目録
RRR RRR RRR
今日,五回目のスクリーンを見てきたとこです。
常々思ってるけどインド映画というのは,映画ではありません。じゃあ何かというと,インド人にしか分からない何かの娯楽です。……いや,かつてそうでした。
RRRに至って,それが,強引に世界を納得させる力を持つに至ってしまった。
今日の八丁堀シネマの劇場側あいさつが言い得て妙でした。「この映画はインド映画ですけど,面白いんです」


橋にロープで宙釣り作戦問題


日本語吹き替え版RRRで面白かったのは,ビームとジェシーの初デートシーン。原作では二人が互いの言語を理解していないのに,日本語版では「言語の壁」がなくて「ごめんなさい,よく聞こえなかったわ」とかたまたま勘違いしたとかという構成になってます。インドを含む世界の常態としての多言語状況は,日本人に「理解不能」であるという前提で邦訳されている。ある意味で賢明な意訳であり,ある意味では悲しい日本人観です。
NATU! NATU!! NATU!!!


それを前提にすると,このドラマーがラーマに鉢をすんなり渡し,さらにそのリズムを引き継いで打ち鳴らす流れ,次いでのNATUシーンそのものの高揚がより深く堪能できます。

More Deep NATU!


突然ですけど、RRRのNatuシーン(またはバーフバリの黄金像除幕式典で勝手に始まる音曲)から、斎藤敦夫「冒険者たち」(ガンバの冒険)のイタチとネズミの踊り比べを連想した方はおられないでしょうか?
アニメでは血みどろの戦いとしか描かれなかったイタチとネズミの戦いは、斎藤原作では前半が、イタチの言葉・踊り・歌として描かれており、論者によってはそれがこの物語の真に珠玉な部分だと評してます。

バーフパリと違い,敵が異文化であるRRRの底流には,インド文化の中でも原ドラヴィダ的な「野生」をあえて英国「文明」に衝突させ,前者の勝利を描くインド的精神主義の姿勢があります。これはコムランビームのシーンとも共鳴してます。
中盤以降の怒涛のアクションの裏で,ラーマとビームの戦いに,ラージャマウリさんは印英──あるいはアジアvsヨーロッパの「文化的競争」を象徴させています。だから,Natuシーンはある意味この映画全体を要約してます。

砂場に移るまで白人男性全員がノリを示さず、ジェイクに至っては半ばまで「不快」「汚らわしい」とまで吐いていたのが、白人女性が砂煙をあげ踊り出し、最後にはジェイクを含む白人男性まで片足をクネクネさせて踊り初める。
これはまるで現代の様です。印中の異質かつパワフルな経済的・技術的進出で全く新しいシーンが創造され,欧米も止むなくそこでの「踊り方」を真似ないといけなくなっている。それとそっくりです。
必死の形相で踊り初めたジェイクを,ラーマは拒まない。むしろ「GoodJob」の親指を両手で示してます。
猛獣とビームの殴り込み問題




Load,Aim,Shoot!


Komaram Bheem


歌としては,このシーンまでに二回歌われてます。冒頭はマッリの笑みとともに,総督邸ではマッリに奪還を約しつつビームが歌う。三度目が拷問時,風に舞ってきた一葉からビームが分身又は英雄コムランビームと対話しつつ歌う。
分身としては,耐え抜いた未来の己との対話です。成した後の自分を「知って」いる者は必ず成す。自己暗示と言うには凄まじ過ぎるけど,バーフバリのDhivara(滝登り)シーンにも通底するインド式精神主義です。これが物語の転換点になります。
なお,ビーム役のNTRジュニアは,鉄塊ぶら下げシーンで本当に足を怪我したという。それは確かにもっともらしい。でも,ラーマ役のラームチャランもこのシーンで膝の前十字靭帯断裂で全治三ヶ月の怪我をしたという。なぜ鞭を手にした特別捜査官がこのシーンで怪我をしたんだろう?



2人対インド総督軍問題
※バーフバリ前編に最初の頃日本で付けられてた迷キャプション「1人対王国」に因みまして……。
大団円問題



最後になるけれど,RRRのラーマの「ラーマ王子」化は,インド極右的なイメージが強いことは,一応頭に入れておいた方が,思想的には安全です。
21Cに入ってからインドを訪れた事のある人は,インドが如何に怒涛の「右傾化」をしつつあるか,かつ,これまでの現代史からしてそれが如何に必然でやむを得ない事か,ご理解できるはずです。
A song claims we won freedom without shield or sword thanks to a miracle by Mahatma Gandhi. I despise this song. If freedom could be won without violence, Ram would have Sita to spin cotton to get Ravan to release her. Hindus, become Ram and get your bow and arrow ready. Those who eye India will have their eyes gouged out and thrown to vultures.〔Sadhvi Saraswati(サドヴィ・サラスワティ,当時13歳の少女)によるVHP(世界ヒンドゥ協会,RSS(民族義勇団)傘下)集会でのアジテーション←後掲インド映画の平和力〕
ガンディの奇跡により、盾や銃剣に頼ることなく植民地支配からの解放を得たという歌があります。くだらないと思います。暴力なしで自由が勝ち取れるなら、(古代叙事詩『ラーマーヤナ』の)ラーマ王子は(魔王に拉致された)シーター妃にこう言ったでしょう。「解放してもらえるよう、魔王のために綿を紡ぐがよい」 ヒンドゥ教徒にうったえます! 私たちもラーマ王子になって、弓と矢を手にするのです。インドに邪な視線を注ぐ者がいたら、それらの目をえぐり出しハゲワシのエサにしてやりましょう。
※インド映画の平和力/テルグ語映画『RRR』について、そろそろ「本当の話」をしよう④ ヒンドゥ右翼の影その3 「ラーマ神のよそおい」と「武器の獲得」 –
URL:https://blog.goo.ne.jp/sakohm27/e/fdf7acff6b9f6b0e970f9211cd451a9f
エンディングの「SHOREY」で挙がるインド独立運動の英雄群像の中にガンディーもネールも入っていないのは,そういう政治思想が底流にある映画だからです。
アクション映画として楽しむと同時に心理的警戒を維持しておくべきなのは,中国映画「芳華」「長津湖」と同じかそれ以上です。
ただ,それでもこれらの映画が楽しめるのは,そうした荒々しい──バーフバリ風に言えば,破壊神シヴァの神威が還流となって画面と音声に噴出してるからに他ならないのです。
WITCHといい「首」といい……カルチャーの表層にこれほど荒い野生からの噴火口が出来ている現状を,どう見るべきなのてしょう?
▼▲