瀬上編・オイガ、ユーレカスンネー。
[甑島の方言・甑島の風景]
URL:https://www.osumi.or.jp/sakata/hougen/kosiki.htm
∴=私が教えてあげよう このカノコユリを
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下甑南端・ 手打まで 南北に往復 した一日。 |
目録
支出1300/収入1300
▼13.0[241]
/負債 10
[前日累計]
利益 -/負債 242
五月一日(天)
0845イーグル
トースト,コーヒー250
1128手打1600
島のお魚ランチ550
1800 港前の自動車売りのつけあげ370
川内のポン菓子150
[前日日計]
支出1300/収入1320
▼13.0[242]
負債 20/
[前日累計]
利益 -/負債 222
五月二日(一休)
朝九時の海 イーグルのモーニング
1035長浜→(幹線バス)1100手打港
▽ 滞在0435
1535手打港→(幹線バス)1600長浜(乗換?)1630→1737里
今日はこの日程しか組めない。アドリブなしの時間厳守です。……まあ11時に手打に着くまでは、流されてくだけとも言いますけどね。
0920。既にフェリーは入ってきてる。チケット売場のおばちゃん曰く──フェリーが出た後、入れ代わりで高速船が着くとのこと。今朝、下甑・長浜へ行くのはその高速船のはずなんてすけど──?
未だ曇天。ただし昼には晴れるとの天気予報。
乗客は五人 カミの色濃き島
〇930フェリーが出て……高速船、来ないよ?
いやいや?湾外で待ってるのがソレだよな?──ホントに入れ替わり、乗船時間ギリギリで入ってきます。観光客がぼーっとしてたら、一日棒にふりそうな危うさです。
船着で「ようこそ!○○様」のホワイトボード──を持って待つのはレンタカー会社の人たちらしい。
0938、高速船甑島入港。0939になって下船開始。──出港5分前だぞ?
「ようこそ甑島へ」の横断幕を広げる観光協会のお姉さん。柱には横断幕を引っ掛ける突起が設置されてますから、恒例なんでしょう。いっそ常設すればいいのでは?とも思うけど……有難みの問題でしょうか?
すぐに乗船開始、0943席につく。船内にはもう数人しかいない。島内路線は完全に「ついで」路線です。
0944、エンジン再起動。0945、定刻出港。通勤電車並みのスピード着岸です。
武家屋敷の集落の奥の山手に、山津波を止めるためのダムのようなものが設置されてます。文化財だから、なのか、あるいは近年本当に崩れたのでしょうか。
その向こうには小さな段々畑。面白いことに、それ以外には里山利用の痕跡がない。農地は不足してるはずだけど、(前章の「(割)山」のように)山肌は風水害のため使えなかったのでしょうか。
外海から見える高層建築は──僅かに我が宿AreaOneのみ。こののっぺりした光景は、江戸期の潟地の雰囲気を留めていると言ってもいいでしょう。ただし、のっぺりし過ぎて写真に表現しにくい。
上甑の崖の表情は、硬い。
地層が剥き出しです。だから、たまにある浜も岩だらけのものが多い。
瀬戸内海なら幾分かは見受けられる集落の姿や痕跡は、無い。というより、そもそも道が無さそうです。──一枚目撮影(上記)。
昨夜、宿から明かりのない海を見て感じたけれど、人口や面積の数字を超えて、とかくカミの色濃き島です。
上甑島東端を迂回し終えると、下甑の山容が見えてきた。北側の山・尾岳が甑島の最高峰とガイドマップにありました。
確かに高い。神々しい。
下甑を見た日 下船者は二人
上甑島の南の位置まで来ました。
中甑と鹿島の二島は、どこからが何なのか非常に分かりにくい。平良の東面にはやや高い、(多分昨日の愛宕社のある)腕のような崖が聳えていて、その向こうに集落があると予想させない。──二枚目(上記)。
中甑南側、弁慶岩辺り。岬の突き出た先に二つの岩礁。おそらく水中にも岩が隠れてるでしょう。海賊ならここで待つ。──三枚目(下記)。
甑大橋。令和2(2020)年夏になってかかったという。
甑大橋が渡す海峡は藺牟田瀬戸と呼び、この名は鹿島村※の唯一の字名でもありました。
鹿島には浜が幾つか見えます。岩肌は出てるけれど、ここから見ても……どうも地質が少し違ってきてます。一般には上甑が女性的と言うけれど、東海岸の光景からすると上甑の方が野性的な荒さを持つように感じる。下甑は山嶺線が緩く、谷が少ない。地質的には古いのでしょうか。
もう下甑しか見えなくなりました。崖の地層はやはり露出してる。──四枚目(上記)。
目的港・長浜が見えてきました。ここは山からの斜面が海に近く、平地が少ないためか、高層建築がやや目につく。山の上にも緑色の何かの施設。ただそれでも段々畑はありません。
着岸。1027。下船者はワシともう一人のみでした。
うろうろしたいけど──里港で見たように島内交通の接続はロス無。
1028、下船すぐに里行きと手打行きの「甑かのこゆりバス」手打行きに乗車。
「どこで降りようか」と乗車するオバア
長浜の港にも岸壁にも、あまり古い構造は見えない。
山肌の新緑が多彩です。植林部は少ない。自然林と思われます。
ここの「歓迎」横断幕を持つ観光協会職員さんが、高速船に手を振って見送ってます。
船着横で自転車を組立ててるチャリダー姿。いいなあ。でも……キツいだろな。
1035。ミニバスが一斉に発車。
「さつま甘海老の里」と看板。──この語そのものにはヒットはありませんでした。
「宣教師上陸地」碑。──予習日編で触れた、ギザエモン船長の来訪地碑です。

南へ海岸沿いを少し走った後、県道349号を右側山手へ登る。ぐんぐん登る。
1038、緩く下り。もう人家はない。左手に切れ切れに海。山麓のウネウネ道。
次の集落が見えてきた。きれいな砂浜がある。青瀬。山と海の間の瀬戸内的立地。
文化7年の家数216軒,うち瀬尾3~4軒,漁小屋12~13軒(九州東海辺沿海村順)。村高は「旧高旧領」によれば322石余。神社には青潮大明神祠がある。明治22年下甑村の大字となる。〔角川日本地名大辞典/青瀬村(近世)〕
集落を過ぎてまた登りに。1042。
下ると小集落とトンネルが見えてきた。瀬尾。二人乗車。おばちゃんが「どこで降りようか」と話しながら乗ってくる。
1044、トンネル。長い。観光客にはツマランけど生活者には素晴らしい道でしょう。一旦息継ぎに出て再びトンネル。どちらも進路は大層ウネッてる。
手打バイパスと呼びならわされる県道349号のうち4.9kmの区間は、2011年に開通。うち北側・青瀬トンネル1,098m、南側・手打トンネル1,370m。工期10年、事業費98億円という高規格道です〔後掲手打地区コミュニティ協議会〕。
1047。ようやくトンネルを出るともう手打集落。奥の平地が広く手つかずになってる。
何となく、本町(もとまち)で下車。1053。
何故こんな位置に降りたかと言うと、時間的に節約するため西から東に横断したかった、というのプラス──いつもの如く沖縄X(:航空写真チェック)したら、手打の中でここが一番ドットが細かったからです。
からなんたけど──
山肌を好きに伸びゐて春の杜
細い道がうねる。
西側で湾に注ぐ川の出口付近です。それ以外に、ランドマークになるものがありません。
勘任せですけど、大まかには東へ行かなきゃならん。ならんけど……少しだけ北へ入ってみた。
少し行ってから、やはり勘だけで南へ転進。
これは。何とも……神々しい集落です。
1102、やっと川を渡って南へ。
橋桁には「長川」「すさきばし」とある。ただし川岸は完全コンクリブロック。甑の地学ならこの川の湾側が沼中の島だったかと疑いましたけど──これでは読み取れません。
何故にここが手打の「本町」なのか、補強する情報はありません。古い港がこちらにあった、それは河口がもう少し太い時代だった、という程度の推測しかできません。
北を振り返ると、後背の山の樹叢が凄い。枝が無茶苦茶に伸び広がってます。自然状態というより、何かの理由で保護されている林相に見えました。
微高地を歩く薫風海駆ける
1106、墓地に出ました。
左手へ少し登る。この半端な位置の埋葬ベルトは奇妙です。北の川筋と南の海岸線の間に、東西に微高地が伸びていて、それがうっすらとした古町を形成してるようです。
1111右折、海側へ。
すくに浜に出てしまった。もちろん無人。
先の微高地に戻って北東へ。1117。
両側の家屋の古さが違う。この高みより海側は、新しい家屋が多いようです。
更に墓地が点在する。何故?古墓も混ざってる。確認できるものは明治代だけど、おそらく確認出来ない古さのものは江戸期でしょう。
全ての墓石は正面を西の本町側に向けてます。
オジサンと八種の魚を狙う猫
と──戸惑い歩く道端に「open」の札をかけるパジャマ服の女性と目が合う。御縁でしょう。営業時間前だけど入ってしまいました。
1128手打1600
島のお魚ランチ550
真正面のお庭のベンチ上に黒白ぶちの猫がキチンと座って、こっちを凝視してる。
八種類の魚の名前を説明される。ブリ、イサキ、ヒラマサ……知らない魚で「ヘイケ」(平家?)、あと「オジサン」という名を言われた時はからかわれてるのかと聞き返す。あと三種は覚え切らなかった。
先ず、「オジサン」の蛋白さに驚く。蛋白なのに妙に匂い立つ。珍味なんでしょうか?
名前を忘れたタタキのような白い魚にもシビレた。ウツボのようなドス旨さ。
ヒラマサの脂の乗り様は、ちょっとこの世のものとは思えません。
これにさらに、サバフライのタルタルソースが付く。こっちはただのサバなんだけど、タルタルが生々しいタイプでそれが不当なほどマッチする。
これで千円って……甑島の食生活ってどうなってるんだ?魚好きは一ケ月住むと発狂するのでは?
正午のチャイムを聴いて、席を立つ。
ここまでのところ客は一人だけでしたけど、この後の電話予約ががっちょり入ってきてる感じでした。テーブルは(ネコのお座りしてた)外の一卓を入れて3つだけだから、埋まる時は埋まるんでしょう。大満足。
さてさて。本題の手打麓です。
URL:https://kagoshima-fumoto.jp/]
■レポ:下甑町手打本町の位置
何か誰もこだわってない地点で、今回でないと知る人もなし、という気もするからあえてもう一掘りだけしてみます。
まず、この日に実際歩いた「東西の微高地道」は、正確には南西-北東に伸びてます。
ただこのライン以外にも、並行する方向の道筋は数本あります。川の向きがそうですから、これらは同じ向きの海岸線の方向を元にしたものと考えるのが最も自然です。
また、地図をよく見ると──短い路地の残存から、この微高地道のほんの20mほど南東に、元々はやはり並走したであろう斜道の存在が想定できます。
ただし、ただ単に並行斜道がなか並んでいるという道でもないのです。斜道群は、西方向から北方向への川口の湾曲ラインに各南西端を合流させる形で終わってます。自然な発想だと、斜道群よりも湾曲の方が時代が若いと想像すべきでしょう。
甑島南北端で90度方向が違う形ですけど、長目の浜のクリーク地形が原地形としてイメージできます。
想像しにくいのは、並走する斜道がどういう形で形成されたのか、という点です。微高地の道が一本だけ通っているのなら、長目の浜地形から水が引けば形成される地形です。けれどここに、並行した道が出来る過程は単純ではなさそうです。
これが瀬戸内海ならば、①海岸線沿いに漁民の集落が二次元の線状に形成され、②海岸線が埋まるとそれに並行する2本目の道が出来、③交易を含む同地港湾経済規模と拮抗するまで同過程が繰り返されて三次元化(面化)していく、というステップで海浜特有の擬似「条里」が生まれると想像して間違いないはずです。
でも、手打本町が元、島だったと想定するなら、相応の高度がない場合でも、並行路の前に円周路が出来るのが通常だと思います。そのような状況下で、並行路を作る理由が分からない。
まして「島」北西側の川のさらに北西岸にも、並行斜道は存在するのですから、もし低くとも「島」に防波堤的な機能を期待したなら、川北西岸を集落化するのも妥当だったでしょう。この想定は、この位置に手打の旧中心が「本町」として存在することと整合します。つまり本町がこの位置にあるのを妥当視します。でもそうすると──防波堤の「島」になぜ並行斜道を造る必然性があったのか、より分かり辛くなります。
何か、瀬戸内海とは異なる物語がなければ、並行斜道群がこの位置にあるはずはない──と思えるのです。