《第十次{13}釜山・南海岸》オレンマネ・ジャンオタンの日/麗水(夜)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
①パティオ:GM.
②侵入路地(推定)Maeyeongseong-gil:GM.
(いずれも地点)

赤色灯のパティオから始めよう

▲1843中央パティオ

水旧港の町の構造は単純です。ジョンアン路が東西に走り,南は海,北は山。その両サイドは次章で見るとおり複雑なんですけど……。
 1844。いきなり二食を腹に入れ,ご満悦にて夜のお散歩。ジョンアン路北側のあのパティオのような場所へ。
 前回までよりさらにさらに……長崎や熊本の場末のような,赤色電球を灯した妙な色気のスペースになってます。

▲1847李舜臣くんのいるパティオの風景

李舜臣とアイアンマンが立つ夜道

舜臣君は,この町一番の英雄なので,敵方のニッポン人がこんな写真撮ってて……撃たれないのか?と不安になるほど,韓国人はこの人を祀りあげてます。
 公平に見ると──これは韓国の学会がむしろ通説化したらしいけれど,まず朝鮮出兵のどの段階でも,日本軍の補給路が李舜臣ら朝鮮水軍によって断たれたことはない。

▲「不滅の李舜臣」DVD!

舜臣は下士官時代,北部の咸鏡道で対女真戦で名をあげた軍人です。水軍戦の指揮に秀でていたとは思えない。なのに李舜臣艦隊が鳴梁海峡へ日本水軍を誘い,村上水軍の来島通総を葬っています。後期倭寇時代の名残りで,半島南部海岸域には相当に熟練した海兵がいて,実際に活躍したのは彼らだったのではないでしょうか。
※ wiki/李舜臣 李氏朝鮮の軍人
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3

▲1850アイアンマンらしい人も立つ夜の麗水

性的な店が多い。売り物だけでなくイメージがそれぞれ斬新です。
 よく見ると安い品もあり,長袖を一枚購入する。気候が大陸的なのか,韓国が寒いと感じる夏が何度かあります。

麗水の暗い路地

▲1904路地奥(1)

の辺りで山手の路地に侵入を試みてます。
 幽玄な暗い灯りがなかなか良い……というか怖い路地奥です。ただいずれにせよそんなに深くまでは続いてなかった。

▲1852FIRA前のベンチでくつろぐ人々

う一本入る。
 ここはなかなか奥まで行けました。一歩路地に入ると人の姿はない。危険とも言うけれど,この雰囲気はなかなかではある。
 ただし――――帰国後の整理中に,この路地にも愕然としたのでした。巻末参照。

▲1905路地奥(2)

原新也が昔,韓国の夜を暗がりと湯気とで特徴づけてました。
 麗水の商店街にはなぜか湯気は立たない。けれど絶妙の暗闇が随所に見え隠れしながら続く。

▲1915「cafe■in」前……って何て読むんだろう?あと左手の渦巻きも謎!

カステラがないオレオな夜

水のこの商店街,多くはないけど意外にカフェもある。おしゃれ通りでもないのになぜなのかは分からない。
 1917,港では龍首の船のイルミネーションの前で何かのショーをやってました。中国人らしき観光客たちがわらわらいる。

▲1917龍船ショー(??)

ョンアン通りを通って帰る。こちらは妙に早仕舞いらしく既に灯りもまばら。
 前回あったカステラ屋を目当てにしてたんだけど,どうもなくなってる。仕方ないのでコンビニのこちらをお茶請けに購入。
2004MarketO REAL BROWNIE105×3=315

▲1939紳士服のお店の店頭にて

[メモ]この夜に調べた「スンチョン」순천

情報をそのまま写しておきます。釜山方向へ東行しつつ倭館を目指すってだけしか,この日中まではイメージがなかったので──
 順天 スンチョン 순천は麗水の半島根元の町。
 バスが着くのは順天総合バスターミナル。順天市庁の南東約500m。
 この市街数km南東に順天倭城というのがある。──これに立ち寄るかどうか結構迷ったんだけど──ただ二度目の朝鮮遠征時の城というだけらしい。それはワシが見たい「倭」じゃない。
 順天総合BTはそう楽しくて堪らんとこじゃなさそうだけど沖縄Xすると南西のブロックがドットが小さい。道は整頓されてるっぽいからおそらく公設市場か何かに見えるけど時間があれば。
 晋州のBTは市外と高速の2つがあり,どちらから第三目的地・鎮海あるいは昌原へのバスがあるか(あるいはないか)は分からない。ただどの道,市外BTの方に泊まるわけだから,それは行って調べてから考えよう。鉄道で昌原というルートも頭に入れておけば,どちらかで行けないことはあるまい。
 宿は市外BT南の川岸のモーテル街をイメージしとけばいい。
──この夜,順天・竹島・亀浦倭城についても調べてます。このうち行けたのは1つだけでしたけど,朝鮮側にとって残したくない歴史遺物が南海岸にはゴロゴロしてる,というイメージまではようようたどり着けてたのでした。

▲韓国・巨文島の浦風景
※ 佐伯弘次「日本史リブレット7 対馬と海峡の中世史」山川出版社,2008

■小レポ:みんなの孤草島釣魚禁約

 日本の歴史記述では「孤草島釣魚(こちょどちょうぎょ)約条」と書くものもあります。ハングル表記では「고초도조어금약」と綴るのが通例らしく,これは「禁約」です。
 対馬・宗氏が朝鮮王朝との間に1441年に結んだ条約で,孤草島に漁に行く対馬漁民に手形──文引(ハングル:조어문인 (釣魚文引))の携行が義務づけられました。この文引は,朝鮮側の巨済島・知世浦で発給されるので,漁民は対馬→知世浦→孤草島のルートで漁場に行き,同逆ルートで知世浦で魚税を納めて対馬に帰還。対馬では漁民たる証明として別の文引が発給されたので,現在の出入国に例えるなら,対馬が朝鮮入国専用の仮のパスポートイミグレを発給し,知世浦で往路に到着ビザを出し,復路に出国税を払うような感覚です。ここでの漁民は,多くが対馬人だけれど,一部には壱岐その他外地の海人もいたらしい。
 で,出稼先だったこの「孤草島」がどこにあったかと言うと──現在の通説では,現・麗水市内,この時歩いた旧市街からは南60km,現・巨文島=旧・孤文島と推定されてて(→GM.:地点),話がどこへ行くのかご不安だったと思いますけど,ここでようやく麗水に帰ってきます。
 KONEST地図を繋ぎあわせるとこの地点です。東西に両手を合わせるように二島が円環を成し,おそらく昔の噴火口の沈没地形でしょうけど,潮待ちには最適だったでしょう。
▲麗水市と同市巨文島

絵画に残された倭寇

[年表]禁約前後の対馬-朝鮮関係史

 時代は14Cの前期倭寇と16Cの後期倭寇の中間期です。主要事項を年表にすると──
━━━━━━━━━━━(A)
1392年 李氏朝鮮建国
1407年 朝鮮,興利倭船※の入港場を2港※※に制限
※日本から米・魚・塩など日常品の交易のために来る船。下記「使送船」(使節による通交船)に対する種別名。荒く言えば,興利倭船が民≒非公式,使送船が官≒公式。
※※釜山浦と薺浦(乃而浦。現・慶尚南道昌原市)

1410年 使送船も同2港に制限
1419年 応永の外寇(対馬へ朝鮮軍侵攻)
1426年 2港に塩浦※を入港場に追加(釜山浦・薺浦・塩浦の三浦交易の完成)
※ 現・蔚山広域市。
 対馬の有力者(前期倭寇中心勢力と目され,当時は宗氏を凌駕する勢力を有した)早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し,朝鮮側は,これを拒絶する代償として開港したとされる。

━━━━━━━━━━━(B)
1441年 孤草島釣魚禁約(約条)
1443年 癸亥約条
(日本名:嘉吉条約。対馬→朝鮮の使送船歳遣船上限を年間50隻に抑制
━━━━━━━━━━━(C)
1510年 三浦の乱
(朝鮮名:庚午三浦倭乱。慶尚道全域に及んだ対馬守護宗氏と恒居倭人による反乱とされる)
1512年 壬申約条
・孤草島釣魚禁約は公式には廃止。ただし現実には慣習法として継続されたことが史料で確認されている。[前掲佐伯]
1547年 丁未約定
1557年 丁巳約条
1592-3年 文禄の役(第一次朝鮮出兵)
1597-8年 慶長の役(同第二次)
1607年 己酉約条
━━━━━━━━━━━━━━

[時代考証]対馬が半朝鮮化した15C前半

 概ね,
A:15C前半)朝鮮側による前期倭寇を取り込んだ交易全盛期
→B:15C後半)管理貿易への移行
→C:16C)戦国日本の軍事力による国家単位の侵攻期
の三期に分割されます。日朝の軍事バランスで捉えるなら,A)朝鮮優勢→B)均衡→C)日本優勢と読み換えも可能です。
「禁約」は,三浦開港の15年後,三浦の乱までまだ70年近くある。A)交易全盛期からB)管理貿易期への転換点です。

早田氏≒前期倭寇残党の朝鮮前衛主義時代(A)

 対馬の政治的主役としては,江戸期の交易を主宰した宗氏のイメージが強い。けれど,少なくともA:交易期の対馬側の主体は,宗氏ではなく早田氏と見たほうがいい。

 対馬の早田氏は前期倭寇を代表する存在である。早田氏が対馬倭寇の統率者であり,船越と土寄に拠点をもっていたこと,朝鮮初期に朝鮮に一時期帰化して向化倭となったこと,早田左衛門太郎は宗貞茂没後には島主をしのぐ勢力をもっていたこと,応永の外寇後,朝鮮との外交交渉を行ったこと,左衛門太郎の子六郎次郎は,朝鮮・琉球間を往来する商人として活動したこと,尾崎早田家に朝鮮国王からあたえられた告身※があることなどは早くから明らかにされている。
※告身 朝鮮王朝の辞令書。受職した日本人たちも官服とともにこれを給与された。今日,対馬島人が朝鮮王朝からあたえられたものが残っている。
[前掲佐伯2008]

 船越と土寄は対馬両島の狭隘部,前者は東からの船を浅茅湾に運んだとされる場所,後者は浅茅湾西入口(尾崎)です。

 左衛門太郎は朝鮮に帰化して受職人となり,「林温」とも称されたが,その後対馬に帰り,対馬の豪族として活動した。左衛門は,一四二八(正長元)年五月,朝鮮に対して,子を派遣して朝鮮の言語を学ばせたいと請い,許されているのは注目される。(略)左衛門太郎の時期が朝鮮通交の全盛期であり,活発な通交・外交を展開し,朝鮮人の送還,倭寇情報の通報,禁賊,日本国内事情の連絡なども行った。[前掲佐伯2008]

 海人を束ねる民間勢力・早田氏が,統治者・宗氏,特に宗貞茂と,前期倭寇後の対馬の覇権を争っていた時代に,応永の外寇,朝鮮の対馬侵攻が行われています。

前期倭寇の時代の終りを象徴する事件が,一四一九(応永二十六)年の応永の外寇である。朝鮮では「己亥東征」と呼んでいる。
 この年の五月,倭寇の一団が朝鮮半島の忠清道庇仁県都豆音串(ちゅうせいどうひじんけんととおんかい 朝鮮語:チュンチョンドビインドドウムゴッ)などを襲い,明に向かった。朝鮮政府は,そのすきに乗じて倭寇の根拠地の一つ,対馬を攻撃することにした。六月十九日,李従茂(りじゅうも 朝鮮語:イジョンム)率いる二二七隻・一万七二八五人の大軍が巨済島(きょさいとう 朝鮮語:コジェド)を出発し,対馬に向かった。翌日,対馬に先発隊が到着した。
 朝鮮軍は浅茅湾にはいり,土寄崎に停泊し,上陸を開始する。[前掲佐伯2008]

 朝鮮軍は,浅茅湾西入口の土寄(尾崎)から上陸。地点としてはあまり有効ではない。早田氏がこの前後に朝鮮に厚遇されていること,ここが早田氏の拠点だったことを考えると,早田氏が上陸を手引きした可能性が浮かんできます。
 目的は,朝鮮軍の兵力を借りての宗氏の打倒でしょう。
 1420(応永27)年閏正月,「宗貞盛」が「時応界都」という使者を朝鮮に派遣,対馬に朝鮮の一州として印鑑を下賜されるよう要請し,朝鮮はこれに応え慶尚道帰属の州として貞盛に「宗氏都々熊丸」印を発給しました。翌年,宗貞盛の本当の使者(仇里安)が朝鮮政府に来た際に,以上の要請が「時応界都」の捏造であることが発覚します。
 偽使というにはあまりにも国家主権を揺るがすこの「売国」事件は,やはり日本側統治者たる宗氏の権力基盤を崩すものです。従って,これも早田氏が朝鮮の一部勢力と計ったものとすれば納得できます。
 新興・李氏朝鮮の前衛に組み込まれた「朝鮮水軍」として,自由な海上交通を確保する構想を持った前期倭寇残党勢力が,この時期の対馬にいた。そういう想像は,当時の海域周辺の「乱れる日中,新興の朝鮮」状況においてはそれなりに現実的だったと思われます。
 なお,応永侵攻軍が巨済島から対馬に来たことも特記していい。孤草島への漁民の導線と同じです。

[推定]前期倭寇の発進地と生態

 漢民族が首領とされる後期倭寇と異なり,前期倭寇は首領からして日本人だったというのが定説です。
 彼らは「三島」から来ました。

 朝鮮半島を荒らしていた倭寇はおもに西日本の海賊であったが,当時朝鮮王朝はその中の「三島」を倭寇の根拠地として認識していた。「三島」の所在について,正確に示す記事はないが,従来の研究によれば,これは対馬島・壱岐島・松浦にあたる[田中1959:7-8,中村1965上:161]。
※ 金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代日本に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003
※ 孤文島の位置については,長節子が次の論文で推定している。
同(1990):「孤草島釣魚禁約」;『玄海灘の島々』(海と列島文化3)小学館、pp.311‐343
※(同推定)秋道智彌「東アジアの海洋文明と海人の世界―宗像・沖ノ島遺産の基盤―」

 だから「日本人」とは言いながら,自己認識や行動類型としては「境界人」だった可能性が高い。孤草島への出漁は,それまで無かったものが解禁されたのではなく,従来から行われていたもののルート限定という趣旨が強い。

この三島の倭寇の主たる目的は穀物掠奪にあったが,もう一つ欠かせなかった行動は,漁民としての漁撈活動であった。三島のうち,倭寇の一番大きな根拠地とされていた対馬の場合,好漁場である朝鮮半島の南海岸の孤草島(今の巨文島)に,漁撈活動が許可される1442年(世宗24)の以前からも毎年40-50艘ないしは70-80艘の漁船が非合法的出漁を行っていたのである。[前掲金]

「非合法」と言っても,それまでは無かった規制が,後から興った李氏朝鮮によって設けられたわけです。また,ルート変更というのも,三島からは巨済島経由でないなら直行ルートしかなく,この時代にはあまり採られていなかったのではないでしょうか。
 朝鮮南海岸が孤草島方面への通常ルートだった点は,日本敗戦直後に李承晩ラインが引かれた際の拿捕数の多さが僅かながら傍証になります。
 船数については金の出典が明らかでないけれど,おそらく孤草島禁約に基づく巨済島での許可件数ではないかと思います。もちろん禁約以後も無許可のものはあったでしょう。三浦の乱を受けた壬申約条による孤草島出漁の公式廃止以後も現実には出漁が継続したことからも,対馬→孤草島の出漁は年間百隻程度はあったと推測されます。

金柄徹:「倭寇=海賊=海民」説

 このように日常的には海民として漁撈や水運,そして農業にも従事し,また,商品や財宝を積んでいる船を発見すると海賊化し,船を襲う。倭寇はこれらの人々が「国境」を越え,掠奪行為を行う際付された名称であり,その「倭寇=海賊」を海民と分離してはその実体がつかみにくいのであろう。[前掲金論文]

 元寇後の日朝が敵対関係にあった時代,つまり九州の政治勢力が朝鮮への略奪をそそのかしていた時代には,この海人集団が半島南海岸を荒らす傾向があった。これが前期倭寇の実態でしょう。
 本来が犯罪的な勢力ではなく,生業目的なわけですから,前期倭寇の鎮圧を期に成立したとも言われる新興・李氏朝鮮の台頭をみて,それを利用して海域交通の自由を確保しようとしたのもまた合理的な発想でした。対馬の朝鮮編入という企画もこの流れの中での選択肢としめ立ち上がったものでしょう。別に突飛でも売国的でもありません。

対馬漁民にとっての禁約

当時の国境に対する感覚を知らせる,一つの事例をあげてみよう。(略)
朝鮮王朝は孤草島での漁撈活動を許可する際,対馬の漁民に対馬島主の文引(通行許可証)の携帯を義務づけていたが,島主の文引は出漁者が海賊行為をしないことを保証するものであった。(略)
孤草島に出漁していた対馬の漁民にとっても,それが辺境であるゆえに,規制や紛争がない限り,国境を越えるということに対する自覚や負担感はあまり生じていなかったと思われる。それは,文引の所持が義務化された後においても,文引を持たず,来航していた倭船が依然として存在していた事実(成宗24年(1493)閏5月辛丑条)から推測されることである。[前掲金論文]

 対馬海人にとって,禁約に基づく文引は通行証の形をとった「私は海賊ではないよ」という身分証でした。
 だから,おそらくその「通行証」が今回のものであるかないかは問題ではなく,一度取得して,例えば孤草島側の人間が「前も来ていた阿比留さんですね」と認知していれば本質的にはそれで良かったのではないでしょうか。

朝鮮王朝にとっての禁約

 一方の朝鮮側も,通行管理を厳密に行う意図を本音としていたわけではないようです。

朝鮮王朝は,対馬の漁民に釣魚の税を賦課していたが,対馬島主の請願の後にも税を廃止することはなく,減税措置だけを行っていた(世宗24年(1442)6月丙午条)。朝鮮王朝がこのように,孤草島釣魚を許可する代わりに税を納めさせたのは,経済的収入を目的としたというよりは,孤草島が朝鮮の領土であることを出漁民にそのつど認識させるためであった[長1990(引用者注:前掲論文):322]。つまり,孤草島が対馬の漁民に占拠され,倭人の地になってしまうことを事前に防ぐためであったのである。[前掲金論文]

 と金さんは書くけれど,孤草島が前期倭寇の時期に倭寇の実効支配に落ちていたことはまず確実です。それどころか禁約の時期にこれを奪還できていたのか否か,それは定かでない。
 朝鮮側としては「お前ら,好きなことやっとるけどさ,そこは朝鮮の領土だからね」と,いわばツバをつけておく,かつそれを対馬統治側を含め国際的に認めさせておくことで,この禁約の第一目的は達せられているのです。実際に全船が巨済島で手続きをするかどうかは,二の次だったでしょう。

早田氏(又は前期倭寇残党)にとっての禁約

 では,従来自由に往来してきた海域に,対馬・朝鮮双方の許可がないと行けなくなった前期倭寇残党はこれに反抗しなかったのか?
 前後の双方の姿勢から考えて両統治側の許可は,少なくとも当初は届出に近いフリーパスだったでしょう。ならば民個人として責任を負い,倭寇視されて追われずに漁業が出来る方が,多少の煩雑さがあっても本来の海人の生業上はメリットがある……と感じられていたはずです。
 もちろん,早田氏が朝鮮を信用したとか,主従や連合などの契約めいた関係にあったとかの綺麗ごとではありません。おそらく,禁約当初における早田氏に対する朝鮮側の厚遇は,この「以前と変わらないよ。それどころか良くなってるよ」という印象を早田氏に持たせ,ゆめゆめ実質的管理強化だと感じさせないための狡猾な懐柔策だったでしょう。早田氏の側もそれは飲み込んだ上での損得で判断してる。
 翌1443年の使送船数上限設定を経ても,1510年の三浦の乱まで70年近くは,海人側の算盤は朝鮮による海上管理を「利あり」と弾いていたわけです。

対馬宗家にとっての禁約

 ここで置いてけぼりを食い,孤草島行き用の文引まで作らなきゃいけなくなった対馬宗氏は,何のメリットがあったのか?
 あったのか,どころではない。禁約から長期的に得たメリットは,実は宗氏のが最大級だったと思います。以後江戸末期まで,宗氏当主=「島主」としての権力の根元となったと言ってもいい。

孤草島が朝鮮の本土から遠く離れていて,朝鮮王朝の政治権力の支配がほとんど及んでいなかったにも関わらず,出漁者に文引を所持させる制度を提案し,孤草島における対馬島民の出漁を統制しようとしたのは,朝鮮側でなくむしろ島主の意図であったこと(世宗22年5月庚午条)は実に興味深い。長は,朝鮮の公式的許可がなかったとしても,現実の出漁にはそれほど支障がなかったはずなのに,対馬島主宗貞盛が出漁の許可を熱心に願っていた理由は,単に島民の救済のために広い漁場を確保しようとしたことだけでなく,当時,島内での権力を確立していなかった貞盛が孤草島出漁の許可権を自己の島内支配に役立てようとしたゆえであると分析している。そしてその根拠として,文引を所持させる制度が島主から提案されていたことや,島主に対立していた宗茂直や宗盛家も各自,孤草島釣魚の文引発行権を朝鮮側に願っていたことをあげている[長1990:333]。しかし,文引発行権は島主だけに与えられ,他の通行上の特権※とともに島主の島内支配を支える役割をはたしていた。[前掲金論文]
※ 対馬島主は孤草島釣魚の文引発行権を許可される以前にも,日朝通交を統制できる文引の発行権を朝鮮側からもらっていた。つまり,1439年(世宗21)正月以後は,足利将軍・大内氏・菊地氏等の朝鮮と特別な関係にあるものを除く諸処の使人は,かならず対馬島主の文引の所持が義務化されていたのである(世宗21年正月丁卯・同年4月甲辰条)。(略)対馬島主は,1443年(世宗25)の嘉吉条約(癸亥約條)以後,歳遣船という名目で毎年50隻の船舶を派遣できる特権が与えられると同時に,毎年200石の米豆も賜與されていた[中村1965※:179]。
※引用者注:中村栄孝『日鮮関係史の研究 上巻』古川弘丈館,1965年

 文引の形態は禁約以前から存在していた。宗氏別派閥の茂直や盛家,ということはおそらくは早田氏など,宗貞盛と覇を競っていた各勢力が文引発給権を求めていたと思われます。
 対馬島内はかくも未だ群雄割拠で,それゆえに文引発給権は外国・朝鮮に由来する権益でありながら,対馬の統治権を保証する権威付けでもあったわけです。
 禁約は,普遍的に一般漁民に適用されるものだったため,これが宗氏当主にのみ文引発給を許したことで,対馬の一元支配が初めて根拠づけられた。──例えば,この時に宗氏当主と並び早田氏にも発給権が委任されていたなら,上対馬と下対馬が分立する対馬海域があり得たのかもしれないのです。

■後悔メモ:麗水の本当に暗い道

 kakaoマップで本章,特に迷い込んだ夜道の路地を確認していたら――――
 上記地図は,本省冒頭に掲げたルートマップの北側の場所です。

 表ルートのジュンアン路などバス道からはなぜか故意に断ち切ってあるような路地が,このエリアにだけはうねうねと延びています。
 卑怯なり,麗水!!!
 これは……気付けないだろう。まして保安上ユルい地図を出してあるGM.にはこんな道の相は読み取れない。明らかに,古い麗水の道の残存だと思う。
 今すぐ麗水に行きたくなった。中国と同様,これらの道もいつサクッと消去されてもおかしくありません。
 で,諦め悪くさらにkakaoを弄ってたら,このサイト,グーグルアースと同様の機能も表通りにだけは付いていました。これで,車道側からこれらの路地に入る入口が写るアングルを3枚取ってみると――――



 非常に個性的です。一本は階段を登り,一本は階段を駆け降り,一本は寺の脇に紛れている。
 全体の構造を見ても,例えば海へのルートばかりとも言えない。尾根かブロックの中心線を辿っている路地もある。