目録
人間界へ還り着き日記買う
畜舎を過ぎて人間界へ復帰しました。1411。
三叉路を右へ。ここから突然集落らしくなる。


150m北東 公民館

十字を右折。1417。ここが公民館でした。
謝名案内板。帰路便まで時間がなくなってきたので撮影。

※謝名公民館→GM.
→地理院地図
この画像は、次回に至るまで非常に重要なマップになりました。この回と次回・大島訪問に至る地点をプロットすると、次のようになります。

即ち、古・今帰仁湾の最奥にして袋状の盆地、最も海を恐れた場合の陸人にとっての防衛上の好地に、謝名・大島があります。現・集落はその北側微高地に広がり、国道505と接続の良い場所に移行してます。
時系列的にも、同じ案内内に、見たことのない総合史年表が掲示されてました。


(先史時代) 大島原の周辺に、貝塚時代の土器や石斧やすリ石などが出土する。
グスク土器や磁器などが出土し、グスク時代には人々が住んでいた痕跡がある。
ウタキ(お宮)を背に南斜面に集落が発運する(大島原)。
1648年頃 「絵図郷村帳」に「謝名村」とある。
17世紀中頃(略)大島原から仲原(ナーポロ)に集落が発達していく。
1712年(略)謝名村にアフリノハナという所あリ。昔,君真物出現の時,この所に黄の冷傘(ウランサン)が立つ時は,コバウの嶽に赤い冷傘が立つ。またコバウの嶽に黄色の冷傘が立つ時は,この所に赤い冷傘立つという伝えがある。(「琉球国由来記」よリ)
17世紀中頃に大島原から仲原(≒馬場所在地)に集落が発展する「導線」に、墓の谷がある──この事実を、どう解釈すれば良いのでしょう?
1712年の「冷傘」記述は、100%理解不能です。原典は次のものらしいけど──巻末参照。
伝承⑦ コバウノ嶽 神名 ワカツカサノ御イ
ベ 今帰仁村
謝名村ニ、アフリノハナト云所アリ。昔、君真
物出現之時、此所ニ黄冷傘立時ハ、コバウノ嶽
ニ赤冷傘立、又コバウノ嶽ニ黄冷傘立時ハ、此
所ニ赤冷傘立ト、申伝也(17)。〔後掲末吉〕
なお、裏にサンゴ岩の塊がある。拝まれてるかどうか分かりません。


【逆襲準備編】初回には見つけられない大島原
この訪問時は、公民館まで来ていながら引き返してます。だって「大島原」という根屋集落に、公民館案内でやっと辿り着てるけど、それがどこかまでは分からんじゃないか!
以下は帰着後に歯ぎしりしながら調べた情報群です。実地記録は別稿参照。
GM.(スポット:大島原と推測する場所)
参照① 今帰仁村/今帰仁村の集落・謝名
URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/rekishi/shuraku/802.html
乙羽岳の麓にある字(アザ)である。古い集落は大島原にあり、御嶽や神アサギがある。御嶽を背にして集落が南斜面に展開する。
参照②今帰仁村謝名/謝名の香炉,2004
URL:https://yannaki.jp/zyana1.html
謝名には大島原があり、そこの集落はプシマーやウプシマーと呼んでいる。プシマーは謝名ムラの集落の発祥地である。ウプシマーの集落は後方に御嶽(グシク)があり、その南斜面に集落が発達している。そのウプシマーには神アサギやニーガミドゥンチや地頭火神などの祠、祭祀と関わるサンケーモーが今でもある。
参照③ 仲原ほか調査報告
※仲原弘哲(今帰仁村歴史文化センター),上間恵子(今帰仁村文化財資料整理),仲里なぎさ(海洋博海洋文化館)「今帰仁村字謝名のアヤーチ(操り獅子)調査報告」
URL:https://yannaki.jp/aya-tisisi.html
集落があるのは、東仲原と西仲原でナーボロ(ナカバル)、大島原にウプシマ、前原にメーボロ、そして上手名原にウイジャナの集落がある。ウプシマは御嶽や神アサギなど拝所があり、謝名村の発祥と関わる古島タイプの集落である。ナーボロ(ナカバル)はウプシマからの移動や分家筋の人々が集落を形成している。
参照④ 沖縄X+GM.画像



──ということで、この初回、僅か150m南南西に山を越えなかった悔恨が……ふつふつと火種のように残ったのでありました。次回をご期待!

後の悔いなどいざ知らず、1444、今帰仁村役場前バス停に帰り着きました。
しかしまあ──高速バス乗り場とはとても思えないバス停です。しかも……この奥から運天港よりバスが来るはずなんだけど……景観としてはとてもそんなこと信じられませんけど?
雨くれ降ろちへ 榾 鎧濡らちへ

1458。バスが来ると、対面に着いた瀬底島-古宇利島バスからスーツケース持って駆け降りてくる男女。空港へ行くという中国人らしきカップルが、ワシを押しのけて乗っていきました。
つくづく痛感。えらく観光地になってるらしいね、このエリア。

このエリアの高校の名前の由来がやっとわかりました。「北山」高校──学校名にしてでも、北山の栄光を文字で残したいのである。よくよく県教委が認めたもんです。
けれどそれは……現代にあって、どういう今帰仁の情景を志向するのでしょう。沖縄共通の難題がさらに色濃く、うず高く覆い被さる中で、とりあえず今帰仁は観光的に成功し始めてます。
諸志共同売店が見えました。

モトブリゾート何とかの正面には藪の中にゴロゴロと亀甲墓が見えてる。この一体はどうやらそういうエリアだったから「空いていた」、つまり無主地のままだったところ,近代法制上は購入対象になっていったのでしょう。
中部沖縄のうちなんちゅは、その辺りの「防衛」を米軍政時代に公園化(又は知事公舎化)などの手法で行ってきた。でも北部は、そうした免疫が非常に弱いままの土地だと思います。そこに、今日見たような勢いで、今後米軍と外資と観光客が雪崩こんだとしたら──。

せりかくののろの
あけしのののろの
あまくれおろちへ
よるいぬらちへ
うむてんつけて
こみなとつけて
かつおうたけさがる
あまくれおろちへ
よるいぬらちへ
やまとのいくさ
やしろのいくさ
〔おもろさうし第14巻。※文意(推定):今帰仁勢理客の神女アケシノが、本部半島嘉津宇岳から通り雨を降らせて鎧を濡らし、運天小港に到着した日本の軍勢に(撤退させるための)士気を下げる呪いをかけたもの〕
冬ぬくし桜スタミナもやしそば

斯くして──3時間足らずの今回の今帰仁を終えました。
一緒に乗ってきた中国人は動きもしない。空港まで眠りこけてると推測されます。
「焼き肉もとぶ牧場」という増殖中のチェーン店は、名護市内にも進出してるらしい。
1612、名護市役所下車。

早めに帰着したにも関わらず──
宮里そば:早めに店仕舞
パイ工房:定休日
そこでサンエーに行ってみると「よもぎ小束」が一束残ってた!!あとゆしどーふも!!

さてそれでだよ……。
名護の夜はこれが最後。名護でそばを食べない?それはないだろう?ということで,自転車返した足でここしかないとこへ。
1703さくら食堂(市営市場)
スタミナもやしそば400

実はここしかない……とか言っても、何度も店の前は通り過ぎたけれど、どうも足を踏み入れかねてたお店です。
入るとただ割とポップでした。
驚いたのは──何人もが言ってるとおりではあるけれど、そばスープ。沖縄そばの出汁にスキヤキたれか何か分からない「二郎」的な怪味が混ざることで、何かブッ飛んだ味覚になってしまってる。

情報どぅ宝 尊徳 蓬豆腐
「情報どぅ宝」というCM。
──今検索するとヒットしないので、そんなに流行ったわけじゃなさそうだけど……。

短くしてしまった今回の名護ですけど、やはり悔いが残ります。中南部と北部を二股かけると、どうもソウル的に半端……という気がします。


にしても──よもぎとゆし豆腐がこんなに相性がいいとは……。
多分、内地には植物検疫上持ち込めません。この前、大坂大正へ行っても売ってなかったし──だから沖縄へ行ったら作ってみましょうね。ないちゃーの二人に一人は食えないかもだけど、生よもぎ。


■レポ:謝名の冷傘
上記「冷傘」原典は次の「琉球国由来記」でした。
伝承⑦ コバウノ嶽 神名 ワカツカサノ御イベ 今帰仁村
謝名村ニ、アフリノハナAト云所アリ。昔、君真物B出現之時、此所ニ黄冷傘C立時ハ、コバウノ嶽Dニ赤冷傘C’立、又コバウノ嶽ニ黄冷傘立時ハ、此所ニ赤冷傘立ト、申伝也(17)。〔後掲末吉〕
※アルファベットは注との対照記号で、引用者追記。次の引用も同様。
後掲雲見人によると、これに以下の記述が続いているといいます。
謝名村ニ、(上記末吉同・略)申伝也。
神道記Eニ曰ク。新神出給フ。キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アフリC”ト云物現ゼリ。其山ヲ アヲリ岳Fト云。五色鮮潔ニシテ種々荘厳ナリ。三ノ岳ニ 三本也。大ニシテ、一山ヲ覆尽ス。〔後掲雲見人〕
以上全体について、後掲雲見人さんの解説は次のとおり。
謝名村とは、当時、今帰仁の間切(管轄区)にあった村で、アフリハナAとは、御嶽の名前です。
コバウノ獄Dは、今帰仁城跡の近くにある御嶽です。
神道記Eとは、1605年に袋中という日本の僧侶が著した『琉球神道記』のこと。(他の文献を引用するということは、当時の編纂者も理解し難い伝承だったのではないかと推測します)
冷傘Cは、天蓋傘のことだとされていて、「あふり」という音読みが当てられています。
アヲリ岳Fとは安須杜の別名です。
君真物B、つまり「キミテズリ」という新神が出現する前には、黄、又は赤などの鮮やかな色彩をして、山を覆うほど大きな冷傘(あふり)がやんぱる(本島北部)の特定の場所に現れると記されています。〔後掲雲見人〕
語義補足
A アフリ(ノ)ハナ
場所は村内でも諸説あり、詳細不明。
(再掲)古老の話では,雲慶名御嶽はかつて謝名村の美謝原にあったが,御嶽のイビのミャー(庭)が狭かったため,現在の玉城地内に移したもので,「由来記」のアフリノハナはもとの雲慶名御嶽だという(今帰仁村史)。〔角川地名大辞典/謝名(近世)〕
B 君真物
ないちゃーの耳にはあまり入らないけれど、沖縄最古神とも伝えます。
それだけなら、日本神道の最古三柱神※と同じですけど、琉球神道の場合は、そうそう滅多に現れないウルトラの父母とかみたいなマレ神ではなく、国王一代に一度は現れるんだそうなので、まあハレー彗星よりちょっと多い位は現世に接触します。
キンマモン 1986年 沖縄県
奄美・沖縄の君祭りにおける君真物は女性来訪神事である。奄美・沖縄は際立って女性来訪が鮮明で、ノロを中心とする女性祭司社会に由来するものであろう。君真物出現はきわめて琉球王朝文化的であるといえる。〔後掲国際日本文化研究センター〕
キンマモン,キミテズリ,メガミ 1986年 沖縄県
君は古琉球語では神女という意味で、君真物(君手摩)も古くは女神と考えられていたという。〔後掲琉球新報社2003〕
テルコカミ,ニルヤ 1986年 沖縄県
君真物の内容は、テルコ神を壬の日に招き、ニルヤの諸神を招いて歓待するもので、農耕文化的な海神祭であったという。〔後掲琉球新報社2003〕
ただし、なまじ南西諸島全般で様々に俗世に接触するだけに、その性格は多岐にブレてます。海神という基本性格すらボケてる感があります。
ある意味、沖縄らしい神です。
キンマモン 1986年 沖縄県
海神キンマモンは毎月出現し、カヤを持って御嶽にこもってオモリを謡ったとある。これは君真物出現の神事が琉球王府の宗教行事として実修されていたこをと意味し、印判ノロ統御下の奄美のノロ達によるウムケー・オーホリも琉球宗教政策の一環であったという。〔後掲琉球新報社2003〕
キンマモン 君真物。琉球の国土人民を守護するために現れるという神で、聞得大君に憑依する。海底の宮に住むという。国王を慶賀するキミテズリ(君手擦り)の神と対をなす。〔後掲琉球新報社2003〕
アラフリ 1931年 沖縄県
沖縄の海岸域では、あらふりといって、神女(君々・祝々)が海の中に神となって現れることがある。〔後掲琉球新報社2003〕
従って、沖縄の海神の最も古い出現形態の一つ、と押さえておけば間違いはなさそうです。

冷傘 on the 辺戸・安須森御嶽
上記の冷傘伝承は、今帰仁・コバウノ嶽についてのものですけど、琉球国由来記は、辺戸・安須森御嶽についても同様の「冷傘」出現譚を記しています。
安須森は琉球開闢九御嶽の筆頭、文意としてはアマミク神が最初に作った御嶽です。この記述には、今帰仁・コバウノ嶽も謝名・アフリノハナも登場しません。いわば、コバウノ-アフリの関係が、首里-安須森の関係を複製したように、構造的に対照している、とも言えます。
【原文】阿摩美久土石草木ヲ持下り嶋ノ数ヲハ作リケリ先一番ニ國上邊土ノ安須森次ニ今鬼神ノカナヒヤフ次ニ知念森齊場嶽藪薩ノ浦原次ニ玉城アマツ々次ニ久髙ユバウ森次ニ首里森真玉森次ニ嶋々國々ノ嶽々ヲハ作リテケリ〔「中山世鑑 全」伊波普猷文庫IH023(琉球大学附属図書館所蔵), URL:https://doi.org/10.24564/ih02301 巻一「琉球開闢之事」〕
〔後掲寡黙庵2005〕-300x224.jpg)
上は3km南南西の宇嘉(GM.)、下は1km南の宜名真神社(GM.)付近から見た安須森です。三本角の頂をご記憶下さい。

下記「三ノ岳ニ三本也」は普通に考えると三つの角がそれぞれ傘をさすのでしょう。キミテズリが降臨するのは八月か九月、一日だけで、その時に安須森の三兄弟の丘がそれぞれ傘をさす。
──解釈すらできない、途方もないモチーフです。
でもその三本傘が現れると、首里王宮でも三十余の傘をさす。多分それで、安須森に降りたキミテズリ神が、王権と接続されるのでしょう。知らんけど。
新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。〔原典:『琉球神道記』(1603年)・『琉球国由来記』(1713年)←後掲寡黙庵2005〕
安須森を神が降りる場所と捉えれば、対になる今帰仁や首里は、その神を現世王権に接続する祭祀の場だということになります。その降臨の姿が「冷傘」で、その現象に対し受動的に、首里では傘を立てる儀式を行うらしい。
国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。〔後掲寡黙庵2005〕

首里で傘を立てる儀式は、「君手擦りの百果報事」と呼ばれることが多い。これは、どうも後世には一の王権について一度行われるようになったらしいけれど、本来は一の「安須森への降臨」に対し、一の王権が生まれる、という儀式のように読めます。
君手擦りの百果報事について「中山世鑑」「球陽」「遺老説伝」等の複数の史料によって検討を行なった嘉手苅千鶴子によると、この祭祀は王府の年中行事ではなく、八、九月の間に沖縄本島北部の国頭の深山に冷傘( 「アフリ」 )が現われた年の十月に、高級神女の「君」が「キミテズリ」として王城に出現し、この神のもと、首里城で盛大に行なわれた祭祀であるという。祭祀の目的は、君が神の世界(「おぼつ」)から霊力(「せぢ」)を降ろして国王に奉り、王権を呪的に強化することにあったという(嘉手苅一九八八:三一三~三二四)。〔後掲澤井 3枚目p55〕
ピクシブは、特にキンマモンを二分し、天からのそれをキライカナイノキンマンモン、海よりのそれをオホツカケラクノキンマンモンと区分しています。「キライカナイ」はまず間違いなく「ニライカナイ」ですけど、海でなく天なのは面白い。
チンマムン(Cinmamun)もしくはキンマンモンとも表記される琉球神道に伝わる女神の一柱。漢字では「君真物」と書かれるが、これは「最高の精霊」という意味であり、琉球王国の守護神である君真物と同一視されてきたとされる。
海の彼方より来訪し、最高神女(ノロ)である聞得大君へと憑依するといわれており、琉球に浄土宗を布教する為に訪れた袋中良定著の『琉球神道記』の記述によれば、キンマモンには陰陽が有り、天より降って来た方をキライカナイノキンマンモン、海より上がって来た方をオホツカケラクノキンマンモンと呼んでいるという。
また滝沢馬琴著の小説『椿説弓張月』の記述によれば、人間の守護神であり、海底を宮にしており、毎月出現して人々に託宣をもたらしているといわれている。〔後掲ピクシブ百科事典〕
F 安須社
辺戸御嶽(安須森御嶽) URL=GM.
また、沖縄県の記述では、この「キミテズリ」儀礼は第一尚氏のもの、つまり聞得大君以前の儀礼だったとも言います。
第一尚氏王統(1406~1470)の頃、新しい王の琉国王としての即位の可否を占うため“首里森御嶽”の降臨神である“キミテズリ(君手摩)(1)”の神をお迎えし、琉球王国最高神女の佐司笠(さすかさ)(2)を中心とした高級神女が神事をおこないました。〔後掲沖縄県2024〕
(2)佐司笠(さすかさ) 第一尚氏王統(1406~1469年)までの琉球国最高神女で久米島や山南の最高神女が担っていた。
ここから逆算して読めば、

しかしです。なぜ、謝名がそんなに重要な呪術的位置に立つのでしょう?--粗く考えるなら、やはり古・今帰仁湾に来航し、集落を構えた場所がそこだった、というような話になりそうですけど、そこまでは到底実証材料はありません。
ただ、謝名が何かのキーポイントであった可能性のみを指摘して、もう少し落ち着いた一般論に移っていきたいのですが、もう1点──謝名を含む4ケ字で共有される玉城・スムリナ御嶽拝みのことを飛ばすわけにはいきません。こちらの拝みの方向は、北西・今帰仁
四村の玉城拝み
今帰仁の論考では何度か参照させて頂いた寡黙庵さんは、何と謝名・大島にお住まいの方らしい。(後掲楊は謝名の御嶽での拝みを確認できないと書いていますけど、2018年に寡黙庵さんは実際に参加されている模様)
今帰仁村玉城のスムチナ御嶽で行われるタキヌウガンの調査。四ヶ村(字)が参加しての祭祀。玉城ノロ管轄の祭祀である。スムチナ御嶽には四ヶ字の人々が集まり、そこでのウタンが終わるとそれぞれの字でのウガンがある。今回は仲宗根に参加予定。玉城になるかも。
【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】
旧暦4月15日に行われるタキヌウガン。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字(アザ)合同の祭祀である。(玉城は寒水村と岸本村が合併した村(ムラ)でタキヌウガンに参加するのは玉城のみ)(続)〔後掲寡黙庵2018〕

(続) コモケナ(スムチナ)嶽そこでの祭祀や唱えについては、なんら記されていない。しかし、四ヶ村合同の祭祀となると重要な祭祀であったと見られる。今帰仁グスク近くにある「コバウノ嶽」がある。そこでの祭祀は国(クニ)レベルの祭祀だと言い続けている。北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里に引揚げる(1666年)までは今帰仁アオリヤエの崇所であったとみている。『琉球国由来記』(1713年)の頃はクボウノ嶽は今帰仁ノロが肩代わりしておこなっていた。
謝名村に、(上記末吉同・略)、申伝也。
また、コボウノ嶽での唱えは、以下の通りである。
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。
スムチナ御嶽もクボウヌ御嶽と同様タキヌウガンの名称でウランサン伝説があり、国(クニ)レベルの祭祀ではなかったか。
スムチナ御嶽でのウガンがすむと、玉城は神アサギへ、仲宗根はヒージャーガー、集落内のアガリギッチョへ、謝名はサンケモーへ、平敷は神アサギへ。そこでタキノウガンが無事終わりましたのでウガンで祭祀は閉じる。その後、村人達がオミキを酌み交わし、玉城は神アサギ内でご馳走を前に直会。〔後掲寡黙庵2018〕

安須森-首里、謝名アフリ-今帰仁コバウよりさらに古いと想定される、四ケ字(謝名・サンケーモー)-玉城スムチナの第三の類似構造は、大胆に言えば「今帰仁王権以前の北山」を想像させます。この観点からも、やはり謝名大島の「巨大さ」が見え隠れするのです。
なお、楊さんは実直に、謝名の拝みの対象となる玉城スムチナが、視野として実際に謝名サンケーモーから見えたのか、という証明をしています。見えたことが確認されています。
過去の資料からは,旧中心地の大島原東部にあるサンケーモーがスムチナ御嶽に対する遥拝空間であることは伝わっているが,現在は祭祀自体が変化し,サンケーモーでの祭祀はほとんど実施されていない。そのため,サンケーモーから実際に遥拝が可能なのかは確認できない。そこで,サンケーモーの祭祀空間における空間的特徴を明らかにするために ArcGIS を使用し可視化分析を行った。分析ではサンケーモーを観測ポイントに設定し,観測ポイントから 1.5m の高さから見過ごせる領域を示している。その結果が図 17 である。図の濃い色の地点が可視範囲で,サンケーモーからスムチナ御嶽を実際に肉眼で見ることができることが明らかになった。〔後掲楊/20-21枚目p564-5 Ⅲ4.祭祀空間の多重的な構造形態〕

謝名 in the 角川
かくしてやっと基本に戻ります。謝名の角川表記です。
ウンジョウヘイまたはグシクンシリと呼ばれる御嶽が,村にとっての腰当の森である。その南斜面に,村発祥の地,ウフシマ(大島)集落があり,その他の集落は近世中期以後のもの。大島集落には謝名アシャギ・サンケイ毛などがあり,また乙羽岳から炬港に注ぐメーヌカーが前田原の水田を潤していた。ここからは玉城【たましろ】村の雲慶名【すむちな】御嶽を拝することもできた。その後,北方の海岸台地を開発して,集落を移した。集落形態は隣村の平敷【へしき】村と類似し,集落の端がクリンジャフと呼ばれる谷になっている。王府に納める諸物資の集積所があり,在番が置かれた。咸豊8年(1858)山敷憔悴により,おつわ山(乙羽岳)1万8,000坪が,4年間開地作職御免となった(地方経済史料9)。拝所に神アシャギがあり,玉城ノロの祭祀(由来記)。「由来記」にアフリノハナという場所が見え(旧記では鐙花嶽),蒲葵【くぼう】御嶽とともに,琉球古神道の最高神であるキンマムン(君真物)についての伝承がある。古老の話では,雲慶名御嶽はかつて謝名村の美謝原にあったが,御嶽のイビのミャー(庭)が狭かったため,現在の玉城地内に移したもので,「由来記」のアフリノハナはもとの雲慶名御嶽だという(今帰仁村史)。〔角川地名大辞典/謝名(近世)〕
もしかすると「墓の谷」が上記文中の「クリンジャフ」に当たる可能性はないか、とも考えましたが、導線的に同位にあるだけで証明材料に欠けます。
また最後の「古老の話」中、アフリノハナが「かつて…美謝原にあった」という話は、要するに大島よりさらに古い時代のプレ・根屋が美謝原(下記小字図参照、現・大島原の南東山手)にあって、それが玉城に移った(又は奪われた)可能性を示唆します。
〔後掲楊〕-300x192.jpg)
謝名の南北断面
謝名は,東仲原,西仲原,頭原,伊地那覇原,大島原,東大棚原,謝名俣原,前田原,西大棚原,上手名原,大久保原,真良原,迫田原,美謝原,前原,乙羽原の 16 小字から構成される(図3)。乙羽岳を主峰とした山並みを抱く乙羽原が約半分弱の面積を占めている。大島原は古い集落である。田という字が付いている地名はかつての水田を示しており,小字名からは昔の地形の特徴と土地利用を確認することができる。
乙羽岳の麓の斜面に部落が形成され,中心部には,グシクンシリーと呼ばれる謝名の中心地帯である森が東西に走っている。この森を臨むように住居が南斜面に展開している。〔後掲楊/7-8枚目p551-552 Ⅱ1.謝名の自然と小字 1)構成形態と自然地形〕


上記は、歩いた実感上すごく納得できました。謝名大島は、現集落圏より一山南側、南から北へたどれば海水面に至る前の盆地に当たります。
謝名の歴史を編んだ『じゃな誌』によると,明治 36 年以前の謝名は,地割制度がとられており,「貧富および耕耘力」によって土地の配分が行われていた。この時期には,まだ謝名に越地地区が含まれていた。昭和 12 年に分字し越地は独立するのだが,「沖縄各間切村原名」には各間切り村の名が示され,分字の経緯をうかがうことができる(じゃな誌編集委員会編,1987: 99-101)〔後掲楊/11枚目p555 Ⅱ2.謝名の歴史 3)明治の謝名〕
近世のイベント的な中心になる仲原馬場方面の越地は、昭和までは謝名の一部だったようです。つまり謝名が仲原馬場方面を経て海側へこぼれだすことによって、越地が生まれた、というイメージで集落が発展したらしい。

腰当概念 in the 楊論文
楊さんは、謝名の伝統的な位置の特異性を評価する、知る限り唯一の研究者です。多分、在住の寡黙庵さんもそうでしょうけど、ひいき目を自覚して隠しておられるのだと思いますが。
本研究の対象である今帰仁村謝名集落は,近代化の過程で文化のアイデンティティを守り,文化の系譜を継承することに取り組んできた。しかし,沖縄本島北部の遠隔地であることや,文献的史料が少ないことから,その文化に関する研究はほとんど行われていない。しかし,謝名集落は琉球王国の腰当思想や祖先崇拝など古い文化を持ち,集落の伝統的な風景は,このような考えに基づいて形作られている。〔後掲楊/4枚目p548 Ⅰ1-1.研究背景/5)腰当思想の概念〕
なお、抽象的になりますけど、楊さんの「腰当」概念整理はなかなか人間的で分かりやすかった。転記しておきます。
琉球王国の土着文化である腰当思想に関して,沖縄の代表的な地理学者である仲松は,つぎのように述べている。「腰当(くさて)とは,幼児が親の膝に座っている状態と同じく,村民が祖霊神に抱かれ,その膝に座って腰を当て,何らの不安も感ぜずに安心しきってよりかかっている状態をさしている(仲松,1990: 12-29)。祖霊神とは,村落の鎮守の神であり,守護神である「おそいする神」である。村人からすれば,「腰当神」である。鎮座している御嶽を「腰当森(クサティムイ)」と称する。祖霊神は血のつながる祖先神,祖霊神は村の祖先神,祖霊神と村人とは,血のつながる親子関係になっているからだ。抱護たる腰当森は,単に風や湿気から物理的に守るだけでなく,日常生活の中で心理的な安心感を味わうことができるのである。つまり,腰当のある場所は,先祖の霊や神々に守られている場所なのだ。〔後掲楊/4枚目p548 Ⅰ1-1.研究背景/5)腰当思想の概念〕

さて、謝名の歴史に話を返しますと、ここの先史と中世とは滑らかに繋がっている感じを楊さんも受けておられます。謝名の古代・中世の史料はほぼ見受けられないにも関わらず、この感覚をワシも実感しました。もちろん、楊さんも十分論理的に説明できていませんし、ワシも材料を持ちませんけど。
謝名集落の大島一帯はウンジョウヘイ遺跡が残されていることから,貝塚時代から定着的集落がすでに存在したと推察できる。南向き地形の前田原は,以前から耕作地として農業が盛んな場所なことから,農業に基づく定着性集落は,山や丘の南向斜面に立地している。人家が密集した場所には,前面の耕作地の前田や近傍砂丘地帯の兼久に小集落が形成されている。このような定着村落はマキョ(マク・マキ・クダ・フダなど)と称され,後世にはムラ(村)と呼ばれている。〔後掲楊/5枚目p549 Ⅰ1-1.研究背景/6)沖縄の固有信仰と神女組織,門中宗家〕
次回訪れることになる大島原の御嶽は、遺跡としては「ウンジョウヘイ」、御嶽としては「グスクンシリー」と呼ばれるようです。
仲原ら(2008)によると,今帰仁村字謝名は今帰仁村の中部地区にありジャナと呼ばれる。謝名の大島原に御嶽があり,そこはウンジョウヘイ遺跡と呼ばれる遺跡ともなっている。御嶽の後方はグスクンシリー(グスクの後方)と呼ばれ,御嶽はグスクとも呼ばれる。集落は御嶽の内部から次第に南斜面に発達した痕跡がみられる。現在の集落部分は大島原(ウプシマ)と呼ばれ,御嶽を背にした古島タイプの典型的な集落を形成している。〔後掲楊/6枚目p550 Ⅰ1-2.研究目的とその方法〕
謝名の祭祀空間配置
さて、楊さんの研究手法は、風水的な事象をマッピングしていく戦術ですけど、その嚆矢となる図が次の図でした。次回も含めた謝名の歩きの実感に、これは実にマッチします。
もしあなたが訪問を考えておられるなら、この地図をお持ち頂ければ、とご推薦します。
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謝名には住民が御嶽と呼ぶ空間が存在するが,『琉球国由来記』では謝名の祭祀空間はアサギしか存在しない。そのため本稿では住民が御嶽と呼ぶ場所については祭祀空間としての分析対象とはしない。このような前提のもと村落祭祀を実施する場所を挙げれば,神アサギ(図 11:引用者注 アサギ画像)と呼ばれる空間がある。かつては,茅葺きのものが多かったが,現在は寄棟のコンクリート造りのものも数多くある。謝名の神アサギは大島原にあり,祭祀は玉城ノロの管轄だ。昭和初期までは,神アサギ周辺に屋敷が並び,後の殿内(桃原家),前の殿内(仲原家),イリン殿内(大城家),地頭火神,根神殿(図 12:引用者注 根神殿内・世神殿内画像)などがあった。神アサギには,ナーといわれる小さな庭があり,舞台を設営して豊年祭を 4 年ごとに実施している。(じゃな誌編集委員会編,1987: 136)〔後掲楊/18枚目p562 Ⅲ2.腰当思想にもとづく景観 2)祭祀空間の分布〕
史書上は謝名には「アサギ」しか記録されないらしい。でも伝承では、アサギ周辺には「神々のマンション」が存在したらしい。
ただし、なぜ現状の三社のみになったのかは、語られたものがありませんでした。


(付録)謝名の地番配置
以上をなぞる形になってしまいますけれど、mappleによる地番のレベルでも、謝名の各所は有意な配置を取っていました。

A R505沿 : 南北に三列ないし四列、東西にも同じ幅程度の正方形大の地番が整然と並びます。近年の地番設定なのでしょう。少なくとも、伝統的な地割のなされてない地域です。
B 墓の谷 : クリンジャフ(?)。墓所ごとに、周辺にないほど細かい格子状の地番境が走っています。おそらくD同様に所有権不明瞭なままの土地だったものが、墓の所有者が明確なものだから、役所側で各管理者に地番を振り分けたのでしょう。
C 大島集落 : 典型的な地割地です。分割の度合い(短冊の細さ)もばらばらで、何代もの相続を経てきた様子を伝えています。ただ他よりは細かさ(細さ)が極端でなく、大きい(太い)短冊も多い。これは近代以降のどこかで合筆がなされたものでしょうか、それとも近世以前から無主地になった畑の移譲が行われてきたものでしょうか?いずれにせよ、謝名の集落としての脈々たる古さに比べ、何かの復元運動が行われたことを疑わせる違和感を感じさせます。
D 大島御嶽 : グスクンシリー(?:城の後ろ)。一筆地のまま。こんな大きな筆は、周辺にはJAと小学校しか見当たりません。他の同等高所の分筆が進んでいることとの対照からも、趣旨的には霊地だから、おそらく民法的には自治会などの共有地だから、という理由でそのまま据え置かれていると思われます。所有権者が個人が法人かを知りたいところです。

〉〉〉〉〉参考資料
URL=https://www.pref.okinawa.lg.jp/bunkakoryu/bunkageijutsu/1009673/1009695/1009698/1009700.html
(かもく)寡黙庵
/2005年6月24日 【国頭村辺戸】 URL=https://www.yannaki.jp/hedo.html
/2018年5月の記録 2018年5月29日(火)【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】
URL=https://www.yannaki.jp/20185kiroku.html
(くもみ)雲見人 2013-05-23 文献史料に見るやんばるの不思議な話
URL=https://ameblo.jp/chikulin-houshi/entry-11535989516.html
(こくさ)国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース キンマモン URL=https://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiDB3/simsearch.cgi?ID=0770162
(さわい)澤井真代 2022「『おもろさうし』第七「はひのおもろ御さうし」の特質 -「君手擦り」のオモロとの比較から-」『立正大学人文科学研究所年報』59号, p.53-73, 発行日2022
※立正大学学術機関リポジトリ URL=https://rissho.repo.nii.ac.jp/records/10420
(すえよ)末吉亜梨沙(佐々木 高弘ゼミ)「琉球王権と神話の歴史地理学的研究」
※京都先端科学大学 /学生卒業研究(2014年度) URL:https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/human_association_2014.html
/歴史民俗・日本語日本文化学科
PDF URL:https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2014/h2014_01.pdf
(ばいた)バイタミックス(Vitamix) 蓬豆腐
URL:https://www.vita-mix.jp/recipe/mugwort-tofu/
(ぴくし)ピクシブ百科事典 キンマモン URL=https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A2%E3%83%B3
(やんや)楊屹 2024「今帰仁村謝名における伝統的集落景観の構造理念」『ジオグラフィカ千里』第3号 p545-569
※関西大学大学院文学研究科博士課程前期課程 (2023 年 11 月 14 日受付,2024 年 1 月 19 日受理)
※関西大学学術リポジトリ URL=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/2001511
PDF URL=javascript:OnLinkClick(‘/record/2001511/files/KU-1100-20240302-33.pdf’, 2001511, ‘open_access’)
(りゆう)琉球新報社 沖縄用語辞典 公開日時 2003年03月01日 キンマモン URL=https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-41141.html


