m065m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm北京路台湾路

下站漳州

泉州 站 D6221 漳州 站
QUANZHOU → ZHANGZHOU
2019年09月18日12:25開 03車02C号
¥40.0元 折 二等車
限乗当日当次車

札は規定通りの10分前。1225,定刻きっちりに出発。
 東に小山連なる。西にも遠く山影あり。
 うとうとした。1248トンネル内。前方電光表示には「下站:厦門北」と表示。
 ここまで25分か。
 左右とも高速マンション。右手の山影は遠いまま。
 赤子とは言えない年齢と見える幼女が,親とともに左席に座る。これが騒いだり泣いたりとにかくやかましい。対する親がとにかく甘すぎる,それが全ての原因らしいけど……まあ中国新幹線ではままある事態ですしね,とほほ。

て!いよいよ漳州です。
 今回6都市を回ると考えると4都市目,後半戦に入る。
 セッティングとしては──漳州から厦門への移動はバスを考えてる。百度で検索してルートの実在も確認済。
 泉州から西60kmには厦門の陸側後背地が広がる。九竜江という川の河口デルタらしい。ここから東へ40km,九竜江に沿って遡った川沿いの平地部が漳州です。つまり厦門~漳州ルートは距離的には甚だ近い。
 だから宿は,市内・長途汽車站に近い如家にとった。これから着く火車站からは11路かk1路のバスで行ける。ただ今調べてると「2019年4月28日,长途汽车站将永远关停车站功能」つまりつい半年前に長距離バスターミナルとしては閉鎖してる。どうやら「漳州汽車客運中心站」というのが新しいBTらしい。ただ如家や长途汽车站からは23路バスが結んでる。
 漳州は九竜江を挟み南北に広がる。市街中心は北側西寄りに,火車站は南側東寄りにあるようです。

▲黄色マークの左上が長距離BT=市内中心,右下が漳州站(新市街?)

手西方の山影は遠いけど大きい。
 1259,「下站漳州」(次は漳州です)とアナウンス。
 丘が増す。それでもマンション群は尽きない。厦門の人口400万,既に大陸側にも相当の規模の町があるらしい。
 再び平地になった。だらだらと街は続く。ただ農村風景ではない。工場は多いけれどそればかりでもない。
 1306,駅。名前読み取れず。また丘陵地になる。
 晴天。外気温34度と表示。げげっ,である。
 左手に街並みに覆われた平原。ただ列車はスピードを増してる。
 左手はるかにも山陵線が見えてる。右手の山影は岩肌を見せてきた。もう西行してるから,これらがそれぞれ南と北になる。
 右手山影の向こうから高層の林立が近づいてきた。スピードが落ちてる。
 1311,トンネル。
 客が立ち始めた。ここらしい。
 1316,漳州下車。東に大山が見えてました。

~~~~~(m–)m漳州編~~~~~(m–)m

▲(ピンク地)漳州位置

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
漳州站~汽車站(新華路)(経路:バス)
~北京路南端(経路:徒歩)

震度最強オヤジ

札を出て見回すと,公交枢紐站というのが西少しの場所にありました。
 バスのリストをチェックすると,やはりここから長距離バスの発着はない。汽車客運中心站に一元化されてるんだろう。
 市内路線は,調べてたK1路がここから出てました。1334乗車。天井近くに掲出のバス停のマップを見ると,長途汽車站までかなり止まるバス停は少ない。その代わりなのか9人乗りのミニバスです。乗車賃は5元。

を開けろと運ちゃんから指示が飛ぶ。客を使うな,とムカ入りつつもやはり熱いから……ラッキー!!
 右隣のデカい声のオヤジがスマホで話しながら貧乏揺すりを始めた。震度最強である。この町のオヤジ顔には牛のような図太さを感じます。
 さて火車站から汽車站まで6km,中心街文魯閣まで2kmが直線距離。実行程約10kmの道のりです。
 1343,出発。
 行き違いに11路が来た。あらら,こっちは大型バスでした。そっちの方がよかったぞ。
 車道に出て北行。車窓は公園のような光景。左手に高層マンション近づく。30階から40階か。その向こうには低地になった先に山陵線が伸びてる。

漳州水巻き車は無音でドバッ

 1349,高架渡る。九竜江です。吉野川ほどの幅。その対岸は左右とも高層マンション群。
 龍江中路と初めて道名表示を見る。
 1353,左折。西行です。左手にCROWNE PLAZAのあるビル群。金融中心とある。
 厦門銀行の入る新城国際。バス停悦■新村。水仙大街を走ってる。念のため百度地図をオンにする。
 温泉の文字もあるぞ?
 右折。下町風情を感。百度もこの辺りと示す。1404長途汽車站下車。
 道は新華北路。
 確かに対面に「漳州汽車站歓迎」という古びた文字が残る。市内路線の変更が追い付かないのか,未だに15路線ほどが,客運中心站へ行く23路を含めここを通る。当初の企図とは違うけど市内の活動には便利そうです。──泊まれれば,ですけどね。

▲1405長途汽車站

州の水巻き車は音楽をかけないらしい。下車してすぐ,前触れなしにぶっかけてきたからたまげた。
 ところで,です。予約した宿・如家への入口が分からんのです。二階の高さに表示はあるからここに間違いはないのに?
 何と!看板の出てない交差点角地から入る,というのが正解でした。
 1433,外国人の追い返しもなく無事に投宿。連泊も取れました。
 手早く洗濯だけ済ませ,さっき駅で買った南京を吸う。南京が吸えた。久しぶりに吸う南京は美味い。

一歩遅かったあああパターン?

▲1509街路樹の色漕き新華北路を行く

地点も探してました。まずこの南南西1kmほどの地点です。
 1507,とりあえず新華北路を南へ歩く。
 ワンブロック南が文昌閣。旧城のゲートらしい。おそらく東門。この交差点南東角に向陽坊発見!下町の中心はこの辺りでしょう。

▲1512漳州文昌閣を過ぎる。

ろそろじゃないか?
 1522,バス停行政服務中心を過ぎた辺りで,炮仔街※へ右折西行。
 おおおっ,すごい工事中。掲示物からすると文化街を作ってる。こ,これは……「一歩遅かったあああ」パターン臭いぞ!
※ 解放後に華僑出資による大きな劇場があった,という下記プログを見つけました。その当時の繁華街ではあったようです。
※※ 炮仔街:你还记得侨芗剧场、大家族灯饰和修锁一条街吗?_手机搜狐网

整地されつくした文化街

▲1534北京路はがっつり騎楼

533,左折南行,北京路へ。基本的には金太郎飴めいた文化街。でもこれ……一部はホントに残ってた街路だぞ?
 巻末に掲げた捜狐記事によると,ここは,元は永靖路という漳州一の繁華街らしい。

▲1536台湾路

537,台湾路へ右折東行。た,台湾路??
 当然,これらの名称は文革期の名残りでしょう。延安路というのもあるらしいから,さながら台湾を含めた東アジア制覇を企図した野望の地名群でしょうか。
 ダンプががんがん通っていく。

▲1540台湾路の洋風家屋

を過ぎると元々の街並みが残ってました。ただ,これは近く再開発が始まる雰囲気です。もう立ち退いてる感じ。
 延安南路。左折南行しよう。

▲1542半分破損してるけど……台湾路の光景

546,文廟。
 ここは聖地,いや整地され尽くしてる。南に池。でもxでヒットしてたのはこの南の地区です。
 あ!まっすぐ南にゲートがある??

▲1546寒々とした文廟の東側ゲート

南北道・龍眼营に到る

れを行って中へ,つまり西側へ入る道を探すしかないようです。南行続ける。
 え?西への道が細かく,完全に塞がれてる?どこにも入口がない?どうやら意図的に途絶されてるらしい。
 古城小酒吧餐庁。19時開店──ということは夜の町の色彩があるのか?

▲1554古城小酒吧餐庁のバー(閉店中)の軒先にて

のゲートがすぐそこまで迫った1556,南市場という筋が見つかった。迷わず西行。ただそこしかない西行路なんだけど……。
 いや?入れたぞ!龍眼营という南北道が現れました。
 北行。

▲1557唯一の東西道,南市場に入る。

■基礎資料:漳州が東シナ海沿岸各国史に落とす影

古池や 蛙とびこむ水の音
 漳州は歴史に不思議な影を落とす町です。その町自体の歴史を調べても,てんで雲をつかむような情報しか得られない。
 唐~元代には漳州府として周囲を管轄する役所が所在した,ということは分かっています。ただ明~清代の政治的位置はひどく朧です。
 なのに,各国の歴史にこんなに顔を出す町もありません。いや,町というより,「人々」と言ったほうが近いかもしれない。
 このレポでは,なので,ほとんど漳州の町それ自体のことは出てきません。

▲月港の位置と付近の航空写真
月港(GM.地点:百度百科によると住所は龙海县海澄镇。ただし百度地図及びGM.は龍海市と表示)

[漳州前史]月港の盛衰

 場所は上記のとおり,漳州と厦門の間,九竜江の海への出口です。
 ここへは滞在中,行こうと試みました。でも,上記のとおりどうも今は何もありそうもない。
 百度TA説がその盛衰を綴ってましたので,これに沿っていきます。
必然结局:月港贸易与明朝的天子南库衰落记_百科TA说
1450年代:月港の経済地位が上がり始める。
1567年:隆慶帝即位とともに明朝が着手した改革の一つとして,月港が中国で唯一開港される。月港は一気に黄金時代を迎える。
 しかし,貿易規模の拡大に伴い,水道の狭さが成長を阻害し始める。
 月港の繁栄にトドメを指した2つの要因として,TA説は以下を挙げています。

「万歴朝鮮戦争」

 日本でいう朝鮮出兵です。

万历朝鲜战争的爆发 让月港贸易首次停摆
1593年,万历皇帝治下的明朝已同日本陷入半岛鏖战。远在南方的月港,也受到时局变动所带来的不可抗风险。当一则关于倭寇要占领台湾鸡笼的假消息传播开来,负责管理港务的官员便在朝廷命令下,硬生生的宣布停止贸易活动。至此,原本船流不息的月港正式步入萧条期。虽然日军在数年后撤出朝鲜,但新来的荷兰武装商船还是经常让朝廷出台类似措施。例如在1622年,一支东印度公司的船队就阴差阳错的占据了澎湖列岛。[百科TA说]

 やや眉唾で,つまり反日思想的な偏光も想定して聞かれてもよいと思うけれど,それでも日本側の教科書的観点とは異なった見方でなかなか新鮮です。──明朝中央は,日本と戦闘状態に入るに際し,漳州に対外貿易の制限を欠けた,とある。その理由には,豊臣軍と連携し「倭寇要占領台湾鸡笼」(倭寇が台湾の基隆を占領するに違いない)との誤解というかリスク対策もあったそうです。
 ただ,ここで書かれてるのは,単なる日本悪者説ではありません。日本が朝鮮半島から撤兵してもオランダが類似の措置を明朝中央に出させ続けた,とし,それが漳州交易を干上がらせる環境になったとする。
 つまり,朝鮮戦争は,東シナ海において国家レベルの海軍力が衝突する時代の始まりを告げるエポックとなった。具体的には,誰もやったことがなかった東アジアの盟主・中国皇帝への海軍力による攻撃を,豊臣秀吉が現実にやってしまい,かつそれにより中国皇帝勢力が意外に消極的姿勢を見せたことで,西洋海軍力に「前例」と「海軍力と経済力による中国同時攻撃の有効性」を露呈してしまった──と書いてあるのです。
 秀吉(構想的にはひょっとしたら信長)の対明攻撃は,傲慢な豊織権力の狂気ではなく,軍事的にはかなりの現実性と革命性を持っていて,少なくとも海域アジア史の転換点となった可能性があるのです。

厦門を本拠とする鄭氏の台頭

 もう一つ,より直接的なのは鄭氏「王朝」の海上支配。これはまあ当然です。明朝のお墨付きの開港で,海上保安の中核だった月港には,東シナ海全体が当の明朝支配を一時的に逸したのは致命的な環境変化となりました。

郑氏集团与厦门崛起 宣判了月港的死刑
紧随其后的明亡清兴进程,又对整个福建沿海的贸易经济造成重大冲击。刚刚崛起的厦门虽然萧条,却能依靠郑氏船队和从泉州转移过来的陶瓷产业坚持。依然有少量漳州商贩坚持的月港,则因新一轮海禁而彻底陨落。[百科TA说]

 ただし,ここでも月港勢力──つまり漳州海商とその関連勢力は,滅びたわけではない。鄭氏そのものが根拠とした厦門へ移った,というニュアンスです。
 また,漳州vs鄭氏という捉えも的外れです。鄭氏は泉州の出身だし,月港から厦門は30kmもない近さ。鄭氏支配下で再編されたと見るべきです。
 漳州人の「活躍」とは,つまりこの月港からの大脱出(エクソダス)の過程と同義なのでしょう。

[台湾ルート]鄭氏王朝の一翼としての台湾移民

(台湾の※)農地開発が加速するのは,鄭氏政権が,台湾西部海岸全体を管理下に置いた一六六一年以降のことであった。鄭氏政権は,故地福建南部から数万人の入植民を召募して,開発を進めた。

※※ 豊岡康史「海賊からみた清朝─十八~十九世紀の南シナ海」2016,藤原書房。文中の※は引用者追記。
 台湾編で触れた,この福建行きの直接の動機になった漳州人の台湾大量移民は,鄭氏の募集に応じたものでした。

移民の出身地内訳は,福建南部の泉州府出身者が四五パーセント,漳州府出身者が三五パーセント,広東省東部潮州の客家系移民が一五パーセント,その他(福建北部など)が五パーセントである。[前掲豊岡2016]

 この時期の閩南人は凄まじい規模とスピードで台湾に移ったわけです。明王朝の瓦解を嗅ぎとるや新天地へどっと本拠を移した,簡単に言えばそういうことでしょうか。

要するに,台湾では漳州系住民『漳』,泉州系住民『泉』,客家系住民『粤』,原住民『番』の,大きく分けて4つの集団が離合集散を繰り返していたことになる。
 これらの集団同士が武器を持って抗争を行うことを『械門』(かいとう)(械は武器の意)と呼ぶ。[前掲豊岡2016]

 この移民→移民先での土地争奪戦という流れは,香港での圍を本拠とした抗争と同質と思えます。
 だから,この時期の多量移民は,この明末清初の国家レベルの政治的混乱を直接原因にしていることは確かだけれども,他のどの地域でも起こった事態ではない。本質的には,閩南人の可動性に起因します。
 交易が拡大し,それへの依存度が高まるとともに,閩南人の海域移動のインセンティブないし可動力は最高潮に達していた。パトロン勢力の弱体化すれば躊躇なく,だから彼らは外海へ移った。移れるパーソナリティを持っていたわけです。
 少し時間を遡って,そのパーソナリティに連動する伝説に触れてみます。
▲現在市販されている开漳圣王像
开漳圣王 – 大庄严佛像铜雕厂

[可動パーソナリティ]漳州を開いた聖王

 尊称を「开漳圣王」(開漳聖王)。「圣王」として台湾でよく祀られてるのは,陈元光(陳元光)という7Cに実在した人らしい。
 当時,泉州から潮州の一帯に「蛮獠啸乱」という反乱が起き,これを鎮圧したのが陳元光さんだとのこと。
 そんな時代のローカルな事象が残ってるのは,「档案」と呼ばれる行政文書の記述からです。
 ちなみに「圣」という漢字は「聖人」を指す。

蛮獠啸乱是一场发生于泉州至潮州一带的长期战争。669年(唐高宗总章二年)由陈元光领官兵入闽击败苗自成、雷万兴等人部众,平息蛮獠,并建立漳州。711年,苗、雷之子朱艾、雷成偕同蓝奉高等人再度率蛮獠起事反抗唐朝的统治,陈元光在这场征战中被蓝奉高砍杀致死。后其子陈珦继任漳州刺史,领兵杀蓝奉高,再次击败蛮獠[1][2]。蛮獠啸乱是继汉平东越之战后,中原政权征伐福建的大型战争,而其史事被后世小说家改写成章回小说《平闽全传》。

1 开漳圣王-中央研究院民族学研究所数位典藏 互联网档案馆的存档,存档日期2017-01-15.
2 《漳州掌故大全》第二辑 开漳史话

※ 維基百科/蛮獠啸乱

 個人の英雄ではないらしい。次の記述では親子三代が,87姓9千人で来たというのだから,実態は屯田兵でしょう。

陈元光,人称“圣王公”、“陈圣王”、“威惠圣王”。1300多年前,陈元光随父陈政带领87姓府兵及家属近9000人,入闽平定“蛮獠啸乱”。

陈元光随父平定“蛮獠啸乱” 曾任漳州首任刺史_江苏频道_凤凰网
 9千人で泉州から潮州までの広域の反乱を収めた,というのは無理があります。「蕃族」側はバラバラの小集団で,組織だった軍隊とは思えない。つまり普通に生活していたところに漢族が入ってきた,アメリカ西部の開拓時のインディアンとの戦いのようなものでしょう。

后代景仰
陈元光开发漳、潮地区的业绩,受到历代朝廷的褒崇。唐朝先天元年(公元712年),唐玄宗赐赠陈元光为豹韬卫大将军,临漳侯,谥忠毅文惠,后又追封他为颍川侯,赐“盛德大祀之坊”。
宋徽宗赐与陈元光“威惠庙”匾额。宋孝宗加封陈元光为灵着顺应昭烈广济王。明朝又改封他为昭烈侯。漳州地区人民把他尊为“开漳圣王”,崇祀他的庙宇遍及闽台

※ 維基百科/陈元光
 この人々が漳州に入った。町には「将軍山」を初め所縁の地名が数多い。そうして今でも開拓の初代首領を「漳州を開いた聖王」として崇めている。
 崇めているのは象徴的なフロンティア・スピリットだと言い換えてもいい。例えば神武東征と質的に違うのは,崇める対象が神ではなく人で,具体的な自らの先祖だということ。加えて,漳州の土地そのものに固執するというより,新天地を開く行為に意味を見いだしている点です。
 ところで,この「新天地を開く」というのは,開かれる土地に住んでる側から言うとかなり酷い行為です。

[琉球ルート]尚氏王権の乗っ取り

琉球・久米村(華人居留地)へは16世紀末から17世紀初にかけて立て続けに漳州人が入籍している。この頃の久米村は、海外貿易の不振(15世紀後半ごろ~)に伴って衰微・荒廃し人口が激減し、進貢を実施する要役すらも確保が難しくなっていた。このため漳州から来琉した新たな渡来人―阮明・王立思・阮国・毛国鼎(全て龍渓県から)―を編入し、その機能維持と振興をはかったのである。

中国における琉球史跡 ←原典:高良倉吉「補説と参考問題」『琉球王国史の課題』ひるぎ社、1989
──というのが,那覇久米三十六姓の由来の語り口ですけど,沖縄編で先に触れました。この阮・王・毛家という人々,特に毛興文(安里大親)や毛国鼎というのは,第二尚氏を創立したと言っていい。
※ FASE62-5@deflag.utina3103#
/■小レポ:毛国鼎を祀るということ
/■小レポ:ヲーサーレー!!(その通り!)

 東南アジアでやったのと同様,琉球王朝は事実上,漳州人海商がコントロールしていた,とも言える。もっとも,尚氏王権そのものが交易のための仕組みだったとも極論できなくないのだから,支配-被支配の関係というより,漳州人と琉球人がウィン・ウィンの関係を作っていったと考えてもいい。
 沖縄の朝貢貿易全盛期はこうして訪れたものです。

[パーソナリティ]沖縄人と漳州人:故郷を愛しつつ世界に雄飛

 沖縄でも特に糸満人は,海外への移民の率が高いと言われる。あれほど「しま」とその文化に固執する人々がなぜ?と腑に落ちなかった。
 先ほど开漳圣王の段で歯切れ悪く漳州人のフロンティアスピリットに触れたけれど,漳州人は漢族の中でも郷土愛は激しい,というのが定評らしい。
※ 福建各市人的特點,福州人泉州人廈門人漳州人看過來,對不對? – 每日頭條
 どうやら,彼らの頭の中では,郷土愛=郷土での定住への固執,という算式が成立しないらしいのです。
 漳州人は海外に移っても,同郷者間の連携を極めて強く維持する傾向がある。帰属の対象が風土ではなく集団又は文化であれば,そういうことはあり得る,という理屈にはなる。──実感にはしっくり来ないけれど,理屈は分かる。
 そして,そういう集団的郷土愛が存在するとするならば,その集団がまるごと海外へ移動する時には,移動を容易にする方向に働くはずです。
▲「中央研究院台湾史研究所と国立清華大学などの研究グループが、約400年前に書かれた、漳州語の発音・漢字・スペイン語対照の『漳州語辞典』をフィリピンの大学で発見した。中央のあたりに『洗門風』が見える。(中央研究院提供、中央社)」

[フィリピンルート]初期の移住を誘ったのは鄭氏だけではなかった

台湾の最高学術研究機関、中央研究院台湾史研究所と国立清華大学(台湾北部・新竹市)、スペイン・バルセロナのポンペウ・ファブラ(Pompeu Fabra)大学、及びセビリア(Sevilla)大学による研究グループはこのほど、フィリピンの聖トマス大学の資料館で、今から約400年前の「漳州話詞彙(Vocabulario de la Lengua Chio Chiu=漳州語辞典)」を発見した。同資料は1,000ページに及び、2万語近くの単語が収録されているという。スペインによる植民統治時代の言葉に関する新たな歴史資料を発表 : Taiwan Today 2017/04

 同誌はこれを「今世紀最大の発見」として報じています。南閩を祖とする台湾人にとって,先祖の文物が発見されるのは聖書の新章が見つかったようなものみたい。加えて,4百年前の事実もこれほど霧の中にあり,それどころか南閩人の国が実現していなければこれも埋もれていたであろうことは,日本人から見ても驚くべきことです。──つまりそれほど漳州史は「裏歴史」なのでしょう。

閩南人には、過ちを犯した人に自らの過ちを書いたカードを持たせ、市場のそばで道行く人に謝罪させる習慣があり、これを「洗門風」と呼ぶが、「漳州話詞彙」にも「Sey Muy Hong」と明確に記載されている。[前掲TaiwanToday]

 文革を連想させるこんな制裁風習も知らなかったけれど,そこまでの文化的深度で書いてあるというのは……それほど熱心にスペイン人は閩南人を理解したかったのでしょうか。

スペイン人は1571年、米国の銀を携えてフィリピンに上陸。豊かな暮らしを求める数万人とも言われる閩南人をマニラに引きつけた。[前掲TaiwanToday]

 鄭氏による台湾移民募集の百年前です。閩南人の大規模海外移転はフィリピンを最初の成功体験として,以後繰り返された,という見方もできそうです。
 なお,漳州話詞彙の作成年代は次の点から推定されてます。

「漳州話詞彙」にある「鶏籠、淡水」にはスペイン語で、「Tierra de Isla Hermosa ado estan los españoles(台湾島でスペイン人がいるところ)」と書かれており、この原稿がスペイン人の台湾植民統治時代(1626年から1642年)までに書かれたことが証明できる。[前掲TaiwanToday]

[一次概観]漳州人小史年表

 以上の事実を,以下の既知のものと併せ時系列に落とすと次のようになります。
m051m第五波mm閩南概観/C3[道光期]謎の「変動」期
同/E3[18C]海外拠点の月港→厦門移転

(凡例 ※:漳州が直接は関わらない事象)
712(唐朝先天元)年[中国]陳元光「開漳」
1469年[琉球]安里大親(漳州人・毛興文)後見により第二尚氏初代尚円王(金丸)即位
16C半ば★ いわゆる後期倭寇期(1550年代 嘉靖大倭寇)
1567年[中国]隆慶帝即位。月港が中国で唯一開港
1571年[フィリピン]スペインの上陸開始。以後「数万人の閩南人を引きつける」
1571年~1643年[琉球]毛国鼎。漳州から移住,久米毛氏の祖。琉球の対中交易に従事
※1592~98年[朝鮮]文禄・慶長の役(朝鮮出兵,万历朝鲜战争)
1661年[台湾]同西部海岸を実効支配した鄭氏が閩南から数万人の入植民を召募
1661~1683年★[中国]清朝,遷界令発布
1684年[中国]厦門港に漳州月港に代わる税関設置
※1757~82(乾隆22~47)年[中国]ヨーロッパ船の来航を広州一港に限定
1821(道光元)年~ 漳州経済の急激な縮小

 ここでは安直な解釈には到らず,時系列の相を読むにとどめます。
 どうも(年表中★)16C半ばの嘉靖大倭寇と17C後半の遷界令がターニングポイントになってます。漳州人は,前者において定住の海賊の道を諦め非定住に活路を見いだし,後者において非定住からさらに積極的な移住に基本姿勢を移している。
 ジプシーや遊牧民は前者の非定住の段階にある。後者の類似をあえて言えば,徽商,印僑,ユダヤ人でしょうか。
 それでもなお強烈に保持され続ける漳州人としてのアイデンティティ。こんな「文化」を解釈するアプローチをまだ我々は持ってないのではないでしょうか。

■要点メモ:木岡さやか「明代海禁体制の再編と潭州月港の開港」

 前述の年表中,月港開港段階の明朝サイドの意思決定過程に関しては,木岡さやか(京都女子大)という研究者の論文がありました。以下,本稿に関わる部分を,主に漳州に関する史実の抽出を目して読んでいきます。

隆慶初年の開港問題を含めた通時代的な海禁理解を目的に、国家の海洋統制策としての海禁の実体に迫ったのが檀上寛氏である(2)。氏は隆慶初年の月港開港を海禁体制の「再編」と規定し、通説とは異なる積極的な意義をそこに認めようとする。確かに隆慶初年の月港開港で海禁体制が消滅したわけではなく、民衆の出海禁止措置は依然続行しており、それは後の清代にも繋がっていく。つまり、体制としての海禁は明清時代を通じて基本的に不変であり、
(略)
註(2) 檀上寛『元明時代の海禁と沿海地域社会に関する総合的研究』平成十五年度〜平成十七年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告盡日、 二〇〇六年。

 嘉靖大倭寇直後の1567年,皇帝交代の初年に月港が初めて対外開港された事実は,確かに奇妙です。漳州が「倭寇」の一つの,あるいは本拠かもしれない場所だったのに,そこを開港してどうする?という見方も普通にあり得るからです。
だから,安直な捉えだと,あるいは黒船来港による江戸末期の日本の開港イメージを念頭に置くと,末期の明朝が倭寇の勢いに屈して妥協したようにも見える。でもそれにしても奇妙で,屈すると言っても海賊の誰とどう調整してそんなことが可能なのか,見当もつきません。
 檀上2006は,そこを「妥協ではない」と明言してます。それどころか,「海禁は明清時代を通じ(略)不変」と断言してる。

密貿易の拠点として俄然クローズアップされていたのが、浙江省舟山群島にある双嶼港と福建省の潭州月港である。双嶼港では倭寇王と呼ばれた王直の活動が有名で(6)、彼は日本の松浦・五島との間を往来し、平戸に居館を構えて王侯のような生活をしていたといわれる。しかし、嘉靖二十六年(一五四七) に浙江巡撫兼浙閾海防軍務提督に任じられた朱紋の攻撃を受け、双嶼港は覆滅される(7)。(略)
広東省や浙江省での密貿易が退潮に向かう中で、その活動が衰えることなく、密貿易の拠点として繁栄し続けたのが福建省の月港であった。(略)
註(6)(略)王直に関しては『明世宗実録』嘉靖ご十八年七月壬申条に、「按海上之事、初起于内地奸商。王直徐海等、常闌出中国財物、與番客市場、皆主于余姚謝氏。久之謝氏頗抑勒其値、諸奸索之急、謝氏度負、多不能償。則以言恐之日、吾将汝干官、諸奸既恨、且懼乃糾合徒党番客、夜劫謝氏、火其居、殺男女数人、大掠而去」とあり、ここからさかんに密貿易を行っていた状況や、さらには掠奪行為にも及んでいたことがわかる。(略)

 月港が栄えており,それが密貿易によるものだったことは確からしい。万歴「漳州府志」(巻三十 海澄県 興地志 建置沿革)に「月港,人煙辏集して大市鎮たり。……悪少の私かに番に出貨して寇を誘い,之を禁ずれども止まず。」とある。また,朱纨『甓餘雑集』巻三 増設県治以安地方事に「月港地方……而東連日本,西接暹球,南通佛郎,彭享諸国……閩南一大都会也。」とあり,日本を貿易相手にした「大都会」だったこともほのめかしてある(木岡同註20)。
 後期倭寇を代表する王直勢力は明朝側に本拠を潰され,本人は騙し討ちされる。けれど閩南は月港開港に決着し,結果正史に記録される繁栄に到る。これはどう考えても訳が分からない。
 木岡さんはそこを,①漳州が靖海館(改め後に海防館)を置く海上保安の中核でもあった点,及び②同時期の福建巡撫が,月港開港論者の最右翼だったことから説明しています。

 海防目的に設置された靖海館は、潭州府で起こった「月港二十四将」の反乱の影響もあってか(25)、嘉靖四十二年(一五六三) には「海防館」に改められ、海防同知を専任官として任命するなど、さらなる海防体制の強化が図られた。この時、海防館の設置に関わったのが「籌海論争」の最中に開洋論を唱え、当時福建巡撫の任にあった譚綸である(26)。潭州府の海防強化に努める譚綸のこの行動は、将来の月港開港に向けた準備作業であったとみなせないこともない(27)。
(略)
註(25) 嘉靖四十年(一五六一) に潭州府で起こった民間貿易商の反乱。具体的には張維、呉川、黄隆という人物の名が見られ、彼等は船を作り、密貿易者達に物資を供給する役目を果たしていたと考えられる。万暦『潼州府志』巻三十、海澄県、雑志、兵乱には、「先是、丁巳年間、九都張維等二十四人、共造一船、専一接済番船、因以為号、官府莫禁。戊午年冬、巡海道邵差捕盗林春領兵三百人勦捕、次於許坑、二十四将率衆拒敵、殺死官兵三名。… … 、張維拠九都城、呉川拠八都草坂城、黄隆拠港口城。旬月之問、附近地方効尤各立営塁」とある。
註(27) 『明経世文編』巻三百二十二、譚襄敏公奏疏、善後六事疏。
一、寛海禁。閲人浜海而居、非往来海中則不得食。自通番禁厳、而附近海洋魚販、一切不通。故民貧而盗愈起、宜稍寛其法。
一、増設県治汀潭延平間。県治太遠、不便防奸、請立県於河埠東西坑東洋三処、令有司就近約束。
 譚綸は福建省の居民が出海できないことから貧困に陥り賊となることを指摘すると同時に、新県を設けて彼らを取締まることも願い出ており、開洋と同時に海防にも注意を払っていることがわかる。

月港二十四将の乱

 ここでサブの事象として触れられている「月港二十四将の乱」が興味深い。それは万暦『漳州府志』巻三十に記述されており,三百人の官兵を差し向けられたけれどもこれに抗し,三名を殺害,砦に籠ったとある。
 面白いことにこの引用部分を読む限り,彼らが覆滅されたとは書かれない。前に触れた通り,また漳州人の連携の強さから考えても地元勢力は総ぐるみで反抗したのでしょう。
 そしてそのうちの誰かが,事態の着地点も冷静に計算したのではないか。そんな想像がされてきます。

当時の密貿易の形態は,海外貿易に従事する「船商」と本土に拠点を置く「土商」とが,両者連携の下に密貿易品を輸入し国内で販売するというものであった(12)。しかも彼らの背後には地方政治に密着した郷紳の存在があり,この郷紳が密貿易を影から支えていたため摘発できないという問題もあった(13)。先の朱纨が密貿易取締りのために双嶼港を掃滅した後,その過激な措置に反感を持った郷紳の策動で失脚し,自殺したことはあまりに有名である。構造的な密貿易の仕組みと海防体制の崩壊とが相乗して,十六世紀段階の沿海部にはある種の無秩序状態が蔓延していたのである。(略)
註(12)佐久間重男『明朝関係史の研究』第二編第一章「明代海外貿易の歴史的背景─福建省を中心として─」参照
(13)朱纨『甓餘雑集』巻二「閩視海防事」参照

 さて,月港開港ですけど,この一大転換点となる史実は,驚くべきことに行政文書上は非常に控え目に,言葉を濁すように書かれています。

 月港の開港について、明代史の根本史料である『明実録』は何ら触れるところがない。この事実が確認できる最も古い史料は、万暦年間に福建巡撫をつとめた許孚遠(万暦二十年〜二十二年在任) の上奏であり、『敬和堂集』巻五、疏通海禁疏に、
 隆慶初年、前任撫臣塗沢民、前轍に鑑みるをもって、勢に因りて利導するの挙を為し、市舶を開いて私販を易えて公販と為さんことを請う。議して止だ東西二洋に通ぜしめ、日本倭国に往くを得ざらしむ。
とあり、さらにそれより少し後に刊行された張燮の『東西洋考』巻七、餉税考に、
 隆慶改元、福建巡撫都御史塗沢民、海禁を開いて東西二洋に販することを準されんことを請う。
とあるのに基づく。
 この二つの史料から、月港開港は福建巡撫塗沢民の要請によるもので、隆慶初年(隆慶改元) に実現されたことがわかる。(略)
註(1) 『敬和堂集』巻五、疏通海禁疏。
先是、海禁未通、民業私販。……。於是隆慶初年、前任撫臣塗沢民、用鑑前轍、為因勢利導之挙、請開市舶、易私販而為公販。議止通東西二洋、不得往日本倭国。亦禁不得以硝黄銅鉄違禁之物夾帯出海。

不得往日本倭国

 あまり大きく触れたものがありませんけれど,この月港開港では,日本だけが例外にされてます。月港で認められたのは,日本以外の海外交易です。
 この点と,秀吉の対明貿易政策とその破綻,さらに朝鮮出兵へと到る意思決定がどう結び付いていたのか,論を見かけません。ただ,「倭寇」を問題にしている限りこの判断は明側にとって妥当でしょうし,豊臣政権側が知らなかったとも思えません。
 なぜこの点が,東シナ海の交易を一時的に凍結させた朝鮮出兵までの過程で触れられることが少ないのか,判然としません。
 本筋に戻ります。開港論を進めた譚綸の議論の原典である譚襄敏公奏議を読むと,その論理が経済政策的だったことが分かります。

嘉靖年間の「籌海論争」で主流を占めたのは開洋論者であった。なかでも積極的な提言を行い、活発な活動を展開したのが譚綸である。彼は海防館の設置に関与したほか、それ以前から新県の設置を主張するなど(29)、月港の海防体制の確立に並々ならぬ熱意を注いでいた。彼の方針は「海禁を寛」(30)めることにあり、具体的には月港開港を念頭に置いての提言であったことは間違いない(31)。その彼が中央に召喚されるのは隆慶元年八月のことで、福建巡撫を退き両広総督の任に就いている時であった。給事中呉時来の推薦で呼び戻された譚綸は、ほどなく北辺軍の強化を命じられ、「南倭」に代わる「北虜」対策に専念することになる(32)。
(略)
註(31) 『譚襄敏公奏議』巻二、条陳善後未尽事宜以備遠略以図治安疏に、
五日寛海禁。… … 。昔人謂弊源如鼠穴也。須留一箇、若還都塞了、好処倶穿破、意正如此。今豈惟外夷即本処魚鰕之利与広東販米之商潭州白糖、諸貨皆一切禁罷、恥有無何所於通、衣食何所従出、如之何不相率而勾引為盗也。為今之計、正宜厳禁呂本、不許私通外、其他如採捕魚鮮、貿易米穀、与在広東転販椒木、潭州発売白糖之類、悉宜如臣近日将各府単槞船隻、定為号色、編立保伍、聴於附近海洋従便、生理之意推広而行。

 つまり木岡さんは,明朝中央の判断は,前代の元支配で嘗めた屈辱を想起させる対モンゴルの「北虜」問題に注力するため,「南倭」問題の早期幕引きを図ろうとした,と見ています。
 大局的には治安の観念で,技術的には経済論でという複合的な構想です。
 これにより,後期倭寇は月港の交易体制に合流していきます。そこまでを計算した漳州人の誰かは,非常にしたたかであったとしか言い様がない。
 ただそれが,戦国期を脱した新興統一国家日本との朝鮮半島での軍事衝突の遠因となり,やがて月港の繁栄に暗雲となっていったならば,計算違いもあったわけでしょうけれど。

「南倭」問題に区切りをつけた徐階は、その後「北虜」問題に力を注いでいくが、周知の通りモンゴルのアルタン・ハーンとの間に和議が成立したのは、月港開港からほどない隆慶五年(一五七一) のことである(隆慶和議)。これを契機に交易場として北辺に「馬市」が設けられ、明とモンゴルとの間で平和的な交易活動が開始された(39)。(略)本来「籥海論争」の当事者にとり、「北虜南倭」は「辺防」という点で連関した課題であり、論者達は「南倭」を論じつつも常に北の「北虜」を意識していた(42)。

■記録:昔・永靖路,今・北京路

 この日に通った北京路は,容易に予想できるように共産中国になってからの名称。その前の古称は「永靖路」,と手机搜狐网の以下の記事がありました。
 渔头庙,十字街,市仔头,少司徒,下营,东闸口の六段に分かれていたとされます。現在の地図で確認できませんけど,書き方からして北から南。つまり渔头庙が北京路の最北,东闸口が最南で九竜江岸に出る場所だったと思われます。

解放前,名为“永靖路”的北京路分为渔头庙,十字街,市仔头,少司徒,下营,东闸口六个路段,从北至南,直抵江滨。
上世纪20-40年代,北京路上的市仔头路段,是漳州城里最繁华的地方。戏院,美食、茶馆、相馆,澡堂,花街柳巷,几乎所有当时人们可以想见的憧憬和欲望,都能在这里得到满足。(略)大众澡堂是北京路上最大最好的澡堂。

蒋介石在漳州北京路住过!带你看看当年的那个旅馆……_手机搜狐网
 中でも市仔头が漳州で最も賑やかな盛り場で,劇場,グルメ,ティーハウス,写真館,風呂屋,風俗店が並んでいたとある。風呂屋では「大众澡堂」という店が繁盛してた……というのが1920~40年代の光景だったという。
 19Cに衰えたといいつつ,そうした繁華街は共産化前まではまだあったわけです。今の現状からして,その後のどこかの時代に相当な圧迫を受けて衰退したエリアに見えます。

■基礎資料:漳州城域地図

 これから歩く漳州老城域について,基礎資料として地図をそろえておきます。まず例によってBTGから。
※出典 BTG『大陸西遊記』~福建省漳州市薌城区
▲漳州城域図(外城全域)

 かなり大きい。宋代には総延長10kmに達したとBTGにはある。
 その内側の歪んだ方形に配置壕は内城の跡。子城ともいう。

▲明代万歴漳州府地図

 内城は下記によると唐代に遡るようです。その城壁は南宋初期には撤去され,壕が城内水路として利用されて今日に到る。本文で越えた河がこれに当たるらしい。
 さて,有難いことに前にも取り上げた趙冲さんが,この老城についても調査されてます。
※趙冲,河野菜津美,布野修司「樟州旧城・薌城区(福建省)の住居類型とその分布に関する考察」日本建築学会計画系論文集第79巻,No.703,2014
それ自体も綿密で,漳州のこのエリアのものは凄いらしいんですけど,本稿ではとりあえずその前段のマップ類が重宝になります。

▲「漳州薌城区と唐宋古城」図

 上は全体位置図。ここでの唐宋古城がBTGの言う内城に当たるようです。
 下はその街路別。街路の構造に加え,なぜかGM.にも百度地図にもない地名が,ここには書かれてます。

▲街路図

 研究目的上,建物の形態別にも分かれてます。順に①構造別(ex.木造か?)及び②種類別(ex.騎楼か?)です。
 以上のツールを準備して(当時,これらを本当に準備してればかなり歩き方も変わったでしょうけど……)次章からいよいよ老城に入ります。

▲家屋構造別

▲「住居類型の分布と実測住居1~38」