣志〕,「入北港,築寨以居,鎮撫土番」〔台湾通史〕∴顏思齊笨港上陸説:18C以降の笨港興隆後の感覚的な地名推定,1641年笨港「已能停泊數百艘舢板船」住居550 倉庫1900〔熱蘭遮城日記1642〕∴顏思齊上陸20年後時点で相当規模の港湾集落有,考古学成果薄弱)レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)/③移動地が諸羅県(現・嘉義)だったこと
【19E4北巷鎮安】(北港(笨港),北港鎮安宮:(別称)三益境鎮安宮 (主神)楊府七千歲,「南王爺中媽祖」,笨港公館:徴税役所,行館,朝天宮を挟む南北の宮口街~蜊仔街が微高地,旧河川流路跡←乾隆15年(1750)洪水,「八街 戸七千餘家 郊行林立 塵市毘連」〔雲林県采訪冊∶1875〜1908〕,博愛路≒蕃簽市,旌義街:朝天宮〜船着場 ∴明鄭期の集落ライン?,鎮安宮2017現在地籍図)レポ:北港鎮安宮にあったはずの前史
▲ 1750年頃の北港八街〔伊藤裕久・吉野菜月2017〕※引用者が北を上に回転
【19D@5北港(補稿)】(北港(笨港),朝天宮周辺地域の建詰まり状況→1906(明治39)年嘉義大地震→ロータリー新設前後の朝天宮とその外周施設の敷地・建築位置移動→北港市場の再設置,宮口街西側の細長地割≒東南アジアのプラナカン様式家屋敷地,「スパン」(=奥行き/間口比):北港宮口街西側10超←東南アジアにない特殊要因?,[古]横街(打鐵街)   <宮口街<中秋路[新])補論1:北港朝天宮の建築学的論考
▲ 「清末北港朝天宮廟埕」〔許・廖「笨港老照片」雲林縣政府 ※国家図書館〕
【19D@5北港(補稿)】(北港(笨港),中秋路:(早期)車仔寮∵貨物運搬の牛車や人力車で渋滞→中秋路南端=船着場?,北港牛墟:現・北港水道頭↔打北輕鐵駅:南港(現・南港派出所),1908(明治41)年北港溪を渡る軽便橋竣工→軽鉄車両線が北港まで延伸,水道頭港は軽鉄以前から稼働?,「衍派」≒堂號←泉州府晉江人?,「阿彌陀腳騷間 西勢窯豆腐間」)補論2:中秋路についての伝承
▲ 中秋路とその南延長 位置図(地図の出典不詳)
【19E5新巷奉天】(北港(笨港),北港(泉州裔)・新港(漳州裔)の祖籍地別局在,北港に漳州裔は住めなかった)レポ:靈乩の18C新港/「嘉雲平原」地域内の「祖籍地」別人数内訳
【19E5新巷奉天】(北港(笨港),顏思齋上陸年:1624(天啟4)年>「天啟2年(1622年) 先民為求平安橫渡險惡「黑水溝」(台灣海峽) 至湄洲祖廟恭請聖尊奉祀船隻上 船隻途經笨港 神示永駐此地」〔(財)奉天宮〕,湄洲伍媽・船仔媽・開臺媽祖)レポ:靈乩の18C新港/奉天宮にも「開臺媽祖」
【19E5新巷奉天】(北港(笨港),大興宮(1804(嘉慶9)年創建):縣丞署※所在・王得禄・「帝徳化生」・(本尊)保生大帝,姜太公廟,※笨港縣丞署:北港→板頭厝莊→新港と移動?,(距離感からの定説)笨港縣丞署in板頭厝→実証無)レポ:靈乩の18C新港/大興宮∶5人の知事が祈った「帝徳化生」
▲ 新笨港(現・新港),県丞署,南港街(南笨港),北港街(古・笨港北半,現・北港)及び「媽宮」(推定・媽祖宮=朝天宮)が記された地図〔「嘉義縣境匪拒守村莊簡明圖説」1833(道光12)年:張丙事件対応の作戦用に作成された地図,台北故宮保存〕
【19E5新巷奉天】(北港(笨港)「笨港太公廟」,対聯第11句「宮殿華麗洪水沖失笨港古」:(笨港の姜太公廟)宮殿は華麗(であったが) 洪水により古えの笨港は沈み,失われた。,18C後半笨港被災>1959年七八水災以上,漳州裔の流亡にモーセ無し,難民キャンプ内に据えた太公望)レポ:靈乩の18C新港/姜太公廟/第11句∶洪水沖失笨港古
▲ 第11句「宮殿華麗洪水沖失笨港古」
(笨港終)

(台湾側)/台湾南部

❝台湾南部❞:嘉義・台南・高雄・屏東,但笨港除
【19E5新巷奉天】(北港(笨港),北港(泉州裔)・新港(漳州裔)の祖籍地別局在)レポ:靈乩の18C新港/「嘉雲平原」地域内の「祖籍地」別人数内訳
▲ 嘉雲平原地域漢人住民の出身地別構成:1928年 (赤塗)新港 (青塗)北港
〔三尾2004,資料編表14「嘉雲平原地域」およびその周辺地域における漢人居民の祖籍地(出典:台湾総督府官房調査課,1928)〕

(台湾南部終)
❝❝嘉義❞❞
【19E6嘉義天后】(嘉義,1684年諸羅県=現・嘉義より北部大環全て←「Tirosen」社(蘭:Tierasan),「山仔頂」:原住民祭壇,射日塔-嘉義公園の西北西丘陵,嘉義第四機械廠→現・嘉義天后宮:1967年創建,(主神)三媽聖像龍神:1659(順治16)年「國聖渡台」「因天意誤殺軍師」)レポ:嘉義宮媽祖の旅程
【19E6嘉義天后】(嘉義,大媽は神殿に鎮まる 二媽はくそったれ 三媽は戦に出る,山上天后宮→17C:「應景雲遊」山上・三崁→20C後半:嘉義に復帰=嘉義天后,嘉南平原山間部:朝天・奉天宮系とは別系統の媽祖信仰?∵すぐ東の北港・新港に由緒を求めず)レポ:嘉義宮媽祖の旅程/大媽∶不動如山 二媽∶従順如柳 三媽∶侵掠如火
▲嘉義・古城門導覧地圖
【19E7嘉義の夜駆】(嘉義,嘉義城の三段階拡張
①黄色線∶初期の植林防柵時代の城域
②橙色線∶植林・土塁混合時代(18C初)
③赤色線∶石積み城壁時代(1878年))本編
(嘉義終)
❝❝台南❞❞
【19D1安平まで】(台湾,1623年蘭「一鯤身」城砦設置→1627年蘭要塞化∶Fort Zeelandia(漢語∶熱蘭遮城)→1662年鄭成功支配→1683年清・軍装局→1874年清(福建巡撫)城煉瓦を億載金城資材に転用)整理:フォート・ゼーランディアの250年
【19D4台南老城西】(台南,新運河:台南運河・1926(大正15)年竣工by松本虎太←「取代已不能航行的舊運河」(舊運河の代替),舊運河:1823(道光3)年)→1903(明治36)年洪水で崩壊,古運河=舊運河+支流・五條港)レポ:北極から西へ積まれた海岸線──台南城西門外の「川」とは?〔総論〕
【19D4台南老城西】(台南,
①新港墘港→禾寮港・糞溝墘港⇒集福宮
 →(支流)新港墘⇒普濟殿,
⑤安海港→松仔腳港・外新港・番薯港,
〔以下3本概ね並行〕
②佛頭港→關帝港⇒開基武廟
 →媽祖港⇒大天后宮
 →與王宮港⇒廣安宮・景福祠
③南勢港⇒水仙宮
  (市場)三郊(1720年代成立:北郊・蘇萬利+南郊・金永順+糖郊・李勝興)の総部,
④南河港⇒府城(日本新任役人入府路,郭姓工人))レポ:北極から西へ積まれた海岸線──台南城西門外の「川」とは?〔各論〕
【19D4台南老城西】(台南,鹽水溪「古城内川」の想定,德慶溪:(17C)鷲嶺(現・湯徳章紀念公園∋北極殿・天公廟(台南天壇))→普羅民遮街(赤崁街),「上帝廟埁墘 水仙宮簷前」,①赤崁城南側水域 ②関帝港-媽祖港間の川筋跡 ③永楽市場東西のドット差)レポ:北極から西へ積まれた海岸線──台南城西門外の「川」とは?〔推論論〕
▲孫三本と子三本の古城内川推定流路
[緑線]孫三本が河口だった時代の流路
[緑両矢印]同時代以前(17C末?)の推定海岸線
[青線]子三本が河口だった時代の流路
[青両矢印]同時代以前の推定海岸線(18-19C?)

(台南終)(台湾南部終)
❝東部❞:花蓮・台東
(台湾東部終)

東シナ海(浙江側)

【上海謀略編:5426’夜桜の川辺】(揚州,朱元璋防備:{福建}城16個-兵1万5千 {浙江}城59-兵5万8千,漢民族王朝・明→南朝残党・征西府を朝貢国として権威づけ→室町幕府に脅威)/小レポ:明初の中国の対倭寇防備
▲隋~南宋代の揚州城推移
※ 大陸西遊記/江蘇省揚州市

中国大陸〜西九州航路所要日数(江戸期)
南京・上海-長崎6~20日
寧波-     8~14日
台湾-     16~19日
広東-     16~25日
福州-那覇間  8~17日

〔神戸大学社会科学系フロンティア館「神戸大学附属図書館展示会 東アジアのなかの日本-古地図と文献に見る交流の風景」2018〕

東シナ海(琉球側,福岡より南西含む)

(琉球側)/琉球

琉球/共通

❝琉球共通❞
【10s変な日本語&中世福建船史料】(台北,1973年泉州湾后渚港沈没船発見,標準規模:四百科船≒千石船≒百人乗り≈朝鮮出兵標準船,大阪市「なにわの海の時空館」千石積模型:全長29.4m・船幅7.4m・深さ2.4m・帆柱長約27m・帆18mX20m,琉球:侵入路・船種・唐船のタグボート)小レポ:福の船 冥き陽揺れて那覇港(福建船等資料集)/その5 沖縄海外交易用語集
【10s変な日本語&中世福建船史料】(那覇,15~19C約450年の外交文書写四千件余,法案写本台湾大学版,小葉田淳,郷土史家・久場政盛,蔡鐸,天妃宮)小レポ:史料・歴代法案写本について
【023能朴天】(福州,琉球,南清貿易,奈良原知事,虹口)データ集:琉球-福州交易ルート
【031大路街】(琉球,福州,久米三十六姓,翁長,翁寿祥)データ:「翁」姓の偏在性
【19B3中城のテラ】(琉球,「てら」「てぃら」「うてぃら」→寺,浦添「テラブのガマ」,北谷砂辺「ティラメー」,読谷「ティラのゴウ(壕)」,中城村登又「ギイスのテラ」,北中城村渡口「ティラ」,①パーリ語thera(ex.仏教大乗小乗分裂:Thera‐vāda 小乗仏教{英}Theravada Buddism)→長老又は指導者,②{琉球古語}「うてぃら」:「落ちる」,「照屋」姓,③照屋姓:黒金座主→民謡「耳切坊主」)レポ:それで結局テラって何?
【19C1八重瀬城】(琉球,北谷・嘉手納町-うるま市ライン〔産業技術総合研究所,2018〕,国頭-嘉手納:沖縄軸線-その南:広域「遠浅」地形,うるま沖堆積盆→(160万年前)「うるま沖グループ」堆積,沖縄本島=古・嘉手納以北地塊+新・南部堆積地形)研究読解:沖縄本島の南北構造線
▲ 図4 約500~600万年前から約160万年前までの間の堆積盆の位置〔産総研(国立研究開発法人 産業技術総合研究所)〕
【19C4世持井】(琉球,奥武島の兼松金墓,思金の神〔古事記上巻〕,天孫氏第25代浦添中山思兼松金国王〔米氏津波古家家系図〕,久高島・金松兼(母・思樽)〔まんが日本昔話・金の瓜〕,兼松金(玉城王-思樽金の子:西威王→(孫)玉城大屋子・新垣大屋子:14世紀中頃玉城グスク落城により奥武島に逃る,「山嶽(さんだき)拝み」)レポ:時空を舞うおもいかねまつかね
【19C5冨里の拝所】(琉球,安次富加那巴志(あしと かなはし),腹=門中,クンチャー墓:乞食墓,第一尚氏王統墓は複数回分骨,尚志魯vs尚布里の争い(志魯・布里の乱):1453年首里城焼失?→6代泰久陰謀説,第一尚氏(三代以降)平均6年弱,第一系王墓の徹底的駆逐,第一尚氏「八代」中和による朝貢,「神輿」王権)メモ:第一尚氏の何が分からないのか?
【19I2垣花城】(南城,九御嶽:首里王府編著(諸見友重/訳注) 「訳注 中山世鑑」榕樹書林,2011 p31-41琉球国中山世鑑巻一「琉球開闢之事」,七御嶽:池宮正治「翻刻『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』」琉球大学法文学部/編集・刊『琉球大学法文学部紀要 国文学論集 第21号』,1977 p103-116)レポ:垣花城-垣花樋川-ミントン城三角地帯の地理/琉球開闢の九御嶽記述「中山世鑑」原文
【19I2垣花城】(南城,文書①:沖縄県出身軍人軍属死者 28,228人〔旧帝国陸海軍・厚生省資料,沖縄県生活福祉部「沖縄の援護の歩み」1996(平成8)年〕+②一般県民 94,000人〔沖縄県の人口統計上昭和19年と21年の人口を勘案した推計,沖縄県〕=122,228人,分母:沖縄戦地域人口492,128人〔1944(昭和19)年2月政府人口調査〕)記録:徳元八一「避難記」1946(抄)/「沖縄戦で沖縄県民の4人に1人が死んだ」実数
【19I4-2【特記】沖縄集落空間構造 】(南城,①台地・斜面状 ②海岸低地 ③グスクの集落構造,印部石,③「グスク時代以後は、グスク内部や近隣に間切番所が設置され、グスクの立地した集落が地方行政の中心村となる場合が多い。」)特記1■沖縄伝統集落の空間構造の概念図〔南城市教委〕
▲ 図2 壷屋地区の石敢営〔高橋誠一2008〕※赤字は引用者
【19J2壺屋の始まりと終わり】(那覇壺屋,琉球泡盛:薩摩→徳川将軍家献上品定番but琉球焼物に言及無,1616年薩摩→朝鮮人陶工(一六・一官・三官)湧田窯(現・那覇市泉崎)で技法指導,○1682年県内窯場(知花・宝口・湧田)→那覇市壺屋に統合(②官営テクノタウン化),2つの幸運+①沖縄戦被災軽微,「曲線の道路網と円形や楕円形などの不整形な区画によって形成」〔高橋2009〕→×格子状)レポ:やちむんより前からの壺屋
▲ 図4 1920年ごろの那覇とその周辺(円が囲んでいるのは計画的な「格子状集落」と考えられる集落)〔高橋誠一2008〕※赤字は引用者
【19K1首里観音への道】(那覇松川,上り口説:伝・屋嘉比朝寄(1716-75)作,①観音堂「たびぬ’んじたちくわぁんぬんどー」→②大道松原・八幡・崇元寺→③美栄地高橋・中之橋→④「沖」→⑤(船のとも解く)→⑥三重城・残波岬→⑦伊平屋・七島→⑧開聞・桜島)レポ:首里を出で観音堂から那覇港/【歌謡】上り口説が唄う鹿児島旅行
▲ 上り口説二〜五番を歌詞通りに辿った乗船行程図〔たるーのまじめな島唄研究〕
【19K3楚辺の路地裏@A面】(与儀,人口比を越え那覇に偏在)レポ:古波蔵とはどこだろう?/転記:沖縄島豆腐店一覧
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,尚真(読み:しょうしん,繁体字:尚眞王):1465(成化元)年生-〇1477年国王在位-1527(嘉靖5)年没:尚氏ほぼ唯一の親政期)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/第二尚氏三代 尚真王と第二尚氏在位年数一覧
(琉球共通終)

琉球/南部

❝琉球南部❞
【19C3奥武島観音】(琉球,「十七・十八世紀の頃 一艘の唐船が嵐に遭い奥武島に漂着」)転記∶奥武島観音堂由緒(前半)デジタル
【19I1大城城】(南城,城内ノヤラザ嶽 神名 火鉢ノ御セジ/地頭所火神 大城之嶽 神名 ヨナフシノ御イベ/同嶽 神名 コバヅカサノ御イベ〔後掲琉球国由来記/巻十三〕,稲福之殿,「ぢやくに とよみいくさ」「くにのねの おやいくさ」〔おもろさうし/あおりやへ節〕,「大城 おわる(略)又国根 おわる(略)よかけにせあちの みちやつれか みもの」〔同きこへきみがなしおかててよろいわとくが節〕)断片集:大城城にまつわる刺激的な闇/【琉球国由来記】大城の祭祀がなぜ独自か?
【19I1大城城】(南城,大里→大城→佐敷:明貿易時の陸路?,尚巴志による真武・真宗排除?〔伊敷賢2013〕,南山王家としての第一尚氏,大里城:離宮扱い→15C中頃まで「首里城と並ぶ壮麗な宮殿」「旧宮」→17C後半には廃城)断片集:大城城にまつわる刺激的な闇/【大里村史】14Cの大城築城
【19I2垣花城】(南城,アマミキヨ族上陸地?,高台封鎖ベルト,百名のシーサー,仲村渠:なかんだかり 藪薩の浦原:やぶさつのうらばる)レポ:垣花城-垣花樋川-ミントン城三角地帯の地理
【19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m3あまみきよの道】(南城,知念間切の14村:志喜屋・上志喜屋・鉢嶺・仲里・山口・具志堅・知念・波田真・寒水・久手堅・安座真・知名・外間・久高,1945年知念市,知念補給基地→現・琉球ゴルフ倶楽部)レポ:神世とアメリカ世が交差する知念
▲ 開闢神話に関わる聖地 北部・南東部。ただし,中山世鑑に記述する9開闢御嶽以外の3箇所は引用者が括弧書きとした。
【19I3あまみきよの道】(南城,久高島の本島正面=知念知念)レポ:神世とアメリカ世が交差する知念/論点1 久高島から本島への正面はどこ?
▲ 久高島から見た沖縄本島
【19I3あまみきよの道】(南城,斎場御嶽=「さやは」+日本神道用字,「さやは」嶽音≒尚巴志:「しょうは」志)レポ:神世とアメリカ世が交差する知念/論点1 久高島から本島への正面はどこ?/斎場「さやは」嶽と尚巴志の同時代性
▲ (上)キャンプ
(下)CIA「混成サービスグループ」CSG見取図
※ロバート・ジャクソン回顧録等を元に沖縄タイムスが構成〔後掲Okinawa Basically Basic Base Story〕

▲「連合軍政府によって収容された沖縄住民」米軍が屋嘉部で撮影したとする写真
【19I3あまみきよの道】(南城,知念市誌:原本行方不明「南城市の沖縄戦」(南城市教委)第7章第三節に合本※徳元八一「避難記」1946→別掲,「精神ハ尖リテ愛ヲ知ラザルガ如シ」〔各区の部 具志堅区〕,「過去の教育は無力であつたか」「戦果なんかと言って物を米兵にねだり盗み去る」「大地に根を下した教育を怠つて居た」「許されてよい場合の盗人になつてまで 生活力を発揮して行った人々」「我々は生活力を強調する必要がある」〔具志堅校長 喜屋武盛雄〕)レポ:本田清の編む「知念市誌」on1945
▲ 知念市(1945年中)人口移動一覧〔後掲南城市/南城市の沖縄戦 資料編/第七章第三節〕※マーカーは引用者
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,1942年「無神杜解消七ヶ年計画」→1943.5「県社斎場御嶽神社」化決定→戦争激化により未実施)参考∶一度は決定した「斎場御嶽神社化」
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,1941-吉岡隊(陸軍 中城湾臨時要塞部隊)駐屯〔南城市の沖縄戦 資料編」第6章第一節(三)知念村1(2)〕)参考∶「吉岡隊」に関する記述
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,琉球王国時代 斎場御嶽へ至る参道:「第二次世界大戦時の弾薬庫と見られるコンクリート製の床面と柱が検出」「御門口への参道は、その際に破壊された可能性が高い」「サンゴバラスの敷きつめられた土層が確認」〔南城市の沖縄戦 資料編」第2章5(1)表2-2表側〕)参考∶ウローカー~御門口ルートの最新の解明状況
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,三庫理(シキヨダユルアマガヌビー及びアマダユルアシカヌビー):金製勾玉・中国青磁器・銭貨等出土,イビヌメー近接チョウノハナ:金製厭勝銭九枚出土(17C末以降),「意図的に焼かれたイノシシの骨が多量に出土」→祭祀性,世界遺産の根拠作り?)レポ:斎場嶽と佐敷城とが出会う海
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,なぜ三叉路?,「交易品の数々が集まった場所」〔らしいね南城市〕,神前契約の場?,ナーワンダーグスク:「斎場御嶽の祭場としての古態」〔伊従勉,2005〕,斎場御嶽はなぜこんな中途半端な位置にある?)レポ:斎場嶽と佐敷城とが出会う海/寄満とナーワンダーと安座真嶽
▲1950年代撮影のヌーバレーの写真。後方コンセットに隣接して馬車軌道のターミナルがあったという。後ろの山はチカヌハナ。
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,佐敷新町(湾西側∶津波古交差点〜やしの木ロード):バックナービル(米軍住宅区画),津波古公民館前:(60年代)製糖・クジラ解体の工場,フッチャー石∶船舶の係留柱?→現・331号が概ね元の海岸?,安座真集落:「ヌー」祓い(ヌーバレー)・三様 (ミサマ:三兄弟) 伝承)レポ:斎場嶽と佐敷城とが出会う海/海に面した朧なる痕跡群
▲ 安座真創始一族の「降臨」ルートと斎場御嶽など周辺位置図〔Kazu Bike Journey〕※赤字は引用者
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,「聞得大君ぎや 斎場嶽降れわちへ(略)鳴響む精高子が 寄り満ち※へに降れわちへ(略)撫でる曲(わ)※※は寄せて」〔きこへきみおそいが節〕(一説)※寄満 ※※ナーワンダー)レポ:斎場嶽と佐敷城とが出会う海/おもろに歌われた斎場御嶽(さやはたけ)
【19I4斎場御嶽の入場料】(南城,知念半島周辺の海底深度付き地図,中城湾湾海図,進貢船喫水線20m想定,津堅島南方からの湾入→斎場御嶽・ナーワンダーを目安に南西へ,古・佐敷は死角,中城湾に大中型船が繁く入出港した頃の斎場御嶽(ナーワンダー)のランドマーク性,倭寇統合新興国家・琉球の時代の象徴=斎場御嶽)レポ:斎場嶽と佐敷城とが出会う海/中城湾最奥・佐敷に出入りする航海者の視点から
▲ 中城湾湾海図〔みんなの海図〕
【19I4-2【特記】沖縄集落空間構造 】(南城,「土地整理後樹木濫筏されて現在では禿山」〔南城市〕,「おたけの御神体」六柱中①寄満 ②三庫理,知念村・失業対策事業で清掃,斎場御嶽=「再興」された拝所)特記2■戦前の斎場御嶽の状況
【19I4-2【特記】沖縄集落空間構造 】(南城,鍾乳石「御前シキヨダユル雨ガ美水(ヌービー)及び御前雨ダユルアシカ美水」→中国製白磁等埋文発見,「久高島遙拝所」からの出土無→斎場御嶽の「久高島遙拝所」率は高いか?)シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビー
▲ 大正 4~5 年撮影の斎場御嶽(南よりチョウノハナの石灰岩を望む)〔南城市2018〕
【19I4-2【特記】沖縄集落空間構造 】(南城,鎌倉芳太郎「沖縄文化の遺宝」(昭和57年)中大.15.6.27同氏訪問ノート,「往昔ハ古木鬱蒼」一〜三番「グーイ」,①大庫理「ユーグムイ」(夜籠) ②寄満「西北ニ向ヒテ拝礼」③「最モ崇拝セル霊所」,斎場御嶽に関連する主要な歴史文化資産位置図〔南城市〕)特記2■戦前の斎場御嶽の状況/大正15年斎場御嶽調査メモ〔鎌倉芳太郎〕
【19J3香港通り】(那覇,1944年12月11日15時半頃 百名分岐線「幸之一カーブ」(大里村稲嶺駅付近)で「戦前の国内最大の鉄道事故」発生,沖縄人車軌道株式会社,神里東原に積まれていた軍弾薬,「南風原村神里集落の東側のワイトゥイで突然大轟音」〔南城市2021〕,「国軍創設以来初メテノ不詳事件ナリ此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナリ」〔第九四号石兵団会報12月14日・長勇注意事項〕,日本軍の兵站軽視との相関?)レポ:戦前南部鉄道網と爆発事件
(琉球南部終)

琉球/中部

❝琉球中部❞
【19A1赤嶺散歩】(琉球,高宮城,祖神堂)本編
▲ [上図]琉球国惣絵図」部分 18世紀 [下図]奥山(奥武山)〜久米部分拡大
【19A2久米天妃散歩】(琉球,葛飾北斎「仲島蕉風」,唐栄久米村復元図(高橋誠一)→「林の壁」論,「唐栄邑の前に一江有り」〔球陽 尚賢3年条 唐栄地理記・遺老説伝〕,久米大門(南門):龍首∴不浄が通ると台風,仲島大石:龍珠,奥山:文案,波之上宮:中位段丘下位面)地理学的分析:高橋誠一による唐栄久米村景観復元
【19B1波之上宮】(琉球,「南風原間切崎山村 有崎山里主。 常好釣漁 日行海汀」〔本地垂迹資料便覧 波之上〕,事代主=恵比寿=蛭子神話とのダブルイメージ?,主人公・崎山里主:崎山御嶽主神?察度王子?)資料∶波之上神社由緒と崎山里主
▲ 戦前の波之上宮
【19B1波之上宮】(琉球,御店(おみせ):貨物販売→島津侵攻軍降伏会議場,大市(ウフマチ):旧那覇中心地,〔海東諸国紀〕東恩納寛淳比定→九面里:久米村 国庫:親見世 宝庫:御物城→○1459年金丸(1469年尚円王に即位)御物城御鎖側)レポ:久米の経済中心・親見世(国庫)と宝庫
▲ 儀間村の港から対岸・三重城方向の光景
【19I1大城城】(南城・那覇,玉城・垣花→那覇近郊・儀間移住団(初発・麻姓2世大城按司真武の子・真宗),3〜5世遣明使節一員,国場川河口・屋良座森城防衛を受任?,4世真孟・母:儀間大あむしられ(神職),落平の湧水=儀間の港湾機能の痕跡,「那覇やらざ森は大城やら森の移り名 大城やら森は玉城やら森の移り名なり」〔麻氏伝承〕)断片集:大城城にまつわる刺激的な闇/【角川日本地名大辞典/儀間村】那覇近郊に新・大城城を建設
▲ 住吉神社〜三重城の古地形図。下方中央に久米村の下天妃宮,左下に泉崎村(現・県庁付近)があるので目安となる。
【19K1首里観音への道】(那覇松川,首里古地図/茶湯崎橋,「かつてこの辺りまで船が遡ってきた」,ムジンクジンワカランマチガーヌヒブン,1674年石橋架替「海水漲來有爲溪水」※「王令輔臣築石爲橋」「北山諸船到此灣泊」〔球陽外卷・遺老說傳 第19話〕,※感潮区間又は汽水域,茶湯崎橋跡拝所,寒川芝居跡)レポ:首里を出で観音堂から那覇港/【図絵】首里古地図の描く水域
▲ 戦前の松川。左橋の橋は茶湯崎橋とも考えられる。〔那覇まちま〜い〕
【19K1首里観音への道】(那覇松川,長虹堤:1451年築造・崇元寺橋〜イべガマ(久茂地のチンマーサー),「安里橋ヨリ伊辺嘉麻(いびがま)二至ル長堤ヲ築キ」〔真和志市誌〕,長虹堤が単独運用された二百年(1451-1674年茶湯崎橋石橋化),木橋茶湯崎橋施工≒推定17C前半→首里〜真嘉比川水路利用?→観音堂直下「古・首里湾」仮説∞首里観音堂の「媽祖信仰もどき」)レポ:首里を出で観音堂から那覇港/A.首里〜観音堂〜茶湯崎橋〜崇元寺〜久茂地チンマーサ ルート
▲ 陰影起伏図〔国土地理院地図〕※上図に前掲3地点(左から久茂地チンマーサ・崇元寺・茶湯崎橋),下図に茶湯崎橋ほか関係地点を引用者がプロット
【19K2古波蔵迷宮】(那覇古波蔵,「古波蔵御嶽」≒ウブガー?,現・国道507号線≒元・古波蔵湾?,壺川ホーホー〔東恩納寛惇「南島風土記」1950〕
)レポ:古波蔵とはどこだろう?
▲ Tさんのお話をもとに作成した地図(※地図は国土地理院の空中写真(1977)を加工)。原典キャプチャ「戦後,漫湖には国場ベニヤ株式会社と沖縄プライウッド株式会社のベニヤ板工場があり,明治橋から那覇大橋にかけての両岸(旧みなと村に挟まれたエリア)は原料のラワン材を保管する貯木場だった。」〔後掲漫湖日和 その3後編〕※赤矢印(ウブガー位置)及び青丸は引用者
【19K2古波蔵迷宮】(那覇古波蔵,1952年建設-1972年返還 与儀タンクファーム)レポ:古波蔵とはどこだろう?/にーちぇの真上によぎたんく
【19K2古波蔵迷宮】(那覇古波蔵,名護親方:古波蔵地頭職を父から承継,「古波蔵親方」:鄭嘉訓(1767~1832・久米村鄭氏16世),古波蔵:読み「くふぁんぐゎ」,阮(ぐえん)氏古波蔵,{異説}第二尚氏中期フィクサー 阮維新・直轄地=古波蔵:「阮維新,字天受;其先福建漳州府龍溪縣人。明萬歷時,有阮國字我萃者,與毛國鼎同奉命居琉球(略)傳四世至維新」〔清代琉球紀錄續輯〕)レポ:古波蔵とはどこだろう?/めにかかる雲や 古波蔵 南越国 
▲ 戦後のガーブ川(現・ジュンク堂付近)〔風景結々〕
【19K3楚辺の路地裏@A面】(与儀,ガーブ川(BOD
1983年:69→2019(令元):<0.5),中世推定河口(外洋船停泊可最奥部):与儀公園〜与儀十字路〜船増原公園付近)那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):A面【謎編】
▲那覇微地形地図〔タイムス住宅新聞社ウェブマガジン〕※同著者が作成した微地形地図(数値標高モデル(DEM)の地表面の標高データを基にしたもの) ※※赤字は引用者
【19K3楚辺の路地裏@A面】(与儀,1700年古・ガーブ川:与儀までが湾or現・水上店舗〜壺屋〜与儀の内陸湖←1451年長虹堤築造による急激な陸化∴土壌中の含泥率:長虹堤以南顕著,オールド那覇by「ブラタモリ史観」(陸域那覇と隔絶された元・漢族居住区)×→プロト那覇:久米の史料作成者が触れないけれど通史的に存在していた首里・那覇)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):A面【謎編】/【地形】那覇の見知らぬ海岸線▲ 琉球王朝時代の那覇の海岸線推定地図〔タイムス住宅新聞社ウェブマガジン〕※原典 名嘉山光子(国吉光子)「文献より見た那覇付近の古海岸線」(『琉大地理第6号』1967年12月版所収)を元に同著者が作成
【19K3楚辺の路地裏@A面】(与儀,船増原,与儀十字路の4つの「原」:(与儀原除く):①宮城原(与儀公園) ②宇蘭原(那覇署) ③西原(神原中側) ④船増原(裁判所側)〔グダグダ(β)〕,④:推定湖沼域・古名「ハルナ」)那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):A面【謎編】/船増原:ふなましばるに船は着いたか?
【19K3楚辺の路地裏@A面】(与儀,ケーシンダー,「ケーシ」:←?気仙沼〔続日本紀 弘仁2(811)年条初出〕:ケセ kese 末端・終点「滊先」,「ンダ」:?「當」突当り,与儀十字路歩道橋撤去工事時に発見された石橋)那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):A面【謎編】/ケーシンダー≒気仙沼≒鹿島 珍説
【19K3楚辺の路地裏@A面】(与儀,ナーグシィクヌウタキ,与儀村:宮城ノ岳・ヨリノ岳・神里ノ岳「前の主席官舎床下にあったのを外へ勧請して金網ごしに拝んでいる」〔那覇市史 資料篇 第2巻中の7,1979〕,「宮城ノ嶽 與儀村 神名アフライノ御イベ」〔伊波普猷「琉球國由来記」1988〕,与儀:古名「與儀」←毛氏与儀家←毛文彩〔清實錄同治朝實錄 1867(同治6)年辛亥の条〕∞阿衡基(阿氏:尚王家姻戚),プロト那覇港・与儀シーカンダー→どこへ繋がる港?)那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):A面【謎編】/知事公舎内の宮城社(みやぎむい)
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,地理院地図アナグリフ:与儀・寄宮〜古波蔵交差点の谷の水没記録無but城岳以北≒第二の浮島?,交易の表港の裏口?,国場:12門中〔国場誌2003〕∋上嘉数門中 ←高麗※陶工・張献功(俗称・一六)起源,ほか中国からの庶民層移住(16C)渡嘉敷三良(とかしきさんらー)「唐大主」(うおうふすー))レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/第二の浮島と与儀-古波蔵地峡
▲ プロト那覇港最奥・シカンダーと古波蔵,第二の「浮島」の位置〔地理院地図/アナグリフ〕
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,真珠湊碑文:1522(嘉靖元)年→{主}軍事展開機動性向上「ともにかきのはなちにせいそろい」 {副}民間交通インフラ整備「くにのあんしけすのため」)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/真珠道の由緒の常識を疑ってみる
▲ 真珠湊碑文(拓本)〔那覇市歴史博物館/首里・那覇の石碑拓本展〕
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,【ツール】楚辺周辺の迷宮街路※群:①直線路と十字交差がない ②沖縄X(航空写真)では探知不能 ※高橋誠一「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」2008,→与儀公園-首里とを結ぶ迷宮状集落ゾーン∴けす〔真珠湊碑文〕=庶民=与儀〜古波蔵〜国場のプロト那覇港居住集団,首里城御嶽・京の内:御嶽だけだった頃の「首里城」→南志向,16C前半の首里城正面逆転:綾門大道整備←海洋王国琉球:×倭寇を排除して交易を行った 〇微妙なバランスの上に倭寇を下部化又は周辺化して成功した経営体 「倭寇は琉球と接触することによってその影響範囲を拡大」〔田中健夫1997〕)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/迷宮集落の偏在と首里へ伸びるベルト
▲ 国土地理院地図(左右2枚貼合せ,首里〜那覇中心部)上の「迷宮状集落」の配置
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,察度王朝~第一尚氏代遺物,【紅釉水注】中国磁器のバリエーションと希少性,【大型備前焼】埋められた岡山の巨大壺,【ブリラム窯壺】壺はイサーン 中身は琉球古酒,【兜鉢立物飾】県埋文呼称「瑞雲日月星文」,【チョウセンサザエ製埋納容器】「皇宋通寳」等首里城内での模鋳銭製造痕,【前首里城遺構】14世紀前半~中頃の築造痕,真玉森グスクの洞窟での第一尚氏ジェノサイド伝承)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/資料:首里城京の内発掘成果概観
(琉球中部終)

琉球/北部

❝琉球北部❞

(琉球側)/薩摩

❝鹿児島県❞
【011津屋崎】(島津義久)1586(天正14)年 島津義久軍,博多を焼く
【145m南京寺】(長崎,帰らない幕府隠密,鹿児島弁=人造言語説,現代は完璧に消された痕跡,江戸期の薩摩外での痕跡は?)小レポ[1/2]:在長崎・薩摩秘密屋敷という永久の謎(問題設定)
【161丸木浜】(南さつま,①唐港の支港なり,②琉球諸島に下る者多く停泊して風を待,③灣内稍大船を繋ぐべし〔三国名勝図会巻之二十六〕)資料:三国名勝図会 泊港
【162二才中】(南さつま,二才→(薩摩弁)「にせ」→「二歳馬」→青年,二才中≠生活用の井戸)メモ:謎の「二才中」解決編
【163唐人祠】(南さつま,〔坊津町郷土誌〕「博多浦は市場の名称でもあり,堺のように商業都市的性格を帯び,坊津でも特殊の地域」,久志:1197(建久8)年初出「薩摩国図田帳」,1361(延文6)年沙弥道春譲状「薩摩国加世田別符内 一,山田・秋目・唐坊・久志・内浦」,伊能忠敬・九州東海辺沿海村順「博多浦48戸」,西南方村→坊津村名称変更反対運動)レポ:博多浦について3つの断章/坊津町誌(1)「特殊」なる博多浦
【163唐人祠】(南さつま,〔坊津町郷土誌〕貿易は専ら大島・琉球方面,定住人口は少?)レポ:博多浦について3つの断章/坊津町誌(2)沖縄・蝦夷まで雄飛
【163唐人祠】(南さつま,〔坊津町郷土誌〕中村家:中之島倉庫(住友倉庫前進),重家:安政年間に大島・琉球航路海運業「泊じゃ小次郎 久志じゃ重の字 坊は舎で名をあげた」,西南の役直前西郷隆盛数ヶ月滞在)レポ:博多浦について3つの断章/坊津町誌(3)今村←平尾←博多浦
【163唐人祠】(南さつま,宗教の見えない博多浦,「アナ」と称する地域に市杵島(いちきしま)神社(市の神)=厳島神社?)レポ:博多浦について3つの断章/画像:古色蒼然 厳島神社
【164船戸宮】(南さつま,三国名勝図会・坊津港,名称:坊津 唐港 房津 唐港 はうのつ≒梵字:鑁(バン)?,海中漢土の近き処に三里許の暗礁あり 是皇国と漢土分界の所なり,船法三十一ヶ条:廻船大法奥書,一条院,鑑真・道元寄港,中国海商無レ不レ聚,坊津八景:中島 深浦
松山 亀浦 鶴崎 網代 御崎 田代)史料:三国名勝図会「坊津港」(全文及び関連付記)
【166八坂宮】(南さつま,坊ほぜどん,秋目の媽祖宮=今峰権現社,坊津:唐人まち,唐物崩:薩摩藩は被害者か自演者か,唐物崩れ実証史料は未発見,「自分ではやりながら 民間の抜荷をこんなに厳しく取り締まったところはない」:密貿易コーポレーションの再編成,金→銀→銅の後を俵物が継いだ発想源)資料:地誌に書かれた坊津
【167硯川】(南さつま,1133(長承二)年鳥羽上皇院宣,1957(延文2)年成円法師再建〔三国名勝図会 巻之二十六〕,島津:真言密教で思想統一,博多浦淳厚寺も一条院,1869(明治2)年廃仏毀釈で廃絶→坊泊小学校)レポ:坊津一条院の時空を漂流する
【167硯川】(南さつま,「ウン」・「太山府君神家敬立」右側「西海金剛峯寺西十一町」左側「太山奥之院北二十五町」,金剛峯寺=一条院?,太山奥之院=草野岳?「そうのだけ」=泰山?,坊津=「バンウン」津?)レポ:坊津一条院の時空を漂流する/「太山府君神家」に何が書かれているか
▲ 日新公・伊作(島津)忠良さん
【171野間岳】(南さつま,伊作忠良(日新公)1492〜1568年,子・島津貴久,宿敵・島津実久打倒→島津分家群13家連合と対決,子・島津四兄弟出生地は伊作城,貴久:[琉球]尚元王と修好 [ポルトガル]銃・洋馬輸入 [イエズス会]ザビエルにキリスト教布教許可(後禁止) [英]インド総督に親書発出,1547年ザビエル:マラッカで鹿児島からの逃亡者「アンジロー」(ヤジロー)と会う→1549年「アヴァン」所有船「海賊号」で鹿児島上陸,信長の津島 貴久の吹上)レポ:桶狭間前の信長より酷い島津忠良・貴久代
【19C1八重瀬城】(琉球,八重瀬岳に祀られる火の神群,2012年:久米島沖海底火山群発見〔産総研〕,通常の客船デッキから見える水平線は約16km先,桜島噴火が種子島・宮崎・甑島から見えた記録(1914):「鳴動ハ殆ンド終夜持續シ仝方面ニ火光」)レポ:八重瀬岳から噴火は見えたか?
(鹿児島県終)

(琉球側)/長崎

❝長崎県(壱岐対馬除く)❞
【007-1佐世保上り道\平戸編\長崎県】(佐世保,脇道:下方街道・唐津街道・波佐見往還,セラミックロード(陶磁器の道),伊能忠敬地図,フィッシュボーン(魚の骨)状)小レポ:佐世保エリアでの平戸往還ライン
【133川内観音(急)】(松浦史料博物館「史都平戸-年表と史談-」,否定された「共和的連合形態」,末盧國,11C初松浦氏:近畿への海上輸送従事,宋船頭(綱首),高麗船のりとり,青方文書,12-15C外航船8隻所有,松浦党14名・うち9名は兵を率いる,海東諸国紀:上下松浦海賊)レポ:松浦党の存在形態
【141唐館(入)】(長崎入国中国船入国手続byナガジン,面積約29,201㎡,出島の約3倍)・当初入居想定者約5千人,長崎人口中最大1/5が漢族,主力輸入品・生糸類中→日輸入利益率2~3倍(戦後沖縄密貿易10倍),文政(1818~31年)中国一般乗組員利益率20数倍)小レポ:一万人の唐人バレー
▲1674-84年長崎来航唐船数表〔龐新平「『華夷変態』から見た清初の海禁と長崎貿易」大阪経大論集・第55巻第1号,2004年 数値は「華夷変態」の記事から龐が集計〕
【142唐館(出)】(唐人屋敷=「唐館」=中国人呼称:「土庫」,1870年焼失,長崎大学附属図書館:幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース)史料紹介1:唐人屋敷焼失前の古写真3枚
【142唐館(出)】(2002(平成14)年長崎市→長崎大学調査委託:岡林隆敏他「長崎唐人屋敷範囲推定及び敷地の形状復元に関する研究」,長崎諸官公下衙図,唐館内敷地割モデル図(五段階モデル))史料紹介2:(地理学的所見)傾斜面を埋める唐人城
▲江戸時代の唐人屋敷の敷地形状(上図)及びその上への「長崎諸官公下衙図」の合成図〔岡林隆敏他「長崎唐人屋敷範囲推定及び敷地の形状復元に関する研究」図-20及21〕
【142唐館(出)】(唐人屋敷建設期の中国陶磁一括資料,2012・2017(平成24・29)年調査(Ⅰ期:1688年以前・Ⅱ期:1689年以降),汪鵬・日本砕語(袖海編))史料紹介3:(考古学的所見)唐人屋敷建設前後の出土陶磁器
▲汪鵬「袖海編」の記述
▲ 渡邉秀詮「長崎唐館交易圖」(神戸市立博物館)上:全体 下:部分
【143筧潭】(渋江公師,1652(承応元)年,唐人:航海神,水神湯,カワラゥ・河朗・川童,「河童=獺」説)小レポ:かっぱごちそう(河太郎饗応)
【143筧潭】(1603年刊行・長崎版日葡辞書,阿爹さん(あちゃさん),漳州人)小レポ:かっぱごちそう(河太郎饗応)/17C前半の長崎人のポルトガル語力
【144中川】(長崎銭屋橋,1661(寛文元)年銭座開設,中島鋳銭所,東浜町(現・銅座町)移転)輸出用和銭「元豊通宝」
【144中川】(:古事記,長崎,日本書紀:罔象女神,神社祭神としては水波能売命)水神・弥都波能売の川辺
【144中川】(長崎,一の瀬,永埼浦,長崎小太郎,熊野氏系普證文譲状写(福田家文書),長崎氏元姓:中川・ナカゴウ・ナカゴ,深堀家文書,龍頭巌,プロト長崎港,長崎甚左衛門:1605(慶長10)年長崎失地)小レポ:長崎原郷「なかご」中川
【151小菅集落】(長崎,結晶片岩,在地の石積技術,バス停側U字)本編
【153梅園】(長崎,梅核仁∋青酸配糖体アミグダリン,梅の種:天神を象徴「梅は食うとも核(さね)食うな 中に天神寝てござる」,中医:清暑・明目・除煩,梅園姓比:長崎県が全国トップ,両墓制:ex.対馬岬町青海)小レポ:梅園の時空寸描/② 梅塚の局地信仰とその意味
【154福州寺】(長崎,「興福寺:福済寺:崇福寺=南京寺:漳州寺:福州寺」説は要詳細整理,南京寺:福州寺→三江幇:三公幇,漳州寺も幇会所→媽祖祠→寺院,三江幇:江戸期長崎の華僑貿易をほぼ独占)レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清/林守壂も隠元も福清人/先行・南京寺:興福寺と漳州寺:福済寺の地域性とその本質としての海人社会階層
【154福州寺】(長崎,「福建省漳州府 歐陽雲臺公」,最初は貿易商人(前半生不詳))レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清///欧陽氏はなぜ三江幇のパトロンなのか?
【154福州寺】(長崎,対仮想敵・長崎奉行(幕府)への共闘←媽祖信仰海人=三勢力の安全保障の基礎,「ぼさあげ」共同運営体制(春船ハ興福寺 夏ハ崇福寺 秋ハ福済寺〔唐通事会所日録〕),広東系・聖福寺は輪番除外)レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清//「ぼさあげ」の三福寺共同運営という安全保障体制
▲福済寺復元模型(長崎歴史文化博物館展示)+黒(地蔵堂)白(階段・坂)指差
【155漳州寺】(長崎,1649(慶安2)年泉州人唐僧・蕴謙禅師開山,福済寺復元模型(長崎歴史文化博物館展示),原爆後媽祖堂は再建漏れ,村長宅→幇会館→1628(寛永5)年泉州道者・覚悔が小庵に天妃聖母を祭祀→住職は覚悔以後七代連続泉州系,「青蓮堂は(略)媽祖堂と呼ぶことはなかった」,八閩(福建各域)共有看板「潁川陳家」,媽祖祭に泉漳幇華商集合)小レポ:福済寺は泉州寺か?漳州寺か?
【155漳州寺】(長崎,数々の過剰,山門①堺で切込み ②扁額:「隠元禅師」筆「聖福禅寺」,③「神宮寺黄檗宗化計画」?,④天王殿:宇治万福寺「左右通り抜け構造」を模倣,⑤惜字亭:小菅修船場跡と同じ赤レンガ使用)聖福寺開山にあたっての謎の数々
(長崎県終)

(琉球側)/熊本ほか(琉球・薩摩・長崎以外)

❝熊本県❞

黄海

【蓬莱浮现編:17-024Happy Happy Hanjoong Ferry】(仁川→煙台)/本編

「蓬萊の島ですって?──それはどこの事です?」
「はて──山東の東と西の山地が、昔は中原海の海中にある二島だった、といわなかったかな?──もっとも、蓬萊は、陸人のよび名だ。おいしげる草木の名によって、名づけたらしい。この萊の地が、古の萊島、西の泰山のある島が、蓬島だ……」〔小松左京「東海の島」〕

対馬海峡(福岡)以北

対馬海峡(福岡)以北/朝鮮半島

❝朝鮮半島共通❞
❝全羅南道❞
(麗水여수,順天순천)
【十次{12}麗水(夕)】(韓国南海岸,魚類(狭義)∌ヌタウナギ(イソメクラ,ベト)≒ウナギ・アナゴ,粘液腺(ヌタ腺),腐肉食性,高頻度縦列反復配列)小レポ:食べる前には読まない方が良いジャンオの正体
【十次{13}麗水(夜)】(韓国南海岸,kakaoアースで見るジュンアン路北側)後悔メモ:麗水の本当に暗い道
【十次{21}麗水(朝)】(韓国南海岸,麗水港1923年竣工,鎮南館≠李舜臣本営≒古今島,野口雨情「麗水小唄」,
(巨文島고금도)日本人漁村:古島,山口から網元が移住)小レポ:麗水と巨文島の見えない海人
【十次{22}麗水(昼)】(韓国南海岸,Chugmu 3gil,忠武,麗水神社)橋に商品並べるのは止めろ
【十次{25}晋州(夜)】(韓国南海岸,晋州の夜道)時にデンジャラスな旅人の勘
【十次{31}晋州(朝)】(韓国南海岸,チェイルヘジャンクク 제일해장국,晋州市場)ハングルだけの移転表示
❝慶尚南道❞(馬山・鎮海)
【十次{32}馬山】(韓国南海岸,陸上から接近しにくい齋浦,熊川邑城,推定:金海湾外港)小レポ:齋浦はどこにあったか?
▲ 齋浦(指差し)-金海位置関係図(古代)
❝釜山広域市❞
【十次{35}徳川】(韓国南海岸,亀浦市場東縁の微高地ライン+亀浦市場西縁から入江部への想定水域)小レポ:亀浦の推定古海岸線
【十次{41}亀浦倭城】(韓国南海岸,①畝状竪堀群」に見える微地形:織豊系城郭は基本的に不使用,②矢穴:Ⅷ郭のみに集中,吉田郡山城の地勢に相似,国内で造れなくなった「強い本物の城」)小レポ:亀浦倭城の特異構造
【十次{43}釜大下り坂】(韓国南海岸,東莱~釜山鎮~水営 トライアングル,埋立地推定線,∴中世海岸線=地下鉄中央駅~土城駅ライン,大正時代埋立前:石井カルビ~太陽荘モテル~釜山ホテル~東新ホテルのライン)先行研究:釜山の昔の海岸線
▲ 明治初期の南埔道~中央駅付近の入江
【十次{44}富山倭館(東)】(韓国南海岸, 15C末申淑舟著「海東諸国紀」「東莱富山浦」,①なぜこの位置にあり②いつまで③何をしていたのか?,1494年約450人の日本人(三浦倭館中最長),釜山初出:1368(高麗恭愍王17)年対馬へ白米千石を「富山浦」から搬出,東莱⊃プサン,≠外山(日本・富山県),倭館:釜山浦(1407-1592)→絶影島(1599-1607)→豆毛浦(1607-1678)→草梁(1678-1876年・約11万454人定住),朴説:倭館近隣の「亀」名地名)史料:東莱富山浦之図とその辛い読み解き
▲ 上:富山浦倭館vs下:草梁倭館の広さ
【十次{44}富山倭館(東)】(韓国南海岸,戦後集落残存?①)75beon-gil 자성로75번길
【十次{45}富山倭館(西)】(韓国南海岸,戦後残存?②)Jinsijang-ro 20beon-gil
【十次{46}影島山手(下)】(韓国南海岸,1876年(明治9)最初の移住漁村・釜山牧ノ島,15C-李氏朝鮮「空島政策」(刷還政策。倭寇対策)で無人島→馬の放牧場→{日本人命名}牧ノ島,1921年(大正10)朝鮮日本漁民漁獲高中80%が移住者,日本人在朝鮮移住漁村計188カ所(自由移住漁村141,補助移住漁村47),牧ノ島遊郭)レポ:広島県瀬戸内海エリア発朝鮮南海岸行
【十次{47}影島山手(上)】(韓国南海岸,Jungbok-gil 중복길,Sanjedang-gil 산제당길,海光寺 해광사,jungbok gil 증복길,Chamsaem-gil 참샘길)本編
▲ 影島北部集落[kakaomap航空写真]
【十次{48}温泉&鴎&夜デジ】(韓国南海岸)本編
【十次{49}PIFF通りの段差】(韓国南海岸,チャガルチ:Wangbok-ro 16beon-gil,海田コプチャン~元山麺屋ライン=昭和10年埋立時海岸線≒江戸期草梁倭館南外縁,寶水川,釜山遊郭)本編
【十次{51}国際市場】(韓国南海岸,草梁倭館の西側拡張部・富平町,日帝時代:西町→1950-1960年代韓国物流中心(朝鮮戦争で米軍部隊や日本の物資流入))本編
(釜山広域市終)

対馬海峡(福岡)以北/日本内地

❝日本内地共通❞
【120毛利・大内の時】(山口)リンクメモ:大日本道中行程細見記
【131川内観音(序)】()資料2:日本に存在する媽祖の所在一覧
▲日本所在の古媽祖像一覧
※ 高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」※※ 所在地の原典:藤田明良「日本所在の古媽祖像一覧表(2006年6月現在)」
※※※ 色塗りは引用者
凡例 緑:長崎・沖縄
黄:大阪以東
桃:上記以外

【143筧潭】(沖仲仕,長崎署1971年廃止)小レポ:かっぱごちそう(河太郎饗応)/長崎港に家船は浮いたか?(日本水上警察)
▲17世紀の東アジアにおける日本対清の外交上の影響力範囲の推移イメージ
【143筧潭】(長崎,1696年(唐人入居公式完遂)鎖国完成論,勢力圏標識としての海難民送還ルート・キリスト教迫害,メタ・メッセージ「我(が国)に従属するか?」,仮想的に合わせ海域から同時撤退,臨戦体制の演出,バッファ・ゾーン最大化)小レポ:対清外交戦の最終防衛ラインとしての唐人屋敷(外交)
▲日清戦争期のよく引用されるマンガ
【154福州寺】(長崎,台湾怕平潭 日本怕福清 美国怕長楽 英国怕亭江 全世界怕福建,各国主流裏組織と共立,1975年段階:福建人居住地最多は兵庫県,福清県出身呉服行商:兵庫県華商绸業公会→?神戸福建同郷会)レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清//福清人の現代に至る躍進
(日本共通(福岡以北)終)
❝壱岐対馬❞
▲麗水市と同市巨文島
【十次{13}麗水(夜)】(韓国南海岸,1441年対馬・宗氏-朝鮮王朝{日}孤草島釣魚約条,조어문인 (釣魚文引)携行義務化,対馬漁民:対馬→知世浦→孤草島ルート限定,(推定)現・巨文島=旧・孤文島,
{A}早田氏≒前期倭寇残党※
 ※三島:対馬島・壱岐島・松浦
▽1419年 応永の外寇
▽1420(応永27)年 朝鮮:慶尚道帰属州として宗貞盛に「宗氏都々熊丸」印発給
▽1426年 釜山浦・薺浦・塩浦(追加)の三浦交易の完成
{B}孤草島釣魚禁約=朝鮮領たる国際的認知,宗氏の島主権限根幹
▽1443年 癸亥約条({日}嘉吉条約):50隻/年制限
{C}大倭寇期
▽1510年 三浦の乱
▽1592-8年 文禄慶長の役)小レポ:みんなの孤草島釣魚禁約
▲ 対馬市岬町青海の(上)地理院地図及び(下)拝み墓・埋め墓の位置
【153梅園】(長崎,○両墓制:ex.対馬岬町青海)小レポ:梅園の時空寸描/②/梅=「埋め」たのは何か?
❝福岡県❞
【011津屋崎】(福岡市,博多区,秀吉)博多に七つあるもの▲博多遺跡群位置図
【011津屋崎】塩田,廻船,津屋崎千軒
【011津屋崎】(神屋宗湛,神屋寿貞,石見銀山)世界史級フィクサー神屋宗湛
❝山口県❞
【120毛利・大内の時】(山口,毛利博物館,1866(慶応2)年軍艦四隻を英国に発注,版籍奉還状,大内菱,下関海峡,朝鮮渡来般若経,宗-大内のライバル関係)来年の防府はズバリ山口県
【120毛利・大内の時】(山口,1152(仁平2)年「多々良」署名,1399(朝鮮定宗元)年朝鮮王国に「百済の後胤」と主張,1373年三次使節趙秩・楊載が山口逗留)史料集:大内氏の揺れ動くアイデンティティ
【120毛利・大内の時】(山口,戦国水軍衆図,「(○1523年)寧波の乱→(嘉靖年間:1522‐66年)嘉靖大倭寇」説,倭患起於市舶,潜匿倭國者,勘合貿易が一時有した海人「倭寇」化抑制機能)レポ:赤間関から倭寇は出撃したか?
❝広島県(安芸※)❞
 ※安芸高田市・東広島市・呉市以西
【十次{46}影島山手(下)】(韓国南海岸,1876年(明治9)最初の移住漁村・釜山牧ノ島,1877年(明治10)広島県坂村漁民坪川甚三郎ら4人釜山初渡航・調査→1890-92朝鮮海出漁実績首位(坂町:人口の約2割?→主に統営でイリコ製造,明治28年(1895年)朝鮮近海漁業坂村同業組合組織),{宮本常一説}∵安芸藩・松山藩「加子役」制度,イワシの煎リ船(釜船))レポ:広島県瀬戸内海エリア発朝鮮南海岸行/瀬戸内から朝鮮へ魚を釣りに
▲広島県漁民の朝鮮海出漁の実績(1898-1907年,出典:広島県水産会報,1909)
❝広島県(備後※)〜岡山県❞
 ※三次市・世羅町・三原市・竹原市・大崎上島町以東
【十次{46}影島山手(下)】(韓国南海岸,福山市内海町田島:マニラに行かなきゃ嫁が来ない)レポ:広島県瀬戸内海エリア発朝鮮南海岸行//福山市内海町田島:マニラに行かなきゃ嫁が来ない
▲[金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003 表3-9]仁川旧市場客帳調(原典:明治38年度広島県水産試験場事業報告)データから前掲金2003で広島県漁民を抽出したもの(当時の仁川の市場に魚を卸していた漁船登録数とその本拠地)。瀬戸町(現・福山市備後赤坂南部)からの多数の卸の背景は,金もそれ以上を述べておらず,他の記録にも地域名がないため不明。
❝近畿❞
【m19J1那覇天妃】(那覇,大阪道明寺,創建中華会館記,近畿の媽祖(と疑われるもの)暫定リスト∋(京都府)妙心寺霊雲院・誠願寺,杭田(くまた)神社:末吉船→17Cルソン,シャム,媽祖≠海域アジアの唯一海神)[おまけレポ]神戸市中山手通の関帝廟内媽祖
▲ 杭全神社奉納絵馬(1627(寛永4)年平野屋源左衛門尉奉納)

時間軸

南北朝以前(-6C)

❝古代(漢代以前)❞
【023能朴天】(福州,閩越※)明代地図に見る能补天巷と祠二柱 ※○BC202年伝建国。BC135年漢武帝により滅亡
【十次{23}順天】(韓国南海岸,南江(ナムガン 남강) 流路長193.7km 流域面積3466.3k㎡:洛東江支流中最大,洛東江故道?,○3C:金官加耶→中心地・金海地域は湾と推定,順天人口:1618年千余→1881年3万超,任那≒大加耶?)レポ:海域世界の輪郭としての晋州-順天-麗水ライン(順天倭城)/洛東江から西へ流れる最大支流・南江
▲ 南江=旧洛東江本流イメージ
【133川内観音(急)】(平戸,3C末:(西晋)陳寿著,烏丸鮮卑東夷伝倭人条:三國志·魏志巻29〜30「末盧國有四千餘戶濱山海居阜木螟興汀不見前人好捕魚葭水恥深淺皆沈沒」)史料:「三国志」「魏書」第30巻中の倭人記述部(いわゆる魏志倭人伝)
❝中世(三国以降)❞
【061北山古地】(泉州,三国呉代,元妙観)小レポ:北山古地は古・泉州島の北海岸
【061北山古地】(泉州,二郎古地(崇福路),石门古地(洛江区桥南街),铺境庙,闽越 閩越,間切,腰当,道祖神,テルミヌス,境界性)メモ:泉州老城外縁に並ぶ中国御嶽・「铺境」廟
【011津屋崎】(飛鳥期)七堂伽藍で町造り

プレ大航海時代(隋唐-宋:6C末-12C)

【十次{43}釜大下り坂】(韓国南海岸,新羅僧・元暁(○617~686年 원효)命名:文昌台,弟子・審祥が日本に華厳宗伝教,盟友・義湘,光明皇后の蔵書・元暁著「判比量論」(はんぴりょうろん),(子)薛聡(せっそう)(孫)仲業:新羅使として来日)特記:釜山大学長箭キャンパスの歴史記述
▲ 「華厳縁起」中の日本へ渡海する朝鮮僧・審祥
【057旧館驿】(泉州,护城河,泉州圍,唐(○618-)〜宋代,鞆・大河島砦)小レポ:(泉州城南突出部再考)唐代車橋頭海上砦
【081江夏堂】(厦門,唐朝天寶年間(天宝:○742-756年),釣仔路,洪濟山麓,閩東福安・閩南漳州移民)小レポ:中山路南東裏手ブロックの位置と相貌
【057旧館驿】(泉州,福州開元寺,空海,○804年7月福建赤岸鎮漂着,タミルナードゥ・ヒンドゥー寺院 Hindu-Buddhist temple,Chinese fishing nets in Kochi,“Chini chatti”in Malayalam and Tamil,サンスクリット(梵語),蕃客墓碑)小レポ:空海は福建で何をしてたのか?
▲泉州開元寺のレリーフ。ワニがゾウを川に引きずり込もうとしている様子の彫刻
【024水部】(福州,唐五代王审知(○861-925年)建城時発現从地下涌出温泉,五一澡堂,古三座)m024m地下鉄に千と千尋の水部から
【064龍宮】(始建唐末禧宗(○874—888年),泉州龍宮廟,龙宫城隍庙,泉州浮上,雨乞い)小レポ:小城隍廟・龍宮廟についての僅かな記述
【035十字街】(甫田,ラトゥ・キドル,蛋民,林默娘,960年生987年没,南竿島,千里眼,順風耳)資料:媽祖信仰で語られる媽祖関係基礎データ
【035十字街】(甫田,宋代(○960-1279年)の木製媽祖像・八角井・埠頭,賢良港媽祖廟,重建天后祠記,歴朝褒封徽号)小レポ:もう一つの媽祖の島/島にはない媽祖生誕地
【063清浄寺】(泉州,○1009(北宋大中祥符2)年創建,元代1310年再建,麒麟寺,艾蘇哈ト大寺,Masjid al-Ashab,四大モスク,蒲寿庚,提挙市舶司(提挙市舶),元寇:人類史上最大の外洋航海艦隊,重修清淨寺碑記,重立清淨寺碑記,アラブ人の香港)メモ:調べた中で最も詳しい泉州清友寺情報
【051泉州站】(泉州,ザイトゥン,顺济宫 順済宮,○12~14C,蕃舶客航聚集之地,德济门遗址 徳済門遺跡)小レポ:泉州城にはなぜ顎が伸びたのか
【053泉郡富美宮】(富美宫,车桥头 車橋頭,来运驿 来運駅,八舍后尾,金青龙 银聚宝,青龙街,聚宝街,后山四王府宫 ※仮に○12C)小レポ:八舎后尾になぜ壁があるのか──「泉州圍」仮説 
【046河滨路】(甫田,○1155(南宋绍兴25)年,莆郡瘟疫流行,莆田文峰宮,南宋三大天妃宮,崇福夫人,白湖港)小レポ:莆田文峰宮関係資料から見る媽祖信仰/①[創始]媽祖信仰の端緒はペストの流行だった?

前期倭寇代(元-明初:13-14C)

【19B2伊祖城】(琉球,英祖王(○1229-1299)の父祖代々の居城,EastPinnacle)英祖王統はじまりのお城
【021前屿】(福州,元初(○1277)・元末,明福州府城図)基礎資料:3つの反乱,3枚の地図
【032廟前】(甫田,宋末抗蒙(-○1279),興化府城隍廟,陈瓒)小レポ:興化府城隍廟と民族英雄・陈瓒将軍
【056四堡宮】((漢数字X)堡街,日月太保神,日月太保神紀,○1295~1297年創建,慈济铺浦 慈済舗浦,铺 舗 と 境,泉州铺境,丝绸货物,帆船穴,船帮)小レポ:連なる漢数字プラス「堡」地名
【061北山古地】(泉州,察度王(○1321-1395年),泉州と浦添は琉球と中国が公的に交流を開始した「ゆかりの地」)メモ:沖縄県浦添市-福建省泉州市は友好都市
【012虹橋中转】明朝(1368-)×李朝(○1392-)×足利政権(1336-)=前期倭寇の温床

明専制期(明中:15C)

【19I1大城城】(南城,14C後半:大城城主・大城按司真武(滅)←大里城主・島添大里按司(滅)←1402年佐敷城主・尚巴志(○1403年第一尚氏実質祖・形式第2代)∴9年で大里 1年で首里を陥落,大城・尚巴志伝-偽=朝貢牌の「中山」牌への統一≠統一王国→後付けの琉球王国,18世紀前半中山世譜(蔡温):大里按司・居城島添大里城→島尻大里城∵尚氏三山統一史-朝貢記録の無矛盾)レポ:大城按司真武と琉球王祖尚巴志のいた風景
▲ 10年単位の琉球朝貢の動向〔岡本1999〕
【19B1波之上宮】(琉球,御店(おみせ):貨物販売→島津侵攻軍降伏会議場,大市(ウフマチ):旧那覇中心地,〔海東諸国紀〕東恩納寛淳比定→九面里:久米村 国庫:親見世 宝庫:御物城→○1459年金丸(1469年尚円王に即位)御物城御鎖側)レポ:久米の経済中心・親見世(国庫)と宝庫
▲ 「海東諸国紀」中「琉球国図」一部 *矢印位置∶九面里(久米村)
【041海上ポタラ】(湄洲島,五帝,五福王爷,五瘟大王,疫病退散,显灵公 張元伯,1475年福建大疫)小レポ:福建が何だったから五福神が拝まれたのか?
【十次{33}熊川】(韓国南海岸,○1475(文明7)年薺浦恒居倭数:総数22百人余中75%が齋浦居住,15-16C海東諸国紀「熊川薺浦之図」,佐伯弘次撮影・齋浦(1994))記録掘起:薺浦1994
▲1475(文明7)年の恒居倭数〔朝鮮による人口調査〕※佐伯弘次「日本史リブレット7 対馬と海峡の中世史」山川出版社,2008
【19K3楚辺の路地裏@B面】(与儀,尚真(読み:しょうしん,繁体字:尚眞王):1465(成化元)年生-〇1477年国王在位-1527(嘉靖5)年没:尚氏ほぼ唯一の親政期)レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】/第二尚氏三代 尚真王と第二尚氏在位年数一覧
【062承天禅寺】(泉州,1498(弘治11)年开沟之役発生,巽流,清渠)メモ:八卦沟から出土した壺の謎

後期倭寇代

後期倭寇代(明清交代期:16-17C)/狭義明代(~1643年)

❝明末:〜1644年(清北京占領)前❞
【120毛利・大内の時】(山口,戦国水軍衆図,「(○1523年)寧波の乱→(嘉靖年間:1522‐66年)嘉靖大倭寇」説,倭患起於市舶,潜匿倭國者,勘合貿易が一時有した海人「倭寇」化抑制機能)レポ:赤間関から倭寇は出撃したか?
【062承天禅寺】(泉州,大城隍口,监察司民城隍威灵公,1544(嘉靖23)年发生特大火灾,嘉靖大倭寇)小レポ:北へ動いた泉州府城隍廟
【065北京路台湾路】(漳州,月港,1567年隆慶帝対外開放,万歴朝鮮戦争 朝鮮出兵 文禄・慶長の役 壬辰・丁酉の倭乱,鄭氏海賊)基礎資料:漳州が東シナ海沿岸各国史に落とす影/[漳州前史]月港の盛衰
▲月港の位置と付近の航空写真(GM.地点:百度百科によると住所は龙海县海澄镇。ただし百度地図及びGM.は龍海市と表示)
【065北京路台湾路】(海禁体制再編,月港地方……而東連日本,西接暹球,南通佛郎,彭享諸国……閩南一大都会也,靖海館→海防館,月港二十四将乱,譚綸,福建巡撫塗沢民,不得往日本倭国,北虜モンゴル アルタン・ハーン,1571年隆慶和議)要点メモ:木岡さやか「明代海禁体制の再編と潭州月港の開港」
【065北京路台湾路】(漳州,漳州話詞彙,1571年スペイン人フィリピン上陸,閩南人の最初の大規模海外移転ブーム)基礎資料:漳州が東シナ海沿岸各国史に落とす影/[フィリピンルート]初期の移住を誘ったのは鄭氏だけではなかった
【033広福巷】(甫田,西岩広福寺,陳経邦(○1537-1615年),陈钟岱)資料:西岩広福寺と兴安书院红瓦出土
【133川内観音(急)】(平戸,2008年(長崎市)ローマ法王庁列福式(17C殉教者188人対象),根獅子,6人目は誰?,○1566年(永禄9)処刑)伝承:「おろくにん」様
【065北京路台湾路】(漳州,久米村へ漳州人多量入籍(16C末-17C初),毛国鼎(○1571~1643年))基礎資料:漳州が東シナ海沿岸各国史に落とす影/[琉球ルート]尚氏王権の乗っ取り
【011津屋崎】(豊織期,秀吉,1587(天正15)年博多掟書発布)博多に七つあるもの
【011津屋崎】(豊織期,秀吉,神屋宗湛)1587(天正15)年秀吉博多に来る
【011津屋崎】(豊織期,天正14,島津義久)○1586(天正14)年 島津義久軍,博多を焼く
【011津屋崎】(豊織期,神屋宗湛(1587(天正15)年秀吉謁見),神屋寿貞,石見銀山)世界史級フィクサー神屋宗湛
【十次{24}晋州(夕)】(韓国南海岸,BC35C~AD5C大坪里・上村里遺跡,晋州青銅器文化博物館,菁州→康州→(高麗)晋州,晋州城:1379年晋州牧使・金中光築城(推定),晋州シルク,留守東京・權[日旦] 弾劾状,○1592・3年秀吉軍晋州城攻撃,論介(ノンゲ 논개),ルーベンス「韓服を着た男」アントニオ・コレア)小レポ:晋州城史の数スポットを繋げてみる
▲ 晋州城の位置
【十次{23}順天】(韓国南海岸,バス停・順天倭城入口 순천왜성입구,○1597年築城:宇喜多秀家・藤堂高虎,日本:征海権に絶対の自信,日(小西軍)13千:明+朝55千,実際は「余裕の撤退」,通説:左水営城=麗水・鎮南館→×)レポ:海域世界の輪郭としての晋州-順天-麗水ライン(順天倭城)/海域勢力の対陸前線としての順天倭城
▲ 順天城戦と日本軍撤退関係図[楽天]
【十次{34}亀浦市場】(韓国南海岸,「旧倭寇大名」群による○16C末陶業起業ブーム,三川内焼(佐世保市):巨関 三之丞 嫛,波佐見焼:大村藩連行陶工→大阪:「くらわんか手」,「長崎で外国に売れる陶器」,萩焼:李勺光 李敬,薩摩焼:朴平意 金海 芳仲→①黒もん:「火計手(ひばかりで)」②白もん:苗代川・朝鮮渡来人窯→1867(慶応3)年島津藩パリ万博に「白薩摩」出品)小レポ:やきもの大戦争
▲右:論介(ノンゲ 논개) 左:(ルーベンス画)アントニオ・コレア
【011津屋崎】(江戸期○1600年(整理))塩田,廻船,津屋崎千軒
【043妈祖】(1602(万歴30)年,呉还初 吴还初)小レポ:公式・媽祖ストーリーの展開
【19D3安平古鎮】(台湾,Watergeuzen ワーターフーゼン 海の乞食団→○1602年オランダVOC成立,1658年蘭葡戦争でセイロンがオランダに割譲,社内政敵に背中から刺されたフレデリック・コイエット Frederick Coyett,ヤコブ・カーウ Jacob Caeuw艦隊の敗退,実化しなかった清-蘭・対鄭共同軍事作戦,戦後:コロマンデル織物など生糸(蘭+鄭)→長崎∴蘭:台湾を鄭氏に売り利益化,宣教師アントニウス・ハンブルークとその娘)補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち/[群]オランダVOC=海の乞食団
コロマンデル織物(インド更科)
【19D3安平古鎮】(台湾,ラメイ島虐殺蘭出撃地:下淡水(東港付近),王爺廟(東隆宮):王船,○1603年マニラ総督府:反乱中国人居留者(伝)2万人虐殺→明朝抗議無,鄭氏五商:山-・海-〔黃梧向〕,裕國庫:張恢 主管・利民庫:林義 主管)補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち/[群]「小淡水」東港にも集った漢人
【19I1大城城】(南城・那覇,サツマイモ:○1605年野國総管が琉球に持ち帰り麻氏6世儀間真常※が栽培法習得 ※木綿栽培・糖業も振興←1609(万暦37)年尚寧王とともに薩摩行)断片集:大城城にまつわる刺激的な闇/【角川日本地名大辞典/儀間村】那覇近郊に新・大城城を建設/麻氏8世儀間真常と「琉球芋」
【142唐館(出)】(○1616(元和2)年長崎代官・末次平蔵(初代)蘭・中密輸薬草木の栽培施設設置(後の唐人屋敷),幕府薬草園:十善寺(唐人屋敷)→立山奉行所→十善寺(十人町)→西山郷,シーボルト採取,1818(文政元)年:西山御薬園薬草目録(70種記録),松森神社)小レポ:3所見を総合しての諸論点/[前期]東西植物種の宝石箱?十善寺薬草園
【19D4台南老城西】(台南,赤崁{漢音}シーガン チーガン シンガン={シラヤ語}サッカム(Saccam):魚・漁港→{蘭}○1624年頃シラヤ族から土地購入し居住,赤崁(or七丘)→水仙宮:17C〜の地層)レポ:北極から西へ積まれた海岸線──台南城西門外の「川」とは?/赤崁が「サッカム」だった時代
▲ 陳金鋒(1977生)∶台南市出身の元プロ野球選手。台湾人初のメジャーリーガー。シラヤ族出身
【131川内観音(序)】(平戸,1624年平戸川内浦出生)資料1:鄭成功概伝(史都平戸)
▲鄭成功足跡図
【145m南京寺】(長崎,隠元(禅宗+媽祖信仰)→水戸光國→水戸藩系媽祖宮,霞ヶ浦四十八津vs水戸藩,湖の入会制→○1625(寛永2)年霞ヶ浦北部高浜入を玉里御留川とする,官営海上宗教)メモ:水戸光國と清朝の媽祖信仰推奨の政治的共通性
【19D3安平古鎮】(台湾,スペイン統治下の呂宋:Euro-Asian co-colonialism,○1626年老骨に鞭打ち基隆に要塞建設←{蘭}1642年基隆占領,サルバドール・ディアス:マカオ出身メスティーソ,「日本人キリスト者と現地の女性との間に生まれた2人の娘に最初の洗礼」〔堀江2019〕,宣教師:Nishi Rokuzaemon(平戸) Sato Tomonaga(大村)→共に長崎で刑死,拱柱:「公子鄭明」を奉じ第二鄭氏王朝を計画)補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち/[群]マニラのスペイン・ハイブリッド集団
▲17C半ば(鄭氏台湾成立前夜)の東アジア海域の勢力図
[赤]スペイン(マカオ)圏 [青]オランダ(バタヴィア・VOC)圏 [緑]日本(江戸幕府・薩摩)圏 [黄]明清漢族(浙江・福建人等海民)圏

【19D3安平古鎮】(台湾,{日}菖蒲革→16C半ば(VOC台湾展開前から)に鹿皮輸入国化→VOC-日本の主力密輸商品→台湾梅花鹿絶滅,①中国人交易商・猟師:虎尾(麻豆北)拠点,②ルソン島:日本市場向け鹿皮集積地,1625年「年々二十万枚」〔バタヴィア城日誌〕,○1628年タイオワン事件(長崎代官末次平蔵配下・浜田弥兵衛),1645年「バタヴィア城日誌」:鹿猟免許状売残り)補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち/[群]鹿皮輸入大国・中近世日本
【19D3安平古鎮】(台湾,鄭芝龍:台湾植民のモーセ,1633年料羅湾の戦(蘭+劉香vs鄭芝龍)→○1634〜1641{蘭}ラメイ島(小琉球 {現地語}Tugin {欧}Gouden Leeuw),蘭出撃地:下淡水(東港付近))侵攻→1661年鄭成功がゼーランディア城攻撃物資をラメイ島から調達,先住民・「烏鬼番」族,交渉役パングソィヤ(漢:放索仔)社,ラメイヤー(Lameyer):1645年頃長崎オランダ商館長下僕にピーテル・ラメイヤー Pieter Lameyer)補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち/[群]シンカン・サウラン・マタウ・バカラウワン族⊃原住民

後期倭寇代(明清交代期:16-17C)/鄭氏台湾時代(1644~1683年)

❝1644年(清北京占領)-1661年(遷海令)前❞
【055幸福街口】(指揮巷:推定明末1644年)义全后街:泉州織物工場
【132川内観音(破)】(平戸,○1646(正保3)年鄭芝龍発南明要請,1644年琉球使節:王銀詐取事件)小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係/1-4 琉球が綱渡りした「等距離外交」/[対明]王銀詐取事件
【132川内観音(破)】(平戸,○1646年琉球・毛泰久ら独断で清に投誠,羽地朝秀書簡,1670年福州の琉球船から鄭經部將・蕭啟が硫黄強奪,「賠償」銀3百両)小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係/1-4 琉球が綱渡りした「等距離外交」/[対鄭氏]賠償金を払ってくれた海賊王国
【021前屿】(福州,鄭成功根拠(1645年 鄭芝龍擁立の唐王朱聿鍵(隆武帝)),清代福州城,水部門)基礎資料:3つの反乱,3枚の地図
【132川内観音(破)】(平戸,国姓爺忠義伝:「国姓爺深智乞和兵」節,○1646(正保3)年鄭芝龍発南明要請,孝正太后(永暦帝嫡母)ローマ教皇へ救援要請,郑彩 鄭彩,大納言(秀忠)欲赴援南京,「本国の名折なれば加勢遣わされなん」,「鉄人部隊」「倭銃隊」伝説,1644年琉球使節:王銀詐取事件,1637-83唐船中国糸輸入高,陸域開拓時代のブロック経済促進策)小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係
▲オランダ兵士が描いた鄭成功-オランダ戦闘スケッチの中の「鉄甲部隊」
▲1637-83唐船中国糸輸入高〔岩生成一「近世日支貿易に関する数量的考察」『史学雑誌』第62編第11号,1953〕
▲1646年1~9月長崎来航唐船と主要貿易品表〔「オランダ商館長日記」『日本海外関係史料』第9冊〕
【068打錫巷】(漳州,1652年 八卦樓(威鎮閣)焼失,浙閩総督 劉清泰,餓死者70万人)小レポ:鄭成功 漳州を焼く
【092殿前】(厦門,大屿盘礴,篔簹渔火,江头 江頭,厦门舆图,江頭広福寺,鄭成功,隠元禅師,鄭成功「备舟护送」,拨船护送者,隠元江頭出港○1654(永歴8)年6月21日「江头把臂泪沾衣」〔中左江头别诸子,甲午六月廿有一日〕,「相知唯有江头月」〔八月初十夜渡谏早江〕:諫早湾で江頭を想起)レポ:鄭成功は海上にあり──「厦門中央湾」篔簹湾考
【093華僑博物館】(厦門,鄭成功,嘉興寨,鴻山寺,延平郡王園,鸿山织雨,雨丝交穿如织,1889(光緒15)年喜参再興)※推定:○1655年小レポ:鎮海路から見えた石垣は何だったのか?
❝1661年(遷海令)-1684年(展海令)前❞
【065北京路台湾路】(漳州,1661年頃鄭氏政権台湾西部支配,移民募集)基礎資料:漳州が東シナ海沿岸各国史に落とす影/[台湾ルート]鄭氏王朝の一翼としての台湾移民
【19D2開台天后】(台湾,鄭成功収復台湾要図,鄭成功軍と行く17C安平湾仮想紀行,赤崁:{平埔族}新港社〔霏雲居続集〕→1617年趙秉鑑(漳浦県名士)占拠→1652年郭懐一の乱,大員:→現国名「台湾」?,鄭成功軍25千人中半数戦死?,一〜七鯤身,○1662年2月安平城開城,最後の蘭台湾提督フレドリック・コイエット Frederick Coyett→ジャワVOCで死刑判決,鄭成功に鄭氏台湾創設構想無)[地図帳]鄭-蘭一年戦争の地・安平湾が消えるまで
▲ 鄭成功収復台湾要図
(赤線)鄭成功軍 (青線)オランダ軍

【19E2嘉義から西行】(嘉義-北港:笨港,北港渓:延長82kmBut八七水災,一府二笨三鹿港,康熙(○1662-):「笨港街 臺屬街市 此為最大」(台湾最大都市) 乾隆(-1795):「笨港街 俗稱小臺灣」(ミニ台湾),17C蘭地図「Ponkan」,「至笨港入於海」(河口の町)〔台灣府志・蔣志及高志〕,赤崁∋兵千-軍船18:笨港∋兵55-軍船1〔同高志〕,全台湾21港関税1,254両∋諸羅県9港72両(5%)∋笨港14両(1%)〔同高志〕∴課税客体船舶の把握率低,「因水淺沙凝 洋船不能進口 故每次海防均無夷患」(夷患を無くせない)〔雲林縣採訪冊〕)レポ:北港朝天宮創建のヴァーチャルとリアル
▲ 清朝時期の台湾農村写真(場所,年代等不詳)
【085后江埭】(厦門,
靖海将軍・施琅,威略将軍・吴英,○1663(康熙2)年厦門都司,1682(康熙21)年朝廷表彰,将軍廟路,1956年鷹廈線完成)小レポ:将軍廟から厦門駅エリアへの250年
【19D3安平古鎮】(台湾,「船所盈餘的錢,有一部份寄存在日本長崎唐通事處。」〔維基/五商〕,「自銀寄放在日本長崎的唐通事處。」〔呉密察監修 台灣史小事興〕,鄭成功が○○した:実際は五商が鄭成功看板で挙行?,五商活動範囲:1640年代ベトナム・カンボジア・シャム→50年代パレンバン→60年代(マレー)リゴール:山田長政創設貿易都市→○1663年鄭泰事件:鄭經 五商リーダーを殺害・王朝から分離(「日本存銀」30〜40万両≒百億円相当)→1667年カンボジアVOC商館襲撃,「積貲百餘萬;別以四十萬寄日本國」〔閩海紀要〕≒ゼーランディア城横領金額?→1675年長崎側26万両のみ返還,悪人ピンクワ 何廷斌)補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち/[謎編]日本長崎唐通事處は鄭成功の金庫番だったか?
【154福州寺】(長崎,鄭氏台湾期:漳州-泉州-福清-福州「野党連合」攻勢→南京系,鄭氏滅亡後:南京系巻返し,○1682年飢饉は疑念有,現実には出遅れた施粥を大掛かりにパフォーマンス)レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清///1682年4月 崇福寺施粥
【154福州寺】(長崎,崇福寺大雄宝殿:(本体・舶載建立)1646(正保3)年建設 (上層屋根付加・日本人工)○1681(延宝9)年=宮田安説,中国ユニット式・当時の最高峰建築に和風二層目の増築企画)////施粥を遅らせたのは大雄宝殿の重層化工事か?
【041海上ポタラ】(湄洲島,1683(康熙22)年,姚启圣,施琅,神女祠)小レポ:媽祖祖廟の正殿と朝天閣の関係
【19J2壺屋の始まりと終わり】(那覇壺屋,琉球泡盛:薩摩→徳川将軍家献上品定番but琉球焼物に言及無,1616年薩摩→朝鮮人陶工(一六・一官・三官)湧田窯(現・那覇市泉崎)で技法指導,○1682年県内窯場(知花・宝口・湧田)→那覇市壺屋に統合(②官営テクノタウン化),2つの幸運+①沖縄戦被災軽微,「曲線の道路網と円形や楕円形などの不整形な区画によって形成」〔高橋2009〕→×格子状)レポ:やちむんより前からの壺屋
▲ 琉球王から徳川将軍へ泡盛酒献上記録〔加藤百一1958〕
【19F1鹿巷まで】(鹿港,歴史学者・張其昀(1901-1985年),①澎湖・②安平・③台南・④鹿港(○1683(康熙22:台湾設府)※-1842(道光22:南京条約→五口通商停止))・⑤淡水・⑥台北・⑦台中・⑧基隆・⑨高雄期,鹿港期159年/台湾史750年,※=正式航路就航※※:1784(乾隆49)年-1C,※※=福建将軍永德の台湾米商人規制を中央容認,「公共事業皆由八郊處理」〔鹿港舊志〕≒八郊自治体)レポ:鹿港史の表は短く裏は永い/台湾史9区分説と「鹿港期」160年

後期倭寇代(明清交代期:16-17C)/清専制完成期(1684~1734年)

❝1684年(展海令)-1734年(乾隆代前年)❞
【142唐館(出)】((○1684)17C後半以降,清→長崎「壮遊」ブーム)[期末]爛熟して散った華
【19C3奥武島観音】(琉球,漂流民の御礼寄贈説の実証無,○1687年漂着人数88人〔程氏家譜〕→当時の標準タイプ・四百科船≒千石船規模→水深最低2.4m要,1687年:勝連(浜比嘉島)着→玉城・奥武島へ曳航(国府確認後 鄭弘良※自ら随行) ※程順則師・世子中城王子尚純侍講)レポ:唐船はなぜ奥武島に着いたか?
▲斎藤秋圃※「梅園天満宮縁起絵巻」レプリカ(部分)。
【153梅園】(長崎,1700(元禄13)年梅園天満創建,○1693(元禄6)年梅野五郎左衛門襲撃,1689年唐人屋敷稼働,WW2出征丸山町兵士全員参拝)小レポ:梅園の時空寸描/① 乙名・安田治右衛門襲撃事件
【142唐館(出)】小レポ:3所見を総合しての諸論点/(末次平蔵,1675(延宝3)年末次家断絶,1698(元禄11)年末次火事,1688年中国人の長崎市内散宿が禁止→公式・入居完遂○1696年(8年間居場所無?),唐人手廻リニ相交商売物有之候ハ可申出事,高級軟禁地)[期首]ゆっくり行われた?唐人屋敷への収用
【142唐館(出)】(主目的:✕抜け荷 ✕キリスト教布教禁止→清国に対する外交的撤退,[a]末次廃絶:「日本は清に敵対しません」(∴中国南部交易圏放棄) [b]唐館設置:「日本は今後も清と外交関係は持ちません」(∴来航中国人軟禁))小レポ:3所見を総合しての諸論点/[期首]/対清外交撤退戦の最終防衛ラインとしての唐人屋敷
【154福州寺】(長崎,1696(元禄9)年建設,四手先三葉栱,林守壂(福清):第一峰門(17C末再建)建資出資,何高材(福清):興福寺大雄宝殿建資出資,隠元(隆琦)招致メンバー,福清:アイデンティティ上福州とは異種,全世界の福清系華僑華人51万人)レポ:崇福寺第一峰門から眺める福清/林守壂も隠元も福清人
【155漳州寺】(長崎,1688(元禄元)年長崎貿易歳船70艘中廣州船10艘,○1708(寛永5)年長崎奉行所「向後三箇寺と等分にて媽祖預りをなすべき」→「三箇寺反對」により停止,長崎奉行が建設・改築資金支援,1677(延宝5)年鉄心道胖聖福寺開創,羽毛緞=Camlet=アンゴラ山羊毛織物,1685年広州に粤海関設置→1720(康煕58)年清-西洋貿易を広東十三行独占,長崎への広東勢力誘致による「三点均衡」策)小レポ:三福寺体制と相対した聖福寺
【19G5淡水關渡】(台北,(○1711)「自四十九年洋盜(略)鄭盡心潛伏在江 浙交界之盡山 花鳥 台州魚山 台灣淡水」(:海賊鄭盡心が淡水他に潜伏)「淡水一港則閩省內地商船及江 浙之船皆至焉」〔後掲諸羅縣志〕←江・浙・閩・廣四省水軍(舟師)が探索,(1712)「康熙51年(略)洋盜鄭盡心在淡水外海窺伺」〔宮HP〕,「洋盗鄭盡心・陳明隆自遼海竄據淡水 地方騒動」〔淡水大事記年表・原典淡水鎮志〕→1711年鄭盡心捕縛→1712年賴科關渡宮創設)レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ//淡水を狙う者 護る者
【171野間岳】(南さつま,万世町:1925(大正14)年設立→1954(昭和29)年加世田町統合,沖縄戦特攻機離陸地(搭乗員数で二百人余),醤油屋「丁字屋」:○1735(享保20)年創業 島津藩下では廻船問屋,万之瀬川旧河口,唐仁原:伝・中国人渡来地 唐仁塚川)レポ:南さつま市「万世」のこと
【111朝天宮】(台北,万華5エリア:(北部)西門町 (中部)艋舺・下崁 (南部)加蚋仔・南機場,雷里社 蘭:Rivrijcd,1740(乾隆5)年加蜡庄設置,六庄头,中核エリア:堀仔头=現・東園街)レポ:高槻ではない加蚋仔を知らなかった件
【165鶴見山】(南さつま,宮本常一:過大視せず,大陸航路要衝・遣唐使の本土最後の寄港港「入唐道」,百済渡来僧:一乗院創建,慶長年間:シャム行き英国船鰹節を積み入港,伝・○1722(享保8)年「享保の唐物崩れ」(坊津拾遣史:享保 (1716年)初め),坊津港→枕崎港,「坊津港のひそかな繁栄時代」,「唐物崩れ」後,江戸期「海民」はどこへ行ったのか?)資料断片:唐物崩れとは何が起きた時空か?
(1684-1734終)

清専制絶頂期(1735~1815年)

※1735年(乾隆代)〜1815年(夏のない年※前年)
▲島津家負債の拡大状況
【145m南京寺】(長崎,政略結構,○1756年〜重豪(子:篤姫 ∴家斉舅)代,島津にとって江戸時代こそ本当の戦国,負債250年賦)小レポ[1/2]:在長崎・薩摩秘密屋敷という永久の謎/② 薩摩が長崎になぜ秘密屋敷を持ったのか?/③ 薩摩はなぜ野放しだったか?
【19D5台南天后】(台南大天后宮,面寬三開間 四殿兩廊式配置,大天后宮後方:寧靖王府(明朝皇族寧靖王:南明期(1663年)台湾避難),増築過程:①1740(乾隆5)年【鎮標遊擊 石良臣】→②○1775(乾隆40)年【知府・蔣元樞】構造改変(媽祖祭壇:第ニ進⇒第三進)→③1818(嘉慶23)年火災※後【三郊】再建,伝統行事「府城迎北港媽祖」,開祖・際恬勝脩和尚←黃蘗宗萬福禅寺(長崎興福寺開基・隠元和尚出身寺))レポ:大天后宮の祀神群に見る由緒の古層
【142唐館(出)】(水手・董道武:62人逮捕,遠見番・孫之進:1779(安永8)年抜け穴密輸)[期末]爛熟して散った華/火付け抜け荷は長崎の華
【145m南京寺】(長崎,○1810(文化10)年公認:在長崎・薩摩藩交易場,西浜町:浜崎太平次蔵・同五島藩隣接,「薩摩藩の長崎商法」,1836(天保6)年大久保忠真・風説書:薩摩「北国筋越後辺江相送り売捌」「近年長崎表衰微」「不正筋取扱……本商売之方より多く相成」)小レポ[1/2]:在長崎・薩摩秘密屋敷という永久の謎/② 薩摩が長崎になぜ秘密屋敷を持ったのか?
▲「琉球産物」払立代銀の配分
(1684-1815終)

※1816年「夏のない年」
(上図)Robert A. Rohde,2005 wiki「夏のない年」掲載(原典 十種の気候予測重ね書き) (下図)世界の国別人口の推移をグラフに | You Look Too Cool(原典 wiki/各国長期人口推計)
※上図中縦細線は引用者追記(1816年相当)
※本稿では19C初頃の交易と移住志向の変調原因を,1815年インドネシア・タンボラ火山噴火を最終的な引金とする1816年「夏のない年」(Year Without a Summer)に仮に見立てた。なお,この一時的小氷河期は,同時期ののスフリエール山(カリブ海セントビンセント島),アウ火山(インドネシアサンギヘ諸島),諏訪之瀬島(現・鹿児島県鹿児島郡十島村)及びマヨン山(フィリピンルソン島)の噴火並びに太陽活動の低かったダルトン極小期(1790-1830年)の重複的作用ともされる。
 この寒冷期は,いわゆる「17世紀の危機」(The General Crisis)を招いた小氷河期より寒冷度も期間も小さいけれど,世界史初の規模の人口増加局面にあった清帝国と海域アジアには,一次産業と定住生活形態からの大きなプッシュ要因となったと想定する。社会現象としてのその最大の現出が,華僑の大量渡海と推定する。

大航海時代(1816年(夏のない年)-19C)

(-1815年(夏のない年※前年))
【19D5台南天后】(台南大天后宮,○1818(嘉慶23)年火災※後【三郊】再建,伝統行事「府城迎北港媽祖」,開祖・際恬勝脩和尚←黃蘗宗萬福禅寺(長崎興福寺開基・隠元和尚出身寺),嘉慶大火※:①銀銭全て溶解 ②廟務の主導権が住持僧→三郊に移行,「住持僧所蓄銀錢俱鎔化。惟大門一列尚存。此次專焚神像 殊堪詫異。」〔台灣採訪冊〕→北方・北港圏が宗教的進駐?,日帝下「台南寺」(日本系曹洞宗僧管理→「退出」),1915年糖郊媽事件:北港媽(北港の媽祖)台南巡行中止≒日帝vs三郊)レポ:大天后宮の祀神群に見る由緒の古層/嘉慶大火後の再建と新旧媽祖信仰の交代劇
▲ 維基百科キャプション「日治時期(1933年前)的大天后宮;可以注意到三川門的屋頂形式與現在不同。」
──日本統治時代(1933年以前)の大天后宮;三川門の屋根の形式が現在とは異なることに注意。

【142唐館(出)】(検挙180人検挙/在留唐人331人中,70人大村牢送還)[期末]爛熟して散った華/
1836年 唐人屋敷の反乱
【142唐館(出)】小レポ/[期中]高級軟禁地 カンナイ・バレー/(○1837(天保七)年長崎奉行久世広正言上書,①正規+②売捌唐薬(琉球産物と唱,於当地売捌) ③水夫抜荷密売品 ④町年寄所望品(願請) ⑤部屋附火元番共貰物(謝儀),株式・役株の売買)幕末長崎奉行言上書の記す5ルート
【066太平天国侍王府】(漳州,龍眼营漳州最古老的街名,太平天国(1851-○1864年),漳州通元廟,王謝安,謝玄,陳元光)太平天国は夢の跡
【103啓天宮】(台北,料館口,料館媽祖啓天宮,番害守護神・番王爺,黄阿禄嫂,福材 ランダイスギ,紅船,相傳○1841(道光21)年,阿里山林業鉄路,放木排(放竹仔):四川岷江・東北鴨緑江・河北馬家寨村,一方水土一方人,各处乡村各处例,“在移动中”的社会,メティスの知,大甲渓,大鎮瀾宮,隘勇線)小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景――――阿里山材,放木排,大甲渓
【104巌恵済宮】(台北,开漳圣王(開漳聖王),黄国聘,吴廷诰,○1859(咸丰9)年漳泉大械斗,1786年林爽文事件・从八芝兰街逃至圆山仔上的漳州人皆被杀害,泉州義民兵,同安人焚燬搶掠,潘永清,孚佑帝君→巌,中和慈雲岩,ぱっしらん温泉→八芝蘭→士林)小レポ:漳州裔の最後の砦・巌恵済宮
▲「アヘンマネーと明治維新」
【152小菅船場】(長崎,1836(天保7)年長崎町年寄連名・会所財政再建計画書:薩摩産黒糖につき言及無,江戸後期:幕・藩の経済力の逆転トレンド→薩長突出,濱崎太平次:(屋号)ヤマキ→篤姫結婚資金,島津重豪蘭癖,Thomas Blake Glover:(英)ジャージン・マセソン商会代理人・○1859年着任時21歳,阿片マネー,1860年代半ば:長崎外国商館最大手,倒幕=幕府表経済:統治優先(資本・物量黙殺)<薩摩裏経済:規模的リミッターを超え暴走,グラバー&薩摩立・小菅ドック,薩摩によるガバナンスの効いた裏経済,1870年グラバー商会倒産)小レポ[2/2]:裏経済の具現 グラバー,薩摩,龍馬
【093華僑博物館】(1860年代大陸検断鉄道建設←中国人大量移民)本編/中国系アメリカ人の博物館
▲華僑博物館展示「1852年1至8月,从中国和其他太平洋港口抵达美国旧金山的中国移民人数」1852年1〜8月に中国からアメリカ・サンフランシスコへ上陸した移民人数表
【142唐館(出)】(明治元年三月唐人屋敷視察,窮人のみ居住)[期末]爛熟して散った華/唐人屋敷の最後のスケッチ
【091狐尾山】(バターフィールド&スワイヤー Butterfield & Swire(B&S) 中華圏用名称:太古 taikoo,○1880年補修,趸船(繁体字:躉)=浮桥 浮き桟橋,水上集落のパーツ,1931年:固定港湾化,大小三十二码头)小レポ:太古碼頭から和平碼頭へ
【113中山地下街】(台北,劉氏滅亡から二百年後の台湾省初代巡撫,劉銘伝,○1887(光緒13)年鉄道敷設,新竹路線ルート,初代・木造台北大橋(1889年),1889(光緒15)年彰化・施九緞叛乱,大稲埕再開発構想)小レポ:清領台湾最後の10年間は徒労だったか?
【113中山地下街】(台北,○1888(光緒14)年郵便局制度創設:台湾省初代巡撫・劉銘傳,初代郵政郵局:大稻埕・建昌街,栗山俊一,日本統治代:海のくに・台湾を近代・陸人の発想で再構築)小レポ:台湾郵政省の大稲埕からの移動
【103啓天宮】(通商彙纂○1891(明治41)年)資料集:正史としての福建→台湾の木材輸送
【081江夏堂】(1375(明洪武8)年婆羅國王家姻戚→○1893年フィリピン移民第二位姓→1910(清宣統2)年創建,委托江夏会館为手続和担保)小レポ:私設・イミグレーションとしての江夏堂
【19F3鹿巷勅建及彰化南瑶】(鹿港,○1895年4月17日下関条約締結→({日}約7万6千出兵※原田敬一説40万)5月29日〜10月21日台湾民主国,8月25-28日八卦山の戦い)レポ:大日本帝国と彰化南瑶宫
▲西里喜行「中琉交渉史における福州琉球館の諸相」2006図1 原典:高岐輯「福建市舶提挙司志」[出版者不明], 1939。柔遠駅の建物配置,左上に天妃宮が描かれる。
▲柔遠駅推定地点※の百度地図(衛星写真,2020)※福州・六一中路と国貨東路交点,象園高架橋付近の「館前街」「館后街」に挟まれたエリア。X的には明らかに古い見映えの集落。緑丸が観光スポットですが,右上「万寿総堂」と左下「館通古跡」と疑わしい名がある。
【023能朴天】(福州,琉球,柔遠駅,南清貿易(○1899年頃),万寿橋)データ集:琉球-福州交易ルート
▲年代不詳・福州万寿橋付近の写真
【19K1首里観音への道】(那覇松川,明32(1899)〜昭13沖縄県からの移住者数72,134名α÷昭15沖縄県人口β≒「沖縄県民の約12%が移住した計算」〔総務省統計局国勢調査〕,(α+戦前台湾移住約3万人)÷β≒18%,上り口説と同メロディー:「移民口説」)レポ:首里を出で観音堂から那覇港/海の向こうで歌い継がれる替歌

帝国の時代(20C-WW2前)

【105何度でも師大夜市】(台北,古亭庄配電所1905年稼働,鼓亭or古亭畚or孤壇,台北高等学校,台湾総督府殖産局山林課官舎,錦町六条通り)小レポ:古亭のことを初めて真面目に調べてみた
【021前屿】(福州,福建軍閥,福建同盟会(1906年成立),福州古城)基礎資料:3つの反乱,3枚の地図
【103啓天宮】(台北艋舺,○1912年嘉義(標高30m)-阿里山(標高 2200m)間森林鉄道敷設,日本統治半世紀で原生林10万ha事実上消滅,日本原産スギ植樹→主要現植生:但し目的の建築資材としては不適合(心材色が黒)→(現在)在来種に転換し再植樹)データ:漢族移民と日本人によるタイワンスギ原生林の破壊
【072教師新村】(漳州,林内商会,1920年設立)トレビア:リンナイは本当に林内でした
【083夏商市場】(厦門,中山路~開元路~夏商市場,双莲池街 双蓮池街,「赖厝埕湾」,ブルネイ・カンボンアイール,1920年林尔嘉・黄奕住等进行旧城改造,厦門市政会,小破壊による大破壊回避)レポ:厦門海水上に開元路が立ち上がるまで
【084石浔巷】(1405(永楽3)年厦門移住,工人,“三大姓”帮派:吴・陈・纪,1920年代厦門第一次再開発,海外移住20万人,吴氏-日本海軍戦争「台吴事件」:○1923年,保衛団)メモ:石浔吴氏の仁義なき3つの闘争

大密貿易時代(WW2)

❝WW2❞
【19I3-2【特記】あめりかゆの道】(南城,アメリカ世変り,○1945.3.25-壕生活→4/30瑞泉社壕灰燼→5/2玉城村糸数壕→6/1「慶座」壕→6/27「金武行き陸上突破」失敗→壕中沖縄戦反省会→8/10特攻艇船で慶良間へ脱出→8/12慶良間山中→8/21下山→8/22屋嘉収容→10月末百名→11/15百名初等学校運動会客席)記録:徳元八一「避難記」1946(抄)
【19I2垣花城】(南城,本島上陸前の米軍陽動作戦→{日}独立混成第44旅団,(現実)1945.5.22米軍雨乞森(米軍名∶Chestnut Hill)奇襲占領→以後掃討戦,日本軍公式記録ほぼ無→極めて無謀な玉砕戦?,戦前:慰安所,○1945年「五月二十六日 大城※ノ戦斗 山部隊ノ援助ヲ得勇戦スルモ敵戦車ノ猛攻ヲ受ケ戦斗意ノ如ク成ラズ」※米軍名:HILL 117°)レポ:知念エリアの沖縄戦
【19K1首里観音への道】(那覇松川・首里,米第6海兵師団:シュガーローフ→首里高地,1945.5.20〜10日間首里城包囲のまま膠着→首里観音堂(米軍名:Beehive Hill){米}○5.28F中隊無血占領:{日}独立第2大隊第2中隊配備?→後続部隊(大隊規模)3時間で首里城占領→{米}首里攻撃方針転換:首里城から北へ攻撃→5.31日本軍首里撤退 ∴日米両軍とも首里観音〜首里城のベルトを当初全く見過ごし)レポ:蜂の巣の丘から首里城突入
]▲ 1945.5.28「第5海兵連隊第3大隊地区の右翼のF中隊は、1015から安里川に向かって攻撃を開始した。敵の抵抗は小さく、(略)昼までには目標であるBeehive Hill を占領した。」〔沖縄戦史/首里地区の戦闘〕※黄色○は首里観音(引用者)
【19I2垣花城】(南城,{米軍}○1945.6.4-5知念半烏各地で収容所開設(7月初:4万人)←{日軍}「知念附近二於テ遊撃戦斗ヲ実施」〔船舶工兵第23連隊資料〕,CIC(防諜分遣隊 Counter Intelligence Corps),米軍飛行場建設も企画)レポ:知念エリアの沖縄戦/【沖縄戦後】インテリジェンス管理下の知念半島収容所群
▲ 知念半島に開設された収容所(事務局作成)〔南城市教委「南城市の沖縄戦 資料編」(第2版)第7章第一節〕
【19C1八重瀬城】(琉球,○1945.6.6前:独立混成第44旅団海軍勝田大隊を八重瀬岳山上配置→6.12:敵の戦車十数両八重瀬岳に→6.15:日本も敗亡の途〔沖縄第32軍八原高級参謀「沖縄決戦」〕)戦史:南部戦線最後の組織的戦闘 八重瀬岳攻防戦
▲ 沖縄・八重瀬岳1945/6/6(上)・13(中)・16(下)日米戦況図
【19C4世持井】(琉球,摩文仁,○1945.6.17第32軍最後の攻勢,6.20-22米軍の日本軍殲滅作戦)マップ集∶1945年6月 仲座の5日間
【007-2佐世保下り道\平戸編\長崎県】(佐世保,○1945(昭和20)年6月28日佐世保大空襲,須佐町・高梨町,死体安置所)小レポ:不老洞の昭和20年

大密貿易時代(WW2終戦-1965文革より前)

❝WW2後-’40代❞
【19I3あまみきよの道】(南城,ニール・ヘンリー・ローレンス Neal Henry Lawrence,CP∶Civilian Police(米軍任命民警) MP∶Military Police(憲兵),「物資所持につき調査した所区長と売店関係の人々が多分に持って居た」〔○1946年7月26日開催民政府・部長会議〕)レポ:神世とアメリカ世が交差する知念/論点2 収容所から米軍政中枢,情報中枢へ/建材・電燈 知念のモノ余り そして……
【19I3あまみきよの道】(南城,1945年5月19日の第32軍司令部今後方針3案「首里複郭案」「知念半島撤退案」「喜屋武半島撤退案」∵洞窟陣地選択,「差し当たり本部・コザ・知念・宜野座のモータープールを工務部に移す」〔1946年5月8日沖縄民政府経済小委員会〕,○1946.8軍政府:具志川市→玉城村 10月 民政府:石川市東恩納→知念村志喜屋,「志喜屋知事 来週の連絡会議は知念でやりたい」〔1946年10月15日軍民連絡会議〕)レポ:神世とアメリカ世が交差する知念/論点2 収容所から米軍政中枢,情報中枢へ
【19G6西門天后】(台北,艋舺の「新選組」?“青山王”夜間巡礼,嘉義(北港朝天宮)→萬華(青山宮)媽祖巡礼,南機場→1949年空南一村:戦後の「眷村」=蔑称「外省人」拠点←1948年以前:「機棚」に空軍家族居住,1947.2.28台北市内(対国民党)抗議デモ,二二八和平公園に残る台北大天后宮基部,∴○1948.6.1年(準)戒厳令下,法華寺案拒絶≒媽祖信徒の外省人妥協拒否,①抗議勢力中枢×②大天后宮後掲=西門町,1973年〜日・高野山金剛峰寺から台北天后宮へ僧渡台)レポ:闇に闇重ねて台北天后宮/政治勢力としての新興宮信徒群
❝’50代-1965年❞
【19J3香港通り】(那覇,“糸満三羽ガラス”①金城商店:金城カネ氏②幸陽商事:金城慶子氏(「ナツコ」→承継:照屋敏子氏)③照屋商店:照屋ウシ氏,(○1950年頃)表経済との調整窓口又は裏-表経済界の国境?)レポ:香港通りと糸満三羽ガラス
▲ (上)撮影位置図※ (中)2015年現在景観 (下)戦後すぐ頃の同地点古写真
※ひやみかちマチグワァー館(現在廃業。桜坂劇場への西登り口付近)の2階から撮影

【046河滨路】(甫田,文革,1952年百貨商場)小レポ:莆田文峰宮関係資料から見る媽祖信仰/②[現代]移動する莆田文峰宮
▲左:陳嘉庚 右:胡文虎
【084石浔巷】(厦門,1959年華僑博物院創設,
陈嘉庚 陳嘉庚 タン・カーキー:ゴム製品,南洋商報,廈門大学,華僑抗日義勇軍組織,「愛国老人」,儒商,
胡文虎 アウ・ボーンハウ:虎標萬金油 タイガーバーム,星洲日報,
華僑経済規模1~3百兆円≒世界個人資産1/3~4)小レポ:2人の南洋華僑
【19I3あまみきよの道】(南城,アジア最大級の極東戦略基地〔ペンタゴン・ペーパーズ〕→1974年閉鎖・返還→2017ジョン・ミッチェル証言,○1961-1963戦略ハムレット計画:UW(Unconventional war又はwarfare 不正規戦争)コア施設)レポ:神世とアメリカ世が交差する知念/論点2 収容所から米軍政中枢,情報中枢へ/知念CIA基地 CGS
▲ CIA「混成サービスグループ」CSG見取図中コア施設部
【19I3あまみきよの道】(南城,2013〜17年沖縄タイムス報道:当時基地勤務(○1963-66,69-72年在沖縄)者子息ロバート・ジャクソン氏(在沖縄当時3-12歳)インタビュー記事(ジョン・ミッチェル特約通信員:実質反日米同盟運動家)→バイアス有,職員:ワシントンから約3年交代で赴任,CIA管理→グリーンベレー:訓練拠点・語学学校,「当時 沖縄には核ミサイル基地 膨大な化学兵器の集積があり 驚くほど要塞化」「アジアのある国の首都で政府高官の文書を入れ替える任務」〔回顧録〕,基地南側森内に「Zエリア」:50〜60年代アジア系外国人収容,「ショップ」工房)記録:「知念補給施設」on1960-1970
▲ 1971年7月に実施された第2次移送に先立ち発行された琉球政府のパンフレット「毒ガスについて─24の質問に答える─」〔後掲沖縄公文書館/毒ガス兵器撤去のたたかい〕
(大密貿易時代(WW2終戦-1965文革より前)終)

マネーと管理から見た
共産中国-台湾-華僑均衡図
     (大陸)   (海外)
(国家)  中国←敵対→台湾
管理・扇動|| 資金\ ||
(市民)  人民←敵対→華僑

文化大革命以後(1966文革〜現代)

❝文革期(1966-76年)❞
【071柑仔市】(明十三陵定陵1956年発掘,○1966年紅衛兵等批判会で焼却)メモ:ガソリンで焼かれた万歴帝
【092殿前】(厦門,何厝:金門砲戦時英雄談「英雄小八路」,「志願軍(略)在朝鮮前線立功」,江頭街→○1967年:前線街に改称→1995年:台湾街,厦門内海は広かった)レポ:鄭成功は海上にあり──「厦門中央湾」篔簹湾考/江頭の文革
▲《厦门日报》1953.6.11报道
【084石浔巷】(厦门鸿山人防隧道 厦門鴻山人防隧道,○1970年代建造開始,防空壕,1958年金門砲戦,金門上陸戦,1958年九二海戦,反共救國軍,反特治安展覧会,集訓登記,集美華僑學生補習學校,金門包丁 金門菜刀 金合利鋼刀,落書きトンネル,1996年人民防空法制定,平战结合 平戦結合,1950-57年中国貿易赤字13.8億US$:華僑送金11.7億US$,大陸-人民-台湾-華僑四点均衡,フィッツジェラルド)レポ:トンネルはどういう時空に造られたのか?
▲華僑送金の推移〔曽根康雄「1950年代の中国の華僑送金政策」日本大学,2011〕※原典:山岸猛(2005)「華僑送金:現代中国経済の分析」,103 ページのデータをもとに作成
❝文革より後1977〜’80代❞
【042土地公】(湄洲島,朝天路,蔡辅雄,1981年,两岸交流)小レポ:「朝圣路」の意味
【19I1大城城】(那覇,戦後接収→主に米軍住宅→○1982(昭和57)年民間返還,小禄金城公園の御嶽は存続?≒宝島「紫さんの御嶽,現・那覇空港:1933(昭和8)年佐世保鎮守府所管不時着陸場「小禄航空基地」竣工→1935(昭和10)年逓信省管理「那覇飛行場」に変更→1940(昭和15)年滑走路を1500mに拡張(日中戦争による輸送便増対応)→1944年10・10空襲で機能喪失,返還前の小禄バス停:車窓から故地を見るだけ)レポ:小禄金城地区のなめらかな湾曲
返還前(∶上)後(∶下)の小禄金城地区
❝’90代❞
【055幸福街口】(飞天乐伎 飛天楽伎,1994年設計)メモ:飛天迎賓に対する地元民の違和感
❝21C代❞
【101晋徳宮】(21C版)情報:福建→日本密航の手引き
【m04sm第四波m天后宮 冥く囁く濤声やm金盾宮】(微信)本編
【093華僑博物館】(1860年代大陸検断鉄道建設,1870年代:中国→アメリカ移民減に転ず,1882年中国人排斥法制定,1885年タコマ市中国人に退去命令,1979年米中国交正常化,○2055年推計:アメリカの移民人口中アジア系が最大に,移民国家として初期設定された国・アメリカ)レポ:太平洋を越えたアジア人が造りゆく国

【143筧潭】(長崎,
日にかかる雲やしばしの渡り鳥 芭蕉,
めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉,
松風の里に琴柱の赤鳥居 足立半顔)
鑑賞:長崎海域3句 めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉

「m19Lm第三十波@m総合m9_福建台湾琉球編_レポ総合リンク集(ニライF71@)」への2件のフィードバック

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