目録
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古島駅(→GM.)前で下車。1251。
もちろんリュック持ったままですけど、コインロッカーに預ける気でした。もしなければ一度県庁前へ動き、チェックインしてから出直す気でしたけど……ロッカーは使えました。──今日の天候は崩れる予報。歩きは早く済ませた方がいい、と判断しました。1251。
おもろまちに向いて右手前、(有)沖縄電解水側に下りる。
南行。

アクロスプラザの向こうを階段で西行。
新都心だから当たり前ですけど……完全無欠の新興住宅地。1310。

杏屋から片側二車線車道。違法横断してMOSCAFE手前へ右折北西行。市民協働センタープラザにぶつかり左折。ドラッグイレブンの裏、すこやか薬局(→GM.)手前で右折。園地にぶつかり右折北行。
変な石垣が見えてくる。園内に入っていくと──あった。伊是名殿内の墓(→GM.)。
〔日本名〕那覇市銘苅・安謝(沖縄戦時の利用:日米琉とも記録無し)
〔沖縄名〕?
〔米軍名〕?

伊是名殿内(いぜなどぅんち)の墓は,伊是名・伊平屋両島の総地頭家(上流士族),伊是名家の墓です。銘苅墓跡群の中にあって他の墓とは,その規模・造形などが大いに異なる亀甲墓です。
この墓は小高い山を三面に切り取り,その切り取った土で敷地を造成してつくられた,面積660㎡の県内最大級の亀甲墓です。その規模・建築技術は沖縄県内の墓の中でも傑出したもので,道教(風水)の思想を基につくられています。
墓庭を囲む石垣には「相方積み」を用い,隅には突出した石「隅頭」(すみかしら)があり,上流士族の屋敷囲いの石積みを彷彿とさせます。入口には,本門と中門の2つの門があり,入口をクランク状につくることにより,ヤナカジ(悪い風)が直接墓本体に当たらない工夫が施されています。
中門を抜け墓庭に入ると,左手には葬儀に用いた用具等を処分するための,石を積んでつくられた穴があります。また,墓本体の正面右手には土地の神であるヒジャイ(后土神)を祀る祠が見られます。(略)〔案内板〕
1337、案内板の正面図、平面図撮影。


凄い。
旅行の性格上(?)、亀甲墓を幾つも通り過ぎてきましたけど、これは迫力です。この衝撃は、後に那覇市教委の聞き慣れない「最大精緻」なる文章を読んで納得しました。
(再掲)特に、県内で最大精緻の亀甲幕「伊是名殿内の墓」には、18世紀代に確立した沖縄独自の亀甲墓様式のすべてを示した到達点を見ることができる。〔後掲那覇市教育委員会2007/第13章 総括 173枚目、p165〕

石積みは精緻です。
作風や意図は不明ながら、この死者の建築は、17C以降(後掲)の琉球亀甲墓史中、最高水準のものとして建設されたものです。

余り精緻なので、石垣間に巣食う雑草も、窮屈そうに生えてます。

壁と壁との接続構造も巧緻なものに見えます。この高度な構造同士を、どうやってピッタリ組み上げてるんだろう?

唯だ墓地群は、基本的に森に完全に埋もれてるらしい。伊是名殿内の墓が、多分観光上、特に観光できるようにしてあるだけ。
空気を切る音。も一つ高い平地でゴルフの練習してる、おじい一人。

さて?不便な場所です。古墓群の谷が横断できないからです。
新都心公園側の車道に出て橋を渡る。橋──覗き込むと確かに小さな水流がある。

1349、SAGAWAの手前の歩道へ右折(→地理院地図∶現・サンエー銘苅店東裏の路地)。見るからに心細い道ですけと……おばあが歩いてきたから抜けれはするんだろう。

柵でガチガチに覆われ東の谷には入れないけれど──所々に構造物が見える。1353。
コンクリートブロックもあるようだから、戦後にはしばらく実利用されてきた場所と思えます。

1355、ヴィラアンソレイユ裏。シグルグカー(→GM.)の場所のはずだけど……分かりません。何かおじいが来て般若心経を唱え始めました。
その祈りの方向にも特に何も見えはしない。そのうち「この辺の人はここの水にお世話になったからさあ」と語り始めた……ので適当に相槌を打って去る。

斜め方向から井戸らしい場所が見えたけれど……もちろん何の確証もありません。1401。

──後から見返すと……とても沖縄県庁所在地の新市街の旅行記とは思えませんね。
でも、ほんの少し前まで、沖縄とはこういう緑の地獄だった、という面もまた否めないので。

「花とみどり課」の看板。理由は書かずに「入ってはいけません」とだけ書いてある。何が「危険」なのかも示されない。
それが正しい。

1409、道路に出た。下の橋の向こうに「JIMMY’s」のオレンジ看板。
1420、秀の窯パン工房に立ち寄る。


帰路のファミマから対面の高校のネットを見る。破れた箇所を丹念に裁縫してある。
気付かなかった。いつもここの十字路は通ってるのにな。

1507、古島駅ホーム。リュックを回収、宿へ。
坂道の登りが続いてしまった。足が鬼の金棒のようですなあ、ははははは。


この日は宿のベットにダウンした後、一度だけ何とかパレット久茂地の地下の食品売り場に行ってみました。
よもぎの束があったので再度購入。

■レポ:銘苅古墓群について分かっていること
最初のタグ(黒塗り黄文字枠)を作ってみて、改めてこの場所の異様さを実感しました。
銘苅古墓群の名称は、1984年度~1985年度にかけて実施された、「那覇市歴史地図作成事業」の成果としてまとめられた『那覇市歴史地図一文化遺産巻告調査報告善―』が初見であろうか。〔後掲那覇市教育委員会2007 16-17枚目p6-7〕
沖縄でそれなりに色んな場所をほっつき回ってきたけれど、こんな場所は初めてだ、ということに改めて愕然としました。
ここは、深々とした意味で訳の分からない場所なのです。
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沖縄心霊スポットの噂話に天久は頻出す……るみたいです。知らんけど。時々、物凄く安い不動産物件がある、という話もあります。いやホントに知らんけど。
「銘苅古墓群」が発見された現在の天久新都心は,1951(昭和26)年に米軍に接収され,主に米軍住宅施設として約30年余に亘り使用されていた地域でした。その後同地域は,1973・74(昭和48・49)年の日米安全保障協議委員会での返還合意に基づき214haにおよぶ広大な地域が返還されました。この地域は当時「天久解放地」と一般に呼ばれていました。(続)〔那覇市立壺屋焼物博物館〕
小説「宝島」にも天久の社交パーティーのシーンがありますけど、分からんのはなぜ米軍が銘苅古墓群を破壊しなかったのか?という点。普天間と同じく、米軍は結構文化財を維持してきたのかもしれません。
(続) 那覇市では,この広大な地域を市の新都心として開発するために「那覇新都心土地区画整理事業」を計画しました。一方,市教育委員会では同事業に先立ち,文化財課による埋蔵文化財の分布及び試掘調査を実施し,その結果を踏まえ1990(平成2)年から1999(平成11)年まで,10年間の長期に亘る本格的な発掘調査が実施されました。発掘調査の結果16ケ所の遺跡が天久地域から発見され,その中の一つが「銘苅古墓群」と呼ばれる遺跡です。
(略)発掘調査を終えた時点で最終的には両地区合わせて290基余りの古墓が発見されました。〔那覇市立壺屋焼物博物館〕
ということは、銘苅古墓群は戦前から存在をよく知られてた訳じゃなく、「あの辺りに墓がある」と認知されていたたけだった。遅れた大規模返還地だったからこそ注目され、注目してみると予想以上に巨大だった──という感じみたい。

「天久解放地」214haの地域を示した図等画像、及び銘苅古墓群の対象地面積がなかなか見つかりませんけど、下記おきみゅー(展開内)の画像を参考にすると、目分量で面積ベース1割弱というほどではないでしょうか。
〔後掲おきみゅー-写真1〕-251x300.jpg)
❛Halten1❜ 未だ氷山の一角 銘苅古墓
那覇市教委は銘苅遺跡群発掘報告で「このような大規模な古墓群の調査は、県内において初めて」〔後掲那覇市教委2007/教育長序文〕としています。ここに約三百の古墓があり、うち幾つかは伊是名殿内墓を中心に「良好な形で検出され」てます。──市がこんな大規模調査に大わらわになったのは、もちろん那覇新都心の開発に拍車をかける地元経済界から圧力が働いたからです。、つまり市の、少なくとも政治家は古墓群が「大したものじゃない」方がよい。その中で発掘機関の長の名で「良好な形」と書かざるを得ないのは、相当画期的な発掘だったのです。
では具体のポイントとして。現段階でGoogleマップ(他∶GM.)で銘苅古墓群を引くと伊是名殿内がヒットするように、現在、この遺跡は実質的に同殿内とイコールですけど──例えば南B遺跡からはつぎのような発掘がありました。

銘苅古墓群は、掘り終えた遺跡では全然ありません──というと沖縄のお金持ちの方々が眉をひそめるらしい。これを書いてる時点1年前のニュース(2025年2月21日)でも──
去年10月、那覇市銘苅のスーパー建設予定地で、業者が柱を打ち込む作業をしていたところ、地下3メートルほどの場所から2つの古墓を見つけました。2基のうち、1基は沖縄戦当時のものとみられる銃弾の痕がみられ、入り口付近で1942年に発行された五銭銭貨と近代の壺屋焼が見つかりました。もう1基でも15世紀ごろのものとみられる陶器や厨子甕の破片が見つかっています。〔後掲琉球放送〕
まだ色々埋まってるらしいこの地域、本丸となる谷が、不動産登記上どうなってるのか確認すると──

何と、一筆です。これは要するに、総有状態、
経済界も行政もこの遺跡に怯えている感覚が、段々分かってきます。この土地、特に土中を、誰も知らないし、これまでも誰も知らなかったのです。
❛Halten2❜ 誰も知ろうとしなかつた銘苅古墓
要するに、このタイミングで沖縄県庁所在地の新都心にならなかったなら、誰も関心を示さなかった谷が、銘苅古墓群だったのです。
銘苅墓跡群は、沖縄県沖縄本島南部、首里城跡の西方約3kmにある、沖縄グスク時代から琉球王府時代、明治時代に続く大規模な墓跡群である。周辺は琉球石灰岩地帯で、墓跡群は緩やかな起伏のなかを北西方向へ流れる小河川沿いの谷に営まれている。西方約1.5kmには東シナ海を臨む。
この一帯214haは戦後、米軍住宅施設として使用されていたが、昭和62年に全域が解放され土地区画整理事業が行われることとなった。事業地内には亀甲形の外観を持つ亀甲墓のうち最大規模の伊是名殿内の墓をはじめ、多くの古墓が存在することが知られていた。伊是名殿内の墓と都市公園予定地内の一部の古墓については保存されることとなったが、他のものは那覇市教育委員会により平成2年から15年まで断続的に発掘調査された。調査が進むにつれ、多様な形式の墓が330基以上に及び、その成立が14・15世紀に遡ることなどが明らかとなった。このうち成立が最も古く被葬者像などが明らかで、沖縄地方の墓制の成立と展開を考える上で最も重要な銘苅川北岸の地区、29基について、計画変更し現状保存を図った。(続b)〔後掲文化庁〕
とりあえず、数が膨大である。これが銘苅古墓群の最も分かり良い特徴です。その数330超。
沖縄経済界と行政は音を上げ、これを指定地域内の29、つまり9%ほどに減らして保存することにした訳です。
学術的詳細 文化財(国指定史跡) 指定年月日:平成19年7月26日
銘苅墓跡群は、グスク時代から琉球王府時代、明治時代に続く大規模な墓跡群である。銘苅川北岸の指定地内には、36体の風葬人骨が出土した「囲込岩陰墓」のほか、「掘込墓」・「亀甲墓」など合計29基の古墓が保存されている。また、西側の天久公園敷地内には、「伊是名殿内の墓」と呼ばれる、県内でも屈指の規模を誇る亀甲墓が保存されている。銘苅墓跡群は、沖縄における歴史・文化の独自性を示す葬・墓制の一端を見ることのできる、きわめて重要かつ貴重な場所となっている。銘苅墓跡群は、今後整備を行い公開する予定である。(続a)〔情報引用元 那覇市教育委員会設置看板←後掲那覇市〕
もう一点、質の多様さ、つまり墓の種類の多さが語られますけど、その点は当面後回しにし、多分経済界にとって最も頭痛の種である地域的な広がりを先に押さえます。

「銘苅の谷」からずんとはみ出した広大なエリアです。伊是名殿内はその中の中心部ながらごく一部、南G地区※の一角に過ぎません。
※那覇市教委は対象調査地域を南A~G地区、北A~E地区の計12地区に細区分した(→後掲引用参照)。


以下は発掘調査の沿革全般です。どうも筆致からして、「台地の北側斜面部」に限定されているはずの銘苅古墓群が、予想を遥かに越えて「主要な河川」の
那覇新都心地区内に所在する「銘苅古墓群」は、地域振興整備公団 (現、都市再生機構)による「那覇新都心整備事業」と那覇市による「天久公園整備事業」に伴って実施された。
那覇新都心整備事業は、1992 (平成4)年度に「土地区画整理事業計画」の認可を受け、実質的な作業が開始された。2005 (平成17) 年1月には、換地処分公告がなされ、同事業に大きな区切りをつけた。その面積は214ヘクタールで大規模な開発であった。(略)
銘苅古墓群の名称は、1984年度~1985年度にかけて実施された、「那覇市歴史地図作成事業」の成果としてまとめられた『那覇市歴史地図一文化遺産巻告調査報告善―』が初見であろうか。その報告では「漢那家の墓(=伊是名殿内の墓)」の所在する台地の北側斜面部に広がりが想定されている。しかし、本格的な発掘調査が実施されるに至り、その広がりは、那覇新都心地区内を流れる主要な河川に沿って確認されていった(3-1 図)。その結果、両事業に伴って発鋼調査が実施された古墓は335基にのぼる。
同古暮群は、大きく南地区と北地区に分けられ、さらに、それぞれの地区においてA地区~G地区(南地区)、 A地区~E地区(北地区)に細区分して調査が進められた。(略)〔後掲那覇市教育委員会2007 16-17枚目p6-7〕
伊是名殿内墓▼▲
さて、観光地的とは言え、今回目当てにした伊是名殿内墓についても、避ける訳にはいかないでしょう。判明しているレベルまで「何が突出しているのか」を押さえておきます。
学術的調査は、1996年に初めて行われてます。論考期間はまだ四半世紀しか経てません。
G地区の調査期間は、1996(平成8)年11月~1997(平成9)年3月であった。 調査基数は24基を欧える。検出された遺構は、亀甲墓2基、 囲込岩陰墓1基の他はすべて小振りの掘込墓である。調査の成果としては、亀甲墓である「伊是名殿内の墓」の外観を精査して、詳細な図面を作成できたことが挙げられる。〔後掲那覇市教育委員会2007 16-17枚目p6-7〕

まずその立地、「銘苅川と大湾川の合流点」というのは、現実的な利点は無くとも、いや無いゆえにこそ風水的には他地で代替し難いものだった可能性はあります。
(続b) 伊是名殿内の墓は銘苅川と大湾川の合流点付近にある、南北約30m、東西約22mの規模をもつ大規模な亀甲墓で、墓室は西に開口する。伊是名殿内は琉球王府において伊是名島・伊平屋島の総地頭をつとめた上級士族である。伊是名家の創設は19世紀前半であるが、墓の型式は18世紀に遡る可能性が指摘されている。亀甲墓は17世紀後半に中国華南地方から伝わったとされ、琉球王府時代には士族に用いられることが一般的であったが、近代以降広く普及した沖縄地方独特の型式である。本墓はこうした亀甲墓のなかで傑出した規模を持つものである。
伊是名殿内の墓の東約100mに位置する保存地区には、崖面の岩陰前面に石積みをして墓室とした囲込岩陰墓2基、琉球石灰岩の下層に堆積した粘土層に横穴を掘り込んで墓室とした掘込墓26基、亀甲墓1基がある。いずれも基本的には墓室にいったん納めて白骨化させたのちに、これを清めて改めて葬る洗骨葬である。囲込岩陰墓からは36体の風葬人骨が出土し、それがその谷上に営まれたグスク時代の集落、ヒヤジョー毛遺跡と同時期であり両者が関係すると考えられる。墓の多くには蔵骨器(厨子甕)が納められており、それに被葬者の氏名、役職、死亡・洗骨年月日などを墨書で記した銘書をもつものが他の地区よりもかなり多いことが注目される。この銘書により墓の被葬者は主に琉球王府首里の士族層であったことが確認できる。
このように銘苅墓跡群は岩陰における洗骨葬がグスク時代に成立し、近世以降、掘込墓などが展開したことを示すとともに、中国から伝わった最大規模の亀甲墓があり、文字資料により具体的な被葬者像が明らかにできるなど、墓跡としては極めて貴重な事例である。ここにみる墓制や葬送儀礼は沖縄地方の歴史と文化の独自性を象徴するものでもある。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。〔後掲文化庁〕
伊是名殿内の最大の謎は、史料上の伊是名家自体の創設(19C前半)に先立つ時期に、考古学的には先行して存在している点です。
つまり助走期間がある。かつ、やや近く、千年近い幅を持つ南B∶ヒヤジョー毛(後掲)も考え合わせると、これらの「前史」での助走を経て「完成形」としての伊是名殿内が成立した、と考えるのが状況上妥当です。
伊是名家初代・伊是名朝宜▼▲
亀甲墓の建設者・伊是名朝宜は、早くとも19C初に生まれた人物と推定されてます。これは別に書かれてはいないけれど、伊是名殿内なので伊是名家が立ってからの創始、と考えるべきだからです。
① 伊是名殿内は伊平屋、伊是名の総地頭で、王府の要職につき、権力、財力ともに強力な家であった。魔藩置県後も2代目伊是名朝睦氏(1853年、尚泰6年、威豊3年生) の、政界、経済界、その他での活躍が史料に散見される。
② 伊是名家の家譜は神縄戦で消失した。ところが、同家初代の伊是名親方朝宜について、彼の弟の漢那親雲上朝経の家譜(和訳本現存)には、次のようなことが記されている。
A. 1846 (尚育12、道光26) 年に進貢使として北京に派違され、翌々年の1848年に帰国している。その時、弟の漢那親雲上朝経が与力として随行。
B. 1848年7月には進貢一件報告のため、薩摩へ派遣され、同年9月に帰国している。その時も弟の漢那親雲上朝経は、与力として随行している。
C. 1850年6月、尚泰王即位の謝恩副使 (正使は玉川王子)として江戸上りし、翌年3月帰国。その時も弟の漢那親雲上朝経は、副使秘書役として随行している。
伊是名家初代の伊是名親方朝宣の生忌日については、家譜消失のため不明となっているが、兄の金武按司朝昌が1803年生まれであり、朝昌の次に女予真牛金が生まれ、その次に朝宣が生まれ、1809年に弟の朝経が生まれていることから推して、朝宜は大体1807年頃の生まれと考えられる。〔後掲那覇市教育委員会2007/第11章 第2節2-1 2) V. 伊是名殿内について 160枚目、p152〕
19C時点でも伊是名・伊平屋島が要地であったことを示す封じ方です。
以下は、ほぼ案内板相当の内容だけれど一応引用しておきます。
亀甲墓(かめこうばか)のうち最大規模の伊是名殿内(いぜなどぅんち)の墓をはじめ、15世紀前後から20世紀までの多様な形式の330基が発見された。伊是名殿内の墓は、伊是名島・伊平屋(いへや)島の総地頭だった伊是名家の墓で、銘苅川と大湾川の合流点付近にあり、南北約30m、東西約22mの規模をもつ。伊是名殿内の墓の東約100mに位置する保存地区には、崖面の岩陰前面に石積みをして墓室とした囲い込み岩陰墓2基、琉球石灰岩の下層に堆積した粘土層に横穴を掘り込んで墓室とした掘り込み墓26基、亀甲墓1基がある。この銘苅墓跡群は、岩陰における洗骨葬がグスク時代に成立し、近世以降、掘り込み墓などが展開したことを示すとともに、中国から伝わった最大規模の亀甲墓があり、文字資料により具体的な被葬者像が明らかにできるなど、墓跡としてはきわめて貴重な事例といわれている。〔国指定史跡ガイド 「銘苅墓跡群」←コトバンク/銘苅墓跡群(読み)めかるはかあとぐん〕
土器から陶器、鉄器への推移が一カ所で見られる遺跡があれば、同一血統集団のそれだけの文化的推移が見られる驚くべき遺跡だとご理解頂けると思います。銘苅古墓群は、多分同じ集団により、洗骨葬→掘込墓→亀甲墓という
かつ、その全行程の最後の、沖縄最大・最巧の「最高傑作」墓というオチが付いている。
(続a)「伊是名殿内の墓」は、小高い山を三面に切り取り、その切り取った土で敷地を造成してつくられた、面積約660平方メートルの県内最大級の亀甲墓。規模・建造技術は沖縄県内の墓の中でも傑出しており、道教(風水)の思想を基につくられている。この墓は、その外観より18世紀代の様式のものであることが伺える。亀甲墓は17世紀に中国南部から伝わり士族階級に広がり18世紀代に沖縄において独自の発達をして完成された墓で、この墓はその特徴をよく表している代表的な墓といえる。
〔情報引用元 那覇市教育委員会設置看板←後掲那覇市〕
伊是名殿内墓は、亀甲墓が首里王権上層の特権的墓制であった時代の最後期、という時代性と、その当時の最も優勢な貴族という財源がたまたま何れも備わった「幸運」な墓でした。
特に、県内で最大精緻の亀甲幕「伊是名殿内の墓」には、18世紀代に確立した沖縄独自の亀甲墓様式のすべてを示した到達点を見ることができる。〔後掲那覇市教育委員会2007/第13章 総括 173枚目、p165〕
「沖縄独自の亀甲墓様式のすべてを示した到達点」かどうかは……専門家が言うのでまあそうなのでしょう。感覚的には、確かに凄まじい整いぶりだというのだけは分かります。

けれどここまでで、そもそもの亀甲墓について違和感を感じた方もおられると思います。ワシも、何となくこの墓制は、沖縄の庶民性を宿すもののように感じていました。
どうも違う。奄美・喜界に散見される「捨て墓」に近い葬制感覚が、結構最近──早く考えても18C位までは庶民のスタンダードだったことが予見されるのです。
亀甲墓はどれだけ新しいか?
次の図は、造墓年代の分かり、かつ草創期又は大規模の14亀甲墓の所在地を示したものです。


つまり、ごく最近(≒中世)まで、
亀甲墓最古 トップ1&2
あまり見に行く気はないけれど──史学的に琉球最古の亀甲墓と言われるのは伊江御殿家墓(首里→GM.)。
史学的に、というのは家譜(向姓家譜(伊江家))に実証的記録がある、ということです。1687年です。
近世に作られた亀甲墓 重量感溢れる亀甲墓の最初の出現は、17世紀末といわれている。その最初の墓は、首里の石嶺にある伊江御殿家の墓である。(略)
1)伊江御殿の墓について
那覇市首里石嶺にあり、沖縄における亀甲墓のもっとも古いものである。初代伊江(王子)朝義の代に父尚清王から拝領した墓が首里末吉にあったが、五世朝嘉の代(1687、尚貞19)に土地を購入し、父朝敷の志を継ぎ、子々孫々のために墓を築き、ここに祖先の遺骨を移した。この墓は中国人曽得魯(チャンタールー)の設計施工によるものである。曽得魯は、朝敷が生前首里城およびその周辺の建造物の修復総奉行に任命されていたときの石工である。そのとき墓の造営についても約束が交わされていて、長子伊江(王子)朝嘉の代に実現した。(略)
伊江御殿を最初の亀甲墓と推定したのは東恩納寛淳であった(『亀甲式墓と曾得魯-伊江王子家の墓?』、1956年)。東恩納寛淳は「伊江家伝」を引いて、同上の石嶺の墓を作ったのは五世朝敷(1635?1710年)であり、造墓に先だった「タイロウ」という唐人の風水見(フンシミー)に墓地を見てもらった、という伝承を紹介している。東恩納寛淳によれば、タイロウは程順則の『廟学紀略』に名の見える儒者の一人、曾得魯と同一人物であるとされる。曾得魯は明朝滅亡の前後、沖縄に亡命し、風水などを見て生活し、やがて久米島に移り、教学の事に移ったのであろうという。
実は伊江御殿家の墓については『向姓家譜(伊江家)』に記録されている。造墓年代は1687年である。(略)先代は1686年王府官職を退き、隠居の身であった。造墓記録に曽得魯の名は見えない。〔後掲那覇市教育委員会2007/第11章 1-3意匠の伝播と継承/沖縄の亀甲墓 141-142枚目、p133-134〕
これに対し、「造墓以来大きな改修が施されなかったのであれば」最古である、簡単に言うと当初の墓地選定年から考えると古いはずなのが、中城按司護佐丸墓(→GM.)。つまり史料を典拠にするとは言え、記述されるが厳密には「どこに埋めるか決めた」年であり、埋葬した年ではないこと、そもそも埋葬者の没年から二百年以上を経て、やや伝説的な「祠」であることなどが、年だけでみると最古のこの亀甲墓をやや疑念の漂うものにしてます。

中城按司護佐丸は、1458年尚泰久王の命を受けた勝連按司阿麻和利に急襲され、自殺したと伝えられる。護佐丸の遺骨は中城城下の岩下に葬られていたが、その墓が崩れたため一門中によって新たに護佐丸の墓が造られた。造墓の経緯は『異本毛氏由来記』によれば、康熙25年(1686年)に蔡氏大田親雲上に風水を見てもらい、同年新墓を造り、遺骨の儀式を行ったこと、が記されている。
(略)造墓以来大きな改修が施されなかったのであれば、これが造墓紀年の明らかな最初の亀甲墓である。〔後掲那覇市教育委員会2007/第11章 1-3意匠の伝播と継承/沖縄の亀甲墓 143枚目、p135〕
ただ、いずれにせよ17C後半、その程度なのです。その意味では護佐丸墓の経緯の物語るところは大きい。もし護佐丸が殺害された15C後半に亀甲墓葬制があったなら、如何に「朝敵」でも亀甲墓に埋められたでしょう。そうではなく「中城城下の岩下」に葬られたのは、要するに風葬されたからだと考えられます。
先行研究▼▲
この点も意外でした。うちなんちゅ一般にとってこそ、亀甲墓の存在は謎であるらしいのです。
沖縄のお墓で、現在でも見られるデザインと言えば「破風墓(はふばか)」と「亀甲墓(かめこうばか)」です。どちらも琉球王朝時代に王家が建てていたお墓でした。
けれども1879年、当時の明治政府によって琉球王朝の時代は終わりを遂げます。その後の廃藩置県以降、一般庶民までこれらのお墓は広がっていったのです。
(略)沖縄のお墓としては破風墓(はふばか)から始まるのですが、亀甲墓はその後随分遅れた17世紀後期より登場しました。〔後掲沖縄県メモリアル整備協会〕
書き方が微妙ですけど、既に見たように「17C後半より登場」と言ってもそれは伊江御殿や護佐丸のことです。庶民の墓制としての亀甲墓の広まりは、廃藩置県(1871年)以降。
次に海外の有識者の視点です。チェンバレン、ジーモンらは何れも福建系の馬蹄状墓の部類と断定しています。
沖縄の方言でカーミナクーバカと呼ばれている亀甲墓は、近世に成立した類型の一つであり、その名称は墓屋根の形に由来する。亀甲墓の外形については、中国・福建省あたりの墓との類似が早くから指摘されている。中国・朝鮮を経て1816年9月、那覇に来航したイギリス軍艦ライアラ号の艦長ベイジル・ホールは那覇の亀甲墓を見て、「中国と同じような大きな馬蹄形の墓」、と書いている(『朝鮮・琉球航海記』、1986年、ベイジル・ホール著、春名徹訳)。ベイジル・ホールの外孫にあたるイギリスの言語学者ベイジル・ホール・チェンバレン(1850~1935年)は明治26年(1893年)春に、日本政府外務省の紹介状をもって来県し、(略)ka-mi-na-ku-bakaという方言を記録し、亀甲墓の形態については中国・福建省の墓に倣ったものとみなしている。また、大正9年(1920年)に来県したドイツの研究者エドウムントゥ・M・H・ジーモンは、亀甲墓についてはチェンバレンの論文を参照し、福建省の墓制についてはデ・ホロートの『中国の宗教体系』第三巻に拠りつつ、亀甲墓が中国南部の墓制に倣ったものであることは疑う余地がない、と述べている。
〔後掲那覇市教育委員会2007/第11章 1-3意匠の伝播と継承/沖縄の亀甲墓 141-142枚目、p133-134〕
福建省の亀甲墓が研究される前に破壊されたらしいのと、台湾のものは移民史的に新しいのとで、確実には言い切れないけれど、沖縄の独自墓制が福建と台湾に広がったとは考えにくいので、やはり福建から台湾と琉球に伝わったと考えるべきです。
さてそれに対し、
亀甲墓以前の墓については伊波普猷が「琉球式墳墓」という型式を示している。伊波普献は 「南島古代の葬制』(1927 年)において、古くは第一次葬の墓地と洗骨後の遺骨を安置する第二次葬の墓地は別であり、後代になって同一の洞穴や岩蔭を第一次葬にも第二次葬にも利用するようになったと想定し、ロを石積みにした掘抜き墓が十五世紀前半には成立していたことを『李朝実録」や陳侃の『使琉球録』を引いて論証している。それらの史料によれば、十五世紀半ばには国王や陪臣の間では墓口に板戸のついた堀抜き墓が用いられ、貧しい家では自然の洞穴や岩穴が幕として利用されていた。1462年の普須古らの報告には火葬と位碑祭祀に関する注目すべき発言がある。同年の梁成らの報告によれば、王家の暮の周りには石垣が張り巡らされ、基の前と両側に墓守の家が建てられていた、 当時は第一尚氏最後の尚徳王(在位1461~1469年)の治世であった。梁成らの見た王墓は「天のようどれ」であろう。伊波普猷は「浦添のようどれ」(極楽陵) は十七世紀に入ってから修復されているところから、この「天のようどれ」を最古の「琉球式墳墓」と推定している。伊波普猷のいう琉球式墳墓というのは、
① 掘抜きである。
② 墓室に棺を置く設備と洗骨後の遺骨を納めた厨子を置く設備がある。
③ 墓の前壁が石積みで閉ざされている。
の3つの条件を満たす墓であるとしている。〔後掲那覇市教育委員会2007/第11章1節 1-2亀甲墓の歴史的背景/亀甲墓以前の墓 136枚目、p128〕
亀甲墓は意外に歴史が浅い。
亀甲墓の各地域への意匠的伝播は様々な要因が関わっており、地域差は大きく、またそれが系統だって伝わっていないようである。この点が興味尽きないところである。名嘉間宜勝氏によれば、伊平屋村字野南、与那城村字伊計、 勝連町字平安名、南風原?津堅、中城村字津波?伊集、糸満市兼城、喜屋武、石川市川平で亀甲嘉が支配的で、分布の北限は伊平屋島であり、与論島北部にはないという報告がある。平敷令治氏の首里平良町・大名町・末吉町の墓の分布調査(1985?86年) の調査報告がある(11-2表)。末吉はもと西原間切に属し、1920年に首里に編入されたムラであったが、上ぬ山周辺の110基のうち、亀甲墓は32基にすぎない。近代以降、伊平屋村・伊是名村等特定の地域で、亀甲喜を造ることが流行したのだろうと述べている。近代以降の農村の亀甲墓も概ねウーシ・袖石の備わった範型であり、近世末期の「百姓の亀甲墓」は非常に少ない。また地域によっては亀甲暮の急速な普及にともなって、ヤジョーマーイが欠け亀甲の盛り上がりが詩張された変型(宜野湾のボージャー墓) 亀甲のマユに近い部分だけを造り亀甲の過半を意図的に省略した変型(西原町と中城村に多く分布しているクサチリ墓)があるなど、 亀甲墓意匠の伝播の多様さをわせる報告である。〔後掲那覇市教育委員会2007/第11章 1-3意匠の伝播と継承 140-141枚目、p132-133〕

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ヒヤジョー毛(南B)の千年紀
最後に白状しておくと、全く迂闊なことに、この時は東側の公園状の伊是名殿内のみを訪問してしまいました。この途中で絶対に視野に入っているはずの、銘苅墓跡群南B保存地区を全く見逃しております(→GM.)。伊是名殿内の東僅か70m、那覇市消防局の北東、市立銘苅小学校の南。
前掲の多数の人骨出土があった墓地群です。--悔し紛れに書いとくと、GM.上もクチコミは1件のみ。
B地区の(略)調査基数は54基※を数える。調査の成果として、14~15世紀頃と16~17世紀前半に位置付けられ、いずれも囲込岩陰墓(広義の風葬墓)で二次葬を行っている。〔後掲那覇市教育委員会2007 16枚目p6〕
14-15Cというのは考古学的な推定、16-17Cは銘による史料的な推定のようです。当時諸団体が保存運動を最も強く行った争点地区のようで、1993(平成5)年に正式に文書回答で保存が決定されました。
平成5年9月22日 那覇市文化財調査審議会より那覇市長・那覇市教育委員会教育長あて『銘苅古墓群南地区の保存について(要請)』<要旨> B・E地区の現地保存を「建議」しましたが、行政としては諸般の事情があり、B・E地区全体の保存は無理で、B地区の一部保存(保存面積2,300㎡、影響面積1,300㎡)で進められていると言う報告を受けております。このB地区の一部は文化財としての価値が最も高い地域であり、最終的にそこだけでも保存できるのであれば、指定文化財として十分な価値があります。審議会としましては、行政の努力と地権者の協力に対し、敬意を表します。つきましては、その地域を文化財として指定し、児童生徒や市民の歴史学習の場として整備し、活用できますよう要請いたします。〔後掲那覇市教育委員会2007 第4章 22-23枚目p13-14〕
〔後掲那覇市教育委員会2007-第4章-4-1図-24枚目p15〕-300x211.jpg)
この遺跡は、伊是名殿内とは異なり、完全に庶民の墓です。集落とともに発見され、かつそれが6百年に渡り継がれてきた場所です。--かなり破壊されているそうなので、戦後、この近辺に住んだアメリカ人がいたのでしょうけど、多分本国へ送還されたそのお宅のご遺体以外は。
この遺跡の発掘調査で得た成果の一つは集落と墓がセットで確認されたことである。この時期の集落と墓がセットで確認されたのは沖縄ではじめてである。琉球石灰岩崖上の平坦地(標高20~22m)が集落で、その崖下(標高15~16m)の岩陰に共同墓が形成されている。〔後掲那覇市教育委員会2007 第6章2.集落と共同墓 54枚目p45〕
ヒヤジョー毛の実証する琉球墓制史
那覇市教委2007は、上記の先行研究議論を、かなりクッキリと解決させているようにワシには思えます。
この集落の性格は、下記「建物のプランは明確ではない」記述が象徴付けています。自然村なのです。
(1) 集落跡(崖上)
集落跡はヒヤジョー毛遺跡と命名された。遺構としては、柱穴群、炉跡、便所状遺構、排水溝などが発掘された。柱穴が多く発見されたことで掘立柱建物(方言でアナヤー)があったと考えられるが、建物のプランは明確ではない。炉跡は円形に掘り込んだもので、内部が赤く焼けた煮炊き用の炉跡2基と、その2基の間に内部が焼けてなく、炭や灰だけが堆積していることから、火種を蓄えたと考えられる炉が1基発掘された。煮炊き用と火種用と考えられる炉がセットで発掘されたのはほとんど例がなく、注目される遺構である。便所状遺構は細長で深く掘り込まれたもので、2基並んで発掘された。
遺物としては、中国陶磁器、タイ産陶器、徳之島カムィ窯須恵器、土器、ガラス小玉(ビーズ)などが掘り出された。中国陶磁器は11世紀末~12世紀代の白磁玉緑口緑碗から16世紀の青花(染付)碗・皿まで出土し、時代幅の広い遺跡であることがわかった。〔後掲那覇市教育委員会2007 第6章2 54-55枚目p45-46〕
遺物の年代初期11Cと、墓地遺構の初期15Cの差異が物語るのは、恐らく「固定墓のない時代」、つまり奄美域に後代まで続いた風葬で終わる形態です。京都の化野・蓮台野・鳥辺野と同じと言った方がよいでしょうか?
※ 内部リンク FASE90-1+@【特論】首里の生まれた時空/■HAKEN1:全く分からない首里大名/大名は化野ではない
なお、中国・タイの遺物が多彩に出るのは、ここがそれなりに富裕層の村だったということを意味するのかもしれません。
ここから二次葬が分化し、二次葬の容器が恒久化していきます。
(2) 共同墓(崖下)
崖下の4号墓と47号墓は岩陰(半洞穴)の前面部に石積みをした囲込岩陰墓(方言でチンマーサーバカ)である。この囲込岩陰墓を使用した時期が二時期あり、中国陶磁器、土器、ガラス小玉(ビーズ)などの出土遺物や層序などから15~16世紀の墓と、土器壺や中国産褐釉陶器壺などを蔵骨器(方言でジーシ)に転用した16~17世紀前半の墓に分けられる。
これらの囲込岩陰墓は、崖上の集落の共同墓と考えられる。それは、墓室内から出土する中国陶磁器、土器、ガラス小玉(ビーズ)などが、崖上の集落から出土するのと類似していることと、この墓の時期に対応する集落がこの一帯では、崖上の集落以外に確認されないことなどからである。〔後掲那覇市教育委員会2007 第6章2 55枚目p46〕
銘苅古墓群南Bの画期的なのは、一部の墓で、上下に別時代の墓が重層になっていることです。つまり、墓制の層序(どちらが古い時代か)がはっきりと分かったことです。
47号墓では、囲込岩陰墓の①・②と掘込墓の②が重層で確認された。これらを古い順に下位墓、中位墓、上位墓と仮称する。なお、4号墓では下位墓と上位墓が重層で確認された。(略)
下位墓(15~16世紀) 特に4号墓の下位墓が注目される。(略)墓の入口付近に一次葬(屈葬)を行い、奥に二次葬(集骨)を行っている。墓室内に蔵骨器はなく、人骨の周囲から鉄製角釘が多く発掘されたことから、一次葬も二次葬も木製を使用したと考えられる。(略)
中位墓(16~17世紀前半) 47号墓では(略)中位墓が下位墓と異なる大きな点は二次葬である。二次葬の蔵骨器に土器壺や中国産褐釉陶器壺などを転用している。壺は口が狭くて頭骨が入らないので、壺を横に寝かし、胴部を割って穴をあけ、そこから納骨している。(略)
上位墓(17~18世紀) (略)蔵骨器と銘書資料は重要な歴史資料である。
なお、19号の亀甲墓(琉球語でカーミヌクーバカ)も上記上位墓とほぼ同時期と考えられる。墓の入口から墓室内まですべて琉球石灰岩を掘り込んで造ったいわゆる総掘込墓で、外観だけを亀甲墓の手法で仕上げた折衷墓であり、他にほとんど類例のない特徴的な亀甲墓である。(写真6-1)〔後掲那覇市教育委員会2007 第6章3(2)囲込岩陰墓にみる墓の変遷 56枚目p47〕
壺の利用法は面白い。元々頭蓋骨より小さな壺に、横から無理やり納骨した、というのです。面白い以上に、初期のそういう苦労を経て、本格期の専用葬具が造られていったことになります。つまり、「無理のある」形態は本格期の草創期を物語っています。
それは同じく19号「亀甲墓」に見られます。この墓は、構造上は掘込、つまり元々は従来の掘込墓として造られたのに、誰が何を言い出してか、外ヅラだけを当時流行だった亀甲墓様にお化粧したのです。
-中央の亀甲墓様の外観を持つのが19号墓〔後掲那覇市教育委員会2007-第6章4墓群-写真6-1-57枚目p48〕-300x193.jpg)
沖縄経済界にとっては甚だ迷惑だったでしょうけど、米軍にも破壊されず、かつひと波瀾の末に、南B:ヒヤジョー毛が残されたのは極めて奇跡的なことです。--だからこそ見逃がした悔恨は深いですけど。

これだけの種類の墓が所狭しと群をなしているのはここ以外に類例をみない。まさに墓の博物館である。墓の変遷、葬制の移りかわりなどが一見して理解できる教科書的な遺跡である。このことが文化財としての価値評価を高め、現地保存の声が高まった理由である。〔後掲那覇市教育委員会2007 第6章4墓群 57枚目p48〕
最後に、ヒヤジョー毛遺跡の1993年発掘当時の様子を、当時のおもろまちの情景とともに写した画像を掲げます。なお、千年を生き継いだこの集落の素性は分かりませんでした。それどころか「ヒヤジョー」名の由来も不詳です。ただ、AIからは「ジョー」≒(沖縄語)場所・泉・井戸で、冷たい水の湧く場所だったのでは、と回答して頂けました。

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〉〉〉〉〉参考資料
URL=https://ryuq-oki130.ryukyu/thing_of_okinawa/geography_and_knowledge/nahashinntosinn/1628/
(あさと)安里八幡宮/由緒・御祭神 URL=https://asatohachimangu.net/about
(おきなわけんは)沖縄県立博物館・美術館 おきみゅー/紀要(博物館)
URL=https://okimu.jp/research/bulletin/
/沖縄県立博物館紀要 第21号 33.2MB 1995年3月/嵩原建二・久貝勝盛・瀬名波任「那覇市天久で観察された鳥類(1)」同紀要p79-99
PDF URL=https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/kiyou21/21-5.pdf
(おきなわけんめ)沖縄県メモリアル整備協会/【沖縄のお墓】移住者に注目される亀甲墓、5つの豆知識
URL:https://www.oki-memorial.org/column/okinawagravekamekou0106
(なはしきよ)那覇市教育委員会文化課 1993 「埋蔵文化財発掘調査ニュース2:ヒヤジョー毛遺跡」那覇市教育委員会
※全国文化財総覧 URL=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/99738
(なはしき)那覇市教育委員会文化財課
/2007 『那覇市文化財調査報告書72:銘苅古墓群』那覇市教育委員会
URL=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/35593
(なはしけ)那覇市経済観光部観光課 銘苅墓跡群 URL=https://www.naha-contentsdb.jp/spot/674
(なはしり)那覇市立壺屋焼物博物館「企画展 銘苅古墓群─蘇った先祖の眠る大地─」平17(2005),改訂第2版平23(2011)
(ぶんか)文化庁 文化遺産オンライン 銘苅墓跡群 めかるはかあとぐん URL=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163218
(りゆう)RBC 琉球放送 「令和になって見つかるのは衝撃」琉球王国時代のものか 建設工事現場で古墓がみつかる | 沖縄のニュース
URL:https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rbc/1746429?display=1

〔後掲おきみゅー-図1〕-300x239.jpg)
〔後掲RyuQの沖縄紀行〕-300x164.jpg)
Your article made me suddenly realize that I am writing a thesis on gate.io. After reading your article, I have a different way of thinking, thank you. However, I still have some doubts, can you help me? Thanks.