015-2矢野\安芸郡四町\広島県onCovid

広島湾の守り 陸自海田市駐屯地

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

陸上自衛隊 海田市駐屯地の74式戦車〔GM.〕

然ですけど1006、西明神橋(→GM.∶地点)トップにおります。陸上自衛隊海田市駐屯地の西。
 左の斜面は矢野ニュータウンの山にかけ登る。右に黄金山。ここが多島海であったころの豊かさと、港としての機能を思いますけど──高所恐怖の人間には、とりあえず怖くて足がすくむ高さです。何でこんなに高いのよ、聞いてないぞ!と勝手に登っといて思ってる横を、結構自転車がシャコシャコ越えていきます。でも歩きはいないよな。と思いきや、ランナーが一人すれ違う。体力づくりコースとしては適切かもね、怖くなけりゃ。

矢野西四丁目の「かくん」

016、海田大橋入口交差点、マツダロジスティクスの角で左折。
 東南行。スタート地点にやっと近づく。本日は矢野を歩きたいだけなのでした。やはり……一駅でも列車で来りゃよかったか?
 1034、安芸南高校を過ぎR31を渡る。細越川橋と表示。すぐ呉線鉄橋、下の石垣は古い。
 介護支援施設「こころ」の前の踏切を渡ります。
 元の橋は別の方向だったのでしょうか、円柱の橋桁らしきものが2基、水上に突き出てます。

1038円柱2基

d矢野西四丁目30。
 山際の路地に合流した。1042。
 やや古い痕跡が随所に出現し初めました。歩を緩める。
1046カクンと下がる坂

047、切通しらしき場所。
 右手東側に30mほどのここで道が水平20m、垂直2mほどかくんと下ってる。右手に水路、これは垣ではなくコンクリートで固めてある。崖側の垣は古びてる。
 右手の水路沿いを進む。1051。
1050右手水路沿いの龍田神社崖下道

井町内会の看板。
 彼岸花。
 左手の道から出た車道はそのまま登っていく。石垣の多さからして古い体です。
1053彼岸花咲く登り道

手に階段、神社のようです。
 登る。
「昭和十三年五月吉祥」と書かれる石段改修寄附者芳名の石碑。畠山姓が目立つ。
 西の海方向、右に曲がった参道の先、二の鳥居にようやく龍田神社の名を見る。手入れは行き届いてます。

赤石明神の見下ろす新開

通の真上。拝殿と本殿の二段。左右に小社。
 左手は獅子神社。曰く──灘家の湯木田の畑で獅子頭に似た雌雄の苔茸が見つかり、浅野宗恒公に照覧せしめたところ、なぜか御感状を賜り、祠を立てて龍田社春祭りにのみ御開帳していたという。……不思議な由緒ですけど、脈絡無茶苦茶な分、真実の伝えっぽい。

1113榊に埋もれる大年社

手は大年社。曰く──大年迫にあった祠を遷座したもので、1765(明和2)年の龍田神社改築後とされる(平30大井町内会有志,矢野郷土史研究サークル発喜会)。
 榊がいっぱいに供えてある。
 上手左隣に「龍田明神」とある石燈籠。右面に後の墨塗りだが「天明三◯◯」とある。──天明=1781~1789年ですから18C末です。
1127龍田明神名の石燈籠

田は干魃や日照の神ですけど、この場合はどうでしょう?
 本殿祭神は「級長津彦神(男神 しなかつひこのかみ) 級長戸邊神(女神 しなかとべのかみ)」とある。──神話にはイザナギの生んだ諸神のうち、かなり初めに書かれます。古い地方神です。奈良の龍田大社の祝詞に出るし、伊勢神宮の内宮別宮にも祀られる。風の神と言われます〔wiki/シナツヒコ〕。

の地(大井)は、江戸時代に入って新田の開発等により次第に人口が増加し発達してきた。(略)龍田神社は、元文三年(一七三八)当地に赤石(あかいし)新開が造られた際、大井の守護神として風雨の平和順行を祈念するために造営された。
 祭神は、奈良の龍田大社に由来し、奈良大社に祭られている男女の風神を勧請(略)し、祭った。
 更に、この地区の潮止めの中に赤石明神と称される大小三つの赤い神石があり、近くに赤石神祠が建立されていたが、当神社に合祀された。(略)」(参考 香川神主家文書・芸藩通志等 平26年1月吉日 大井有志)〔案内板〕

「赤石新開」がどこに当たるのか分からんけれど……神社の位置と意義からして、現・矢野駅辺りを指すのでしょうか?(推定地→巻末参照)

1131赤石明神名の石燈籠

かに──奥手本殿左脇にも「赤石明神社」名の奉寄進の石燈籠がありました。
 明治8年記名。かなり後までここの呼称は赤石明神だった、と仮定することもできそうです。
 本殿真裏に「昭和拾七年拾壹月吉日」記名で寄附者今田恭三の名。この出資者名とともに「大工 岡明喜代松 林旭 渡子秀吉 石工 中野 金子」の記名。
 技術者・施工者名を刻む例は、やや珍しいと思う。
1136龍田神社(赤石明神)の見下ろす方向

135。本殿の方向の埋め立て地区を撮影。神社自体が、かつてはおそらく、まっすぐ港を見下ろしていたはずです。
 東隣の丘も墓地になっている。地図上は寺社の名称はないけれど、何かの神域だったろうか。
 憚りながら本殿前の廊下に上がり、古写真を覗く。「大井樋門ヨリ牛之首~住吉 昭和四十五年十月撮影」とある。この頃まではすぐが海だったわけですけど、写真に記載の2つの地名も気になりました。──現在のどこだろう?(巻末参照。なお、大井樋門はなお分からず仕舞です)。
1149拝殿帰路の先にニュータウン

矢野史跡案内図精読

150、下る。帰路の正面山肌には、びっしりニュータウンの家並。
 1159「カクン」の下りまで戻る。ad矢野西四丁目24。右折東北東へ。
 1205。高架下、ad四丁目13、矢野交番前。通りは微かな石垣の跡のみ。ただ畠山の家札はやはり多かった。
 やっと矢野駅を見る。
 駅前にも食べたくなる店、休めるカフェ、喫煙場所はない。トイレだけ行っとこ。

矢野史跡案内図〔後掲ニュータウン裏山探検記〕

野駅前でマップを見つけました。1216。
 西に宮下川、東に矢野川が並んでほぼ南から北へ流れる。矢野川東の丘よりの道の乱れが面白そうです。
 続いて──矢野史跡案内図。駅から矢野川に沿って、尾崎神社-姫宮社-祇園社-真光寺観音堂-絵下観音堂と続いた先が矢野城。
矢野史跡案内図(矢野川沿)〔後掲ニュータウン裏山探検記〕

山裾には──何と!古墳もあるのか(北尾古墳→GM.・丸古古墳→GM.∶ともに地点)? ということは、龍田神社のある矢野駅南側と、矢野川の流域は、どちらかと言えば後者が古くて、前者は近世以降に(おそらく新開拓の赤石新開を中心に)開かれた土地ということになるのでしょうか?
 稲荷社・狐原大師堂から白鳥社、その奥には観音谷観音堂。
矢野史跡案内図(矢野中学校付近)〔後掲ニュータウン裏山探検記〕

 観音と言えば、この地図の随所に◯◯観音堂があります。そして高所(一つ前の地図)には桧下頭、この「頭」は前章坂西の総頭川にも通ずる用字に思えます。
 かつその手前の山に野間神社というのがある。鹿児島の同名岳が「姥媽」に通ずると伝わる、あの用字です。──先入観なしに言うと、媽祖の匂いが濃厚にある。

甘藷之碑と髢之碑

1245二千六百年碑と矢野駅前

崎神社下に3基の碑。1233。
 右に「甘藷之碑」。──久保田勇次郎の顕彰碑。明治28にオーストラリアから三徳藷、33年にアメリカから「密かに」七福藷を持ち帰ったという。
 中央に「髢之碑」。「髢」字は「かもじ」と読み、
大阪屋吉兵衛の顕彰碑。明治32頃の海外への輸出品だったという。欧米各国にまで輸出していたというからなかなかに驚きなのですが……。


尾崎神社の階段下

 左には「戦役記念碑」。日清36名、北清(義和団の乱鎮圧)61名、第一次シベリヤ出兵72名。ほかに台湾守備、日露。──WW2より前の戦没です。1900年の北清事変と1918-1922年の第一次シベリア出兵が大半とは……何か背景がありそうですけど想像つきません。

1248宮下川沿いの南行路

246、川に沿い右折南行。ad五丁目3。
 尾崎神社もまた、東側から尾根に登り右折して北端に至る参道。してみるとこれらは切通しではなく岬だったのではないでしょうか。
1259尾崎神社階段下から東を眺める

の神社もよく浄められ、管理が行き届いてます。
 入口の石柱には大正七年の文字。一の鳥居裏にはやはり「石工北岡為吉」記名あり。
 神橋は皇紀二千六百年記念らしい。
1301二千六百年の神橋

矢野川の水の音を追って

307、ad西五丁目25の変則十字。左折だろう。
 印象的な細道から1311、五丁目24の姫宮町内会掲示板にぶつかるT字路。GM.の位置情報を入れると姫宮はもう少し南らしい。右折南行。

1316旧家の軒先

の象が、上下左右に微妙に揺れてる。古い家屋も増えました。総体的には僅かに登ってます。
 あと、どうも意味なく半端な窪みや空地が目立ちます。先に家が建て込んだ地域と目されます。
1318半端な家の隙間筆

310。右手に姫宮町内会掲示板。道に柿一つ転がる。市立矢野幼稚園。この辺りだろう。
 矢野川の水の音。
 1322。姫宮を見る。
1322正面姫宮,右手幼稚園

側、本殿奥は海岸のような大岩。
 旧来の、おそらく海岸の記憶でしょうか。

おおなおび 港を記憶する風景

1325姫宮西手裏の大岩群

野駅から南東直線500mの地点です
(→GM.∶地点)。
「姫」宮という名は、先述の矢野各所の観音(←媽祖?)とも響き合います。ただその色彩は、少なくとも視認できるものはありませんでした。その代わりという訳でもないけれど──
1327ケツ上げ過ぎ狛犬と姫宮拝殿

ケツ上げ過ぎの狛犬。フォルムとしてあまり見ません。
 この社の周囲、昨日の荒神社に似て円状に細道。小祠は一切なし。
 右L字に折れてる参道。東の矢野川沿いからなので屈曲の必要はないはずです。東から入って北へ折れる、このL字に何かの意味があるのでしょうか?
1332姫宮前の「港町風情」

囲には、港町の風情が隠しようもなく残る、ように感じとれました。
 日射。
 階段に座ると立ちあがりたくなくなる。

緒書きによると祭神は──また変わってる。大直日神(おおなおびのかみ)、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)、速秋津姫神(はやかきつひめのかみ)、伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良姫神(はやさすらひめのかみ)の五柱。──大直日神は、黄泉と、穢れ神と化したイザナミからようよう逃れたイザナギが、禊をした際に生まれた神で〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大直日神」←コトバンク/大直日神〕。同じく直前に立った神直日とペアで祀られることが多い〔朝日日本歴史人物事典 「大直日神」←同〕けれど、矢野の姫宮には単体です。「姫」に当たるのは瀬織津姫神しか見たらないけれど、この神も、伊勢神宮では天照と並置された〔wiki/瀬織津姫〕と伝わる古神です(伝・水神、祓神、瀧神、川神)。

矢野姫宮の位置

鎮座の年月は不詳だが、楽音寺古神名帳(1330年頃)に安南(安芸)郡四位矢野姤明神(こうみょうじん)と記されている。
 久しく廃されていた社殿は元禄2年(1689)再興された。同4年から尾崎八幡の秋の大祭には、御輿の停まる仮宮となり今日に及ぶ。
 神社には姫宮新田があり、姫宮早稲を宇都宮家(屋号、姫宮)が、代々栽培し、時の広島藩主に献納した。神田は、福島時代に『福島検地』により消滅した。
 明治40年(1907)『安芸の大流れ』の際は、姫宮の森(築地)が矢野川西岸からの山津波(土石流)を防ぎ、その進路を東岸に向けた。〔案内板〕

姫宮の位置

かに……この位置は2つの川の、大袈裟に言えば分水嶺の小丘に当たります。
 坂の荒神社も、神社より北が集中して平元7月豪雨の被害を受けているように見える。矢野のこの位置も、「山津波を防」いだ、というのを言い換えれば、安全域の目印になっているように見えるのです。
1352矢野川東岸

352、矢野川東岸を撮影。やや古い構造の家並が多い気がします。
 振り返って、姫宮の位置を再確認。
1354矢野川。左手奥に姫宮

355、六丁目9から左折、東行。坂になってる。
 1357車道。矢野通り。地図を見るとどうもこれより東に山沿いに続く南北道が見当たらない。あっても途中で途切れてます。
 でも一応、対面の路地に入ってみるか。

矢野安浦道の脇道群

1402東六丁目の裏道(1)

ad矢野東六丁目10。姫宮から真東100m。
 S字がつらなりに連なってすぐに車道へ。ad六丁目6。でも凄い道でした(→GM.∶行程)。
1403東六丁目の裏道(2)

ず間違いなく……バイパス道(矢野安浦道)が出来るまでの古道と思われます
 ただ、何の情報もなく、また手がかりになる具体の見聞もありませんでした。
1404東六丁目の裏道(3)

少し下、同等の路地。これは行き止まりでした。
 さらに下、ad東五丁目20の向かい(→GM.∶地点)。やはり行き止まり、なれど凄い路地です。1415。
 1418、バス停花上。
1414東五丁目向かいの袋小路

426、矢野出張所バス停で身体の方がダウンしました。
 海田駅前を通るバスが19分後にあるので、ベンチにしゃがみこむ。
──何と!予定してた海田市まで回り切れなかった!明日に回すことにしよう。
 これは、連休企画にして正解でした。狭いのに予想を遥かに越えて──深みにハマッてしまう。換言すれば自業自得なんだけど……キツい!

■レポ:龍田社-住吉-牛ノ首の推定

 龍田神社古写真のキャプション「大井樋門ヨリ牛之首~住吉 昭和四十五年十月撮影」(→前掲)の地名「住吉」「牛ノ首」は、矢野駅前の「矢野史跡案内図」で確認できました。

矢野史跡案内図(矢野西四丁目から海側)〔後掲ニュータウン裏山探検記〕

に駅で見つけたマップを先に掲げます。
 この地図を信じるなら、住吉神社矢野西一丁目38(→GM.∶地点)付近。牛ノ首は先ほど通過した安芸南高校の東側、現・済生会広島病院(→GM.∶地点)の敷地と推定できます。
 なお、この2地点間に「赤石」という表示があります。
 龍田・住吉・牛ノ首各社は旧湾岸の要所と捉えるべきでしょう。つまり、この3点間は旧湾だったと推定していい。まさにその地点が「赤石」ですから、ここが埋立当初に赤石新開と呼ばれた場所だと推定できます。
 ついでながら──そうすると、先の鉄道をまたいだ地点の「2本円柱」の水たまりにも、理解の手が届いてきます。
航空写真(左上:牛ノ首〜右下:龍田神社)

 安芸南高校の西の緑地は、おそらく南(二本円柱)と同じく水域だったと考えられます。牛ノ首の位置からしても、この弧が赤石新開形成後の旧海岸線でしょう。
 そうなると「カクン」(→前掲)の位置も気になってきます。あの位置は、多分、赤石新開の中央に当たると思えますから、元々川か水門かがあって、あまり土木技術のない時代に暗渠工事を行った跡、といったところではないかと想像されるからです。
 ただ、赤石新開の旧海岸線が、なぜ安芸南高校西の緑地として残り、かつ南の水域として残存しているのかは、十分理解できてません。普通の土木工事の発想だと暗渠にして埋めてしまいそうなのですけど──安芸南高校の敷地部の埋立時に何か経緯があったのでしょうか?