FASE61-5@deflag.utina3103#下ヌ御殿,国場の土帝君\歌乃道ひるく 犬子ねあがりや

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

さりげなく沖縄な山裾の道

▲拝所へのどん詰まりの道

分で言うのも何ですけど好い写真です。
 左手に下る山裾の道。後ろは行き止まりです。木陰から,樹々に喰われようとしてるガードレールが左側面に続いてる。右側面の家並みはここで絶えてる。
 淡く光輪を形作る陽だまり。
 何とも言えず,さりげなく沖縄な風景。
 たどり着いたここはどこかと言うと──

森ヌ御嶽
〔日本名〕中頭郡西原町字小橋川
〔沖縄名〕カミムイヌウタキ?
〔米軍名〕-(幸地の戦闘時の第9中隊進軍路)

▲中頭郡西原町字小橋川:国土地理院地図

里から中城に伸びる北北東方向の尾根から,どういう地学現象なのか,直行する向き,南東方向に幾つも短い出っ張りが織り成してる。その中の一つの先端部に当たる場所です。
 元は東西の道が続いてた雰囲気ですけど,今は小さな森で遮断されてます。
 もしこの道を抜けて東へ進むと,1kmも行かないうちに昨日北上時に寄った内間バス停。未だこの辺りの位置関係が体感できてません。

「アメリカはこの頃から沖縄を狙ってたのか!」


ず道の脇に「下ヌ御殿」というお堂があります。1338。
 中心には「火ノ神」と標札。3つの石が並ぶ。
 左手に獅子頭安置所とある扉。右手には別に祠2棟。金柵があります。この中に井戸のような穴。祭壇あり。
 眼下,南側に西原サンエーが見えてます。
 2003.11建立の小橋川部落の碑文。戦没250柱余記載。

▲拝殿。これが上ヌ御殿らしい。

段。これが上ヌ御殿らしい。祠に3柱。右から国元ノ口,地頭火ノ神,竜宮神。
 見逃してるらしいんだけど,この辺りに黒船来航のペリー提督さんのキャンプ場跡があるらしい。
 沖縄には5回来て,米琉条約を結んでる…って教科書でチラリと習った気がするけど。
「アメリカはこの頃から沖縄を狙ってたのか!」とナイーブになってる記事も見受けるけど,単に,ペリーにしてみりゃ当時の沖縄って独立国なのか中国なのか訳分からかったからでしょう。
西原町の戦跡・史跡を巡る道 ※ペリーを迎えた晩餐会の写真とかがレアです。

▲1352階段から上森ヌ御嶽へ

段をひとしきり登っていく。保育園の隣の公園からさらに上へ上がれる。
──自分でも分からなくなってきてましたけど,つまり登り順に下ヌ御殿→上ヌ御殿→ペリー碑→上森ヌ御嶽と並ぶ格好。
 すると,石の祠らしきものがありました。これは間違いない,ここが聖域です。上森ヌ御嶽,到達。

さらりと吹っ切れた聖域

▲1353上森ヌ御嶽から南側の眺望

内板の文字を転記してます。
「字のマキョ(集落の古い呼び名)が形成されたと言われる上ヌ松尾の頂上にある御嶽で今帰仁への御通しの裏であるといわれる。」
──うーん。日本語なんだけど何のことか分からない。ただ,この丘は「上ヌ松尾」と呼ばれてたらしい。
 見晴らし台っぽい。供え物なし。前方2段の傾斜段。
 右手には西原町商工会の青文字,その向こうに海岸の車道が見えている。

▲1355神体の石

,ここはホントに全く手がかりのないXでした。
 純粋に分からない,でもはっきりと重要な場所。
 ただ,明らかにこの近辺5百mほどに古い史跡は集中してる。西原集落の基幹部であると言っていいはずです。
 今から思うと,ここも首里方面とは異なる「聖」感覚,おどろおどろしくない,さらりと吹っ切れた聖域を持つ土地なんだと思う。それがこれほど首里近くに露出してるということは──この感性は沖縄の古層なんじゃないだろか。

切れ目なしに繋がる鰹出汁と肉汁

▲1358帰り道の家の軒先にて

置感覚を失ってたけど,地図を開くとそれほど遠くないぞ?
 バイクのエンジンを吹かす。1406,呉屋の三叉路を左折。
 1408,呉屋ストアの三叉路を右へ。次の合流した道を左へ──うん,うまく抜けれた!
 尾根のカーブ脇,到達。入店して試しに訊いたら…え!まだあるの!ならば…ならばやむを得ぬ!
1412運玉食堂
てびち汁550

▲運玉食堂のてびち!

吉のレベル,ということじゃないんである。
 ここのソーキは,やはり他で食べれないソーキです。
 肉汁がくっきりしてる。かつおだしと肉汁が二段階でなく,切れ目なしに繋がってるというか…。

▲でびちどアップ!

術なんだろうか,歴史なんだろうか。旨い!と高みから言うんじゃなくて,惚れ惚れする汁です。
 ソーキ本体も,脂でない部分まですっきりと旨い。宮良に似て,骨まで食べれるソーキです。

警察官の立ち寄りどころにつき

▲1459運玉食堂の軒先,広い駐車場前にて。実はこの空漠感も,立ち寄りたくなる理由です。

根のカーブから西側のヘアピンに入る。
 1503,城東小学校前交差点左折。
 1506,汀良交差点左折。
 1510,赤田を左折。これで首里の高地から南への斜面を一気に下れる。
 1520,上間交差点を右折すると──

場の土帝君
〔日本名〕沖縄県那覇市字国場
〔沖縄名〕こくばのとぅーてぃーく
〔米軍名〕-(海軍丸山部隊の残存守備陣地の一つ)

▲1529国場の「地頭 火の神」

構,微妙に入り込んだ場所です。行こうと思わないと通らない位置。
 1528。バイクを止めるとすぐの場所に,まずは「地頭 火の神」とある祠が現れます。
 左手に円柱。おそらくガーです。
 ガー(信仰対象としての井戸)にこだわり初めて長くないから自信ないけど…祠,しかも火の神と並んで水のイメージのガーって珍しくないだろか?
 でもここは随神扱いになってる。本尊は──

▲「警察官の立ち寄りどころにつき この場所で許可なく酒盛り等 迷惑な行為は禁止します。」


 酒盛りの許可ってどこで取るんだろ?
「等」迷惑行為って,ここで何するんだろ?
 でもって,その理由が警察が立ち寄るから?
 と色々ツッコミたくなる件の「この場所」というのは──

フランケンシュタインのような神域

▲「この場所」

畳のスペースがある。
 割合と眺めもいい。ここなら,なるほど「迷惑行為」もしたくなるだろな,と納得しつつ左手を見ると…
 あ,これか──国場の土帝君。
「旧暦2月2日土帝君祭」との案内が出てる。
 本体は南面。半月型が地上に出ている。石造りと組み合わせかたは巧み。ただ,中央方形穴の回りだけが大きめの,特に細かく力学的な細工を施した岩になっているから,これが本来部分で周囲は補強したものかもしれない。
 裏側上部は何も特徴なし。湾曲していて,全体としては卵を四分の一にカットしたような,さりげなく奇妙な形状です。

▲土帝君中央の石積

体の祭壇は中央に1m四方の穴。
 3/4ほどが中間部で遮られ,上部に2つの方形の突起。片側に杯が供えてある。前面に何か燃やした祭壇。祭壇も意図的に左右に分けられている雰囲気です。奥には座像のようなものが1体見える。
 左右のシーサーはご愛敬かな?と思ったけど,よく見ると右のにだけ後ろに神体のようなものと素朴ながら祭壇が見える。
 手触りとしてだけど…増築に増築を重ねたフランケンシュタインのような神域です。既存と渡来のイメージが何度も混淆し,しかも本来形をぎりぎりで保ってる。

▲土帝君からの眺望

場の位置は,まさに国場川の本来の河口部です。土地に伝わる地名由来では,かつての「窪場」なる呼称が「国場」に変化したという。人工で手を入れる前の河口周辺には急斜面が多く,まがりなりにも平地と入江が少しあるのはここだけ,という意味合いらしい。
 つまりここが「古・那覇」なんである。
 そこに,中国渡来神名を表看板に掲げたボコボコ神域が残る。さっぱり分からないけど,重い。
 一礼して辞す。

※ 沖縄の裏探検/国場(こくば)の土帝君(とぅーてぃーくー)
「国場の集落の南側には国場川が流れており、川に面した場所は肥沃な土壌であったといいます。
 更に国場川は現在よりも川幅が広く、漁業も行われていたとも言います。」
※ 沖縄の風景 念願の沖縄生活を始めて10年になりました。/上間、仲井真、国場

▲5月31日の国場付近の戦況

■メモ:6月1日の海軍丸山大隊

 大隊長は丸山友喜大尉という方だった,と断片的な記録に登場するだけで,ほとんど情報はヒットしない。
 でも上の図面を見ると,この5~3百人とされる部隊が死守した識名から国場のラインが,どれほど突出した陣地だったかが伝わる。
 この時期は,首里を陥とした米軍が南部戦線へ雪崩れ込もうとした段階です。通常なら士気の低下どころの騒ぎじゃない。
 守備戦を戦えたのは5月31日から翌6月1日の一両日ほどらしい。それで部隊は半減してる。
 ここへ部隊を残存させた軍も軍だと思う。けれどそんな後退戦でも頑強に抵抗したこういう部隊が,それも海軍にいた,というのは──全く資料がないけれど──どうしても記しておきたかった。
※ 沖縄戦史/首里西部戦線 (那覇地区の戦闘)
「那覇から後退してきた日本軍部隊は国場高地に布陣して半円状の防御陣地を形成した。」
※ 同/津嘉山収容陣地の戦闘と退却攻勢
「6月1日
 残置部隊となった海軍丸山大隊は、6月1日米軍と激戦を交えたのち、夜2200陣地を撤して武富に後退した。丸山大隊は総員220名中約120名の損害を生じた。
 津嘉山地区は東方及び北方から米軍の攻撃を受けた。識名、国場付近では海軍丸山大隊が奮闘していた。」
「海軍の記録は陸軍の記録と異なる。丸山大隊350名を2個中隊編成で、これに951航空隊小禄派遣隊220名で丸山大隊第3中隊を編成した。丸山大隊第1・第2中隊は350名中150名を失い、第3中隊は220名中120名を失った。」

▲莆田湄洲島裏手の土地公廟

▲莆田湄洲島裏手の土地公神体

■小レポ:土地公の沖縄的受容からのビンジュル再考

 土帝君の数はそれほど多くはない。オール沖縄で50とか数えてた記事もある。
 でも,以下のように考えるとそれはどちらでもいい。

1 原型としての地神

 天や海,動物を崇める信仰を「他者」へのベクトルを持つ,という意味で「他者神」と大別すると,地神一般は「自己神」です。
「あちら側」を崇めるのか「こちら側」か。
 人間集団が集落を構えた時,「ここは人間の土地だ」あるいは少しへりくだって「本来あなたの場所ですが人間が使わせてもらいます」という意味で祀るカミが地神でしょう。
 そういう意味では,地神信仰は「自己神」の原型だと考えます。だから陸上民の住む各地に普遍的にある。
 中国では,それを政治組織が祀るようになって「城隍神」となった。それに対し,政治組織が祀らない地神は前者との対比で「土地公」と総称された。
 だから土地公は,福徳正神としての後世の整形は受けてはいるけれど,本質的に緩い性格のカミです。ほぼ「自己神」としての性格しか持たない。
 名称も福徳正神の他,福徳爺,福徳公,伯公,土地爺,土地神,地主公,土地,土伯,土正,地主,社神,社公,社官,后土と呼ばれたい放題です。

2 文化的総合の受け皿としての土地公

 このカミは,厳密に言えばそれぞれ異なるカミです。個別の土地に固着してる。「自己神」は性格上,本質的に特殊です。
 それがなぜか中国では「土地公」として総称概念化されました。
 そのような性格付けの後で受容された沖縄では,このカミは非常に文化的総合のなされやすいものになっていたのでしょう。
 沖縄に元々あった土地の神,これはそもそも中国での地神の同型だから完全に総合されてしまう。同様にビジュルも火の神も飲み込んでしまえる。
 国場の土帝君の場合,元々は火の神の拝所だった場所だと推定できます。そこが,おそらく古・那覇として中国船の往来がある中で,土地公の看板を掲げて,いわば格を高めるような整形を施された。

3 沖縄のビジュルと内地のびんずる様のガラパゴス化してる理由

 武富(糸満市)の土帝君にはまだ行ってないけれど,「ビジュル神」と「卯方ヌ嶽」が併置されているという。
 御嶽はそもそも土地の聖性そのものだから不思議はないけれど,ビジュルが同等に拝まれるのは,それも地神の一種と捉えているからではないだろうか。
 垂直に長い岩を,いわば「大地の陽物」と捉える見方は自然な発想に思えます。
 してみると,インドから来たと前傾レポで推認したビジュル神は,元々はインド的に抽象化された性力信仰だったものが,沖縄で土地公と同様に文化的に総合されて,大地の生命力の象徴という別の意味を付与されていったのではないかと考えられます。
 日本にはおそらく純密の秘技として,比較的変化を受けずに移入された「おびんずる」様が,沖縄には土着の地神と総合されていった。その結果,両者は同根であり類似名で呼ばれながらほとんど別の形態に結実した。

4 海神又は航海神の位置づけ

 さて地神の発祥について,陸上民の住む各地に普遍的と書きました。
 住む土地があるからそこに由来する地神が「自己神」として居る。ならば,海洋民にとっての「海」はそういう「自己神」の形をとりうるか?
 とりえないはずです。たとえ住み慣れた海域でも,陸上と違ってそこは絶えず変化する。ならば天のような「他者」なのかと言えば,海民は現にそこに住むのであって,それとも異なる。
 ということは,キリスト教やイスラム教のような「他者神」,中国の土地公や沖縄の土帝君のような「自己神」に対し,第三極として「境界神」のような類型が存在するのではないか。
 Mでも非Mでもなく,その境界を拝するような信仰。
 媽祖又は天后信仰はその最も最近のものだと思う。
 対馬や出雲系の日本神道の少なくとも一部はそういうものだと思う。
 だからその原型のようなものがあってもおかしくない,と考えるのだけれど…そういうものは現存しない。
 この辺で考察がストップしてしまうんですけど…どう考えたらいいものなんでしょうか?
※ 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道
国場の土帝君(こくばのとぅ~てぃ~く)・土帝君の誕生日は、なぜ2月2日と決まっているの?
「地元の国場では、例年、旧暦の2月2日には、土帝君の誕生日だと伝わっているので、集落こぞって祭礼を行うと云う。異なる地域で、それぞれの伝承を調べてみも、土帝君の誕生日は2月2日に決まっている。」
「土帝君は琉球独自の呼び名のようで、中国や台湾では土地公、土地爺、福徳正神などと呼ばれている」
「土帝君の祠から一段下がった場所にも、小さな祠があって、中央に香炉が置かれていた。『地頭火の神』と書いた札が張り付けられている。」

※ おきなわごころ,かみさまとの暮らし方/トゥーティークー(土帝君)☆土地神様への感謝の拝み
「昔には、その土地以外から訪れて野山で遊ぶ時には、まずトゥーティークーを訪れて自己紹介をして拝み、許しを得てから遊ぶ習わしもありました。」
「農耕の神様として親しまれ、その昔には甘藷(サツマイモ)の豊作を祈願してきました。
 そのために一部地域では、『豊作の神様』の意味合いとして、『チュクイムジュクイヌカミ』と呼ばれます。」「トゥーティークーは沖縄の御嶽の近くに見ることも多く、トゥーティークーの他に、ビジュン(ビジュル・ビンヅル=霊石)も多いです。トゥーティークー自体にも、ビジュル(霊石)が祀られることは多いです。」

※ 窪徳忠「中国の土地公と沖縄の土帝君」
「土地一般の神も土地神とよばれていたし,土地公も土地
神,土地君とよばれていた。そのことは,『球陽』巻九,
尚貞王三○年の『鄭弘良奉安土地君於大嶺邑』なる条項や,察文神が自分の家の家規として,おそらくは『朱子家
礼」に則って一七三大年に定めたと思われる『四本堂家
礼』に,土地公,守墓神,土地の神をともに土地君もしく
は土地公と記していることから,逆に明らかにされる。要
するに,一七~八世紀のころには,ここに取上げた土地公
も守墓神も,さらには大地一般の神も,すべて土地神,土地公(君)とよばれていたとみて差支えない。いわゆる土地公を沖縄県の人々が受容したのは『球陽』や『四本堂家
礼』によってそのころであったと考えられる。そうしてか
れらは,その神名の記し方から推して,土地公を大地の神
として受容したと思われる。その際かれらは,自分たちの
もっている大地の神,土地の神の信仰に照らして中国の土地公の信仰を受容れたであろう。現在,先島方面で大地の
神も守墓神もともに土帝君とよんでいること,本島の玉城村系数で守墓神をヂーチの神と宇栄原の農業神をよぶよび方と同一名でよんでいること,その他の本島の多くの地方で守真神をヂーヌカンなどと地の神の名でよんでいることなどはすべてその名残に相違ない。」

※ 御願ドットコム/武富のビジュル神