m181m第十八波m盆東風や観光島が路地の間にm厳島

本歌:新涼や内陸国の雲の波〔弘前〕

01 厳島の最初の祭神を妈祖とする推定

章の元になった旅行はそうガンガン歩いてないので,史料だけ追っていく,つまりちょっと論文チックなものになります。
 実証したい仮説は標題のとおり。その主神像はどこにおわすかというと,大聖院のこの方だと考えます。奥の院又は神体としては三鬼堂又は弥山(祭神:虚空蔵菩薩)も挙がるでしょうけど,信仰対象色の強い像としては大聖院だと考えます。

【写真及び公式解説】広島県HP/木造十一面観音立像(廿日市市宮島町)
 もちろん単なる観音像としか解説されてません。
 まず,根拠史料を掲げます。

※ 本地垂迹資料便覧/厳島神社
/厳島御本地
「御たくせん(託宣)により。まづかりどのをはじめとして。まづ大ごんせんと申なり。あしびきのみやの御事也。」
(下線引用者)

※ 原本は国立国会図書館のデジタル版を閲覧できます(タイトル「厳島の御ほん地」明暦3(1657)年,永続的識別子info:ndljp/pid/2539667)が,以下該当頁のみPDFを添付します。

「まづ」は二度繰り返されていて「先ず」と解するのは無理がある。「大ごんせん」は他の類似史料から「大権現」の誤記と思われるから「マヅ仮殿を始めとしてマヅ大権現と申すなり」でしょう。だから「マヅ」は固有名詞と解釈するのが自然です。
 それは「仮殿」,つまり仮の家屋に入った後で大権現として神格化された。つまり「マヅ」は人物の名称です。
※該当箇所拡大

02 妈祖=あしびきの宮

「厳島御本地」の「まづ」(あるいは濁らず「まつ」)を妈祖に比定するのは,当面音の一致です(妈祖の北京語ピンイン(発音記号)はma1zu3)。
 少なくとも,調べる限りここでの「まつ」を何か別に解釈した論を見つけられなかった。
 ただし,「厳島御本地」は,江戸時代初期,つまり厳島神社が名を高める清盛の頃からさえ4百年経た,あまり出所のはっきりしない,形式もやや俗っぽい記述物です。
 ただし,もう一点「御本地」が記述する「あしびきの宮」については,以下掲げるお伽草子の他複数の類似伝承が伝わり,一時期流布した伝承であることは疑いにくい。
 その上で,この「3人」が「非業」を経て「生きた人間とは異形」で「島」に「流れつく」というストーリーの,妈祖のそれ(参照→中国語スクリプト/媽祖)との類似性は,偶然と考えにくいと思う。

※ 第三編 第三章 第二節 日蓮聖人入山以前の身延
お伽草子、天竺とうしよう国のせんさい王は、父大王より賜った伝家の宝の扇に画いてある毘沙門天の妹吉祥天を見て恋の病に臥す。西方さいしよう国の第三王女あしびきの宮は、その画のような美人であると教える者があった。しかし、その国へは往復十二年もかかるが、家宝である五からすという烏が王のために使して、往復百七十日ばかりで返事をもらってきた。王はますます恋の病が重くなってきたが、氏神の夢想の告げによって、弘誓の船、慈悲の車を造り、五からす、公卿臣下を乗せて、さいしよう国に行き、あしびきの宮を欺むいて本国につれてきた。ところが后達が嫉んでみち腹の病にかかった様をして、仲間の相人に合わせて、「ぎまん国の、ちようざんという山の薬草を王がとってくれば治る」。と言上させて、王を往復十二年もかかるぎまん国へゆかせた。その留守中后たちは武士たちに、あしびきの宮を、からびく山こんとろカ峰じやくまくの岩へつれてゆき殺させた。宮は妊娠七ヵ月であったが、其の時王子を産んで梵天帝釈に加護を祈った。
 その子は、帝釈をはじめ虎狼野の守護によって山中に成長した。十二になった時王が帰国してこの事情を知り、山に尋ねてきて王子を助ける。宮の遺骨を携えてかびら国すいしよう室のふろう上人に頼んで、再生させることができた。ところが王は宮の妹に心が移ったので、宮は日本へ来て、伊予の石槌の峰、さらに安芸国佐伯郡かわいむらに落ちつき、佐伯のくらあとの奉仕によって、くろます島に仮殿を造って住んだ。宮は、いつくしき島なりとこの島をめでたので、厳島の名が起った。この宮を大ごんぜんといい、本地は大日如来で、あとから尋ねて来たせんさい王は、まろうどの御前とよび、本地は毘沙門、王子はたきの御前、本地は不動明王である。」(「お伽草子」現代語。「源平盛衰記巻十三」に同等の記述あり)

03 厳島での観音信仰開始の時代と背景
(1) 11世紀以前の安芸国の宗教風景

安期以前の安芸国の信仰においては,速谷神社の求心力が今からは考えられない強烈さで存在していた。
 顕著な事象では,純友の乱鎮圧で社格が上がったのは厳島ではなく速谷だった。ローカルには,現代でも広島電鉄の車両がお祓いを受けるのは速谷です。

※ wiki/速谷神社
「安芸国総鎮守の神社。1700年あまりの歴史を持ち、かつては厳島神社よりも格の高い神社であった。交通安全祈願の神社として全国的に知られ、「車を買ったら速谷さん」と遠方からの参詣者も多い。広島電鉄のバスや電車が御祓いを受けることでも有名。」
「祭神 飽速玉男命 (あきはやたまおのみこと)」
「醍醐天皇の延喜5年(905年)の『延喜式神名帳』には「安芸国佐伯郡 速谷神社 名神大 月次 新嘗」として記載されて名神大社に列し、国家鎮護の神社として毎年月次祭、祈年祭、新嘗祭の三祭に神祇官の奉幣に預かった。このように朝廷から篤く崇敬された。延喜式所載の安芸国三社(速谷神社、厳島神社、多家神社)の中では、当社だけがこの殊遇をうけ、安芸・備後国はもとより、山陽道でも最高の社格を誇った。
朱雀天皇の承平5年(935年)、藤原純友の乱に、朝廷は騒乱の平定を速谷神社など全国十三社に祈願され、まもなくその乱が鎮定したので、神階を正四位下に進められた。」

(2) 12世紀=妈祖信仰興隆期=前期倭寇興隆期=十一面観音流行期

 
氏(直接には神主たる佐伯氏)が厳島神社社殿を造営したのは仁安3(1168)年頃とされる。
 伝承上,妈祖は建隆元(960)年,興化郡莆田県湄州島に生誕したとされる。
 倭寇の文字の文献への初出は「高麗史」の高宗10(1223)年(5月条「倭寇金州」)。この頃までに東アジアの航路がようよう拓かれたという時代です。
 十一面観音の像形は,日本では法隆寺金堂壁画に始まり奈良時代からある。平安期には既に流行の図象でした。──なお,妈祖を観音菩薩と捉える習合現象は江蘇を中心に普遍的です。
 また,厳島に祀られる諸神のうち,十一面観音が最も初源であるとするのは久保田論文以降の通説です。

※ 本地垂迹資料便覧/厳島神社//久保田収「神道史の研究」/厳島神社における神仏関係
「現在、大聖院に安置する十一面観音は、明治の神仏分離までは、厳島神社の真後ろにあった本地堂すなはち観音堂に安置されてゐて、平安時代中期のものと考えられる。 これは、『芸藩通志』に「仏氏は観音を以、明神の本地といふ」とあるやうに、厳島明神の本地を十一面観音と考へてゐたことを示してゐる。」
「大明神の本地を観音とする考へがみられるのは、長寛二年(1164)九月に平清盛の記した厳島社の平家納経の願文であつて、その中に「相伝云、当社是観音菩薩之化現也。」といひ」
「鎌倉時代の著作である『古事談』に「日本国中大日如来ハ伊勢大神宮ト安芸厳島也。」とある。 時を同じうしてこの両説がみられるが、平家と厳島社との密接な関係、ことに久安二年(1146)に安芸守となつた清盛との関係を考へると、清盛の文の方が厳島における伝来を伝へてゐるといへよう。」

(3) 航海者から見た厳島

って,海を航行する者から見た信仰対象としての厳島を考えると,これは今の広島湾に入る際のこれ以上ない目印と考えてよい。
 港のある場所に入る,他に類似のない,その一峰だけが聳えているような山容。
 この点で,妈祖信仰の本拠・湄洲島(中国福建省莆田市秀嶼区→GM.)を想起させる要素を,厳島は備えている。

(4) 厳島原初神を妈祖とする作業仮説

上の事象と整合性の取れる妈祖伝承仮説を,ひとまず一次的に立ててみる。
──12世紀までに徐々に盛んになった瀬戸内海航行路に,福建方面からの船舶があった。彼らが,まだごく初期の妈祖をその伝承とともに厳島に伝えた。
 厳島に元々あった宗像三女神系の信仰と,それは習合して,崇拝対象として十一観音像が置かれた。
 それまでの厳島は,航行の目印としての弥山が神聖視されてはいたけれど,ごく素朴な自然崇拝だった。しかし妈祖堂の設立と,これを裏の宮とした平氏による厳島神社正殿設立により,一躍,安芸国で最も知られる宮島となり現在に至っている。

04 不整合点の確認
(1) 宗像三女神信仰への転換

島神社の主祭神は,市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神です。
 この三神は,記紀編纂時に諸国の航海神を整理し血族化したものと見られています。本地の他,厳島女などとして単独で登場することが多いことからも,まず市杵島姫命への信仰があり,記紀成立後に整合性上,三女神を祀る形,ストーリー上の「三者」イメージに転じたと考えるべきでしょう。
 その場合,市杵島姫命へ集約された信仰そのものが,妈祖信仰と根を同じくすると考えることもできますが,そこまでは実証材料が見当たらない。

(2) 三鬼との関係

鬼」とは宗像三女神とは別の三柱,魔羅(まら)・追帳(ついちょう)・時眉(じび)で,現在は弥山山頂から尾根伝いの三鬼堂に祀られる。

※ 廿日市市HP/miyajima
/三鬼堂
「日本で唯一鬼の神を祀ります。江戸時代には、現在の御山神社が三鬼堂でしたが、明治初期にこの場所へ新たにお堂が建てられました。「宮島のさんきさん」と呼ばれる魔羅(まら)・追帳(ついちょう)・時眉(じび)の三鬼神は福徳、智恵、降伏の徳を備えた弥山の守護神。」
/御山神社
「神代の昔、この場所に神が降臨したと伝えられ、一列に並んだ朱の社殿3社に嚴島神社と同じく市杵島姫・田心姫・湍津姫の三女神が祀られています。かつては三鬼堂がありましたが、明治初期に御山神社となりました。」

 三柱はそれぞれ「徳」と「本地仏」とに対照する。
・追帳鬼神=福徳=大日如来
・時眉鬼神=知恵=虚空蔵菩薩
・魔羅鬼神=降伏=不動明王
 まず,宗像三女神以前の原型たる三神と見てよい。
 徳や本地仏を纏わせる必要があったのは,逆に本来は倫理や非仏教的なものだからでしょう。
 また,弥山に虚空蔵が単独で祀られることから,宗像三女神中の市杵島姫命と同様に考えると,時眉鬼神がメインあるいは信仰の本体と見える。
 最後に,この「時眉」という珍しい用字です。何かの音訳にも見えるが,前述の「湄洲」(mei2zhou1)との類似も感じられる。
 いずれにせよ,正統的な神仏としての宗像三女神や虚空蔵等の諸仏は後付けで,本来は非正統な信仰があり,それは現在も継承されている。それが厳島の信仰の特色と見てよいと思う。
 以上の関係性を簡素に書けば次のようになる。
[正統神]市杵島姫命
←[本来神]あしびきの宮
 ←[原型]まつ=妈祖
        ↓ ↓
[本来仏]十一面観音 ↓
[正統仏]虚空蔵菩薩 ↓
←[本来仏] 時眉

(3)「隠された」理由

祖が原型だとすれば,なぜこれほど二重三重に「隠され」,あるいは分岐しているのか。
 一つは,正統的な神仏信仰から見て邪教だったからでしょう。ただ,厳島の信仰はそれでもぬぐえないほど邪教の度合いが強かった。伊藤博文が三鬼の信者だったことはよく知られています。そのことが,むしろ本来の信仰が正統的神仏からの隔たりの証左にもなっているように見えます。
 もう一つは,厳島神社正殿の直接的な創建者で,本地にも名を出す佐伯家と,佐伯出身の空海の存在が考えられます。
 虚空蔵菩薩を報じた空海は,弥山を密教色の仏教信仰に整理しています。その一方で,平氏の政治勢力が宗像系の神道信仰への整理も並行した。
 本地の「まづかりどのをはじめとして。 まづ大ごんせんと申なり。 あしびきのみやの御事也。」という表現は,江戸期には「まづ」が何なのか不明だけれど音のみが伝わっていたように読めます。
 しかし,この点もやはり,「まづ」という原型の読みが意味不明なまま伝承され重視されてきたことの証左だったように思えます。

05 展望

白いのは,「あしびきの宮」という名称が他に例を見ないことです。
「あしびき」は和歌では山の枕詞で,険しい山道で「足を引」いて歩くようになることから来るとされるけれど,もし妈祖の初期信仰とする見方が全うなら,妈祖伝承の原型を残す何かである可能性がある。
 厳島に妈祖信仰の原型が入り,平氏と佐伯・空海による正統化圧力でむしろその原型が「生きた化石」のような状態で維持されてきた。中華圏からも消えてしまったようなものが残されている,という見方もできるからです。
 残念ながら宮島に妈祖信仰があるかと言えば,日本の他の土地と同じく,ないとしか言いようがない。観音と三鬼の信仰という形で分裂・変形してその残像を微かに残す,本稿ではそういうものをあえて追ってみました。
 ただ,弥山の消えずの火は,八幡製鉄所の種火や平和公園の元火に用いられています。こうした淡い形でしぶとく残っている信仰の形は,他の正統的神仏に対する何らかの異質を厳島に感じさせ続けている。そういう直感から書いてみました。

※途中の変な画像は,これまでに溜めた妈祖関連のものです。

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※ 探検com/東シナ海を制覇した航海の女神
「なぜ日本では、媽祖のことを菩薩と呼んだのか。
 これは、なぜ日本では媽祖信仰が広がらなかったのか、と同じ質問と言えます。」
「住吉神社(福岡市)や金刀比羅宮(香川県)など有力な船の守護神がいて、たいていの船内には神棚があります。そして、安全を祈願する船絵馬も膨大な数が作られました。」
「船玉(船霊)信仰があり、女の髪の毛、男女一対の人形、銭12文、サイコロ2個、五穀などをご神体として、船柱の下部などに安置しました。
 船霊は女神で、西洋のフィギュアヘッド(船首像)と呼ばれる女神像と同じ意味合いを持ちます。こうした信仰があったため、日本では媽祖は普及しなかったのです。」
「要は、船のすべての部分が神仏だと見なされているのです。これが、媽祖信仰が広まらず、同時に媽祖が菩薩扱いされた理由です。」

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