近代を忌避するオレ様@ことばぐすい

(p26:はじめに)
〈近代化が終わったのにだれもそのことをアナウンスしないし,個人的な価値観の創出も始まっていない〉と村上氏〔引用者注:村上龍『文藝春秋』(1997年9月号)「寂しい国の殺人」〕は述べる。私は近代化の終了が表現の世界(意識が言葉になる世界)で認知されるのには,必ず時間差があると思う。ここ日本では相変わらず「日本は遅れている」(真の近代化がなされていない)と言いたがる人が(とりわけ表現の世界で)多い。だが,言葉で「アナウンス」されるのはずっとあとになろうとも,「近代化されている」生活が人々の身体や感覚にすでに「アナウンス」しているのではないか。すでに1970年代後半から子どもたちはその「アナウンス」を「聞き」,それまでにない新しい〈個人的な価値観の創出〉に向かって動きだしていると考えられないだろうか。

 日本の公教育が育成が目標としている近代的な市民(国民)の育成は,1970年代前半頃までは「うまくいった」が,1975(昭和50)年以降と想定されている大量消費社会,高度情報化社会の到来によって不安定になり,「うまくいかなくなった」と私は考えている。

 私が単純に思うのは,「個」が自立したら,また〈個人的な価値観〉が確立したら,いままでの問題がすべて消失し人間が自由になれる(問題が発生しなくなる)という確信はどこから得られているのかということである。そういう確信は誰も哲学的に保証していない。近代の迷信の一種か西欧へのコンプレックスのもたらしたものではなかろうか。むしろ,「個」が自立し,自由になりはじめたから「個」が不安定,不確定になったと考えたほうがずっと自然であろう。

(p57:第一部(三)幼児期の全能感と「特別な私」/比較の拒否)

 もうひとつの「新しい生徒」たちの大きな特徴は「比較をしなくなったこと」である。比較にはたとえば「理想的な人間像」と自分とを比較する最上級的な比較と,自分と他人とを比較する比較級的なものがある。両方ともしなくなった。クラスや班のなかで生活していても,自分がどう見られているか,自分がどの位置にいるかを気にしなくなった。日本的な「世間」は消失したのである。

 大リーガーのイチロー選手が〈成功とはあいまいなものだが,それはまわりの人が決めるものではなく,あくまでも自分が決めるものだ〉(要旨)とテレビでしゃべっていた。ああこれこれ,この世代の頑なさだよねと納得してしまった。〈成功とはあいまいなもの〉の意味が私にはまったくわからない。イチローも自分の認める以外の「外」の価値を認めていないのであろう。
 比較の拒否とは近代の忌避とも考えられる。比較とは近代の本質のひとつであるからである。人と人とが比較されるようになるのも近代になってからである。武士と農民ではユニット〈単一性〉が異なるから,誰も武士Aと農民Bを比較しようなどと思わなかった。みんな同じひと〈人間〉という観念は言うまでもなく近代のものである。身分制社会ではその生まれによってそれぞれの固有の価値が決まっていた。個人という概念もなかったし,人のAとひとのBが比較されるなどとは考えられもしなかった。したがって,近代的な個人という考えが誕生し,個人と個人が比較されたり,身分にかかわらず能力的な競争ができるようになったことは人間の自由の前進であるとも言える。
 問題なのは,ひとのユニットである近代的個人というものが単なる「ひとりの人間」を指していないことである。近代的個人としての共通項(共通の資質)を持っていることが求められる。近代社会とはどういうものかについての知識や技量,市民生活に参加する政治的能力など,近代社会に生きる個人に必要とされるものがある。近代人はどんなありようも許されるわけではない。近代的な個人や市民といった場合,その個人特有の思い込みや自己認識を超えたある客観的なありよう(「客観値」)が求められる。たとえば,A君とB君が比較されるとする。ものを比較するときもそうだが,同じユニット(単一の形)と認識されなければ,比較できない。比較されるということは,すでにA君とB君がほぼ「同じもの」であると認定しているのと同じなのである。A君やB君の持つ「この私」とか「かけがえのないこの私」という感情や確信は,ここではまったく考慮されない。A君やB君の内面の「私の独特なあり方」や「私が私である感情的根拠」のようなものがいったん捨象(否定)されてしまう。

 つまり,「消費社会期」の子ども(若者)たちは自己が自己であるという確信を「私が私である感情的根拠」のようなものに求めている。人はそれぞれ他人には理解されないような「私そのもの」といった感情や確信を持っている。これは自分にしかわからないもので形状や質量やユニットを持たない。形状や質量やユニットを持たなければ比較しようがない。他人の「私そのもの」と比較しようがないものだから,自分にとっては絶対的なものである。他人の「私そのもの」が見えれば自分の「私そのもの」と比較ができ,自分の「私そのもの」は相対化されてしまうが,こういう人の自己の原型であるような「私そのもの」は自分にとっては絶対的である。ふつう,そういう「私そのもの」に,ほかのみんなと共有性を持つ市民とか個人という仮面(ペルソナ)をかぶって人は生きてきたと考えられる。「オレ様化」してきた新しい子ども・若者たちは,そういう近代的な個人としての能力に欠けてきているのではなかろうか。
 江戸時代の農民は「私そのもの」にすこしばかりの社会的な力を身につけていれば一生生きていけたのかもしれない。商人になると読み・書き・そろばんのほかに,市場や他の地域のことを知るかなりの社会的な力を必要としたろう。近代人は「私そのもの」に依拠して生きることはできない。「知」と「生産」と「政治」と「自己」の主体にならなければならなくなったからである。だから,近代の公教育が必要になり,子どもたちからそういう全般的な知的な生活主体を形成するのが普通教育の任務となった。
 人の持つ「私そのもの」「この私」のような「自己感情」的なものは,幼児期からの「全能感」が温存されたものであろう。「全能感」はなくならないし,誰も「全能感」を捨て去ることはできないが,精神分析的には「超自我」によってこれを抑えると考えられている。もちろん,「超自我」といった道徳や良心の形成には「象徴的な父」との出会いが不可欠である。キリスト教を欠くために「象徴的な父」をも代行する日本の学校(教師)は,子ども(生徒)たちの「私そのもの」を抑え,近代社会にふさわしい市民(個人)を構成するために近代の技法である「比較」を,成績のみならず生活面においても多用してきた。したがって,「比較」を拒む「消費社会期」の子ども・若者たちは近代人としての「私」を装うことができず,比較可能な「この私」に後退しているとも考えられる。学校は成績評価,人物評価,規律や規範を提示することによって,子ども(生徒)たちに近代的な個人(市民)の「客観値」を示し,自己との距離を測らせようとする。距離が測れるようになるということは,「私そのもの」へのこだわりを少なくして,世の中に通用するおとなになることだと表現してもいい。

(p197:第二部(十二)村上龍──『13歳のハローワーク』とゆとり教育)

 子ども(生徒)はみんな「勉強しなければならない」「勉強したほうがいい」ことを知っている。子どもたちの「自我」はそのことをよく知っているが,身体(自己の本体)がなかなか動かない。「自我」は子ども(ひと)を動かす「主体」ではないからである。「自我」が「主体」だったら教育はとても簡単になるが,世の中はとても危険になる。誰かを「殺したい」と「自我」が思ったときに殺すからである(ふつうは「自我」がそう思っても,別の何かが止めるのである)。
 子ども(ひと)はそれぞれ一個の「世界」(コスモス)であり,単なるラーニングマシーン(学ぶために生まれた者)ではない。「外」(世界やまわりの人)と「内」(「主体」)とのバランスで動いている。「外」が一方的に動かすものでも,「内」だけで動くものでもない。子どもが勉強することは,そんなに簡単なことではない。言葉を身につけることも,「知」を受け入れていくことも,「内」を「外」に合わせることである。「外」を受け入れていくことである。これ自体が「内」にとっては一種の屈服であり,自己の否定である。「知」を受け入れるということは,自己を改造していくことでもある。これは「自己」にとってはひとつの危機である。「自我」は自ら自己を動かしていると思っているからである。自らのコントロール化に入らないものはあまり受けつけようとしないはずである。
 私たちが「何か」を目指してがんばったり,努力したりしているとき,その「何か」を確定しているのは私たちの「自我」であり,意識である。だから,表面的には目に見える目標があって動いているように見える。「自我」が自己をコントロールしているように見える。でも,本当に人を動かしているのは「自我」ではなく別の「何か」であることを私たちは経験的に知っている。自分が「自我」の「思ったとおりに」動けないことを知っている。私たちは「自我」のコントロールしている世界だけで動いているわけではない。「自我」がこうしたいと思っても,必ずしもそうするわけではないし,「自我」の思うこと,したいこと,見ていること,位置づけていることを眺めていて,そこから「判断」を下している超「自我」がいることを知っている。結局,勉強にしろ,「好奇心」を実現するにしろ,自己が自己変革を求めて動きだすには,自己の欠如を超えようとする欲望が必要であろう。
 自己に充足している者は,自己を超えようとはしない。自己を越えようとする者は,自己の欠如を覚知している者であろう。自己の存在欠如(不完全さ)を知り,それを自らのものとして引き受け,その欠如を埋めようとして走りだす者が自己の変革,つまり自己の実現に到達する可能性を持つ。実際,受験勉強をする生徒たちを眺めていると,頭の良い悪いはありながら,「馬力」のある生徒が伸びていく。どこの大学を目指しているかはあまり関係なく,とにかく「馬力」のある子がどんどん伸びていく。大学へ行っても伸びていくだろうなと予測がつく。では,その「馬力」が何かと聞かれてもうまく説明できない。その生徒の内部で,己の存在の根元的な欠如(喪失)を埋めようとする欲望が働いているのだろうな,と考えるしかない。本人にもわからないはずである。
 教育(論)は考え方として「無意識」という「主体」を排除してしまっているが,現実の教育の営みは「無意識」を排除しては成り立たない。《以下一段引用者改行挿入》

間抜けな教師は子ども(生徒)が「自我」で動いていると考えるが,
真面《引用者注:ルビ「まとも」》な教師は子ども(生徒)が「自我」のみで動いているわけではないことを知っている。
間抜けな教師は子どもの「自我」に働きかけようとして多言を費やすが,
真面な教師は寡言であり,子どもたちの「自我」の同意を求めない。
間抜けな教師は子どもたちの利害(成績や進路)に関することを語りたがるが,
真面な教師は教師としての自分が子どもたちに求めることだけを語る。
間抜けな教師は子どもが「知」へ向かうのは水平的な移動だと思っているが,
真面な教師は垂直的な移動ないしは必死の跳躍であることを知っている。
間抜けな教師は子どもの「自我」に話しかけるが,
真面な教師は子どもの「自我」を通して彼(彼女)の「主体」に届かせたいと願う。
つまり,
間抜けな教師は「私」は教師だと思っているが,
真面な教師は「私」と「教師である私」は違うものであることを知っている。
だから,
間抜けな教師は,自分の思うように子ども(生徒)がなることが教育だと思っているが,
真面な教師は,子どもが自分の思うようにならないことを知っているのである。

 もちろん,子ども(ひと)も自分の思うようにならないし,なれない。「思っている」のは「現在」であり,「自我」であるからである。「主体」はつねにその先にある。子どもの「自我」は「現在」だが,子どもたちの「主体」は永遠の「成長」のプロセスのなかにある。おもったようにならないことこそ「正常」であり,「健康」である。そう思うべきであり,そう教えるべきである。「自我」がそう思ったことは必ず変化してしまう。したがって,教師も「自我」の位置で語るべきではない。教師は子ども(生徒)の「自我」と同じ平面に立つ(「等価交換」をする)のではなく,超越的な「贈与」の教育的位置に立つべきである。それがどんなに危険な様相をもたらそうとも,そうでなければならない。そのうえで,子ども(生徒)たちが決して「こちら」の予想した形にはならないこと,ましてや,決して相似形にはならないことを承知していればいいのである。教育とはそういうものである。
 もちろん,『13歳のハローワーク』は教科書ではないが,「好奇心」の固形化や絶対化,さらに,〈仕事は辛いものだ,みなさんはそう思っていませんか。それは間違いです〉や〈その人に向いた仕事,その人にぴったりの仕事というのは,誰にでもあるのです〉は教育的観点から言っても,人生論的な観点から言っても危険である。何よりも,子どもの「自我」(「現在」)を絶対化するからであり,「自我」を変わらない子ども(人)の中心軸と見ているからである。それより「自我」(「現在」)なんぞはころころ変わっていくものであり,その変わっていく数あるなかから好きなものを選ぼうと考えたほうがずっと健康的で現実的である。「自我」は無限の可能性を求める傾向がある。そういう「自我」に振り回されずに,自己を限定する力こそ大切である。
『13歳のハローワーク』の真意を,もし子ども・若者たちが読み取り,それを内面化したら,子ども(若者)たちはエクソダス(脱出)へ向かうのではなく,無目的かつ無内容なディアスポラ(放浪)への傾きをますます深めることは確実である。

[諏訪哲二「オレ様化する子どもたち」中公新書ラクレ,2005]