002-0さきたま古墳周辺\埼玉県


▲水路が多い。南西4kmには荒川の雄大な流れがあり,北には利根川。水利には苦しめられてきた氾濫原の土地です。

田市を訪れたのは例によっていつだったか忘れたけれど,春先と真夏の二回。
 瀬戸内人です。埼玉のこの辺って来たことなかった。
 秩父鉄道行田市駅で自転車を借りて快調に漕ぎ出したはいいけれど,なぜだか無茶苦茶な方向に動いてた。気付いて出たのは荒川河原の堤防道。

金八先生のオープニングみたいな素晴らしい見晴らしです。

 と思ってたら,まさにこの辺なんですね,あのロケ地って。


▲下忍バス停
◇ポイント:Googleマップ(以下「GM.」と略)

川づたいに東行し,出たのは下忍エリア。

 たまたまですけど,「のぼうの城」で百姓衆のいた「下忍村」の場所でしょう。
「今日は下忍村総出で,たへえ爺の麦踏みじゃ。そこじゃろう」
「のぼう」の原作でも映画でも,のぼう様(成田長親)が初めて登場する場所でした。
 相当に都市化は進んでますけど,それでもどこか風情が残る。次の下忍神社などは,史料に数々残る古刹でした。


▲下忍神社の力石
◇ポイント:GM.

「『蔵志』には『下忍、境地ノ南ニテ士町足軽町アリ』と載せ、口碑には『下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった』とある。
 当社の創始は、口碑に『下忍神社は晋、久伊豆社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党の氏神で、私市城の鎮めに祀った社である』というが、私市城との関係は明らかにできない。また『明細帳』には『昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々』とあり、『風土記稿』には『久伊豆社 村の鎮守とす、明光寺持』と載せている。」(埼玉県神社庁「埼玉の神社」による下忍神社の由緒)
※猫の足跡/下忍神社


▲佐間二丁目電柱

間」という地名も村のエリア名だったんでしょう。
 どうも城からの方向で村を管理したらしい。「のぼう」で城門名として登場する「佐間口」からは,位置的にはかなり離れてる。
 さて,せっかく中心部から離れたんだからこっちを先に見よう。


▲園外からまず見えてきた稲荷山古墳

※ 埼玉県立さきたま史跡の博物館/埼玉古墳群
※ 古墳マップpc版/埼玉古墳群

きたま古墳群は本当に謎の古墳らしい。

畿内にもここまでボコボコに古墳のあるエリアはない。

 自分的にはこんなのは慶州の古墳公園でしか見たことがない。奈良だってもう少し散らばってる。なのになぜここにあるのか,よく分からない。
 国造の墓というのが日本書紀から引いた定説らしいけれど,絶対無理がある。


▲「公園内はゴルフ禁止」

公園内は歩けないほどじゃないけど広い。西には川があるから接近には道を選んだ方がいい。自転車で渡る道を見つけるのにやや苦労しました。
 ここに9基の大型古墳。うち8基が前方後円墳です。
 最初に接近した稲荷山なぞは,本物かよ?といぶかったほど完璧な形状を保ってるのに──登れるんである。
 てゆーか,小学生が駆け回ってます。
 夏に行った奥の将軍山古墳は,道路工事で真っ二つになってたけど,これを好機としたのか──墓室に入れるんである。

そこまで露出するか?しかも三百円で?

 奈良や京都なら絶対あり得ない。つまりこれは,宮内庁が関与してないということ。大和朝廷と完全に無関係な勢力の墓だからです。


▲丸墓山頂上部から忍城方向を見る。ミーハーな視点で恥ずかしいですけど。

光客が一番多いのはやはりここ,丸墓山のてっぺん。
 まあ「のぼう」的に言えば,三成本陣跡です。何かそんな図面までありました。
 そういえば,この時前泊した熊谷駅には,忍城攻めの絵巻物風のタイル画がどどんと作られてました。


▲「史跡埼玉山古墳群」の碑。これ自体が遺跡っぽくなっとる。

玉」という地名がそもそも謎らしい。
「先(後)多摩」と解する説もあるけれど,「たま」というのは湿地を意味する古い土地の言葉ともされる。後者の方が事実に近いのだろう。漢字に当てはめる以前の地名で,つまり畿内系ではない言語圏の名に由来してる。

確かなのはこの行田市付近が埼玉県で一番古い地域ということ。

ここには「埼玉」なる町名なのか字名なのかが残る。

※ 日本実業出版 おもしろ雑学/埼玉県のルーツ(2) 「さいたま」と「さきたま」


▲古墳の横にゴミ捨て場。さっきのゴルフ禁止といい,西日本みたいなどろどろした郷土愛はあんまり感じられない,「近所の古墳」扱いです。


▲公園外の円墳(白山愛宕山古墳)
◇ポイント:GM.

園北に多いようですけど,小さい古墳はもうそこら中にあるみたい。
 この写真のもポロッと見かけたものです。
 その向こうの森のような場所は,白山姫神社という神域になってて,ここは地盤自体が古墳だと書いてある。
 道割りを見るとこの辺りだけが開発から外されて,細かい道が延び広がるようになってます。

本当に訳が分からない場所です。


▲高源寺交差点
◇ポイント:GM.

墳群から市内中心部へは西北西へ1km足らず。
 この間は郊外型の市街地そのものです。
 特徴的なのは水路の多さですけど,コンクリートでがちがちに固められ,その脇を車道が走る。面白みとしては少ないですが,水利に苦しんだ歴史からは画期的なインフラなのでしょう。
 それが,中心市街地に入ると一気に空気が変わります。とりあえず至ったのは,上の写真の高源寺交差点。──ここでピンと来られたら余程の「のぼう」フリークです。


▲高源寺内の正木丹波守墓碑
◇ポイント:GM.

木丹波守が戦後に開基したお寺です。

「のぼうの城」(和田竜,2007発行→2012映画化)に触れた事のない方に最短で解説すると──秀吉の北条征伐時に,北条配下で唯一落城しなかった忍城の抵抗戦記。三成主将の2万の軍から,成田氏の武士5百人が守り切った。
 正木利英は成田側の主将です。
 開基と言っても利英が住職ではなく,他から和尚を招いたようです。また墓ではなく墓碑とあるのは,行田市の都市計画道路建設時に市内渡柳(行田市渡柳1280)に墓そのものは移転したかららしい。
 この移転先は忍城攻めの三成陣屋跡とも言われる場所とのこと。丸墓山に陣屋,というのも映画のように山頂というわけではなかったのかもしれない。

※ 先人作/のぼうの城MyMap:のぼうの城関連地図
※ プログ/高源寺。正木丹波守利英が開基、臨済宗円覚寺派。埼玉県行田市
※ 行田市観光ガイド/パンフレットダウンロード (のぼうの城の地を巡る!パンフ含)


▲市役所南の観光センターみたいな場所。奥手に本丸天守が見えている。

光地なんですけど,何というか,手触りが西日本と違う。
 善くも悪くも,どうも吹っ切れてる。愛着とか思い入れがないというのか。
 だからなのかもしれないけれど,観光色なのは市役所南の広場と本丸のみ。ちなみにこの市役所南は,大手門とその郭だった場所。


▲本丸東側の土塁遺構

城だあ~!」
と感動する観光客も多いらしい。
 けれど,と水を指す事を書くので感動家の方は読み飛ばしてください。現在の城の縄張りは家康四男松平忠吉が忍藩10万石の政庁とした時代に拡張されたもの。
 明治初期には

3か月だけ「忍県」という県が存在した

そうです。明治4年(1871年)7月に設置されるも,同年11月の第一次府県統合で埼玉県に吸収される。
 忍県廃止後,城の施設は撤去され公園になる。この公園の名が当初は何と「成田公園」だったそうです。


▲行田市郷土博物館の裏庭

後の1949年には行田市本丸球場になった後,1988年に行田市郷土博物館が設置され,現在の御三階櫓が築かれる。ただこれも位置や規模は往時と異なり,要するにレプリカらしい。

忍城攻防戦の頃を偲ばれるのは,本丸東の土塁後のみ

のようです。──これはこれで見応えありましたけど。
 ただ一つ,この過程を見るに──家康が四男を配したというのは,異例です。耐えに耐えた数十年を経て倒した豊臣を破った場所という縁担ぎ,だけじゃないものを感じます。
 本丸北側には忍東照宮があります。江戸の北に日光があるのと同じ,全国の親藩にある呪術的な配置ですが,規模がかなり大きい。
 その後の廃城の性急さは,明治政府の目には軍事抵抗拠点のイメージに映ったことがあるでしょう。
 こんな統治側の意向の変化の中でも,

「成田公園」「忍県」「本丸球場」と名称には往時のものが受け継がれた。

これはもう,住民の誇りの象徴であり続けたということしかないでしょう。


▲忍中学校のある道

の丸が沈むぞ!」
という台詞のあった二の丸の敷地,あるいは三の丸の辺り(本丸南)までが,現在は忍中学校になっているようです。
 経緯的には球場にする時に整地した後に,ということになりますから,ここに遺構が残っている気配は全くありませんが,それでも地名だけは誇り高く残し続けてます。

※ KAMERA UND BIER/のぼうの城攻略編・その3:往時の城割を丹念に歩かれてます。本当に城跡を探るならこちらを参照。


▲学校校門に立つ「成田御門跡」碑

て最後に一番サめる話に触れると。
 書簡本体にどうしてもたどり着けないのですけど──三成が忍城攻め以前に,つまり到着早々に出した書簡にこんな記述があるという。

「諸将たちは最初から水攻めと決めてかかっているので,城に積極的に攻めかかろうとせず,困っている」

 ここから,水攻めは秀吉のシナリオだったのでは?という説が生まれてます。
 客観的に見て,鳥取城攻め辺り以降の兵たん(戦略)戦にかけては三成は有能な「武将」だったはずです。関ヶ原だって堺屋太一が書いてたけどプロジェクトとしては有史に例のない大仕掛けです。
 秀吉が戦国最後の国内戦でのパフォーマンスとして水攻めを考えたなら,三成の人選は的を得てた。
 ただ,そのために戦術レベルでの士気の低下を招いた。さらに得意な戦略レベルでも,三成が「社長」の意を忖度し過ぎる「サラリーマン」だったために,忍地域が必ずしも水攻めの適地でないことを実地に確認しつつ,独断専行で中断できなかった。
「サラリーマン仕事」になってしまってた末期秀吉軍の弱さが,裏目裏目に出てしまった。それに対して成田側がやったのは,おそらく素朴な郷土防衛戦。その結果が,というのが真相なんでしょう。
 豊臣秩序が戦国に破れた,さらに言えばその統治論では戦国は終わらないことをに破れた象徴的な戦い。
 戦国の最後の光芒,忍城戦。

んなことを考えると,残念ながら豊臣政権では三百年の太平は築けなかっただろうという推測が生まれます。
 その辺りを冷徹に見ていたであろう家康が,成田家遺臣について「その多くを高禄を持って迎え入れた」という事実。
 江戸時代というエポックは,忍城的なものを取り込むことによって初めて磐石たり得た。
 この時代にあっても「火事場のバカ力」的な爆発力を内部に取り込んで行こうとした家康の組織観念の健全さを見るような気がする。関ヶ原から大阪落城までにかけた一見長い15年の時間は,そういう事のためだったように見ています。つまり家康の本当の強さは,忍耐とかじゃなくて,そうした戦国期特有の激情感を平時に昇華する構想力にあった,というようなイメージが沸いて来る──と相当脱線してしまったんですけど,さて皆さんいかがお感じになりますでしょうか?

※ web歴史街道/小田原攻めの本当の理由と、石田三成の忍城攻めの真相/石田三成は「戦下手」だったのか

に行田市から報酬貰ってはいないけど,行田市が舞台の物語と言えば,忘れてはならないのがもう一つあります。
「陸王」(池井戸潤)です。
 行田市は明治には足袋の生産で名を馳せました。昭和13年の行田市の足袋生産量は全国比8割というから驚異的です。
 見た目,ホントに何でもない田舎町に見えるのに,この底力というのは…自分的には薩摩を連想してしまいます。
 今度,読んでみたいと思います。
 読んでないなら書くなよ,とおっしゃられると思うので,分かった分かったよ,読みますから。

※ 行田市観光ガイド/ドラマ「陸王」ロケ地巡り

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