m051m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm閩南概観 又は海人棲める場所

「漳厦泉“闽南金三角”地带」という言い方があるらしい。
 何が閩南なのかは自然条件だけではピンと来ないけれど,とにかくこの狭隘なエリアに,福建でも最も色濃い場所はあります。
 入域に際し,概観データと事前の印象を整理しておきます。

1[趣旨]まだ存在しない海賊像

 映画,アニメに海賊ものは多々あって,ブームとまで言われてるけれど,小説を含むテキスト,YouTubeを含むコンテンツ,その中に未だ自分の今得ている史実情報にしっくり来る「海賊」イメージが見当たらない。
 これだけのイメージが氾濫する現代にすら,なお復活していないような容貌で,現実の「海賊」は存在してきたのではないか。
 たまたま福建南部,漢語名・閩南の経済史論文(李,清代貨幣史)の序章部分に,この地域の地歴的概観をうまく言っているものがあった。相当量になるけれど,これを読み解きながら,海域アジア編,中間的な検討を加えてみます。
 論文全体もそれぞれリンク先(松山大学レポジトリ)で見ることができるので,詳細を検討されたい方はご確認下さい。

出典:李紅梅「清代における福建省の貨幣使用実態――土地売券類を中心として――」第1節 福建省についての概観 1.地理的特徴と農村経済の発展,松山大学論集 巻18- 号3 ページ131 – 173,2006。以下「李2006」という。
URL=https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1359&file_id=21&file_no=1

2[地理]隣は当然に他者であるくに

 福建省(清代には福建省は台湾をも含む)は台湾に向かい合って,東南沿海に位置する。三面が山に囲まれ,「東南山国」と言われ,平野が僅かに1割程度に過ぎない。東西およそ540 キロ,南北約550 キロ,面積約12 万平方キロメートルであった。北東から西南にかけ,武夷山脈が走り,この山脈を貫くように閩江・九龍江がそれぞれ福州・アモイにおいて海に注ぎ込んでいる。山脈によって分断され,複数の独立した水系によって,図1 のように,北部・東部・中部・西部・南部に分かれている。[李2006]

 日本人が考えれば,また実見したところでも,これは大部分の日本の地方部に似ている,ということに過ぎません。個人的には,むしろ安芸・備後に比べればはるかに平野は多い。

閩北は閩江流域の上流に位置し,昭武府・延平府・建寧府を含み,福寧府・福州府を含んだ閩東は閩江下流に位置し,閩南は九龍江流域に属し,漳州府・泉州府・龍岩州・永春州を含んでいた。他に汀州府は閩西に属し,中部は莆田と仙游を管轄した興化府であった。[李2006]

 福建は別称「八閩」と呼ばれる。でもこの八閩すら,諸説ある。七閩,九閩という謂いもある。
福建為什麼又稱「八閩」,「八閩」究竟是指哪「八閩」 – 每日頭條
 李は作業上,福建を四区分にしているけれど,実感的にはこの地域は少なくとも十数に分かたれていると捉えていいようです。
▲八閩の地域区分図[前掲每日頭條。この図の区分は現代の行政区分]
 それは単に地理的区分というだけではない。象徴的なのが言葉で,閩語(広義の福建語)自体が中国語の7大方言の一つなのに,その中がさらに次のように分化している。それぞれの間では会話が不可能だという。
・閩南語 ・閩北語
・閩東語 ・莆仙語
・閩中語 ・閩贛語
・客家語(閩西)
・北方話の言語島(南平市)
・呉語(浦城県の一部)
※ wiki/福建省 中華人民共和国の省/言語
 さらに漢族以外の民族も多い。台湾は周知の通りだけれど,大陸福建省も少数民族人口は約80万人,総人口の2%を占める。民族郷は19,民族村は567。
福建_中国政府网
 他者の国と言っていい。山の向こうの人々とは会話が出来ない,という頻度が他より遥かに高い。
 なぜなのか,実感として理解し難い。物的環境というだけではこの状況は説明し辛い。歴史的に多様なルーツを持つ人々の混成だから,ということなのだろうか。
 でもここで重要なのは,そうした信じ難いほどの分裂状況が,福建の現実だという事実です。

3[生活]人 十当たり七が田無きなり

 その福建の土地での生活はこのようだったと書かれる。先に指摘すると,この記録者の観点は明らかな陸上民のものです。

福建の地理については『五雑組』巻四・地部二によれば,(閩中自高山至平地,截截為田,遠望如梯。真昔人所云水無涓滴不為用,山到崔嵬尽力耕者,可謂無遺地矣。而人尚什五遊食於外。設使以三代井田之法処之,計口授田,人当什七無田也。)「山地の中腹まで段段畑のように田地をつくり,遠望すれば梯子のように見えた。誠に古人の言う「一滴の水をも無駄にせず,山の凹凸のけわしいところをも全て耕やす」ありさまで,耕やせるところは全て耕やし尽くすものであった。そして,人々の十人のうち五人は郷里を出て職をもとめねばならなかった。もし井田法を行なって計口授田したとしても,十人のうち七人は田を受けられない状態であった。」 15)このように福建では農地の絶対数が不足していた。[李2006]
15) 斉藤史範「明清時代福建の墟市について」『山根教授退休記念明代史論叢』下巻,汲古書院,1990 年,828 - 9 頁(筆者は著者の訳文を引用したが,「誠に…そして」の部分については筆者の論文を校正してくれた先生から訳したものである)。

「截截為田,遠望如梯」とは言え,日本の宇和島のような天まで続くような段々畑は,少なくとも今回見てません。
 これは,どちらかと言えば逆だと思う。農業しか従事できない土地利用なら,それ以上人口は増えないでしょう。
 農業以外で食えたから,人口が増えた。この人口が日本とは桁違いだから,日本なら何とかなった山地でも人口は溢れ,それでも食えたからさらに過剰人口は増す。
「十人のうち七人は田を受けられない」状況は,その七人が農業以外に従事できるある程度の目処があったから生じている。非情な言説ですけど,そうでなければその七人は飢えて死に,人口が抑制されるはずです。
 清代の人口爆発は,四川ほかの農地の爆発的拡大と並行してた。でも福建には農地がない。けれど人口は増えた。なぜか?

 明の中後期から清代にかけて,福建省の農村経済が速やかに発展し,市場発展の重要な標識であった墟市数は商業の発達を反映している。墟市に関する先行研究によると,明代の後期,例えば,順昌には4ヵ所から8ヵ所に増え,建寧県では1ヵ所から9ヵ所まで増えたように乾隆期において墟市数が全省としては700 余ヵ所に増加する傾向があった16)。しかし,清代を通じて見ると,「沿海の県の墟市数と山間の県の墟市数を比較すると沿海の県がその数の上で極めて多く,しかも,増加の割合も高かった。それに比べて山間の県は墟市数も少なく,増加していた場合でも,その数は低かった。」17)[李2006]
16)陳鏗「明清福建農村市場試探」『中国社会経済史研究』1986 年4 期。
17)前掲,斉藤史範「明清時代福建の墟市について」828-9 頁。

 沿海でのみ人口が増え,町が拡大した。それも清代(17C半ば~18C半ばの百年で4倍増)を上回るかもしれないスピードです。
 海に出て,海を利用した,としか考えられません。
 でも,それだけなら中国沿岸部全てがそうだったはずです。なぜ福建なのか?

4[人口移動]福泉漳のみが海を渡った

山間部と沿海の経済発展は地理的位置と経済環境の違いによって,各地域の特徴が見られる。
 閩西は汀江流域を利用して他県との貿易通路として墟市数が多い所であった。
 閩中地域は莆田と仙游2県があるが,明の後期から倭寇の影響で衰えてから,二度と立ち上がれなくなった。
 食糧・木材・茶葉・紙など商品を輸出した閩北は墟市数があまり増加せず,経済発展が緩慢であった。
 食糧不足区であった閩東と閩南では生活を維持し,家庭収入を補うために農業以外の商品作物栽培に従事しなければならなかった。それらの地域は商工業生産の収入が農村家庭収入の半分を占め,福建省全体で一番速やかに発展していた所だといわれている。[李2006]
※地域毎の改行は引用者挿入

 内陸水運路となった閩西と,閩東・閩南が発展した。閩東・閩南とは,莆田地域以外の沿岸部,つまり福州と泉州・漳州です。海外交易で拡大した。いわば,清代の他地域の新農地に代え,外海を拓いてかつてない発展を見た。
 けれどもその中間地・莆田のみが,「倭寇の影響で」「二度と立ち上がれなくなった」。沿岸都市ならどこでも発展したわけではないのです。
 福建の中でも限られた地域の集団だけが,海外雄飛している。これも信じ難いほど地域が偏ってます。

4[産業構造]商品経済の肥大化

 中国で商業が肥大化した地域と言えば安徽人(いわゆる徽商)があるけれど,福建は商品産業,つまり「交易のために生産される商品」産業が特色になってます。
 文化や原材料や環境ではなく,何が売れるか,で産業が興隆していったわけです。プロト・資本主義的とでも言うべきでしょうか。

 福建省は後漢末年より北方漢人が中原から移住してから,人口が増えてきた。中原から携えてきた生産のための各種の道具や技術と文化的知識により,福建の農業は飛躍的に発展した。宋元期の対外開放は福建の速やかな発展に重要な役割を果たした。明清期に入ると,福建省の商品経済の発展は全国でも突出したものとなった。[李2006]

 ここの因果関係がよく分からない。漢族支配域となって割と間を置かず海外交易拠点となったから,商業が発展した,というのもなぜこの時期に流入したのか不可解。商業の発展が先だった,というのも,ならばそれはなぜだったのか,と堂々巡りになる。
 でも実際,海外からの新種は福建から入った事実ははっきりとある。流入路の一つ,ではない明確な事実らしい。サツマイモの経由地は他の資料でもはっきり福建と書かれる。

アメリカ大陸原産作物であるトウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモが18 世紀の人口急増を支えたといわれている。福建省はトウモロコシが中国に導入された経由地の一つとして,また,サツマイモの栽培方法を普及させた地域として知られ,タバコの栽培も18世紀に福建の山間地域において広がった。各地域内に,例えば,南部沿海部の砂糖,漳州を含む西部の煙草,北部の茶葉・杉・松・竹など特産農産物を広範な全国的流通市場で販売していた。[李2006]

 この商業偏重は,自分たちの食料自給を犠牲にして進められています。米にしてそうなんだから,域外との交易なしに食生活すら成り立たない状況が常態になってたわけです。

福建の商品は特に中国の市場の中心であった江南地方と結びつき提携し,このルートを通じて全国の市場に繋がっていた。代わりに,福建に流入した品目のうちで最大のものは米穀であった。もともと,食糧の自給自足ができなかった地域では,多くの利益をもたらす砂糖・煙草などの農産物の導入により,在来の稲作が駆逐された。それで,米穀生産の相対的な減少に伴い,自家用の飯米の確保の問題や小作料の問題が出て来たといわれる18)。
18)三木聡『明清福建農村社会の研究』北海道大学図書刊行会,2002 年,84-5 頁

6[流通路]国内ルートと国際ルートの接点

[李2006]は福建の流通ルートを3つ挙げています。前二者は国内で,おそらく福州から北へのルートを省いてる。

 福建の商業流通ルートとしてはおおよそ三つの地域が形成された19)。即ち,
Ⅰ.汀州府の一部と昭武府・延平府・建寧府を含めた地域は閩江を利用し,閩江下流の福州を中心にした閩東地域と繋がっているものである。
Ⅱ.汀州府を結節点とする江西・広東の一部の地域である。
Ⅲ.漳州府・泉州府・興化府は海上ルートで,省外と海外諸地域とをつなぐものである。特にⅢは月港・厦門港・福州港の優勢を充分に発揮して,福建は世界との貿易が盛んになった。清の康煕23年(1684)の解禁後,特に乾隆中期,福建省だけの海外に出航した貿易船舶が年平均60 - 70 隻であり20),また,明後期から大量の白銀が中継点として福建省を通じて国内に流入した。
(引用者注 この段のみ引用者が改行を挿入している。)
19)前掲書94 頁。
20)福建省銭幣学会編著『福建貨幣史略』北京中華書局,2001 年,160 頁。

 福建沿岸は海外交易の拠点だっただけではなかった。国内交易の流通拠点たる福州・汀州と役割を分担し,これらとネットワークを成してバーゲニングパワーを維持していたわけです。モデル的にはこんな感じでしょうか。

〔17C福建流通ルート模式図〕
      中原・浙江
        ┃
     ┏━福州
     ┃  ┃
     ┃ 興化
     ┃ 泉州
 内陸━汀州━漳州━海外
 広東

 ここで,今回行っていない汀州という土地が登場します。福建省西端,厦門の北西3百km。唐代に開発され,清代まで地域の中心であり続けた土地で,「福建西大门」(福建の西の入口)と別称されてます。「客家大本营」や「客家首府」(客家の大本営,都)とも呼ばれるのは,ここに住む人の大部分が客家だかららしい。
 福建は外海に開かれていたばかりではない。内陸への拠点としても,まだワシの知らない何かの意味で,突出した存在らしい。
※ wiki/汀州
※ 百度百科/汀州

▲汀州の位置

 どうやら李の主著作とされるのは次の「経済発展と貨幣流通」らしい。最初にヒットしたのはこちらでしたけど,このデータ解析には圧倒されました。
 なので,稚拙な考察はメモ程度に控えめにし,原文を自分用資料集にしておきます。

出典:李紅梅「清代福建省における経済発展と貨幣流通」第1節 経済発展の趨勢と地域差 1.人口の推移と経済的な要因の移動,松山大学論集 巻19 号1 ページ153 – 200 ,発行年2007
URL=https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1397&file_id=21&file_no=1

A[地域別人口分布]現代より重心はぐっと南にあった

北部の3府、西部の汀州府の人口数は戦争・病気の影響で、人口の倍以上が減った。その中には他省に移出した可能性が十分に考えられる。南部では泉州府の人口変化があまり見られなく、戦地となった漳州府の人口減少は当然であった。しかし、1865年~1910年までの南部の低成長は海外・台湾への移民と関連が十分にあると思われる。[李2007]

 地域人口の半数,いや1829年数値では6割が閩南,莆田・泉州・漳州にいる。しかもその人口が,統計の不備を割引しても,19世紀中に激増減を繰り返してる。現代の状況を考えると流動幅は実感1/3程度になるのではないか(福建省人口38百万,うち莆田3,泉州9,厦門3.5,漳州5)?
 その流動のベクトルはある程度はっきりしています。

B[人口流動]19C:泉漳→台湾・東南アジア

 不完全な統計によると、1840年代前後まで東南アジアの華僑総数は100 万人以上に上り、福建出身者が多数を占めている。1847~ 1874年の30年間に25~50万福建人が出国したと予想される。戴一峰23)による各年度海関『関冊』の検討では、1841~1910年間出国人数が2,702,503で、帰国人数が1,596,187であった。これは厦門港に限定されていたが、福州及び広東などからの出国人数を加えると、平均年間出国人数は10万人を超えたと言われている。また、周知のように、台湾の漢族の先祖は半分以上南部から来た人々である。記録によれば、嘉慶14年(1809 年)に漳州人が42,500余で、泉州人が250余で、合わせて半分を占めたという。 24)23) 戴一峰『華僑華人歴史研究』1988 年第2 期36 - 37 頁。
24) 『 皇朝続文献通考』巻三〇、516頁。
[李2007]

 これも地域的に極めて限定されてます。台湾で聞いた時は,泉州と漳州なんて近所じゃないか,と思えましたけど,このボリュームと,近所だからこその反目を考えると激しい械闘も納得できます。
 ではなぜ出国ブームは起こったか?

 陳鏗25)の研究により福建の人口移動が遷海令や太平天国戦争のような要因で生じたのではなく、生活を維持するための経済的要因によるものであることが明らかになった。商品作物の生産から利益を獲得するために、各省や各県の間で移動したことが挙げられる。建寧・寧化から江西省に、寿寧から浙江省に、藍・麻・蔗の生産に従事するために人々が移動している。そのかわりに、江西・浙江からきた人々は「棚民」と呼ばれ、北部の延平・建陽各府の山を借り、製茶・製紙・製鉄に従事した。省内における府県間の人口移動の主流は汀州府・漳州府・泉州府・永春州から土地が肥沃な北部各府に移動したほか、漳州府から西部の各府に移入したといわれる。
 表3の1820年各府の人口密度と1829年統計したにおける移入人口を比較すると、密度中位ぐらいの東部2府は移入人口比率が多かったが、人口密度/平方キロが300人以上を越えた漳州府・泉州府の流寓人口比例がゼロに近いほど少なかったことがわかる。南部各県の人口圧力を解消するために、西部・北部の各県や台湾に移動する可能性が十分高いと予想される。
25) 陳鏗「明清福建人口的経済性遷移」『人口与経済』1985 年第2 期。[李2007]


 つまり,時代や地域毎の苦境は否定しないけれど,この地域の人口は元々流動的で,たまたまこの時期,その流れが国境を越えた,と考えるのが史料に適合してるらしい。

C[産業構造]地域別の人口-田地面積-納税額×3期

同2.納税と食糧の流通
 地方官吏の報告と調査が不可信のため、官撰史料のデータはそのままでは実際が分からない。しかし、当時の経済データを得ることは困難であるので、『福建通志』と地方志のデータを示すかぎりで、福建の各地域の様子を明らかにしたい。表4 には府県別田地と田賦の推移をまとめているが、利用できるデータが限られていたので、無理に合わせたものがある。乾隆期の表4 -1 では乾隆29 年(1764)に記載された田賦と乾隆41(1776)年の人口を仮にリンクしてみた。同じように、道光期の表4 - 3 では道光2 年(1822)の田賦と道光9 年(1829)の人口を仮にリンクさせた。嘉慶期と道光期のデータについて統計上のミスや記入の誤りなどの理由で矛盾点が結構存在したが、全体像を読みとる上では有用であろう。康煕期の賦役改革より官田と民田が統一されたため、「田地」というのは官民田の耕地以外に利用できる山地・池・果樹園・新しく開墾した農地などが含められている。したがって、計算した1 畝当り米納額は前に説明した徴収基準(1 畝当り6 升を徴収した)より随分下回っている。賦税収入は実物と貨幣であったが、順治期以来漕糧と軍米以外の農産物と田賦は銀で折納(振替納税)された。1石米が当時どのような基準で決められたかが曖昧であったので、各地域で分かる範囲の市場米価で計算しなおした。また、1 人当たりの米納額・銀納額は実 際の人口数で平均したもので、1 人丁の平均数ではなかったが、各県の人々が実際負担した田賦額であった。[李2007]



C1[乾隆期]福漳泉汀の食糧不足

 乾隆期の表4 -1 を見ると、漳州府・泉州府に属した南部において田地の面積が北部と同じであったが、人口は北部の倍近くであった。全省の銀納率は平均81%で、南部・東部・西部・北部の順番で、南部が一番高かったのである。1 人当りの銀納額や1 畝及び1 人当りの米納額については南部が一番低かった。同じ方法で北部の三府を見ると、建寧府の田地面積は昭武府・延平府より大きかったが、1 畝当り米納額は平均1.1 升より低かった。ただし、1 人当り田地と銀納額は昭武府・延平府より少し高く見える。それで、米が豊富ではなかった建寧府において昭武府・延平府より銀納率が高く現れた。東部2 府を見ると、福州府の田地面積が福寧府の約4倍で、1畝当りの差が大きすぎて、米の不足が明瞭となる。福州府・漳州府・泉州府・汀州府が食糧不足区であったこと27)が推測できる。27) 前掲王業鍵、71 頁。
※引用者注 5)  王業鍵「十八世紀福建的食糧供需与糧価分析」『中国経済史研究』1987 年第2 期。
[李2007]

 福州府・漳州府・泉州府・汀州府が,当時において既に,福建の中でも特異なエリアだったことは十分立証されてる。それは,田地に対する銀納額の比と食料不足である。いずれも意味するところは,奇形的と言っていい商業への偏重です。

C2[嘉慶期]やや貧しい商業民のくに

 嘉慶期の表4-2の各地域については田地と銀納額は南部・北部・東部・西部の順番で、南部が一番高かったのである。米納額は北部・南部・東部・西部の順番で、1人当たりの米納額は北部・西部・東部・南部の順番で、1人当たりの銀納額は西部・北部・東部・南部の順番である。1 人当りの銀納額と米納額については南部が一番低かったし、2番目が東部であった状況が変わらなかった。

 南部は,産業構造が商業に特化していたとは言えるけれど,裕福だったわけではなかった。やや貧しい商業民,という実態認識が適切らしい。

C3[道光期]謎の「変動」期

 続く時代はよく分からない。漳州が最も栄えたとも言えるこの時代を,李は統計上の誤りの多さから説明しているけれど,実際の変動を示唆している可能性もある。

『嘉慶重修一統志』嘉慶25 年(1820)の統計と『福建通志』道光9 年(1829)の各府県のデータは統計上の間違いが多く見られる。例えば、1820 年に永春州の田地が479,968 畝であったものの、1829 年に2,226,999 畝になったというように大きく増加した。それは記載のミスか実際の数字かについて判断しにくい。ほかの県のデータが多少増減したが、変化が大きくなかったとみられる。また、銀納額、米納額の数値は永春州・福寧府・建寧府を除いて、嘉慶期が道光期より上回っていることが分かった。すなわち、田地数が変わらなかった県は米納額が安定したが、銀納額がほぼ減少したという。それはなぜであろう。米納額が変化しなかったことについて二つ可能性が考えられる。一つは民国『福建通志』を編纂したときに、道光期の田賦は嘉慶期の数字が引用されたものである。もう一つは道光2 年『新刊賦役全書』から取り上げたもので、実際の数字であった。そうであれば、銀納額が減少したことも事実であるという可能性がある。銀納額の減少は各府県に納税状況の反映であろう。その仮定は成立すれば、東部と北部の各県の田賦徴収は西部と南部よりもっと難しかったといえよう。[李2007]

C4[3期比較]19Cの福建で何が起こったのか?

 乾隆~嘉慶期のデータをみれば、田地は建寧・延平2 府が減少したが、ほかの県が増加したように見える。銀納額がすべて増えたことに対して、北部3 府と汀州府の以外に米納額が多少増えた。それぞれの人口数と合せてみると、1人当たりの銀納額は嘉慶期のほうが多くなった。同じ方法で乾隆期と道光期のデータを比べると、1 人当たりの銀納額は道光期のほうが少なくなった。
 順治期18 年(1661)から道光2(1822)年まで省の規模のデータから見ると、清代初期から道光まで田地の面積や田賦がやや増加したように見える。その原因は康煕改革より増加した人口が賦税を納めなかったことや墾田の増加などがあげられる。[李2007]

 ものすごい重要なデータで,その数値が変動の様を表してることは分かる。なのにどうも判然と解釈できない。

各府県の考察より、道光期まで田地の面積はやや増加したことに対して、田賦の銀納額が緩慢に増えたものの、米納額が低迷したように見られる。田地面積は乾隆期に北部が一番多かったが、嘉慶と道光に北部を抜けて南部が1番になった。南部の銀納額はずっと一番目であった。清代中期まで人口の急成長に伴い、耕地面積が限られた福建各府では徴収が難しくなったことは道光期に田賦額の減少が一致したものであろうかと考えられる。そして、米穀不足の下で、各府県は田賦額の76%以上を占めた銀納額を納めるために、商品作物の栽培や特産物の販売のような商品経済を追求することから利益を獲得することしかなかったと思われる。民間市場で貨幣需要が高まっていったと予想できる。漳州・泉州2 府のように、人口が多くて食糧がもっとも不足であった南部地域では北部より貨幣を媒介物として、商品経済を早めに進んでいた。食糧市場の背後に単純な食糧売買ではなく、砂糖・煙草・紙・木材・茶など主要な商品作物の取引が行なわれたと言われている。28)[李2007]28) 三木聡『明清福建農村社会の研究』北海道大学図書刊行会、2002 年、94 - 95 頁。王業
鍵王業鍵「十八世紀福建的食糧供需与糧価分析」『中国経済史研究』1987 年第2 期85 頁。
山本進『清代の市場構造と経済政策』名古屋大学出版会、2002 年、135 頁。

 19C福建では何かが起こっている。それは福建の地域毎に別の相を呈した。李も堅実に,そこまでの結論を記しています。

 全体からいえば、食糧の問題と田賦銀納化は各地域に異なる影響をもたらし、商品経済趨勢にも差異が出ている。具体的にいえば、米穀不足のため、食糧を購入しなければならない南部地域と米穀豊富で、食糧を提供する北部地域ではそれぞれの商品作物や手工業の特徴が異なっている。[李2007]

D[地域別産業]海外向け産物の具体相


4.海外貿易の影響
 各地域の特産物は国内販売だけではなく、海外市場で人気がある商品であった。海外貿易の影響で各地域の民間市場で使用された貨幣にどのような変化をもたらしたかという視角から貨幣の流れについて検討したい。
 清代福建の海外貿易発展について1641 - 1684 年間日本との貿易は海外市場の30%ぐらいを占め、海禁以後から1843 年にかけて日本・マニラとの貿易が減少しつつ、フイリピン以外の東南アジア諸地域、欧米との貿易を拡大した。35)[李2007]
35) 前掲岸本美緒、190 頁。
※引用者追記 3. 岸本美緒 『清代中国の物価と経済変動』研文出版、1997 年。

 大きな潮流としては,17~19Cにかけての日本・マニラから東南アジア・欧米へのシフトがある。

E[時代区分]17C:密貿易期→18C:海禁解除後→19C:福州・厦門時代

 それを基にして、3 期に大きく分けてみたい。第一期は順治初期―康煕22(1684 年)年まで密貿易が行なわれた時期である。第二期は1684 年に海禁を解除してから道光初期まで厦門港の貿易の拡大期である。第三期は1843年以降福州と厦門が開港場として利用された時期である。[李2007]

E1[17C]福建船が半数を占めた

 密貿易時期に周知のように福建は活躍的な地帯として知られた。日本との貿易を例としてみれば、表14 のように二つのデータ36)が挙げられる。若干の違いを存在しているが、福建出発の船がそれぞれの時期に全体の半分以上を占めたことが明瞭である。明清交替の時から1654 年まで東部の福州船数がやや多かったが、1656 - 1684 年の海禁時期に福州船が急に減少し、安海船を含めて、漳州・泉州に属した南部に集中した。永積洋子の唐船データで安海船の比例が多く、岩生成一のデータでは安海・台湾船の数が多く占められた。これは福建沿海部で清朝に抵抗した鄭氏集団を中心とした密貿易との関りが深かったのであろう。乾隆『福建通志』に「福建は既に外国と貿易し、その賊は船を操ることも戦うことも旨く、皆漳州・泉州・福寧の人だ。漳州の詔安には梅岭・龍溪・月港があり、泉州の晋江に安海があり、福鼎には桐山がある。」37)[李2007]36) 岩生成一「近世日中貿易数量的考察」『史学雑誌』1953 年、62 巻11 号。永積洋子『唐
船輸出入品数量一覧 1637 - 1833』1987 年、創文社。
37) 乾隆『福建通志』巻74。

 梅岭,龍溪,月港,安海,桐山。
 月港は,漳州行きの際に研究したけど今は本当に何もないことが分かって断念しました。でも他は?
 安海を巻末で探ってみてます。

 安海は泉州府に属して、鄭成功の故郷で、鄭氏集団の密貿易の根拠地であった。この密貿易期間に東部地域と比べると、閩南商人たちが獲得した利益がかなり多かったと予想される。[李2007]

E2[17C]砂糖をもって去き棉花をもって返る

 日本に輸出した商品は生糸・絹織物・薬種・砂糖・染料・磁器・雑貨などを主にしたが、生糸以外に表6 のように、南部諸府で仕入れることができるものであろう。桑が福建に生産しなかったので、商業資本を利用して、生糸を江南から購入した。「糖去棉花返」という民謡のように、南部産の糖を江南に売りに行って、帰りに棉を買って帰るということが普通であった。背後地であった東部・南部の各府に足を踏み入れた以外に、福建の西部・北部また省外まで購入しに行った。したがって、銀元は南部の商人を通じて、一部分省外に流出した以外、南部地域で使用された可能性が高いと考えられる。[李2007]

 持って帰った綿を,海外に売るために二次加工したのが泉州織物だとすれば,この地の織物業の興隆は説明がつく。

E3[18C]海外拠点の月港→厦門移転

 第二期に1684 年に海禁を解除してから泉州の厦門港は漳州の月港に代わり、税関を設置した。「厦門は漳(州府)・泉(州府)の門戸で、洋船の出入り口としてもっとも重要になり」、38) 30 余ヵ国と地域との貿易を拡大した。岩生成一の統計より、1684 ~ 1700 年間厦門港から117 隻の船が日本へ交易に行った。「1720 年代から50 年代にかけて、厦門から毎年海外にむけて出港ないし海外から帰港する帆船の数は20 隻から70 隻前後まで増加した。」39)[李2007]
38) 「 宮中档雍正奏摺 」 第 21輯、353 - 4 頁。
39) 前掲岸本美緒、185 頁。

 漳州の海外交易拠点が一挙に厦門に移された。さらに欧米拠点機能は広州に移される。行政側がかつての海賊拠点を意図的にそうして圧迫した可能性もあるけれど,とにかく泉漳は陸上拠点としては危機に晒されたろう。

 乾隆22~ 47 年(1757 ~ 1782 年)間ヨーロッパ船の来航を広州一港に限定されたので、厦門が南洋貿易に中心となった。だが、閩南商人は資本と取引の一部分を広州に移入して北部の特産物を陸路で運んで広州関から輸出した。乾隆~嘉慶年間「広東十三行」といわれた福建出身の商人は全て南部の漳州泉州の出身であった。40)また、この時期に福建は江浙と台湾との交易について山本進が次ぎのように掲示した。41)江浙―福建―台湾は三角の交易関係ではなく、厦門を結節点としたL字型の交易関係を取り結んでいたのである。すなわち、福建は江浙へタバコや砂糖を移出し、江浙から米や木綿を移入したことを続けた一方、台湾に福建商品を移出し、台湾米を購入した。また、繊維製品のような福建本土で生産しなかった商品は江浙から移入され、台湾に転売された。このような交易関係の下で、泉漳二府は商品生産だけではなく中継貿易の拠点としても繁栄した。[李2007]
40) 梁嘉杉『広東十三行考』第3 章、上海商務1937 年版。引自庄国土「論17 - 19 世紀閩
南海商主導海外華商网絡的原因」『東南学述』2001 年第3 期、64 - 73 頁。
41) 山本進『清代の市場構造と経済政策』名古屋大学出版会、2002 年、140;153 頁。

 この時代に,泉漳の商業資本は海外移転を選択しているらしい。方向は広州と台湾。

 乾隆中期から嘉慶期まで、漳州府の龍溪・漳浦・平和・海澄・詔安五県、泉州府の晋江・南安・恵安・同安四県では米穀の自給率が低く、富裕層は海運業に従事して生計を立てていた。貿易港厦門は商人が輻輳し、外国米や台湾米を大量に移入していた。

 この海外移転は,李の言うように泉漳地域の食料危機にも起因しているのでしょう。台湾は,泉漳にとっての新大陸だった,とイメージしてもよい。

E4[19C]茶の時代,あるいは泉漳からの商業資本の複雑な移動

 交易拠点は福州・厦門に完全に移る。この段階で,泉漳商人がなぜ福州・厦門に移るだけでなく,台湾や広州,つまり福建外に移る過激な選択をとったのか,これが最大の謎です。

 第三期に1843 年の五口通商の中で、福建省は厦門と福州2港を占めていた。福州港が開港されてから、福建省内において輸出商品の変化も出て来た。同じ茶の貿易を見ると、閩江を利用して、コストが下げられたので、茶輸出口は広州から福州に移った。広州・福建南部の商人は同じように資金を閩江上流に持ちだした。例えば、北部の建甌県は咸豊~光緒初期に茶の単価が高かったので、従事した商人が多かった。第一は汀州人、第二は南部永春・泉州人、第三は江西・広東人と地元と挙げられる。42)
42) 李文治『中国近代農業史史料』第一輯、447 頁。

 建甌県で茶を商ったのはまず汀州人,次に泉州人。こう見ていくと,彼らは衰えたというより,むしろ陸上拠点の軛を絶ってより自由に活動している感があります。

 19 世紀80 年代まで福州港から国際市場に輸出した茶の勢いは減少せず、最高年間輸出量が50万担になったといわれた。1865 年後の福州税関年報に「市場に各種の茶が盛んになり、間に合わないぐらい…船が貨物を3 ヶ月ぐらい待っている」と述べている。赤石茶市が有名になり、咸豊同治年間経営する御茶屋は60軒になった。沙県も新興茶区として、茶市は富口・琅口・漁溪湾・館前・雲溪などが挙げられる。43)しかし、北部では茶山や製茶工場の発展は必ず本地の人々の力ではなく、省外の移民と商人及び南部商人が積極的に参加したものであった。建陽県に赴任した陳盛韶は「建陽には山が多く田地が少ない、荒い山に食糧がない…近来江西人が借りて茶山を開墾した。その租金が甚だ安く、その利益は甚だ多かった。春の2 月数十万隣省人が急に来て、…米価も騰貴する」44)という。[李2007]
43) 民国「沙県志」巻8、実業。
44) 前掲『問俗録』巻1。

 福建茶もまた交易商品として開発されたのです。ここにある江西人もまた,海民性は低いけれど移動を厭わない人々としてあちこちに顔を出します。

地方志を見ると、北部の各県には工商業に従事する人が少なかったことが分かった。例えば、政和県では「工匠が少なかったが、…茶葉の隆昌で工場を設置し、…商家が資本を持ち、専門販売し、町並みを変化した。…物産は茶・杉・筍・紙を除き、他にはない。毎年の三、四月の茶市を過ぎると、賑やかではない。」45)という、崇安県では「本県民は智恵を開かず、生産がおくれている。その理由は職業を重視しなかったからである。茶葉の経営は下府(泉州、漳州の南部を指す)・広州・潮州の人でする。果物の商人は福州人で、…大工・石匠が江西人であった」46)とあり、「光澤県には農者が多く商者は少なく、死んでも故郷を離れない」47)、南平県には「ここの人は謀略に拙くて遠いところにいくことも憚る。魚・塩・布・薬材を商売するのは他のところから来た商人である」48) という。したがって、北部の各県では食糧不足の問題があまり厳しくなかったので、商品作物の生産を導入するという自発行動より、外部の商人、特に南部商人の影響が非常に大きかったと考えられる。[李2007]
45) 民国『政和県志』巻20、礼俗、614 頁。
46) 『 崇安県新志』巻 6、礼俗、40頁。
47) 道光重纂『光澤県志』巻8、風俗、363 頁。
48)民国『南平県志』巻 10、実業、473 頁。

「無徽無成鎮」(徽州商人なくして町は成らず)と言われた徽商を彷彿とさせます。泉漳は出身地を離れ次々とそのコピーを広東から台湾,福建別地域に築いていったとも言える。

E5[19C]厦門を核とする泉漳ネットワークの完成

 この時期、厦門港を通じて台湾と福建南部地域の関係も変化した。砂糖、タバコなど高付加価値商品作物が台湾で栽培され、台湾米が福建以外の地域に販売されるようになった。近代になると、海外貿易に対して、台湾と福建南部の間、競争態勢が強くなったと言えよう。
 この節で考察した結果からみると、福建各府県における人口が乾隆~道光期増加しつつ、沿海地域と山地地域の人口密度の格差が激しくなってきた。沿海部においても、平原地帯と山間地帯の相違も存在した。すなわち、東部地域では福州府は福寧府より、南部地域では漳州・泉州2府は興化府・永春州より人口がずっと多かったのである。経済的要因で南部地域から北部や台湾や海外に移動したことを見るものの、北部地域から移出したことが見られない。そして、福建省内の各地域において田賦の変化から食糧不足を解決するために、田賦を納めるために、北部より南部のほうが貨幣経済の発展が速まり、貨幣需要も増加したと推定した。[李2007]

 泉州,漳州,汀州の人々は清後半の対外貿易体制の異動の中で,清の交易に見切りをつけるかのように,点から面に移行していったように見える。面とは,厦門-台湾-広州(後に香港)-欧米(東南アジア)をまたぐ交易ネットワークです。

〔19C福建流通ルート模式図〕
      中原・浙江
        ┃
    ┏━━福州
    ┃   ┃
    ┃❎興化┃
    ┃❎泉州┃
    ┃❎漳州┃
 (内陸)❎汀州━厦門━台湾
         ┃
        広東━欧米
         (香港)

 海賊とは,映画やアニメに描かれるより,もっと柔軟で,したたかで,臆面も外聞もなく棲み家を変えて生き連ねていく人々である。そんなイメージを,まずは作業的に持っておきたいと思います。

C1@[関係メモ]安海という土地

▲安海鎮衛星写真
※ 出典:安海鎮衛星地圖– 安海鎮、村地圖瀏覽 – 相約久久旅遊網

 位置は泉州と厦門の中間。衛星地図で見る限り,沖縄X的にはかなり有望に見えます。17Cから凍ったままになってる地域かもしれません。

安海镇,古称“湾海”、“泉安”、“安平”、“石井”、“鸿江”等,位于福建省泉州市晋江市南部,为晋江市下辖镇(略)地处厦漳泉中心位置。镇区总面积54.66平方公里,2010年人口普查安海人口为166754人。

※ 維基百科/安海镇

仏教の観世音菩薩の化身の一つ「十八手観音仏祖」が祀られています。1801年、福建省晋江市安海鎮の龍山寺から、大媽、二媽、三媽(寺内の3体の神像)が台湾に分霊され、信徒が交代で祀っていました。

林口竹林山観音寺-台湾宗教文化地図-臺灣宗教百景