m178m第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m志布志前川withCOVID/鹿児島県

まずは国分温泉に憩う

負っていたのか,早い列車に間に合いました。0627,鹿児島中央発。
 1005国分駅入口空港バス下りに乗り,1130志布志というバスに乗るためでした。
 昨日までの川内方面に走り出したからドッキリしたけど,そうか──鹿児島中央からはこっちにしか走らないのか。
 0710,国分着。やっと夜が明けました。

形屋前。
 1004,志布志行きの時刻表を確認。茶色の鹿児島交通バスのようです。
 0811,国分温泉へ。対面に岩山。稲荷神社?
 霧島温泉系に初めて入ったけど──いい湯ですね。適度なとろみある肌触りだけでなく,じっくり染み込む感じがある。

高隅山地を越えてゆく

だこの初回の国分歩きで,ここの街中はえらく寂しいことはわかった。繁華街らしきものがない。明日の宿泊予約を入れたAPA周辺なぞ……まるで埋め立て地です。
 9時になった。駅に帰る。
 0930,駅。ネット情報では駅からバスが出ることになってたので再確認するけれど……やはり志布志行きらしき時刻の便の表示はない。念のためバス停にあった鹿児島交通の電話番号に照会してみた。やはり山形屋前にしか停まらないとのこと。
 危なかった。再び山形屋へ移動し,待つ。
🚌
004,乗車。
 わかった!「国分駅入口」というバス停はありました。ただその場所は,山形屋から駅と逆方向に折れたMaxValue前。んなもん分かるか!
 1034,牧之原十文字。山道を登って着いたこの集落はなだらかにうねる丘陵地に,家並みがまばらに広がる。
 これは……違う。薩摩半島側とそんなに地質が違うんだな。

カルデラ分布図〔後掲鹿屋市〕※原典:大木公彦「鹿児島湾の謎を追って」より転載

──,サクッと当時は考えてましたけど……日本列島の他の地域ではそんなもので済むかもしれんけど,地学的には今まさに活動中である九州南部の地質というのはそんなにシンプルなものじゃないみたいです。
 結論的には鹿児島湾を挟む東西軸より,上下軸での発想が必要でした。
 この時に見た異質な地形は,シラスが堆積していない九州南部の山地部,つまり鹿児島市から日置市辺りの地質よりもう一つ古い地形がシラスの下から顔を出してる格好でした。
入戸、阿多火砕流堆積物分布図
黄:入戸火砕流(姶良カルデラから噴出)
赤:阿多火砕流(阿多カルデラから噴出)〔後掲鹿屋市〕※原典:鹿児島市教育委員会2017「薩摩藩島津家墓所(福昌寺跡)調査報告書より転載(一部改変)

鹿児島湾や桜島を成す若々しい断層(推測:90万年前に出現〔後掲鹿屋市〕)は南九州を南北に貫き,上図のようにカルデラを連ねます。日本全土の約一割,12の活火山の連続するベルトです〔後掲鹿屋市〕。元々一体の陸地だった鹿児島は,この断層の活動で東西に裂かれた大地。上下の軸では,断裂した古層の上に,断裂前後の火山噴火が降らせた灰が被さってる訳です。後者(上)があまりに多量で斑を成してるために,これほど地形の手触りを激変させてる──というのが素人的に理解したところです。
鹿屋市周辺の地質図〔後掲鹿屋市〕※原典:鹿児島フィールドミュージアム URL:https://onl.la/EAQt6W6(短縮)

ポラリスへと下る

046。下り始めました。
 大隅半島は薩摩半島よりさらに荒々しい地形です。陸地部は山塊としては一繋がりではなく,南の肝属(きもつき)山地と北の高隅山地とに明確に分かれる。高隅山地は霧島に連なる弧を成しているようにも見える。また,桜島の属す南北の断層とは別の,おそらくもっと古い北東-南西方向の断層があるようにも見えます。
 後者の断層が大隅半島東の湾に落ちる点が,目的地・志布志になります。バスは高隅山地を越え,この谷間へと降りていきます。

大隅半島付近・色別標高図〔地理院地図〕

お?」という駄洒落を当地の中学生は必ず口にすると言われている。
 1100,JA曽於鹿児島の前をバスは通り過ぎました。
 志布志20kmと道路表示。地図でも分かる通り,高隅山地を越えてからの方が距離的には長い。
 1108,八合原。下りの傾斜がきつくなる。地名からして緩傾斜の台地なんでしょうか?「黒牛のまち」と看板。
 1112,菱田川を渡り志布志市に入る。台地状の地形はまだ続いてる感じです。1117,字尾(あざお)。1122,曲瀬(まがせ)。地名の手触りが違ってきてる。
🚌
布志市役所分岐,1125。ここの市役所はこの山中地にあるらしい。合併時の力関係でしょうか?
 1134,志布志駅前に到着。所要90分。
 先に帰路のバス時間を確認。鹿児島空港行 0559 0709 0859 1359★ 1559 の計5本だけど,初めの3本は通勤用とすると実質2本のみ。鹿児島市と湾を挟んで向き合う垂水や鹿屋とは違い,一つ独自の領域を作るエリアです。

olaris(ポラリス): 1 北極星のこと。2 米国が世界で初めて開発した潜水艦発射用の中距離弾道弾
 1の意味であることを祈りつつ,予約してたポラリスに投宿。
 フロントのえらく丁寧なおじさんが,広島の舟入幸町が長かった方とのことでひとしきり思い出話。
 12時の時報を聞きながら,早速R448を北へ。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

まず台湾飯喰らう

がかなり海に近い。
 上記地図でも分かるけれど志布志湾の主港湾です。従って町はこの駅前から南北に延びてる。志布志郵便局前が中心地。
 湾岸はもっと南に延々延びてるのに,わざわざ平地の狭い,湾西の平野の北の端のこの場所を選んだ。それはなぜでしょう?──なお,海深も湾の南北であまり違いはありません。

(上記色付標高図拡大)志布志湾付近〔地理院地図〕

 志布志港の修築に対して海軍からの意向があったことも見逃せない。明治40年(1907)以降艦隊の来航が頻繁となり、ときには60隻、70隻を越える大艦隊の碇泊もあった。これは港湾が広く、気候が温暖なため大艦隊の集結に好適な海域であったためであるが、物資の補給、将兵の休養のため上陸するには接岸施設がなく、波浪の高いときには汽艇、短艇が海岸に近づけず、上陸にすこぶる不便であったので、港の修築は海軍からの強い要望でもあった。 〔後掲山畑〕

築港前の前川河口〔志布志町誌←後掲山畑〕
(参考)同志布志湾付近の等深線図〔釣りナビくんアプリ〕

着したさっきの海岸通りに,大型店舗が並んでる。ただどうも店はほとんど閉まってる。元旦だからかね。
 カトリック志布志教会の向こうにタイヨー。でもその手前に……あれ?開いてるのか?
▲金都前から西

1207湾料理 金都
ラーメンセット(台湾ラーメン,回鍋飯)650
 おおっ!正午過ぎに,志布志でこんなん食べれるとは……!
 まあ,正月とは言え正午のかき入れ時に座れるんだから,決して頬が落ちる台菜!という訳では断じてないけれど,朝から食ってなかったし,まあ感謝感激でした。
 腹を満たして落ち着いて地図を見る。この外資だらけの車道が古い道な訳はない。おそらく海岸線か埋立地だろうから──山手側が旧道か?
 表に出ると真ん前が市役所志布志支所,そして大慈寺。裏の紅葉(?:でも確かに真っ赤でした)も美しい。

と思い立ち,南へ1.5kmの安楽温泉へ電話,営業時間を訊いてみる。17時閉店とのこと。今日は無理か。
 寺へ。真ん前にラーメンコンテスト準優勝のマルチョンラーメン。
 1252,大慈寺。仁王も凄いけど案内板によると宋版大般若経所蔵という。

大慈寺二世剛中玄柔和尚が自身の入唐失敗後,10人の禅僧を渡明せしめ,3年を費やし持ち帰らせた2蔵(=2組)の残存。うち1蔵が大慈寺に残ったけれど明治初の経蔵類焼でほぼ消失。現在「大般若経四百八十九 剣」と記された1巻のみ大慈寺に保存。奥書「南宋紹興壬午三十二年」から1162年出版と推定。〔後掲志布志市/宋版大般若経〕

大慈寺に参ず

▲仁王

満寺跡は京都泉湧寺・奈良西大寺両寺の末寺で、律宗秘山密教院宝満寺の遺跡です。奈良時代の神亀年間(724~729)に聖武天皇が皇国鎮護のために各地に建立した勅願寺(天皇命令により建立された寺)のひとつと伝えられます。その後、正和五年(1316)に信仙上人英基和尚が、院宣を受けて勅願所として再興しました。(続)〔案内板〕

▲古仏

(続)坊津一条院と並ぶ古刹であり、元応二年(1320年)に本山の奈良西大寺より下向安置された本尊の如意輪観音仏像は運慶一代の名品といわれています。
 明治二年の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、町内外の参拝者等の浄財により、現在の宝満寺観音堂が建立され、現在に伝えられる。〔案内板〕

▲本堂

いうことは廃寺のままのはずだけど……実際に見るところ,どうやら寺の体裁を保ってます。この辺り,どういうことなのかよく分かりません。
 本堂左手から朽ちかけた鳥居を通り山手へ登る参道。──ということは神社なのか?──止めとくけど凄味ある古刹です。
 ただ探してるのはこれじゃない。

両目色違いの猫に逢う

▲さらに奥への鳥居

で,前記の由緒からは,博多・聖福寺のような禅宗外交僧の気配は感じられませんけど──中世には禅宗の色彩がかなり強かったらしい。wiki〔/大慈寺 (志布志市)〕には「光明天皇から勅を賜り『龍興山大慈廣慧禅寺』と称し、文安元年(1444年)には、『臨済宗十刹』※と日本で10本の指の中に入る屈指の禅宗寺院となった。」とあり「当時の志布志は日明貿易(勘合貿易)の拠点として栄えており、諸史料から大慈寺もその貿易に関与していたと考えられる。」と推測しています。
▲本堂裏から異様な屋根を仰ぐ。

山に継ぐ寺院の格付けとしての十刹は,J1-J2の切替えよろしく時代により変化してますけど,大慈寺がカウントされたのは文明末年(1486年)のものらしい。この時点では「十刹」は46ケ寺あり,wiki/大慈寺の記述は誤認と思われます。〔wiki/十刹〕※原典:今枝愛真、「禅宗の官寺機構-五山十刹諸山の国別分布について」 『日本學士院紀要』 1961年 19巻 3号 p.89-122
 上記今枝の巻末表中の大慈寺の記述を拾ってみますと──

【寺名】(別名)広慧寺
 〔出典:東福寺諸塔頭并十刹諸山略伝〕
【山号】龍興山〔大慈寺文書〕
【列五山年次】延文4.12.15諸山
 文安元.8.6十刹〔大慈寺文書〕

とあります。延文4年≒1359年,文安元年≒1444年なので,14C後半〜15C前半に急激に重視された寺と分かります。この年代は確かに日明貿易時期と重なるのです。
▲三国名勝絵会

国名勝図絵にはこの前面に観音堂があったらしい。また本堂左手墓地には「琉球国僧」墓ありという──けれどこれは確認できず。
──今,wiki〔/大慈寺〕掲載の同図を拡大してみると,観音堂のほか,「龍潭庵」「龍樹院」という中国的な建物名も確認できます。

三国名勝図会 巻之六十のうち左側拡大〔wiki/大慈寺〕

く北へ。1308。
 支所前に即心院──これも先の三国名勝図会では寺院敷地内に確認できます。往時には志布志の中心街の大部分を,この寺域が占めていたのではないでしょうか。
 裏から両目の色の違う白猫が覗く。

島津氏久墓を詣る

▲写真では流石に分からんけど……両目の色の違う白猫

慈寺支院。
 廃仏毀釈時にも氏久公墓所として残された一画とある。
 清水城の章(/島津が室町期を生き抜いた城)で東福寺城を獲った島津五代・貞久と同城から清水城を奪還した八代・島津久豊に触れましたけど,六代・氏久(1328(嘉暦3)-1387(嘉慶元)年)はその間の南九州の南北朝の中心人物です。あまりにも乱世なので,wiki/同名を読んでも誰を裏切って誰についたのかもうハチャメチャです。
▲賽銭箱に島津紋

だ,島津当主が志布志に骨を埋めているのは,氏久が最後に拠点とした場所だからです。次の文章をあえて短絡させて読めば,島津が初めて海外交易を始めた場所が志布志だった,という可能性も示唆します。

氏久は海外交易に関心を示し、応安7(1374)年には明に通商を求める使者を派遣している。また、暦応4(1341)年、父が攻略した鹿児島東福寺城(現鹿児島市清水町)に居を構え、島津家で初めて鹿児島を拠点とした。のち大姶良城(現鹿屋市大姶良町)・志布志城(現、志布志市志布志町)に居を移す。嘉慶元(1387)年、60歳で逝去。〔後掲尚古集成館〕

▲大慈寺支院=氏久公墓所

二丁目路地を行く

d.志布志二丁目5。1317。東にいい道が開けたところで右折。
 1322,三坂酒店から左折,再度北行。細かい東西道が何本かありそうです。
▲1319志布志二丁目付近の路地

▲1321志布志二丁目付近の路地(2)

地に入って位置情報をオン,適当に歩いてみる。
 家屋はやや場末的だけれど古い気配はない。僅かに,道が左右に揺れ始めた感はありました。
▲1323志布志二丁目付近の路地(3)

津口番所に着く

▲1327津口番所付近から山手

布志訪問介護S過ぐ。ad志布志一丁目11。
 1331,津口番所跡(→GM.)。志布志市教委案内板あり。

志布志は「志布志津」と呼ばれ,島津荘園時代の水門として古くから栄え,中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり,九州東南部における倭寇の根拠地であったとも云われている。(略)藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として,”志布志千軒まち”と呼ばれるほどの活況を極め,明治初期まで数々の豪商を輩出している。(続)〔案内板〕

▲番所跡

(続) 政時代の志布志港は,前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており,番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び,大阪表へ出荷する廻船や交易船の往来が多かったが,積み荷は全て津口番所で厳重な取り調べを受けていた。〔案内板〕

▲番所跡②

着は番所から150m上流。
──今,地図で確認しても,集落や道の配置にあまり違和感は感じられません。陸上は先ほど歩いた界隈のはずです。
 1346,いよいよ前川を遡る。

前川岸を見る

津口番所〜同150m上流付近(ピンク線)〔地理院地図〕

離からすると志布志東郵便局の北辺りです。
 郵便局前にキノコ状の石が突き出てる。船着き場の名残,のようにも見えます。形状と加工度からすると,素人目には近代港湾の繋船柱(ボラード)のように見え,江戸期のものとは断じにくいけれど──船着の痕跡とは疑えます。
 adは一丁目1。つまり住所表示の起点になってる場所です。
▲志布志東町郵便局と突き出た石

岸の名残は,けれど他には全く消されてるみたいです。
 前記の疑問──志布志湾岸でなぜ志布志が港湾に選ばれたか?という点は,けれど地形的にまず一定の理由づけができます。海深ではなく,岸壁の形状です。

前川の岸壁イメージ〔地理院地図/色別標高図〕

学的にはおそらく前川が本来はもっと大きく速い流れで地面を深く穿った,としか考え辛い。前川付近は臨海陸地から水面にガクンと高度が落ちてます。志布志湾岸中で唯一,海岸に段差があるのです。つまり,水深の許す範囲で中世の中型船が着岸できる。
 さて?住家の残る右岸の方がまだ望みはあるか?北岸へ橋を渡ってみます。

前川河口を歩く

▲1354橋北口から郵便局方向

側集落にもあまり特徴的なものは見受けられません。
 南岸に一ヶ所,当時の岸面らしい露出と,また一ヶ所それっぽい橋を見る。でもそれくらいか。綺麗に護岸されてるようです。
▲南側の小さな支流に,一ヶ所のみ丸橋が残る

満橋を過ぐ。1405。
 やはり港町らしい風情はあまりありません。
 とりあえず,宝満寺へ向かうことにしましょう。
▲前川北岸沿いの道

■転記:海域アジア的志布志史概観

 後掲山畑敏寛さんの論文(「志布志港の『みなと文化』」港別みなと文化アーカイブスNo.118,H21(2009))があまりに的確なので,その1章1・2節の相当部分を転載し,これを補足することで概説とさせて頂きます。
 第1章「志布志港の整備と利用の沿革」のうち,第1節「古代・中世の志布志港」を{1-1},2節「近世の志布志港」を{1-2}と付号します。

1.古代・中世の志布志港

1a)概観

 志布志市は現在,鹿児島県に属しています。山畑さんは,その帰属意識が1898(明治31)年以降のものであることをまず指摘する事から筆を起こしています。

{1-1} 志布志市は鹿児島県の東端に位置し、宮崎県串間市に隣接している。明治16年(1883)に鹿児島県から宮崎県が分置されるまで、島津荘の中心であった都城と同じ日向国諸縣(もろがた)郡に属しており、明治31年(1898)に大隅国に編入された。 〔後掲山畑〕

 志布志は,歴史の大部分において日向国の一部でした。山畑さんはそれを,都城からの海への出口だった,と説明しています。──これは定説化していますし,地形的に見ても山嶺の位置を考慮すれば都城からは現・宮崎市はもちろん国分とも隔てられ,南の海を出口にするのが自然な土地です。

都城-志布志周辺図〔地理院地図/色別標高図〕

1b)先史・古代

{1-1} この地域の古墳の分布を見ると、畿内大和地方に起こった古墳が瀬戸内海から九州東岸沿いに日向を南下して大隅平野に及んだと考えるのが自然な流れのようである。この地方第一の古墳文化を築いた大隅直(おおすみのあたい)の一族は、志布志湾に面した一帯に居住していたので、最も早くから中央文化を海上から取り込むことができたと考えられる。志布志港を望む標高50mのダグリ岬の山上に築かれた飯盛山古墳〔注1〕は、鹿児島県内では最も古い前方後円墳(全長 80m)であったが、この古墳を築いたのは大隅隼人の首領大隅直の一族、或いは同等の勢力を持っていた豪族の祖先ではなかったかと思われる。 〔後掲山畑〕

 ダグリ岬は志布志東南東4km(→GM.)。
 古墳文化が「日向を南下して大隅平野に及んだと考えるのが自然な流れのようである。」とまどろっこしい表現を採るのは,隼人発祥説があるからでしょうけど──南九州でほぼ唯一古墳かあるのが志布志ということは,それが西から船でやってきた,という想像に妥当性を与えます。
 志布志は,古墳代から,南九州で最も中距離航海者に開かれた土地だったわけです。ただし,このダグリ岬の古墳は発掘調査前に失われ,再び語ることはありません。

〔注 1〕 飯盛山古墳 飯盛山古墳は志布志湾を一望できる志布志港から3km東にある標高50mのダグリ岬の丘陵の頂にあった。前方部の低い古式の前方後円墳で、全長約80m、前方部の長さ43m、幅 20m、高さ 1.5m、後円部の長さ 37m、幅 30m、高さ 4.5m の規模で台形埴輪、曲玉などが出土している。昭和38年(1963)、国民宿舎の建設に当たって、関係者の不注意で事前調査をする前に破壊された。 〔後掲山畑〕

 740年頃とされる藤原広嗣の乱で,広嗣が最も頼りにし,反乱軍の尖峰を担ったのが薩摩・大隅の隼人だったとする記述も見つかります〔後掲モシターンきりしま など〕。この先峰隊は「木を編んで船となし,まさに河を渡ろう」とした(出典不詳)というし,朝廷鎮圧軍との決戦場は板櫝川(いたびつがわ)でこれは現・紫川(小倉北区)とされる辺りからは,大隅・志布志の隼人の海民が主体だった可能性も匂わせますけど,この経緯に大隅ははっきり姿は見せません。
 次の文章は,志布志町誌の採る志布志地名の8C(以前)起源説を解説しています。続日本紀「志自羽志」を語源とする説です。

{1-1}この地方は救仁院(くにいん)高浜庄(たかはまのしょう)といわれており、いつ頃から志布志と呼ばれるようになったか明らかではない。志布志町誌によると、志布志の名称は続日本紀749年(天平勝宝元)8月の条に「外(げ)正六位上曽県主(そのあがたぬし)岐直(ふなどのあたい)志自羽志(しじはし)加禰(かね)保佐(ほさ)並外従五位下を賜う」とする贈位の条がある。即ち岐直(ふなどのあたい)加禰保佐(かねほさ)とともに外正六位上から外従五位下に贈位があったということで、岐は船戸(ふなど)と同意で海辺の要港に依った豪族であることを示しており、族長志自羽志の名称が志布志の地名と関連性を以て考えられるのではなかろうかとしている。〔後掲山畑〕

「志自羽志」は明らかに先に音があり,これに漢字を無理に当てています。だからこそ初音と末音の「シ」をいずれも「志」と書く。この二つの「志」用事が現代まで連綿と続いているとすれば驚異的な継続性です。
 もう一つ,749(天平勝宝元)年になぜ志自羽志(しじはし)と加禰保佐(かねほさ)は昇格したのか,という点です。この四文字ずつの語感はどうにもヤマト人の名前に思えませんけど,それは巻末に上記を含む続日本紀原文を掲げたのでそちらで考えますけど──先の地理的関係を考慮すると,志布志付近が大和朝廷の支配域に入らなければ都城方面も当然にヤマトたり得ません。
 逆に言えば志布志を最初の拠点として,大和朝廷は史上最大の荘園を設けました。自然な発想としては,南九州の支配を完成させる最後の一手であり,実質的には屯田地と考えてよいでしょう。

{1-1} 平安期になると大宰府の大監(だいげん)平季基が開発した島津荘は、8,000町を超える国内最大の荘園で、万寿年間(1024~28)に関白藤原頼道に寄進したものであるが、島津荘の庄衙(が)のあったと思われる都城郡元(こおりもと)より陸の駅路以外に水路を求めるとすれば、地形的にも救仁院高浜庄は最も近く便利であり、中央との接点として、またこの地方の文化と物資の玄関口として島津荘唯一の水門の役割を果たしてきた。〔後掲山畑〕

──本文中で掲げた設問:志布志湾の船着がなぜ端っこの志布志か?という点は,前記海岸段差に加え,都城=島津荘からの出口だったから,とするのが山畑さんの見解及び定説にも合致し,またそれが合理的だと思われます。

1c)中世

 源平争乱後,「鎌倉殿の13人」比企能員の……寄騎か部下か,とにかく関係者として惟宗忠久が登場。島津庄を与えられ,比企能員が謀反(1203(建仁3)年:北条氏による謀殺が通説)した後,一時没収された三州(日向・薩摩・大隅)領を承久の乱等の武功で取り戻し……と無茶苦茶怪しい動きの末,とにかく現・都城域≒島津庄を確保します〔後掲ムカシノコト、ホリコムヨ。〕。
 この島津庄獲得時に,これも明らかに謀略めいてます……救仁院(≒志布志)の平八成直という人物を追い出し,自領に組み入れます。

{1-1} 文治元年(1185)、鎌倉幕府惟宗(はこれむね)忠久を平家の掌握下にあった島津荘の下司(げす)職に補任(ぶにん)し、翌年地頭職(じとうしき)に任じた。島津荘は外洋に開けた場に位置し、その掌握は大きな意味を持っていた。忠久は建久末年以降、荘園の名称を名字として島津氏を称した。
建久2年(1191)12月11日に、源頼朝は救仁院の地頭弁財使であった救仁院平八成直を解任と同時に、頼朝の下文〔注2〕によって救仁院は島津忠久に領地として賜った。島津氏が直轄領として所領となった最初の地が救仁院地方、すなわちのちの志布志郷である。〔後掲山畑〕

 下記が頼朝の下文(沙汰書)ですけど──

〔注 2〕 源頼朝の下文(僧侶を殺した救仁院成直の知行を取り上げ、忠久に与えた)
 源頼朝下文案
 島津庄住人不随忠久下知之由、有其聞、尤不当事也、慥可相從件下知、兼又救仁院平八成直殺僧畢、所行之至、不敵事也、於件所知者、可為忠久沙汰之状如件
   建久二年十二月十一日 〔後掲山畑〕

「直殺僧畢」:お坊さまを殺した罪が理由です。その僧侶の名前もなく,平八成直さん自身への罰も記されず,ニュアンス的には島津忠久の訴えそのままに頼朝印を押しただけ,という感じです。

※「文治五年(一一八九)ないしは建久元年(一一九〇)と推定される五月九日付源頼朝御教書案(島津家文書)によれば、平家に与同したと思われる安楽平九郎為成から救二院地頭弁済使職が没収され、その兄救二院平八成直に安堵するよう島津忠久に命じられている。」〔日本歴史地名大系 「救二院」←コトバンク/救二院〕つまり,頼朝は一度平八成直の志布志領有を認めており,島津忠久は相当執拗に志布志領有を頼朝に工作したと推定されます。

 かくも忠久は南九州入りして好き放題に勢力を伸長させたわけですけど──何にせよ都城域と志布志という海への出口を直結させた領域経営を構想し,かつ強引に実現させたのは島津家初代・忠久だったことは確かなようです。

{1-1} 高浜の地名は川口の砂丘を意味するが、この頃、市街地の東部にある前川の河口は船の出入り、停泊地として集落をなしつつあったのではなかろうか。港としての役割は単に租米の輸送のためだけでなく、島津荘園の特産物が中央の貴族にとっては得難い貴重なものであり、特に当地の産であるビロウ葉は檳榔毛車(びろうげのくるま)〔注3〕に用いられる亜熱帯性特産物として積み出された。 〔後掲山畑〕

 志布志港が最初の搬出品にした品は,意外にも檳榔(ビンロウ)だったようです。それも現代の嗜好物としててはなく,高級牛車の素材としての葉っぱだったようてす。なお,志布志沖には枇榔(びろう)島という檳榔樹が原生林を成す島があります((→GM.):後掲。現在,亜熱帯植物群落として特別天然記念物)。

檳榔毛の車〔故実叢書「奥車図考」←広辞苑無料検索/檳榔毛の車〕

〔注 3〕 檳榔毛車 毛車とも云い、平安時代に太上天皇以下四位以上の者が使用する乗用の牛車を白く晒した檳榔の葉で、箱車全体を覆ったものである。 〔後掲山畑〕

 ところで,「志自羽志」の人名以外では,ここまでの文献には専ら「救仁院」の地名しか登場しません。ではこの土地はいつから志布志と呼ばれるようになったかと言うと──島津家の領有から130年も経た1316年が初見なのです。

1d)中世・志布志の繁栄

{1-1} 志布志の名称を文献の上で最初に見るのは正和5年(1316)で、当時の前川河口から約500m上流にある宝満寺に敷地の寄進をした沙弥蓮正打渡状案(しやみれんじよううちわたしじようあん)〔注4〕に、「奉打渡 日向方島津御庄志布志津 大沢水宝満寺敷地 四至境事‥‥ 正和五年十一月三日 沙弥蓮正在判」と記されており、志布志津として港の名称が冠してあるように、志布志湾の中央部にある志布志の歴史は、最初から港町の歴史ともいえるものである。
 志布志津は河口に権現島があって波浪を防ぐ自然の良港となり、河口から上流に及ぶ川岸が船着場に利用されていたのであろう。宝満寺の敷地に接して旧大橋があり、船の運航を妨げないように、これより下流は近世まで架橋は許されていなかった。〔後掲山畑〕

 出典は不詳ながら,志布志代初期にはこの日に訪れた宝満寺が積み卸し港の正面だったようなのです。──古くは存在した「宝満寺橋」の西口は若宮神社の辺りでしょうか?これより下流に架橋が許されなかったとすれば,この橋付近が港だったと考えるのが妥当です。
 初見史料の全文は次のものです。内容はまさに宝満寺の寺域確認そのものです。

〔注 4〕 沙弥蓮正打渡状案
 奉打渡 日向方島津御庄志布志津大沢水宝満寺敷地四至境事 限東深小路大道 限南経峰 限西河 限北天神山後堀 右任被仰下之旨 奉打渡宝満寺之状如件
   正和五年十一 月三日 沙弥蓮正在判〔後掲山畑〕

 書状の発信者・僧の「蓮正」とは,北条家(得宗)の出先機関の責任者と見られています。

この蓮正については,得宗被官安東蓮聖とする見解が有力である(54)。正和5(1316)年は,信仙房による宝満寺再興が始まった年で,救仁院内の志布志は得宗領であった。安東蓮聖は,90歳まで長生きをしたが,当時,70歳であり,引退していた可能性もあるが,ひとまず,打渡状の発給者が得宗被官安東蓮聖であった可能性はある。〔後掲松尾〕
※原注54『宮崎県史通史編中世』〈前註(26)〉405頁。

 忠久が没収された三州領のうち島津家に戻ったのは薩摩(守護・地頭)だけだったと見られており,志布志を含む日向と大隅は(南北朝期まで)北条家領のままですから,得宗家が土地所有権を沙汰するのは自然です。ただその実権は,状況的に都城の島津家が握ったかもしれないし,下記の記述を丸呑みすると野辺家だったかもしれません。
 いずれにせよ志布志は諸家が利権を争う場になっていたことが,ぼんやりと想像されます。

『種子島家年中行事』によれば,種子島時充(?~1396)の妻は,日向志布志の野辺盛忠の息女という。すなわち,「御譜云,六代左近将監時充公室ハ,日州志布志の野辺肥後守盛忠息女也」(58)とある。種子島と志布志とは,人的にも密接に結びついていた点も忘れてはならない。〔後掲松尾〕

 島津家の構想に先立って,志布志-種子島航路がまず存在した,という可能性は,非常に面白いと思います。
 さて,山畑さんの論文に戻っていよいよ海域アジア編的な本論,志布志の倭寇に話を移します。

1e)中世・志布志の「はちまん」(倭寇)

{1-1} 遣唐使が廃止されたあと中国宋との貿易は、宋の商船が福建や浙江から大宰府に来て貿易を行った。南宋期になると日本商人の渡航も行われ民間貿易が盛んになり、密貿易も行われたようであるが、(続)

 島津家の「密貿易」「私的な交易」の根拠史料等として,山畑さんは以下8点を挙げています(丸付き番号は引用者)。

島津庄への中国船来航時の対応(「今年始以押取唐船着岸物事」)は(太宰府ではなく)同庄所掌と判決【島津家文書】
島津氏久が1374(文中 3・応安7)年に明・太祖に使者派遣。明は「私入貢」として朝貢交易を拒否【明太祖実録】
志布志・大慈寺,1376(天授2・永和2)年に宋版大蔵経(6千巻)×2蔵を移入【島津氏久譜】
島津元久が1393(明徳4)年の上洛時,虎・貂の皮,支那名画,支那銭等を献上【島津家文書(旧記実録)・山田聖栄日記】
明・籌海図編(ちゅうかいずへん)の薩摩の図に審孛署(志布志)の記載有【籌海図編】
日本一鑑に志布志の地名有【日本一鑑】
兵児謡(へこうた)「八幡そこ」の八幡は倭寇の意と推定【八幡そこ】
志布志の大太鼓(うでこ)踊りの古い歌詞に「にほんにゆけば(略)ゆみやといかけのひきでもの」とあり。

 ただし,八点の資料中,直接的に志布志の中国交易を証拠付けるものは,厳密にはありません。──①②は島津家が●●●●中国交易を行っていた証拠に,⑤⑥はその中国側が志布志を倭寇拠点と疑っていた証拠です。②③はその物証的な,⑦⑧は民俗的な状況証拠に,過ぎないと言えば過ぎない。

【史料①②】お前,国王じゃなくね?

 ①は島津庄と太宰府の争いの判決を,島津家側が錦の御旗として保存してきたものです。ただここには,厳密には志布志の地名はありません。

{1-1①}(続)このことについて島津家文書〔注 5〕に次の資料がある。それによると「島津庄官からの訴えで、今まで庄園内に着岸した唐船や宋船の処理についてはその庄衙(しょうが)が当たっていたのに、その先例に背いて大宰府がこれを管理した事についての抗議はもっともな事であるから、従前通り庄衙でこのことは処理しなさい」というものであり、このことでも島津庄園と中国、朝鮮との交流が考えられ、宋船などが志布志に度々着岸していたことがわかる。室町期以降に内外交易の要港として栄えた志布志津の歴史にはそれだけの背景があったと思われる。〔後掲山畑〕

〔注 5〕 日宋貿易関係の島津家文書
 自近衛殿被仰下島津庄官訴申、為宰府背先例、今年始以押取唐船着岸物事、解状遣之、早停止新儀、如元可令付庄家也、適為被仰下事之上、如状者、道理有限事也、仰旨如此、仍以執達如件〔後掲山畑〕

 この史料は,山畑論文以外ではヒットがありませんでした。山畑さんはその出典と時期について記載していませんので,この判決がいつのことだったのかよく分かりません。ただ,中世の島津庄の海への出口は志布志しかありませんから,志布志での「唐船着岸」に関する争いだったろう,と濃厚に推定されはするのですけど……。
 出典を中国史書にとる史料②は,事実関係としては固いんです。志布志の地名は進貢者・島津氏久の住所として記載されていますけど,厳密には進貢船の出発地ではありません。確かに,氏久の最晩年の居館は前掲の通り志布志です。

{1-1②} 島津家六代氏久が正平 20 年・貞治 4 年(1365)頃から大隅地域の経営に当たるため志布志に居を定めるが、氏久は文中 3 年・応安 7 年(1374)に明の太祖に使者を派遣した。これに対して明側では、氏久が明に対して臣下の礼をとっていないので国家の正式の文書ではない(明に対して進貢とは認めない)とし、かえって倭寇の取締を要求されて交易の実現を見ることはなかったが、私的な交易が盛んに行われたことは確かである。〔後掲山畑〕

 漢文になりますけど,次の文章が原典です。

※この文面は,なぜか中國哲學書電子化計劃にヒットしません。掲載の「大明太祖高皇帝實錄」の中に洪武7年記述部分がないようでした。なので,以下は他論文が転載する日本史料集成編纂会版です。

【史料六】其臣有志布志島津越後守臣氏久。亦遣僧道幸等。進表貢馬及茶布刀扇等物。上以氏久等。無本国之命。而私入貢。仍命却之。而賜僧道幸等文綺紗羅各一匹。通事従人以下。銭布有差。(29)
※原注29 日本史料集成編纂会編「中国・朝鮮の史籍における日本史料集成 明実録之部 一」国書刊行会,1975
【史料六】は明の『太祖実録』巻九〇の洪武七年六月乙未条の記事であるが、西暦では一三七四年、日本では文中三年にあたる。この史料によると、氏久が僧道幸等を明に派遣したが、本国の命のない私の入貢であったので斥けられているが、この時、明からは道幸等に文綺・沙羅を各一匹、通事・従人以下にも銭・布等が与えられていることが知られる。〔後掲栗林〕

 つまり,「無本国之命」日本国王の命令に基づかないから「而私入貢」私貿易である,だから「仍命却之」これを返すよう命じた,島津側からすると門前払いさせられたわけです。
 なのに?使節の長たる道幸さんだけでなく,通事従人以下も銭や布を賜っています。またその私貿易者への金品提供を,非難してもいません。どうも文面自体が島津に対し「悪くない」タッチで書かれてます。
「進貢」した物品の書かれ方も「貢馬及茶布刀扇等物」と,何か多種多量な感じです。この非合理さは,以下④で見る島津の「贈り物」癖からして,簡単に言えばワイロが効いてるように思えます。公式には拒絶されたけれど,非公式な交易は非公式に認められた,という感じの印象を受けるのです。
「志布志の島津は愛い奴よ」──という印象を各方面に振りまいていなければ,何よりその2年後に次の輸入事業が出来たはずがない。

麝香。雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(こうのう/ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥したもの。あんまり美味しそうじゃない……。

【財物③④】将軍の前でも奪合う麝香

{1-1③} たとえば、天授 2 年・永和 2 年(1376)、志布志の大慈寺の二世剛中が宋版大蔵経 2蔵を中国から取り寄せているが、大蔵経 1 蔵は約 6,000 巻といわれているので、2 蔵となると分量だけでも相当な量となり、志布志津にそれが可能な交易の便と技術があったことが考えられる。〔後掲山畑〕

【史料七】日州龍興山大慈禅寺第二世剛中柔禅師豊之後州人也、幼師事玉山和尚、雉髪染衣、参禅遊方、凡居龍山者四十余年、先仁礼頼仲・畠山直顕崇敬之、後島津氏久帰依之、泛海入太宋求蔵経歴三祀而帰、
※原注30 『鹿児島県史料旧記雑録前編二』459号
【史料七】は、島津氏久譜に見える記事であるが、正文は志布志大慈寺が所蔵していたようである。氏久が大慈寺二世剛中玄柔に深く帰依していたこと、海を越えて明に人り、「蔵経」(31:引用者において略)を求めて三年の歳月をかけて帰国したこと等が記されている。剛中は氏久の死去に際して、「祭薩隅日三州太守齢嶽久公大禅定門文」(32)を贈るなど、かなり親密な交流があったことが推測される。明より持ち帰った大般若経を大慈寺に施入したのは、永和三年(一三七七)であったから(33)、【史料七】に見えるように三年間明に滞在したのであれば、明に入ったのは【史料六】にあるように文中三年になる。従って、大般若経の招来に氏久の援助があったものと推測される。
※原注32 加藤正俊編「剛中玄柔禅師語要」即宗院,1987
33「慧日山東福禅寺伝法輪蔵記」(「剛中玄柔禅師語要」所収)

〔後掲栗林〕

 年の継続性とその後の経典確保にかかった年数──旧記雑録の「歴三祀而帰」が三年かかったという語らしい──からして,中国側にかなりの負担を強いています。六千巻×2の経典がたまたまあった訳はなく,普通に考えると相当人数の写経僧団を連れたか,雇用したはずです。
 輸送能力のみならず,このような長期・大規模な国際プロジェクトを行うノウハウが,14Cの島津家には既に蓄積されていた。ということは,遅くとも14C初には事実上の交易を始めてナレッジを得ていったと考えないと,辻褄が合わないでしょう。
「14C末に島津が海外交易していた」というだけでは済むはずがない,というのは次の④贈り物攻勢にも見えます。つまり14C末に島津がお金持ちたったなら,そのお金はそれ以前の相当長期に貯め込んだものでなければなりません。

{1-1④} それと、島津家七代元久が明徳 4 年(1393)、室町幕府の将軍義満から上洛を命ぜられたとき、上洛延期の願いに虎の皮 3 枚、貂(てん)の皮 2 枚、支那名画 4 幅、支那銭 1 万疋を献上した。また、上洛に当って、将軍義持にお礼として馬 1 頭、絹小袖、錦、南蛮酒南洋砂糖、毛氈(もうせん)、麝香(じゃこう)、青銅 2 千貫を贈ったと記録されている。この島津の財力は海港志布志を基地とした海外交易によるものであった。〔後掲山畑〕

 典拠を探してみると──後掲関にありました。旧記雑録所収書簡※のほか島津殿上洛記※※のようです。当然いずれも島津側史料なので,「都びとにひと泡吹かせてやった!!」といった誇張も想定すべきですけど──
※応永四年四月九日付島津元久寄進状写、『旧記雑録前編』二-五七九号
※※島津家文書

 ただ物量は流石に嘘ではないでしょう。後掲関論文にそれが整理されていました。

 まず六月一一日参会分の進上物をみると、足利義持・義嗣や、管領畠山満家以下の諸大名いずれにも太刀と鳥目(銭)を贈っている。義持に二千貫、義嗣に三百貫、管領に百貫贈った以外は、いずれも五十貫を贈っている。ただし上洛の取りなしをしてくれた赤松満則に対しては、三百貫と「色々之唐物」を贈っている。〔後掲関〕

 つまり,金品の量と生産地の多彩さの質の両面で,将軍家周辺を意図して圧倒しようとしたと思われるのです。贈り先とその質量の詳細は,下記展開をご覧ください。

 六月二九日、島津元久の屋形に、足利義持の御成があった。この時元久は、義持・義嗣に対して、様々な唐物を贈っている。「白糸」(中国産の高級絹糸、すなわち唐糸)を使った鎧〔佐々木一九九四〕や、中国産と思われる段子・毛氈や染付鉢がみえる。これらは、麝香・沈香・南蛮酒・砂糖と合わせて、琉球から入手した物資と推測される。虎皮は、朝鮮王朝から入手したものだろう。また相国寺には絹を、南禅寺都聞には壼や胡銅花瓶、四条道場・一条正規道場には壼・茶碗皿や人参を贈っている。人参も朝鮮王朝から入手したものだろう。〔後掲関〕

※佐々木一九九四:原参考文献 佐々木銀弥 一九九四 「中世末期における唐糸輸入の一考察」(同『日本中世の流通と対外関係』、吉川弘文館)


 麝香はつまりマスクの事ですけど,これが室町幕府中央でどの程度に重宝されたか,客観的には測り難い。でも明代には本草綱目にも掲載され,知らなかったとは思えません。
 通史的には現・ハノイから輸出されたトンキン・ムスクが,最高級品とされます。島津は当時の交易で得た最高の珍物を都に持ち込んだ,と想定されます。

 幕府の重臣たちには、麝香膀を贈っている。この時、畠山詮春が、将軍近習の若衆等に対して、島津殿が今日進上した麝香が未だ櫃底にあろうから探り取るように言った。そこで元久が随従の家臣所持の麝香を出させ、盆に盛って座敷に出したところ、近習の者たちは将軍御前をも憚らずに競い取った、という(『山田聖栄日記』)〔鹿児島県一九三九、関一九九二〕〔後掲関〕

※関一九九二 原参考文献:関 周一 一九九二 「香料の道と日本・朝鮮」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編      『アジアのなかの日本史』第皿巻 海上の道、東京大学出版会)

【図画⑤⑥】倭寇被害国の地図上の志布志

 ⑤⑥は明側の地図に志布志の地名が記されている,ということです。

籌海図編の記す「審孛署」(志布志)〔国立国会図書館デジタルアーカイブ/籌海図編/1/5p右下部〕

{1-1⑤} 明末の中国で倭寇に対処するという目的で編纂された籌海図編(ちゅうかいずへん) (鄭若曾(ていじゃくそう)著)の薩摩の港の中に審孛署(志布志)と記され、⑥鄭舜功(ていしゅんこう) がまとめた日本一鑑にも志布志とみえているが、中世に横行した倭寇は九州、南西諸島の港を根拠地としており、志布志の船人たちも直接にまた間接に関係したであろうと考えられる。〔後掲山畑〕

「日本一鑑」内に「志布志」ワードはヒットしません。なお,「薩摩」ワードは次の1件がヒットします。

明年丙辰、海乃糾結種島之夷助才門即助五郎、薩摩夥長掃部、日向彦太郎、和泉細屋、凡五六万衆船十余艘、欲往広東為銓報讐、商輩聞曰、浙海市門為其所閉、今復至広東、我等無生意也。〔日本一鑑←後掲俺たちゃ海賊!〕

「五六万衆」が「船十余艘」を駆って広東や浙江を襲った。その首領らの出身地として,種子島・薩摩・日向・和泉の地名が付されています。
 籌海図編も日本一鑑も後期倭寇対策として編まれた,海防地理書と呼ばれる書籍の一つです。もちろん倭寇の本拠を実地に確認できたわけもなく,あくまで噂話程度の情報の集積でしょうし,上記地図でも分かる通り志布志の名が特筆されている訳でもない。ただその「指名手配リスト」には確実に名を連ねていた,という事までは言えます。

【民俗⑦⑧】はちまんそこからおいとしや

 ⑦⑧は民謡に残る「海賊」的色彩と評されるものです。

{1-1⑦} 志布志に「八幡そこ」と云う兵児謡(へこうた)がある。船遊びの歌とも古い海賊歌とも伝えられ、地面か板の間に正座して膝頭で拍子を取る荘重な調子は、或いは当時の面影を留めているのかも知れない。「はちまんそこからおいとしや、わがみがままにさ、ならばさ、なおもおいとしありがたや」の八幡は海賊船八幡船のことと伝えられる、〔後掲山畑〕

「正座して膝頭で拍子を取る」という身体動作は,船上でバランスをとるようもののように思えなくもありません。
 また,⑦⑧とも「八幡」「弓矢」「射かけ」といった陸上民からすると血腥い語句を割と飄々と,悪びれずに唄っている語感に感じられます。ただ,いかんせん客観性には欠けます。

{1-1⑧} また、志布志の大太鼓(うでこ)踊りに使われていた古い歌詞に次の興味あるものがある。「そらゆく雲は どなたにゆくか にほんにゆけば やりたいものはかずかずあれど ゆみやといかけのひきでもの」〔後掲山畑〕

 少なくとも本州の人間にスルッと飲み込める内容ではないけれど──第三句までは風の吹くまま漂うけれど運が良ければ「日本」に行きたい,その上で第四句は,弓矢を射かける引出物,となると武力による侵攻か強奪を連想させるのです。

【異説】志布志ころころ

 以下の説は,今のところまだ番外扱いせざるを得ない。調べる限り,山畑さんの私説で他の人が引用している例はないようです。性格上,否定しにくい代わりに立証も難しい。でも魅力的な説ではありまして,付記します。

{1-1} 天正 15 年(1587)、豊臣秀吉の九州攻めのあと国割が行われたが、このとき島津氏は木脇、三ヶ名など 10 ヵ所を代地として差し出し、志布志を領有することとなった。宮崎県の歴史(1999 年・山川出版)によると、秀吉による日向の国割について、秋月氏は当初志布志・新納(にいろ)を領することになっていたが、島津氏が志布志は古来から東辺の要地であるとして諸縣(もろがた)郡木脇(きわき)を代地に申し出たため、志布志は島津領となったとある。また串間市史には、「日向記に曰く櫛間(串間)、志布志、新納(にいろ)はこれを秋月家に賜ったが、島津氏の方便を以て代地を諸縣(もろがた)に出し、志布志を領有せりと、思うに志布志は古来島津氏の重鎮であったから」と述べている。〔後掲山畑〕

 朝鮮出兵後,秀吉の遺言で禁じられていた加増五万石を島津のみが得た話は有名ですけど,この加増地とも上記の替地は合致しません。九州征伐後の島津領の確定の裏面史に,様々な動きがあった可能性はあるけれど,やはり何とも評し難い。

{1-1} このことについて、北九州市の平嶺家に伝わる文書のなかに、「関白様が薩摩へ来たとき、旗本となって京都に行ったが物いりが多かったので、国許へ援助を頼んだら、親播磨から志布志ころころと云う銭三十貫を送ってもらった」という一節がある。
「ころころ」というのは「ころ銭」ともいい、中国明の洪武通宝という銅銭のことといわれているが、室町時代に永楽銭とともに輸入され、我が国で通貨として使用された。その当時「ころころ」という銅銭に「志布志」という名がつくほど志布志は海外交易で経済的に潤っていたときで、「志布志千軒町」といわれた豊かな港町であったので、島津氏にとって志布志はなんとしても確保しなければならなかったのではないか。〔後掲山畑〕

 この「志布志ころころ」の語も,山畑さんが専ら書くものらしい。そもそも北九州の「平嶺家文書」の存在が探知できない上,他の用例もない。
 ただし,中世の薩摩では明銭が流通していたという。洪部銭も含まれるので上記②③の時期に大量移入された可能性はある。さらに天正年間には私造銭が鋳造されていたとされるので,「志布志ころころ」の存在を否定もできません。

加治木銭(個人蔵・黎明館寄託)「明銭ことに洪武(こうぶ)・永楽(えいらく)の善銭の流通が多かったことが知られ,明の南鐐(なんりょう)銀も流通していた。15世紀以降全国的に私鋳銭が流通するようになるが,薩摩では,天正年中には島津義弘が洪武通宝を模して「加治木銭」を私鋳し流通させた。
 加治木銭は,銭の裏面に「加」「治」「木」の文字が刻まれているところから呼ばれているものである。」〔後掲鹿児島県〕

 なお,志布志と加治木の関係を窺わせる人物として,明浦和尚という大慈寺住職がある。明との外交僧で,加治木の住職を兼務したといいます。

 室町時代に、明の勘合(かんごう)貿易船は堺港への往来に島津領日向国外浦(とのうら)に寄港していたが、当時外交文書をつかさどっていたのが志布志の大慈寺住職明浦和尚であった。明浦和尚は加治木安国寺の住職を兼務していた関係もあり、勘合貿易船の往復に際して志布志に多くの支那銭が入った。その中の洪武通宝を模して、室町末期から江戸初期まで島津氏によって加治木で鋳造されたものが加治木銭と呼ばれる貨幣で、加治木銭は裏に加・治・木の文字を鋳込んであった。領内の通用のみならず、東シナ海交易にも使用された。 〔後掲山畑/第2章1(4)②〕

2.近世の志布志港

{1-2} 志布志津の海運もまた藩米の輸送を主とする国内交易へと代わらざるを得なかった。この地方の伝承として、中世からの海運業者として和田家・山下家の名が有名であるが、正確な記録は残っていない。江戸時代の志布志の廻船については、島津藩侍医曽槃の「無人島談話附録日州船漂流紀事」に、元禄 9 年(1696)、志布志浦運船十五反帆船戸弥三左衛門の漂流記録が最初である。この船は山下家の観音丸であったとされる。〔後掲山畑〕

「戸弥三左衛門」の志布志浦運船の記録は,ネット上では確認できません。和田家や山下家の記録もまた,厳重に秘されていると思われます。山畑さんが探し当て得た唯一の記録と思われます。
 下記によると「山下家観音丸」の運行記録自体は,もう一件,木材運搬者として残されるのみらしい。薩摩-大阪航路をとっていた船のようです。

{1-2} 元禄 16 年(1703)の奈良東大寺大仏殿再興の記録に、虹梁(こうりょう) (棟木)調査のときの藤後家明神丸、虹梁運搬の山下家観音丸の活躍が記されている。
 次に挙げるのは、藩政中期以降に活躍した志布志の主な海運業者である。〔後掲山畑〕

藩政中期以降に活躍した志布志の主な海運業者〔後掲山畑〕

{1-2} 天明 2 年(1782)の藩公御召船規則によると、御召船の平水手の印が檳榔(びろう)の葉に改められ、また船矢倉船頭 2 人を志布志と内之浦各 1 名宛と定められた(志布志の沖に特別天然記念物の亜熱帯植物群落がある枇榔(びろう)島があり檳榔樹が原生林をなしている)。〔後掲山畑〕

 先にも触れた志布志の枇榔島は,志布志市街から南南西約8kmに浮かんでいます(→GM.)。調所広郷の改革の約半世紀前のこの時点,なぜ御召船の印を改め,志布志に役人を置くことにしたのか,その内実は見えません。

{1-2} また、薩藩海軍史によると江戸中期以降の唐物などの蔵入れは鹿児島、志布志、向島などとあり、物資の内容は明らかにはできないが、輸入品は絹糸、絹織物、毛織物、薬種、香物、陶磁器、錫器等とある。すなわち琉球国からの貢納品が唐物の輸入品であるという〔後掲山畑〕

 古くからの種子島-志布志航路が,江戸中期に琉球にまで延伸された可能性はあるけれど,鹿児島方面を中継地にしたとも考えられ,やはり実情は不確かです。
 下記は,生産地と消費地の分析からの志布志と繋がった交易ネットワークの広さの推定です。出典は,志布志に残る数少ない交易記録・明神丸覚書(藤後家)という。

{1-2} また、国内交易品は、藤後家に残された明神丸覚書の享保17 年(1732)から元文 2 年(1737)までについてみると、移入品は灯油、髪油、蝋燭(ろうそく)、塩、昆布、木綿、布糸、団扇(うちわ)、傘、莚(むしろ) などが主であり、移出品では藩米の移出を中心として、杉、松、楠の木材、大豆、籾米、黒糖の農産物、鰤(ぶり)の塩付で、このうち黒糖と屋久杉は中継ぎ再移出である。
 明和 5 年(1768)から安永 2 年(1773)の間の移入品は髪油、灯油、塩の量が増大し、新しく漆、海だて、線香などが加わり、移出品は飫肥杉、木炭、菜種子が新しく加わり、松材などが増大している。
 移出入品を通じての特色は、まず藩米の運送を中心として大隅半島から島津藩領の日向諸縣一円の諸物資の搬出入と、南西諸島特産物の中継ぎ、それに唐物の密貿易が絡んだ商交が、九州一円、山陽、四国、畿内一円に行われ、さらに朝鮮国、琉球まで広範囲に行われていることが明らかにされている。〔後掲山畑〕

明神丸覚書〔後掲山脇〕

「エボシ島」に何が廻ったか?

「唐物の密貿易」と上記には既に書かれてますけど,ここまでの近世史料に志布志での密貿易を臭わせる記述は特にありません。
 山畑論文の後段に──

「明神丸覚書」明和8年(1771)3月9日、大阪からの下り便に「うるし20貫」がはじめて見え、以後しばしば積み込まれている。当地に新しい手工業が芽生えたのか、或いは琉球塗りの原料として中継したものであろうか。尾道市郷土史、因島市史に「日向国志布志船明神丸商交取引品に琉球産の荷物」とあるので、公にできない裏面の交易があったことは否定できない。 〔後掲山畑/第2章3(1)③〕

ともあります。志布志・明神丸が相当に広範な活動域を持ち,大阪から漆を,志布志から「琉球産の荷物」を運んでいること自体は,密貿易できるスペックを持つことを立証はしても,密貿易をした事実そのものではありません。
 でも次の明神丸覚書内の「エボシ島廻し」は,急に危険な話になります。
 この件を理解するには,事前に志布志湾北辺の領有状況を知っておく必要かあります。……というかワシも全然知りませんでした。江戸期の現・宮崎県には,かなりの数の大名がいたのです。

近世初期の日向国領有図〔後掲宮崎日日新聞〕

 志布志と志布志湾だけ赤字で追記しました。志布志を南端に持つ島津領が,古くからの島津庄領域です。
 志布志湾最北は秋月藩。秋月領は日向に三箇所ありますけど,高鍋藩又は財部藩と呼ばれました。元は九州北部の家です。九州征伐で秀吉に,関ヶ原初期に家康に抗したけれど,関ヶ原当日の西軍敗戦早々に寝返って大垣城の西軍を掃討したりして,日向の小藩に収まりました。黒田長政三男が継いだ秋月藩とは別ものです。
 志布志はこの秋月国境のすぐ西です。で,国境を越えてすぐの厳密には秋月領にあるのがエボシ島(ヨゴセ島→GM.)。

 この(引用者注:明神丸)覚書の中に「エボシ島廻し」の語が数多く出てくるが、これは現在の串間市高松の「ヨゴセ島」のことで、隣藩秋月領高松の烏帽子(えぼし)島に寄るのは風待ち、天候待ちと称していたが、積荷の中には鎖国政策による多くの輸出入が禁止された物資が積載されており、少なくとも表向きは志布志津口番所の監視下にあるので、物資の荷積みは夜間に行い、風待ちと称して烏帽子島に廻船して諸準備を行い出航したようである。島津藩でも他藩領での臨検はできない。藩庁に於いても幕府に対して、海運業者を保護する上からも万事好都合であった〔後掲山畑〕

 つまり島津は,他藩領の入り乱れた状況を利用して「他藩領での臨検はできない」という理由付けで,志布志にバックドアを設けていた,ということになります。秋月領なのですから,幕府側の摘発等いざという折には咎を押し付けられます。「大っぴらに志布志に荷揚げできないモノは他藩領に揚げて」と誘導を暗にしていたとしか思えません。
 おそらくは,大藩の財力で秋月側を買収してもいたでしょう。

{1-2} 以上、志布志津は藩米運送を中心として、黒糖その他の藩の専売品をはじめ、内外諸物資の交易と中継交易、密貿易などを含む経済的要地として繁栄したことが理解されるのであるが、幕府に対する配慮もあって、数量的な記録はほとんど残されていない。わずかに藤後家の明神丸、明福丸の航海日誌(覚書)の一部を残すのみである。
 藩政末期志布志の廻船業は活気を呈し、千軒町の再来といわれる異常な繁栄ぶりが語られるのは、唐物の抜荷がなされたからだと伝えられる。〔後掲山畑〕

 直接的に抜け荷を想像できる史料は「エボシ島廻し」しかありません。坊津でもそうでしたけど,おそらく島津側が徹底的に行ったであろう資料の管理も,商人の私文書までは行き届かず,現代になってようやく日の目を見たということでしょう。──上下の山畑さんの記述は,あくまで「状況証拠」です。けれど,大変に説得力があるものとして読めます。

 藩家老調所広郷(ずしょひろさと)が藩債整理の為にとった藩債年賦償還や専売制の強化などの政策がいかに効果的であったとしても、島津藩の国力の蓄積はあまりにも急であり、このことが抜荷による収益を藩自体が行ったか、または各港の廻船業者による抜荷交易をある程度黙認したであろうと考えられる点である。幕府の抜荷に対する取締の厳しい通達は度々くり返されているが、幕府の力が弱まるにつれ、島津藩では鎖国政策という特殊事情の条件の陰で抜荷交易を行うものが多くなっていたことは否定できない。志布志津の藩政末期における繁栄の背景にはこのような事情があって、志布志麓〔注 6〕の武士と町人とに強力なつながりがあり、他所にありがちな支配者と被支配者間の対立の構図は見られない。町内にある当時からの商家や上級武士の家には、現在も貿易品と思われる陶器などが数多く残されている。〔後掲山畑〕

〔注 6〕 麓(ふもと)
島津藩独特の制度で、藩内を 113 の外城(とじよう)(行政地域)に区分し、それぞれに地頭仮屋(じとうかりや)(役所)を置き、その周囲に武士集落をつくって麓と称した。麓に居住する武士を外城衆中(とじょうしゆうじゅう) と唱えていたが、天明 6 年(1786)から郷士と称するようになった。鹿児島に居住の武士は鹿児島衆中と呼んでいたが、のち城下士と呼ぶようになった。城下士と郷士に身分的な差別はない。住居地域を異にしただけのことである。〔後掲山畑〕

ソゴロどんの不思議な屋敷

 もう一点,山畑さんは論文後段で,江戸期の志布志にあった通称「密貿易屋敷」について記述しています。

⑤中山宗五郎と密貿易屋敷
 志布志の幕末の商傑といわれた中山宗五郎政潟は、1844年頃(弘化年間)から明治初期までの間に活躍し、一代分限の一代貧者と呼ばれている。志布志には代々の富裕な廻船問屋が多かったが、彼の名が特に有名であったのは、彼の商法はほとんどが抜荷中心であったと思われることと、彼の残した三階木造建の大建築が、のちに密貿易屋敷と呼ばれたほど、最初から抜荷を目的とした特異な設計がなされていたためであろう。(続) 〔後掲山畑/第2章1(4)②〕

中山宗五郎屋敷裏(昭和35年取壊された東棟・昭和35年撮影)〔後掲山畑〕

 屋敷は当時「志布志で不思議は宗五郎(そごろ)どんの屋敷、表二階に裏三階(さんげ)、中はどんどんめぐいの四階建て」と唄われており、表通りから見れば二階建て二棟続きの家であったが、裏から見れば東側の一棟は途中から三階になって、高い屋根裏を利用した三階の大部屋が海に面して設けられ、部屋には長さ1間(1.8m)に近い望遠鏡が置かれていた。 二階の大廊下から三階へ行く には取り外しの出来る梯子を上がったが、梯子の途中西側の板壁は細工された密室の引き戸になっていた。また二棟の間にも二階の部分に部屋があって、板壁を利用する出入口があった。
入り口の東側の土間の下に石をたたんだ堅牢な地下石室があった。この屋敷の主要部分であった東側の三階建ては、昭和35年(1960)に取り壊され、地下室も埋められたのは惜しまれている。〔後掲山畑/第2章1(4)②〕

 志布志市は2005(平成17)年に宗五郎屋敷の発掘調査を実施してます。石室が発見されたという〔後掲山畑〕。
 この不思議な屋敷の構造で思い出すのは,島原牛深の「せどわ」の家屋構造でした。そこには居住の用からは不自然な中二階が存在していました。

内部リンク→m17f0m第十七波濤声mm熊本唐人通withCOVID/熊本県 012-0唐人通\熊本\熊本県/■論点4:せどわには誰が居たか?/[書面調査]集落構成/何故にわざわざ中二階?
▲(再掲)中二階家屋各階推定平面図及び二階座敷〔張麗山「漁村における民家調査─牛深加世浦・真浦地区を事例として─」『周縁の文化交渉学シリーズ8 天草諸島の歴史と現在』2012〕

 牛深「せどわ」でもそうでしたけど,これらの特殊構造から即,密貿易を立証すると結論づけ得るとは思えません。「何か怪しい?」という感覚的な疑問符までです。「手入れ」の際に追い詰められにくいとか裏口から隠密の収容が可能とかの想定はできるにせよ──そもそも現代まで巷説に上るような「秘密」屋敷に,役人の目が向かなかったとは思えません。
 ただ,「密貿易屋敷」と呼んでいた志布志庶民の視線に注目すると,志布志の町の自己認識を察することは出来ます。「うちの町には密貿易してる奴らがいる」という中傷又は羨望を,彼らは面白可笑しく唄ってみせたと思われるからです。

志布志に残る琉球の残像

 沖縄本島・糸満の白銀堂の由来になった,「倭人から借金して母殺しをしかけた糸満人」の話があります。後日,気になって別稿に各種伝承を集めました。

内部リンク→FASE105-1@deflag.utinaR412withCoV-2_BF5#糸満白銀堂/【由緒】白銀堂に「白銀」が埋まる経緯と黄金言葉/(一)幸地腹門中,上原家の掛軸

①往昔之世兼城間切糸満村北有一岩名白銀岩往昔幸地村人有美殿者遷居此村②昔倭人之銀数次違限不償一日倭人来索其不在家倭人怒而偏尋竟得美殿干其岩下使要抜刀殺之美殿③哀求曰我豈敢長隠而騙汝原同下無力可償今失信心深慚之而隠焉耳懇求寛恩免死来年不敢再違矣古文有言心怒則勿動手手動則當戒其請之倭人聞之甚為有理之寛限而去④倭人帰国半夜則家暗開門戸而入只見其妻與奸夫相抱而寝即怒抜刀在手忽思美殿之戒乃挙大照視方知母之伴寝也従来其母毎子遠出恐有奸人通瀆其妻暗地扮作男粧相伴而寝伊倭人因聞其戒全母妻之命感激不已後又到琉球携酒謝之時美殿預博銀子償還各感恩⑤而倭人不肯受美殿亦固請覚其銀無所帰乃埋之岩下各表其志後人因名白銀岩遂為威部而尊焉〔再掲上原家掛軸〕

 ここで金を貸した「倭人」が,糸満の個人の調べで志布志の児玉実好だったことが分かったという。「分かった」というのがどんな事実確認だったのか不詳ですけど,山畑さんは次のように記しています。

 糸満の乾光子(いぬいみつこ)さんが志布志に現地調査をして、左衛門は志布志の廻船問屋であった児玉伝左衛門実好であることがわかった。児玉伝左衛門実好の墓は児童公園にあるが、文政8 年(1825)、81 歳で没しており、彼が海運業で活躍したのは 1764 年(明和年間)~1800 年(寛政年間)頃と思われる。〔後掲山畑/第2章1(4)②〕

 これが事実ならば,志布志の財力ある人が,糸満の民俗に影響を与えるほどの資本投下をしていたことを物語ることになります。
 それだけ根深いはずの志布志-琉球ルートの航跡がまとまって残っていないのは──それも島津側が丹念に消しているのでしょうか?この辺りがどうにも謎なのです。
 本文その他何度か触れた大慈寺は,琉球からの僧の留学先にもなっていたらしい。詳しい記録はないけれど,墓だけは残っているようです。

 大慈寺四十五世龍雲和尚は島津義弘の軍僧として朝鮮出兵にも従っているが、天正 16 年(1588)から藩命を受けて琉球に三度使いした。その折り彼の地で布教を行い、以後大慈寺は琉球僧俗の学問所となった。
 旧大慈寺墓地には墓地移転まで多数の琉球僧の墓があった。現在大慈寺開山堂の墓地、宝地庵墓地に琉球僧の墓の一部が残されている。〔後掲山畑 第2章1(1)信仰⑥大慈寺と琉球僧の墓〕

琉球僧の墓〔後掲山畑,平20(2008)年撮影〕

■転載:続日本紀 大隅隼人百年戦争記

 まだ島津の絡んでいない時代,古代の史料「続日本紀」には,荒ぶる薩摩隼人の姿が少量ながら活写されています。
 以下,後掲「モシターンきりしま」さんの現代語訳を軸とし,対照する原文も参照しながら時系列で見ていきたいと思います。原文と現代語訳との対照関係は,引用者において青字表記としました。

702年 荒賊隼人を平ら……げられず!

《大宝二年(七〇二)八月丙申朔》○八月丙申、朔。薩摩・多〓。隔化逆命。於是発兵征討。遂校戸置吏焉。」授出雲狛従五位下。〔後掲菊池〕

薩摩・多褹(たね)、化(か)を隔てて命に逆らふ(A)、是(ここ)に於いて兵を発して征討す (B)、遂に戸を校(しら)べ吏(り)を置く(C)(略)
まず(A)は、薩摩と多襯(種 子島・屋久島)が中央政府の教化・命令に逆らって従わない、というのである。そこで (B)は、兵を遣わして征討し、(C)では、ようやく戸を調査し(戸籍を作成して)、 役入(国司)を置いた、という。〔後掲モシターンきりしま〕

「隔化逆命」の「命」は,平定後に書かれているところから推測して戸籍調査と国司配置だったのでしょう。
 一般には690年調製と伝わる初の全国戸籍「庚寅年籍」との関係は不明ですけど,初期の戸籍更新は6年とされるから〔後掲奈良時代の……まとめ〕,702年は二度目の更新時についに隼人の地に強制施行した,ということでしょうか。

《大宝二年(七〇二)九月戊寅(十四)》○戊寅。制。諸司告朔文者。主典以上送弁官。々惣納中務省。」討薩摩隼人軍士。授勲各有差。〔後掲菊池〕

 続く九月の記事には、「薩摩隼入を討ちし軍士たちに勲位を授けた」とある。〔後掲モシターンきりしま〕

 上下は9月と10月に「討薩摩隼人」「平荒賊」した記事です。隼人がどこかで決戦を挑んだ訳ではないでしょうから,泥沼の広域多発の戦闘で,たまたま勝った雰囲気の時に中央にした報告が記録されたのでしょう。

仙石秀久連合軍を迎え撃つ島津家久〔宮下英樹「センゴク」〕

「祷祈大宰所部神九処」太宰府所管の神(社)9箇所で祈祷した,というのは,おそらく太宰府が行い得る最高の呪術的武装を征討軍に授けています。

《大宝二年(七〇二)十月丁酉(三)》○丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九処。実頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛、以賽其祷焉。」唱更国司等〈 今薩摩国也。 〉言。於国内要害之地。建柵置戍守之。許焉。」鎮祭諸神。為将幸参河国也。〔後掲菊池〕

 また、十月の記事には、薩摩隼人征討の際は、大宰府配下の神々九ヵ所に、戦勝祈 願を行なったことを、「実に神威を頼んで遂に荒賊を平らぐ」ともある。この九ヵ所の神名が記されていないので推定するしかないが、興味深い記事である。(略)さらにその後も隼人たちの抵抗は鎮まらなかったようで、国内要害の地に「柵(さく)を建て戌(じゅ:守備兵)を置いて之を守る」とあり、不安定な状況は続いていたようである。〔後掲モシターンきりしま〕

「柵」は「城柵」でしょう。続日本紀にはこの前後に多数の柵を築いた記録があります。古代山城群より防備が弱い官衙を兼ねる施設で〔wiki/城柵〕,多くの記述は東北(ex.多賀柵)ですけど内地にもあります。ただし,南九州には東北のように「◯◯柵」という名前が記されない。これは想像するに──恒久的な防衛施設が造れないほど神出鬼没に隼人の攻撃に晒されたからではないでしょうか?

払田柵※の外柵南門(復元模型)〔wiki/城柵〕
※秋田県大仙市払田・仙北郡美郷町本堂城廻(国史跡)

713年 大隅国を置……けず!

 どうも平安京中央は南九州の実情を全然理解できてなかったのか,それとも単に役人的に杓子定規な律令を施行したのか──713年に平然と大隅国を置いてます。最後に回した,ということはある程度は困難を覚悟していたのでしょうか?

《和銅六年(七一三)四月乙未(癸巳朔三)》○夏四月乙未。(略)始置美作国。割日向国肝坏。贈於。大隅。姶〓[ネ+羅]四郡。始置大隅国。」大倭国疫。給薬救之。〔後掲菊池〕

「大倭国疫給薬救之」日本全土に疫病が蔓延し薬を給付してこれを救った,とあるけれど──推測はできます。まだ日本ではなかった地方との間を軍兵や役人が多量に行き来すれば,未知の病原は広まったでしょう。

《和銅六年(七一三)七月丙寅(壬戌朔五)》○秋七月丙寅。詔曰。授以勲級。本拠有功。若不優異。何以勧獎。今討隼賊将軍并士卒等、戦陣有功者一千二百八十余人。並宜随労授勲焉。〔後掲菊池〕

 大隅国は七一三年四月に成立しているが、この時にも隼入は、成立に反対している。しかし、その具体的様相は『続日本紀』には見えない。ところが、七月になると、つぎのような記事が出てくる。
 今、隼賊を討ちし将軍ならびに士卒等、戦陣に功有る者、一千二百八十余人に宜(よろし)く労に随いて勲を授くべし。
 とあり、隼賊征討があったことが認められる。また、その叙勲者が多数にのぼっていることから、かなり大規模な戦闘が展開され続けたことが想定できる。おそらくは、唱更国(薩摩国)成立のときよりも、激しかったとみられる。〔後掲モシターンきりしま〕

 千三百人近くに勲章を出さなければならない,という事態は,一割としても一万五千程度の軍が侵攻したことになります。白村江戦(663年)への出兵が27千とされる時代ですから,その半数以上の軍事行動と推定されます。

《和銅七年(七一四)三月壬寅(十五)》○壬寅。隼人昏荒。野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸。令相勧導也。〔後掲菊池〕

 さらに翌年(七一四年)になると、隼人昏荒(こんこう)、野心にしていまだ憲法に従わず。因(よ)って豊前(ぶぜん)の国民(くにたみ)二百戸を移して、勧導せしむ也。
 とある。すなわち、隼人は暗(くら)く荒れている。また、野蛮な心で朝廷の法律に従わない。そこで、豊前の国民二百戸(約四千人~五千人)を移住させて指導させる、というのである。〔後掲モシターンきりしま〕

「令相勧導」互いに導くよう勧誘せよと命じた,という記述はまどろっこしいけれど,よく言ったものです。地域を挙げて抵抗する土地で誰が「導」かれるのか?──実態としては,隼人を追って無人化した土地への植民でしょう。後日の島津庄も同様にして生まれた,古代日本最大の屯田兵駐留地だったと推定されます。
 時系列が逆転しますけど,716年の軍兵からの帰国陳情記事をみます。

《霊亀二年(七一六)五月辛卯【十六】》○辛卯。以駿河。甲斐。相摸。上総。下総。常陸。下野七国高麗人千七百九十九人。遷于武蔵国。始置高麗郡焉。」大宰府言。豊後・伊予二国之界。従来置戍、不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還、不在禁限。又薩摩・大隅二国貢隼人。已経八歳。道路遥隔。去来不便。或父母老疾。或妻子単貧。請、限六年相替。並許之。」始徙建元興寺于左京六条四坊。〔後掲菊池〕

その後、長期にわたり滞在して雑用に従事しなければならなかった。その苦悩は、七一六年五月の『続日本 紀』の記事で知ることができる。
 薩摩・大隅二国の朝貢隼人は、巳(すで)に八年を経ている。二国と京の地は、道路は遥かに隔てており、去来は不便である。その間家を離れているので、父母は年をとり病気にかかり、妻子は主人を欠いて貧しさにあえいでいる。そこでお願いです。せめて、六年を限度として交替(こうたい)させて下さい。
 この願いは受入れられ、ようやく「六年相替」に改められている。それでも六年ごとに朝貢してくる次の人びとと交替するのであるから、やはり長い滞在であり、そ の間は雑役奉仕である。〔後掲モシターンきりしま〕

 716年になって始めて,熟練兵の帰国が許された。つまり最初の軍事鎮圧から少なくとも14年間,薩摩大隅の隼人の抵抗戦は続いたことになります。
 おそらく国家体系を持たなかった当時の隼人が,これだけの期間抵抗する,という状況の意味は,自民族の存亡を賭けてヤマトに抗したということだと思われます。

龍造寺隆信を迎える島津家久軍(沖田畷戦)〔宮下英樹「センゴク」〕

720年 向化隼人と征隼人将軍

 710年の記事が初見だと思われますけど,「曾君細麻呂」という人を従五位下に叙勲してます。
 その前の記事に「隼人蝦夷等 亦授位賜禄」とありますから,当時のヤマトの「北夷南蛮」を叙勲することで馴化していく方針がこの辺りで定められたのでしょう。この施策転換がヤマト体制外の隼人にどの程度魅力的だったかは疑問ですけども,律令体制内の貴族役人には大した決断だったはずです。つまり,遅くともこの段階では中央も,隼人がそう簡単に旗を降ろさないと認識していたはずです。

《和銅三年(七一〇)正月丁卯(十六)》○丁卯。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人・蝦夷。奏諸方楽。従五位已上賜衣一襲。隼人・蝦夷等、亦授位賜禄。各有差。
《和銅三年(七一〇)正月戊寅(廿七)》○戊寅。播磨国献銅銭。」日向国貢采女。薩摩国貢舍人。
《和銅三年(七一〇)正月庚辰(廿九)》○庚辰。日向隼人曾君細麻呂。教喩荒俗。馴服聖化。詔授外従五位下。〔後掲菊池〕

 このように豪族を優遇することによって、隼人社会は漸次分断されていくこと になる。それが朝廷の狙(ねら)いであった。豪族層のなかにはみずから朝廷の施策に乗じる者も出て来たようである。
 その一例が、七一〇年五月の『続日本紀』の記事に見えている。そこには、
 日向隼人曽君(そのきみ)細麻呂、隼人の荒俗を教喩(きょうゆ)して聖化に馴服(じゅんぷく)せしむ。詔して 外従五位下を授く。
 とある。日向隼人とあるが、大隅分国以前であり、曽君の氏姓からして実体は 大隅隼人である。その細麻呂が周辺の隼人たちを教え諭(さと)して、天皇の教えに従う ようにした、というのである。豪族層のなかには、このようにみずから朝廷寄りの態度をとる人物もあったことが知られよう。〔後掲モシターンきりしま〕

 従五位下に昇進した「日向隼人曾君細麻呂」の「曾君」という冠語は「モシターン」指摘のとおり,「曽於」の略でしょう。つまり広義の隼人から「転び」が出,「曾」の地名を姓とし「細麻呂」の名を与えられ,ヤマトの支配の末端に加えられた。
 昇進理由は「教喩荒俗 馴服聖化」荒ぶる風俗を教え諭され王威に馴化・服属したから,要するに従属しただけです。一個人ではないニュアンスですから,細麻呂は一勢力を率いた長でしょう。
 もう一度前の文章に戻ると「日向国貢采女 薩摩国貢舍人」とあります。日向が采女(宮仕えの下女)を,薩摩が舍人(同下男)を貢いだ,というのは実質的に人身売買です。かつ,こういう形でヤマトへの「朝貢」をさせていたということは,日向と薩摩は衛星・朝貢国になっている。対して大隅(曽於)はその前段階,ヤマトへ服属するかしないかの状態にあったことになります。
 ところで鎌倉〜江戸期の将軍様の正式名は征「夷」大将軍です。「夷」は東日本の蛮族呼称,つまり「対異民族東部戦線司令官」の意……というのは教科書的知識ですけど,続日本紀には「征隼人持節大将軍」という役職が登場します。上記細麻呂叙勲の十年後・720年のことです。ここで征伐の対象となる隼人とは,上記状況,かつ2月に「殺大隅国守」大隅国守が殺害されたことへの対応と考えられるので,多分大隅隼人です。

Komuram Bheemudo

《養老四年(七二〇)二月壬子【廿九】》○壬子。大宰府奏言。隼人反、殺大隅国守陽侯史麻呂。
《養老四年(七二〇)三月丙辰【癸丑朔四】》○三月丙辰。以中納言正四位下大伴宿禰旅人。為征隼人持節大将軍。授刀助従五位下笠朝臣御室。民部少輔従五位下巨勢朝臣真人為副将軍。
(略)
《養老四年(七二〇)六月戊戌【十七】》○戊戌。詔曰。蛮夷為害。自古有之。漢命五将。驕胡臣服。周労再駕。荒俗来王。今西隅小賊。怙乱逆化。屡害良民。因遣持節将軍正四位下中納言兼中務卿大伴宿禰旅人。誅罰其罪。尽彼巣居。治兵率衆。剪掃兇徒。酋帥面縛。請命下吏。寇党叩頭。争靡敦風。然将軍暴露原野。久延旬月。時属盛熱。豈無艱苦。使使慰問。宜念忠勤。〔後掲菊池〕

 ところが、ついに隼人の怒りが爆発するときがやってきた。七二〇年(養老四)二月 に大隅国の守(かみ)、陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺害された、と大宰府から朝廷に急報がもたらされた のである。(略)
 三月になると、早々に朝廷では大伴旅人(たびと)を征隼人持節(じせつ)大将軍に任命し、他に副 将軍二名も任命している。将軍に副将軍二名をつけるのは、一万人以上の兵を統率 する規定であったから、大規模な編成である。
 この大規模出兵に対し、隼人は執拗に抵抗している。しかし、開戦から三か月 経った六月の記事に(『続日本紀』)、隼人軍が苦戦を強いられたように述べるが、内実は朝廷軍がかなり苦戦していたようで、その一端が短文のなかに垣間見える。そこには、
 将軍は原野にさらされ、久しく旬月(じゅんげつ:十日あるいは一か月)を延ぶ。時に盛熱の時季であり、どうして艱苦(かんく)が無いことがあろうか。
 とある。旧暦の六月は炎暑の時であり、九州南部の暑さに苦しめられたようである。(続)〔後掲モシターンきりしま〕

「モシターン」さんは「将軍に副将軍二名をつけるのは、一万人以上の兵を統率 する規定」という根拠を示しており,ここから最少でも1万の出兵と推測できます。
 この副将軍任命の記述は3月。これに対し6月の記事には「漢命五将」とあるので,(「漢」の意が不明ですけど)「将」を副将軍格としても兵力の倍近い増員があったのではないでしょうか。すると6月の本格的制圧では,2万近い兵力投入があったと推測されます。白村江戦より僅かに少ない程度,ということは当時のヤマトの動員可能兵力のほぼ全てを出しています。
 最後段でその兵力が「豈無艱苦」,つまり疲弊したというのですから,「天下の兵」を敵に回して(大隅)隼人の死兵は相当に激闘したと考えられるのです。
 同721年7月の記事に,次の「戦闘集結」っぽい記述があります。

800年 大隅薩摩国税納入(ヤマト-隼人百年戦争終結?)

《養老五年(七二一)七月壬子【七】》○壬子。征隼人副将軍従五位下笠朝臣御室。従五位下巨勢朝臣真人等還帰。斬首・獲虜合千四百余人。〔後掲菊池〕

(続) 八月になると、大将軍大伴旅人は帰京した。思いがけない長期戦に、耐えられな かったのであろうか。しかし、副将軍以下は「隼人いまだ平らかならず」の戦況であったから、戦いを継続していた。
 戦闘が終結したのは、翌七二一年の五~六月の頃だと思われる。七月になると、副将軍らが帰京し、戦果を朝廷に報告している。それによると、
斬首獲虜、合わせて千四百余人
 とある。隼人は敗れたが、一年半近い長期にわたって戦いを続けていたことになる。この戦いを「隼人の反乱」と呼んでいるが、筆者は、あえて「隼人の抗戦」というべきだと思っている。〔後掲モシターンきりしま〕

「モシターン」さんは一年半とカウントしてますけど,こうしたジェノサイド戦に本当の意味での戦間期があったと想定してよいのでしょうか?最初の「逆命」制圧から数えると二十年です。
 ただし,この長期の抵抗戦でもって隼人の「逆命」が鎮まったかというと,なお継続されていた節があります。
 はっきりと,大隅・薩摩からの国税収入が確認できるのは800年。この年次で見れば,8C百年間まるまる,ヤマトと隼人は戦闘状態にあった,とも言えます。

《天平二年(七三〇)三月辛卯【七】》○辛卯。大宰府言。大隅・薩摩両国百姓。建国以来。未曾班田。其所有田、悉是墾田。相承為佃。不願改動。若従班授。恐多喧訴。於是、随旧不動。各令自佃焉。〔後掲菊池〕

 抗戦の敗北から九年、七三〇年に大宰府は隼人二国に班田制導入を試みた。そのようすを『続日本紀』はつぎのように記している。
 大隅・隼人両国の百姓、国を建ててより以来、いまだかつて田を班(わか)たず。其の有する所の田は悉(ことごと)く是れ墾田。相承(う)けて佃(たつくる)ことを為(な)す、いま改めて動か すことを願はず。若(も)し班田収授に従はば、恐らく喧訴(けんそ:喧嘩や訴へこと)が多くおこるであろう。
 と記している。そこでは、いま一部の百姓が耕作してる田は、すべてみずから開墾した田地である。それらを没収して改めて班田を実施すると、苦情や訴えが多発する、というのである。
 その背景には、基本的な問題として班田制実施に必要な田地の不足があったと みられる。したがって、朝廷では「是において旧に随いて動かさず」と、旧来のままを 認めている。
 ちなみに、その後の経過を見ると、大隅・薩摩両国に班田制が施行されたのは、 八〇〇年(延暦十九)のことであり、さきの七三〇年から、さらに七〇年後のことであった。それもかなり強行したとみられるふしがある。〔後掲モシターンきりしま〕

 ここまで見た続日本紀の手前味噌な「征服」記事を見てると,そうは言っても800年に本当に民族紛争は終わったのか──「班田制が施行」とは何のことか,原文を見たくなります。
 現存するのは日本逸史の記事でした。──これは1692(元禄5)年に鴨祐之が編纂した歴史書です。応仁の乱で散逸したと言われる続日本紀に続く六国史第三「日本後紀」(対象:792(延暦11)-833(天長10)年)の復元史料です〔wiki/日本逸史〕。

延暦十九年十二月辛未(新暦800年12月30日)。大隅。薩摩兩國ノ百姓墾田ヲ収ム。口分ヲ便(ワカ)チ授ク(日本逸史巻九國史第百五十九田地部上口分田),国立国会図書館デジタルコレクション。〔後掲指宿・頴娃ジオガイド 注[7]〕

原文表記〔後掲国立国会図書館デジタルコレクション/国史大系 第6巻 日本逸史 扶桑略記 /日本根子皇統弥照天皇紀 恒武天皇- 同HP49/438〕

 書いてあるのは「大隅薩摩兩國百姓墾田」──農民が税金を収めた,という内容です。それが勅撰史にわざわざ書かれるのは,「初めて」納入したからと思われます。当然,大隅薩摩の全農民が納入した,という状況にはほど遠いでしょう。徴収簿に初めて収入が記載できた,という感じです。
 しかも「百姓」です。地域でも,ましてや国でもない。想像するに,徴収役人が初徴収の手柄目当てでなだめすかして「納めてもらった」か,あるいは半ば強奪するように金品を取り上げた可能性すらあります。

※「租」ではなく「調」であれば,例えば後掲の749年続日本紀記事に「薩摩両国隼人等貢御調」という記述が既にあります。

「モシターン」も疑っているように,百年戦争は800年時点でもまだまだ続いていた,と考えるのが妥当です。だからこそ島津庄のような巨大な屯田兵駐留地が必要だったし,その領主が強力な実効支配が成立したのではないでしょうか?
 さて,ここで前のレポ(概説)で触れた岐直志自羽志(ふなどのあたいしじはし)さんにようやく話を戻します。
 志布志の地名の由来とされるこの人は,曽県主(そのあがたぬし)=曽於県知事で正六位上だったけれど,加禰保佐(かねほさ)さんと並んで従五位下に昇進した,という内容でした。この原文は続日本紀の次のものになります。

《天平勝宝元年(七四九)八月壬午【廿一】》○壬午。大隅。薩摩両国隼人等貢御調。并奏土風歌舞。
《天平勝宝元年(七四九)八月癸未【廿二】》○癸未。詔、授外正五位上曾乃君多利志佐従五位下。外従五位下前君乎佐外従五位上。外正六位上曾県主岐直志自羽志。加禰保佐並外従五位下。〔後掲菊池〕

 前掲では「曾県主岐直志自羽志」の「志自羽志」が「志布志」地名の由来として紹介しましたけど,山畑さんは「岐直」に注目しています。

即ち岐直(ふなどのあたい) 加禰保佐(かねほさ)とともに外正六位上から外従五位下に贈位があったということで、岐は船戸(ふなど)と同意で海辺の要港に依った豪族であることを示しており(略)〔(再掲)後掲山畑〕

 つまり「曾県」(≒大隅)の「岐直」(海辺の要港)として読むなら,志布志湾の港の統治者,と読むのが自然です。その後の「志自羽志」(≒志布志)考え合わせると──749年に従五位に昇進したこの隼人は,志布志の有力者だった可能性があります。
 ただ,既に正六位上だったこの両者が749年になぜ昇進したのか,と考えると気が重くなります。一進一退を繰り返していたであろうヤマト-隼人戦争で,相応の大手柄を立てたから,という理由がもっともらしいからで,それはつまり同族の駆逐又は制圧を意味したであろうからです。