新鮮な情報が大脳を駆ける(定住革命)@ことばぐすい

 従来、この時期の人類史の展開には、食料生産の始まったことが、その要因として何より璽視されてきた (l)。だが、農耕民でなくとも、北アメリカ北西海岸の諸民族のように、主に

漁撈活動によって定住生活を営んだ社会

では、食料が大量に貯蔵され、奴隷を伴った社会の階層化があり建築や工芸技術の高度な発達の見られることがある。
原注(7)口蔵幸雄私信。

すなわちここには、遊動生活者が定住生活を望むのは、あたかも当然であるかのような思いこみが潜んでいるのである。
 だが考えてもみよ。人類は、長く続いた遊動生活の伝統のなかで、ヒト以前の遥い祖先からホモ・サピエンスまで進化してきたのである。とすれば、この間に人類が獲得してきた肉体的、心理的、社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適したものであったと予想することもできる。そのような人類が

遊動生活の伝統を捨てて定住する

ことになったのである。とすれば、

定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現したのだ

、という視点が成立する。この視点に立てば、定住化の過程は、人類の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した、革命的な出来事であったと評価しなければならないだろう。

マレー半島のセマンについて調査した口蔵幸雄は、彼らが数日間電連続してキャンプを移動させ、しかも移動の距離がわずかに200メートルの日もあったことを銀察して、このようなキャンプ移動に明白な理由を求めるのは困難であると述べている (7)。遊動民は、明白な理由があるとも思えない場合にも、ただ

「何となく」キャンプを移動させてしまう

ことがあるようである。
※原注(1)G. Childe, What Happened in History, Penguin Books, Middlesex, 1971.

動物には、備わった能力を発揮しようとする強い欲求があるだ日頃体を動かす機会のない人が、わざわざスポーツをして汗を流そうとするのは、彼に備わっている運動能力を発揮したいという欲求があるからに他ならない。そして同じように、私たちには、巨大化した大脳に新鮮な情報を送り込み、備わった情報処理能力を適度に働かせようとする強い欲求があるものと考える。好奇心というものがそれであろう。そのために、もしも新鮮な情報の供給が停止することになれば大脳は変調をきたして不快感を生じることになる。退屈というのはそのような状態であろう。
 キャンプを移動させれば、キャンプを設営し、移動してきた場所の周囲を探索し、またその場所についての古い記憶も呼びさまされることによって、

多量の新鮮な情報が大脳を激しく駆けめぐる

ことになるだろう。結局のところ、私たちが旅行によって得ている楽しみの本質もここにあるに違いない。遊動生活の伝統のなかで獲得してきた人類の大脳や感覚器は、キャンプを次つぎと移動させる生活によって常に適度な負荷が与えられるのであろう。

〔西田正規「人類史のなかの定住革命」講談社,2014〕

定住するから固定住居を作る

定住するには、年間を通じての気候変化に耐える耐久性のある住居が必要である。遊動生活者の住居は、数時間の作業によって作れる簡単なものであるが、定住者は、少なくとも数日から数十日もの労力をかけて家屋を作る。〔人類史のなかの定住革命〕

定住するから統治(権威)が生まれる

定住社会にあっては、集落構成員の間に不和や不満が生じたとしても、当事者は簡単に村を出ることができず、それがさらに蓄積する可能性が強い。したがって、定住社会は、不和が激しい争いになることを防ぐためのいっそう効果的な手法を持たなくてはならない。このような要請は、権利や義務についての規定を発達させるであろうし、また、当事者に和解の条件を提示して納得させる拘束力、すなわち、なんらかの権威の体系を育む培地となるだろう。〔人類史のなかの定住革命〕

定住するから浄化が求められる

死、あるいは死体が人に恐怖感をもたらすとしても、定住者はそれを村において逃げることもできない。したがって定住者は、死体あるいは死者ととの緊密な地縁的関係を持たざるを得ないのである。多くの定住民が採用しているその一般的な形式は、死者が住む領域として、村の近くに墓地を割り当て、死者と生者が住み分け的に共存を図ることである。〔人類史のなかの定住革命〕

消滅する死体とは別に、死者の霊が死体から離れて他の世界に飛び去るという観念が多くの民族に共有されている。そしてしばしば、死者霊の他界への飛翔を全うさせるために、多大な労力をかけた複雑な儀式がおこなわれる。このような観念的な操作も、そもそも死者から遠く逃れることのできる遊動民の社会にあっては、それを高度に複雑化させる動機を持たないと考えてよいだろう。そして定住民は、そのような観念操作を向ける目標として、墓標を立てたり墓地を囲うなどして、ことさらその場所の特異性を強調するのである。〔人類史のなかの定住革命〕

死以外にも、病気、怪我、事故など、人間にとっての “災い” は多く、それらは恐れの対象となります。遊動民であれば “災い” が起こった場所には近づかないという生活様式が可能です。しかし定住民の “災い” は定住地で起こるのであり、災いから逃げることができません。従って災いの原因を神や精霊に求め、災いの原因となった邪悪な力を定住地から追放しようとしたり、あるいは神や精霊の怒りを鎮しずめようとします。これによって定住地が “浄化” される。このような手続きも定住化の帰結として発達するのです。〔後掲Bakersfield〕

〔人類史のなかの定住革命〕

補論「補助付自然灌漑」環境としての自然地形・浜堤

メソポタミア地方のティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域の南部にいたシュメール人が世界最初の都市文明や国家の原型を作ったことは世界史で習う通りです。このあたりは、地質学的には沖積層です。つまり川や海の作用で堆積物が重なった地層が陸地化したものです。この南部沖積層にシュメール文化が広がったのですが、都市が出現してくるウルク期(紀元前4000年~3100年。ウルクは都市名)より前のウバイド期(紀元前6500年~3800年。ウバイドは土器の様式名)はどうだったのか。
ポイントは、ペルシャ湾の海岸線がウバイド期には現在よりずっと内陸部にあり、ウバイド期のシュメール遺跡が集中している地域のすぐそばまで海だったことです。これにより、南部沖積層はティグリス・ユーフラテス川が作り出す湿地だった。この時期の南部沖積層を研究したジェニファー・パーネル(Jeniffer Pournelle。サウスカロライナ大学の考古学・人類学者)の成果をもとに、『反穀物の人類史』では次のように解説されています〔後掲Bakersfield〕

当時のメソポタミア南部は乾燥地帯などではなく、むしろ狩猟採集民の天国ともいうべき湿地帯だった。海面が今よりずっと高かったことと、ティグリス=ユーフラテス三角州が平坦だったおかげで、現在は乾燥している地域にまで大幅な「海進」が起こっていた。パーネルは、リモートセンシング、以前の航空測量、水文誌、古代の堆積物や水路の読みとり、気候史、考古学上の遺物などに基づいて、この広大な三角州の湿地圏を再構築している。
さらに、以前の研究者の大半(すべてではない)が犯した誤りは、今の地域に一般的な乾燥性を1万年前に投影しただけではなかった。彼らは当時の ─── すなわち年々の堆積物が重なる前の ─── 沖積層が現在の水準より10メートル以上も低かったことを無視していたのだ。
こうした昔の条件下では、ペルシャ湾の水は、今はずっと内陸にある古代ウルの門前を洗い、満ち潮になれば、塩水が北に広がってナーシリーヤやアマーラまで達していた。〔ジェームズ2019←後掲Bakersfield〕

メソポタミア沖積層 紀元6500年頃のペルシャ湾拡大域〔ジェームズ 2019〕

二つの川に挟まれた地域は今でこそほとんどが乾燥地帯だが、かつての沖積層南部では三角州の湿地が複雑に入り組み、洪水の季節になるたびに何百という流路が、あちらで現れこちらで消えしながら交差していた沖積層は巨大なスポンジの働きをしていて、毎年、流水量が増えるとそれを吸収して地下水面を上昇させ、やがて5月に乾期が始まると、こんどはゆっくり放出していく
ユーフラテス川下流の氾濫原はとりわけ平坦だった。勾配は北で1キロメートル当たり20ー30センチ、南では1キロメートル当たり2ー3センチしかないため、川の経路は歴史的にきわめて不安定だった。毎年の洪水の最盛期には、粗い堆積物が積み上がってできた自然の畝や土手を、水があたりまえのように乗り越え、斜面を流れ落ちて、となりの低地や窪地に流れ込んだ
多くの水路では河床が周囲の土地より高いので、水位の高いところの堤を1カ所破るだけで、灌漑と同じ目的が達せられた。この最後の技術は「補助付自然灌漑」とよんでいいかもしれない。自然が準備した畑に種子粒が広がっていく。栄養豊かな沖積層は、ゆっくりと乾燥していくなかで、野生の草食動物のために豊な飼い葉も用意してくれた ── もちろん家畜化されたヤギ、ヒツジ、ブタのためにも、である。〔ジェームズ2019←後掲Bakersfield〕

こうした沼地の住民は、俗に「亀の甲羅」とよばれる、わずかに盛り上がった小さな土地に暮らしていた。比べるならミシシッピ・デルタの「シェニエ」のようなもので、高さはせいぜい最高水位線から1メートルほどだ。住民は、こうした亀の甲羅から手の届く範囲にある湿地資源のほぼすべてを利用していた。
ヨシやスゲは家の材料や食料になったし、ほかにも多種多様な可食植物(イグサ、ガマ、スイレン類)があった。主なタンパク源はリクガメ、魚類、軟体動物、甲殻類、鳥類、水禽類、小型哺乳類、そして季節ごとに移動してくるガゼルなどだった。
豊かな沖積層の土壌とたっぷりの栄養を(生きたものも死んだものも)含んだ二つの大河の河口という組み合わせは、並外れて豊かな水辺の生活を生み出し、膨大な数の魚類、ミズガメ、鳥類、哺乳類 ─── そしてもちろん人間! ─── などが、食物連鎖の下位にいる生きものを食べようと引き寄せられてきた。紀元前6000年代から5000年代の温暖で湿潤な条件の下で、野生の生業資源は多様で、量も豊富で、安定していて、しかも回復力があった狩猟採集民や遊牧民にとってはほぼ理想的だった
とりわけ食物連鎖の下位にある資源の密度と多様性は、定住をいっそう現実的なものとした。たとえばアザラシ、バイソン、カリブーといった大型の獲物を追う狩猟採集民と比べると、植物、貝類、フルーツ、ナッツ、小型魚類など、もっぱら栄養段階が下位の食物を摂取する人びとは、移動がうんと少なくて済む。こうした食物は、ほかの条件が同じなら、大型の哺乳類や魚類よりも密集しているうえ、あまり移動しないからだ。
メソポタミアの湿地帯には栄養段階が下位の生業資源が豊富にあり、それがまたとない好条件となって、早い時期に多くの定住コミュニティができだのだろう。〔ジェームズ2019←後掲Bakersfield〕

引用の最初に、ミシシッピ・デルタの「シェニエ」との聞き慣れない言葉がでてきます。Wikipedia で調べてみると、シェニエ(Chenier)とは、波の作用で土砂が海岸とほぼ平行に堆積してできた堤のような土地(日本語で浜堤(ひんてい))で、その背後にできた湿地帯を シェニエ平野(Chenier Plain)と言うようです。〔後掲Bakersfield〕

浜堤 定義  波によって打ち上げられた砂礫が、堤状に堆積した地形。比高は10cmくらいから数メートル。間に細長い低地や湿地を挟み複数の浜堤が発達したものを浜堤列と呼ぶ。〔後掲国土地理院〕

平面図 天ヶ森(青森県 上北郡六ヶ所村,三沢市):小川原湖北東方〔地理院地図←後掲国土地理院〕

3D図 天ヶ森(青森県 上北郡六ヶ所村,三沢市):小川原湖北東方〔地理院地図←後掲国土地理院〕

※類似地形

砂州 定義 波食により生じた砂礫や河川によって運ばれた砂礫が、岬や海岸の突出部から海側に細長く突出した地形で、砂嘴が伸びて対岸にほとんど結びつくようになったものをいう。海岸線にほぼ平行してできる砂州もあり、これは沿岸州と言う。:北海道紋別郡湧別町,北見市 サロマ湖の砂州【地理院地図へ移動_砂州
砂嘴 定義 湾に面した海岸や岬の先端などから細長く突き出るように伸びている砂礫質の州で、付近の海食崖付近で生産された砂礫や流入河川が運搬した砂礫が、沿岸流と波の作用によって運ばれて作られる。:北海道標津郡標津町,野付郡別海町 野付崎【地理院地図へ移動_砂嘴
トンボロ及び陸繋島 定義 離れ島を本土に繋いだ州をトンボロ(陸繋砂州)といい、繋がれた島を陸繋島という。トンボロは砂嘴の成長によるものと、尖角州(海岸から三角形状の平面形をもって形成されたもの)によるものとがある。:福岡県福岡市 海の中道【地理院地図へ移動_トンボロ及び陸繋島
砂紋 定義 砂や泥に生じる規則正しい起伏。波などに起因する流れによって海底に生じる。:大分県国東市 伊美【空中写真を閲覧_砂紋
砂丘・風紋 定義 風によって運搬された砂が堆積して形成する丘や堤状の地形。形成される場所によって内陸砂丘・海岸砂丘・河畔砂丘・湖畔砂丘などに分類される。砂丘表面に砂の作用によってできる峰と谷が規則的に配列した小規模な波状の砂床形を風紋または砂漣と言う。:鳥取県烏取市 鳥取砂丘【3Dを閲覧_砂丘・風紋
砂丘間湖 定義 砂丘間の凹地に生じた湖沼。:新潟県新潟市 佐潟・御手洗潟【空中写真を閲覧_砂丘間湖
三稜石 定義 ドライカンターともいう。風食礫(風による磨耗作用によって生じた礫)のうちはっきりと三角錐状になったもの。
潟湖(ラグーン) 定義 浅海の一部が砂嘴や砂州によって外海と絶縁され、浅い湖沼となったもので、潟または潟湖ともいう。通常狭い潮口によって外海と通じ、そこから海水が出入りする。:青森県五所川原市十三湖【3Dを閲覧_潟湖
干潟 定義 潮間帯に形成される砂や泥からなる広く平坦な部分で、潮汐低地、潮汐平野ともいう。低潮時には広く露出して、表面にはリップルマーク(峰と谷が規則的に配列した小規模な堆積構造)が発達する。:長崎県諫早市 諌早湾【3Dを閲覧_干潟
礁湖 定義 リーフラグーンともいう。環礁・堡礁・裾礁の礁縁部分によって取り囲まれた水域。礁縁部分は水道によりとぎれ、外洋とつながる。:沖縄県島尻郡久米島町 久米島南東部海岸域の海域【空中写真を閲覧_礁湖
ビーチロック 定義 海浜にあってその堆積物が主に炭酸カルシウムのセメント作用で膠結された板状の岩石。サンゴ礁海岸における顕著な地形のひとつだが、まれに北緯45~50付近まで発達が認められている。:長崎県壱岐市赤島【空中写真を閲覧_ビーチロック
サーフベンチ 定義 石灰岩の海岸地形で、波食棚が強波によって平均海面よりも高い位置に形成されている地形。 :沖縄県糸満市荒崎【3Dを閲覧_サーフベンチ
〔後掲国土地理院〕

メソポタミアの南部沖積層では、狩猟採取民がほぼ農業なしに定住し、中には5000人を越える「町」まであったと言います。まとめると、
◆紀元前6000年代、5000年代のメソポタミアの南部沖積層は、生態系がきわめて多種多様であり、
◆そのため食物連鎖上の上位捕食者にとって最適の環境で、
◆上位捕食者の頂点にいる人間にとっては狩猟採集の天国であり、
◆従って狩猟採集民の定住が発達した。
◆おまけに、大河の氾濫原という「作物栽培をするのに最適な環境」まであった。これを利用して一部では作物栽培も行われた。
となるでしょう。我々が世界史で習うのは、メソポタミアでは乾燥化にともなって大河の周辺に人が集まり、人々は食料確保のために農業を始め、それが灌漑をともなう小麦栽培となり、原始国家の誕生につながったという「物語」です。(略)
『人類史のなかの定住革命』で西田先生は「定住が先で農業はその副産物」と言っておられましたが、古代メソポタミアの南部沖積層の住人はまさにそうだったことがわかります。
ただし『反穀物の人類史』では「メソポタミアの南部沖積層が狩猟採集民にとっては天国だったから定住が発達した」というスタンスの説明がされています。『人類史のなかの定住革命』にあるように「定住するには様々な克服すべき課題があり、その克服の過程で文化が生まれた」という視点が全くありません。〔後掲Bakersfield〕

図1 浜松低地の地形区分と遺跡分布〔静岡県教育委員会(1989)および浜松市博物館(1996)による←後掲松原〕

考察の結果、以下のようなことが明らかになった。
1.浜松低地においては、最初の砂州が海食崖前面の海食台上や、台地を刻む谷沿いに形成されていた内湾を閉塞するようにして形成された時期は、いずれも6,000yrBP以前にまでさかのぼるものと考えられる。
2.浜松低地における砂州の海側には、埋没した砂州が分布する可能性がある。その分布範囲および形成時期は明確にできなかったが、梶子遺跡の場合には6,000yBP頃にはすでに形成されていたと推測される。
3.浜松低地の砂州上には縄文時代前期以降の遺跡が分布しており、砂州は低地の中で最も早く人間活動の場となったことがわかる。また、砂州の海側に埋没していると考えられる浜堤列上にも縄文時代後期以降の遺跡が分布している。
4.榛原低地においては、有孔虫化石群集の解析に基づいて、砂州によって閉塞された内湾側の古環境変化を復元した結果、砂州の形成は7,000yrBP頃にはすでに始まっていたことが明らかになった。その後、7,000~6,000yrBPには砂州の一部が離水して内湾に閉塞環境が及ぶようになり、6,000~5,000yrBPには砂州が完全に離水して閉塞を完了したものと推定される。
5.榛原低地では、砂州上からは先史時代の遺跡の存在は確認されていないが、浜堤列上には縄文時代以降の遺跡が分布している。〔後掲松原〕

※「Years Before Present」の略。BP(ビーピー)は、年代測定で年代を表す指標。Before Present の略に由来し、文字通り「現在から何年前」を表すこともある。しかし、14C年代では、1950年を基点とするなど特別な意味を持つ。そのため、Before Present ではなく Before Physics の略であると説明されることもある。(略)考古学・地質学(主に放射年代測定)では、14C年代に限らず、1950年を基点とする。〔wiki/BP (年代測定)〕

図5 榛原低地の地形区分と遺跡分布〔後掲松原 p7〕

【参考】
(こくど)国土交通省国土地理院 >地図・空中写真・地理調査>主題図(地理調査)>日本の典型地形について >5.海の作用による地形
URL=https://www.gsi.go.jp/kikaku/tenkei_umi.html
(じえい)ジェームズ・スコット 2019「反穀物の人類史」みすず書房
(ふじか)藤川美代子 2020「定住本位型社会で船に住まいつづける―国家による複数の管理システムを生きる中国福建南部の連家船漁民―」『年報人類学研究』第10号 2020年「特集 不確実な世界に生きる―遊動/定住の狭間に生きる身体」
※南山大学機関レポジトリ URL=https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/records/3658
 PDF URL=https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/record/3658/files/jinnen10_06_fujikawa_miyoko.pdf
(べいか)Bakersfield 2018「Bakersfield」「クラバートの樹」
URL=https://hypertree.seesaa.net/article/2018-05-19.html
(まつば)松原彰子 2008「海岸低地における砂州・浜堤の形成と遺跡立地 : 浜松低地および榛原低地を例にして」慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会 2007『慶應義塾大学日吉紀要. 社会科学』18号 p1-13  URL=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10425830-20080331-0001
※慶応大学学術情報レポジトリKOARA URL=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10425830-20080331-0001

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