FASE96-1@deflag.utinaR411withCoV-2_BA5.2#龍淵に潜む レキオに冬が来る\山里ルート

※本句:龍淵に潜む扉の奥に銃 開成
※D 今治西「潜む+奥のダブり」 開成「田舎に隠された銃の忌まわしさ」 今治西「具体的な場所を言った方が?」 開成「言わない方が」 今治西「秋の季語でない方が」 開成「漁師が近づいているような」

 

YKB初帰路で
よくもこの骨汁
食逃げ行程を
見つけたもんです。
[前日日計]
支出1300/収入1200
    ▼13.0[①045]
    /負債 100
[前日累計]
利益 -/負債 157
十一月二十二日(二)
0854 A&W名護店
Jr.モッツァバーガー(コンボ:カーリーフライ)370
1103だるまそば
骨汁500
1900(ひろし屋)ゆしどうふ+よもぎ250
ジャーマン小150
[前日日計]
支出1300/収入1270
    ▼13.0[①045]
    /負債 30
[前日累計]
利益 -/負債 187
十一月二十三日(祝)

 

蔡温の龍脈碑文もヒンプン

転車は昨夜返却してます。再び身一つになって、南へ帰るんてすけど──沖縄市で下車するプランを立ててみました。タイムテーブル上は出来るはずですけど……流石に不安が先立ちます。
 バスは10時過ぎ発ですけどその不安が先立ってか……朝8時半前、初逗留の宿・三和荘を出立。

ひんぷんがじゅまるの東側川岸を歩いてみた

んぷんがじゅまるの付近は、やはり太古の名護港を残してて、好い。
 ひんぷんは「屏風」(屏風状の塀)に由来。
 この頃(蔡温時代),琉球王府を名護に移す説があったのを蔡温が鎮めた際に、蔡温が撰文して建てたのが「三府龍脈碑」であるとされる〔案内板より〕(前章巻末参照)んだけど──それを民家のありきたりのヒンプンに見立て、「何や、屏風かよ?」と言い捨てる、うちなんちゅの達観ぶりも心地よい。

地球には資源ないから来ないさあ

ひんぷんがじゅまる東川岸の「祠」

回は空振ったオリエント食堂を拝んで、再訪の決意を新たにす。で、その手前の東江四丁目17の路地へ。0840。
東江四丁目の路地

側市街と少し違う薫陶があります。見た目何ということはないんだけど──
東江四丁目のある旧家

854 A&W名護店
Jr.モッツァバーガー(コンボ:カーリーフライ)370
 この後のYKB南帰行時、このエンダーで時間調整するのが常になりました。
エンダーでルートビア!

め前のおじい二人が、宇宙人の地球征服の可能性、という重大な時事問題について詳細に検討してます。そして辿り着いた結論は「地球、もう資源ないから来ないさあ」。
Jr.モッツァバーガー!

則通り(?)ルートビアを二度おかわりしてからバス停・世冨慶へ。
 山里まで50分(途中10分休憩含む)1150円。──YKBは乗車時投入なので、乗る側がかっちり料金調べ、握りしめておく必要があります。
 手前に沖縄マンゴースイーツ専門店と照屋漆器店。
世冨慶バス停

琉球を抱きしめにゆく夏休み

🌬  🌬  🌬  🌬  🌬那覇湊
帰還編
🌬  🌬  🌬  🌬  🌬
バス停・世冨慶から名護市内方向

だるま 骨の真下に沖縄豆腐

刻10時ジャスト、とはやはりいかず1006乗車。昨日中国人女にてんやわんやしてたお兄ちゃんが運ちゃんでした。まあ……運行台数が限られてるからね。
 やはり許田までの崖下には亀甲墓が連なる。海岸墓の風習の名残りでしょう。高低は様々だから、崖の中腹にも隠れていると思われます。
 それを見てると……この海岸森はかなり野生度が高い。そりゃ、こんな状況じゃあ植林も出来ないでしょう。所有権はどうなってるんだろう。
 伊芸SAは海側だったので金武湾は一層ぎらぎらと映えています。
 池武当の次──1055山里下車。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

ス停からお店までは、結構な登りでした。リュック背負ってですから、谷底から上がってきた感じです。

山里・だるまそばの骨はなぜか最初はレタスに包まれて出てきます。

103 だるまそば
骨汁500
 ここは沖縄通い最初の頃、牛汁にシビれてハマった店です。未だに値段は牛汁の方が上等ですけど……前回の骨が忘れ難かった!
だるまそばの骨・どアップ

るまの骨は色々と特徴的なのです。
 まず骨がぼっこりと塊。最初はよく汁に落としたり、指で掴み間違って火傷しかけたりしてました。指で捉える部分を見定めて口で肉をしゃぶり取ってから、捻りをかけて小部位に分けていかないといけない。ただそれさえすれば、軟骨や筋に絡まった一繋がりの肉がホロホロと取れて……これが単なる赤身肉の数倍旨い。

に出汁に入れる用に、生姜と味噌のパックが付いてくる。ここで味噌を入れちゃうと(好みによるけど)、端正な味が台無しになる。その代わり生姜は山程入れるのがベター。コーレーグスも同じく。
 あと,野菜が多い。出てきた時はレタスで上面が覆われ,下部に昆布締め,大根,さらに大きな沖縄豆腐が隠れてる。これが……旨い!最後に食うほど旨い!!肉汁を吸いまくってるのです。

球陽の道を辿りて事始め

「先生ッ」居酒屋の二階がカラオケ「親父ッ」

陽ストリート※を東行。ad.山里一丁目9。

※通りの名前はだるまそばより半km西南西の沖縄県立球陽高等学校・中学校(→GM.)に由来。沖縄県が1980年台後半〜1990年代設置した全県学区の新設県立高等学校「4K」(他に開邦高校・那覇国際高校・向陽高校)の一つ。中部以北では唯一の公立進学重点校で、制度上の点数要件水準を上回る生徒が在籍すると言われる。授業は、朝7∶30開始の0校時から6校時までの60分6コマ(早朝講座は50分)、夏休みに20日間の夏期講座など過密。2003年から総合的な学習の時間の一環で「球陽プロジェクト(略称:QP)」と称す県外実地研修及び実地研修発表会を実施。文科省SSH(スーパーサイエンスハイスクール)指定は2013年以降3期目。倍率4.54、偏差値50とされ〔後掲らくたのスクール〕、いわゆる高偏差値の受験校ではなく、「やる気のある高校生」の学び舎として沖縄県教委の粋を尽くした学校。

1155山里・球陽ストリートの光景

と言うより──広場の風を感じさせる道行きです。
 あれれ?意外に路地もいいぞ?
球陽ストリートの路地

諸見里三丁目は谷底 正午

ーヒー「原点」対面から斜め東北へ入ってみる。1157。
 ad.山里一丁目6。

「原点」からの対面斜め坂道

原点斜め坂道のとある路地

山里-諸見里境界。

の最下部で諸見里三丁目26になりました。正午の鐘。
 再び坂が登る。
諸見里への登り坂

登り坂途中の「風布」店への登り私道

雨降ってきたが強行 蓮根掘り

205、MAXVALUE横、もろみ松寿堂胎芽に出ました。R330。
 バス停・山里。
 1209、バスが来ました。空港行き。乗車。

バス停・山里(R330)

219普天間から左折した?どこから那覇に入るんだろう?
 系統90番と言ってる。
 頭上をオブスレイが低空で飛び去る。

222宜野湾市役所前。
 1227愛知ってあるんだ?(→GM.)
 中部工業高校前。「コインランドリー&カフェ」?その組み合わさって初めて見たぞ?
 1237、我如古。アナウンスは「がねこ」と読んでます。
 ううっ雨が降ってきたか?──ままよ!強行しちゃえ!
 1251、古島駅前で下車。
沖縄県「RIKKA」コロナ・キャッチ・アプリケーション

■レポ:名護東江なし 東江こそは名護

 全く知りませんでした。名護市役所(及びそれ以前の名護町役場)は1981年まで73年間、この字にあったそうです。前・名護博物館の建物がその跡〔wiki/東江〕。
 現在、名護から南へ下る車両は現・国道58号線に沿い海側を通り、大半が素通りしています。まず、このR58が旧道を通った頃の「名護七曲がり」の景観としての東江(あがりえ)を見ていきましょう。

曲がり曲ってこそ名護には着ける

名護町(1945年)〔後掲今昔写語〕
※キャプション 年代:1945年 撮影場所:沖縄県名護市(撮影位置情報不詳※※) 資料元:パブリック・ドメイン より引用
※※ 国道58号線沿いが旧海岸線と言われるので、堤が現名護港(のR58沿い)、その手前の川が幸地川、画面左下の茂みが「ひんぷんガジュマル」と推測されるので、画面を北北東に縦走している道が旧道、手前奥の集落が東江と推測される。

…湾奥に名護漁港があり,その背後に名護市街地が展開する。海岸は沖縄海岸国定公園に含まれ,とくに名護~許田(きよだ)間約8kmの屈曲した道路は〈名護七曲り〉とよばれ,紫紺の山並みと白砂,岩礁がつくりだす美しい海岸線は琉歌にも〈浦々の深さ名護浦の深さ〉と歌われたが,1972年海洋博覧会のための改修工事により,その面影は消えた。〔世界大百科事典(旧版)内の名護七曲りの言及 【名護湾】より←コトバンク/名護七曲り(読み)なごななまがり〕

名護港(1925年)〔後掲今昔写語〕
※キャプション 年代:1925年 撮影場所:沖縄県 名護市 資料元:沖縄写真帖 第1輯(パブリック・ドメイン) より引用

 琉歌というのは本部ナークニーのことらしい。


 琉歌に枕詞のようなものがあるとは聞きませんけど、いわば名護の枕詞又は連想イメージとして「曲がる」があるらしい。うちなんちゅには有名らしい民謡「名護ぬ七曲い」は全7番中、実に6番までに、「曲」が16回登場して曲がりまくってます。名護というより、「曲」の字で遊んでいるような歌曲です。

音に豊まりる 名護ぬ七曲い 曲てぃをぅる故に 沙汰んさりてぃ
七曲い曲がい 曲てぃ山見りば あまた思事ん 忘してぃ行ちゅさ
思事ん忘てぃ 曲てぃ海見りば 肝ん晴り晴りとぅ 下てぃ見ぶさ
眺みてぃん飽かん 名護ぬ七曲い 曲てぃ曲りわどぅ 名護や着る
七曲い曲がい 曲がらわんゆたさ 人ぬ道筋ぬ 曲がてぃなゆみ
七曲い曲がい 曲がてぃ行く先に 忘しららん思女に 思いあてぃる
思みば嬉しさや 名護ぬ行ち戻い 思女如何てぃ 我身や語てぃ戻ら〔後掲YAHOO!知恵袋〕


東江総論

面積1.18k㎡ 人口2956人 世帯数1546世帯(2021年6月30日現在)
東江は、方言でアガリと呼ばれ、名護の東に位置することに由来しています。名護湾に面していますが、海岸は昭和47年から49年にかけて埋め立てられ、かつての白い砂浜はみられなくなりました。コーチマタの上流を水源とする幸地川(別称アナダ川)が、名護湾に流れ込んでいます。東江は、幸地川を境にして東に位置しています。
東江の行政区域は、小字東袋原・東上原・溝原・東江原・山川原・嵩石原の全体と、小字大兼久原・幸地原のそれぞれの一部から構成されています。
集落は、ジンガムイの麓からアガリ浜の方へ発達しています。ジンガムイ付近に、ジンガガーや番所跡、それにニガミヤー(根神屋)などがあります。かつて、東江と大兼久との間に水田が広がり、両区の境界となっていました。現在では、集落の景観としての境界はなく、渾然一体となり市街地化しています。〔後掲名護市〕

 幸地川は、名護港東南を河口に持つ、ひんぷんガジュマルそばの川だと思います(∵「幸地川河川環境整備事業」→GM.)。その東の土地、つまり「川の東側」という意味の地名が「東江」らしい。ちなみに、対称となる「西江」という地名はなく、川の西北側は「大X」名地名の地域になります。
 本集落(根神屋)と伝えられるジンガムイは、2020年に名護市議会で漢字表記が論戦になったいわく付きの森ですけど〔後掲沖縄タイムズ2020〕、2026年時点のGM.表記は「神ケ森」(→GM.)になってます。道の形状からすると、現国道が海岸線だった時代以前に、東江三丁目9又は12の西の道(→GM.:行程)が海岸線だった時代があるのかもしれません。
「ジンガムイ」付近は名護番所が置かれた場所とされます。

東江は、名護間切番所が置かれた村である。名護番所は、1673年当時東江原の銭川森[じんがむい]の南麓にあったが、1695年に現在名護博物館※のある場所に移転したという(名護六百年史)。「御当国御高並諸上納里積記」に、首里から名護番所までの距離が示してあり「御城より同村番所迄拾四里九合」(約59.6km)であった。〔後掲Nagopedia/東江〕

 ※2023年、名護博物館は大中四丁目に新装オープン。
 これ以前と思われる史料初出は、「東江大屋子」という地主の名称です。

「由来記」にも「東江村」とは出てこないが地頭代東江大屋子、夫地頭[ぶじとぅ]に大兼久大屋子[うふやく]と仲兼久大屋子、また大兼久掟[うっち]が記されており、東江村があったことが知れる。しかし、東江の村名が史料に見えるのは、近世末の同治4年(1865)になってからである(地方経済史料)。
〔後掲Nagopedia/東江〕

 ただし、その頃に「東江」地名呼称が記されないのは、東江がそのころに出来た、あるいは無かったからではなく、その時期には東江以外の名護村は存在しなかったからだ、とするのが通説です。

17世紀中頃の「絵図郷村帳」に、名護村・かねく村・城村の三力村がみえる。「東江村」とはみえないが、「絵図郷村帳」で記された「名護村」は東江村をさしているとみられる。17世紀中頃の「高究帳」や「由来記」(1713年)などでは、東江・城・大兼久の三力村がみえず、「名護村」だけが記される。そこでの「名護村」は、三力村を含んでいる。〔後掲Nagopedia/東江〕

蔡温の字針句酌の通告碑

 旧・名護間切番所の地=前・名護博物館の北西対面に蔡温著とされる「三府龍脈碑記」(GM.)があります。蔡温が書いたから有名なのかと思ってたら、これは建設地に意味があるらしい。即ち、碑建立年1750(乾隆15年)年当時、何と琉球王国の名護遷都論が華やかだった頃、名護間切番所は「首都招致運動」の拠点だった蓋然性が高いでしょう。その目の前に※わざわざ碑文にして「名護移転は風水的に正しくない」という内容を示すのは、「王都移転落選」の公式通告のような意味を持ったでしょう〔wiki/三府龍脈碑〕。 ※創建当時は現在位置より数十メートル離れた場所にあったとされる〔wiki/同〕。蔡温の推敲琢磨した琉球王都移転の落選又は欠格通告文です。
 ときに島津による征服(1609年)から一世紀半。自身の海域支配を強めようとする(ex.坊津崩れ(伝1722年))島津が、直轄「搾取地」として琉球王朝経済の実効支配を強めようとするとき、薩摩向けの港湾として適切なのは、首里よりも名護だったと想像されます。つまり状況証拠のみの想像ですけど、この遷都論は島津の「謀略」だった可能性も否定できないと思います。だからこそ蔡温のような秀才が頭を捻って慎重に否定論を構築したと考えられるんですけど…いずれにせよ。
 琉球王朝うっての政治家・蔡温に、それほどの政治的行動をさせるほど、18C中期の名護間切番所は重要な政庁だったということを、「三府龍脈碑記」の存在は示唆しているのです。


地番配置に見る東江の地層

拝所と祭祀
近世の御嵩として、「由来記」(1713年)の名護村の項に、テンツギノ嶽(神名イベヅカサ)が記される。また、名護ノロ火神と神アシアゲもあり、どれも名護ノロが祭祀を司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。
現在、集落の南の山をティラヤマ、東の山をジンガムイと呼び、集落内にはそれらを遥拝する拝所がある。ティラヤマの遥拝所の近くに、海で亡くなった人を祀ったキッチャという拝所がある。公民館の隣に獅子舞いの獅子を保管するシーシーヤー、さらに東にニガミヤー・ビジュル・クバヌシチヤーがある。拝井泉としてジンガガーがある。(続)〔後掲Nagopedia/東江〕

 民俗的に見ても、東江の霊的配置は、前掲ジンガムイを中心としています。「ティラヤマ」(寺山)の位置が定かになればもう少し精度が上がるでしょうけど、分かりません。そこで、地番配置の相を見てみます。

東江集落付近の地番配置〔Mapple〕

 はっきりと、東西に様相が異なります。旧国道(東江三-四丁目間)のもう一つ右・東側の道付近よりさらに東山手の混濁した地番配置域が、元の東江でしょう。対して東江三-四丁目の整然たる格子状域が近代以降の埋立開発地。
 あと、概ねその間にやや広めの地番が連なっており、一部に地割によると想像される短冊状の筆があります。多分これは、近世以前に(近代の土木力によらない)「ゆっくりした開発」の痕跡でしょう。具体的には、人口又は交易量の増に伴い、海浜を埋立てて農地を拡大していった自助努力の跡と想像されます。

(続)現在、ノロと根神がおり、部落の御願は根神が、ナングシクの御願はノロが司る。根神はニガミヤーから出る。
現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1 月3日のハチウクシー、7月のエイサー、8月の豊年祭、9月9日のキク酒、10月のピーヌウガンなどがある。〔後掲Nagopedia/東江〕

 前後の歴史が明確でない名護城※ですけど、霊地としての祭祀は東江ノロが行っていたということになります。

※内部リンク→FASE84-2@#七月森/■レポ:名護に海陸人が対峙した季/転記データ名幸記傳

 なお、海東諸国紀(1471年刊行・李氏朝鮮使節申叔舟著)には「那五城」が記されます。従ってこの場所は、民俗的には東江集落=プレ・名護の港を指すということになります。

海東諸国紀/琉球国之図〔後掲東京大学〕

海東諸国紀/琉球国之図/「那五城」〔後掲東京大学/15世紀の日本図・琉球図デジタルアーカイブ〕

 芸能の伝承も盛んな場所だとNagopediaは記します。ただググってみる限り、名護の他「新興」地域のものが有名で、ニュースバリューは低調のようでした。何とも味わい深い土地のように感覚しており、この後のYKB南帰行時には必ず散歩する地域になってます
東江は芸能の盛んな所で、公民館がすぐに豊年踊りの舞台になるように造られている。
踊りは旧8月15日を正日に3日間行なわれ、3日間とも道ジュネーで集落内を回って踊りに入る。舞台では、まず長者の大主、次に獅子が舞い、踊りに入る。獅子はそのあとにも2回舞い、2回目には他にない猿舞いもいっしょに出る。女踊りの上与那覇節も独特の踊りで、節も歌詞も他にない。組踊もやっていて、「花売之縁」「久志の若按司」などを得意とする。
旧盆には、青年会を中心にしたエイサーもあり、部落内のアジマー(四つ辻)で、にぎやかに演じられる。〔後掲Nagopedia/東江〕

区民らと一緒にウガンするシーシー=21日、名護市東江区の根神屋〔琉球タイムス〕

■レポ:沖縄諸見山里の降誕祭

 まず純粋な感覚で、地勢を見てみます。始点・だるまそばは沖縄自動車道ロータリーの脇(→GM.)、終点・山里交差点は今回待ったバス停・山里の西、マックスバリュー山里店の東(→GM.)です。

断面水平直線(だるまそば-山里交差点)〔地理院地図〕

垂直・断面図(だるまそば-山里交差点)〔地理院地図〕

 感覚として意外なのは、標高百mレベルの土地ということです。かつ、その中で10mの高低差のある谷を降り登る行程になります。実際、原付で既に走ったことがあったにも関わらず、計画時にルーティングした時の予想より、実際歩くとはるかにキツい行程でした。
 さて、やんばる急行バスのバス停名・山里と、住所表示としての沖縄市山里から、個人的にこのルートを山里ルートとして辿っているのですが…「山里」ワードでヒットする情報は非常に少ない。
 実体はあるのです〔後掲山里自治会まつり〕。空間軸もはっきりしてます(→GM.)。ただ時系列が辿れない。
令和6(2024)年10月26日開催 山里自治会まつり〔後掲山里自治会まつり〕

諸見里∋山里

 山里は、戦後、諸見里の一部が分離して成立した地域でした。どうも、それ以前の歴史はない模様。

(続B)戦後,北部一帯が米軍用地に接収され,嘉手納【かでな】飛行場となっている。戦後一部が山里となる。昭和48年ヤマモモの木のあった山林に,総合運動公園ができた。同59年一部が園田3丁目・久保田1~2丁目となる。〔角川地名大辞典/諸見里(近代)〕

 なので、一回り大きなフレームの諸見里のワードで追ってみますと…「山内・諸見里ヤマチ・ムルンザトヤマモモ売り娘モモウイアングヮ」という語が出てきました。

(続A)北方の山林にはヤマモモの木が自生し,隣接する山内とともに古くから産地として知られた。旧暦3月頃は,ヤマチ・ムルンザトのモモウイアングヮ(山内・諸見里のヤマモモ売り娘)でにぎわった。しかし沖縄戦の戦禍でヤマモモはほとんどなくなった。(続B)〔角川地名大辞典/諸見里(近代)〕

 名産ヤマモモの代わりに残ったのが--これはワシの推測ですが--「山内・諸見里ヤマチ・ムルンザト」の連名呼称を縮めた「山里」だったのだろうと思います。新・「山内・諸見里」という感覚だったのではないでしょうか?
 創設年は、いかにしても分かりませんでした。米軍占領下の混乱の中での出来事だったのでしょう。なお、この新しさなので、山里の読みは当用漢字的な「やまざと」しかないのでしょう。

[現在地名]沖縄市諸見里もろみざと一―三丁目・諸見里・園田そのだ三丁目・久保田くぼた一―二丁目・山里やまざと・山里一―三丁目
胡屋ぐや村の西にある。ムルンザトゥとよばれ、西方の山内やまち村とともに山内・諸見里と併称される。〔日本歴史地名大系 「諸見里村」←コトバンク/諸見里村(読み)むるんざとうむら〕

越来∋諸見里

 沖縄市は基地の城下町です。米軍が来るまでは基地はなかったのですから、この場所は越来間切の一部でした。越来は現在は美里の手前部ですけど(→GM.)、この地域で唯一グスクのあったエリアですから、自然なことと思えます。

越来ぐいーく間切に属する。万暦一九年(一五九一)八月二一日の中山王書状及目録(島津家文書)、天正二〇年(一五九二)七月二六日の島津義久書状(旧記雑録)にみえる「茂留味里大屋子」は当地名を名乗る役人であろうか。絵図郷村帳には中城なかぐしく間切のうちに諸見里村とみえる。琉球国高究帳でも同間切のうちで高頭二七石余、うち田一六石余・畠一一石余。〔日本歴史地名大系 「諸見里村」←コトバンク/諸見里村(読み)むるんざとうむら〕

 上記中1592(天正20)年の島津側資料にある「茂留味里まろみざと大屋子」(ルビは正確には引用者想像)は非常に興味深い。
 そこで試しにググってみると、サクッと、しかも他事例が見つかりました。どうやら、この大屋子さんは、琉球王国を代表して薩摩島津と交渉していた外交特使だったようです。同時に、この時期から「まろみ」という地名又は領地名は、音として存在したらしい。(「里」はどの例でも「ざとう」と訓読みされているので、独立して通用していたのは「まろみ」音と想定される。)


 なお、それほどの集落なら存在するはずの拝所は、現・久保田の字にあります(諸見里拝所:GM.)。

沖縄県沖縄市の南西部に「諸見里集落」があり、集落は米軍嘉手納基地の施設からコザ運動公園を経て、北中城村島袋に隣接する南北に縦長に広がっています。現在、国道330号線から北中城村島袋までの地域は「久保田」という住所になっていますが、もともとは古より「諸見里集落」の土地でした。集落の中心部の「諸見里公民館」沿いに「諸見里拝所」が建立されており、集落の土地神である「諸見里」の5つの守護神が祀られています。〔後掲アッチャーアッチャー〕

 どうやらその経緯には、戦後の米軍による強制移住の経緯が関連しているようなのですが、どうもよく理解できませんでした。
 ただ、そういうことならば、諸見里拝所の祭祀形態に何らかの痕跡がある可能性もあるのですが…

拝所に祀られる5つの土地神〔後掲アッチャーアッチャー〕

左右2体の石獅子に守られる「諸見里拝所」の鳥居をくぐると琉球赤瓦屋根の拝所の社が建てられています。社の内部には向かって右より「森城(むいぐしく)ビジュル」「松下丘(まーしんちゃー)ビジュル」「竹園(たけーら)ビジュル」「巫女火神(ぬーるひぬかん)」「地頭火神(じとぅーひぬかん)」が合祀されています。5つの土地神(守護神)にはそれぞれウコール(香炉)が設置されており、一緒に霊石が祀られています。〔後掲アッチャーアッチャー〕

 全く手がかりになりません。いや、知ってる人が見れば分かるのでしょうか?
 一方、別の角川記述では、中城・越来間切の相違が見え、要するに辺境だったような書き方です。

「高究帳」では中城間切諸見里村と見え,高頭27石余うち田16石余・畑11石余。「由来記」に越来間切諸見里村と見える。拝所に中森・諸見里之殿があり,仲宗根ノロの祭祀(由来記)。〔角川日本地名辞典/諸見里村(近世)〕

 なお、民俗系で付記すべき事象が芸能です。諸見里の「旗スガシー」という。ここで用いられた村旗も市指定民俗文化財になっています。

「地域住民も大勢沿道に繰り出して、歴史ある旗スガシーを見守った」〔後掲沖縄市〕

諸見里の村旗〔後掲文化庁〕

諸見里の旗スガシーで実際に使用されていたものです。
安政年間(1854年~1860年)に、当時の越来間切諸見里村の地頭が製作したものと伝えられています。
1979年に二代目の旗が製作されたのちは自治会事務所で保管されていましたが、1990年に諸見里郷友会から沖縄市立郷土博物館へ寄贈されました。〔後掲文化庁〕

山里第一地区市街地再開発

 帰路のバス停前で見た「マックスバリュー山里店」(→GM.)は、2017年頃に行われたこの地域念願の再開発エリアであるという。

県土木建築部は8日午後、沖縄市山里第一地区市街地再開発組合が県に申請していた市街地再開発事業の権利変換計画を認可した。県庁で末吉幸満土建部長が同組合の仲宗根洋一理事長に認可書を交付した。早ければ4月にも既存の建物の取り壊しが始まり、2017年秋にも市街地再開発事業で計画されている商業棟や住宅棟を備えた大型施設が完成する。
 この事業は総事業費約60億円。約1・3ヘクタールの敷地に地上10階地下2階で約70戸を備えた住宅棟、地上3階地下2階で商業施設などが入居予定の商業棟が建設される。施設の延べ床面積は約2万3490平方メートル。
 県土建部によると同事業に関連しては1991年に沖縄市中心市街地再開発基本構想が策定され、98年に準備組合、2015年に再開発組合が設立された。構想から25年を経て、事業が本格的に始動する。〔後掲琉球新報〕

 この前段階、沖縄戦後から米軍占領、同返還時代の史料には、やはりたどり着けません。そのもう一つ前の時代、大正代には呉富士・赤平・焼マージという屋取、つまり新規開拓地があったと下記角川では語られます。

(引用者追記:諸見里は)明治41年~現在の字名。はじめ越来村,昭和31年6月コザ村,同年7月コザ市,同49年からは沖縄市の字。大正14年頃呉富士・赤平・焼マージの屋取が形成されていて,呉富士屋取は第2次大戦前行政字となったが,地籍は未分離のままである。(続A)〔角川地名大辞典/諸見里(近代)〕

山里周辺地番の「鱗」

 最後に…正直、以上のどの史料とも因果付けられなかったのですが…地番の配置を見てみます。

山里周辺〔Mapple〕

 凄まじい。
 何と言うのか、鱗状の弧を描く塊が、幾重にも連なっているような相貌です。確かに最初に示したようなアップダウンの激しいエリアではありますけど、ここまでの「迷路」を構成するものでしょうか?センター公園付近をはるかにしのぐ複雑な道の配置です。あえて言えば、越来・美里付近の形状が近いですけど、山里のそれはもっと鱗のサイズが細かいように見えます。いつかここを縦断してみたい気もしますけど…生還できるでしょうか?
 なお。おまけですけど、山里南東、ライカム交差点の南東角には2015年にイオンモールが開業しました。ここを通過した観光客の脳裏にはまず残る、派手な立地の巨大建物です。ここの地番配置は、次のような超短冊文様になっていました。いつの時代かの「1フィート運動」の痕跡か何かでしょうか?
イオンモール沖縄ライカム 地番配置〔Mapple〕

〉〉〉〉〉参考資料 

(025)02564 2018/11/07「萬暦19年8月21日島津義久宛尚寧王書状を読む」
URL=https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20181107/1541596454
(あつち)アッチャーアッチャー@沖縄パワースポット 2021.10.17 土地神と創始者の霊を祭神する集落@沖縄市「諸見里集落」
URL=https://plaza.rakuten.co.jp/gomachanoklnawa/diary/202110170000/#goog_rewarded
(あまみ)奄美シマ唄歌詞集 2024年11月21日 シマ唄歌詞 本部ナークニー~かいされ(沖縄)
URL=https://www.shimauta.net/archives/18070
(おきなわし)沖縄市 2009「旗頭を掲げ道ジュネー、集落の繁栄を祈願 諸見里自治会旗スガシー行事」『広報おきなわ 2009.10 No.424』
URL=https://www.city.okinawa.okinawa.jp/kouhou/H21/10/0601.html
(おきなわた)沖縄タイムズ 公開日:2020年3月24日#2020年3月24日朝刊地方20面 #地域「東江の森 正式表記は/「銭川森」「銭ヶ森」「ジンガ森」「ジンガムイ」?/地元調査は「神ヶ森」/名護市議会でも論議」
URL=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/550878
(こんじ)今昔写語(こんじゃくふぉとがたり) 名護町 URL=https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=10583
(とうき)東京大学 史料編纂所 掲載日:2025年3月25日 研究協定の締結に基づき、新システムから絵図画像をWeb公開 ―東京大学史料編纂所・沖縄県立博物館・美術館の連携による― URL=https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400260741.png
/15世紀の日本図・琉球図デジタルアーカイブ /絵図を見る /表頭「絵図をそのまま見る」×表側「海東諸国紀」 p7of11
 URL=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/collection/digitalgallery/nihonzu/mirador/index.html?manifest=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/collection/digitalgallery/nihonzu/api/iiif/3/4aced7b8-20c0-4112-8c96-8fdf9698f48e/manifest.json
(なごし)名護市 名護・やんばる大百科ミニ 東江
URL=https://www.bing.com/search?q=%E5%90%8D%E8%AD%B7%E6%9D%B1%E6%B1%9F&qs=n&form=QBRE&sp=-1&ghc=1&lq=0&pq=%E5%90%8D%E8%AD%B7%E6%9D%B1%E6%B1%9F&sc=12-4&sk=&cvid=0E48F906FEFE4F788EF144EE08385AB5
(なごぺ)Nagopedia /東江 URL=https://sites.google.com/site/nypedia/home/area_nago/agarie
(ぶんか)文化庁 文化遺産オンライン 諸見里の村旗 URL=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/615180
(やふう)YAHOO!知恵袋 lfv********さん 2021/8/12 14:41 /沖縄北部民謡「名護ぬ七曲い」の現代語訳をご存知の方いらっしゃいますでしょうか。
URL=https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10247551620
(やまざ)山里自治会まつり URL=https://sites.google.com/view/yamazato0812/%E5%B1%B1%E9%87%8C%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BC%9A%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A?authuser=0
(らくた)らくたのスクール/球陽中学校の偏差値や倍率についてご紹介します。アクセス、口コミなどについてもご紹介いたします。
URL:https://rakutano-school.com/school/shosai/6171
(りゆうきゆうし)琉球新報 2016年03月09日「山里再開発、県が認可 事業費60億、17年完成 沖縄市」
URL=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-235644.html
(りゆうきゆうた)琉球タイムス 2021年9月30日「写真:コロナ収束 獅子舞い願う 名護東江で道ジュネー」
URL=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/gallery/838852

「FASE96-1@deflag.utinaR411withCoV-2_BA5.2#龍淵に潜む レキオに冬が来る\山里ルート」への1件のフィードバック

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