FASE61-1@deflag.utina3103#チビチリガマ,座喜味城跡\歌乃道ひるく 犬子ねあがりや

やっとここへ行く気持ちになりました。

ビチリガマ
〔日本名〕沖縄県読谷村
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-(1945.4.2集団自死・強制集団死発生場所)

▲亀甲墓の連なる海岸沿い

度目の沖縄か記憶がないけれど,これだけ戦跡を巡ってから,やっとここへ向かう気持ちになりました。
 海側の亀甲墓群のそばを通りすぎる。全く目印や誘導はありません。GM.を見ますけど目印にするものもない。
 座標だけを目印に多分ここだろう,とバイクを停める。0828。

▲チビチリガマ。以下遺族会の掲示全文転載。

これから先は墓となっていますので、立ち入りを禁止します。ガマの中には私達,肉親の骨が多数残っています。皆様が,ガマに入って私達の肉親を踏み潰していることを私達は我慢できません。

→同遺族会:慰霊碑全文

一人いない。
「防犯カメラ常時作動中 読谷村」との看板。その脇の階段を下るけれど──これだけ有名(巻末参照)になったこの「戦跡」は,明確に来訪者を拒んでます。…村は,「平和学習」には新しく出来たヨンタンザミュージアムのジオラマへ来てもらいたいらしい。
 当然だろう。

物語られるべきでない墓

▲各種仏様多数

面と左手にガマ。谷川流る。左手に祭壇。千羽鶴。その他仏像多数。
 村の霊域としての色彩は感じない。仏像もその他の飾りもてんでバラバラ。
 ここは純粋に,物語られることなく墓なのだと思う。それも当然です。

▲0837渓流奥への小道

段だけ書こう。
 千羽鶴さえ持って来るべきではない。ここで誰も何も置くな,語るな。
 もうこれ以上は。
 ただ,記憶せよ。

▲0837洞窟脇の小さな祠

シムクガマへ行く気はない

マの北から適当な道を東へ入る。
──シムクガマへ行く気はありませんでした。「自決」しなかった別の物語に救いとか教訓を求める気はない。
 キビ畑,白い亀甲墓,濃く濁る海。

▲眺望

落の中を気まぐれに走る。
 家屋は新しいけれど,集落の造りは随所に年季を感じさせます。

▲0849石垣の残る田畑脇

▲0851集落内の川端

喜味城跡
〔日本名〕沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708−6
〔沖縄名〕ざきみぐすく
〔米軍名〕-(第32軍高射砲陣地跡)

▲城壁を回る

純粋に城:世界遺産座喜味城跡

てずっぽうに走って0858,座喜味城跡に着く。
「トイレは松林のをご利用ください」ってそれはどこよ?
 えらく整備され尽くしてます。文化財としては,そりゃ護佐丸の出た世界遺産なんでしょうけど,他でいう拝所兼用のグスクとは全く違って…城跡でした。
 御嶽もない。これがむしろ衝撃的でした。

▲城壁を回る…入口は?

壁外部を一周してみる。やはり手前の入口一つしかない。
 ここまで戦意を明確にした沖縄の城は初めてです。

▲城壁登る。

常に複雑な構造をしてます。
 概ね二重郭。不定形ながら虎口などを備えた,日本の実戦型の城に近い。

▲城壁登った

かによく残ってます。
 ここは護佐丸が中央へ移動してからずっと放置され,最近になって「再発見」されたような場所で,それが効を奏してるらしい。

▲城門

 逆に,そんなところにこれだけの城塞をなぜ築く必要があったのか?──第二尚氏確立後の残党狩り用,という表記もあるけど,これはそんなレベルじゃないと思う。位置的には外寇に備えたように見えるんですけど…。
 ピンと来ないまま謎だけ残る。そういう意味では実に沖縄的なスポットではありました。

■記録用:遺族会によるチビチリガマ石碑文全文と各種立場のHP集

 

チビチリガマから世界へ平和の祈りを
 1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米兵はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が『集団自決』をした。尊い命を喪った。
 あれから38年後、やっと真相が明らかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供たちであった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。『集団自決』とは、『国家のために命を捧げよ』『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ』といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである。
 遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と『チビチリガマ世代を結ぶ平和の像』を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。全国かの平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年余が経過し平和の像の再建が実現した。
 チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄戦終結50周年にあたり、ふたたび国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここにこの碑を建立する。
   チビチリガマ遺族会

※(上記出典)沖縄戦跡めぐり/チビチリガマ 集団自決
※ 読谷村観光協会/世界遺産座喜味城跡 ユンタンザミュージアム
「チビチリガマの様子を生存者の証言を基に再現されたジオラマの展示もあります。」
同/チビチリガマ・シムクガマ
(シムクガマ)
「シム=下  ク=向く
谷の下にガマがあることからこの名が付きました。」
「ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、『アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)』と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。」
※ wiki/チビチリガマ
「1987年には遺族らにより入り口に『世代を結ぶ平和の像』が建立されたが、右翼団体員により同年11月に破壊され、1995年に再建された。」
(出典・チビチリガマ(読谷村) 【放送日 H20.4.2】NHK公式ホームページ・沖縄戦70年
・朝日新聞 (2017年9月12日). “チビチリガマ荒らされる 沖縄戦で80人以上自決の洞窟” (日本語). 2017年9月12日閲覧。)
※ Travel Note/チビチリガマとは?集団自決が行われた場所は心霊スポットでも有名!
※ 現代ビジネス/2017.10 沖縄「チビチリガマ荒らし事件」とは何だったのか?
「9月、沖縄県読谷村のチビチリガマが少年らによって荒らされるという衝撃的な事件が起きた。器物損壊の容疑で逮捕されたのは4名で、沖縄県中部在住の16歳、18歳の無職の少年と、17歳の型枠解体工の少年、そして19歳の高校生(休学中)だった。」※ 朝日中高生新聞/悲しい歴史 どう伝えるか 2017.11
「『チビチリ』とは『尻切れ』という意味。細い川が流れ込んでいますが、どこへ流れ着くのかわからないので、地元ではこう呼ばれています。」
「身内同士で殺し合ったチビチリガマでの出来事は、戦後も長い間、語られてきませんでした。チビチリガマについて本格的な調査が行われたのは、戦後38年がたってからのことでした。」
「ガマを荒らした少年たちは警察の調べに対し、ガマの歴史を『知らなかった』と話したそうです。犠牲者の遺骨の大部分は戦後、収集されましたが、内部には今でも、小さな骨や遺品が残されています。」
「『関係者にとっても思い出したくないような話ということもあり、普及不足だった点は否めない』」
「問題視するのは、インターネット上でチビチリガマが『心霊スポット』として紹介されていること。」
※ 沖縄タイムズプラス/おやじは何も語らなかった… 沖縄・チビチリガマで慰霊祭 「集団自決」の犠牲者を悼む
2019年4月
「74年前に「集団自決(強制集団死)」が起きた沖縄県読谷村波平のチビチリガマで6日、遺族会主催の慰霊祭があった。生存者を含む遺族や関係者ら約50人が参列し、犠牲者の冥福を祈り、恒久平和を誓った。」
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