GM.(経路)
目録
築城年を知らず
1110,東郵便局から本日は左折西行。
1116,志布志麓(ふもと)駐車場。「外城」(とじょう)の一つと案内がある。
河川で分断された標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城があり,この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。いずれも石垣や天守閣はなく,地形を利用した戦いのための砦のような「山城」である。〔案内板〕
志布志城の正確な築城年は何と不明です。
1336(建武3)年に「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残り,この時の志布志城は築城時期が最も早いと推定される松尾城と考えられてます〔後掲志布志市〕。
南北朝では肝付氏は南朝。重久氏とは大隅国曽於郡重久(現・霧島市国分重久)を本拠地とする国人(税所氏の一族)で,この時期には島津寄騎です〔後掲ムカシノコト〕。
明・太祖実録に氏久の進貢が記録(再掲同→史料六)されるのが1374(洪武七・文中三)年で,この進貢時に大慈寺二世剛中玄柔の大般若経移入が手配されている(再掲同→史料七)ので,氏久の志布志転居は1374年以前の可能性が高い。
つまり,志布志城を巡る島津と肝付の紛争は,1336〜1374年の間に島津に帰する形で帰趨したことになります。
五丘を連ねる
史料と発掘資料から,南北朝期に松尾城と内城が存在し,その後に高城と新城が築かれたとするのが通説となっています〔後掲志布志市〕。
高城と新城の北東側,松尾城や内城との間の谷あいが,いわゆる志布志麓になります。
前川西岸の山稜5か所全てが,まるまる志布志城です。高城・新城が新設されたのは,前川の船着が興隆してからこれに接する場所を居城にする方が有用になったからでしょう。
内・松尾・高・新城に高城二の丸を加えた五つの丘は,どれも標高50mほど,内城でも70m未満。ただ前川の旧流が穿ったものか,急傾斜が多く,諸城が連携すると相当の防御力が期待されたでしょう。これは鹿児島の清水城とも相似します。
理解し難いのは,この5丘陵の成す谷に武家屋敷を持っていることです。
南の平地でなく,わざわざ狭隘地を選んで武士を住まわせることに,何の意味があったのでしょう?町方との差別化としても,極端過ぎます。かと言って防衛上は一番先に焼かれる位置です。
この点を加味してか,黎明館の展示模型などでは相当数の郭に家屋が置かれてます〔後掲薩摩の武士が生きた町 ※転載不可のためHP参照のこと〕。でも現地の感じでは,郭への登り道やその家屋跡は見通せません。
考えられるのは武家屋敷そのものを一種の砦として用い,この脆弱部に敵を誘って丘陵から攻撃する。言わば囮としての家屋群だった可能性です。
確かに……この小山群の中にこれだけの家屋兼砦があれば,少なくとも血みどろの戦闘を経なければ全体を占領できないでしょう。中心がないから,どこをおとせば勝てるというものでもない。
松の見事な旧家らしき家の構造を見ると,入口正面に沖縄家屋のような一枚石垣がさらにある。
百城を壊さず
全ての麓を制覇せよ!というスタンプラリーをやってるらしい。それは……さすがに勘弁してほしい。
──今,麓の数量を確認してみると,12麓というのはあくまで日本遺産分。つまり保存状態の良い大規模なものをカウントした数です。往時の薩摩藩が重視した麓の数でもない。
もちろん江戸幕府は一国一城令を発していた訳ですけど,薩摩藩は「破壊すると田畑に土が流れてくる」〔後掲日本遺産ポータルサイト〕,つまりシラス台地という土壌環境を方便として強引に対象外にしてもらったらしい(原典未確認)。
上図の橙点を数えると,何と百を超えます。
島津家は秀吉の九州征伐後,九州ほぼ全土から二州に所領が狭まっても武士団の規模を保ち,結果人口の1/4※が武士という歪な社会を成した,というのは周知の話です。
実態は謎が多いけれど,25%のエリート層を郷中教育で鍛え上げる溶鉱炉的※な特殊環境が,薩摩の麓だったことは確かです。
──災難や困窮は豪傑を鍛える一軒の鍛冶屋である。よく鍛錬されれば、心身ともに健康である。鍛錬されなければ心身ともに病んでしまう。〔菜根譚〕
「大石兵六夢物語」(毛利正直)は鹿児島土着のファンタジーですけど,この序盤で鹿児島城下の剛の者六人が,物語で退治する吉野原の狐に対する戦術を練る場面があります。薩摩大隅の麓の随所に,こうした二才児(≒隼人青年)の集団がトグロを巻いていたわけです。
1135,引き返す。
背白ちりめんを見ず
正午の時報と共に入店。
1200台湾料理 金都
コマ焼定食650
昨日声を聞いてた「A定食」というのがメニューに見当たらないなあ,と見ているうちに変なのを見つけてつい注文。
……凄い!750に修正。
常連らしき声を聞いてるとやはりA定食,さらにB定食というのもありそうです。繰り返して申し訳ないけど決して,決してうまくはない。でも庶民的で雰囲気がよい。
コマの炒めは三枚肉だけど妙な酸味を効かせてて,どこでも食べたことのない味覚。決して旨くはないけど。この時間で満席ということもないけど。使い勝手のよい店,ということでしょうか。
ところで。志布志に来られたご経験者の方々は「何で台湾料理ばっか食ってんだ?」と,お思いやもしれませぬ。
勿論この当時は知りませんでしたけど……S1グランプリ最優勝賞の志布志名物が「背白ちりめん」です。
背わたが白く苦味が少ないちりめん雑魚なんだって。大慈寺の近くに名店があるらしいんですけど……正月だったからね。
「はも」も有名らしい。一応食べ歩きサイトなのに,これら全然気付いてませんでした……とほほ。
思いが凝固する
小西というのが,この裏道辺りの地区名のようです。
1243,大磯の虎カ石※というものを見つける。
案内標に「建久四年(1193)の富士野の巻狩で仇討ちを果たし,曽我十郎と五郎の兄弟が亡くなると,十郎の愛妾大磯の虎女がその菩提を弔うために諸国を巡って建てたと伝えられる。」
供えあり。
きっちり確認できてないけど──柳田國男の「妹の力」内に「志布志村大字志布志、臨済宗関山派の大慈寺という寺の内に、一箇の虎ヶ石存して、」と記述もあるようです。
日本三大仇討※の中で最も古く神格化してるのが曽我兄弟。1193(建久4)年,源平合戦から世が落ち着き始めた矢先に藤原南家傍流・工藤祐経が,彼を十数年前からつけ狙った曾我十郎祐成とその弟・五郎時致により暗殺。十郎は現場で郎党に殺害され,五郎も打首〔後掲歴史人/鬼滅の戦史83〕。
作品名「歌舞伎新狂言」「曽我討入」「曽我十郎 市村羽左衛門」「虎御前 中村芝翫」「曽我五郎 市川高麗蔵」
「十郎の死後、40数年にわたって彼を供養し続けた」虎さんの「思いが念となって凝り固まった挙句、石(虎が石)になった」〔後掲歴史人90〕。その虎が石がさらに信仰の対象として全国各地に散在し,うち一つが志布志のものらしいのです。
確認ですけど,志布志は登場人物と全く関連しません。
この物語が,なぜこんなにも中世日本人をなべて信仰せしめたものか,むしろそちらの心性を察するのに途方に暮れるのですけど……先に書いたように,今も供え物をする人がいるようなのです。
志布志を去る
荷をピックアップ。1316,銀座街から駅前バス乗り場へ。──宿正面付近には小さな飲み屋街があったらしい。
レンタサイクルは,志布志駅の観光案内所で無料で借りれるのか!ああ~先に知ってれば!
うーん,なかなかに消化不良なままの志布志歩きでしたけど……1359,空港行きバス乗り場にて志布志を発つ。
■転記:山頭火の志布志──言葉が解らない となりにをる
「行乞記」は「ぎょうこつき」と読みます。「物乞い旅紀行」というニュアンスです。
種田山頭火は1882(明治15)年生-1940(昭和15)年。1923(大正12)年に関東大震災下でトラブルを起こし巣鴨刑務所に留置。三年前に離婚した元妻のいる熊本に逃げるも,泥酔して市内電車を停める騒ぎを起こした末,寺男となる。1924(大正14)年に得度,堂守となるも檀家から酒癖を嫌われ追われるように翌年から西日本を放浪。
行乞記は,この放浪の最後の二年(1930(昭和5)年9月9日-1932(昭和7)年9月20日)の書いたもので,次のような文章から始まります。
愚かな旅人より外に行き方なし
私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。〔後掲種田山頭火 行乞記〕
この2年の後,1932(昭和7)年に故郷・山口に居し,自殺未遂。1936(昭和11)年から中部・東北を歩く。山頭火句の多くは前記西日本とこの中部・東北の二期の旅行で編まれています。
だから行乞記は,ほぼノンフィクションの紀行文だと言われます。本稿ではそのうち,志布志での3日間の記録を見ていきます。
初日1930(S5).10.10:ほんたうの草鞋の句が出来さうな
十月十日 曇、福島町行乞、行程四里、志布志町、鹿児島屋(四〇・上)
八時過ぎてから中町行乞二時間、それから今町行乞三時間、もう二時近くなつたので志布志へ急ぐ、三里を二時間あまりで歩いた、それは外でもない、局留の郵便物を受取るためである、友はなつかしい、友のたよりはなつかしい。
旅の子供は夕べしく/\泣いてゐる
(略)
今町から志布志まで三里強、日本風の海岸佳景である、一里ばかり来たところに、宮崎と鹿児島との県界石標が立つてゐる、大きなタブの樹も立つてゐる、石よりも樹により多く心を惹かれるのは私のセンチメンタリズムか、夏井の浜といふところは海水浴場としてよいらしかつた、別荘風の料理屋もあつた、浅酌低唱味を思ひ出させるに十分だ。
自動車が走る、箱馬車が通る、私が歩く。
途上、道のりを訊ねたり、此地方の事情を教へてくれた娘さんはいゝ女性だつた、禅宗――しかも曹洞宗――の寺の秘蔵子と知つて、一層うれしかつた、彼女にまことの愛人あれ。
草鞋がないのには困つたが、それでもおせつたいとしていたゞいたり、明月に供へるのを貰つたりして、どうやらかうやらあまり草履をべた/\ふまないですんだ、私も草鞋の句はだいぶ作つたが、ほんたうの草鞋の名句が出来さうなものだ。
同室三人、松葉ヱツキス売の若い鮮人は好きだつたが、もう一人は要領を得ない『山芋掘』で、うるさいから、街へ出て飲む、そしてイモシヨウチユウの功徳でぐつすり寝ることが出来た。〔後掲種田山頭火 行乞記〕
大慈寺は臨済宗だから,秘蔵子の女性の寺はどこだか分かりません。山頭火の聞き違いとも思えませんけど……?
「松葉ヱツキス」というのは,これも分からない。「ヱツキス」というのは「X」(エックス)の音の古い記載方法らしいけれど──ただ,鹿児島屋には朝鮮人の,おそらく行商が寝泊まりしてた。これが異例なのかどうか不明です。
こもごも謎を秘める昭和5年の志布志の光景を,山頭火は活写します。
第二日1930(S5).10.11:コスモスがいたづらに咲いてゐる
翌日。どうも文面から,アウェイ感のような肌感覚が伝わってきます。
小さく見ても,どうやら,山頭火は志布志の治安維持層のブラックリストに載ったらしい。
十月十一日 晴、曇、志布志町行乞、宿は同前。
九時から十一時まで行乞、こんなに早う止めるつもりではなかつたけれど、巡査にやかましくいはれたので、裏町へ出て、駅で新聞を読んで戻つて来たのである(だいたい鹿児島県は行乞、押売、すべての見マヽ師の行動について法文通りの取締をするさうだ)。
今日は中学校の運動会、何しろ物見高い田舎町の事だから、爺さん婆さんまで出かけるらしい、それも無理はない、いや、よいことだと思ふ。
隣室の按摩兼遍路さんは興味をそゝる人物だつた、研屋さんも面白い人物だつた、昨夜の「山芋掘り」も亦異彩ある人物だつた、彼は女房に捨てられたり、女房を捨てたり、女に誑されたり、女を誑したりして、それが彼の存在の全部らしかつた、いはゞ彼は愚人で、そして喰へない男なのだ、多少の変質性と色情狂質とを持つてゐた。
畑のまんなかに、どうしたのか、コスモスがいたづらに咲いてゐる、赤いの、白いの、弱々しく美しく眺められる。
今日はまた、代筆デーだつた。あんまさんにハガキ弐枚、とぎやさんに四枚、やまいもほりさんに六枚書いてあげた、代筆をマヽくれやうとした人もあるし、あまり礼もいはない人もある。〔後掲種田山頭火 行乞記〕
外部のよく分からない人物群がかなり訪れる町が,昭和初めの志布志だったと考えられます。──「山芋掘り」さんなどは,良くて色事旅行者,悪ければ結婚詐欺兼ツーリストです。……そういう旅行者は実際時々います。
そういう土地特有のあざとい空気も伝わります。代筆をハガキ12枚書かされて山頭火は「代筆デー」とやや喜んでるけれど,同宿の有象無象にいいように使われた,という感じがします。
先述の「巡査に叱られた」のはこの夕方です。「正々堂々とやりたまへ」というのは,朝も行乞を注意されたところからして,山頭火が警察の目を盗んでコソコソと物乞いしてるように見たのでしょうか?あるいはこの夕方のは朝とは別の巡査で,こちらは山頭火に怪しさを感じず,むしろ警察の視線にビクビクしてる腰の座らない男に隼人らしい人間的に一喝したのてしょうか?
夕べ、一杯機嫌で海辺を散歩する、やつぱり寂しい、寂しいのが本当だらう。
行乞してゐる私に向つて、若い巡査曰く、托鉢なら托鉢のやうに正々堂々とやりたまへ、私は思ふ、これでずゐぶん正々堂々と行乞してゐるのだが。
隣室に行商の支那人五人組が来たので、相客二人増しとなる、どれもこれもアル中毒者だ(私もその一人であることに間違ひない)、朝から飲んでゐる(飲むといへばこの地方では藷焼酎の外の何物でもない)、彼等は彼等にふさはしい人生観を持つてゐる、体験の宗教とでもいはうか。
コロリ往生――脳溢血乃至心臓麻痺でくたばる事だ――のありがたさ、望ましさを語つたり語られたりする。
人間といふものは、話したがる動物だが、例の山芋掘りさんの如きは、あまり多く話す、ナフ売りさんはあまりに少く話す、さて私はどちらだつたかな。
酒壺洞君の厚意で、寝つかれない一夜がさほど苦しくなかつた、文芸春秋はかういふ場合の読物としてよろしい。
支那人――日本へ来て行商してゐる――は決して飲まない、煙草を吸ふことも少い、朝鮮人はよく飲みよく吸ひ、そしてよく喧嘩する(日本人によく似てゐる)、両者を通じて困るのは、彼等の会話が高調子で喧騒で、傍若無人なことだ。
夢に、アメリカへ渡つて、ドーミグラスといふ町で、知つたやうな知らないやうな人に会つて一問題をひきおこした、はて面妖な。〔後掲種田山頭火 行乞記〕
夕方になるだけで淋しくて堪らなくなる,というのは典型的な鬱の症状……でしょうか。
宿に行商の支那人五人組が来てます。そのすぐ後に,支那人は決して飲まないし煙草も吸わないと記述が続きますから,「アル中」は五人以外の泊り客でしょうか。朝から飲んでる同室者に決して染まらないこの──漢人五人とは何者でしょうか?単に行商なら個人行動をするでしょうし……。
米ドーミグラスで「知つたやうな知らないやうな人」と問題を起こす夢──山頭火は志布志でかなり錯乱し,居心地の悪さ,あるいは不気味さを直感していたように思われます。
最終日1930(S5).10.12:はだかでだまつて何掘つてるか
「巡査に叱られた」句はこの日の段に記されますから,これらの句は志布志でのことを回想して作られてます。
九時の汽車に乗る、途中下車して、岩川で二時間、末吉で一時間行乞、今日はまた食ひ込みである。
・年とれば故郷こひしいつく/\ぼうし
安宿のコスモスにして赤く白く
一本一銭食べきれない大根である
・何とたくさん墓がある墓がある
海は果てなく島が一つ
・はだかでだまつて何掘つてるか
秋寒く酔へない酒を飲んでゐる
今日のうれしさは草鞋のよさは
一きれの雲もない空のさびしさまさる
波のかゞやかさも秋となつた
砂掘れば砂のほろ/\
線路へこぼるゝ萩の花かな
秋晴れて柩を送る四五人に
・岩が岩に薊咲かせてゐる(鵜戸)
・何といふ草か知らないつゝましう咲いて
まづ水を飲みそれからお経を
・言葉が解らないとなりにをる
秋晴れの菜葉服を出し褪めてゐる
・こころしづマヽ山のおきふし
・家を持たない秋がふかうなつた
・捨てゝある扇子をひらけば不二の山
旅の夫婦が仲よく今日の話
行乞即事
秋の空高く巡査に叱られた
・その一銭はその児に与へる
(略)
〔後掲種田山頭火 行乞記〕
この日の最後の一段に「夕方また気分が憂欝になり」とある「また」は,鬱の病状の累積性からすると「昨夜に続いて」ということだろうと想像されます。鬱ではドカンと落ちた気分の段で派手に憂さを晴らすのが,むしろ病状を悪化させるとはよく言われることです。
夕方また気分が憂欝になり、感傷的にさへなつた、そこで飛び出して飲み歩いたのだが、コーヒー一杯、ビール一本、鮨一皿、蕎麦一椀、朝日一袋、一切合財で一円四十銭、これで懐はまた秋風落寞、さつぱりしすぎたかな(追記)。
十月十三日 晴、休養、宿は同前。
とても行乞なんか出来さうもないので、寝ころんで読書する、うれしい一日だつた、のんきな一日だつた。〔後掲種田山頭火 行乞記〕
山頭火は志布志にぶつかって心理的に玉砕したように思えます。──分かり易いエピソードが「巡査」の一見だから,「巡査に叱られて余程凹んだ」……と健康な精神からは滑稽に理解されるかもしれないけれど,個々の巡査を含む統治層の管理的視線,それを縫うように強かに跋扈する魑魅魍魎のような怪人たち,という密貿易の港町特有の心象風景。山頭火が退散したのは多感な感性がそれを捉えていたからのように思えるのです。
異郷に打ちのめされる経験は,過酷ながら旅行の最大の成果です。山頭火は好い旅をしています。
けれど──それが昭和5年の志布志の情景だったなら,江戸期のこの町には一体どれほどの瘴気が立ち込めていたのでしょう?