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「すみません、子どもも食べれるカレーはあります?」と後ろの座席に座った家族連れのワガママ坊主が「エビフライが食べたい!」とただをこねてる。
1125 ダルバート食堂 ムスタンタカリチューロ
カレー二種類のダルバート チキンと週替り(ほうれん草,小魚のアチャール★)
最後には泣き出しやがりました。
ネパール料理に連れてきたのにエビフライを要求するガキに、とうとうお父ちゃんが怒り初めました。そりゃそうだよな。
あと、明日からの奈良は現在、インフルエンザが……大阪のおばはんの言いによると「警報級」だという。
奈良県では、令和5年第49週(12月4日~12月10日)にインフルエンザ警報発令となっています。奈良市においても、令和6年第5週のインフルエンザ定点当たりの患者報告数が30.29となり、警報基準の「30」を上回りました。市内の学校ではインフルエンザによる学級閉鎖も発生しています。〔奈良市:最終更新2024年2月9日〕
奈良県によりますと、今月12日から18日までの1週間に県内54の医療機関から報告されたインフルエンザの感染者は、1医療機関あたり22.80人で前の週(32.58人)から9.78人減りました。
インフルエンザの感染者数は先週まで5週連続で増加していましたが、今月12日が振り替え休日で休診の医療機関もあったことなどから減少したということです。〔NHK/2.22 奈良 インフルエンザ感染者数 前週より減少も引き続き対策を〕
う~む、危険危険。
それはさて置きまして1220谷町線で天王寺。JR天王寺へ乗換えて大和路快速。あれ?快速は平野、止まらんのかい!1237久宝寺で下車、二駅折り返す。1246
空は薄く曇るけれど日差しはやや強め。
1250ようやっと平野着。改源を一服。
駅前にいきなり古い町家。なのに、観光の旗とかが全くない。ここの観光行政思想は、個人的には好みの「ひねくれ」方をしてて「平野・町ぐるみ博物館」「感風の町」を標ぼうし、「探してください 迷ってください 迷ったら町の人にたずねてください」と堂々と言っています〔後掲めぐりと〕。――――その成果なのか、「コロナ後」に押し寄せてる外国人観光客は一人も見かけませんでした。
さて、平野駅東側はまさにアパート地帯。それもそのはずで、このブロックは紡績工場だった場所でした。江戸期以前にはこのブロックまで杭全神社の境内と神宮寺の僧房があったということなので、神宮寺までを含む神社神域は現在のほぼ倍あったと想像されます。
江戸後期から平野川の舟運は積荷量の減少から衰退を始め、平野郷の経済にも影を落としていましたが、鉄道の開通をチャンスととらえた平野郷では、鉄道開通と同年の1889年に平野紡績会社(現ユニチカの前身企業の一つ)が町内有志の出資によって設立され、開業したばかりの平野駅南側に広がる杭全神社の境内と神宮寺僧房跡に、近代的な紡績工場が建設されます。〔後掲大和徒然草子〕
線路に沿って東南東へ。杭全神社の矢印を追う。
1303杭全公園。この裏か?あ、これ?平野郷環濠跡。1305
――――なんちゅー普通の場所やねん。
公園側の石積は新しく、おそらくは公園造成時のもの。時計回りに回っていこう……いや。それじゃ神社に入れない。反時計回りに行くことに。
1312ad.平野宮町二丁目1。公園南のラインは概ね環濠北ラインでしょう。
ad.一丁目8。アパートの切れ目から横門に入れました。1315
一見してとにかく古い。
まず右手に十柱神社。手前から加茂神社・愛宕神社・金刀比羅神社・松尾神社・八幡宮・住吉神社・中居神社・多賀神社・大国主社・恵比寿社。全てに榊と塩。東面。1319
その右に祖霊社・田村社。これも東面。1322
さらに恵比須神社がもう一つ独立してある。同東面。1325
この三社は後方は壁のみ。門に戻って左手へ行こうとすると、注連縄を張ってある無名神社。
やはり東面。手前の杭に泥堂と書いてある?1328
左手は吉岡稲荷大明神。
1333これは奥院あり。手前本殿と軸線がズレてる。大石に源光(?)大神と文字。岩は三本は横ヒビが入ってる。多分元々は屋根なしで建っていた風情。両側の円柱も従神名らしい。右「共(縦棒一本)己大昭(?)神」左「共(縦棒一本)玉大神」1334
その先、杭全神社現・本殿後方に三社。杭全神社第一〜三本殿。一が元禄、二が室町、三も室町とある。これは初めて南面、現・本殿と同じ方向。観光ガイドがやってきました。
第二本殿の手前の木の案内版には熊野三所権現。祭神は伊弉諾尊、速玉男尊、本解男尊とある。
本殿右手に鎮守社。集落神又は地主神ということでしょうか。西面。
さて本殿。中で祝詞も聞こえる。かなり本気で祈る人が多い。1348
平野郷夏まつりポスター。令6は7.11-14。
7.11太鼓台足洗い
神輿足洗い
7.12地車町内曳行
九町合同曳行(南港通り)
7.13地車平野郷内・町内曳行
宮入
7.14太鼓台巡行
神輿お渡し渡御
「九町」というのがポスター最下部のこの九字でしょうか?左から流・市・脊・西・泥・馬・東・南・北
「泥」流とさっきの泥堂とは関係あるのでしょうか?
――――全然勉強不足でしたけど、ポスターの九字は略で、現在杭全神社に宮入する九町:野東・野南・野北・流町・市町・背戸口町・西脇・泥堂・馬場を指します〔後掲杭全(くまた)神社〕。つまり「泥堂」は流そのものの名前でした。
案内版で初めて「くまた」という読みを知る。第三殿が12C、第二殿が後醍醐天皇勅命で、第一殿が奈良春日大社本殿の移築により成立したとある。
参道東側に百万円寄付者名がズラリ。
入口東側に西面の無名鳥居。社がない?神体は樹木でしょうか?1403
やはり西側に東面の社。これは確実に後方の注連縄を巻いた樹木が神体です。なぜか地元の参拝者が多い。奉納書きからすると社名は楠社でしょうけど、通称に思えます。1406
えっ!樹齢一千年と書いてあるぞ?10Cということは神社より古いことになります。
右手に「樟[ネ埜]」のような不思議な二文字を刻む石柱。1412
筆塚の先に池を後ろにした社。東面。鳥居には宇賀神社とある。1424
アカミミガメ捕獲の注意書きによるとこの池は「弁天池」
この池の南に神田らしき場所と注連縄。するとこの池は龍神系のものではなく神田のための水源なのか?1429
市立平野小学校を右に見てようやく南出口鳥居。この南北に長い敷地は何を意味するのでしょう?高みでもないし、海からの道ならこんなに長くなるとは思えない。海岸線なら海に横を向く神社はありえない。
現・平野は、古代でも中世でも、西に水域をもっていたと考えられます。南鳥居前に水域があったとは考えにくいのです。


平野は江戸時代の前半は幕府直轄領、後半は下総国古河藩の領地で、1704(宝永元)年に大和川の付け替えが完了すると、周辺が国内随一の綿花生産地になったことから綿業を中心に産業発展を続けます。
江戸時代の初めに、京橋・平野・柏原を結んだ平野川の水運・柏原船による交易が始まると、平野は中継地として栄えました。
柏原船は、1620(元和6)年に発生した大和川の氾濫で荒廃した柏原の復興と平野の繁栄を願って、平野の豪商で地域の代官でもあった末吉孫左衛門長方(吉安の子)が計画。
1636(寛永13)年に運航を開始した柏原船は、柏原を物資集積地とすることでその復興・繁栄を後押しするとともに、平野にも綿の交易による莫大な富をもたらしました。〔後掲大和徒然草子〕
そのまま南行しつつ西へくいくい斜めに行く。
1440ad.平野上町二丁目8
1442ad.同6
T字路がやたらに多い。
1445ad.同5
1447ad.平野本町三丁目1。
1451旧西脇門筋と案内版。
江戸時代、堺口と住吉街道に通じる環濠出入りの西脇門(俗に南門)のある筋で、この門から南へいくと、堺口からの道と合流して堺・住吉へ行く街道(八尾街道)となる。〔案内板〕
1455アーケードの平野本町通商店街。右折。北へ湾曲、ad.同一丁目8
ad.同7
1502魚谷食堂
けいらん400
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