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※安須杜(アシムイ):大石林山(旧名:金剛石林山(こんごうせきりんざん))。2億5千万年前(古生代)の石灰岩が地殻変動によって地表に現れた後,数百万年かけ雨風に溶食・侵食された奇岩・巨石群が林立。熱帯カルスト地形としては世界最北端。神話上,島建ての神「アマミキヨ」が降り立ち沖縄最初の聖地「安須杜」を創ったとされ,琉球王国時代には王家の繁栄,五穀豊穣,航海安全をこの地の御願所(拝所)で神人の祈りが捧げらた。ウガンジュ(拝所)は40以上あるとされる。〔沖縄文化・観光ポータルサイト(OKINAWAN-PEARLS)/大石林山(だいせきりんざん)①〕※URL:https://www.okinawan-pearls.go.jp/?act=detail&si=252

左手が宜名真公民館,正面が宜名真共同売店,そして右手角(売店前)を曲がると宜名真神社

宜名真公民館,共同売店,そして神社。「沖縄本島最北端のお宮」と旗。
宜名真神社の鳥居

左手手前サッシ内の神棚の神名配列

左手にサッシの豪勢な祭壇。神棚の三枚の紙に書かれた文字,おそらく神名は少しずつ異なる。その前には7体の仏が並ぶ。不思議な祀り方です。
左手二塗る棟目はどうも内地式。スルー。
正面社は奥が少し開けられている。

正面は東屋のような建物。位置的には本殿のはず。
奥の戸が明らかに意図的に開かれていて,どうやらそれが御神体だと言ってる。つまり遙拝所です。
1124裏手右観音堂?

裏へ回る。1122
右手に小社。鏡の奥は観音らしき新しい像。
観音堂から南側の民家

奥正面樹下に二柱の石

奥正面には二柱の平岩。手前の4本の樹木は結界でしょう。
右手・地頭火神

右手「地頭火神」
左手「恵比寿大明神/混比羅大明神/大国大明神」それぞれ紋が冠されている。
1131正面・三ヤマト海神

両者は僅かに方向を違えている。火神が真西向き,ヤマト三柱が西南西でしょうか。本殿の方向及び隙間から見えるのは前者のようです。そのようにして,本来の根神がそれであることを伝えたのでしょうか。
本殿のガラス戸越しに裏手への隙間,ガラスに映る鳥居──錯綜するヤマト神道と琉球古神道

「御朱印・御守りはお隣の共同売店にてお求めいただけます」
広告:御守りは共同売店まで!

1140再走。あれ?トンネルがあるじゃないか。──宜名真トンネル。
1143宜名真の港にて
沖縄のバス停・「北国小中学校入口」

1151バス停・北国小中学校入口。時刻表は貼ってない。静かです。
残42km。バッテリ表示が70%になった。宜名真は「ぎなま」と読む(道路表示)。
兼久橋から大石林山西北麓。もう山より北へ来ています。

1156兼久橋。大石林山を東南東に見る。凄まじい原野の広がり。山麓を回る道はやはり遠回りのようでこれが一番近いらしい。
静寂の正午。奥からだろうか,チャイムが微かに聞こえる。
十字路。もう直進しかない。
1208大石林山の真北地点。その「戻る道」って看板は何?何が1.6km……?
バス停・辺戸岬入口をスルー。1210,残38km。風さやか。
1214辺戸岬から奥への登り道

1217義本王の墓──標高100mッ???
1223「標高百m」を登る岩階段

それほどじゃなかった。ぜいぜい。
「King Gihon」墓配置図

墓本殿正面より

義本王は沖縄最初の王統である舜天王統の第三代目国王で,西暦1249年に即位した。
 しかし即位した翌年から大飢饉・天変地異・疫病が起き,これは自分の不徳によるものであると王は次期王統の創始者である英祖を召して国政を代行させたところ,病気もやみ国が治まった。義本王は在位11年で英祖に譲位し,その後のことは伝わっていないとされる。(略)
墓室内中央に大型の厨子甕が安置されており,これは明治の改修時に尚氏から送られた(ママ)五尺の大陶棺と思われる。〔案内板〕

1234墓正面の神前

香炉の左右に湯呑,壺各一。
前面右手の切込事例1

前面右手の切込事例2

本殿壁面は切込積😗。屋根も極めて精緻な造り。
苔むすけれど精緻な屋根造り

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※ところどころの訳の分からない文字は,片道70分のウォーキング(次章{急}編参照)中にポケットの中で何者かが打った文字……なのでその神威ゆえにそのままにしてます。

1242大石林山直下へ

1246大石林山東側直下

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