GM.(経路)
目録
新田八幡宮 春は華やいで
正午のチャイムが流れ終えた、下甑町手打の微高地を北東へ歩く。
唐突に、道がT字で途絶える。左折、さらに左折し南西行して新田八幡宮へ。
尚、この地点付近は地理院地図とGM.(Googleマップ)で全く異なる描き方がしてあります。多分私道が多いのでしょう。道の配置はおろか、川筋も違ってますから、スマホの位置情報があってもかえって迷うばかりにて──ワシ同様にふらりと立ち寄る方は、勘だけが頼りと思ってお立ち寄り下さい。
神社入口左手高台に忠魂碑。大東亜戦争戦歿者之碑でした。
宮は東向き。つまり海に向いてるわけじゃない。
由来
小川氏領地の時勧請すといわれ大永三年(西暦1526年)小川伊勢守 天文四年(西暦1535年)小川豊千代丸 修造の棟札を蔵む,往古は下甑の総廟であった。(略)側之宮に六王大明神を祀る。〔案内板〕
六王大明神──平良でも聞いたこの神が祀られるということは、廃仏毀釈での仏の避難場所だったかもしれません。
裏手には遊具のある公園。トイレもあるけど、案内書きにある側之宮は見つかりません。
探してたら──あれれ?元の墓の道に戻ってました。どう歩いたんてしょう?
まあ宜しい。1226、東行。
先のT字を右折。
空き地から海辺のバスと海と天
墓に二つ、天保と文政と読めるものあり。
1232、JAバンク。海に出る。左折東行。バス停・大原。
1237、出光のガソリンスタンド。この辺で集落の繋がりは絶えている感じです。つまり元の集落・本町と港町との境ベルトらしい。
1240、松下川を越える。──これも現地の橋桁の銘で、GM.上では確認できませんけど、地理院地図ではそれらしい川筋があります。
麓というのはこの辺を指すようです。町からはあまり感じ取れませんけど、二つの川に挟まれた高地、戦術的にはやや要地の色彩を帯びてます。
岸の石積みが見えるけれどそう古くはない。
バス停・手打小学校前。手打地区コミュニティセンター。
左折。石垣の通りに出ました。
下甑郷土館。一時はここを当てにしてたけど──スルー。どうも民俗資料の説明を延々聞かされそう。
「じょうばし」上流は両岸完全コンクリだけど、海側だけ角石の石垣。文化的景観として現代に再現したものでしょう。
真宗大谷派大照寺(→GM.)。
入口左脇の古い立像の首が落とされたのを、漆喰で固めて補修してありました。右脇のは顔面が削がれたらしく、無理に目鼻が入れてあるのが痛々しい。
八淵蟠龍の住んでた法雲寺
下甑支所。1255。
手打の浜は,手打集落がラグーンの砂洲上に伸びて行ったあとに出来たものと考えられます。そうすると後ろの畑地は後代まで湖沼だったことになる。
1258。手打で初めて見る信号機──と当時メモしてるけど、どうやら島で唯一の最新インフラらしい。何とwikiにも掲載があり、1982(昭和57)年設置〔wiki/下甑町手打〕。
「おふくろさん」の歌碑。──碑の前に立つと自動で歌が流れる、なかなかの迷惑な機能付き。森進一のお母様が下甑出身、というだけの設置理由という。
津口番所跡1kmの案内板。さらに東行。
手打郵便局。
1308、法雲寺。入口右手に「開基 嶺雲院釋蟠龍八淵師之碑」側面に「……嘉○元年生干肥後○坂村……」とある。中国人だろうか?
※※渡米した4人は土宜法龍(真言宗各派連合総裁)、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)、芦津実全(天台宗)のほか、八淵蟠龍。残りの2人・島地黙雷と南条文雄は欠席。

原典:Neely’s History Of The Parliament Of Religions And Religious Congresses At The World’s Columbian Expositionより
スナック街から港 手打津口へ
スナックしづ、グループホームこうらく園、その向こうは──え?港?
東から入って、砂洲の裏に接続するという意外な立地でした。1319。
1321──あった。津口番所跡。──イメージ再現だけだけど。
(略)下甑では,津口番所,異国船番所として手打津口(港)に置かれていた。(略)[案内板]
ここも、平良ほどではないけれど──港の位置が分かりにくいことは実感できます。だって浜のすぐ裏に船着きがあると、普通思うだろうか?
ただ、岸壁の石積みはごく一部にしかない。残存してるものも、さして古くはなさそうです。
けれどここも、つまり平良と同様に、外海側には古そうな石積みが見えます。
直接の用途に差し障らないから放置した部分──だとすれば、元々は内側もこうした景観だったことになります。
もう少しでおふくろさんだから
船着き南岸、蛭子神社へ。1336。
規模は小さい。東面、つまり船着きの湾の奥から湾口を向く。──これは、平良の水神社と似ます。
榊の供えあり。側に屋根だけになった祠。
集落内を通って折り返す。1347。
下甑村離島住民生活センター。この位置が西の砂浜と東の船着きの間の狭い部分の北端の辺りになります。平良と違って、けれども実景観としても配置としても古さは感じられません。
1356丁度、手打津口への坂道のトップに当たる場所の高みに至る。
古樹。その北側、ヨスミ建設隣に祠あり。
石の神像。
祠は、網で覆われた横長のコンクリの箱。古くはないけれど、昔からあったものと感じられます。ただ、供え物はない。
祀られ方が、明らかに沖縄に似てます。
子連れの父親が「もう少しで『おふくろさん』だからね」とグズる子どもに説明してます。それ、地元では地名化しとるのか?
1406、力尽きた。郵便局裏の海岸に座る。空にはまだ雲があります。でも風が心地よい。
浜では、子供連れがけたたましく遊んどる。1416、うたたねしてた。残り80分。戻ろう。
地頭仮屋で政治を行わしめた
支所前に「閉村記念碑」。平16づけ。
1426。
その脇に「甑島地頭仮屋跡」の看板がありました。
一、承久の変(西暦1221年)後、小川氏が甑島を領有して十三代四百余年の治所跡である。
二、文禄年中(西暦1595年)島津氏の統治となり曽木甚右衛門・酒匂兵右衛門が代官として駐在した代官所跡である。
三、慶長十六年(西暦1611年)島津氏は、本田伊賀守を初代甑島地頭に任じ爾来二十三代にわたって移地頭を置き統治した地頭仮屋跡である。
四、天明四年(西暦1784年)四月、それまでは薩摩藩の一外城であったが、薩摩藩の外城が「鄕」に改称されたことに伴い甑島鄕となった。
五、下甑各集落、名所、旧跡の方位(十干・十二支・方位)と距離(里・町・間)を標示する原点であった。
平成十二年六月一日
薩摩川内市教育委員会
ただし現物はない。
けれど確かに、石垣だけを見ると……生活道にこれだけの丸石垣が残ってるのは、凄いことではあります。
地頭「仮」屋跡という名称は珍しい。隣のもう一枚の市教委案内には──
江戸時代初期、薩摩藩には八十七の郷があり、甑島郷もその一つでした。各郷には地頭が任命され、役所(地頭仮屋)が置かれ、その周りに武士の集落(麓)がつくられていました。
これを外城制といいます。甑島郷には、慶長十六年(一六一一年)甑島移地頭が任命され、元和五年(一六一九年)本田伊賀守が初めて来島しました。
薩摩藩は以来三十数代の地頭で甑島郷を直轄地として治めましたが、地頭仮屋は、里・手打・中甑にあり、地頭は里から中甑そして手打と居場所を変えていったと考えられます。〔案内板〕
と「移地頭」という語も使われます。最後部にあるように、居場所を変えていったらしい。また、その初代「本田伊賀守」は、最低でも八年間、「着任拒否」していたようです。かつ、この時期は、薩摩の琉球侵攻(1609年)の直後の時代。何らか、もう一枚裏があるとしか思えない状況です。
今一つ、手打のコミュニティ協議会のHP記述も示します。これも思わせぶりな記述をしてます。──「政治」という言葉は具体に何を含意するのでしょう?
現在の薩摩川内市下甑支所の所在地が旧甑島地頭仮屋跡である。
地頭政治
甑島は、古来異国船の漂着あるいは来舶地であったことと、長崎来航の支那、オランダ船の航路に接近していることなどで、警備の必要もあることから、甑島地頭に任じ政治を行わしめた。
下甑郷土誌より〔後掲手打地区コミュニティ協議会〕
煙草を買っておこうかと思い、借り物競争的に中心部を歩いてみたけれど──タバコどころではない。売店に類する店がない。皆無です。閉店してる店はありましたけど……これだけの規模であれ、人口密度的にコンビニもどこも出店しないんでしょうか?
甘く見てたらしい。昨日タバコを溜め買いすべきだったか……。
1501。ミニバスが走ってきたからドキリとしたけど──とうやら車庫に車を入れてご休憩らしい。手打港の魚釣りでは、流石に手持ち無沙汰なんでしょうかね。
北帰行 長浜過ぎてナポレオン
1537、定刻発車。
1541。山手に入ったと思ったら──バック?小泊という集落の施設に来たらしい。この海側の公園奥に神社。記名確認できず。
1543、本町。凄い細道を辿る。支所周辺と集落の筆の密度が全然違うのです。こちらには地形的に深い港は開けないはずなのに……。
奥の平地はごく一部が田んぼですけど、後は荒地。
1600長浜港。ここで一度150円払って乗換券を貰うと、鹿島まで行ける。鹿島で別バスに乗り換えて里、というシステムらしい。
長浜港前をうろつきながら人の流れ……と言ってもほとんど人がいないけど……を見てると中川酒店という売店があった。ここでタバコ(セブンスター)を売ってたので、今日は二箱購入。集落に一、二箇所しかないらしく、煙草吸いはこれを押えておく必要がある。
高速船が着いた。このバスはそれを待っているらしい。この船に乗れば里に帰れるけれど、帰路は陸路縦断をやってみたい。長浜からは山越えで鹿島まで到るはずです。
──結局,高速船からは誰も乗ってこないまま発車となる。つまり車内は一人。やはり3台同時発車。1630。
ちなみにもう一台は、野の浦行きと書いてありました。
道路脇でバーベキューセットを広げたお家。
「ナポレオン岩10km」の標識。
登る。海上を走り去る高速艇を見る。
1635、越地という集落へ降りる。完全一車線。はるか下に集落が見えた。海から三列ほどの家屋の列。砂浜あり。
1638、バックして折返し。同じ道を引き返して山越えルートへ。長浜港が見えてるけど海際は崖、確かに道は造れない。
途中に越地花公園という手づくり菜園。
本道も一車線になりました。対向車がある毎に譲り合い。
乗換えたバス 蘭牟田を見つけた
切り通しだらけで景色は時折しか見えない。でもその時折に見えるのは──絶景。
かなり飛ばしてる。道幅は一車線だぞ?対向車をどう察知してるんじゃ?
山容の斜面は平均して45度ほど。
1545、トンネル※。ここだけ流石に片側一車線。 ※地理院地図によると芦原トンネル
1分ほどで出る。今度はぐんぐん下る。カーブの連続なんてもんじゃない。ジェットコースターです。
対向車。急ブレーキ。──察知してねーじゃねえか……。
水平線──がおぼろに一瞬現れる。
アナウンス,次は「はやしかわはら」?──ええッ??どこに集落が作れる?
西の海が見えた。奇岩だらけ。東の海も見えてます。凄い地形です。海上に引かれた線の上を動いてるイメージを浮かべる。
1654、東にも海。すぐに西の海。ここに道路造ろうと思ったのは度胸に感服。金をかけてるだけに、道は片側一車線の本格道に。スピードはさらに上がる。
「平田牧場」という看板──ここに?とメモしてますけど、そういう試みもあるらしい。
西の海……いや東の海か?1657。うねり続ける道に方向感覚を失いかけてます。
あれ?下ってるぞ?
集落。ここもラグーンらしい。小牟田。(巻末参照)
真っ直ぐな水平線──から視線を巡らせていくと──あ!橋が見えた!(またまた巻末参照)
蘭牟田。小牟田より深い集落に見えます。港もある。ここは歩いてもいいかも?
鹿島、というバス停はこの蘭牟田のことでした。バスからバスへ。もちろん客は一人。1702。
橋渡る朝か夕かの大明神
直ぐにトンネル。──これが鹿島トンネル。
抜けると、直ぐに甑大橋!
凄い……というか怖い。海の上を飛んでる感じだぞ?片側一車線。
下は岩礁だらけ。左右に水平線。
その先にまたトンネルが口を開けてます。人間の領域外のようなルートです。
トンネル内で一台の対向車とすれ違う。
1707。これで中甑に入りました。再びトンネル。今度は長い!それでも対向車無し。
これ……上下甑島を陸路で結ぶのに物凄い金をかけてるぞ?
総延長:L = 5.1km(鹿島町閤牟田~上甑町平良)
事業期間:平成18年度~令和2年度総事業轡:約320億円
工事内容:
鹿島トンネル L=497m
甑大橋 L=1,533m
黒浜トンネル L=587m
平良トンネル L=1,674m
〔後掲薩摩川内市〕※単位は引用者がアルファベットに変換した。
※県・市によると最大支間長165mは北海道の平原大橋に次ぐ国内第二位
集落へ折れる。1710。
あんまりにも人間離れした車窓から、これまた突然に人里が現れたので、どうも現実味がないけど──間違いない、平良です。昨日の待合所。
ここで反転。乗客なし。
この後、鹿の子大橋や甑大明神を通過してるはずですけど──
──もう乗換えなくてよい、という安堵感は大変大きくて、うとうとしながらバスに揺られてしまいました。
1737、里帰着。ふい〜。
■レポ:甑の光景断章三編
甑島は、アフリカのようでした。凄まじく自然が立ち上がるのに、その実はどうにも捉えようがない。
あまりにも具体のヒットが少ないので──発展的に論じれるだけの土地勘のある方のために、地理的な観点から気になった諸点をまとめてます。
小牟田池の址
この日の帰路に薩摩川内市鹿島町蘭牟田の小牟田で見た「クリーク」はGM.上では確認できませんけど(→GM.)、地理院地図上には次のように(→地理院地図)「14.0」水準地の東に確かに存在します。
周囲の地形からして、これはかつての湾入の跡と仮定して無理はないてしょう。
wiki/蘭牟田には、「蘭牟田集落付近の1977年ごろの航空写真」が掲載されています。驚いたことに、この写真では「小牟田池」の半ばがまだ水をたたえていたようののです。下記は地理院地図で、年代別地図∶1974-78年空中写真の設定で出る画像です。
wikiには、他に小牟田に関し、次の悲惨な歴史も記されていました。
1951年(昭和26年)に発生したルース台風では、小牟田集落の家屋が全滅し、死者1名、重傷者3名の被害を受けた[45]。〔wiki/蘭牟田/歴史/鹿島村設置以降の藺牟田〕
※※鹿島村郷土誌編集委員会『鹿島村郷土誌』鹿島村、1982年。
なお、角川日本地名大辞典による蘭牟田の小字は次のとおり。
、花瀬、横瀬、横瀬次、瀬戸道、瀬戸
、亘浜、屋志迫、屋志迫次、夜萩、大迫
、尾屋頭、屋敷平、板尾崎、城山平、西城山平
、蘭落、松之下、牟田、新田、宮田
、塩釜、鹿島、尾崎道、柳川、柳川上
、柳川南平下、柳川上南平、松崎上、松崎川、沖迫
、松崎、二田尾、牟田頭、丸山、下蘭落
、三本迫、西亥風、中亥風、下亥風、尾野尻
、池頭、津瀬道、池之平、脇之田、中脇之田
、小牟田道、小牟田、小牟田中、小牟田池、隠迫
、寺田之尻、里道、寺家道、寺家、鶴穴
、下寺家、中山、中山下、吹切、林川原
、大崩、岩島
67小字中、同一地名の分化と目されるものが幾つかあります。小牟田はそのうちでは最も分化数が多い。つまり、ある時点までは蘭牟田で最もメジャーな集落群を形成した可能性があります。
ただ、これ以上はデータが皆無です。
蘭牟田・鹿島神社沖から瀬戸への視線
本文中の蘭牟田通過時に、蘭牟田集落に入る前に甑大橋が見えたと記しました。Googleアースでシュミレーションしてみると、次のとおり確かに見えます。
甑島中央域の糸状の陸地の連なりを実感出来る一例ですけど、同時に中甑南北の実見しないと理解できない眺望の実例でもあります。上記の視線でも、地図上は平瀬崎が邪魔をして橋は見えないようにも見えますけど、この岬の標高は意外に低く、かつ甑大橋面が高いのです。 ※路面は海底から56.5m、水面から平均23m〔後掲こころ、かごしまの旅〕。
このことから、さらに進んで、海賊の待伏せ場所としての蘭牟田の優位性、のようなものを言えそうな気がして集めたデータですけど──やはりそこまでは材料不足でした。
異国船遠見船兼鰯漁船
現在、甑島漁業の代表的な魚種はキビナゴ、マダイ、ヒラメ、アワビ、カジキということになってます〔後掲全国漁業協同組合連合会〕。ただ、釣りとしてはメジナ(クチブトメジナとオナガメジナ)が人気らしく、全般的に魚はよく穫れるみたい。
どの辺りの時代か分からないけれど、鰹節の産地として鳴らした時代もあるようです。
甑島はまた,串木野,坊泊,屋久島とならんで,鰹節の主産地であった。伝承されるところでは,鰹漁業の最盛期は元禄時代であったといわれ,明治の初めまで,各浦には元締(船主)がいて,二十乗り以上の大船で餌取船をひきいて手打南方八マイル(約十三粁)の鷹島およびツクラ瀬,宇治群島,草垣島などに出漁していたと(い※)う。薩摩藩は異国船遠見を兼ねて,鰯漁船の建造に金を貸し,漁業を奨励したので、これが鰹漁業の発展に貢献したといわれている。[郷土史編集委員会「郷土史 上甑村平良」平良小中学校PTA会長,昭45。以下「郷土史」という。p6-7 ※引用者追記]
鰹漁振興と異国船警戒網の関連説は初めて聞きます。これも一次史料ではなく伝承でしょうか。
そもそもこのデータは、甑島で江戸期の対外輸出甩海産物、いわゆる俵物が採れた、という可能性を確認しようとしたものですけど──このアプローチも、要は甑島で穫れる魚が多すぎて……ちょっと話がまとまりそうにない。
ただ、上記引用中の手打南方沖の地名は、全て現在でも確認できます。