D 今治西「なぜビビンバ?」幸田「あくまで具の一つ。生卵は月見立てなのにあえて突いている面白さ」今治西「突く勢いが『かな』で死んでいる」幸田「突いた残念さを良夜でまろやかに」
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レイズしました、 遮二無二歩くうち 真珠道を見つけた当の出発点・与儀に戻ってきたのでした。 あぎじゃびよ〜! |
支出1300/収入1350
▼13.0[①044]
負債 50/
[前日累計]
利益 -/負債 207
十一月十九日(六)
1103すずらん食堂
Aランチ750
1656やぎ料理 はな
やぎ汁450
2000白バラ洋菓子店
マーブルロール250
[前日日計]
支出1300/収入1450
▼13.0[①045]
負債 100/
[前日累計]
利益 -/負債 107
十一月二十日(天)
目録
昨日とは違う速さで今朝の秋
〇904、準備を済ませて出走。──昨夜は横になるや爆睡してしまって何もできまへんでしたのでね。
0920、開南から2番バスに乗る(→GM.∶行程)。那覇バスは時刻表がまるであてにならんらしい。
おおっ!ラッシュの昨夕とは全く違うスピードじゃ!与儀十字路から寄宮,0926、長田二丁目下車。
それでと……昨日の白バラ洋菓子店対面の坂へ入る(→地理院地図)。ad.識名三丁目1。

容赦なき登り坂ゆえ椎拾う
こりゃまた……いきなり、容赦のない登り坂じゃのう!朝イチには勘弁してくれんかのう。

ad.一丁目15。へっ?突然平坦になりましたけど?何て地形だ?(→地理院地図)

少し目を引いて、標高図を見ると分かります。三原三丁目〜長田二丁目の南北ラインに、古い断層が通ってます。この時の坂は、それを登った道だったらしい。
あ、右手が一丁目、左手が三丁目か。


「今ゴミを捨てたね。」な識名自治会’98掲示板先の食い違い十字路を、そのまま進みます。
蒼き壁 何時実りしか万年青の実

〇941ad.識名三丁目4。やはり右手は一丁目、ad.16。

その先の工事現場から右折してみる。0945。ad.識名三丁目4(→地理院地図)。

階段の路地道でした。進む。


〇948、アスファルト道に出ました。ad.三丁目8(→地理院地図)。左折北行。

積乱雲ギラリと抜き秋の朝
見事なアカバナが、なぜかあちこちに多い。瓦も目立ちます。

ad.三丁目6でT字路。急坂に交わる。左折(→地理院地図)。

──凄い雲が、半ば逆光で撮れてます。
──この朝の行程は、こういう何でもないのにギラリと抜き身、という風景の連続でした。
0954。米屋のT字路(→地理院地図)を左折。ぱっと見はそう見えないけど、ここを曲がらないと川の西側=大石公園側に入れないはずです。

暹羅猫が一匹。曲がり角から睨んでます。
昨日は北縁を通った大石公園が気になって来てみましたけど……この「ヌシ猫」が見張ってるというのは、やはり霊域なのでしょうか?

大石公園 猫の守る無縁墓

ここから右折。真っ直ぐの水路沿いはやはり行止り。シャム猫地点近くに戻って左折、大石公園へ。
「この地域にあるお墓は事業の支障となりますので所有者及び関係者は至急下記までご連絡ください 那覇市役所建設港湾部」──要するに無縁墓が多過ぎて売買か進まないらしい。

WCを借りまして、ゲートボールの槌音を聞きつつ園内路を行く。川音も微かに聞こえる。
1010、見下ろして一枚。

左手岩から下へ。園内階段──だよなこれ?どっかの山に迷ってないよな?


マンションエデン 朝露 九月七日
沖縄戦における一般住民の死者は公式統計では94,000人余、軍人の死者とほぼ同数となっているが、壕の追い出し、食糧強奪による餓死、スパイ容疑による虐殺、自決の強要、傷病死など沖縄戦の犠牲者は15万人を上回るといわれている。
沖縄市では降伏調印が行われた9月7日を沖縄市民平和の日とし、二度と戦争を繰り返さず、後世へ平和を継承していく事を目的に平成5年に「沖縄市民平和の日を定める条例」及び「平和月間等に関する規則」を制定した。」〔後掲広報おきなわ〕
1017、昨日の大石公園東側。
昨日の道を少し南下しヘアーサロンみや(→GM.)の対面を左折。1023。
マンションエデン三原!!(→GM.)

エデンを謳う楽園なのに、子どもが遊ぶととても危険な駐車場がある。いや別にあっても宜しいけれど、何か微妙に変なアパート。

緩い下り坂。
──何となく印象に残ったこの道は、先の南北微高地の尾根から北縁へ降りる道てした。

換言するなら、この日の行程は三原3-長田2南北微高地ラインに沿って歩いたことになりました。地盤から開発しにくいエリアが、このベルトに残った……ということでしょうか?
真珠道に対しては、この微高地軸はT字を成す形になります。もしかすると、北の与儀と南の国場・真珠橋への分岐だったのでしょうか?
たむろ禁止ピクトさんと指輪なる

1033、車道(→地理院地図)に出て左折。

バス停・三原三丁目。
たむろ禁止貼紙?
え?──たむろ禁止のマークまで作ってる!


ファミマの向こうに「みはら弁当」。何と、辺野古・まるみつ食堂と同じ100円そばがある!それに凄い数の弁当!
──後で調べると、評価は多彩ながらとにかく安くて量がある。良くも悪くも沖縄の弁当屋さんです。いつか馬鹿食いしたい時に買ってみたいので、それまで続いてて欲しいなあ。

■レポ:那覇三原何をも鬼ならハミはな
※ハミ∶マムシの方言
どこを訪れても平安に過ごさせてくれない沖縄の中でも、いつどの状況で通っても変に印象深いのが、那覇三原です。でも、調べても全然ヒットがないエリアでした。
今回、小笠原さんという沖縄大学の地域研究者の論文で、やっとそのホールドを掴むことが出来ましたので、以下メモしておきます。

真和志→安里→大道→三原
もとは真和志村安里の一部から出た大道という集落の、さらに一部が戦後になって「三原」の地名が生まれ、何度かの変遷を経て定着した……という複雑な推移を辿ってます。単純に言うと、米軍統治下で生まれた新しい集落です、
まず、大道が安里から、1920(大正9)年に分離します。
はじめ真和志(まわし)村,昭和28年真和志市,同32年からは那覇(なは)市の字。もとは真和志村安里の一部。行政字としての成立は,大正9年といわれる。地籍字として成立した年度は未詳だが,戦後のことと思われる。(略)昭和5年大道園芸組合が設立されるなど,トマト・トウガン・ニンニクなどの畑作地帯であった。〔角川日本地名大辞典/大道【だいどう】〕
大道からの三原分離の前史として本質的だったのは、戦時・戦後の集団移住と復帰、その後の人口急増です。大道の人口は、何と30年で31.2倍に増えてます。
※1947(昭和22)年∶452人→1977(昭和52)年14,103人 なお2021年∶6,466人
戦後,住民は摩文仁(まぶに)村内に集結し,のち豊見城(とみぐすく)村内に移動。暫定行政区となる。当時の戸数122・人口452。昭和22年に帰住した。昭和44年の漁業戸数19。事業所数は,昭和45年658,同47年645,同53年690。一部が,同55年三原1~3丁目,同57年松川1~2丁目となる。世帯・人口は,昭和45年4,219・1万6,588,同52年3,978・1万4,103。〔角川日本地名大辞典/大道【だいどう】〕
「人口30倍」の背景がどうもよく分かりません。米軍から早くに返還された土地ではあったようですけど、下記の小笠原さんの記述では住み良い土地だったように書かれません。
三原は戦前、大道地域に組み込まれており、当時は大道前の原(だいどうまえのはら)という名称だった(23)。当時の大道前の原は30世帯程で、田畑を耕し生計を立てる家がほとんどであったが、村で運営する製糖工場もあった。(略)
終戦となり三原を包括する真和志村は米軍占領化となっており、立ち入り禁止地域に該当したため、住民らは家へ帰ることができなかった。1946年4月には豊見城へ移動し、8月には小禄、真和志への住民移動許可が出されたことで続々と村民が自らの地域に戻り、1947年6月には全ての村民が移動を終えている(24)。
だが、大道前の原(三原)に戻っても、ほとんどは米軍の燃料、脂類の集積所となっており、そこでは米兵の厳重な警備の中で怖々しく農作業を行うこととなる。その後、しばらくして軍用地が解放されるも、そこは農耕地の様相をなくした土地となっていたのである。〔後掲小笠原、7枚目p47〕
24 新垣清輝「真和志市誌2/2」(1956)266頁
三原=3つの「x原」連合区
かくして三原という地名が行政上、1949(昭和24)年に誕生します。……原という地名がたまたま三つあったから、という由来です。
1947年には台風に襲われ、木造建ての多くの家々は吹き飛ばされてしまうが、壊れた家々に対して住民は組を作り、復旧作業を共同で行っている。そんな頃、他地域から多くの住民が大道前の原に転入してくるのであった(25)。
1949年1月には大道が人口急増した影響により、新たな区として三原が設立されている(26)(三原という名称は当時の大道前の原地域に在住する住民同士で話し合い、「大石原、伊是名前原、佐久真原」の3つの原名を合わせて三原と命名している)。(略)
1957年には真和志市は那覇市と合併し、4年という短い真和志市としての役割を終えている。三原に関しても同年、戸籍法が成立し、臨時戸籍(戸籍整備法)が失効したことで、元の大道に戻ることとなるが(31)、1980年9月に三原は、新住居表示の町界町名整理によって、大道と分離し、再び三原が誕生している(32)。〔後掲小笠原、7-8枚目p47-48〕
31 新垣清輝「真和志市誌2/2」(1956)26頁
32 「戦災からのあゆみ」那覇市市民課(1982)1-5頁
流れは分かりました。でもやはり、感覚的に実感出来ない。単なるスラム地区だったようにも思えないけれど、おもろまちのような現代沖縄の潮流には乗っていない、微妙な位置のエリア……ということしか分からない。
そこで、小笠原さん聴取のライフヒストリーの一部を以下参照してみます。実感という意味では、かなり知識に血肉が付きます。
三原住民のライフヒストリー(小笠原ヒアリング)
6)土地について
三原は借地が多いから、近くにマンション買って他に出てったり、違うとこに一軒家買って出ていくさ。地主は土地を手放さない人が多いから。三原には分譲マンションほとんどないさ。一軒家なんてもっとない。だからアパートばっかりさ。(略)
〔後掲小笠原、10枚目p50 10? Aさん(男性)1940年生・70歳(2011年時点)〕
ハウジング・ファースト(≒家があっての生活)の観点からすると、これは三原に人が集まった理由を推定する有力材料です。即ち、三原は敗戦当時に飢餓層から這い上がろうとする人々の、一時的シェルターとしての安アパートが集中するエリアだった。
当時の不動産情報なんかないから統計的には証明しづらいですけど、所有権はほとんど動かないまま入居者だけがどんどん流れ、通り過ぎていく忙しない土地だったのではないでしょうか。
その代わり、生活環境としては底辺で、多分、「パラサイト」のモデルになったソウルの城北洞のような地区だったのてしょう。
2)道路の舗装(1960年代)
大雨が降ると道が歩けなくなんだよ、泥道だからな。そうすると川の水位も上がって、家が何度も水浸しになったよ。何回近所の家の畳ひっくり返したか。だからこの辺に住んでる市議会議員に言って、舗装用の道具を借りれるようにお願いしたんだよ。それで、ここら辺の住民で協力して、行政の力も借りずにやったんだよ。(略)〔後掲小笠原、11-12枚目p51-52 10? Bさん(男性) 1929年生・82歳(2011年時点)〕
寄留民主体の特異な沖縄共同体
三原のザラリとした手触りは、どうやら以上の「仮住まい」感から来る、沖縄的には非常に特異な共同体感覚だったと思えてきました。
6)自治会加入について
前の自治会長が(小学校の)交通安全の旗振りで知り合いだったんだよ。そんで自治会に入ったんだよ。けど、1度敬老会行ったんだけど打ち解けられないわけよ。全部地元の人だったよ。地元の人同士だから昔の付き合いがあるよな。2人知ってる人いたけど、挨拶程度しかしない仲だったよ。それっきりその後は参加していないな。知り合いがいれば参加しても良かったんだが。
結局、三原と言ってもとなり近所だけで三原全体っていうのはないわな。みんな自分の生活だけだからな。それに、自治会って言ってもほとんど地元の人が中心さねぇ。けど寄留民(転入者)の方が(三原地域には)多いんだけどな。〔後掲小笠原、11-12枚目p51-52 10? Bさん(男性) 1929年生・82歳(2011年時点)〕
次の引用の「田舎の閉鎖性(略)とかが嫌で那覇にでてきたのに、どうして縛られなきゃいけないんだ」は、現代の移住ナイチャーのプログに繰り返し書かれる内容です。
7)住民の温度差
通り会のお年寄りから、「食事会してほしい」 って言われたんですけど、地方からでてきた人からは、「田舎の閉鎖性とか右が決めたら右になるとかが嫌で那覇にでてきたのに、どうして縛られなきゃいけないんだ」って言われたりもして。それから会費は出すが一切関わりたくない、喋りたくもないという人もいたりして、困りましたねぇ。結局、それをまとめるのは出来なかったですねぇ。後、親世代は入っていたけど、子ども世代は通り会に入りたくないってのもいて。困りましたねぇ。〔後掲小笠原、13枚目p53 10? Cさん(男性) 1947年生・64歳(2011年時点)〕
ナイチャーのワシにすら奇妙に思える三原の空気は、うちなんちゅには「外国に来たみたい」に感じられるみたいです。このヒアリング結果をみて、かなり納得が出来ました。那覇三原は、Cocooの歌う「天久豊見城小禄」とは別の形で出現した「新しい那覇」だったのだと。
2)転入者の実感
近所の方と関わりがなくて寂しいです。おとなりも全くの他人だもの。寄宮に住んでる頃は(近所同士)声掛け合ってたわよ。食事だって一緒に食べたこともあったし。何日か見かけないと「気分悪いのか」って声もかけてくれたわ。 三原に来たら、まるで外国に来たみたいよ。地域でもっと心と心を合わせる必要を感じるわ。寄宮にいる頃は仕事ばっかりしてるから自治会にも入ってなかったけど、こっち来た時は自治会の活動とか楽しみにしてたのよ。
けどいくら経っても、入会の誘いに来ないし、だから自治会なんてないと思ってたのよ(筆者を通じて自治会の存在を知る)。今じゃあ活動に参加する体力がないわ。〔後掲小笠原、17枚目p57 10? Eさん 女性 1932年生・79歳(2011年時点))〕
「自治会なんてない」と思ったエリアなんて、現代沖縄に他にあったのでしょうか?換言すると、沖縄本島で最も内地に近い対人感覚の町が三原なのかもしれません。

〉〉〉〉〉参考資料
※沖縄大学リポジトリ URL=https://x.gd/8jBv4(短縮)
(おきな)沖縄市 広報おきなわ 7月号(No.469)URL:https://www.city.okinawa.okinawa.jp/kouhou/H25/07/02.html#:~:text=%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%80%819%E6%9C%88,%E3%81%8C%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
(まつた)まったりおきなわ/那覇市三原の「みはら弁当」へ初訪問!カツ&副菜たっぷりのバランス弁当☆
URL:https://okinawa-aruki.com/mihara/




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