外部が自分の中を通り抜けてゆくプロセス@ことばぐすい [写]

僕が経験的に言えることは、身体的なパフォーマンスを高めるというのは局所的に筋肉を強めたり、心肺機能を上げたり、あるいは「闘争心」を掻き立てるというような操作には限定されないということです。そうではなくて、心身のパフォーマンスが爆発的に開花するのは、外部にある強大な力、誤解を恐れずに言えば、超越的な力が正しく整えられた身体を経由して発動する、という経験です。そのとき、人間の身体はその超越的な力の通路になります。人間が発揮することのできる驚くべき力は人間の中に起源を持たないものです。自分の外部にある力が、自分の身体を通り抜けるとき、人間は「人間を超えた力」を実現する。人間を超える力の淵源は人間の外部にあります(当たり前ですけど)。「それ」を迎え入れ、制御し、発動させる、そのための技術知はあらゆる文明、あらゆる社会集団に伝えられています。例えば、武道はまさにそのような技術知の体系です。村上春樹はおそらく同じような技術知をランニングによって習得した。僕はそう感じました。すぐれたランナーはすぐれた作家と構造的にはほとんど同じことをしている、彼はそう直感したのだと思います。
自らをある種の「良導体」に仕上げることによって、外部の強大な力が抵抗に出会うことなく、自分の身体を通り抜けて発動することが可能になります。書くという行為を駆り立てているのも本来はそういう力だと僕は思います。書く人にとっての「外部から到来するもの」は、そう言いたければ「インスピレーション」と言ってもいいし、「霊感」と言ってもいいし、ソクラテスに倣って「ダイモニオス」と呼んでもいいし、ギリシャ神話の音楽・舞踏・文芸の神の名を借りて「ムーサ」と呼んでもいい。いずれにせよ、書くという行為もまた、他のさまざまな人間的営為と同じく、私たちの外部にある強い力を受け入れ、それをある限りの技術を以て制御し、人間世界において価値あるものに変換し、物質化するプロセスなのです。
そして、この「何か」が自分の中を通り抜けてゆくプロセスほど人間を高揚させ、自由にしてくれる経験は他にないと僕は思っています。

[内田樹「2016.02.05『もう一度村上春樹にご用心』韓国語版序文」]