私は今いったい何をしたのだ?@ことばぐすい

思ってもいなかったことができてしまった

 長年武道の稽古をしてきてわかったことの一つは,術技上のブレークスルーは「そんなことができると思ってもいなかったことができてしまった」という経験だということです。それを目指して稽古していたわけではないのに,ある日不意に「そのような身体の使い方があるとは思いもしなかった身体の使い方」ができるようになる。できたあとになって,「今私は何をしたのだ?」という問いが遡及的に立ち上がる。そして,「できてしまったこと」についての仮説やそれを名づける語彙が事後的に生まれる。真のイノベーションというのは「そういうもの」です。
(文庫版あとがきより)

自分を鳥瞰できる視座に立つ力

 リベラルアーツというのは定義しにくいんですけれど,とりあえずは自己教育・自己陶冶のベースを作るものということでいいかなと思います。自己教育・自己陶冶はエンドレスです。終わりがない。大学を卒業しても自己教育は死ぬまで続きます。リベラルアーツというのは,その自己教育の起点を作るための教育というふうに考えていいんじゃないかと思います。卒業生が転職とか結婚とかの節目のときに,よくやって来ます。そういう時によく聞くのが,「大学時代に教わったことの意味が最近ようやくわかってきました」という言葉です。これを,僕は「卒業教育」と呼んでいます。大学教育は四年で完了するものではない。そこで学んだことの意味は卒業した後に事後的に,長い時間をかけて構築されてゆくものなんです。だって,教育の基本は「自学自習」なんですからね。学校でできるのは,「自学自習するきっかけ」を提供することだけです。自分をより知性的たらしめよう,倫理的な人間になりたいという決意以外のもので,人を強制的に知性的にしたり,倫理的にしたりすることはできません。大学で教えるのは,自分自身を上空から鳥瞰できるような視座に立つ力,それだけで十分だろうと僕は思います。知的開放性とはこういうものだということを自分の身体を通じて実感してもらえれば,あとは自分でいくらでも学ぶことができる。(大学教育の未来から)

[内田樹「街場の大学論 ウチダ式教育再生」,角川文庫,平22]

ま,いいすよ。原稿書いてられるなら

 研究者に必要な資質とは何か,ということをときどき進学志望の皆さんに訊ねられる。
 お答えしよう。それは「非人情」である。それについてちょっとお話ししたい。大学院に在籍していたり,オーバードクターであったり,任期制の助手であったり,非常勤のかけもちで暮らしていたりする「不安定な」身分の若い研究者たちにとっていちばん必要な知的資質はその「不安定さ」を「まるで気にしないで笑って暮らせる」能力である。
 ご存じの通り,大学はいま「冬の時代」であり,大学がつぶれて,生首を切られて路頭に迷う大学教師があと数年で珍しくなくなると予想されている。その時代に他人をおしのけて研究職に就くことは想像を絶する至難の業である。この先,おそらくいま博士号を持っている人たちのうちの半分も定職には就けないだろう。
 そのような時代においてあえてこの道を選ぶ以上,それは「生涯定職なし,四畳半暮らし,主食はカップ麺」というようなライフスタイルであっても「ま,いいすよ。おれ,勉強好きだし,好きなだけ本読んで,原稿書いてられるなら」と笑えるような精神の持ち主であることが必要である。
 たとえ才能があっても評価されず,すぐれた業績をあげてもふさわしいポストが提供されない,という「不条理」に若手の研究者の過半はこののち耐えなければならない。もちろん普通の人はこんな「不条理」には耐えられないし,耐える必要もない。

それ以外の人は条理の通る世界に進む方がいい

 能力に対して適正な評価がなされ,働いた労力に見合う対価が得られる職業は探せばいくらでもある。「不条理」がいやだという人はそういう「条理の通る」世界で生きる方がいい。この「不条理な世界」を平気で生きられる人は,二種類しかいない。
(1)この世界以外ではまったく「つぶしがきかない」人
(2)自分がいま研究していることに夢中で,毎日が楽しくて仕方がない人
 いま大学の教師の70%は(1)であり,20%が(2)である(あとの10%はどうみても営業マンとかバーのマスターとか政治家とかの方が向いているのに大学の教師なんかやっている「変わりもん」である)。それ以外の人はこの業界には向かない。「条理の通る世界」に進む方がいい。
 私が研究者の資質として必要であると思うのは(2)のような精神構造である。それを私は「非人情」と呼んでいる。

「困っている人を救おう」と考えるのは大抵「非人情」な人間

「非人情」と「不人情」は違う。「不人情」は,他人の「人情」(他人が自分をどう思っているか,自分は何を期待されているのか,自分がどうふるまうべきか)がわかった上で,それを無視する人間のことである。「非人情」とは他人の「人情」というものをそもそも自分の行動決定における初期条件にカウントしない人間のことである。他人が自分をどう思っているかというようなことは,はなから「非人情」な人間の思考の主題にならないのである。
「非人情」の人間の場合,「私はこうしたい,これが知りたい,これを語りたい」という強烈な欲望だけがあって,他の人が自分に何を期待しているか,その結果を他人がどう評価するか,自分の言動が他の人にどういう影響を与えるか,というようなことはほとんど念頭にのぼらない。
「非人情」な人間も「不人情」な人間も他人を配慮しないことには変わりはないが,「非人情」な人間は必ずしも他人に害をなすわけではない。(「世界中の困っている人を救おう」というような途方もないことを考えるのは,たいてい「非人情」な人間である。)
 友達が窮迫してお金を借りに来たときに,それを断って定期預金にするような人間は「不人情」である。友達に同情して有り金ぜんぶ貸しておいて,家では妻子がお腹を減らして待っていることをころっと忘れてしまうような人間は「非人情」である。

パースペクティブが狭い状態と広い状態を痙攣的に行き来する

 違いがおわかりだろうか。つまりパースペクティブが「めちゃくちゃ狭い」状態と「めちゃくちゃ広い」状態を痙攣的に行き来するために,適正なパースペクティブ――家族とか地域社会とか業界とか,要するに「人情」が規範的であるような境域――に対する配慮が構造的に欠落している人を「非人情」と呼ぶのである。
 で,私が思うに,研究者に限らず,独りで何かをやろうとする人に必要な資質はこの「非人情」である。私の知る限り,楽しそうに仕事をしている研究者や芸術家やアントレプレナーはみなさん折り紙つきの「非人情もの」である。
 非人情でなければ「不条理」に耐えてなおかつハッピーに生きて行くことはできない。四畳半でカップ麺を啜りながら,自分の原稿を読み返して「おいおい,おれって天才か。勘弁してくれよ。そういえば,心なしかおいらを祝福するように空がやけに青いぜ」と温かい笑みを浮かべることができるようなタイプの人間だけが,いまの時代に幸福に生きることができる研究者だろうと私は思う。
 大学院進学を予定している学生さんたちは自覚して,自分がどれほど「非人情」であるかをよくよくチェックすることをお薦めしたい。
(01年1月12日)

(内田樹「街場の大学論 ウチダ式教育再生」角川文庫,平22,p196)