①▼万月堂まで:行程▽GM.
②▽地獄坂まで:行程▽Googleマップ ※A-B間は実際は最短ルート
③▽ピントコ坂:行程▽Googleマップ ※A手前は実際はまっすぐ下る
長崎市街へ入る時に下車を一つ前の浦上でするのが通例になってきた。岩屋橋電停まで北上,これは東角のちゃんぽんを喰うためです。
万月堂までの明治道を登る
今回のお宿は古川町のアークインてんねん。
1636,荷を置いた後,とりあえず北へ足を向ける。
1638,崇福寺通りへ入る。
1641,大光寺前。ということは北のが崇福寺か?こんな立派な門あったんだ。
門の上に聖壽山とある。──「長崎三福寺」というのがあって,興福寺,福済寺とここ聖壽山崇福寺から成るそうです。
旧名・今籠町との標識。長崎くんちの本踊が行われるのはこの辺です。
一つ西の道を北へ。油屋町3と住所表示。
八坂神社。迷うが一つ西を西へ。1647。
「ニューよこはま」を発見。福山雅治ご愛用で有名な「よこはま」と関連するのか?住所表示は油屋町のまま。
1649,突き当たりの「ちびころ」の右手西側を進む。住所表示は高平町1になった。
1651,川沿いに出る。左折,道なりに川の左岸を概ね北へ。高みにホテル「ニューけごん」の看板が見えてます。
長崎へ来たら坂を歩かずにはおれなくなったのはいつからだろう。
今回に至っては,まさに坂を歩くために来ています。
観光地としての中心,眼鏡橋や思案橋の界隈から南東へ向かうこの谷は,既に何回か歩いてる場所です。でも何回歩いても別の顔を見せて来る懐の広い場所です。
ここは,かつて海路の入口だった山向こうの茂木から長崎市街へ,いわばかつての表参道だった道です。
長崎に直接入らず茂木で船を降りた,というのは,かつての土木技術では船が安全に着けるほど,長崎港を水深のある状態に掘削できなかった,ということでしょうか。
※「ナガジン」発見!/越中先生と行く旧茂木街道と茂木の町
高平橋。1655。
渡らずさらに南東へ登る。
なお,橋にはそれぞれ名が付してありますけど,この川の名は書いてないし,知りません。地勢的に昔からある川のはずですが…。※
考えられるのは,出典が今は確認できないんですけど,江戸期以前の茂木街道は現・長崎南高校の東からピントコ坂を通って現・崇福寺前に降りていたのを,明治になって現・愛宕病院前の峠道を開き,こちらを主道にしたという。つまり,この川沿いは一応道はあっても江戸期の土木技術では拡張できない地勢だったのでしょう。
※ 後日やっと書いてあるものを見つけた。通称とありますけど,小島川と呼ぶそうです。→ナガジン/越中先生と行く郷愁誘う小島川散歩道
高平町が七丁目で絶え,住所表示が愛宕町一丁目1となりしま。1657。
橋の数がやたら増えてきました。ただし私道ばかり。どうも自家への入口感覚で橋を作ってる感じ。
17時ちょうど,川沿いの道が絶える。
右岸は東小島町と表示。国道のバス道への通路らしい橋があるけれど,ここは道なりに左折しよう。
おそらく元は共同井戸だったであろう水道があります。
サンハイツ愛宕,エクセレント愛宕。アパートだらけです。最近の開発地のようです。なぜここにという気もしますが,分かりません。※
※前掲ナガジン記述「この辺りは明治の末頃までは淋しい土地で、町から少し外れにある地域だったから当時は別荘地のような場所だったようです。そして、良いお茶ができていたそうです。」──とすれば現代長崎人にもこの辺りを「住むには良い場所」と感じる感性又は評価があるのかもしれません。
▲川から北東の道。地割は古く,計画的に割られたものに見えない。
地蔵※の居ます三叉路。1704。住所表示は愛宕一丁目6。
道の雰囲気で右を選ぶ。
1706,小島小学校東縁の道に出ました。
左手高みに車道を認める。おそらく明治道です。
左膝に鈍痛が出る。まだ先は長いはずですけど,ままよと進む。
※前掲ナガジン記述「背後の説明書きには,『目あての地蔵』とあり,かつて小島郷鳴川にあった小島小学校の校舎をこの地に移転した際に,学校への道案内と登下校の際の児童の安全を祈願して建てられたとあった。」──不覚にもこの注意書きは見落としてました。◇ポイント:目あての地蔵GM.
すぐに次の三叉路が現れた。
1710。左手は崖沿いの登り。右の道は緩やかに下る。
左をとる。
※ ポイント:GM.~仮にここを右に入ると愛宕郵便局に出れます。ピントコ坂へ直行するなら近道ですし,途中の小島川支流も面白そうです。→GM.経路
1713,再び三叉路。安全をみて左の車道へ上がるか。いや,ここまでこだわったんだから川沿いを行こう。右をチョイス。※
住所が愛宕二丁目に。道は細い
愛宕三丁目。ついに右岸に川を渡るしか道がなくなった。荒れた川沿いをさらに登る
※ポイント:GM.
▲小島川の国道交差の手前。この川右岸の小道はGoogleマップにはない。
最後は階段になり,痛めた膝をかばいつつ上がる。1717,バス道へ出る。
ほぼ目指した辺りです。対面に愛宕町バス停,その右手にローソン。そして左手には──第一目的地,万月堂!
万月堂では,旬のマロンロールに加え,初めてここを訪ねた際に感激したザボン漬けを購入できました。ここのザボン漬けは切り身を剥き出しで並べてある「漬けたて」状態。量り売りで,かつ高いんだけどそれだけの価値はある。というか,ここのを食べて以来,市販のが食べれません。
①▼万月堂まで:行程▼GM.
②▼地獄坂まで:行程▽Googleマップ ※A-B間は実際は最短ルート
③▽ピントコ坂:行程▽Googleマップ ※A手前は実際はまっすぐ下る
日暮れに追われつつ地獄坂を登る
ロローソンで一服。1728。
Googleマップを睨む。さあここからの登りは慎重を期さねば。マップを見てもらえば分かるけれど,ヘアピンの国道から複雑な地形を経る登りです。一つ入口を間違うと全然違う場所に出てしまう──というか何度か出てしまった苦い経験ぎある。
1733,出発。
1737,エグチ美容室向かい,美容室イマージュ。間違いないな,ここだよな?左折南西行。愛宕三丁目13と住所表示。◇ポイント:GM.
「真田丸たいやき」の前を過ぎてから渓流を渡る。
パレス司Ⅲの左手を抜けて階段を登…ってはいけないんだった。危ない,ここ※は右手だった。いかにも進めそうなんだけどまっすぐ行って畑を突っ切ったことが何度かある。
※ ポイント:GM.
司Ⅲの西側裏から,道なりに直角に左折し南西方向への階段を登る、住所表示は上小島三丁目1。
いつも迷うえんじ色のアパートの北西畑地の脇※を過ぎる、
※ ポイント:GM.。アパートは司Ⅰ。一度,このアパートの南西階上から階段を降りて一階に出たことがあるけど…立ち入らない方がいいでしょう。
▲上の車道に出る間際に北東を振り返ると,小島川東の帽子状の小山。
愛宕山というのは,この谷が回り込んでるこの小山の名前らしい。
目立つ山です。長崎名勝図絵には「積翠螺髻(せきすいらけい)※の如し」との例えがある。
※ 巻き貝(螺)状に結い上げた髪型(仏像によくある髪型)
山頂に愛宕神社があり,北西と北東から頂上に至れる。主神は火産霊神,つまり沖縄でいう火ぬ神。──まさかと思ったら,この山容は典型的なトロイデ,つまり溶岩円頂丘で,粘性の高い溶岩が地表に噴出して固まりドーム形になったもの。つまり火山なのである。
ここは──次回登ることになりそうです。
なお,市HPにある麓近くという社殿は確認できない。
※ 長崎市/わがまちの自慢120選No.104 愛宕神社
※ yahooプログ/愛宕神社・愛宕五仏地蔵堂・榎観音堂
車道に出る。1747。上小島三丁目8,からこの道を渡ゆ7番地になった。このまま西でよかったはずだけど?
1749,中尾接骨院前。住所表示は三丁目11が出た。
うおお!登りがきつい!
1752,三丁目自治会掲示板のある三叉路。「上小島上之切公民館右」と表示がある。
もう西へ右折でいいはずでいうと右の登りへ曲がるがっ──恐ろしくきつい階段です。
けど…登るしかないよな,ここを?
意を決して登った階段は,ところが何と行き止まり!
引き返して左手に入った階段を再度登る。
突き当たりに上小島四丁目自治会掲示板。──この地点はどこだったのか分からない。三丁目のはずなんだけど?
左へ登ると急坂に出る。
1801。方向からすると…右折しかないよな。絶望的な気分になってきたけれど,さらに登る、
坂道マニアのプログによると,この鬼のような坂道が地獄坂だったらしい。名称は「地獄のような急坂」だから,と極めてシンプルな由来です。
でもここの最後の登りはトドメのように効きました。傾斜というより,ここまで登ってきて最後に,というロケーションが地獄的です。
1803,地獄坂を登り切る。
突き当たりには,上小島五丁目1と表示。
間違いない。右折。下りに入る。
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②▼地獄坂まで:行程▼Googleマップ ※A-B間は実際は最短ルート
③▼ピントコ坂:行程▽Googleマップ ※A手前は実際はまっすぐ下る
異界感たっぷり!闇のピントコ坂を下る
意外なほどすぐに,長崎南高校裏門が現れました。何度か来て覚えのある場所です。異界めいたこの界隈で,唯一,俗世のガッコの色が印象的なので。
そのすぐ先に──1807,地蔵堂のある三叉路。ここを,細い方の右に進むんだったよな?
闇が見る見る深まっていく。
道を急ぐ。
1810,平松地蔵尊。
さらになんとかの碑が現れる。だけどカメラがもういうこときかん。
▲傾城塚手前で追い抜いて行った乗用車のバックライト越しに下界
1814,傾城塚。
闇の中でここを通るのは怖いッス。
1817,墓地の中のピントコ坂を下る。
昼間に通ってもアレだったのに…これはもう,怖いってもんじゃないッス。
──ピントコ坂というキテレツな響きのこの場所は,かつての女街。
茂木街道の一番うらぶれた界隈に,こんな逸話として残るのが傾城塚です。
「元禄3年(1690)、明国の商人の何旻徳(カピントク)が贋金造りの疑いで、木駄の原の刑場で処刑された。愛人の丸山遊郭筑後屋の遊女、阿登倭(おとわ)は、旻徳の遺体をもらい受け、坂の際に葬り、その墓前で後を追い自害したという。旻徳の罪は阿登倭に横恋慕する役人の讒言によるもので、「無実」だったともいう。坂の途中の墓地に二人の墓という「傾城塚」がある。『長崎文化 №41』」
※ 坂道散歩/長崎市の坂-6
▲写真には長崎市街の灯しか見えませんけど,この暗がりが一面の墓場ッス。
上上小島一丁目4と住所表示のある下の道にでる。1823。他に目印なし。下からは一通の交通標識が目印か。
もう必死になって降りてきた感じです。
八劔神社の地蔵。
円柱郵便ポストがあります。
神社鳥居。なるほど前回はここから上がったんだったった。
1833,崇福寺電停見ゆ。人間界へ返り着きました。
以上,所要2時間,長崎異界巡りでした。歩いてる側は時間感覚を失って,3日くらい歩いてた感じです。
①▼万月堂まで:行程▼GM.
②▼地獄坂まで:行程▼Googleマップ ※A-B間は実際は最短ルート
③▼ピントコ坂:行程▼Googleマップ ※A手前は実際はまっすぐ下る
パン屋にあったと記憶してる「時代を変えた男 とびすぎ」のこのロゴ,別の店が引き取った模様です。
最近通ってる島原まぜめし(→GM.)の対面でした。炊き上がりに少し時間を,というから周囲をうろうろしてたら見つけたんだけど,全く違う種類の店舗で…このロゴって,そうまでして守り通すようなものなんだろうか?
ロゴってそのものが全く意味不明なんですけど,この引き継がれ方まで意味不明とは──。
ニッキー・アースティンでいつもの「辛い辛いドライカレー」のトルコライスを頂いた帰り,アーケードで見かけたのが──長崎の坂ギャラリーの7選。
次の7つが画像付きで掲げられている。
「変電所の坂(飽の浦町)
ドンドン坂(南山手町)
祈念坂(南山手町)
オランダ坂(東山手町)
ヘイフリ坂(寺町)
長坂(上西町)
万年坂(南が丘町)」
夜,これを調べてみた。まだ行ってない2つ目と5つ目,そして7つ目が,翌日の目的地に決まってしまった。