外伝14緬甸/တေ့ရတာဝမ်းသာပါတဟ်トェヤタァ ワンタァパァデェ{準備するもの}ビルマ再三訪のお支度

※お会いできてうれしいです。

1 旅のモデルプラン

2015.12.26 3K510
1005福岡→1340バンコク
2015.12.28 AA255
1135バンコク→1220ヤンゴン
2016.01.02 AA256
1250ヤンゴン→1440バンコク
2016.01.04 3K509
0215バンコク→0915福岡

2 旅の服装,持ち物

   ★出発時携行
[必需品]
旅券
eビザ
eチケット(航空券)
以上3点同Copy
金(10万JY)
クレジットカード(2種)★
顔写真
[セイフティグッズ]
パスポートベルト
自転車用チェーン
ダイヤルキー×2
財布×2(旅行用及び日本用★)
[機械類]
携帯★
携帯用充電器(変圧器兼用)
マルチコンセント(B)
腕時計★
[バック]
バックパック
カメラバック
折畳トートバッグ
[医薬品]
ビオフェルミン(1瓶)
セーロ丸
風邪薬
デトファイバー
眼薬
尊馬油(日焼け止め兼用)
バンドエイド(巻きタイプ及び足マメ用)
朝鮮人参エキス
携帯型イソジン(うがい用及び消毒用)
ポケットティッシュ
[衣料品]
Tシャツ・下着・靴下×各3(うち×各1★)
上着(出国用)
長袖上下(寝まき兼出国用)
薄手ウィンドブレーカー(雨具兼用,折畳型)
作業ズボン×2(うち×1★)
手ぬぐい×1★
ウォーキングシューズ★
折畳傘
帽子(日除け用)
サングラス
タオル
洗濯紐
洗濯挟×6
[日用品]
マイ箸(折畳型)
プラスチックスプーン
風呂セット(ミニ石鹸,ミニシャンプー,ヒゲ剃,アカスリタオル)
爪切り
耳かき
耳栓
ライター(必ず1)

簡易裁縫セット
[書籍・筆記具]
地球の歩き方(ミャンマー)
バンコクマップ

右上:石手寺(愛媛県松山市)
左上:善通寺(香川県善通寺市市)
右下:吸江寺(高知県高知市)
左下:眉山公園(徳島県徳島市) のパコダ〔後掲小幡〕

■記録:四国に四つのパコダが立つ

 ビルマのパコダとは仏舎利=お釈迦様のお骨を収めた場所,つまり量とか真偽とかを問わないとすればブッダのお墓です。
 だから当然にお骨がなければ建立できないのですけど,四国四県には公式にビルマ政府から贈られたお骨を収めたパコダが立ってます。それも割と街中,香川県善通寺以外の三県は県庁所在地に建てられてます。
 これは,現・ビルマ政府の母体となったビルマ軍がWW2を共闘した「日本軍」が,具体的には,当時ビルマに駐留した第55師団で,これが四国徴兵(編成地(師管≒終戦直前には四国軍管区司令部)・善通寺)の部隊だったからです。

 第55師団(秘匿名は「楯」、1943年中頃より「壮」)は、1940年半ば、「北満国境に駐とんしていた第11師団及び中支湖北にあった第40師団のあと詰めとして」創設されることになり、同年「8月10日、善通寺の留守第11師団において編成」された。「師団は3コ単位編成で、歩兵第112連隊を丸亀、歩兵第143連隊を徳島、歩兵第144連隊を高知でそれぞれ編成した」。「その連隊番号は、第11師団の歩兵連隊番号に100の数字を加えたものであった」。騎兵・山砲兵・工兵・輜重兵の特科連隊は、「11師団の各連隊留守隊において編成された」⑶。松山では編制が行なわれなかったが、愛媛県民には「特科部隊特に山砲兵連隊に入隊した者が多かった」という⑷。55師団は、「四国人によって編制された師団」といえるのである。〔後掲小幡〕
※原注(3)陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会編『四国師団史』(同司令部、1972年)p221。以下、とくに断らない限り、55師団の動向については同書p221~262による。
⑷ 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 近代 下』(同県1988年)p838。

 55師の戦跡を時系列に概観すると──
1941年11月26日 同師団主力サイフォン上陸
 開戦直前にいわゆる南印に上陸。開戦と同時にヨーイドンで──
同年12月27日 バンコク到着
 強兵として知られた四国兵は陸軍の西部最戦線・ビルマの中核となったわけですけど──南海支隊として南太平洋戦争に抜かれた部隊もあります。これはグアム・ラバウル・ポートモレスビーと転戦,1943年11月に本隊に復帰できたのは200名だったといいます〔wiki/第55師団〕。そして本隊も──
1945年7月 シッタン河を東へ渡河後,「大きな犠牲を出した」。
 要するに名高い,つまり現代では無謀な陸軍作戦の典型であるインパール作戦の基幹部隊です。ただし,その前哨戦の第一次アキャブ作戦では55師の奇襲による快勝をおさめています。狭義のインパール作戦とは,連合軍の主に航空戦力による第二次アキャブ作戦の失敗後,一発逆転を狙った後方補給路切断作戦のことです。

敗戦を迎えた後、「各部隊は武装解除され、英印軍の指示する労務作業に従事しながら復員を待ち、昭和21年5月から翌年5月にかけて、逐次、懐かしの祖国の土を踏んで帰還した」⑻。〔後掲小幡〕
※原注⑻ 復員の状況については、112連隊に属していた稲沢達による「第五五師団の復員状況」(香川県ビルマ会『ビルマの夕映え 最終編』〈同会会長麻田保英、1990年〉p510~513)を参照のこと

まず徳島県にパコダが立った

 1950年代に,徳島ビルマ会の働きかけで長尾・徳島市長がビルマ政府と折衝したのが,パコダ建設の端緒となったようです。
 あの書面主義のビルマですから,素の状態で,敗戦直後の日本の一市長が既に独立したビルマ政府と外交を持てるはずがありません。徳島ビルマ会の誰かと昵懇のビルマ軍部の誰かとのパイプで,ネゴが整えられてのことでしょう。

 徳島県においてパゴダ建設が発案されたのは、1953年のことだという(32)。すでに述べたように、1956年7月には徳島ビルマ会による建設資金の募集が報道されている(33)。この記事は、「県ビルマ会の一行が小型宣伝カーとオート三輪三台をつらねて」パゴダ建設の資金提供を「徳島市民に呼びかけた」ことを報じるものである。ここには、長尾新九郎徳島市長が各方面に協力を求めていること、「目標額七百万円のうち、四百万円がすでに集まった」ことなどが記されている。
 同年8月16日には、「ビルマ政府官房長官ウー・シャント氏から長尾徳島市長に『パゴダ建設に期待している』との手紙が届いた」ことが報じられた(34)。これは、「去る五月、長尾市長が当時のビルマ首相ウ・ヌー氏にパゴダ建設についの(ママ)計画を書き送った返事」なのだという。
 建設場所が現在地となる経緯については不明である。建設が始まったのは、1957年4月だという(35)。眉山ロープウエーが近く完成することを報じる1957年10月26日の新聞記事(36) には、「県ビルマ会で同山頂に建設中のパゴダも工事が進んでいる」との記述がある。
 1958年5月1日に羽田空港を発ちビルマに向かった「県ビルマ会会長本庄勢兵衛、県仏教会会長島村奉雅両氏は」、同月2日に「ウ・ヌー首相官邸で原大使夫妻とともに、仏舎利分与式典に出席、首相から三包の仏舎利を贈られた」(37)。これは、同月16日に徳島県に到着している(38)。
 同月18日には、パゴダの開塔式が行なわれた。「午後一時から約三百人の稚児や詠歌隊が徳島駅前-天神下にかけて練供養を行ったのち」、「ウ・ヌー・ビルマ首相からおくられた仏舎利を仮安置所の潮音寺(同市西山手町)から」移し、新町小学校校庭で開塔落慶式・慰霊祭を行ない、その後「眉山山頂でパゴダに仏舎利を安置、入仏式と英霊奉安式を行」なったという(39)。〔後掲小幡〕
※原注32「きょう盛大に開塔式 徳島 眉山山頂のパゴダ」(『朝日新聞〔徳島版〕』1958年5月18日)。この記事の中に、県ビルマ会が「五年前…建設運動をおこした」との記述がある。
33 前掲『朝日新聞〔徳島版〕』1956年7月29日付記事。
34「パゴダ建設を激励 ビルマから徳島市へ」(『朝日新聞〔徳島版〕』)。
35 前掲『朝日新聞〔徳島版〕』1958年5月18日付記事。
36「来月末までに初運転 完工急ぐ眉山ロープウエー」(『朝日新聞〔徳島版〕』)。
37「ウ首相から仏舎利を受領 本庄氏のビルマ通信 互に最高の儀礼 金色の器に厳かな祈り」(『徳島新聞』1958年5 月15日)。
38 前掲『朝日新聞〔徳島版〕』1958年5月18日記事。「きょうパゴダ開塔式 池田夫妻も出席 戦没者を追悼」(『徳島新聞』1958年5月18日)・「〔広告〕パゴダ
39「きょう開塔式」(同紙同日)・「平和の塔 〝パゴダ〟ひらく 厳かに仏舎利安置 三千人が盛大な練供養」(同紙同月19日)による。

55師団の町・善通寺にもパコダが立った

 四国四県中,唯一県庁所在地以外に立った善通寺のパコダは,やはり当初は高松市への建設案があったようです。最終的には「弘法大師生誕千二百年祭記念事業」の一貫として善通寺が決まります。──このやや強引な理由付けまでに,旧四国陸軍の中心地ゆえ,とは言わずに善通寺に建てる理由を,香川県関係者が必死に考えて編み出した方便なのでしょう。

麻田保英によれば、先述した四国ビルマ戦跡巡拝団が活動している1963年頃には「パゴダ建立の要望も強くなり」、1964年のビルマ会の「総会の席上、各地区役員及び出席者の緊急動議が出され、『記念碑』でもという声が出たりし」、「その結果徳島に匹敵するようなものをということにな」ったという(40)。1966年には、建設地についての議論が行なわれ、高松の屋島頂上・栗林公園、坂出の聖通寺山頂、丸亀の丸亀城内、観音寺の琴弾公園、琴平の琴平宮の山中、多度津の桃陵公園、善通寺の護国神社境内などが候補地に挙げられた。
 1968年の総会において、パゴダ建設の具体案が決まる。「終戦二十五周年」の1970年8月15日に「完成落慶法要をいとなむことにし」、建設場所を「弘法大師生誕千二百年祭記念事業の一環として、真言宗総本山善通寺境内の一角」とする、というものであった。決定の後、「当時の管長亀谷宥英猊下をお訪ねして、その計画をお話してお願いしたところ、ご快諾を得て現在の地点が決定」されたという。
 1969年 4 月1日には、香川県ビルマ英霊顕彰会名でビルマ戦歿者慰霊塔建立趣意書が発表された。同会は、パゴダ建設のために新たに結成された組織である。「会則」によれば、同会は「ビルマに於いて戦没せる香川県出身者始め各都道府県出身者の慰霊塔建立を目的と」し、「目的に賛同するビルマ方面帰還者並びにその主旨に賛同する者をもって構成する」こととしている。会長には麻田が就いた(41)。
 同年8月20日には起工式が行なわれている。この式には、ビルマ会の役員をはじめ、「善通寺市長ら来賓合わせて四十余人が参列」し、「亀谷同寺管長ら十人の僧りょう(ママ)が奉仕、仏式で行なわれた」(42)。
 ところで、すでに述べたように、1970年1月に、香川県ビルマ会による戦地訪問が行なわれている。この時に、後にパゴダに安置される仏像を入手している。新聞報道によれば、ビルマのネ・ウィン首相が、「両国の平和と親善を祈って(1月、引用者註)十日夜、慰霊団が泊ったラングーンのホテルへ仏像を届けた」という。同首相からは、すでに前年10月「国宝級といわれる仏舎利、ぼだい樹の葉二放、釈迦生誕の地とねはんの地の土、パゴダの先端につける飾りが贈られて」いた(43)。
 1970年8月15日に、慰霊塔の開眼法要・竣工式が執行された。その様子は、「パゴダの除幕落慶法要は午前八時半から麻田会長らが参列して行なわれ、慰霊祭に午後一時から善通寺の御影堂にウ・バシュエ駐日ビルマ大使夫妻、金子知事、平尾善通寺市長、森山自衛隊善通寺駐とん地司令ら来賓九十余人と遺族四百余人、会員二百五十余人が参列、蓮生同寺管長が導師となって読経、平尾市長らが祭文を読み上げ戦没者の霊を慰めた」(44)、と報じられた。〔後掲小幡〕
※原注 18 「パゴダの建立経過 麻田保英」(香川県ビルマ会『パコダに捧ぐ ビルマの夕映え』〈同会会長麻田保英、1972年〉p1-3)。
40 前掲「パゴダの建立経過 麻田保英」。以下、同じ。
41 前掲『パコダに捧ぐ』p2-3。「ビルマに散った霊慰む 善通寺でパコママダ起工式」(『四国新聞』1969年8月21日夕刊)。
42 前掲『パゴダに捧ぐ』は地鎮祭としている(p7 )。
43「ビルマのネ首相 戦没将兵の供養に仏像 現地訪問の慰霊団へ贈る」(『朝日新聞〔香川版〕』1970 年 1 月 2 1 日 )。
44「パゴダの落慶法要営む ビルマ大使も参列 なき戦友のめい福祈る 善通寺」(『四国新聞』1970年8月16日)。

 インドネシア軍関係者は日本軍関係者に謝意を呈しているかもしれないけれど,少なくとも1950年代のビルマ軍関係者は日本の中でもより具体に「四国軍」に感謝の意を示している。その証査として四つのパコダは四県に建っている──のですけど,肝心の日本人はもうその前に立ち止まろうともしないようです。
 なので,小幡論文をここに転記し,「四国の強兵」の物語を書き残しておきたいと思います。

「インド領内に進入を果たして万歳する日本軍とインド国民軍兵士」〔wiki/第一次アキャブ作戦〕

参考資料

小幡尚「四国の四つのパゴダ ─眉山公園・善通寺・石手寺・吸江寺のパゴダ─」『第13回四国地域史研究大会』,愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター,2021