015-3海田\安芸郡四町\広島県onCovid

JR海田市駅まわりの窪地

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

▲日下橋まで 日下部橋から▼

田川橋交差点を出発地点に選びました。
 この橋は国道が花都川を跨ぐ地点です。1939(昭和14)年架橋〔後掲広島ぶらり散歩/海田川橋〕。市町村の行政区域で捉えると少し頭がこんがらがりますけど──橋の西が広島市安芸区(船越南)、東が海田町(窪町)になります。これは旧市町村のうち広島市に合併したものと合併を拒んだままのものが、モザイクを成している結果です。

海田川橋の位置
安芸郡域旧市町村と広島市への合併状況等〔後掲広島市〕

953、まずは東行。銀行通りの国道湾曲。
 この辺りはあちこちに窪地がある。地名がまさに「窪町」です。しかも単純に一面の窪地ではなくて、何重にも重なっています。堤防の名残り──ばかりとも思えない。元が複雑な岩礁地帯だったのでしょうか。
明神橋北東瀬野川沿いの窪地の店舗郡

の不思議な「地形」については、後掲「船越から」で地学的に分析されてました。
 中世以前から続いていた平均的な海岸線は、現・国道の南北に渡る位置まで。つまり現在残る「窪地」の方が元々の地表面です。この海側に、何代にも渡って堤防が造られ、盛り土された埋立地が開拓されつつ海岸線が南西へ押し下げられていった。その結果、機械力で地表面をかさ上げ出来なかった中世の地表面のみが、窪地として残されたのです。
 だから、この窪地自体が立派な史跡なのですけど……繰り返しですけどかなり複雑な分布で地理的に限定しにくい。それほどに、この地域の干拓は重層的に進められてきたことを物語る地形でもあります。
中世海田湾海岸線とこれへの直行各ラインのボーリング図

※後掲 安芸の船越から・・山陽道歴史探訪>瀬野川三角州と沿岸地形
URL:http://ww7.enjoy.ne.jp/~tfujise/seno/delta.html

高架下 減速せよ

野川を越える。この橋は明神橋という名らしい。1926(大正15)年架橋〔後掲広島ぶらり散歩/明神橋〕。──どこを明神と見ているものでしょうか?
 歩道はなく、拡げられないところや設計上の規模からも古い橋と物語る構造物です。

大正交差点地図

950、大正交差点。よく見ると何本交差してるのか分からない複雑な交差点です。重ね塗りされた都市計画の残痕と見るべきか。
 王将と青山の看板が見下ろし、東にはマックスバリューを備え商業的には中心地です。
 0956、海田大正町郵便局。この先の高架だらけのポイント、これがやや難儀です。
 讃岐屋の先で左折東行して小道に入ってみる。お好み焼きの寄り家発見!
 おおっ?上手く線路を越えたぞ!
マックスバリュー裏の踏切。奥が三八松浦

八松浦というお好み焼きもある。この辺、隠れメッカ、というか下町なんでしょか?
 1006、高架下に入りました。町の公共施設案内図があったので、覗き込む。ほぼ東西に直線で流れる瀬野川は、治水上から人の手が相当に加わってる。これに南から三迫川と唐谷川が流れこむ。二川はまず寺迫交番・海田町民センター付近で合流してから、瀬野川に石原橋地点で合流。二日市があったという日下橋(→後掲)の百mほど東方上流です。この5百mほど上流に、観音免公園という場所がある。この辺りが古い土地だと目測しました。
 高架下というか──高架が出来つつある工事現場でした。道路に「減速せよ」の文字。はいはい、ゆっくり行きますよ。
減速せよ!の高架下
同高架下位置図

はなみずき通りの湾曲

016、ad日の出町。少し雰囲気が転じてきました。問屋街と住宅地の中間という感じ。矢野東手の山塊が近づく。
 1019。右手に海田幼稚園&保育園。左手に海田町立図書館&海田町福祉センター&海田郵便局。マスク焼けしてきたので、人目のない折にはこまめにマスクは外していこう。
Walking qi-yue
場じみてきました。1024、ad月見町1の表示板から左折。ad南本町2。フジの手前に流行ってそうなお好み焼き2店。
 山の感じからしてもう近い。……いや?フジのベンチでGM.を確認すると、まだ大して行ってませんでした。海田の平地は坂や矢野より大きい。距離感が違います。
 しめた!食堂たわらが11時オープンらしい。
 この区画も変わった筆です。三日月状の筆が切り分けられてる感じ。側溝の配置や造りも古い。開発されてるにしては……奇妙な段差も目立つ。古い町を再開発したんでしょか?

三日月弧を描くはなみずき通り

の北北東に西浜という地名が残り、さらに行くと住吉神社。どうもこの湾曲・はなみずき通りが、古くは浜だったのではないでしょうか?
 食堂たわらで飯にする。
 1130、食後再起動。はなみずき通を北東へ動く。
ただ左手北西は一戸建ての居住区。右手南東はもっとマンションだらけでした。
ただ……奇妙な段差は随所に残ります。
はなみずき通りの奇妙な段差

坂を越えたらチビっ子公園

の尾根が切れた。そろそろです。山際に神社らしきものは見えない。
 1148、バス停・海田南小学校入口。その先、海田中学校前交差点を右折。ad大立町10。東左手は1。
 一気に急坂。え?いいのかホントにこっちで?

どこまで登るか三迫坂

田南小学校を過ぎad三迫。どっ……?どこまで上がるんだ?
 1158、T字路。ようやくトップ。左折北行か?いや右折して川沿いを行くか?
 谷に響く正午の鐘を聞く。
林道終点の石燈籠

折とする。バス停・三迫団地。ad三迫一丁目9。林道串掛線終点表示横に石燈籠。
 S字を過ぎ、ようやくようやく道が下り初めました。
 ひまわりタウンちびっこ公園というフザけた空地。ダメだ、少しベンチに座ろう。
 この南に田懸神社という、愛知の神社と同名の小社がある。移民がいたのかもしれない。
ちびっこ公園の石垣

びっこ公園の西側に石垣。ちぐはぐな継ぎ足しが見えます。おそらく元は古い。
 1214、バス停・西自治会館前。同会館の向こうが川でした。
 左折して北へ。町の避難場所地図を覗くとこれが三迫川でした。

晴天 三迫川東沿道

三迫川から瀬野川へのマップ

まりここまでの行程では、海田川と三迫川を分かつ高台を越えてきたことになります。
 無駄と言えば無駄な疲労ですけどね。
三迫川の下流をのぞむ。

迫川右岸の歩道を行くことに。ad三迫二丁目6。
 好い川道です。
 晴天雲無。
三迫川東沿道から上流を振り返って

岸には石垣にコンクリを何重にも重ねてあり、時折古い石垣が露出する。古くから治水に留意されてきた川なのだと推測されます。
三迫川東沿道には小花が咲く

どかな川辺です。
 ただよく見ると、沿線の筆の凹凸が激しい。川岸の筋が再々変わったか、流されたか崩れかした可能性があります。つまり相当に暴れ川だったのではないか。

ただ枇杷一本の立つ

川底に露出する古い石段

231。わざわざ川を向かせた地蔵菩薩と、四つ石重ねの無記名の祠2基。郵便局と、三迫へ登る小道の向かいでした。
四ツ石の御神体

dは稲葉5になりましたた。先の2柱は境神でもあったのでしょうか?
 川向こうに先ほど越えてきた丘が、まだ続いています。頂上部まで住宅の姿が見えます。
二柱から三迫の丘を見上げる


迫公園(→GM.∶地点)対面。1238。
 北の山肌が近づき、平地と田畑が増す。合流点が近いのでしょう。東側に川の気配もあります。
東に川の近づく気配
北の高架(東広島道路)が近づく

岸の道が、ふいに途切れて左手へ移る。そりゃそうか、このまま行くと合流点です。
 1244、物語りじみた枇杷の樹木。日差しが強い。
物語りじみた枇杷一本

御鷹野橋から日下橋

土真宗本願寺派長谷寺。1246。東海田幼稚園併設。
 左岸の古いアパート前に1mを超す段差。1248。

長谷寺の脇アパートの窪地

架下手前に中島橋。川のY字の中島側を指すものでしょう。ただ中島側はマンションが建ち、段差や道は開発され尽くしてる模様。
 左折して、高架下の車道を北へ渡る。
 ここに巨大な石燈籠。再建は昭和だけれど元は文政と書かれる。Y字を指すものでしょう。
 目標にしてきた住吉神社を通り過ぎた形ですけど、そのまま川に沿おう。左岸に寺迫交番。広島国際学院中高が見えてきた。文化祭か何かやっとるようです。
1309日下橋を見る

野川に至る。1304。
 信号の歩道を渡り、1307、一旦川を渡る。先の交差点名は石原橋(→GM.∶地点)、橋の看板には「御鷹野橋」とある。すると日下橋(→後掲)は一つ下流のあの橋だろう。1308、一応撮影。
 石原公園を右に見て過ぐ。
石原11辺りの町並み

山第一踏切を渡るとad石原11。
 対面のT字を左折して裏道を進む。T字向かいはad6と7。

日下橋と蟹原自治会掲示板

1322石原6・7付近の裏道

手山側に「常本天神道 一丁」の石柱。古くはない。道を挟んでは「永山信楽墓 江 二(丁)」(カッコはコンクリに埋もれてる)。
 1324ad成本13。バス停成本。
 何らの痕跡も見つからない。
踏切にて

留島内科の道から線路をもう一度越えると、ほぼぴったり日下橋に出ました。
 対岸南側の庇が古そうに見えます。日下橋を南へ渡り直すことに。──渡った限り、日下橋そのもの又は周辺にはさほど変わったものはありません。
住宅地図の日下橋南口Y字

バス停・日下橋そばに住宅地図を見つける。1333。
 日下橋から不思議なY字の路地が伸びてます。この西側を通ってみよう。
 ad蟹原一丁目1。いや?ここは浄水場になってるぞ?
 いやいや、ここしかないはずです。菊川皮ふ科医院が見えた手前で右折。入口に蟹原自治会掲示板。
蟹原一丁目、僅かなる痕跡

ただ市頭の踏切を渡る

沿いへ方向転換。
 ここにもあまり目を引くものはありませんでした。ただ──

蟹原住居面から堤防への登り

る細道に、僅かに水路と石垣の痕。
 川の堤と住居面は3m弱の段差がある。かなりの大工事をして治水していると思われます。
「ひのうらばし」から海田中心街

のうらばし」で三度瀬野川を渡り、北岸に戻る。1346。
──のんびりするには確かに良い川辺で、疫情下につき……と言うべきか、ベンチのほとんどは埋まってます。
 1350ad上市19。やはり線路をもう一度渡っとくか。
 この川岸に無記名の祠。この辺りがそろそろ、瀬野川の旧流域の近づく辺りだと思います。
市頭踏切。奥が橋北口の無名祠

頭(いちがしら)第一踏切を渡りT字を左折。1353。──この「市頭」という地名は、まず間違いなくこの地に古く立った「市」の名残りでしょう。ただ角川その他にヒットはありません。
 旧家が数軒並ぶ界隈あり。

つぶらな瞳と長い夕方

田町役場がちらりと見えたところで、山手に折れてみる。ad上市4。
 金ぴか観音の下、神社の裏手に出ました。「日浦山遊歩道」看板によると右手が熊野神社、左手がひまわり観音(薬師禅寺)とある。
熊野神社に入ることに。1403。
 年代はないけれど海田町じゃなく「海田市町」名の奉献碑あり。

「海田市町」銘の碑

野神社の表参道が、まっすぐ海田町役場に続いてました。せ、政教分離は?──という話に現代ならなるでしょうから、ならない時代の筆配置だと予想します。
熊野神社の真下は海田町役場

まり聞かないけれど……安芸郡ってそんなに、そんなだってのか?ここにもドガンと二千六百年記念植樹碑が供えられてます。
 つぶらな瞳の亀さん。

※このエリアは、徳川幕府が参勤交代制の確立のため街道を整備した際に整備した本陣に当たる。1699(元禄12)年頃に本陣のほか問屋場、旅籠など宿場町の体裁が整ったという。この江戸期、現・熊野神社は宿場町海田市の氏神として「新宮社」と呼ばれたけれど、1873(明治6)年に現社号に改めた〔海田恵比須神社由来←後掲ぶらっと散歩〕。「新宮」とは、岩瀧神社ラインの山際の熊野社を本宮とする号でしょう。

つぶらな瞳の亀さん

R海田市駅1437発で坂へ。確か、たった2駅隣なんで、昨日見つけた洋菓子屋へお出かけしたのです。
 ところが、どうも人身事故があったらしい。坂から海田のたった2駅の列車が来たのは……16時をかなり過ぎてから。
 しかもそれから三八松浦にお好み焼き買いにいったら──これが「17時35分頃に取りに来て」と可愛いい店員の娘様がニッコリ。でも……海田って時間潰すところがないんだよなあ。
中世海田の海岸線

■レポ:中世海田の海岸線

 今川了俊※は、1371(応安4)年に九州探題として駿河から進駐しました。前期倭寇の首領説もある菊地や少弐氏を松浦党などの支援も得て下し、九州を平定した武将です。

※今川貞世、法名が了俊。1326(嘉暦元)年生-1420(応永27)年没

 この人が軍を率いる道中を書いた紀行が「道行きぶり」ですけど、その中に安芸海田浦に逗留した時期の記事が残され、「海田」の地名が記されます。了俊はなぜかここに約二十日滞在してます。

晦日は海田とかやいふ浦に着きぬ。南には深山重なりたり、麓に入海の干潟はるばると見え、北の山際に所々家あり。
 ここに廿日ばかりとどまりて、長月の十九日の有明の月に出でて潮干の浜を行くほど、なにとなくおもしろし。
 さて、佐西の浦に着きぬ。廿日は厳島に詣で(略)

※ 安芸の船越から 山陽道歴史探訪>「道行きぶり」の中の海田
 この時の了俊の海田宿所は、当時の瀬野川河口の近く、二日市(現・日下橋)山側の湾北岸と推定されています。従って本編の行程は、ここを目標にしました。
「南には深山重なりたり」とは矢野・坂の側の山並みを、「麓に入海の干潟はるばると見え」とは当時の瀬野川河口の遠浅の海の情景を描くものでしょう。さらに「北の山際に所々家あり」というのが、船越など現・海田市駅山側のまだ小さかった集落を指すものと思われます。

海田-佐西間の行程

 さて「船越から」が問題にするのは、そこから記事が佐西浦(現・廿日市)と厳島に飛んでいる点です。
「長月の十九日の有明の月に出でて潮干の浜を行く」を、通説では明け方早くに出立して、太田川河口の浜を横断した、と読むらしい。けれど「船越から」は当時の太田川河口の浜を横断する道はないし、そんな悪路を明るくならないうちに踏破するのはナンセンスと見て、了俊軍は水軍編成で海路、佐西浦に入ったと見ます。
 明察でしょう。海田=瀬野川河口に入ったこと自体が水軍を想像させますし、その後の行動パターンからも陸路や陸兵に固執するとは思えない。
 当時の地理としても、海田から厳島方面への交通は、「府中湾」と太田川デルタが十分に干拓・陸地化されるまで陸路で横断できるものではなかったでしょう。
「船越から」は太田川デルタの「海岸線」=河口部を、平和大通り付近と推測しています。ただ、当時の平和大通りエリアは、陸路の交通が可能な陸地としてではなく、湿地又は砂州の状態です。
 武田氏が本拠にした祇園から平和大通りまでの広大なデルタが、江戸期までは多島海の状態で放置されており、当然そこは海と船の世界だったと考えられるわけです。
 もっとも江戸期と言っても、その大半は海の時代でした。──例えば、浅野時代の主外港・江波港は19C初めまでそもそも広島城下と陸続きではありません。デルタ最南部まで干拓が完成する時代まで、城下から江波への輸送は川舟が行っていました。