FASE92-3@deflag.utinaR411withCoV-2_BA5.2#真珠道 月光至りつつありぬ\金城橋-長田

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

愛の社の石敢當 法師蝉

金城橋下手の橋

城橋の一つ西、名のない橋を(→地理院地図)渡る。メゾンITOKAZU(→GM.)前。1536。
 松城中学校を過ぎ、これの西側外周をなぞるように歩くと登り坂になる。1543。
降りてきた首里城側を振り返る

ごやかライフ」の矢印に沿って右折(→地理院地図)。ad.繁田川三丁目11
 1546。車道に出る。これを右折(→地理院地図)。
 1549。「愛の社」という看板に沿って左折。施設の手前の石敢當(→地理院地図)から右手へ降りる階段へ。1551。
「愛の社」前の石敢當から右階段

「愛の社」前階段

蒼の昼顔を見て松川一号

「愛の社」前階段道の先の細道

はこの箇所が、ルーティング上も最も不安なとこでした。でも実際歩くと、もっと不安な場所でした。
 予定通り水路(→地理院地図)をまたいだから間違いありません。でもこれまた小さな水路でした。
小さな水路と蒼昼顔

団地の緑地に出る。

路を渡ると樹が迎える緑地。これを右折。1556。
 アパートのような場所です。松川団地とある。水道塔らしきものの前を右折。……いや1号棟の手前か。右折。
※何とこの抜け道は地理院地図にはなく、GM.にしか書かれてません。私道だから?
松川団地一号棟手前道……というか、ここ、入っていいのか?

知念ストアから男前製作所

の奥で階段を10段ほど降りた道を左折、登りきって(繁田川二丁目なかよし坂と書いてある)出る変速交差点(→地理院地図)を右斜めへ西北西行。ad.繁田川一丁目8。

沖縄ポッカ「パワーギア」「チバリヨー」

急に道が下り坂。
d.一丁目12、右手に緑地を見て左折(→地理院地図)。カネタイアパート。
 三叉路(→地理院地図)対面の細道へ。ad.繁田川一丁目10。1627。
繁田川一丁目の細道

道を跨ぎ直進。知念ストアー。
※この直進道は地理院地図になし。→GM.
知念ストアー前

631、男前製作所(→GM.)という散髪屋の斜めに出た。
 久しぶりの車道です。右折西行。
男前製作所通りを進む

さぁーたぁーあんだぎぃーおやかわ ちちろ虫

多川(はんたがわって読むんですね……)交番。ad.一丁目4。渡ると五丁目。
 この辺からバスにのる気でもいましたけどバス停もないので……繁多川五丁目1の三叉路(→GM.)から左折することにしました。1641。

大石公園

手に大石公園。これも大きく深い森で起伏もある。
 この辺にはようやく古い家もちらほら。
ガタガタ道

してもガタガタな沿線の道です。左右にブレまくってて歩道も造れない。──つまり間違いなく古道です。
「さぁーたぁーあんだぎぃーおやかわ」(→GM.)

645。ad.が識名一丁目になりました。あれ?さぁーたぁーあんだぎぃーおやかわの側・右手は三原三丁目?
 右手にはえらく真っ直ぐな道(→地理院地図)が伸び始めました。
識名-三原の境道にて

652、変則四叉路(→GM.)。コインランドリー三原前。
 街が面白い。──左折してみるか。
コインランドリー三原前の交差点

奇跡の「女女先細道」ブロック

ビューティーサロン女女は2026年現在存在しないらしい。念のため。

ューティーサロン女女の三叉路(→GM.)を右折南西行。ad.識名一丁目4
ビューティーサロン女女

658、道が左に湾曲してすぐの右細道へ。→地理院地図
女女先細道入口

並みが凄い!
 右折する気だったけど直進。
女女先細道1

女女先細道2

女女先細道3

なぜこのプロックを見つけられたのか分からない。識名にすらほとんどない、残像ブロックでした。→地理院地図

肉そばとマーブルロールと山羊の汁

蔭で17時を回ってしまったけど──車道に出ました。→GM.
 県道222・真地泉崎線です。来た記憶のない道でした。

かおりそばの肉そば(やさいそば)

717 かおりそば
肉そば(やさいそば)400
ジューシーが売切れにつき。てびちも気になったけれど、ここではそばかなあ。
 肉そばは大昔に那覇港で食べたきりだったけれど……肉汁とそばの出汁がハマればこう旨いもんなんですね。この肉汁も、内地の野菜炒めではこうはならない。ラードぎとぎとの肉汁でないとダメです。下品と下品のタイアップというかヤンキー夫婦というか、そういう沖縄独自の世界だと思います。

750白バラ洋菓子店
マーブルロール
 売れてる店らしく、もう一つの定番のロールが売り切れてました。チーズケーキにしようかと思ったけれど、人気品と同じロールを選んでみました。

山羊喰らうレイズすべきか投げるのか

 バス停・長田二丁目で待つ。開南を通って三重城行きらしい。ということは──この路線を逆にとれば、明日ここへ帰って来れる……はずですけど?
🚌
宮。真和志小学校。……赤十字病院から開南。
 ルートの土地勘が全く働かない界隈です。ただ開南を知ってるだけでした。
 スマホの電池が切れかけてて調べきれないけど……ああ、単に与儀十字路を通って真っ直ぐ進んでるだけか。

ハイウェイ食堂のヤギ汁(フーチバー特盛!)

南から歩いてコンドミニオマキシに入った後、美栄橋駅にリュックを取りに行く。
1900ハイウェイ食堂
ヤギ汁450

てさて……今日の成果はどう咀嚼すればいいんだろう?
 確かに石畳下にも迷宮村落は存在してました。ただ家屋は新しく、閑静な住宅地が多い。逆に最も驚くべき点は……今日のルートに御嶽や拝所が出現しなかったことでした。
 京の内以外は。──その京の内も、前章巻末で触れたように、厳密にはレプリカでした。
 その意味では、完敗の山下りをした3章分だった……と言えなくもありません。あはは。
──だからこの夜は、今日の下り道での幾つかの「宿題」に、明日以降も追加投資レイズすべきかどうか、惑ってました。

■レポ:まだ行ったことのない識名宮

 識名には、そばを食べに行ったことしかありません。予期せず物凄い谷沿いを通ることになって、高所恐怖症的にはとても楽しかった記憶があり、二度と来るものかと一度は心に決めました。

王府時代~明治41年の村名。島尻方真和志【まわし】間切のうち。「高究帳」では高頭377石余うち田268石余・畑109石余。康煕19年(1680)洞中にあった識名宮に権現宮を創建した(球陽尚貞王12年条)。この時,阿姓8世守浄が権現宮創造惣奉行を勤めた(阿姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。道光6年(1826)の催促日記に,下儀保村民の請地が識名村内に1石1斗余,同21年の所帯日記に泊村民の請地が7斗余とある(地方経済史料10)。拝所に,シイマノ嶽・古堅上地嶽・ズガリノ嶽・識名ノロ火の神・屋比久之嶽・高安之嶽・川門之嶽・シモ門嶽・城アタリ之殿・シンマ之殿などがあり,識名ノロ・上間ノロの祭祀(由来記)。首里王府における元旦の御水取りは,吉方午のときは識名アク川,未のときは識名ケフリ樋川,申のときは識名石シヤ川で行われた(同前)。〔角川日本地名大辞典/識名(近世)〕

 全く……100%訳が分かりません。それだけ、琉球王権と識名が切っても切れない縁たということ以外には。
 それに……最後のは何でしょう?正月のお水取りは、年によって(多分3/12)識名で行われることが伝統上義務付けられています。
 識名ノロという存在が在る。在るけれども全く定かでなく、その拝所もほぼ分からない。
 この日の道行きで御嶽を見つけなかった理由が、ほんのり分かりました。神聖過ぎて、厳重に秘されてる。だから通りすがりに見つけれるものでなくて、特にたどり着く意思がなければ見れない場所にある……のだと思えてきました。

国王は識名の宮へ「浮気」中

 未だに行ったことないんですけど──識名での宗教施設のトップといえば八社に数えられる識名宮でしょう。

 社伝によると、昔古真和志間切識名村(現繁多川含)は、広々とした荒れ野原で、人家はありませんでした。毎晩その地から光る物があって北斗星と牽牛星の間にまで光射していました。ある時、近くの村に住んでいた崎間知之の妻大阿母志良礼といふ者が密かにこの光る物を見に行きました。夜の風が冷え冷えと吹いていて一面は暗く、辺りには人影もない所で、ただ一つの洞穴があるのみでした。その洞穴には賓頭盧が一体安置されていました。大阿母は夜な夜な北斗星と牽牛星の間まで光射しているもとは、きっとこの賓頭盧の霊光に違いないと思って、これを深く信仰していました。
 洞窟すると、不思議な事にいろいろと願事が叶えられていきました。人々もこの話を聞いて、ここを信仰する者が多くなったといわれています。その当時、尚元王の長男大具志川王子朝通尚康伯が病氣を患っていました。大阿母はこれを聞き早速王子の御殿に伺い、賓頭盧の霊験が非常にあらたかであるといふことを言上しました。王子はこの話を聞いて、ただちに病気平癒の祈願をこめさせると、果して霊験あらたかで、病が日に日に癒されていつの間にかもとの元気な体になりました。その御神徳にたいして、王子は自分の財を奉納してお宮とお寺を創建しました。その側には家を建て大阿母を住まわせて宮を守らせました。この時から大阿母は毎月一日と十五日には、斎戒沐浴して国家安泰の祈念を始めました。〔後掲識名宮〕

 尚元王長男・尚康伯、久米具志川王子朝通は童名・忠樽金、号・蕣。1557(嘉靖36)年11月15日生-1575(万暦3)年12月10日没。庶子のため王位に就けず。護得久御殿一世〔wiki/尚元王 琉球第2尚氏王朝第5代国王〕。
 1469年の尚円がクーデターにより第二尚氏を立て約百年後。この人しか該当がないんですけど……誤記でないなら18歳で死んでます。全然「元気な体にな」ってない。
 庶子のため、第六代琉球王には次男(尚康伯からすると弟)の尚永・阿応利屋恵王子が就いてます。
 この人が私財を投じた首里直下エリアが、なぜそんなに「当宮は特に琉球王の篤い信仰を承け」るに至ったのでしょう?もちろん、尚康伯の子孫が王統を継いだわけでもありません。
 というか、首里城本丸には、本稿で見たように首里御嶽と京の内が存在する訳です。かつ、国王ラインと並び立つ聞得大君ラインのトップによる正統の祭祀は、首里御嶽で行われたのでしょうから──なぜ第二尚氏の一部が、このような「浮気」行動を採るようになったのでしょう?

京の内の洞窟(伝「真玉森」)〔後掲首里城公園〕

斎場御嶽にも?でもそれは「浮気」?

 でもです。よく考えたら、この「浮気」は第二尚氏の王族たちにとって別に不思議な行動ではありません。単純なことで、首里城の御嶽は、第二尚氏がジェノサイドした第一尚氏の神域です。

京の内の片隅に、洞窟があります。
 確証はありませんが、この洞窟にまつわる話を紹介します。
 琉球を最初に統一した尚巴志王統(第一尚氏)は、首里城でのクーデターにより滅亡します。
 そのクーデターの際に、王妃と乳母は、世子を守ろうと城内の真玉森に逃げ隠れたが、見つかり、王妃、世子とも殺され、首里城の崖下に投げ捨てられた。と伝えられています。王妃たちが逃げ隠れた真玉森が、この洞窟ではないかと言われています。
 また、洞窟の城壁外側には、クンダグスクという遺跡があり、第一尚氏最後の世子を葬った場所とも伝えられています。〔後掲首里城公園〕

 つまり京の内は、第一尚氏の処刑場だったとも捉えられます。そんなところの隣接地で、第二尚氏は希望に満ちて王権を始動させた……とはとても想像できません。
 18歳で没した識名宮の実質創建者・尚康伯の祖父は、第二尚氏第三代王・尚真です。按司の首里城集住や宮古平定軍の派遣、聞得大君をトップとする祝女組織など、一気に流通王権が強権化したこの時代、識名宮興隆の前史と言って良い政策が二つ開始されてます。
 斎場御嶽を主な目的地とする東御廻りと、真珠道の創設です。
 即ち、宗教的浮気と言えばこれ以上ない大胆な浮気として、斎場御嶽への信仰が公式化されているのです。

三代尚真が造った琉球王国

 尚真代に、実質としての琉球王国は初めて機能し始めた……と捉えると、これらの大異変群は初めて理解できます。
 それまでの国王が久米海商たちの進貢の「お神輿」でしかなかったから、第二尚氏は先代王族の虐殺地の隣で過ごしていたのです。
 それまでの交易品が首里城に運ばれることがなかったから、真珠道は尚真代まで無かったのです。
 尚真代の強権化は、多分、久米海商を抑え込んだものではなくて、逆に彼らから求められたものだったでしょう。この時代は、後期倭寇の興隆期に重なります。前期倭寇の陸上がりにルーツを持ち、先代の北山≒「みやきせん」勢力を滅ぼして生起した琉球王国は、さらに後から来た後期倭寇と対決することになった訳です。模式化してみます。

先∶みやきせん海民群
in 西九州-喜界島-奄美-本島北部
   -久米島

前∶前期倭寇
  in 伊平屋・伊是名・本島中南部

後∶後期倭寇
  in 五島・福建・台湾

* * * * * * * * *

         
14C  北山三王
1416年 (滅) 尚巴志
1469年即位  尚円
1477年即位  尚真 
         (日本銀流通)
-1527年      
1553年      嘉靖大倭寇
1592-8年     萬曆朝鮮之役
1609年      島津琉球侵攻

 真珠道を通った交易品は、それまでのように久米村に保管していては危険である、つまり後期倭寇の略取を避けて首里城という金庫に収納しなければならなくなった、ということです。
 朝鮮侵攻(中国名∶萬曆朝鮮之役)で暴れ回った後の江戸初期の島津水軍を、後期倭寇の陸上がりと見るならば、必死に踏みとどまっていた前期倭寇≒琉球王国は、とうとう後期倭寇に統合されてしまった。それが「島津の琉球侵攻」と呼ばれる事態で、尚巴志王権の成立と同様に多分──久米海商群を中心とする商人たちの描いた「より儲かる」琉球王国の形だったと想像されます。
 さて、そこに至る中間地点としての識名宮創設に、話を戻して参りましょう。

写真2 戦前に採られた「真珠湊碑文」の拓本〔後掲おきみゅー〕

※おきみゅー原頁 URL:https://okimu.jp/sp/museum/column/1648694337/

真珠道の断面図

 真珠道の建設を伝える史料が、上記「真珠湊碑文」です。

※沖縄戦で破壊、一部のみ現存、拓本のみ残る。2006年に拓本等資料から復元したものが、現在石門に立つ。

 首里城にかつて真珠道起点として建立された石門イシジョーがあり、「真珠湊碑文」はこの門の西側に建立されていました。ゆえに「石門の西のひのもん」とも呼ばれました。対する門東側には、尚真の事績を讃えた「国王ピースしょうとくひ頌徳碑」(同様に石門之東之碑文とも)が建立。碑文から東の碑文は1522年建立とされ、これが真玉橋──首里城-那覇港間、真珠道が国場川を渡る地点に架け渡した橋の竣工年とされます。、
 一応トライしてみましたけど、文字は達筆でどの文字がどの意に当たるか判別できませんでした(上図リンク参照)。
 さて、この真珠橋と首里城を単純に直線で結んでみます。

真珠橋→首里城 矢印〔地理院地図〕

 このラインを切った垂直断面図が下記になります。
 ワシは未だに、何となく国場≒真珠橋方面からは首里城を見上げれる感覚を拭えませんけど、実際に仰ぎ見るのは識名宮なのです。この日歩いたように、首里城と識名宮の間は繁多川の深い谷があります。
同断面〔地理院地図/ツール/断面図〕

 意味のある作業のようです。地理院地図で3Dに加工し、真珠橋・識名宮・首里城をポイントに落としてみます。
真珠橋→首里城 3D(高さ10倍)〔地理院地図/ツール/3D〕

 複数のブログに、識名宮の地は「一軒の家すらない荒野」だった旨を記します。

真和志の識名邑は、むかし荒野(こうや)が広がる土地で、一軒の家すらありませんでした。
 そんな折(おり)、毎夜のように、そこから天に向かって、眩(まばゆ)い光が発せられていました。
 崎間子(さきましい)の妻は、大阿母志良礼(うふあんしたり)という神職(しんしょく)を務(つと)めていましたが、ある夜、密(ひそ)かにその光を訪(たず)ねて行きました。
 真っ暗(まっくら)な闇(やみ)の中を、ただ独(ひと)り、人影一つ見えない荒野の中を、冷たい夜風(よかぜ)に吹かれて身震(みぶる)いしながら、やっと、目指(めざ)すその場に辿(たど)り着いてみると、洞内(どうない)に一つの祠(ほこら)がありました。
 祠の中には賓頭蘆(びづる)という神石(しんせき)が安置(あんち)されていました。大阿母志良礼はそれを見て、「夜(よ)な夜な、輝く光は、きっとこの神石からのものに違いない。」と心の中で思い、それからはこの石神(いしがみ)を、神の御神体(ごしんたい)として信じて疑わないようになりました。〔後掲横浜のtoshi〕

 出典が定かでないけれど、多分伝承でしょう。これによると、尚康伯(1557-1575)以前に洞窟に神体を見つけた前史が存在するようです。

識名の荒野には何があったか?

「琉球神道記」は尸棄那権現と書き,「縁起亦明ナラズ。熊野神ト見ヘタリ。石窟惟霊地也」と記し,「由来記」の姑射山大権現並寺縁起之事も同内容を伝える。「遺老説伝」によれば,識名村に夜々光輝することがあり,大あむしられが検分をしたところ,洞内に賓頭盧が1体安置されていたといい,彼女が尊信すると感応があった。〔角川日本地名大辞典/識名宮〕

「琉球神道記」の「尸棄那」という名前を重視したいと思います。元の音の由来は分かりませんが、「尸」字は「尸体」=「死体」を意味し、読みは「かたしろ」「かばね」「しかばね」〔漢字辞典オンライン〕。これに「棄」てるの字です。「那」は漢文ではthere≒「あそこ」の意。相当新しい時代まで識名が名無しの荒野だったと仮定すると、その名が音からではなく字から、つまり漢文の「死体を棄てるあの辺り」という字義だった可能性はあると思います。
 そうすると洞窟内に安置されていたという「賓頭盧」様、というのも、単に遺骸であった可能性すらあります。先代の琉球には、洞窟内に遺体を(一定期間)安置することもあったでしょう。
 首里、なかんずく京の内からこの「尸棄那」までは、元々、そうした大きな御嶽=風葬地を形成していたのではないでしょうか?
 つまり、第二尚氏は、クーデターの虐殺で京の内を「汚した」上で、尚真王代に御嶽的な土地に交易用道路を通してしまった。現代における米軍の基地設置と同じ位「暴挙」たる開発をやってのけたことになります。

国営官社・識名宮

洞内には阿弥陀・薬師・観音を安置してあったが,洞内の湿気で堂宇の腐朽がひどく,康煕19年(1680)に宮殿を洞外に構え,瓦葺とした(由来記・球陽尚貞王12年条)。惣奉行は阿姓4世守浄で,3月11日~4月20日に拝殿・石垣などの修補が完成した(阿姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。毎年1・5・9月の吉日に国王の行幸があった(球陽尚貞王13年条)。王府時代は官社とされ,神職の役俸と営繕費は王府から支給された。〔角川日本地名大辞典/識名宮〕

 国王が年に三度巡行するようになった尚貞王13年は1658(順治15)年。宮を洞窟外に映したのが1680(康煕19)年。これらから考えて、識名宮が準・国営に移行したのは、尚康伯とはとても言えず、その約百年後、17C半ば以降です。尚円や尚真から数えると二百年後。
 その間、真珠道を人が辿る度に、「尸棄那」宮はじわじわと祟っていった。科学的に言うならば、那覇湊から真珠橋を渡って首里城を目指した人の目には、まずは首里城ではなく識名の高地が見えたはずです。
 また、安里から繁多川を漕ぎ登ってくる宮古人も、左手の首里城と右手の識名台地を目印にしたはずです。

安里(繁多川)→首里金城 3D(高さ10倍)〔地理院地図/ツール/3D〕

 要するに、識名は中継地として、かつランドマークとして要地になり、庶民の居住が増えていったのでしょう。そうしてその開発の一方で、かつての霊地だった気配から、識名宮が拝まれるようになり、ついには準王立にまでなった。--第二尚家からすると、旧首里城域からの霊的な「脱出」は切望するところだったでしょう。もしかすると、尚康伯の時代から実質的に準王立だった、つまり琉球王家の「秘密信仰」のような拝みの対象だったのかもしれません。
 やや論旨がダブルイメージになってしまいましたが、第二尚氏の過去の悪行上、及び新道・真珠道を辿った人々の視線上、「尸棄那」の荒れ地から立ち上がってきた特異な土地が「識名」である、と考えるのです。
 と…その場合、識名に他の拝所や御嶽が隠れているかどうか、という点はまだ全く不明のままです。でも同じ理屈で考えるなら、それは多数隠れていると想像します。
 また、多分、探すべきではない。

〉〉〉〉〉参考資料 

(おきみ)(おきみゅー)沖縄県立博物館・美術館 真珠湊碑文(まだまみなとひもん) ~500年前の大工事を記した碑~ | 学芸員コラム
URL:https://okimu.jp/sp/museum/column/1648694337/
(しきな)識名宮 由緒
URL:http://sikinagu.com/a.html
(しゆり)首里城公園/京の内 | ブログ | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城 – スマートフォン版
URL:https://oki-park.jp/sp/shurijo/blog/detail/859
(よこは)横浜のtoshi/琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ ~琉球沖縄に伝わる民話~ 『球陽外巻・遺老説伝』より、第118話。寺識名(てらしちな)
URL=https://totoro820.ti-da.net/e2972411.html

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