m071m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm柑仔市

本歌:しぶきたる葡萄を愛と呼びませう〔松山東〕
※「泡」は「あぶく」と読んでね。

漳州滞在日。どこまでも霧濃い町に 自分でも思わぬ方から斬りこんでます。
[前日日計]
支出1400/収入1640▼14[115]
負債 240/
[前日累計]
利益  -/負債 687
§
→九月十九日(四)
0816阿芳卤面
卤面300
0926阿標特色锅边糊(微信:林秀玉锅边糊)
锅边糊300
1209恵悦香快餐小炒
鶏もも肉そのまま煮
ゴーヤの真緑煮
三枚肉の激ウマ角煮
排骨湯500
1648家常小炒
梅菜のウマウマ角煮
ピーマンと鶏皮の辛味炒め
ささげの辛い唐辛子炒め
500(1600)
[前日日計]
支出1400/収入1600▼14[115]
負債 200/
[前日累計]
利益  -/負債 487
§
→九月二十日(五)


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

朝ごはんは台湾のあの味!

750。久しぶりに朝をゆっくりしてます。夜中に充電器のコードが接触不良になっていた,というのを自分への口実にだらだらする。
 百度百科の「闽南菜」によると──「名优地方风味小吃有:肉棕、面线糊、深沪 鱼丸、扁食、石狮甜果、炸枣、田螺肉碗糕、土笋冻、芋丸、三合面等。」
 この辺から何かを朝飯にできないかなあ。
 掌の中の,昨日買った武夷岩茶も旨い。紅茶なのに香りが極めて爽やか。
 いや,もう流石に出発しようか。

▲(少し先取りですけど)0836南昌中路。元光路との交差点だと思う。この道の光景は,まあよくある中国のそれです。

へ。X手法で目をつけてた斜道ラインを目指す。0752,南昌中路を路地を覗きつつ行く。
 この裏の美食街は,うーん,やはりあまりぱっとしないなあ。
 この道は苍园路。新しいアパートが並んでる。この南には世紀広場という店舗集合型施設がある。けどそちらも可もなく不可もなくという雰囲気で,まあ普通の中国です。

▲朝飯は卤面

州ものらしいので,湯気の立つ店の扉を押す。
0816阿芳卤面
卤面300
 面を頼む必要はなく,米線か小麦面かのみを訊かれる。米線を選択。すると次は大碗,小碗のチョイスを求めてくる。小とする。
 それからトッピング。このコーナーが大きくて10種類は選べる。血液ゼリーと黄色っぽい中華ハムの細切れをトッピング。
 シェンツアイは無料。なので,たっぷし投入。
 これで11元です。
 お味は……やはり,です。米線にするとよりはっきりした。
 台湾のあの味です!
 違うのはとろみが台湾ほど過剰じゃなく,出汁の色が薄いこと。じゃあ淡白かと言えば,淡白なんだけどしっかり満たされる。この満足感がどこから来るのか,やはりよく分からない。
 位置は……どこだろう?でっかいICBCの南裏でした。

容赦なく掘り返すブル

▲0842おお~!掘っとる掘っとる!

835,南昌中路へ戻り東行。
 えっ?この南裏の……がんがんに掘り返してる場所?ここだよな?
 バイクの流れに沿って右折南行。
 左折。さらに,さらに情け容赦ない掘り返し方!

▲0844中国の再開発に情けも容赦も求むまじ

事が途切れた壁向こうは市場になってるようです。ただし……アスファルトに穴が開けられ,道路はひび割れ。

▲0847ガタガタの工事現場をも容赦なく駆け抜ける人民

の状況下であれ,市民生活は普通に,健全に,えげつなく営まれてます。むしろ,そっちの方が凄げーよ。

容赦なく闊歩する人民

▲0849工事現場脇を容赦なく闊歩する人民

るほど。この市場の東の湾曲を南へ抜ければいいんだな。
 と考えるのは誰しもらしく,唯一穴の開いた湾曲部は大渋滞になってます。

▲0851抜け道は大渋滞。ニッポン人は泣くしかない。

思ったら,どうもここも工事中。次は柑仔街そのものが開発されちゃう雰囲気です。

▲0853工事現場なんだか市場なんだか,とにかく人民の凄みを感じる光景です。

容赦なく健全なる柑仔市

にかくです。柑仔市に到達したと思われます。
 読み(ピンイン)はgan1zi1shi4。市を除くと「ガンツ」です。GANTZ?
 そこまでの中国の普通な町並みが,微妙に一転してきてます。例えばこの路地──

▲0854壁面が何か物凄いぞ!

るで地層です。
 どの建築の断面か分からないけれど,この煉瓦か土塀か分からない古びた風情は……どう読めばいいのか見当もつきません。

▲0854工事現場を乗り越えて進む。

んな掘り返し場所を普通に通行人が歩いて店も営業中。それ自体が反対運動みたいな容赦ない健全さです。参った!
 0855,工事現場の南端が見えてきました。進む。

▲0856掘り返しの南の途切れが見えてきました。

▲前掲BTG地図より。矢印部に「柑仔■」と覚しき文字が見える。いつの時代の地図か定かでないけれど民国~解放前頃でしょう。斜道はこの頃から存在している。また,城域東郊を東西に分ける境界のようにも見えます。

■レポ:柑仔市→浦頭→過溪について現時点での知見

「柑仔」は閩南語発音で「kam-á」,漢字そのままで蜜柑(みかん)の意味らしい。
 ミカン・ストリート?……ということではもちろんなくて,この語で閩南語では「よろずや」「雑貨屋」を指すらしい。その由来は

一つは「みかん飴」から来ている説。 もう一つは、野菜とかを入れる浅くて丸い籠🧺のことを台湾語で𥴊仔(kám-á)」と言うから柑仔店(kám-á-tiàm)➡よろずや、食品雑貨店、grocery store s | 台湾語がちょびっと話せるよ!–我會曉講一點點仔台語!

と実に説得力がないけれど,とにかく「よろずや」です。
 つまり柑仔市とは,「蚤の市」みたいな語感。穿って言えば「泥棒市」だったかもしれません。
 語感と言えば,この言葉はノスタルジックな感覚,日本で言えば駄菓子屋のように漢族,特に福建人や台湾人には捉えられているようです。懐かしの品並ぶ昔ながらの台湾地区の雑貨店「柑仔店」登場 福建省–人民網日本語版–人民日報
台湾柑仔店亮相福建漳州 怀旧物品吸引眼球 -东南网-福建官方新闻门户

 その織り成す斜線ラインは,上に掲げたとおり,遅くとも解放前には出来てた。
 このラインは,何だったんだろう?何だか,古い海岸線のようにも見えるのですが……。

西溪故道?浦頭港?

 このラインに関する記述を一つだけ見つけました。
※ 來去漳州(一七) 柑仔市舊街風情 @ 時 空 旅 人 :: 隨意窩 Xuite日誌
※同様の記述がこちらにもあり,どちらが原文か不明 在漳州這麼多年,發現自己沒真正了解這座城市 – 壹讀

 概ね書いてあるのは,この後訪れる附龍廟の他は,民国期に「新路巷」,文革期に「紅鷹路」と改名していた点くらい。──これまで何度か見てきたように,これだけ名前を消されるというのは,それだけドロドロした重いエリアだということです。
 脱線的な情報として,柑仔市から東に接続する新行街に触れてます。当時全く予感してませんでしたけど,この東行路がえらく賑わっていたらしい。

歷史上的新行街東接浦頭街,鹽魚市,直抵浦頭港曾經是九龍江西溪故道的心臟,由於臨近港口,商業高度發達,新行街地價飛升,房屋的門面大多用來充當店面。於是發展出一種比較實用的街巷式建築,窄而細長。

 前半の記述からすると,意外なことに,この東に「浦頭港」という港があって,それは「曾經是九龍江西溪故道的心臟」でした。
──かつての九龍江の「西溪故道」の心臓部??
 そんな水域ラインと場所が存在したのか?どこに?現代の地図をどう見ても,そんなのは見つかりません。

▲浦頭探花码の石碑 ※下記毎日头条

内陸水運と外洋水運の接続点

「浦頭港」ワードで調べていくとにわかにヒットが広がりました。「每日頭條」にも記事があった。

據記載,明嘉靖、萬曆年間直到20世紀三十年代,浦頭港一直是萬商雲集、百舸爭流的繁華集市。港口附近建於明萬曆年間的浦頭大廟,相傳藍理參軍曾居住於此。康熙年間,藍理任福建提督時重修了此廟,並著手擴建了浦頭港。 浦頭港原是九龍江故道,圍繞著漳州城的東半部,地理位置適中,遂成為漳州府東郊水運中心。
孟孟走漳州走過繁華:見證漳台水運的浦頭港 – 每日頭條

 三点ある。明万歴代(1573~1620年)には「萬商雲集」の商業地で,大廟が建ち並んだだけでなく,ここで「藍理參軍」も営まれた。つまり軍事の中心でもあった。
 清康熙代(1662~1722年)に福建提督が廟を改修し,「擴建了浦頭港」,港を広げた。──万歴-康熙間の17C前半は鄭氏支配と遷界令時代(1661~83年)。半世紀の荒廃後に復興されたわけです。
 そして三点目,「浦頭港原是九龍江故道」であるがゆえに東郊外の水運の中心だった。──つまりここが九竜江の旧流域だったのです。これと「九龍江西溪故道」とは同じものでしょう。毎日头条は続けて専門家の見解を引いています。

漳州市政協海峽文史館長江煥明解釋說,這條內河港道,自古以來就是九龍江西溪故道上的航運中心,水域內至少有六個碼頭,包括:蕃薯館碼頭、探花碼頭、大廟碼頭、米塢碼頭、蟶蚵碼頭、定潮樓碼頭等,是城內貨物集散中心與城市經濟活動重心。
明清時期,伴隨著月港的興起,浦頭港逐漸成為漳州府城的主要港口,漳州及其周邊地區的貨物進出口以及人員外出,大多從水路通過浦頭港,通向沿海口岸、台灣及東南亞地區。
浦頭港興盛於明中期,與月港、石碼同步興隆。當年,尤其是輸往台灣的商品,因河運之船皆為平底木船,到下游水深浪大不適於航行,必須到這裡轉駁赴廈門,再運往台灣。從台灣銷往九龍江流域的商品,也先運至浦頭,再轉運各站點。由於航運發達,商賈雲集,浦頭先後形成米市、鹽市、粉街、魚市、果市等,統稱「浦頭市」。[前掲每日頭條]

 まず,浦頭には6つの港があった。月港の興隆に伴い,大部分の荷は浦頭を経由して漳州に入った。
 第三段がさらに興味深い。ここに,主要な輸出先は台湾だったこと,内陸部の河を航行してきた船は皆「平底木船」で,厦門や台湾など水深のある水域へはそのまま航行できない。──だから浦頭で積み替えが行われたということでしょう。
 浦頭には米市,鹽市,粉街,魚市,果市などが立ち,総して「浦頭市」と呼ばれた。

▲「昔日浦頭港內的定潮樓,每逢民俗節慶,周邊的村民就在港里划龍舟。 (周卓謙 攝於1978年)」※ 前掲毎日头条
──浦頭港の中にあった定海楼には,民俗行事の度に,周辺村民が龍舟※でこぎ寄せた。 ※沖縄のサバニのようなものか?

浦頭の位置と現代までの変遷

 で,その浦頭港とはどこなのか?──と言えば,地名でヒットするのはこの辺りです。下図の指差しでは一番左の浦頭街は,柑仔市から東行する新行街の延長になります。※クリックするとGM.に飛びます。

▲浦頭街-浦頭大廟-浦頭橋

 では河はどこを流れていたのか?これは,どういう推移で現代の地形になったのかを追えばわかるはずで──したが……。

一路走來,浦頭港經歷明末、清朝的繁榮,至抗日戰爭初期卻漸呈頹敗狀。其間,首先在康熙六年,九龍江改道。從詩浦口取直向東與北溪合流,形成一個大洲;洲中圍十多個村莊稱浮洲十八社,俗稱「過溪」,今"桂溪花園"是其雅化之名。[前掲每日頭條]

 日中戦争前には浦頭は衰退していたようです。その理由としては,1667(康熙六)年の「九龍江改道」が挙げられてます。この時に,西渓(現・漳州市街の南を通る九龍江水域)が詩浦口から直接に東を向くようになり北溪(現・漳州の北側から来る水域。やはり九龍江と呼ばれる。)と合流することになりました。
 この結果,大きな中州状のエリアが形成されます。洲の中の圍には十数か村ができ,「浮洲十八社」を構え,俗称「過溪」と呼ばれた。今ある「桂溪花園」(下のGM.参照)はこれに由来している。
──この段階で,浦頭は主流通路たる水域から切り離されていきます。時期は17世紀後半,月港の衰退時期ともシンクロします(→※ m065m第六波mm北京路台湾路/「万歴朝鮮戦争」)

▲桂溪花園(住所:福建省漳州市龙文区新浦路)

 なお,浦頭港が現在の,港とは思えない地勢に変わってしまうのは,この後さらに水域の閉塞が行われたためらしい。やや偏向があるかもですけど……日中戦争が原因と毎日头条は記します。

接著,在抗戰初期,當局在主要河道設防,從鎮門到浦頭設三道水下障礙,因此加速浦頭港的淤塞,而直接導致通航能力銳減;從此,大船開不進港內。加上貪婪私船攔水打劫,使得船戶視為畏途,紛泊他處,無情的歲月也承載著浦頭港的沒落。[前掲每日頭條]

 河の水底に障害物を沈めて防御を固めたために,浦頭港の閉塞がさらに進み,ついに船舶の航行は不可能になった。加えて水を盗む私船が出没し初め,これを怖れて他の船舶も他所へ停泊するようになり,浦頭港は没落していった。

それで九龍江西溪故道はどこ?

 浦頭港は内陸水運側の拠点となり月港の興隆を支えた。分からないのは,九龍江がどういう形状だったら,浦頭港が水運基地になりうるのか,です。
 これについて,漳州府志に豊富な記述がありました。→豊富な中国語を読みたくない方はこちらからジャンプ:

漳州府志「浦頭」ワードヒット部

郡治附郭龍溪縣去海尚百里而遙潮汐應焉其川自南靖來為西溪北源從和溪未譬南淚從錦麤小灞俞降靖合流而繞于郡城按隋輿地龍腫縣梁量陌開皇十一年併蘭水綏安一縣入焉今綏寶並撞席蘭水或即丙溪若古龍溪乃九龍江也按萬肝桂牡苞幅俞溪管南溪之源一白平和措山至障浦碧前溪一甘蒲屏馬弊至橫口爽若前溪合怕海澄浮宮渡入湘今為海澄地與此伍涉此實西溪也東流赴郡經員山之陰而繞郡城為南河自郡城南疏為三台洲南橋亘焉下至方壺洲水勢微折而南故又東以文昌之橋其云方壺洲者以西望員嶠得名過為詩浦溪從此曲而抱城乃東過浦頭出文山而合流于北溪從詩浦溪上流分而出者為田裡港舊港絕小 ※ 《漳州府志卷之一》6

渾浦詔安午縣近海龍溪亦稍近焉以澄為龍溪之分界故其在海澄潮由濠門海滄之子夾幡入分洲三脈也一旅人柳營江至此溪止一派入浮宮至南溪止州恢自泥任川樵入福河繞郡城過郡南門至西溪止諺云初三十八流水長至渡頭復分小派干浦頭抵于束湖小港則龍溪州縣實兼有之其在潭浦有三派一派由井尾白石夾港而入佛渾橋至東城灌頭止一派由陸驚所虎頭山久由舊鎮經鹿溪繞縣治至西廟咽止復分派由竹輿入梧江橋敷里止一派由古富之南銅山所之北經大磔荷步至雲雷而林止其分脈小港尚移而不勝紀其在海澄脈蹶由太武山外斗米薄入至石捍頭江止其在詔安有一派一由銅山之犬京門入于五都百浦走馬溪止口田懸鐘之北港門入經漸口雁于梅洲上湖止一由紅鐘之南港八經赤石陶繞縣治至甲洲止其從南豫八者則漸之黃同廣之南海矣潮沙說 ※ 《漳州府志卷之一》2

漁頭廟雌酣酬上小岫先定浦頭未置集時河駕入城中市魚故名今馴蹄水珪輔小舟衣得入城俱集浦頭此羨之地然席尚存扁日漁頭※ 《漳州府志卷之六 物產》36

漳州府城駐防總兵官一員川營遊擊一員十總一頊埋總一只外委十總一員外委把總一貫額外外委一貝兵一百八几名左營弄借一旨享品扎總一貢外委一員額外外委一員兵一百十門名右營守備一員膏把總外委一員額外外義一員兵一百八十六名城守菅都司一員守備一貝千總一買額外外委一員兵一百六十四名龍溪縣駐防見府城浦頭氾八防城守營外委一只兵一十九名朝天宮城兵五名鶴嗚塘麒五萬松關塘兵五名天寶帆丘一十名雌露口塘兵一名樂仁塘同顧傾塘麒一席錮惆頭塘兵一名新橋頭滿兵十名新橋頭塘兵五名棟林塘五授和尚橋塘玉王名九龍嶺佩麒一名蓮浦塘兵一名憾臨憑樹塘讎一叛頭氾兵五名俱府祗千把總兼轉龍江況址防城守營千把一員兵二十尤名龍江塘兵五名角尾佩兵六名俱龍江娥干把聽兼轉浦南佩洲防城守營外委員兵四十八名郭坑佩兵五名豐樂塘兵二名烏石塘兵二名石佛塘兵一名銀塘塘兵耐名龍潭氾兵八名沙建塘兵二名熱木塘兵一名俱長泰縣用千總兼輻華封佩洲防刪守營千把總一貝委一員兵一十四名新漁孔兵十席名嶺推塘兵以名橫奄塘兵一名大祀塘兵二二名函了唐玉四 ※ 《漳州府志卷之二十三 兵紀上》2

郡城西門舊與東門正對門外直街即今塔街相傳正德門有衛弁家于門內嫌城樓高壓不利往宅自出貴移門稍適而此并以擅役宮軍坐罪調衛泉州然門既移不可復矣今西直抵城短上馴敵樓下無深塹有聲量蟻附而止為地方長虛者當別有設險之策郡城南煙星永從束西闚直通城內小舟載魚鹽抵上街鍼認頭處今日漁頭廟塊存蓋昔年洲鹽市也及後河溝壅塞而市遂移東南浦頭矣其路旁有祈保亭中碑記云昔年此地別榛午後絕人跡傍晚憐火青濁則知浦頭原屬荒浦也※ 《漳州府志卷之四十五》1

というわけです。
 ……何が,というわけなのか?
 いや,だって,文節の切れ目も分からない上に,確かに書いてはあるけれどそのポイントが古地名だらけで,どこをどう通ってるのか,雲を掴むようです。
 ところで人間,時には文字から目を離して空を見上げることも必要なもので,ここは一つ,歴史屋ではなく地理屋に攻め口を変えましょう。
▲九龍江の描くY字と漳州市街の位置(百度地図)

漳州東部に連なる水域群

 漳州府志上,九龍江は北渓・西渓・東渓に分けて呼ばれてるようです。
 どうやらこの3本は,漳州東のY字合流地点からどちらに伸びてる水域か?ということらしい。だから,漳州市街の南にあるのが西渓になる。
 けれど,このY字合流点の漳州側は,よく見ると水域だらけです。九龍江を隠してみたとしたら,どこが河なのか分からない。山筋と平野の配置だけを見れば,漳州市街部から東北に川が流れるのが自然にも見えます。
 上図のうち,浦頭を左下にして拡大したのが次の図です。

▲上拡大図

 水域だらけです。
 漳州市街東域から浦頭を経て北東に,かつての九龍江水域は伸びていた,つまりY字合流点は現在より北側にあった──と地理的にも読めるし,漳州府志にもそんな感じを受けるんですけど……どうも確定的なことが言い辛い。
 Y字合流点を現在位置と仮定したままだと,水域の配置からは次のような川筋も描けます。

▲仮想できる旧九龍江川筋

Y字湖沼地帯にあった海民集落群「過溪」

 けれど,前出の毎日头条記述を考えると,そもそも本流がどこなのか,という状況だったんだろうか?とも思えてくるのです。

洲中圍十多個村莊稱浮洲十八社,俗稱「過溪」

 中州にあった居住域は「圍」だった。それが十数乱立していた。
 川の本流がどれか,という考え方は水利の発達した時代のものです。特に,河が三方から伸び,これほど三日月湖的な水域が残る場所は,むしろ全体が湖沼と支流の入り乱れた「ぼんやりとしたY字合流面」だったと推定した方が現実に近かったのではないでしょうか。
 広島県の三次市の合流域,あるいは戦国以前の難波津を想像してもいい。
 そういう「合流面」に浦頭港は接していた。
▲本稿の想定する過溪合流面の位置

 毎日头条も書いている。「過溪」というエリアは,1667(康熙六)年の九龍江改道で大州を形成したと。つまりこのエリアは,「Y字湖沼地帯」としては康熙以前から存在していた。我々はどうしても自らの陸上定住民の視点から捉えてしまうけれど,この水域を眼前にした浦頭港というのは,水域の網の中に住んだ海民たちの拠点でもあった,いやむしろそれが本性だったのではないか。
 先に掲げた浦頭の古写真思い返してほしい。「昔日浦頭港內的定潮樓,每逢民俗節慶,周邊的村民就在港里划龍舟。 (周卓謙 攝於1978年)」※ 前掲毎日头条──浦頭港の中にあった定海楼には,民俗行事の度に,周辺村民が龍舟※でこぎ寄せた。
 この村民たちというのが,過溪の人々で,彼らこそが月港,さらに厦門,台湾へと広がった海民の祖だったのではないでしょうか。
 浦頭とは,彼らの水域と陸上世界の接点だったように夢想するのです。

〔柑仔市斜線ライン概念図〕
龍眼B━柑仔市┯(斜線line)
       │
    砂浜又│は沼地
←南西    │ 北東→
      ■浦頭
   湖沼地
 ・過・溪・集・落・群・

内陸港浦頭と外洋港龍眼を結んだ柑仔市斜線

 これらの前提に立つと,元々の出発点だった柑仔市斜線の位置付けも一応は仮定できます。
 湖沼域の西側,通りを作れる硬い地盤の最東のラインでしょう。
 最初の第一印象通り,海進期にはこれが水際だった時期もあるでしょうけれど,基本的には砂浜の陸側高台ラインのような場所です。その沖側,砂浜の先に,やや硬く高い土地,おそらく小島のような地点があり,船舶の大型化に伴いそこの利便が高まって,かつての水際から道がついた。これが現・新行街で,船着き場となった小島が「浦頭」,まさに地名通りです。
 柑仔市斜線ラインは,定住民側の港に最も近い商業地区だったと位置付けられます。
──大阪人又は和田竜「村上海賊の娘」のファンの方なら,本願寺(現大阪城)と天王寺砦を結ぶ上町台地と,その西の砂州にあった木津砦を連想して頂ければ近いイメージだと思います。

▲村上海賊の娘関連地図(上下逆転)
※天王寺砦 →柑仔市
 大阪本願寺→威鎮閣
 木津砦  →浦頭港

 もう一つ,この斜線ラインの南側が老城南東角・威鎮閣に至っている点ですけど,これは内陸水域用平底船から外海航海用大型船への積み替えのための荷運びの導線だったでしょう。湖沼域にある浦頭は,前述のように平底船は着けても大型船には水深が浅すぎる。龍眼巷ブロック南が厦門や台湾への大型船の接岸場所で,そこと浦頭間は陸路。それが斜道ラインだった,ということになりそうです。

外海拠点の月港→厦門移行と浦頭の衰退の相関

 漳州・浦頭側から見た月港と厦門の違いは,遠いこと,外海域にあることの2点です。
 浦頭は月港との中継点にはなり得ても,厦門とのそれにはなれない。内陸用の平底船は外海を航行するには遅くて危険過ぎるけれど,浦頭には平底船しか接岸できなかったからです。
 だから月港の地位を厦門が引き継いだ時,浦頭は機能面から自壊しました。後に厦門を本拠とした鄭成功も老城側は攻めたけれど,浦頭に興味はなかった。
 そうして浦頭の港も街並みも,西渓故道そのものも消え,斜道だけが残ったのが現在の姿,ということになるのではないかと考えるんですけど──解析できなかった漳州府志と矛盾があれば,是非ご指摘ください。

■メモ:ガソリンで焼かれた万歴帝

 万歴帝を調べてて,日本語wikiに次のような記述がありました。これも逆の偏向がある記述かもしれませんけど,中国での文化財の扱いの一面でもあるので,前提とすべき事実として転記しておきたい。

明の十三陵にある万暦帝の陵墓・定陵は、1956年5月より1年かけて発掘され、公開されている。これは、中国最初の学術的古代皇帝陵墓発掘であった。遺骸毛髪から血液型がAB型であることが判明した。明代史研究、考古学研究を前進させると同時に、考古技術が未熟な中での発掘であったため、大量の文物破壊を招いた。たとえば、密封状態で保存されていた衣服など繊維製品を、発掘後無造作に地上に放置したため、急速に酸化し変質・崩壊したのである。これ以後、中国政府は21世紀の今日まで古代皇帝陵墓の発掘を許可していない。文化大革命初期の1966年8月24日、旧思想・旧文化破棄を掲げる紅衛兵らにより定陵で「批判会」が開かれ、紅衛兵の弾劾演説の後、保存されていた万暦帝の亡骸は孝端顕皇后・孝靖太后の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却された。
※ wiki/万歴帝

 それにしても,これ以降,古代皇帝陵墓の発掘が許可されていない,というのはどういうことでしょう?
 現権威を守るため旧権威を持ち上げたくない,ということだとしても,なぜ発掘したら旧権威の賛美に必ず繋がる●●●●●●●●●●●●●と考えたのか。それも一度許可した後に?
 定陵から,今後発掘されてはならないようなものが出土した,ということでしょうか?