m19S_23第三十八波m金雀花の初めちちょうち喜界よりm喜界島m小野津と赤連

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1128。まだ準備中の札。
1132十兵衛
豚骨定食650
思いがけず広い店です。ここが予約で一杯だったんだろうか?

十兵衛の「豚足」定食

肉はかなり小さいのが二切れ。キチンと調理されてるし美味いんだけど,やはり角煮の延長か。沖縄とは文化圏が違うんである。
「テビチ」ではない豚足どアップ

 この「豚足」は,ひょっとして沖縄と間違えた観光客向け?とも考えたけれど,やはり「郷土料理」ではあってよく食べられるらしい。ただ,沖縄とも奄美とも違う呼び名の他の料理と違い,この豚足には方言名が特にないようです。
※喜界町/郷土料理1
URL:https://www.town.kikai.lg.jp/kankou/kanko-iju/tokusanhin/kyodoryori1.html
/郷土料理2⊃「豚足料理」
URL:https://www.town.kikai.lg.jp/kankou/kanko-iju/tokusanhin/kyodoryori2.html

雨雲レーダーを見ると,雲は厚い。でもあと6時間ほどはこの位の小雨らしい。やはり小野津だけは行くか。

店を出ると正午のチャイム。雨は今は小粒。雲は黒いがチャレンジするには十分。
宿に自転車を置く。部屋は掃除中らしいのでロビーでくつろぐことに……と思ったら,どうやらお昼休みらしく,一応断ると「どうぞ,お昼から掃除なので」とのこと。しばしベッドにひっくり返る。

1235ノック音に目覚める。いい目覚ましになって出かける。身体とスマホも充電完了。
雨は止んでる。バスの時間を見ると南北回りで幾つかプランは組める。あとは雨足を見て臨機応変に行こう。

1307遅れて乗車。結構な満席,5人だけど。
ほっともっとで右折。鹿児島銀行で左折。ブックス銀座の通り。
1314昨日の家なしエリア。山並みが迫ってきた。
1318昨日の分岐。本道はあまり傾斜なく続く。でもそれなりに登りかな。
1320左手の道に入った。まばらに家屋。地勢が緩斜面になった。読谷みたいな感じ。あと1km。
集落が見えた。
1325小野津(うぬつ)下車。次の南1445,北1504。

保食神社(小野津)

北へ車道を進むとあった。保食神社(小野津)。1331
ガジュマルの下。場所は沖縄っぽいのにやはりそれだけ見ると墓石。榊あり。斜めになった今にも崩れそうな岩の下。左手に手水。
崩れそうな岩の下に祠

「馬頭」の文字が読める

「馬頭神社」と文字が読める。周囲に祠なし。ただし右手に珊瑚石。
その対面から集落へ。振り返ると宮の森は巨大樹です。
保食神社の上を覆う巨大樹

三叉路。石敢當。左手へ。単なる婉曲にも石敢當。
石敢當の三叉路

湾曲部に石敢當と水路の口

三叉路から学校への間

1344三叉路。左へ。学校に出た。沿って歩くとバス停の湾曲に戻った。北へ進む。

この小学校も閉校跡。平生24年3月。
碑に校歌を刻む。

校訓
小野津魂 百折不撓
校歌
一、歴史はふるく 雁股の
泉はここに 湧きいでて
清き流れは 黒潮の
大海原に 注ぎいる
ああ 希望に燃える
小野津小学校
[作詞∶野村トシ 作曲∶武田恵喜秀]

「全小野津字民 旅の小野津びと」

濱上謙翠翁頌碑
(略)野ニ下リ南船北馬シテ奔走明治二十七年興業株式会社ヲ起シ
 汽船平安 海龍 萬歳等ノ船ヲ借リ 進デ南洲
 隆盛等ノ船ヲ購ヒ島廳 元老 国会議員ニ謀リ遂ニ政府ヲシテ当初六十円ノ補助(略)
 大正七年 建立者総代 
三島逸陽
 昭和四十九年一〇月 再建者 全小野津字民
    旅の小野津びと

1409港。やはり岩礁あり。

小野津の石垣道

岩礁のある港。こういう危険な浅瀬と現代船用港湾を併せ持つ港が喜界島ではむしろ主流

1411郵便局。集落をぬけて
野面積の美しい石垣
石垣上に木々の根っこがオーバーフローして来てる

1418着いた。八幡宮。珊瑚の垣で取り巻かれてる。
八幡宮(小野津)

植物園の迷路に入るような参道です。

入口から
戦没勇士英霊銘碑
忠魂碑
濱上謙◯碑
泰いしまつえ碑

(略)荒廃ニ任セシアリシヲ亡母泰いしまつ中年丿頃度々神丿御啓示ヲ拝受シ深ク感ズルトコロアリ兹ニ謹ミテ私財ヲ献ジ(略)

無銘灯籠,二つ穴

左手に無名灯籠。二つ穴。
──石燈籠の常道,東∶丸-正面∶格子-西∶三日月という形式を外してる。ありそうでないシンボルだと記憶します。

手水・元の祠らしきものが右手に並置される。
宮全体ははっきり海方向を向く。

1444バス停・小野津
雨が急に酷くなった。今日はやはり止めておこう。南本線で帰還とする。
1446ほぼ定刻に乗車。

1450厳島神社を視認。鳥居から二段になって奥に塔のようなものが立つ。

1502赤連で下車。図書館へ。
あ,エスペランサあるじゃん。でも島外の方お断り。
かなり高台。でもこの辺が公共施設の集住地らしい。

「小野津の5つ瓶は今は埋文の方にあるんですよ」

喜界島の厨子甕

厨子甕∶風葬したあと,骨を拾って(略)納めたらしい。

喜界島の葬制 昭和41年(1966)4月町営火葬場が開設され,それまでの土葬から一挙に火葬になりました。
 城久遺跡では,土葬,火葬,土葬骨の再火葬,がみられます。
 古くは自然の洞などでの風葬(ムヤ)でしたが,薩摩時代以降は土葬に,更に墓石を建てるようになりました。いずれも殆どは数年後には洗骨をしました。
 今でも島内の洞などに骨をおさめたカメを見ることが出来ます。[案内]

 風葬までは沖縄と同じ。ただ「ムヤ」という言い方は聞いたことがない。
 洗骨も沖縄と同じ。

喜界島の地質分布図

喜界島の地形生成は河岸段丘が何段階にも渡り隆起したためで,現・海抜200mの百之台は10万年前のサンゴの石灰岩という。
喜界島等高線モデル

川嶺から城久辺りは地質的に石灰岩層の亀裂部に南から泥岩が入り込んでいる唯一の場所です。
泥岩層が南北から入り込んで,尾根の北中腹を東西から挟んでいる形状

あの赤い小さな葉を付ける草は「ハリツルマサキ」(ニシキギ科)。葉の腋にトゲがあるという。

貝の道(略)近年,喜界島でも発掘現場でヤコウガイなどが多く出土する遺跡の調査を行っており,今後の調査成果が期待されます。[案内]

ミッチャルー漁
 小魚を麻酔にかけ,活動が鈍くなったところを捕まえる漁。
 麻酔草・ミッチャルー(和名・ルリハコベ)をくだいて汁を出し,潮溜まり(タイドプール)にその草の汁を流し込む。(略)他の漁毒として,イジュ(皮),サンゴジュ(葉)が知られている。[案内]

ダイナマイト漁
 戦後(1945年以降2〜3年)ダイナマイトを爆破させて大量の魚を穫ることもあった。
 戦後の混乱期でダイナマイトがたやすく入手できたのであろう。
 危険な漁で実際命を落とす人もいた。
 現在は固く禁止されている。[案内]

1600図書館

城久遺跡発掘前の史料なのでどうか,と眉唾で読み始めたけれど,むしろ浮かれがなくて基本に帰れたのが「喜界町誌」

[喜界町誌編纂委員会「喜界町誌」喜界町,平12]

喜界町誌p67「喜界町遺跡図」
※まだ城久遺跡は記述されていない。

城久を除く(∵町誌刊行前)の遺跡の半数は,中間〜坂嶺,南に大朝戸の周辺に集中する。
同 島中央部アップ

先の地形図を重ねて考えると,要するに,中間-中熊-坂嶺の海岸沿いから,島中-大朝戸方面を経て,少し西に曲がり城久へ,さらに東に曲がり自衛隊通信基地までのS字が,緩斜面を成して続いている。これが中世以前の喜界島の海岸通りのメインストリートだと思います。城久はその門前町。

北向きS字緩斜面イメージ

中世末の白水の勝連屋敷や現代の湾に捕らわれてしまってた。小野津は東部の,荒木や手久津久は西部の玄関で,南海岸の白水と同じく後世の「新港」だと考えていい。

勝連が 船遣れ
船遣れど 御貢(みかまへ)
喜界(ききや) 大みや
直路(ひじゃぢ) 成ちへ みおやせ
又 ましふりが 船遣れ
[おもろさうし巻13∶ふなゑとのおもろ御さうし]

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