m630+m第六十三波m福岡m0+.事前査考(蜑民総論) mm 青葉闇瞠若のマハトマガンディ

9 蛋民総論

関連(ことばぐすい)→定住革命

文身して「大魚・水禽を厭(はら)う」倭の習俗は、「断髪・文身し亦以て[虫交]龍の害を避く」会稽の人びとの習俗と一致している。ここにみる倭と越の共通性に着目した大林太良は、弥生時代の漁撈文化を「江南系」と呼ぶが、同類の海人文化が西日本から朝鮮半島、さらには江南から海南島方面にまで連続する分布を重視するならば、むしろ「東シナ海的」という表現のほうがふさわしく、それはまた東南アジアの「パシシル文化」と構造的に類似するという意見を述べている44)。
 パシシル文化とは、沿海文化のことである。
 マレーシアからインドネシアにかけての沿海地域では、民族や言語は異なるけれども、漂泊的な漁撈と船による交易を背景にして、非常に均質な文化がひろがっている。それをパシシル文化と呼んでモデル化したのは、アメリカの人類学者、ヒルドレッド・ギアーツであった45)。これを受けて大林は、東シナ海沿海域についても、古代の海人文化から現代まで、このモデルによって説明できると主張している。〔後掲浅川〕

 羽原又吉が漂海民の条件の一つとして掲げるように、家船とは「小舟を住居にして一家族が暮らす」ものである48)。沖縄のサバニ、あるいは山陰のソリコのような素朴な船でさえ、苫葺きの屋根を掛ければ仮の宿となる。しかも、サバニは南洋、ソリコは北陸にまで船足を伸ばす航海圏を誇っている。船に居住性が備わっていなければなしえない出漁域の広さと言わざるをえない。ときには船を寝宿とし、多くは浜に小屋掛けして、じわりじわりと船を進めていったのだろう。こうしてみると、弥生時代の丸木船を「家と為す」ことも、充分ありえたのではなかろうか。四隅突出型古墳や索環頭(そかんどう)鉄刀などの分布に映し出された越(北陸)と出雲(山陰)の交流を、海を媒介としてとらえる「日本海文化論」が、1980年代から一部の考古学者によって提唱されている49)。誇大の日本海文化もまた一種の沿海文化であり、海岸沿いの航海が文化伝播をもたらしたのであろうが、その背景には、素朴な居住性をともなう船の存在があったように思われてならない。〔後掲浅川〕

※原注44 大林太良(1983)「海と山に生きる人々」『日本民俗文化体系5 山民と海人』小学館、p.5-64。同(1991)「海人の系譜をめぐって」『古代海人の謎 -宗像シンポジウム-』海鳥社、p.21-41
 45 GEERTZ,Hildred(1967)”Indonesian Cultures and Communities”,INDONESIA,p.58-70,HRAF Press
 48 羽原又吉 1963(前掲注9)
 ※9 注10のほか、以下の文献の書名に注目されたい。羽原又吉(1963)『漂海民』岩波新書。藪内芳彦(1969)『東南アジアの漂海民 -漂海民と杭上家屋-』古今書院。門田修(1986)『漂海民 -月とナマコと珊瑚礁-』河出書房新社。野口武徳(1987)『漂海民の人類学』弘文堂。
  10 WHITE,W.G.(1925)THE SEA GYPSIES OF MALAYA,White Lotus Press.この書は松田銑が邦訳し、ウアイト(引用者注記:ホワイト?)W.G.(1943)『漂海民族 -マウケン族研究-』として鎌倉書房から出版されている。
 49 日本海文化論については、以下の論著を参照。高瀬重雄(1984)『日本海文化の形成』名著出版。北見俊夫(1989)『日本海島文化の研究』法政大学出版局。森浩一編(1989)『古代日本海域の謎Ⅰ -住まいからみた人と神の生活-』新日本人物往来社。藤田富士夫(1990)『古代の日本海文化 -海人文化の伝統と交流-』中公新書。
『島根縣寫眞帖』(保護期間満了)に掲載されたそりこの写真〔wiki/そりこ〕

9-0-1(山陰)ソリコ

 ・島根県の中海などで使用されていた刳舟。
 ・末期にはサルボウガイ(英語版)漁のみに使用。
  ※原注3 出雲地方では「赤貝」と呼ばれ、おせち料理などに用いられる冬の食材として親しまれている[7]。かつては中海の特産であったが、明治初期以来漁獲量は減少しており、明治20年代に開始された養殖も1967年に終了した[7]。
  ※※原注7 ^ a b c d e 浅沼 2023.
    浅沼政誌 (2023年). “第100話 中海の赤貝とそりこ舟|島根県古代文化センター”. 2024年12月1日閲覧。
 ・美保神社に保存されている一隻が重要有形民俗文化財に指定されている。
 ・別名は一間舟[1]。 ※原注1 勝部正郊『山陰の民具』名著出版、1990年
 ・語源:両端の反った構造から
  ※^ a b c d e f g h 石塚 1960, p. 25. 
  ※※石塚尊俊『民俗資料による刳舟の研究:ソリコ・モロタ・トモドを重点として』日本民家集落博物館〈日本民家集落博物館彙報3〉、1960年。
 ・船体の主な部分をオモキといい、元来は一本木を刳って造っていたが、材木となる大木が得られなくなると次第に2本以上の木を用いて漆と釘で継ぎ合わせるようになった[9]。
  木材は元はマツを使ったが、木材が不足するようになるとモミを用いるようになった[1][注釈 2]。
  ※原注1 ^ a b c d 勝部 1990, p. 124.
     9 ^ a b c 石塚 1960(前掲), p. 37.
  ※※勝部正郊『山陰の民具』名著出版、1990年。
  ※原注釈2 ^ 価格の問題をクリアすれば、スギ材が最上である[10]。スギは隠岐から取り寄せた[1]。モミは家の材に使うと家がが滅ぶという俗信のために価格が安いという[4]。
   原注4 ^ a b c 石塚 1960(前掲), p. 39.
   原注10 ^ a b 石塚 1971, p. 191.
  ※※石塚尊俊 著「そりこ」、石塚尊俊 編『出雲 隠岐の民具』慶友社〈考古民俗叢書9〉、1971年
 ・島根県内の刳舟は、そりこの他に美保神社の諸手船、焼火神社のトモドがあり、
  これらは1955年にそりこに先んじて重要民俗資料に指定されていた。そりこはこの時点では数が多かったため。〔wiki/そりこ〕

(数量)
1763(宝暦13)年 『大根島萬指出帳』 (そりこの文献上の初見)
 「(弓偏に反)小舟」:大根島に合計21隻が存在すると書かれている[17]。
   ※原注17 ^ a b c d 石塚 1960(前掲), p. 41.   
1771(明和8)年 『大根島萬指出帳』:そりこは54隻記録[17]
1935年 家数が明和年間に比して2倍に達したにもかかわらず
 大根島のそりこの数は53隻と微減
 ▼ 赤潮の影響で中海の赤貝が減少するとそりこは役目を失う[注釈 5]
   ※原注 注釈5 時期は、(勝部 1990)によると「昭和初年まで主に赤貝の桁曳きをした」(p.124)、
     (森本 2002)によると「昭和四十年ころ(中略)からは使われなくなっている」(p.267)とある。
   ※※勝部正郊『山陰の民具』名著出版、1990年。
     森本孝 著「和船」、香月洋一郎、野本寛一 編『民具と民俗』雄山閣〈講座日本の民俗学9〉、2002年
1960年 大根島で27隻、中海全体でも50-60隻にまで急速な減少[17]。
   ・そりこの減少の原因として上記の赤貝資源の不漁とともに、
    大正末から近代漁船として動力船が導入され始めたことが指摘される[18]。
   ※原注18 ^ 勝部 1990(前掲), p. 126.
同1960年時点 「ただ中ノ海の沿岸にしか残らぬ」[3]
   ※原注3 ^ a b c d e f g h 石塚 1960(前掲), p. 25.
1971年「中海全域で廃船化したものまで入れても十艘とは残っていまい」[10]
   ※原注10 ^ a b 石塚 1971, p. 191.
   ※※石塚尊俊 著「そりこ」、石塚尊俊 編『出雲 隠岐の民具』慶友社〈考古民俗叢書9〉、1971年
1987年「ただ数艘が標本として残るにすぎない」[2]
   ※原注2 ^ a b c 石塚 1987, p. 262.
   ※※石塚尊俊「そりこ舟」『日本大百科全書14 (そ – たろ)』小学館、1987年
2023年現在 その造船技術はすでに途絶えてしまっている[7]。
   ※原注 ^ a b c d e 浅沼 2023.(前掲)
現在 標本として、後述の美保神社の資料のほか島根県立古代出雲歴史博物館に所蔵されるものなどが保存されている[19]。
   ※原注19 ^ 島根県古代文化センター 2005.
   ※※島根県教育庁古代文化センター「しまねの「古代文化」を全国へ 古代出雲歴史博物館・古代文化研究センター(仮称)整備だより vol.6」『News:島根県古代文化センター』第16号、2005年。
    ※島根県HPに掲載確認 /国指定文化財一覧【有形民俗文化財】(番号6) URL=https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/shimane/yuukeiminnzoku.html

美保神社所蔵「そりこ」〔後掲文化庁〕

「そりこ」は、中ノ海で赤貝をとるために使われていた刳り舟の一種で、1本の原木から2本の船材を割り出して接合したものであり、船体の接合にあたっては補助材を用いていないところに特色がある。〔後掲文化庁〕

(家船としての使用)
 ・かつては遠方との往来にも用いられたため、帆柱を立てるための穴が用意されている。
  赤貝捕りに用途が限定されてからは専ら樫製の櫓で漕いで使うので、帆掛け船としては用いられなくなっている(13)。
  ※原注13 ^ 石塚 1960, pp. 3839.
  ※※(再掲)石塚尊俊『民俗資料による刳舟の研究:ソリコ・モロタ・トモドを重点として』日本民家集落博物館〈日本民家集落博物館彙報3〉、1960年。

親船に積まれた一航海中の一端舟(橋舟とも書く)。隠岐島後白鳥神社奉納の模型〔後掲井上〕

(ともど)

隠岐のトモドは、古来カナギをはじめ藻葉とり、肥料運びなどになくてはならぬものであつて、いまから五十年くらい前までは、島前の浦郷一カ所だけでも七十艘はあったというが、次第にカンコやサンパにかえられるようになり、今では島前・島後を通じて僅かに一艘が、焼火神社の社宝として辛うじて保存されているに過ぎぬ状態である。これがそのように衰退したわけは、何よりも材料としてのモミの大木が得られなくなったこと、そしてこれが得難くなったために、後には杉でも造るようになったが、それすらも刳舟にする程のものはむづかしくなったために、遂に出雲から渡つて来た板舟のカンコやサンパにかわったという。これが盛んに造られていた頃には一艘十五円くらいで出来、その技法は板舟よりも逝かに簡単であったといつている。現存する一艘の寸法は長さ二十尺、巾三尺、高さ一尺五寸で、それを昔は一本木で刳出して造つていたろうが、その本式の技法はもう伝わらない。今知られているものは、やはり両側と底とを別々に造つて継ぎ合わせるもので、両側をオモキといい、底部分をチョウという。(略)船越に運河が出来た大正二年以前は、外海で漁をし、しけてくればこれを内海まで山越しに曳いて来たものであるが、達者なものはそれを一人で曳いたという。〔石塚尊俊 1957(昭和32)年「山陰の刳舟」『民俗』第1巻第5号←後掲井上〕

そりこ舟、もろた船は重要なる古代文化の残存であり、今は世界に幾つもない重要なる古代文化の残存であり、その史学的考古学的工芸学的価値は、大社などの大社建築、諸所の古墳、石造物などと等価的であると思わる故、人類学者、史学家、考古学者の深甚なる注意を惹くこととなるは、疑いのないことである故、実物をそのまま保存せられ時移り造船術が改まつても、標本として大切に之残存せしめたい〔←西村真次「日本海式船舶」後掲井上〕

 後掲井上には、トモドのほか、諸手船(美保神社)・もろた船・どぶね(新潟)・マルキ(京都)・トモウチ(舞鶴)などの刳舟類型を考察しているが、そのいずれについても「居住性」(家船としての使用)又はその可能性については触れていない。ここから考えると、私見としては、「ソリコ」や「サバニ」についても、浅川の言う「居住性が備わっていた」点は現状では実証不足であると言わざるを得ない。
 船が居住性を供えるのは、結構大きな技術的革新を要するものではないか?つまり、通常の船舶の3特性を備えているからと言って、当たり前に居住性を備えると想定できるのは、(ギアツがパシシル文化を想定したような)熱帯地域に限られるのではないか?

船舶とは、浮揚性・移動性・積載性の三要素を充足する構造物とされています。〔後掲国交省東北運輸局〕

〔〕

(諸手船の史書初出)

二神、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端而問大己貴神曰「高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故、先遣我二神驅除平定。汝意何如、當須避不。」時大己貴神對曰「當問我子、然後將報。」是時、其子事代主神、遊行、在於出雲國三穗三穗、此云美保之碕、以釣魚爲樂、或曰、遊鳥爲樂。故、以熊野諸手船亦名天鴿船載使者稻背脛、遣之、而致高皇産靈尊勅於事代主神、且問將報之辭。時、事代主神、謂使者曰「今天神有此借問之勅、我父宜當奉避。吾亦不可違。」因於海中造八重蒼柴柴、此云府璽籬、蹈船枻船枻、此云浮那能倍而避之。使者既還報命。〔日本書紀原文(日本書紀 巻第二 神代下)←後掲seisaku.bz〕

この二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は天から出雲の五十田狹之小汀(イサタノオハマ)に降りました。そこで十握劒(トツカノツルギ)を抜いて、地に逆さまに突き刺し、立てて、その剣先に胡坐(アグラ)をかいて座り、大己貴神(オオアナムチノカミ=オオクニヌシ)に問いました。
「高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は皇孫(スメミマ)を天から下して、この土地(=葦原中国=出雲)に君臨しようと思っている。だから、まず私たち二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)が、従わない神を追い払い、平定するために派遣された。おまえはどう考えている?? (国を譲り)ここを去るか??」
すると大己貴神(オオアナムチノカミ)は答えました。
「我が子に相談してみましょう。
それで答えます」
このとき、事代主神(コトシロヌシノカミ)は出雲の三穗之碕(ミホノサキ)に遊びに出掛けていました。
そこで事代主神(コトシロヌシノカミ)は魚釣りを楽しんでいました。
二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は事代主神(コトシロヌシノカミ)の元へと熊野諸手船(クマノノモロタノフネ=櫂のたくさんついた船?)に使者の稻背脛(イナセノハギ)を乗せて派遣しました。
そして高皇産靈(タカミムスビノカミ)の「国譲り」の命令を事代主神(コトシロヌシノカミ)に伝え、返事を求めました。
事代主神(コトシロヌシノカミ)は使者に言いました。
「今、天津神の命令がありました。
私の父(=オオナムチ・オオクニヌシ)は国を譲り、去るでしょう。わたしもそれに従います」
事代主神(コトシロヌシノカミ)は海の中に八重蒼柴籬(ヤエアオフシカキ=青葉の垣の神座)を作り、船枻(フナノヘ=船の端)を踏んで、姿を消しました。
使者は帰って報告しました。〔日本書紀現代語訳(日本書紀 巻第二 神代下)←後掲日本神話・神社まとめ〕

9-1 史料記載

……凡蜑極貧、衣皆鶉結。……〔周去非『嶺外代答』巻三・蜑蠻(中華書局、一九九九年)、一一五頁←後掲王2021.12 注2〕

 

……其犯廣東者、為蜑賊梁本豪勾引、勢尤猖獗。總督陳瑞集衆軍之、斬首千六百餘級、沈其船百餘艘、本豪亦授首。帝為告謝郊廟、宣捷受賀云。……〔張廷玉等撰『明史』卷三二二・日本傳(中華書局、一九八六年)、八三五六-八三五七頁←後掲王2021.12 注3〕

 

……曩有徐・鄭・石・馬四姓者、常擁戰船數百艘、流東西二江、殺戮慘甚。…〔屈大均『廣東新語』巻十八・舟語・蛋家艇(中華書局、一九九七年)、四八六頁 ※9-1-08-2で中國哲學書電子化計劃原文として再掲←後掲王2021.12 注4〕

 周去非『嶺外代答』に「蜑民はきわめて貧困であり、服はぼろぼろである」(2)とあり、蜑民は一般に経済的に貧しい集団とされる。しかし、『明史』(3)と『廣東新語』(4)の記事によると、蜑民のなかでも、数百隻もの戦船を擁して蜑民集団を率いるような有力者もいたことが明らかである。また、『清實録』と廣州府諸縣の縣志には、いずれもこの反乱が蜑民中の有力者である周玉と李栄を指導者とした蜑民の集団によるものであることを記している。〔後掲王2021-12〕

蜑(蜒)(5)という語の文献上の初出は東晋においてであり、常の『華陽国志』巴志(6)に見られる。その後、蜑(蜒)という語は『南斉書』・『周書』・『隋書』などの史籍に散見している。ところが、それら史書に見える蜑(蜒)と後代の史料に見える水上蜑民には相違がある(7)。例えば、『隋書』巻29・地理志上に「蜀郡(現在の四川省成都市)にはさらに蠻がいる」(8)、巻31・地理志下に「長沙郡にはさらに夷蜒が入り混じってあって、その名は莫徭という」(9)と書かれ、同じく巻82・南蠻伝には「南蠻の雑類は、華人と錯居して、蜒といい、といい、俚といい、曰という。……山洞に随って居住しており、その祖先は所謂百越である」(10)とある。以上より、東晋から隋に至るまでの蜑(蜒)は穴居野所の少数民族であり、水上居住者の意味は全く見出されない。その居住地帯も巴蜀と華中にもっとも集中しており、粤桂に限られていない。即ち、荊湘巴蜀における陸居の蜑(蜒)と華南に生きる蜑民ないし水居の蜑民とは、系譜的につながらないものと考えられる。〔後掲王2021-03 2-3枚目 p48-49〕

※原注 6 常『華陽国志』巻 1 ・巴志(斉魯書社、2000年)、 4 頁:其属有濮、、苴、共、奴、、夷、蜑之蠻。
7 この説に関して研究者は共通の理解を得ている。主な論著として、陳序經『民的研究』(商務印書館、1946年)、46-47頁;韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」(『厦門大学学報』第 5 期、1954年)、172頁;小川博「中国史上の蜑-蜑(蛋)についての諸学説の沿革について(五)」(『海事史研究』17号、1971年)、83-84頁;傅貴九「明清民考略」(『史学集刊』第 1 期、1990年)、16頁;蒋炳釗「蛋民的歴史来源及其文化遺存」(『広西民族研究』第 4 期、1998年)、78頁等。
8 魏徴等『隋書』巻29・地理上(斉魯書社、1982年)、830頁:蜀郡……又有蠻。
 また、[ケモノ+延]の字をめぐって、『康熙字典』(巳集下・犬部・、16頁)の記す、あるいは蜒に作る。
9 前掲『隋書』巻31・地理志下、898頁:長沙郡,又雑有夷蜒,名曰莫徭。
10 前掲『隋書』巻82・南蠻伝、1831頁:南蠻雑類,与華人錯居,曰蜒,曰,曰俚,曰,……随山洞而居,古先所謂百越是也

(戸籍・徴税)

蜑戸、……自唐以來、計丁輸糧。明洪武初、編戸里長、蜀※河泊所、歳收魚課。……〔阮元修・陳昌斉纂『(道光)廣東通志』卷330・列傳63・嶺蠻(上海古籍出版社、2002年)、713頁←後掲王2023 注2〕

 

蜑民に対して朝廷は政策を定め、支配を実施した。その支配政策は唐代にまで遡ることができる。『(道光)廣東通志』卷330・列傳63・嶺蠻に「唐代以来、蜑丁の数を計って糧食を納めさせた」とあるように、唐朝廷は蜑民の人口を把握するとともに、これによって徴税の基礎を構築することを目指した(2)。しかしながら、徴税の具体的な状況については史料に乏しく、ここでは詳論できない。〔後掲王2023〕

蜑戸、縣所管、生在江海、居於舟船、随潮往来、捕魚為業。……〔楽史『太平[ウ/四/哀-、]宇記』巻157・嶺南道1・廣州新會縣(中華書局、2007年)、3021頁←後掲王2023 注3〕

 

閏十月丙午、罷廉州貢珠、縱蜑丁自便。……〔脱脱等撰『宋史』巻31・高宗本紀(中華書局、1986年)、586頁←後掲王2023 注4〕

 

紹興二十六年、罷廉州貢珠、散蜑丁。盖珠池之在廉州凡十[食余]、接交阯者水深百尺、而大珠生焉。蜑往採之、多為交人所取、又為大魚所害。至是、罷。……〔脱脱等撰『宋史』巻186・食貨志、4565頁←後掲王2023 注5〕

 

泰定元年七月癸卯、罷廣州・福建等處採珠蜑戸為民、仍免差税一年。……〔宋濂等撰『元史』巻29・泰定帝本紀(中華書局、1976年)、649頁←後掲王2023 注6〕

 

宋代になると、蜑民は縣によって支配された(3)。また、宋・元両王朝の統治者は蜑民たちに対して徭役を課していた。徭役の内容は、蜑民固有の職業とされた漁業に従って課せられた。蜑民は真珠を採取することに長けていたので、朝廷は蜑民に真珠の上納を命じていた。貢納については『宋史』に2箇所の記述がある。その1つは巻31・高宗本紀に、「閏10月丙午に廉州(現在の廣西合浦縣廉州鎮)の貢珠を罷め、蜑丁を解放して自由にさせた」(4)とあり、もう1つは巻186・食貨志に、「(紹興)二十六年(1156)に廉州の貢珠を罷め、蜑丁を解散させた」(5)とある。また、『元史』巻29・泰定帝本紀にはつぎのように記す。「泰定元年(1324)7月癸卯に廣州、福建などの採
珠の蜑戸を罷め、民となし、1年分の賦税を免徐した」(6)。〔後掲王2023〕

(軍役)

廣州有蜑一種、名曰盧停、善水戰。……〔周去非『嶺外代答』巻3・蜑蠻(中華書局、1999年)、116頁←後掲王2023 注7〕

 

(宋恭宗時)区士衡上書丞相陳宜中、謂水軍蜑子、慣習鯨波、足以敵北兵〔史澄等纂『(光緒)廣州府志』巻114・列傳・區士衡(成文出版社、1966年)、35頁←後掲王2023 注8〕

 

(元世祖時)八月、平章不忽木等奏立湖廣安南行省、給二印、市蜑船百斛者千艘、用軍五萬六千五百七十人、糧三十五萬石、馬料二萬石、鹽二十一萬斤、預給軍官俸津、遣軍人水手人鈔二錠、器仗凡七十餘萬事〔宋濂等撰『元史』巻209・安南傳、4650頁←後掲王2023 注8〕

 

(明太祖時)三月、命南雄侯趙庸籍廣州蜑戸萬人為水軍。〔史澄等纂『(光緒)廣州府志』巻78・前事略4、349頁←後掲王2023 注9〕

 

『嶺外代答』巻3・蜑蠻には、蜑民は水戦が得意であったということが書かれている(7)。宋恭宗、元世祖などの時期には、廣州などの蜑民を水軍としていた(8)。従って、兵役も蜑民が負っていた役務と言える。このことから、北宋以後、朝廷が蜑民に対して支配を加える記事が多くなり、各種の徭役が課されていたことがわかる。その役務の種類は主に真珠の上納と兵役にわけられると言えよう。
 明代になると、朝廷はやはり蜑民を利用して水軍に編成しているが(9)、蜑民に対する中央王朝の支配政策はこの時期から著しく変化があった。具体的に言えば、明太祖が河泊所を置いて蜑民を治めさせるようになったことである。かつ政令により、蜑民より魚課(漁業税)を徴収することを河泊所の主要任務とした(10)。それゆえ、蜑民魚課の徴収機関である河泊所についての研究を行うことは、明朝廷による蜑民への支配政策を把握するために意義がある。〔後掲王2023〕

※原注 10 陳序經『民的研究』(商務印書館、1946年)、96頁。また、前注2を参照。

9-1-xx 広東新語とその性格

9-1-99

 呉建新の研究に基づけば、『広東新語』の成書時期は最も早くて康熙二十六年の秋分頃と思われる。(略)
 この書物には計11箇所の蜑民関係史料があり、広東の蜑民の日常生活、風俗習慣さらには朝廷による蜑民の統制などの記述が多く含まれている。史料として大きな価値を有するため、後世の文人の書籍・地方志及び論考は多くこれらの史料を引用した。例えば、『粤中見聞』・『南越筆記』・『羊城古鈔』・『粤遊小志』四書の蜑民関係史料の記事はほぼ『広東新語』から転載した二次史料に過ぎないことがわかる。それらは清代における広東地方を知るためには有用な書籍と考えてよいが、蜑民関係史料を用いる場合には、第一に『広東新語』を参照すべきである。一方、蜑盗の問題と蜑民への管制について屈大均は崇禎期の新安知県周希曜の「條議」を摘記しているが、記事の内容は屈大均の著作の方が詳しい。以上の考察から、『広東新語』中の11点の蜑民史料が貴重である事は疑いない。しかし、本稿の検討に基づけば、『広東新語』にみられる蜑民関係史料には漁課の上納のことが不明であるなどの限界がある。また蜑民への呼称に対する言葉遣いから見る限り、多少の軽蔑を含む傾向が見られる。さらに、先人の記事を引用した部分が含まれるため、必ずしも全ての蜑民関係史料が屈大均が生きた時期の状況を反映しているものとは言い切れない。〔後掲王2021-01〕

 

※原注 「呉建新の研究」:呉建新「『広東新語』成書年期再探」『広東社会科学』第3期、1989年

屈大均は明の遺民として清朝に対する抵抗の生涯を送った。その反清思想も彼の著作の内容に反映されている。例えば、『広東新語』の「沙田」(27)及び「遷海」(28)において、屈大均は清朝廷の遷界令を批判しており、また清の年号を使っていない。そのため、雍正・乾隆年間に至ると、屈大均の文字の獄が発生した。屈大均の著書は禁書となって、しかも後裔をも巻き添えにした(29)。(略)こうした事情から、『広東新語』の現存版本は極めて少なく、康熙三十九年(1700)木天閣(30)原刻本と乾隆年間水天閣翻刻本があるのみである。しかしながら、後者には誤りが多数存在しており、木天閣を水天閣に書き間違えてさえいる(31)。〔後掲王2021-01〕

※原注 27  前掲『広東新語』巻2・地語・57條、51頁:……盛平時,海無寇患,耕者不須結,皆以大船載人牛,合数農家居之。喪亂後,大船為官府所奪,乃始結以居。自癸巳[順治十(1653)年]遷海以來,沙田半荒。……
28  前掲『広東新語』巻2・地語・63條、57-58頁:……歳壬寅二月,忽有遷民之令,滿洲科爾坤、介山二大人者,親行邊徼,令濱海民悉徙内地五十里,以絶接濟台灣之患。於是麾兵折界,期三日盡夷其地,空其人民。棄貲携累,倉卒奔逃,野外露栖,死亡載道者,以數十萬計。……自有東以來,生靈之禍,莫慘於此。……
29  屈大均の文字の獄及びその後裔が文字の獄の巻き添えとなったことについて、『清代文字獄』第二輯・屈大均詩文及雨花臺衣冠塚案[雍正八(1730)年十月起乾隆四十(1775)年三月止本案係雍乾兩朝者]、傅泰奏屈明洪(屈大均の長男)印投監折(批諭旨)、李侍堯德保奏據屈大均詩文摺(軍機處)、李侍堯德保奏據屈大均廣東新語並査文外摺(軍機處)、李侍堯德保奏審擬屈稔屈昭泗(屈大均の同族)情形摺(軍機處)、屈稔屈昭泗供單(軍機處)、屈大均詩文止須銷毀屈稔等不必治罪諭(實 東華 聖訓聖德門 卷三)、高晉奏屈大均所葬衣冠處之雨花臺摺(軍機處)等(上海書店出版社、2011年)、129-140頁を参照。
30  木天閣とは、元々学士の居所、天子の書籍を所蔵する庫のことである。ただし、ここでの木天閣は広州木天閣書坊を指す。
31 汪宗衍『屈大均年譜』欧初等編『屈大均全集・第1冊』人民文学出版社、1996年 、前言の7頁;前掲『広東新語』、前言の2頁。

(生活)

 史料6「蜑民は黒い入れ墨をして海に潜ることを試みた(蛋人嘗玄身没海)」・史料7「蜑民は船を家とする(蛋以艇為家)」及び「潜水が得意な蜑民……蜑民は長縄に繋いだ鎗を海鰌の子に飛ばして刺す(善沒水……蛋人輒以長繩鎗飛刺海鰌)」・史料9「水中で真珠を採る者(入水採珠貝)」・史料10「魚を多く食べる(以多食魚)」・史料11「蜆を採り、蝦を捕る(取蜆、取蝦)」の記載からみれば、広東の蜑民は船に住み、魚を食と為し、漁業を主たる生計とした生活をしてきたものと見られる。真珠や貝類を取って暮らしをたてていた蜑民が存在しており、また彼らは捕鯨にも従事していたことがわかる(47)。史料8「出て行けなくなって死亡した者もいる(穴中不能出而死)」は、船を河海へ出すことの危険度が極めて高いことを示している。さらに真珠などを採るために、蜑民は水中に潜ることも多かった。水中作業には危険が伴うため(48)、潜水技術に熟練していたとしても、遭難する可能性がある。このように、蜑民の生活は決して安全なものとは言い難い。〔後掲王2021-01〕

廣東沿海軍民蛋戸,賴私煎鹽斤為生,許令盡數報官,於附近塲分減半納課,以補無之數。鹽課提舉司給與批文執照,有不報官貨賣私鹽者充軍。〔注47 広東の沿海で製塩業を営んでいた蜑民もいた。:申時行等修・趙用賢等纂『(萬)大明會典』巻34『續修四庫全書』789・史部・政書類(上海古籍出版社、1995年)、600頁←後掲王2021-01〕

蜑,海上水居蠻也。以舟楫為家,採海物為生。且生食之,入水能視,合浦珠池蚌蛤,惟蜑能没水探取。旁人以繩其腰,繩動搖則引而上,先煮毳衲極熱,出水急覆之,不然寒慄以死。或遇大魚蛟諸海怪,為鬣所觸,往往潰腹折肢,人見血一縷浮水面,知蜑死矣。〔注48-1 范成大『桂海虞衡志校注』巻13・志蠻(広西人民出版社、1986年)、118頁←後掲王2021-01〕

珠蚌生在数十丈水中,取之必以繩引而縋人而下。氣欲,則掣動其繩。舟中人疾引而出,稍遲則七竅流血而死,或為惡魚所噬。〔注48-2 『広東新語』巻15・貨語・443條、413頁←後掲王2021-01〕

※原注 『広東新語』:(原注10)欧初等編『屈大均全集・第1冊』(人民文学出版社、1996年)、屈大均『広東新語』(第2版)(中華書局、1997年)。以下同じ。

9-1-06

4 吾所寶者珠,在古時凡生男子多命曰珠兒,生女多曰珠娘。珠娘之可知者,交阯王之女曰珠,雙角山之女曰綠珠是也。(略)蛋人嘗玄身沒海,鑿石而得樹,樹上得蚌,蚌中得珠。予詩云:「家家養得採珠兒,兼採珊瑚石上枝。珠母多生珠子樹,海中攀折少人知。」〔卷十五 貨語/珠←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 ※採番は中國哲學書電子化計劃による。以下同じ。

〔史料6〕珠 蜑民は黒い入れ墨をして海に潜ることを試みていた(40)。〔注40 前掲『広東新語』巻15・貨語・443條、412・415頁←後掲王2021-01〕

 

9-1-07

1 廣之蒙衝戰艦勝於艚。(略)班首者,一舟之性命所,能倒上船,於望斗中以箭四面射,勢便,或銜刀挾盾,飛越敵艦,斬其帆檣;或同蛋人沒水鑿船,而乘間騰躍上船殺敵;或抱敵人入水淹溺之。其便捷多此類。(略)其上灘瀨者,曰水船,即也,亦曰竿船。叉二木於船首,以張帆席,故曰竿。竿即檣也。蛋人所居曰艇。孔鮒云:「小船謂之艇。」《釋名》云:「艇,其形徑梃,一人一人所行也。」盜舟曰龍艇,長四五丈,裸無篷蓋,數十人以橈撥之,奮迅如龍,最利攻。〔卷十八 舟語/戦船←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料7〕戦船 ある時は(戦船の)船長が蜑民と水中に潜って相手の船を掘る。(ママ)……蜑民の住んでいるところは艇と呼ばれる。孔鮒曰く:小船は艇というのである(41)。〔注41 前掲『広東新語』巻18・舟語・521條、480頁←後掲王2021-01〕

 

9-1-09

1 南海,龍之都會。古時入水采珠貝者,皆身面為龍子,使龍以為己類,不噬。在今日人與龍益習,諸龍率視之為矣。新安有龍穴洲,風雨即有龍起,去地不數丈,朱鬣金鱗,兩目燁燁如電,人與龍相視久之,弗畏也。其精華在浮沫,時噴薄如瀑泉如雨,爭承取之,稍緩則入地中矣,是為龍涎。或謂龍涎者,多積於海上枯木,如鳥遺,其色青黎,其腥,雜百和焚之,翠烟千結,蜿蜒蟠空,經時不散,可以剪分香縷,然多不真。從番舶來者,出大秦、波斯,於雨中焚之,爆有聲則真。蓋龍本純陽之精,故其氣香。又龍屬木,木之氣得太陽多者必香。故諸香以龍涎為最。得盂水徑撲其中,不落空外。龍以水為用,見水則精入焉。蓋龍用精則為雨,用氣則為雲。〔卷二十二 鱗語/戦船←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料9〕龍 南海は龍の多く集まるところである。昔、水中で真珠を採る者はみな全身に入れ墨を施し、龍の子に扮装した。龍から同類だとみなされて噛み食われないようにするのである。今日、人が龍に慣れ親しんできたので、龍戸(蜑民)はみな龍をやもりとみなすようになった(43)。〔注43 前掲『広東新語』巻22・鱗語・613條、545頁。←後掲王2021-01〕

 

9-1-10

1 之族有曰鰻,背有肉鬣連尾,無鱗,口有舌,腹白,大者長數尺,脂膏最多。其有脈錦紋者,名金絲鰻,善穿穴,冬時穴熱乃出,名走風。有曰白,以池塘中烏耳者為佳。有曰,質黑章,多涎沫,大者長二三尺,小者佳。有曰藤。其曰泥鰍,長二三寸,無鱗,以涎沫自染。曰魚,與泥鰍相似而多肉,與諸皆喜伏水土之下,味甘可以滋陰。大抵與魚相反,魚屬火可以滋陽,故蛋人多子,以多食魚〔卷二十二 鱗語/←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料10〕 と魚の属性は概ね逆である。魚は火に属して男性の精力を滋養する。蜑民に子供の数が多いのは魚を多く食べるからである(44)。〔注44 前掲『広東新語』巻22・鱗語・628條、564頁。←後掲王2021-01〕

 

9-1-11

1 番禺海中有白蜆塘,自獅子塔至西江口,凡二百餘里,皆白蜆。二三月,南風起,霞氣蔽空,輙有白蜆子飛落,微細如塵,然落田輙死,落海中得鹹潮之力乃生,秋長冬肥,積至數丈乃撈取。予有謠云:「南風起,落蜆子。生於霧,成於水。北風,南風肥。厚至丈,取不稀。殷勤祭沙,莫使蜆子飛。」外有黑蜆、蜆,一名扁,遇風雨亦輙飛徙,蛋女率於黑沙泥處取之。貧者以為蔬,然味不如白蜆。凡生於海者曰白蜆,生於江者曰黑蜆、蜆,而金錂蜆者,生大海中獨珍。(略)
3 凡取蜆之蛋曰蜆,取蝦之蛋曰蝦籃,其富者則出洋皮取大魚。蜆之利,以白蜆塘為最,豪右家擅奪海中深澳以為塘。白蜆之所生,或多或少,視其人造化所至。蛋人佃其塘以取白蜆,亦復如之。故諺曰:「今年白蜆多,蛋家銀滿。」
〔卷二十三 貝語/白蜆←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料11〕白蜆 蜑女はみな黒泥砂において蜆を採る。およそ蜆を採る蜑民は蜆[竹多]と呼ばれ、蝦を捕る蜑民は蝦籃と呼ばれる。その富者は遠海に出かけて大魚を捕る。白蜆の儲けは白蜆塘(45)が最も良い。豪家はほしいままに深い湾を奪って池塘を作る。白蜆の産量には多寡があるが、運によって定まるとみなされている。蜑民はこの池塘で作業をして白蜆を採るときにも、同様と考えた。故に「今年は白蜆が多いので、蜑民の銭もかごに一杯になる」という俗諺がある(46)。〔注46 前掲『広東新語』巻23・介語・647條、578-579頁←後掲王2021-01〕

※原注45  白蜆塘について、『広東新語』の巻23・介語・647條に「番禺海中有白蜆塘,自獅子塔至西江口,凡二百餘里,皆産白蜆。」とある。

※ その他文献にある「娼妓」に関する文章は、広東新語には見つからず、「専門的職業」とするのは伝説又は蔑視の一つであった可能性がある。

然蜑因生活困苦,故不少蜑女子投身此行業,清文廷式(1856-1904)〈臨江仙〉寫道:「一曲招郎才調好,閒聽蛋女琵琶。(48)」一般良家婦女即便嫻熟音律,也受限於禮教,斷不可能隨意彈奏,又曲調為〈招郎〉曲,其中寓意不言可也。〔後掲王2021-01〕

※原注48 清文廷式:〈臨江仙.廣州舟中作〉,《雲起軒詞鈔》,收於《續修四庫全書》1727 冊(上海:上海古籍出版社,1995 年),頁432。

廣州珠江蜑船下七八千,皆以脂粉為生計。猝難禁也。蜑本海邊捕魚為業,能入海挺槍巨魚,其人處。脂粉為生者,亦以船為家,故冒其名,實非真蜑也。珠江甚闊,蜑船所聚長七、八裏,十層,皆植木以架船,雖大風動。中空水街,小船百往其間。客之上蜑船者,皆由小船渡。蜑妓買為己,十三、四即侍客,實罕有佳者。晨起面多色,傅粉後飲卯酒作微紅。七、八千船,日皆有客。小船之繞水街者,賣果食香品,竟夜也。餘守廣州時,制府嘗命餘禁之,余謂:「此風由已久。船十餘人恃以衣食,一旦其生計,此七、八萬人何處得食?且纏頭皆出富人,亦多益寡之一道也。」事遂已(49)。〔注49 清趙翼:〈廣東蜑船〉,《簷曝雜記》(北京:中華書局,1997 年),頁 62-63。←後掲王2021-01〕

(経済)

9-1-01

塘之地瀕海,凡朝夕市,販夫販婦,各以其所捕海鮮連筐而至。家之所有,則以錢易之;蛋人之所有,則以米易。予家近市亭,頗得厭飫。嘗為漁者歌云:「船公上檣望魚,船姥下水牽網。滿籃白飯花皆魚名,換酒洲邊相餉。」又云:「多烏耳,蠏盡膏。香粳換取,下爾春醪。」〔卷九 事語/廣州時序←後掲中國哲學書電子化計劃〕

〔史料1〕塘(番禺の北東の村、現在の広州市)塘は海に臨んでいる。およそ朝は無人で、夕には市ができ、行商人は捕獲した魚介を入れた籠を持ってやって来て、農民の物は貨幣で交換するが、蜑民の物は米で交換する(34)。〔注34 前掲『広東新語』巻2・地語・45條、45頁←後掲王2021-01〕

 

9-1-03

五月自朔至五日,以粽心草黍,卷以柊葉,以象陰陽包裹。浴女蘭湯,飲菖蒲雄醴,以辟不祥。士女乘舫,觀競渡海珠,買花果于蛋家女艇中。〔卷二 地語←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料3〕広州時序 五月朔日より五日に至るまで、……男女は船に乗り、海珠(現在の広州市の海珠区)にて行われる競漕を観て、蜑女の小舟において花果を買う(36)。〔注36 前掲『広東新語』巻9・事語・332條、299頁。←後掲王2021-01〕

 

(風俗)

 史料4・史料8の冒頭によれば、蜑民男女の結婚は比較的自由で、未婚の蜑男は船尾に一盆の草を置き、未婚の蜑女は船尾に一盆の花を置き、この方式によって媒酌とする。また、結婚式の時には「蛮歌」を歌い競い、船で嫁を迎える。さらに、以上の二史料から見るに、同類結婚する場合は明記されているが、史料8には良民(49)と通婚しないと記している。なお、『(光緒)四會縣志』(50)・『(民国)陽春縣志』(51)などの文献においても、蜑民の間の婚俗に言及するが、良民との通婚の婚俗に関する記述は見あたらない。一方、明・王士性撰の『広志繹』巻5に、「婚姻においても蜑民が蜑民に嫁ぐ」(52)とある。従って、蜑民は同類結婚が基本であったと言ってよいだろう。
 史料6・史料8「入水する時に全身に入れ墨をした(入水輒面文身)」・史料9は、蜑民の入れ墨の習慣について述べている。水中での作業には多大な危険が伴うため、蜑民は自分の経験に頼る以外に、全身に入れ墨をし、蛟龍の子に扮装して安全を祈った。この特殊な風俗習慣もまた良民から遠さかる要因となったと予想される。〔後掲王2021-01〕

※原注 49 良民の解釈については『(光緒)欽定大清會典』に、「凡民之著於籍,其別有四:一曰民籍,二曰軍籍,三曰商籍,四曰竈籍,察其祖寄,辨其宗系,區其良賤。注:四民為良,奴僕及倡優隸卒為賤。其山西陝西之樂戸,江南之丐戸,浙江之惰民,皆於雍正元年七年八年,先後豁出賤籍。」とある。昆岡等纂『(光緒)欽定大清會典』巻17(上海書局、1911年)、6-8頁。
50 陳志喆修・呉大猷纂『(光緒)四會縣志』上海書店出版社等編『中国地方志集成:広東府縣志輯』編1・輿地志・蜑(上海書店出版社、2003年)、127頁:……婚娶率以酒相餽遺,群婦子飲於洲塢岸側。是夕兩姓聯舟,多至數十,男婦互歌。……
51 藍榮熙修・呉英華纂『(民国)陽春縣志』上海書店出版社等編『中国地方志集成:広東府縣志輯』巻13・事紀・戸(上海書店出版社、2003年)、428頁:……婚配以歌相贈答,無冠履禮貌,不諳文字,以舟楫為家,捕魚為業,或編篷瀕水而居,不敢與齊民齒。……
52 王士性『広志繹』卷5(中華書局、1997年)、114頁:婚姻亦以蜑嫁蜑

9-1-04

3 潮人以土音唱南北曲者,曰潮州戲。潮音似,多有聲而無字,有一字而演為二三字,其歌輕婉,、廣相半。中有無其字而獨用聲口相授,曹好之以為新調者,亦曰歌。農者春時,婦子以數十計,往田挿秧,一老大鼓,鼓聲一通,羣歌競作,彌日不,是曰秧歌。南雄之俗,正月,婦女設茶酒于月下,罩以竹箕,以青覆之,以一箸倒挿箕上,左右二人之作書,問事吉凶,又畫花樣,謂之踏月。令未嫁幼女,且拜且唱,箕重時,神即來矣,謂之踏月歌。長樂婦女,中秋夕拜月,曰月姑,其歌曰月歌。蛋人亦喜唱歌,婚夕兩舟相合,男歌勝則牽女衣過舟也。黎人會集,則使歌郎開塲,唱一句,以兩指下上鼓,聽者齊鳴小鑼和之。其鼓如兩節竹而腰小,塗五色漆,描金作雜花,以帶懸肩上。歌郎畢唱,歌乃徐徐唱,鼓亦如歌郎。其歌大抵言男女之情,以樂神也。〔卷十二 詩語←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料4〕粤歌 蜑民は歌を歌うことも好きだ。結婚式の時には二隻の船を近付ける。男が歌に勝つと女の服を引いて船に迎える(37)。〔注37 前掲『広東新語』巻12・詩語・399條、361頁。←後掲王2021-01〕

 

9-1-08-1

1 諸蛋以艇為家,是曰蛋家。其有男未聘,則置盆艸于梢;女未受聘,則置盆花于梢,以致媒約。婚時以蠻歌相迎,男歌勝則奪女過舟。其女大者曰魚,小曰蜆妹。魚大而蜆小,故曰魚,而妹曰蜆云。蛋人善沒水,持刀槊水中與巨魚。見大魚在巖穴中,或與之嬉戲,撫摩鱗鬣,俟大魚口張,以長繩鈎鈎兩腮,牽之而出。或數十人張,則數人下水,誘引大魚入,舉,人隨之而上,亦常有被大魚啖者。或大魚還穴,橫塞穴口,己在穴中不能出而死者。海鰌長者亙百里,背常負子,蛋人輙以長繩鎗飛刺之。候海鰌子斃,出沙,取其脂,貨至萬錢。蛋婦女皆嗜生魚,能泅。昔時稱為龍者,以其入水輙面文身,以象蛟龍之子,行水中三四十里,不遭物害。今止名曰獺家,女為獺而男為龍,以其皆非人類也。然今廣州河泊所,額設蛋,有大、小、手、門、竹箔、簍箔、攤箔、大箔、小箔、大河箔、小河箔、背風箔、方網、輳網、旋網、竹、布、魚籃、蟹籃、大罟、竹等一十九色。(続)〔卷十八 舟語←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

〔史料8〕蜑家艇 諸蜑民は船を家とする。これを蜑家と呼ぶ。蜑民の男が未婚であれば、船尾に一鉢の草を置く。蜑民の女が未婚であれば、船尾に一鉢の花を置く。この方式によって媒酌とする。結婚式の時には蛮歌で迎える。男が歌に勝つと女を奪って船に迎える。その年上の女子は魚姉と言い、年下の女子は蜆妹と言う。魚は大きく蜆は小さいため、姉は魚と呼び、妹は蜆と呼ぶのである。潜水が得意な蜑民は毎度刀とほこを持って、巨魚と闘う。もし蜑民が岩礁の間に大魚を見かけたら、大魚と遊び戯れて鱗とひれを撫で、大魚が口を開くと、長縄に繋いだ鈎を大魚の両腮に引っ掛け、大魚を引いて水面に浮かべる。ある時は数十人が網を張り、数人が水に潜って大魚を網の中に誘い込む。人は魚網を取り込みながら、水面に浮かべる。かつて大魚に食べられた人もいる。あるいは、大魚が洞穴に戻って穴の入り口に横たわったため、出て行けなくなって死亡した者もいる。年長の海鰌(セミクジラ)は常にその子を背負って水中で百里も泳ぐ。蜑民は長縄に繋いだ鎗を海鰌の子に飛ばして刺す。海鰌の子が死ぬのを待ち、死んだことを確認したら、死体を砂浜に引き揚げ、脂肪を取り出す。その価格は万銭に至る。蜑民の婦女はみな生魚を食べることを好み、遊泳が得意である。昔、龍戸と呼ばれる者があり、入水する時に全身に入れ墨を施し、蛟龍の子に似せた。水中三四十里に入っても、大魚の害を避けられる。現在、その名は獺家という。女性は獺と称され、男性は龍と称される。みな人ではないとみなされたためである。しかし今広州の河泊所は大小、手、門、竹箔、簍箔、攤箔、大箔小箔、大河箔、小河箔、背風箔、方網、輳網、旋網、竹、布、魚籃、蟹籃、大罟、竹という十九種の蜑民を定め置いている。(続)〔注42 前掲『広東新語』巻18・舟語・527條、485-486頁。←後掲王2021-01〕

(続)計稽船,其魚課,亦皆以民視之矣。諸蛋亦漸知書,有居陸成村者,廣城西周、林是也。然良家不與通姻,以其性兇善盜,多為水禍患。曩有徐、鄭、石、馬四姓者,常擁戰船數百艘,流東西二江,殺戮慘甚。招撫後,復有紅旗、白旗等賊,皆蛋之梟黠。其婦女亦能跳盪力,把舵司,追奔逐利。人言居而偏忍,蛋居水而偏愚,未盡然也。故多盜,而海洋聚,多起蛋家。其船雜出江上,多寡無定,或十餘艇為一,或一二至十餘為一朋。朋則有數隨之魚,勢便輙行攻,為商旅害。秋成時,或即搶割田禾,農人有穫稻者,各以錢米與之,乃得出沙。其為暴若此。議者謂誠以十船為一甲,一甲長,三甲為一保,一保長,無論地僻船稀,零星獨釣,有無罟朋及大小船,皆使編成甲保,互結報名,自相覺察,按以一犯九坐之條,則奸舸難匿,而盜藪可清。然清船及澳艇,尤為先務。〔卷十八 舟語←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

(続)毎年、河泊所が戸籍に基づいて船を検査して漁課を徴収し、民と同じように扱っている。蜑民らは次第に文字を知るようになり、陸地に集住して村落をつくる蜑民も現れた。その場所は広州の城西の周と林がそれである。しかし良民は蜑民と通婚しない。それは蜑民が凶暴な性格でよく強奪を行い、水郷の禍害となったからである。かつて徐、鄭、石、馬の四姓があり、数百隻の戦船を所有していた。彼らは東江・西江で財貨を略奪し、多く平民を殺戮した。彼らが帰順した後、また紅旗・白旗などの海賊が現れたが、これらはみな蜑民の凶悪な者である。その婦人もよく戦闘を行い、船を操り、海を駆け回って利益を求める。「族は田畑に居てひたすら残忍で、蜑民は水上に居てひたすら愚かである」と言われるが、全くそうだというわけではない。広東は元来盗賊が多いが、海洋での劫掠は多く蜑民によって起こる。その船は江の水面に出没し、船数の多寡も一定でない。あるときは十余艇をもって一となり、あるときは一、二(大きな漁網の一種)ないし十分をもって一朋となる。毎朋に数隻の郷(香ともいう、小船)がついて魚を塩漬けにする。情勢が有利になると劫掠を行うため、旅商人の災いになっている。秋季収穫の時、すぐに農民の手から殻物を奪い取ることもある。稲を収穫した農民は、各々銭と米を蜑民に与えることによって、蜑民に沙田(河海の沿岸に設けた田)から出ていってもらえる。その暴虐さは以上の通りである。論者は「十船を一甲とし、一名の甲長を置く。三甲を一保とし、一名の保長を置く。辺鄙で船の少ないところや零細な漁民、大船及び小船の有無にかかわらず、みな保甲に編入される。名前を互いに知ることで、動きを相互に察知できる。ある蜑民が罪を犯した時は、同保甲の関係者が連座して処罰を受ける規定によって、奸船を隠せなくなり、盗賊を一掃することができる。船(四櫓六櫓は小、八櫓は大である)及び澳艇(小船)を取り除くことは、もっとも優先すべき急務だ」と言う(42)。〔注42 前掲『広東新語』巻18・舟語・527條、485-486頁。←後掲王2021-01〕

 

(統制:政府による管制)

 史料2・史料8の後半部によれば、広東の蜑民は東、西江及び南部沿海域に集中していたが、その生活場所は固定してはいなかった。その原因としては、漁場が季節によって変わり、定住が望ましくなかったことが考えられる。また、蜑民は船に居住し、主に漁撈を営みながら生活してきた。しかしながら、時には生活に困った蜑民が盗賊と結んで、河海及び沿岸に出没して略奪を行っていた。政府は蜑民の動きを把握することが困難なため、広東に河泊所53を設けて蜑民を管理しようとした。更に、船を操ることに優れた蜑民は、現地の保甲に編入されることもあった。彼らは魚介類の採捕を生業とし、非常時には水軍に編入された。〔後掲王2021-01〕

9-1-02

廣中之盜,患在散而不在聚,患在無穴者,而不在有穴者。有穴者之盜少,而無穴者之盜多,則蛋家其一類也。蛋家本鯨鯢之族,其性嗜殺,彼其大艟小出沒波濤,江海之水道多岐,而罟朋之分合不測。又與水陸諸凶渠,相為連結,我哨船少則不能躡其踪跡,水軍少亦無以當其鋒。計必兵恆有餘於盜,毋使盜恆有餘於兵。又設為嚴法,如盜殺一人,則以一兵抵;殺一兵,則以一官償;一民舸,則奪一哨船之食。而責之功,晝夜巡行,惟盜是索。而蛋人則編以甲冊,假以水利,十艇為一隊,十隊為一長,畫川使守。畧倣洪武初以蛋人為水軍之制,擇其二三智勇者,為之大長,授以一官,俾得以軍律治其族,與哨船諸總,相為羽翼。又使諸縣富民,仍得朋造烏槽、橫江二船,專業漁鹽,有警則船人皆兵,分班守直。凡出外海制賊用烏槽,裏海制賊用橫江船。又使東西二江日夜諸長,皆為哨長,而勿征其餉。如此,則上無養兵之勞,而水師自足,一有事,旦暮可集矣。〔卷七 人語/蛋家賊》←後掲中國哲學書電子化計劃〕

〔史料2〕蜑家賊 広東内の盗賊について、その問題は散在していることにあって、集住していることではない。問題は住居のない者にあって、住居のある者ではない。住居のある者に盗賊は少ないが、住居のない者に盗賊は多い。即ち蜑民はその一種である。蜑民は元々海賊であり、その性は殺戮を嗜む。彼らは大船、小舟に乗って大波に出没する。江海の水道は危険であり、しかも蜑民の間の分合は予測できない。また、水陸の諸盗賊と結託している。我が巡視船が少ないと、盗賊を追跡することができない。水軍が少ないと、強力な盗賊を防ぐこともできない。常に盗賊より多くの兵士を配置させなければならない。決して盗賊が兵士より多くなってはいけない。また、厳しい法律を制定している。即ち、もし盗賊が民一人を殺したら、一兵士を処罰する。もし盗賊が一兵士を殺したら、一官を処罰する。もし盗賊が民船を略奪したら、一巡視船の食物を取り上げる。そして処罰された者に手柄を立てさせるため、昼夜を問わず巡行するよう命じる。こうしてこそ盗賊を粛清することができる。一方、蜑民は甲冊に編入させ、水上での優勢により、十艇ずつを一隊とし、十隊を一長とし、川ごとに分けて守備させている。おそらく洪武初に蜑民をもって水軍と為す制度をまねたものである。その中の二、三の智勇ある者を抜擢して大長と為し、官職を与える。軍律によってその族を治めさせ、巡視船などと相互に補佐する。また、諸県の富民を集めて烏槽、橫江の二種類の船を作らせる。平素は漁撈と製塩を生業とする。危険があれば船人が皆兵士になり、交替で当直する。およそ外海の盗賊を討つ時には烏槽を使う。内海の盗賊を討つ時には橫江を使う。また、東、西江において日・夜(渡船)の諸長をみな哨長とする。しかもその餉を徴収しない。こうすれば朝廷は兵士を養う苦労がなく、水師も自足できる。いったん事変があれば、直ちに集結することができる(35)。〔注35 前掲『広東新語』巻7・人語・260條、250頁。←後掲王2021-01〕

 

(圧迫と差別)

 史料5・史料8は、蜑民が圧迫と差別を被った状況を伝える。史料5は地方の有力者が「漁課」という名目で蜑民の漁獲から搾取を行っていたことを示している。周知の通り、蜑民は昔から賎民の一つとみなされ、良民とは異なる待遇を受けてきた。史料8はまさに蜑民が差別を受けていたことを物語る。良民が蜑民と通婚しない理由として、蜑民の凶暴な性格や略奪を行うことが憎まれたからと推測される。しかも生活習性によって龍戸・獺家という呼称がある。ここには良民が蜑民を人ではないとみなす態度がうかがわれる。〔後掲王2021-01〕

9-1-05

1 廣為水國,人多以舟楫為食。益都孫氏云:「南海素封之家,水陸兩登。貧者浮家江海,入估人舟算緡。中婦賣魚,蕩至客舟前,忽以十數。弱齡男女,身手便利,即張羅竿首,畫釣泥中。、蟹、蜃、蛤之入,日給有餘,不須衣食父母。又舟人婦子,一手把舵筒,一手魚,中兒女在背上,日如負瓜瓠,搖櫓,批竹繩,兒女苦襁褓,索乳哭啼,恆不遑哺。地氣多燠,既省絮衣之半,跣足波濤,不履襪,或男女同屐。男子冬夏止一一襦,婦人量三益一布裙,如是則女恆餘布。地惟稻,土厚穫多,人日計米一升。加以魚、蚌、烏菱、蕉、橘、藷、芋,減炊米十可二三,如是則男有餘粟,故古稱饒富居甲焉。按吾廣多雜食物,而水居尤易為生。顧禾蟲之埠,蜆之塘,皆為有力者所奪。以漁課為名,而分畫東西江以據之,貧者不得沾丐餘潤焉。蛋人之蜆蝦籃,雖毫末皆有所主。海利雖饒,取於人不能取於天也。〔卷十四 食語/舟楫為食←後掲中國哲學書電子化計劃〕

 

 〔史料5〕舟楫為食 吾が広東では食物が雑多で、水上に居住し生活することは特に容易である。けれども、禾蟲(ゴカイの一種)の埠、[虫雷]蜆の塘はすべて有力者に奪われた。有力者は漁課(漁業税)をもって名目となし、東、西江を分割して占拠する。貧しい者は海の利益を得られない。蜑民の中の蜆[竹/多]蝦籃(38)はたとえ僅かの物でも、すべてが主人に所属している。海の利益は豊饒であるが、人によって取られてしまうのであり、天によって取られるのではない(39)。〔注39 前掲『広東新語』巻14・食語・429條、395頁。前掲『広東新語』巻12・詩語・399條、361頁。←後掲王2021-01〕

※原注38 蜆・蝦籃については史料11を参照。

3-2 河泊所

河泊所官、掌收魚税。閘官・官、掌啓閉蓄洩。洪武十五年定天下河泊所凡二百五十二。歳課糧五千石以上至萬石者、設官三人。千石以上設二人。三百石以上設一人。〔張廷玉等撰『明史』卷75・志第51・職官4・河泊所(中華書局、1984年)、1852頁←後掲王2023 注16〕

 

明代になると、直隸・湖廣(現在の湖北省と湖南省)・江西・浙江・福建・両廣・河北・雲南・四川に分布している漁戸はすべて河泊所の管轄下に置かれた(15)。『明史』に「河泊所の官は魚税を収めることを掌る。閘官・官が水門の開閉を制御する。洪武十五年(1382)、全国に凡そ252ヶ所の河泊所を定める。毎年徴収する糧食が5000石以上10000石に至るまでの河泊所は官3人を置き、1000石以上は2人を置き、300石以上は1人を置く」(16)と記してある。以上より、明朝廷は依然として河泊所を通じて漁戸より魚課を徴収したことがわかる。
(略)
明初において、廣東河泊所が即ち蜑民の支配機関となっていたことには疑いの余地がない。次に、現在のところ集められる史料を基に、明代における廣東河泊所の設立・廃止年代及び所在を表にまとめた。〔後掲王2023〕

※原注15 中村治兵衞『中国漁業史の研究』(刀水書房、1995年)、116・148・157頁。
表:明代廣東河泊所の設立・廃止年代と所在〔後掲王2023〕
設立年代/所在/典拠/廃止年代
洪武二年(1369)/惠州府河源縣/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/廃止年不詳
洪武四年(1371)/惠州府興寧縣/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/正統十三年(1448)
洪武初(具体年不詳)/瓊州府會同縣/『(正德)瓊台志』巻27・古蹟/景泰二年(1451)
洪武六年(1373)/瓊州府昌化縣/『(正德)瓊台志』巻27・古蹟/景泰二年(1451)
洪武十年(1377)/惠州府府屬/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/未廃止
洪武十年(1377)[20]/韶州府樂昌縣/『(嘉靖)韶州府志』巻6・古蹟/景泰七年(1456)
洪武十四年(1381)/廣州府清遠縣/『(民国)清遠縣志』巻15・古蹟/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十四年(1381)/廣州府香山縣/『(嘉靖)香山縣志』巻3・政事志・魚鹽/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十四年(1381)/廣州府新會縣/『(萬[厂/禾/禾/日])新會縣志』巻2・公署/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十四年(1381)/廣州府東莞縣/『(天順)東莞縣志』巻3・合屬衙門/萬[厂/禾/禾/日]元年(1573)[21]
洪武十四年(1381)/潮州府[掲-ヒ+|_ム]陽縣/『(嘉靖)潮州府志』巻2・建置志/景泰二年(1451)
洪武十四年(1381)/潮州府饒平縣東□村/『(嘉靖)潮州府志』巻2・建置志/景泰二年(1451)
洪武十四年(1381)/潮州府程郷縣/『(康熙)程郷縣志』巻3・版籍志・田賦/嘉靖十一年(1532)
洪武十四年(1381)/惠州府海豐縣/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/廃止年不詳
洪武十四年(1381)[22]/潮州府潮陽縣/『(隆慶)潮陽縣志』巻9・官署志・河泊/廃止年不詳
洪武十四年(1381)/肇慶府封川縣登[栄-ツ+サ]坊/『(天啓)封川縣志』巻5・建置/嘉靖十一年(1532)
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府四會縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府高要縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府陽江縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府德慶州/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府瓊山縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府澄邁縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府臨高縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府文昌縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府[イ+ク/厂/ル/言]州/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府萬州/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府崖州/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/嘉靖三十七年(1558)
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府陵水/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/景泰二年(1451)
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府感恩縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/正統十三年(1448)
洪武十六年以前(具体年不詳)/惠州府龍川縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/惠州府博羅縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/惠州府歸善縣/『(康熙)歸善縣志』巻20・雜志・徭蛋/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府增城縣/『(乾隆)增城縣志』巻3・品族・徭蛋/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府南海縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府順德縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府番禺縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/韶州府曲江縣河西下廂/『(光緒)曲江縣志』巻5・官舍・古署附/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十六年以前(具体年不詳)/韶州府英德縣/『明英宗實録』巻116・正統九年五月丁巳/正統九年(1444)
洪武十六年以前(具体年不詳)/廉州府府屬/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/廉州府欽州/『(嘉靖)欽州志』巻4・職官/嘉靖十年(1531)
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府府屬/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府那黎/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/嘉靖三十五年(1556)
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府化州/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府呉川縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
萬[厂/禾/禾/日]四年(1576)/潮州府澄海縣[魚ウ/ヒ]浦/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
萬[厂/禾/禾/日]四年(1576)/潮州府澄海縣東壟/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
原注20 また、一説には洪武十五年に設けられたという。蔡逢恩修・林光斐纂『(同治)樂昌縣志』巻2・公署(成文出版社、1967年)、35頁:河泊所、洪武十五年開、總旗張崇開設、景泰七年邑人給事白瑩奏革。
21 また、一説には萬九年に廃止されたという。申時行等修・趙用賢等纂『(萬)大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課『續修四庫全書』789・史部・政書類(上海古籍出版社、1995年)、645頁:清遠縣河泊所、東莞縣河泊所、香山縣河泊所、新會河泊所、以上萬九年革。
22 また、一説には洪武二十七年に設けられたという。『(嘉靖)潮州府志』巻2 ・建置志(書目文献出版社、1991年)、194頁:河泊所、在縣治西和平村、洪武二十七年建
*出典:蔡逢恩修・林光斐纂『(同治)樂昌縣志』(成文出版社、1967年)、35頁;余鳳聲修・朱汝珍纂 『(民国)清遠縣志』(成文出版社、1967年)、227頁;張希京修・歐華纂 『(光緒)曲江縣志』(成文出版社、1967年)、80頁;黄一龍修・林大春纂『(隆慶)潮陽縣志』(上海古籍書店、1982年)、16頁;林希元輯『(隆慶)潮陽縣志』(上海古籍書店、1982年)、2頁;台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明英宗實録』(中文出版社、1984年)、3228頁;郭春震纂修『(嘉靖)潮州府志』 (書目文献出版社、1991年)、195・198頁;李修・劉梧纂『(嘉靖二十一年)惠州府志』(書目文献出版社、1991年)、76・79頁;劉廣聰纂『(康熙)程郷縣志』(書目文献出版社、1992年)、404頁;申時行等修・趙用賢等纂『(萬)大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課『續修四庫全書』789・史部・政書類(上海古籍出版社、1995年)、639・645-646頁;方尚祖纂修『(天啓)封川縣志』(海南出版社、2001年)、322頁;鄧遷纂・黄佐纂『(嘉靖)香山縣志』(嶺南美術出版社、2007年)、44頁;符錫纂修『(嘉靖)韶州府志』(嶺南美術出版社、2007年)、44頁;盧祥纂『(天順)東莞縣志』巻3・合屬衙門(嶺南美術出版社、2007年)、32頁;王命修・黄淳纂『(萬)新會縣志』(嶺南美術出版社、2007年)、103頁;連国桂修・章纂『(康熙)歸善縣志』(嶺南美術出版社、2009年)、240頁;唐冑修『(正德)瓊台志』(嶺南美術出版社、2009年)、152頁。
*廃止年代の欄の「廃止年不詳」は、古文献に河泊所を廃止した旨の記述があるが、具体的な廃止年代が記載されていないことを示す。「未廃止」は明末に至っても河泊所が置かれていることを示す。

(明河泊所の軍役強化とその失敗:王推定)

 上の表の如く、明代における廣東河泊所の設立状況は、瓊州府11ヶ所、廣州府8ヶ所、惠州府7ヶ所、潮州府6ヶ所、肇慶府5ヶ所、高州府4ヶ所、韶州府3ヶ所、廉州府2ヶ所で、合計46ヶ所である。これらの河泊所の設置場所は拙稿で検討した廣東蜑民の分布地(23)とほぼ一致していることが明らかである。また、この46ヶ所のうちで、瓊州府の河泊所が最も多かったことが確認される。これは離島の瓊州府(現在の海南島)に生きる蜑民の支配を強めるためであると考えられる。
 さらに、設立年代については、大部の廣東河泊所は洪武十六年(1383)以前に設けられたことが示されている。一方、正統年間(1436-1449)から景泰年間(1450-1457)にかけて廃止された河泊所が多いこともわかる。具体的には、瓊州府5ヶ所、廣州府4ヶ所、肇慶府4ヶ所、韶州3ヶ所、潮州府3ヶ所、高州府3ヶ所、惠州府2ヶ所、廉州府1ヶ所で、合計25ヶ所の河泊所が廃止された。また、その他に廃止された9ヶ所の河泊所については、具体的な廃止の年代は明らかでない。その廃止の原因に関して、尹玲玲の推測は、財政支出を削減するために魚課の収納が困難な河泊所を廃止したというものである(24)。尹の研究は重要な示唆を与えるが、更なる検討が必要である。〔後掲王2023〕

※原注 23(拙稿)王歓歓「蜑民の源流・人口・地域分布に関する一考察」『岡山大学大学院社會文化科学研究科紀要』第51号、2021年(-03)、64頁。
24 尹玲玲「明代的漁政制度及其變遷―以機構設置沿革為例」(『上海師範大学学報』第32卷・第1期、2003年)、97-98頁。

明初、沿海要地建衛所、設戰船、董以都司・巡視・副使等官、控制周密。〔張廷玉等撰『明史』卷322・列傳第210・外國3・日本傳、8352頁←後掲王2023 注25〕

 

命南雄侯趙庸籍廣州蜑戸萬人為水軍。時蜑人附海島、無定居、或為寇盜、故籍而用之〔台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明太祖實録』巻143・洪武十五年閏二月癸亥(中文出版社、1984年)、2252頁←後掲王2023 注26〕

 

永樂六年、命豐城侯李彬等海捕倭、復招島人・蜑戸・賈豎・漁丁為兵、防備益嚴。〔張廷玉等撰『明史』卷91・志第67・兵3・邊防海防民壯土兵、2244頁←後掲王2023 注26〕

 

永樂六年、命豐城侯李彬等海捕倭、復招島人・蜑戸・賈豎・漁丁為兵、防備益嚴。〔張廷玉等撰『明史』卷91・志第67・兵3・邊防海防民壯土兵、2244頁←後掲王2023 注27〕

 

廣東州河泊所奏:本所蜑民原額船網等業二千二百餘戸、後因充軍逃故、遺下無魚課米八百八十餘石。〔台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明英宗實録』巻161・正統十二年十二月戊午(中文出版社、1984年)、3125頁←後掲王2023 注30〕

 

『明史』には「明の初めには、沿海の要地に衛所を建て戦船を設けた。都司・巡視・副使などの官を置き、(沿海の要地を)厳しく守った」(25)とあるが、『明太祖實録』等が記すように洪武・永楽両朝においてさらに廣東の蜑民を集めて水軍を組織していたことである(26)。また趙金娥によると、徴用された蜑民らは沿海の衛所水軍に所属していたという(27)。要するに、廣東の蜑民は衛所制(28)の統制下に置かれていたと考えられる。しかしながら、章栄玲によれば、正統三年(1438)になると、衛所の軍籍に属する者の生活が苦しくなり、衛所の軍政は益々廃弛したため、沿海の諸衛所の兵が大量に逃亡し、丁壮の徴用も困難となったという(29)。さらに『明英宗實録』正統十二年(1447)12月戊午に、「廣東[イ+ク/厂/ル/言]州(現在の海南省[イ+ク/厂/ル/言]州市)河泊所が奏するには、本所では漁を生業とする蜑民は元々2200余戸であった。その後、蜑民が兵役を避けようとして逃走したため、本所は880余石の魚課米を徴収できない。……」(30)という記事もある。この史料から、兵役からの逃亡により蜑民の戸数が減少した結果、魚課の徴収が困難になったことがわかる。以上のことから、正統・景泰年間(1436-1457)において多くの蜑民が衛所制下の重い兵役に苦しんで河泊所の支配から離脱したため、大部分の河泊所は存在する必要がなくなったのだろう。〔後掲王2023〕

※原注27 趙金娥「明代廣東海防衛所空間形態研究」(華南理工大学博士学位論文、2019年)、83頁。
28 衛所制は、明朝の軍事制度である。1郡の要害の地に所を設け、数郡にわたるところには衛を設けた。おおむね5600人を衛とし、その長官は都指揮使である。1120を千戸所、その長官は千戸である。112人を百戸所とし、その長官は百戸である。衛所の最小部隊10人の長官を小旗、50人の長官を総旗という。黄宗羲著・西田太一郎訳注『明夷待訪録―中国近代思想の萌芽―』(平凡社、1964年)、130-131頁。
29 章栄玲「明清廣東沿海所城的功能及演変」(『文博学刊』第3期、2018年)、106頁。

9-3 実数論

(王所見:蛋民の具体数史料初出)

。『永樂大典』巻5343引『(南宋)三陽志』に、南宋期における潮州府の戸口数として、「総課税戸(主客戸)と蜑戸をあわせた戸数が一十三萬五千九百九十八戸【A】、一十四萬五千七百三十二丁口(39)である。……本州(潮州府)三県(宋のとき、潮州府は海陽・潮陽・掲陽の3県を管轄した)の主客戸は一十一萬六千七百四十三戸【B】、一十四萬七千五百七十口丁口である」(40)とある。よって南宋潮州府における蜑民の戸数は19225戸【C】となり、全体戸数の14.1%を占めている。ただ、末尾にある主客戸の丁口数(147570)が主客戸と蜑戸を合計した数(145732)より多い、その原因については、書き間違いか、それとも統計の誤りか、今のところ把握できない。〔後掲王2021-03 8枚目 p54〕※【アルファベット】は引用者

※原注 39 中国の五代から宋にかけて、丁口は20歳から60歳までの成年男子を指す。宋代の戸籍統計は戸数と丁口数のみを統計する。詳しくは以下の論文を参照。詹堅固「宋代蜑民考略」(『黒竜江社会科学』第 5 期、2012年)、20頁。
40 解縉等奉敕纂『永樂大典(第59冊)』巻5343・潮・潮州府・戸口(中華書局、1960年)、21頁:比歳以來,総税客戸與蛋戸言之,以戸計者,一十三萬五千九百九十八【A】。以口計者,一十四萬五千七百三十二,較之於古,不啻百倍,自今以往,不其愈盛哉。本州三縣主客戸,總一十一萬六千七百四十三戸【B】,總一十四萬七千五百七十口。
※※引用者指摘:【A】「総税客戸與蛋戸」135,998戸-【B】「主客戸」116,743戸=(蛋戸)19,255戸≠【C】19,225戸 であるが、これは誤記と思われる。
民国時期政府把握による広州・香港・福州・梧州蜑民の戸数・人口数統計〔後掲王2021-03 表3 13枚目 p59〕
※原注出典 前掲『民的研究』(引用者追記 陳序經 1946『民的研究』商務印書館)、60-90頁;可児弘明『香港の水上居民―中国社会史の断面』(岩波書店、1970年)、 6 頁;
秦璞・徐桂蘭『河与海珠』(黒竜江人民出版社、2009年)、17頁;張研等編『民国史料叢刊(第763冊)』(大
象出版社、2010年)、27・155・293頁;同掲『民国史料叢刊(第766冊)』、181・183頁
※※表の体裁は縦表示に引用者が調整した。なお、この係数から王は「福建省・広州市・香港・梧州市の蜑民人数を合計すれば、およそ22万人」(後掲王2021-03 13枚目 p59)としている。(近似計算:広州123,910+香港71,154+梧州9,490=204,554)
 「合計は約93万人以上」とする算出は、1953年民族識別調査(広東省)90万人+江下流17,235人+長楽等7県10,369人ではないかと想像される。

1953年の民族識別の調査によると、広東省の蜑民総数は90万人前後といい、[門>虫]江(60)下流の10キロの沿岸(福州市の大部分)には3731戸/17235人、長楽・永泰・南平などの 7 県には4219戸/10369人、梧州市には3441戸/18994人の蜑民がいる。また、香港における1961年センサスによれば、蜑民は20572戸/136802人であった61。以上の合計は約1083400人である。しかし、この数字は広東省、福建省の一部、香港・梧州に住んでいた蜑民の人数にすぎない。また、1930年代後半以降の戦乱で多数の流民が発生したため、新中国の初期は1920-1930年代に比べて蜑民人口がすくなかったと思われる。従って、梁啓超・陳序経が民国期の蜑民の概数を100~200万人と述べていたが、本稿もこれと同意見である。〔後掲王2021-03 13枚目 p59〕

※原注 60 江は福建省最大の河川で、上流は建渓、富屯渓、沙渓の三河からなり、いずれも西部の仙霞嶺、武夷山に発する富屯渓と沙渓は南平市の付近で合流して北東に流れ、剣津で建渓を合わせ、それより下流を江と呼ぶ。東海に注ぎ、河口近くに福州がある。大中書局編『最新中国分省地図』(大中書局、1956年)、24頁。
61 前掲『広東民社会調査』、17頁;前掲徐心希「、粤、台三地民歴史考略―以福州民為中心」、84頁;秦璞・徐桂蘭『河与海珠』(黒竜江人民出版社、2009年)、17頁;岸佳央理「香港の「都市化」と水上居民:1961年センサスを中心に」(『人間文化創成科学論叢』第14巻、2011年)、52頁

蜑民の人口については、史料不足のゆえに、具体的な数を確定することは不可能である。だが、その概数は知ることができる。明清代の地方志などの文献からすると、明初における広東の高要・潮陽・香山・州四県の蜑民合計は約5661戸、広州の男性蜑民は少なくとも10000人であり、正統~萬年間における両広蜑民の合計戸数は約3300であった。清代における広東蜑民は少なく見積もれば約12752戸、多く見積もれば約15826戸、広西の蜑民は約428戸以上が存在した。民国に入ると、政府が人口調査を実施した。その結果は22万人にのぼるが、自ら公安局へ来て登記料を支払うことを要求するという不適切な方法から得られる蜑民人数は、実際より少ないに違いない。しかし、明清に比べて相当に多い数となっていることは確かである。新中国の初期に行われた民族識別をきっかけに、広東省、福建の一部及び梧州市に住む蜑民について調査が始まった。これらの報告結果を合計すると、93万人以上を数える。この調査が行われた1950年代のはじめは社会混乱の時期に当たるため、この人数はそれ以前を大幅に下回るものであろう。このことから、1930年代の戦乱期以前における全中国の蜑民は少なく見積もれば100万人、多く見積もれば200万程度と推察される。
 蜑民の地域分布に関しては唐宋から明清にかけて変化があり、清末より民国にかけても変化があった。即ち、蜑民は明代以前においては広州・廉州・欽州・福州などの沿岸に集中していた。明清代では広東を中心にして広西の西江流域と福建の県・侯県及び沿海域に分布していた。清末の五港開港と香港島割譲に伴って広州・香港・厦門・福州の蜑民は激増したと推定される。民国になると、福建では江流域の沿岸、泉州湾と南沿海域に蜑民が分布する。広東では珠江流域と沿海一帯に多かった。広西では西江と北江に蜑民が存在する。新中国建国以後、政府による蜑民の陸上定住化政策が行われたため、蜑民の分布範囲は縮小し、人口も減少する。〔後掲王2021-03 20-21枚目 p66-67〕

 アヘン戦争後、南京条約によって広州・厦門・福州・上海・寧波五港を開き、香港を割譲したことは蜑民の生活に新しい段階を開き、港湾への依存度を高くさせた(72)。すると、清末になって福建と広東の蜑民は厦門・福州・広州・香港により多く分布するようになった可能性がある。民国における蜑民の地域分布について、陳序經は「福建では沿海と江に蜑民が存在し、福州が最も多い。広東では蜑民の地理的分布は三つにわけられる。第一は珠江流域、広州を中心として、珠江の本流である西江・東江・北江にまたがり、その地域で蜑民が多いのは番禺・南海・三水・順徳・香山・新會・東莞の各県にわたる。第二は沿海一帯、東は汕頭より西は北海に及び、海南島の沿海一帯などのあたりにも分布している。かつて欽州・廉州・恵州の海岸に多かったが、現在は香港・澳門が多い。第三は韓江流域、韓江の上流に蜑民が多かったが、近年では大幅に減少している。その原因としては、韓江の水流が浅くて激しくなったためと考えられる。もしくは客家と潮州人が蜑民の生業をうばったことであろう。広西では梧州から南寧に至るまでの大江、及び梧州から柳州にかけての北江に蜑民の足跡がある」73と述べている。この見解は概ね同意できるが、本節の検討結果に基つき、蜑民の分布地域をさらに加えることができる。民国期の福建省人口調査が示しているように、福州を中心とする江流域の河岸・海岸と泉州湾を中心とする泉州・興化、及び厦門や州を中心とする南沿海域の付近に多くの蜑民が集まっていた。さらに注目したいのは、福建蜑民の分布は江の上流一帯に位置する南平・建甌・順昌・光澤・建陽・泰寧に及んでいる点である。〔後掲王2021-03 19-20枚目 p65-66〕

※原注 72 前掲『漂海民』、185頁  73 前掲『民的研究』、52-54頁
 35 谷川健一編『日本民俗文化資料集成(3)漂海民-家船と糸満』(三一書房、1992年)、318頁
 07 陳序經『民的研究』(商務印書館、1946年)、46-47頁;韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」(『厦門大学学報』第 5 期、1954年)

9-4 近現代

其南江上又有曰蛋戸者、岸無室廬、耕鑿不事、男婦皆以舟楫為居、捕魚為業。舊時生齒頗衆、課隸河泊、近或苦於誅求、逼於盜賊、輒稍稍散去。或有棄舟楫入民間為傭保者矣〔黄一龍修・林大春纂『(隆慶)潮陽縣志』(上海古籍書店、1982年)巻8・風俗志・郷間之俗、3頁←後掲王2023 注52〕

 

蛋之苦、宣自今日哉。差遣頻、並逃籍求生、蓋自元已然矣。國朝正德間、蛋止三十二戸、乃漸增至三百餘。……嗣後興兵、差重逃亡、至什之九。……〔姚舜牡『来恩堂草』卷4・論蛋船(北京出版社、1997年)、71頁←後掲王2023 注52〕

 

萬九年秋八月行清丈法。珠賊殺永安所田千戸。後討斬之。縣原於附海地方設烏兔・多浪・村埠以居蜑民、捕魚課、後為流商所煽、造船盜珠。是年潛殺官兵。〔9 鍾喜修・江珣纂 『(民国)石城縣志』(成文出版社、1974年)巻10・紀述志下・事略、936頁←後掲王2023 注53〕

 

 特に嘉靖朝以降、廣東蜑民の中にはこうした重圧を受けて、船を捨てて上陸して雇工(長工・短工)となったものがあった(52)。真珠を盗むことを生計とする者(53)や、倭寇・海寇と結んで民衆を劫掠する者も現れた。萬年間(1573-1620)には、明朝廷の圧迫に対抗する蜑民が反乱を起こすに至る〔後掲王2023〕

9-x 現代対応

 定住を一義的に定義できないのと同様、「遊動民の定住化」がいかなる状態から別のいかなる状態への変化を意味するのか説明することは容易でない。定住用地・家屋の供給とそこへの移住の要請、居所登録の義務化、就学年齢に達した児童の通学提唱といったことに共通項が見られるとしても、もとの生活圏(や代替空間)において相対的に遊動的な生活・生業形態を部分的に維持することが許されるか否かについては、大きな偏差が認められるからである。たとえば、遊動民のもとの生活圏が他者と競合するような魅力的な空間である場合、そこは国家や他民族によって占拠・奪取され、遊動民はそこへの物理的な接近が拒まれることがある(この状況は、狩猟採集民・遊牧民・焼き畑農業民に多く見られる)。これに対し、アジアの船上生活者やヨーロッパのロマなどについては、河や海、都市の空き地といったもとの生活空間が広大で他者との共存が可能であったり、あるいは他者の目にはさほ
ど魅力的と映らなかったりすることから占拠・奪取の対象となりにくい傾向にある。この場合、もとの生活空間は物理的にはそのままに広がっているが、遊動民自身の動きが定住本位型の管理下におかれて、そこでの自由かつ越境的な移動が制限される状態にあるということになる。ここで理解しておくべきは、こうしたグラデーションのあるさまざまな事態を、為政者や研究者、そして当事者が総じて「定住化」という言葉で呼び表してきたということだろう(cf. 鈴木 2016; 左地 2017; 丸山 2018)。〔後掲藤川2020 2枚目p107 注1〕

※原注 鈴木 佑記 2016 『現代の “ 漂海民 ”―津波後を生きる海民モー
ケンの民族誌』めこん。
左地 亮子 2017 『現代フランスを生きるジプシー―旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』世界思想社。
丸山 淳子 2018 「先住性と移動性の葛藤―ボツワナの狩猟採集民サンの遊動生活と土地権運動」『先住民からみる現代世界――わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』深山直子、丸山淳子、木村真希子(編)、pp. 245-264、昭和堂。

 東南アジアでは、フィリピン南部のスールー諸島やマレーシアのボルネオ島東岸、インドネシア東部のスラウェシ島に広がる海域のサマ・バジャウ、あるいはミャンマー南部からタイ西岸にまたがる海域のモーケンが、船に住まう人々としてよく知られる。さらに、日本の海でも、瀬戸内のノウジ・フタマド・フナズマイ、大分のシャア・フナヤ、長崎のエフネ・エンブなど、「家船漁民」と総称される船上生活者が数多く存在してきた。あるいは中国では、江蘇・浙江・福建・広東・香港・広西といった中国東南部の海・河川・淡水湖に漁業や運搬業を営みながら船に住まう人々がおり、各地でさまざまな呼称を当てられてきた。彼らは現代中国語においては「水上居民」と呼ばれている。〔後掲藤川2020 2枚目p107 注2〕

船上生活者の文明化は、最終的には彼らの居所を水上の船から陸上の家屋へと引き上げることを企図する定住化政策へと結実していった。実際のところ、アジア各地で船上生活者の定住化政策と表現されるものは土地・家屋の供給と居所の登録、就学年齢児童の通学提唱などにとどまっており、定められた地理的範囲内でありさえすれば、生業選択の結果として船での移動的な生活を継続すること自体が厳格に禁じられることはほとんどなかったといってよい(cf. 草間 1987(1929); 水野 2003; 石井 2004; 床呂 1999; 鈴木 2016)。とはいえ、定住化の過程は船上生活者にとってみれば、本来は多様な生き方のうちの一つにすぎなかったはずの水上における越境的かつ漂泊的な住まい方が、法律・科学知により「非文明的」と断定されるとの経験をもたらすものであった。〔後掲藤川2020 3枚目p108〕

※原注 草間 八十雄 1987 「水上労働者と寄子の生活」『近代下層民衆生活誌Ⅲ 不良児・水上労働者・寄子』明石書店(1929『水上労働者と寄子の生活』文明協会)。
水野 真知子 2003 「水上生活者の子どもと地域の学校」『地域の教育の歴史』千葉昌弘、梅村佳代(編)、pp. 113-141、川島書店。 
石井 昭示 2004 『水上学校の昭和史―船で暮らす子どもたち』星雲社
床呂 郁哉 1999 『越境―スールー海域世界から』岩波書店。
鈴木 佑記 2016 『現代の “ 漂海民 ”―津波後を生きる海民モーケンの民族誌』めこん

(上:写真3)Sm漁業社区内の集合住宅群 (下:写真4)市内に建設された低家賃住宅群〔写真3・4←後掲藤川2020 3・4枚目p112-3〕

その後、現・Sm 漁業社区の敷地内には 1999年までに合計30棟の集合住宅が建設されたが(写真3)、後発的にこの定住用地へとやって来た 4,000 人超の連家船漁民にとってこの土地はあまりに狭小であった。したがって、家屋を得たいと望む連家船漁民は、龍海市内外に分散して、農家の一室や市街地の分譲アパートの購入・賃借に奮闘してきた。それが叶わぬ場合には、最低生活保障の一環として市内に建設された通称「廉租房」(=低家賃住宅、写真4)9 への入居を申請するなど、彼らは陸上の家屋を獲得するために、涙ぐましい努力をしてきたのだ。そのためか、2011年の時点で、陸上に一切の居住空間を有さず、水上の漁船や川岸に固定した廃船を住まいとする連家船漁民は、20世帯ほどあるのみであった(写真5)(10)。つまり、1960 年から本格的にはじまった陸上定居から約50年の間に、連家船漁民
の約99%が、何らかの形で陸上の家屋を保有するようになったのである(11)。〔後掲藤川2020 3-4枚目p112-113〕

※原注 10 Sm 漁業社区の住民を代表する党支部書記への聞取りと筆者の目視による。これらの世帯は、戸籍の居所欄に「小船」と記載されていた。
11 なお、Sm 漁業社区居民委員会では、社区敷地外に暮らす人々の戸籍も敷地内に暮らす人々と同じように管理しており、両者ともにこの居民委員会をとおして同等の行政サービスが受けられるようになっている。住民の実際の居住空間と、住民の戸籍を管理する行政単位が正式に有する区画が一致しない状況は、近隣の他社区や農村と比べて連家船漁民を独特な存在に見せる要素ともなっている。

Sm漁業社区内の川岸に固定された住まいとしての廃船〔写真5←後掲藤川2020 4枚目p113〕

1978年の改革開放以降、組織による労働分配は終わりを告げて生業の選択が個人に任せられるようになったにもかかわらず、Sm 漁業社区に属する連家船漁民のうち、漁撈や漁獲物の水上運搬、大型船で各地へ赴き河底から砂を掘削・運搬する仕事といった水上労働の従事者は 1,677人おり、これは全労働力人口の実に 77.3% に値する数に上るのである12。表1からもわかるように、彼らの間で見られる水上労働とは、その労働形態の種別にかかわらず、一定期間の船上生活と船での移動をともなうものである。
 ここには、もはや陸上で育った経験しかもたぬ 1960 年代以降生まれの若年層(20 ~ 50 代までと、この層はとても厚い)も含まれている。彼らもまた、両親の漁船を譲り受けたり、両親の援助を受けながら大型漁船を新造して船員を雇ったりするなどして船上生活へと参入しているのである。さらに、陸上の家屋の存在は、(少し意外なことかもしれないが)連家船漁民の活路を水上にも広げることに寄与している。なぜなら、家族を陸上の家屋に残して単身、省や国を跨いで航行する船へと新たな労働の場を求めることが可能になったからである。これらは、「過去の船上生活の残存」、あるいは「船上生活からの脱却の失敗」といった例外事項と見なして等
閑視できるような数をはるかに凌駕する、継続的な現象なのである。〔後掲藤川2020 8枚目p113〕

※原注 12 この数値は 2006 年に Sm 漁業社区が発表した統計データに基づくが、2019 年現在もそれほど大幅な変化があるようには見受けられない。

表1 Sm漁業社区の連家船漁民が従事する水上労働
漁船の種類移動生活の期間/活動場所/作業/全長×幅×深さ(m)/材質/船に暮らす人数
①手抛網漁船/1日(朝~夕方)/九龍江内部/投網漁/5.8×2.2×0.8/木造/2人(夫婦)
②小型掃簾漁船/1日(朝~夕方)/九龍江内部/小型船での刺し網漁/6.0×1.4×0.8/木造/2人(夫婦)
③灯光漁船/3~7日/九龍江河口~厦門島附近の海域/集魚灯を用いた漁/21.9×5.2×2.0/鉄製/3~4人(夫婦+子)
④虎網漁船/15日~3か月/九龍江内部/大小/3艘の船での流動定置網漁/母船:10.0×3.5×1.0/木造/2~3人(夫婦+子)
⑤鈎釣漁船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/延縄漁/9.5×3.0×1.0/木造/2~4人(夫婦+子)
⑥中型掃簾漁船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/中型船での刺し網漁/7.0×2.1×0.8/木造/2~3人(夫婦+子)
⑦[テヘン+ケ/也]蝦船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/エビ引き網漁/15.0×4.3×1.75/木造/3~4人(夫婦+子)
⑧籠壷漁船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/鉄製の枠とナイロン製の網で作られた円筒状の網を水に沈めて魚を捕る漁/18.3×5.0×1.8/鉄製/3~4人(夫婦+子)
⑧単[テヘン+ケ/也]網漁船/3か月~6か月/台湾海峡/連家船漁民がオーナー、船長を務める大型船/1艘での底引き網漁/22.3×5.3×2.35/鉄製/7~15人(主に男性)・1艘
⑨双[テヘン+ケ/也]網漁船/3か月~6か月/ー/連家船漁民がオーナー、船長を務める大型船/2艘での底引き網漁/29.5×7.2×3.7/鉄製/7~15人(主に男性)/1艘
⑩運魚船/1日~1か月/九龍江河口~厦門島附近の海域漁船が捕った漁獲物を船上で買いとり、運輸船で厦門島内などの魚売り商人の所まで運ぶ/17.8×4.2×1.55/鉄製/2~3人(主に男性)
⑪交通船/1か月~3か月/厦門島附近の海域/海上・海中での工事に従事する人を陸から現場まで運ぶ/木造の漁船を用いる/木造/2人(夫婦)
⑫砂船/3か月~6か月/九龍江内部・福建省沿海・広西チワン族自治区沿海/農村出身経営者に雇われて大型船に乗り、川底あるいは海底の砂を掘削・運輸/30.0×13.0×6/鉄製/個々人で契約(主に男性)
⑬貨船/6か月~2年/アジア各地/福建省籍の貨物船に雇われて各地に貨物を運ぶ/-/鉄製/個々人で契約(主に男性)
〔後掲藤川2020 9枚目p114〕

家屋の獲得を渇望する一方で、連家船漁民の大多数が長期間の船上生活をともなう水上労働に従事しているという事実――。筆者には、この一見矛盾するかに見える状況こそ、水上空間に比して低リスクであるように(地方政府にも、連家船漁民自身にも)見えていたはずの陸上が、蓋を開けてみたら多くの連家船漁民にとっては(少なくとも水上と同程度には)、リスクの高い空間であったことの証左であるように思われる。なぜなら、(彼ら自身はそれがリスクだと明言することはないが)生業・生活の場を陸上のみに限定することを、多くの連家船漁民は実に注意深く避けているように見えるからである。〔後掲藤川2020 8枚目p114〕

結果として、Sm 漁業社区の狭小な敷地内に集合住宅を得る機会のなかった連家船漁民は、近隣の農村の農家や市街地のアパートの一室を購入あるいは賃借するように動いており、2018 年までに、ごく少数を除く約 99%の家族が、何らかの形で陸上に生活空間を有するという状況にある(約1%は船に居住)。
 しかし、このことは、連家船漁民の間に「水上での移動から陸上での定住へ」という単方向的な動きや、定住地や家屋への束縛という動きを生み出すことにはならなかった。なぜなら、2006 年の時点で Sm 漁業社区の全労働力人口のうち、実に 77.3%が水上労働(漁撈・漁獲物の運搬・砂の掘削・高速船や貨物船の乗組員)に従事しており、それ以外の連家船漁民もまた、個々人や家庭内で、水上での移動を基礎とした生活・生業を担保する船(や、それに付随する操船免許など)を維持したり、新たに購入したりして、水上の船で住まいながら生きるための道を常に開きつづけているからである(藤川 2016; Fujikawa 2018)。〔後掲藤川2019 8枚目p52〕

※原注 藤川 美代子 2016 「福建の船上生活者にとって「家」とは何か――ある家族の年代記から」『物質文化』96: 45-58。
  Fujikawa, Miyoko 2018 “Continuing to Live on the Water: The Meaning of Land Residences for Boat Dwellers in Fujian, China,” Journal of Marine and Island Cultures 7(2): 126-149

事例1:張チンユェ
 張チンユェ(1969 年生・男性)の両親はともに漁船で生まれ育ったが、成人してから父は生産大隊の管理職として、母は漁村内の各種工場で働くなどして、ともに陸上での労働に従事していた。チンユェは陸上の病院で誕生した後、父方祖母・父母・(後に誕生する)弟妹とともに Sm 漁業生産大隊の敷地内に分配された集合住宅に住んでいた。小学 1 年生を何度か留年することになり「勉強は向いていない」と考えたチンユェは小学校を自主退学した後、近隣の農業生産大隊へ出向いて建築現場でレンガ運びの仕事をした。12 歳になるとSm 漁業生産大隊の木造機帆船で外海へ行き、漁を手伝ったが、16 歳まで労働点数は加算されぬままだった。生産責任制になると、生産大隊の木造機帆船 2 艘がチンユェの母の父方イトコ(MFBSe)に払い下げられ、彼の兄弟やイトコ約 10 人が株主としてこの 2 艘を共同経営することになった。1 艘につきチンユェを含め 20 人以上の連家船漁民が雇われ、台湾海峡へ出て漁をした。毎回の漁獲高に、株主や乗組み員の勤務年数・技術の高低によって定められた比率をかけて計算される給料は、漁の出来に依存するため不安定だが、工場労働に比べるとよいと感じていた。
 しばらくすると、株主同士の関係が悪くなり居心地が悪くなったチンユェは、別の連家船漁民が購入した新造の鉄製機帆船に雇われ、台湾海峡で漁をした。その間、チンユェは龍海市 Fg 鎮で集団化されていた連家船漁民の妻と結婚し、それを機に父母や弟妹たちと住んでいた集合住宅を両親から譲り受けることになった。
 やがて、不安定な機帆船の給料に不満を感じるようになったチンユェは、水産品冷凍工場で魚を絞める職に転職した。休日もなく毎日出勤しなければならなかったが、給料は安定していた。ところがリーマンショックの煽りを受けて 2010 年に工場が閉鎖したため、もとの機帆船へ戻ることにした。「字も書けないし、頭もよくない。陸にいてもあまりいい職業に就くことができないし、経験のある機帆船が結局のところ、一番お金が稼げる」と考えたためである。
 その後、龍海市内の市街地で三輪車を漕いで客を乗せる仕事が儲かりそうだと聞き、チンユェは借金をして三輪車を購入。働く時間が自由なのが性に合っていたが、電動機付き三輪車に規制がかけられたり、ナンバープレートの購入を義務づける営業許可制が採られたことで思ったよりも金が稼げず、やむなく三輪車の営業を停止し、妻とともに近隣の鎮の水産品加工工場で働くようになった。家計が立ち行かなくなれば、また機帆船に乗ればよいと思っている。〔後掲藤川2020 9-10枚目p114-5〕

1950 年代ごろから世界各地の遊動民が同時代的に経験することになった本格的かつ厳格な定住化の圧力とは、多くの場合、「広大な範囲に及ぶ故地からの排除と、狭隘な定住用地への再配置」という二つの要素を伴っていたという点である。とりわけ、もとの生活の場が他者と競合するような魅力的な空間である場合、移動性の高さを理由に遊動民の故地に対する所有権が認められず、結果的に故地全体が国家や他民族によって占拠・奪取され、物理的な接近が阻まれるという事態も起きている(この状況は、狩猟採集民・遊牧民・焼き畑農業民に多く見られる。これに対し、アジアの船上生活者やヨーロッパのロマなどは、河・海の岸辺、都市の空き地といったもとの生活空間が他者の目にはさほど魅力的と映らぬために占拠・奪取の対象となりにくい傾向にある。この場合、故地の空間はそのままに広がっているが、厳格な管理下におかれて故地への接近と自由な移動が制限されるという状態がつづくことになる。とはいえ、こちらも近年の都市開発などによって故地の空間が改変され他者によって占拠されはじめている)。しかし、近年の遊動民研究がいみじくも明らかにしているのは、他者による故地の占拠・奪取の有無にかかわらず、多くの地域で遊動民の定住化は、「故地への回帰と自由な移動の回復」を求める動きの出現へと帰結したことである。なぜなら、遊動民の多くは定住地だけに根づくことを拒否して、たとえ故地への完全なる回帰が叶わずとも、管理の網の目をくぐり抜けながら、まるで定住地の範囲からじわじわとはみ出すかのように新たな形で移動を再開したからである(cf. 鈴木 2016; 左地 2017a; 藤川 2017; 丸山 2018)(1)。〔後掲藤川2019 3枚目p47〕

※原注 (鈴木2016未掲示)左地 亮子 2017a 『現代フランスを生きるジプシー――旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』、世界思想社。
  藤川 美代子 2017 『水上に住まう――中国福建・連家船漁民の民族誌』、風響社。
  丸山 淳子 2018 「第 10 章 先住性と移動性の葛藤――ボツワナの狩猟採集民サンの遊動生活と土地権運動」、深山直子・丸山淳子・木村真希子(編)『先住民からみる現代世界――わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』、pp. 245-264、昭和堂。

1 たとえば、ボツワナの狩猟採集民サンは、かつて野生動物を追いながら、植物の生育状況や水の有無を見極める形で広範な原野を移動する生活を送っていたが、恒常的な家屋を建てたり、長期にわたり一定の土地を利用したりしないという生活形態のために故地を奪われることになった。なぜなら、家屋や農地を一所に定めることこそが土地の所有であると考える国家内マジョリティ(多くは、農耕民)から見れば、サンが生活していた広大な原野は無主物の「空き地」そのものであり、ボツワナの独立後は、経済効果を有さぬサンの狩猟採集活動のためにその土地を眠らせて(・・・・)おくよりも有益であるとの正当性を付与された上で、他民族の領地・国有地・商業用地として使用されたからである。その代わりにサンに与えられたのは、遊動生活を送った故地から遠く離れた狭小な定住地であり、彼らはそこで「貧困状況の改善」・「国民化」の実現のためという名目で定住化を促され、マジョリティ社会への同化と包摂が目指されることになった。これは 1980 年代に入ると先住民の権利回復にかかわるグローバルな動きと連携しながら、定住地から故地としての原野への回帰、自由な移動と狩猟採集を可能にする形の土地利用の復権を目指す運動を引き起こしている。実際のところ、分割所有という定住民的な発想に基づく土地利用の理解や、定住地での生活に起因する貧富の格差などが原因となり、希望するサン全員の故地への回帰は実現していない。しかし、多くのサンは故地の原野への回帰が叶った一部の人との間に社会関係を構築しながら、定住地の住まいと原野と往来しながら原野での自由な移動を回復しつつあるという(丸山2018)。〔後掲藤川2019 3-4枚目p47-48 注1-1〕

※原注 丸山 淳子 2018 「第 10 章 先住性と移動性の葛藤――ボツワナの狩猟採集民サンの遊動生活と土地権運動」、深山直子・丸山淳子・木村真希子(編)『先住民からみる現代世界――わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』、pp. 245-264、昭和堂。

(続)マヌーシュと自称するフランスのジプシーは、キャラバンで移動しながら定住民を相手に手作りの蔓製品・木製品販売や金属加工、家具修理、音楽・サーカスの興行、季節労働などを提供していたが、1960 年代ごろから都市の周縁部に集合宿営地を与えられ、そこでの集住を強いられることになった。この段階では、家庭ごとにキャラバンに住まいながらの集住が目指されたが、2000 年代以降は、国民の均質化を目指す福祉政策の一環として「適合住宅」と呼ばれる固定された家屋から構成される集合宿営地が新たに登場している。しかしながら、マヌーシュの定住化とフランス国民化を目指したはずの宿営地は、彼らをより広範囲の「旅」へと導くことになっている。多くのマヌーシュはキャラバンを保持することで、家屋を拠点として、親族訪問や巡礼のために外国を含む外部へと家族で出かけていくから
である(左地 2017a, 2017b)。〔後掲藤川2019 4枚目p48 注1-2〕

※原注 左地 亮子 2017a 『現代フランスを生きるジプシー――旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』、世界思想社。
2017b 「フランスにおける移動生活者のための「適合住宅」政策――居住福祉を通したマイノリティの社会的統合の試み」『居住福祉研究』23: 49-61.

(続)タイとミャンマーの国境付近の海で、ナマコや夜光貝の捕獲をしながら季節によって船と島の杭上家屋とを使い分けながら生活していたモーケンは、1980 年代に生活圏の海域が国立公園に指定されたことを皮切りに、船での自由な移動を制限されて潮間帯の杭上家屋に定着した生活を余儀なくされた。さらに、2004 年のインド洋津波によって杭上家屋が倒壊すると、潮間帯での家屋の建設が禁止され、より陸地側に比較的堅固で恒常的な家屋が設置されることになった。とはいえ、モーケンたちは現在も国立公園化された海域において監視の目をくぐり抜けながらナマコ漁などをつづけているという(鈴木 2016)。〔後掲藤川2019 4枚目p48 注1-3〕

※鈴木2016未掲示

遊動民研究の多くは、遊動民に対する定住地への再配置やそこでの家屋の分配を、遊動民に定住を強制して主流社会へと同化させるための手段として論じてきた。つまり、遊動民はしばしば国家の管理・統治の犠牲者として描かれ、実際には彼らが他者の土地あるいは無主物としての空き地を占拠・奪取することによって設けられたはずの定住地そのものに対する彼らの感覚や、彼らの定住地における定住的な(・・・・)実践は等閑視されるか、副次的な問題として言及されるにとどまっている(2)。〔後掲藤川2019 4枚目p48〕

2 例外的に、特に後者の問題について熱心に論じてきた分野がある。それは、中国で「水上居民(=水上に住まう者)」と総称される船上生活者に関する研究である。中国において、①土地・建物を陸上に直接所有せず、②小船を住居にして一家族が暮らす、③海産物を中心とした採取活動に従事し、獲物の販売や農作物との交換で生計を立てる、④一カ所に長くとどまることなく、一定の水域を絶えず移動するという特徴(羽原 1963: 2-3)をそなえる水上居民は、その生活・生業形態が特異であると見なされ、定住と農耕を本位とする漢族から構成される主流社会のごく周縁へと追いやられながら、野蛮で遅れた民族として差別されてきた。この状況を重視する多くの研究者は、1960 年代以降、共産党政権下の集団化の過程において各地で実施された水上居民の定住化政策について、水上居民が被差別的状況を脱するための契機と捉えてきた。そうした視点からは、水上居民が陸上の定住地でおこなうさまざまな実践(たとえば、祖先祭祀や神明祭祀)は、陸上の漢族社会への同化を目指しておこなわれるものと理解され、反対に現在も一部の世帯でなおつづく船上生活は、「陸上世界への適応の失敗」として等閑視されることになっている(cf. 黄 2015(引用者追記:2005の誤記?); 長沼 2010a, 2010b, 2013; 稲澤 2016; 胡 2017)〔後掲藤川2019 4枚目p48 注2〕

※原注 黄向春 2005 「歴史記憶與文化表述――明清以来江下遊地区的族群関係與儀式伝統」、厦門大学人文学院歴史系中国近現代史専業博士学位論文。
  長沼 さやか 2010a 『広東の水上居民――珠江デルタ漢族のエスニシティとその変容』、風響社。
   2010b 「現代中国における宗族新興の可能性――広東珠江デルタの水上居民を例に」、小長谷有紀・川口幸大・長沼さやか(編)『中国における社会主義的近代化――宗教・消費・エスニシティ』、pp. 277-298、勉誠出版。
   2013 「祖先祭祀と現代中国――水上居民の新たな儀礼の試み」、川口幸大・瀬川昌久(編)『現代中国の宗教――信仰と社会をめぐる民族誌』、pp. 185-202、昭和堂。
  稲澤 努 2016 『消え去る差異、生み出される差異――中国水上居民のエスニシティ』、東北大学出版会。

 このように、彼らが個別的かつ段階的に家屋を獲得してきたことは明白であるにもかかわらず、Sm 漁業生産大隊から Sm 漁業社区へと連なる組織に属する連家船漁民は、集団として、土地と家屋獲得に関する一元化された公の物語を有している。それは、以下のようなものである。
1959 年 8 月 23 日、五十余年に一度の巨大台風(通称「八・二三」)と高波が九龍江一帯を襲い、連家船漁民のうち 132 人の同志が溺死し、漁船 327 艘(漁業生産大隊全体の 75.6%)が破損するという大惨事に見舞われた。これを機として、共産党と人民政府は連家船漁民の定住問題に関心を寄せ、1960 年に 14 万元を投じて現在の Sm 漁業社区敷地内に 2 階建ての集合住宅を 2 棟(計 2,960 ㎡)建設し、116 戸 348 人の陸上定住を実現した。
 連家船漁民にとって、これは二つの重要な点を説明する物語である。なぜなら、これは一定の範囲にわたる定住地の割譲と開発・集合住宅の建設と分配が、①具体的な死者の名と損失額の数値を伴う甚大な自然災害の犠牲に端を発していること、そして②船に住まうという自分たちの居住様式上の問題に対する共産党および(地方)人民政府の配慮と救済に基づく措置であったことを強調するものだからである。すなわち、(自らが長年抱きつづけてきた宿願がいかなるものであったにせよ、そして社会主義体制下における土地所有の形態がいかなるものであったにせよ)、自らが主体的に申し出ることによって他者の土地を譲渡させたのではなく、制御不可能な自然災害によるやむを得ぬ犠牲の正当な対価として、土地と建設費用を国家の名のもとに拠出してもらったとの見解を示す役割を、この物語は担っている。(続)〔後掲藤川 2019 9~10枚目p53-54〕

(続) 実際のところ、船上生活者に対する陸上定住化政策は、広東省各地でも浙江・江蘇・上海に跨る太湖周辺でも、1950 年代後半から 1960 年代前半にかけた集団化政策のただ中に開始されている(cf. 長沼 2010a; 稲澤 2016; 胡 2017)。つまり、建国前から財や権力をもたざる者たちのよき理解者であらねばならぬとの宿命を負いつづけてきた共産党政権にとって、船上生活者のような社会の周辺に位置し、相対的に貧困であるような人々に土地を割譲し、集合住宅を建設・分配する行為は、彼らの管理・統治を容易にするばかりか、「もたざる者の救済」という自らの責務を体現してみせる上で恰好の材料だったはずである。したがって、たとえこの時期に巨大台風が襲来しなくとも、別の事柄が連家船漁民の陸上定住政策の契機となったことは想像に難くない。だが、こうした政治的背景とは異なる文脈で、連家船漁民によって語られる九龍江河口一帯の地域限定的な「八・二三台風」の物語は、彼らが元来は他者(=農民)に由来するはずの土地を、長年占拠しつづけてきたことに対する彼らなりの正当性の根拠を示す、一種のエクスキューズとして機能しているのである。〔後掲藤川 2019 10枚目p54〕

※原注 長沼 さやか
 2010a 『広東の水上居民――珠江デルタ漢族のエスニシティとその変容』、風響社。
稲澤 努 2016 『消え去る差異、生み出される差異――中国水上居民のエスニシティ』、東北大学出版会。
胡 艶紅 2017 『江南の水上居民――太湖漁民の信仰生活とその変容』、風響社。

 第3章「祭杷活動に見る連家船漁民の集団意識一共存する「宗族」・「角頭」・「大隊」では、 1)農村の始祖を中心とした父系的な系譜関係によって広範囲の人々をつなげる宗族組織の中に自らの位置を求めることで、自らを宗族の歴史の中に位置づけようとする連家船漁民の姿と、2)根拠港を同じくしながら、比較的浅い深度しか持たない祖先を中心として、父系の血縁的なつながりiこよって連家船漁民を結びつけていた角頭と呼ばれる同姓親族集団を通して、農村に広がる宗族の歴史の中に自らの位置を求めようとする連家船漁民の姿、 3)連家船漁民たちのみから成る角頭の集団の内部に自らの位置を確認しようとする連家船漁民の姿、そして、 4)従来、地縁的・血縁的なつながりlこよって連家船漁民たちを結び、つけていた漁船習や角頭の範囲を超えて、新たに現れた漁業大隊としづ集団の中に自らを位置づけることで、地域社会における自らの位置を確認しようとする連家船漁民の姿について注目する。(続)〔後掲藤川2014 3-4枚目〕

龍海での祭祀発展例▲▼

巡社が開始された経緯を見てみよう。先に概観したように、洗江は、落水事故が多発した時期から約 20 年が経過した 1990 年(=Zd 宮建立の年)に、端午節の儀礼とともに開始されていた。一方、巡社のほうは、Zd 宮の落成から実に 17 年後の 2007 年に初めて実施されている。そもそも、巡社という形式は福建南部ではごく普通におこなわれるものである。連家船漁民も、かつては根拠港のある農村で目にしていたという。そして、Zd 宮が完成し、Sm 漁業村(後の Sm 漁業社区)全体を庇護する神明を有した後は、自分たちも神明を集合住宅群へ招き、巡回してもらいたいと願うようになった。ところが、老人たちによれば、連家船漁民は長らく、神明による巡社を「勇気がなくてできなかった」。なぜなら、Sm 漁業大隊から Sm 漁業社区へと連なる組織が有する定住地は、「他人のもの(原語「別人的」)」であるという考えが、皆の頭から離れなかったからだという。つまり、定住地を得た後、実に約 50 年もの間、連家船漁民たちは自らが生活拠点を置く土地について、近隣の農村からの借りものだと考えつづけてきたのだ。「八・二三台風」の物語が示すとおり、この定住地は、現実には人民政府が Sm 漁業大隊に対して無償での割譲を決定し、行政上の手続きを経て正式に連家船漁民の手に渡った土地である。だが、連家船漁民は、制度の上では自らが使用権を有する土地であることを知りながら、気持ちの上では、きわめて長い間、自分たちの土地ではないという引け目のような思いを抱きながら生活してきたということになる。最終的に、連家船漁民の間で巡社を求める声が高まり、Zd 宮理事会における話し合いの結果、2007 年になって巡社が開始された。〔後掲藤川 2019 15-16枚目p59-60〕

以下では、毎年陰暦 5 月 5 日前後に Zd 宮を中心としておこなわれる端午節の諸儀礼のうち、「洗江 se gang」・「巡社 sun sia」と呼ばれる二つの要素に注目する。中国において、端午節とは愛国詩人の屈原を偲ぶ日として知られる。しかし、連家船漁民にとって、端午節とは、Zd 宮の主神である水仙王の誕生日を指すものであり、一連の儀礼は彼の誕生日を祝うためにおこなわれると認識されている。また、より重要なのは、端午節の諸儀礼は、「水上労働に従事する Sm 漁業社区の全成員のために、一年間の豊漁と安全とを祈願する」ことを目的とすると理解され、そこに Zd 宮で水仙王とともに祀られる媽祖その他の神明も登場するという点である。このうち洗江は、5 月 1 日と 5 日の午前中に龍船および漁船に Zd 宮の神明を載せておこなわれ、一方の巡社は 5 月 1 日午後、輿に載せた神明を Zd 宮から Sm 漁業社区内へと連れ出しておこなわれる。〔後掲藤川 2019 12枚目p56〕

Sm 漁業社区の連家船漁民が洗江を始めたのには、ある契機があった。1960~80 年代、この支流は漁港として機能し、それまで各地に分散していた連家船漁民が大小の漁船を停泊させるようになっていた(写真10)。しかし、この時期、漁港では不慮の事故が多発した。幼児や成人が船上で遊んだり洗濯したりしている時に足を踏み外して落水し、死亡するという事態が相次いで発生したのだ。彼らはこれを、河に蠢く「水中の邪悪なもの(原語「水鬼」)」の仕業であると考えた。「水鬼が、生きた人間を水中に引きずり込もうとして、落水事故が起こる。これを防ぐためには、漁港を「清潔(清気)」な状態にする必要があるが、それは人間の力では不可能だ。神明の力を借りなければ、清潔にはならない」というのである。このような思いがあって、Zd 宮の完成後、水仙王・媽祖・江王を龍船に載せて支流を往復することで、その内部を清気な状態に維持する試みが始まった。同時に、これは九龍江本流の漁船の停泊空間にまで拡大され、Sm 漁業社区の成員、とりわけ水上労働従事者の安全と豊漁を保障する役割を担うことになったのである。〔後掲藤川 2019 13-14枚目p57-58〕

図3 洗江の範囲〔後掲藤川 2019 15枚目p59〕
図4 巡社の範囲〔後掲藤川 2019 15枚目p59〕

 五月節の洗江と巡社は、Sm 漁業社区の空間とそれを示す境界とに密接に関わっている。図3からは洗江の実施範囲が Sm 漁業社区の漁船が停泊する空間に限定されることと、その範囲内では大小各漁船の間を隈なくまわって船を漕ぎ進める必要があることがわかる。すなわち、洗江は、福建省西南部(龍岩市)の山から台湾海峡へと注ぎ込む、きわめて長い九龍江本流と、Sm 街道のなかを縫うように流れる九龍江支流の中から、Sm 漁業社区に所属する連家船漁民が利用可能な範囲を画定していくかのように進められるのである。
 対する図4からは、巡社の範囲が九龍江支流の両側に建てられた集合住宅(および社区居民委員会事務所・商店・レストラン・診療所)の立ち並ぶ Sm 漁業社区の居住区域に限定されるものの、その内側では住宅群の間を細かく練り歩くように設定されていることがわかる。この巡社の範囲は、決して Sm 漁業社区居民委員会が戸籍を管理する者の居住範囲をすべて網羅するようなものではない。なぜならば、狭隘な Sm 漁業社区の敷地内には収容されなかった大部分の連家船漁民は、近隣の社区・農村に家屋を購入・賃借し、基本的には Sm漁業社区の外部に生活の基礎を置いているからである。したがって、巡社から浮かび上がるのは、連家船漁民が生活を営む
土地の範囲というより、彼らの所属する Sm 漁業社区という行政単位が正式に居住区として有する土地の範囲のほうである。すなわち、巡社は、後者の範囲を画定し、前者の範囲として読み替えた上で、その内部の平安を保つことにより、Sm 漁業社区に所属する成員全員の陸上での安全と平和を保障することが可能なものとして機能するのである。〔後掲藤川 2019 12-13枚目p58-59〕

農民との現実の差異▲▼

(続)1)に関しては、15世代以上という長い時間にわたって船で生活し続けてきたことを自認する連家船漁民たちが、その一方では自分たちが集団化以前に根拠地としていた港のある農村の農民との間にある宗族関係を辿り、そもそも自分たちは農村の出身であると主張する姿に注目する。ここからは、長い時期を経て幾度も中断や変更を余儀なくされてきたはずの各房共同で行われる祖先祭杷への参加や、具体的な日常生活の営みの中で繰り返されてきた口伝といった、一見すればきわめて不確定性の高い方法を通して、農村に暮らす農民たちとの聞に「同じ宗族の一員である」という集団意識を築き上げ、それを上の世代から下の世代へと伝えることが可能になってきたことがわかる。
 こうして農村の始祖を中心として各地に広がる宗族組織の全体像をより詳しく把握するのは、連家船漁民の中でも、年に 1~2回、農村の始祖の家廟を訪れて、宗族組織全体を代表する形で行われる祖先祭記に参加する資格を持つ、世代が上の者に限られている。いわば、宗族全体の歴史をより深く理解する立場にある彼らが、そうした知識をどのように下の世代へと伝えることを可能とするのが、 2)の角頭内部で行われる祭杷の場であった。ここからは、近接した根拠港を用いるとしづ地縁的なつながりによって連家船漁民たちを結び、つけていた漁船[封/口/巾](?)という集団の中にあって、比較的浅い深度しか持たない祖先を中心として、父系の血縁的なつながりによって連家船漁民を結びつけていた角頭と呼ばれる同姓親族集団によって行われる角頭庖の祭杷が、宗族全体の中で自分が何世代目に当たるのかについて、成員たちが不断に確認する場を提供していること、そして、上の世代の者が自らの知り得る範囲の宗族の歴史について、下の世代へと伝える役割を担ってきたことが理解できる。すなわち、角頭という同姓親族集団は、日常的には個々の家庭ごとに船に乗り、分散して漁をしたり、漁獲物を運んだりするといった生活を送る連家船、漁民たちと、農村の始祖を基点としながら父系的な系譜関係によってきわめて広い範囲の人々を結びつける宗族組織との聞を橋渡しするような働きをしていたと考えられる。農村に広がる、いわば大きな組織の中へと自らを同化させてして志向性を持つかに見える角頭[几王](?)祭祀というのは、その一方で、存命の最も世代の上の者から見て 3~5世代上の祖先を同じくするという連家船漁民のみで構成される角頭内部の関係性を強固にしながら、庖公に対してその成員全体の庇護を願う場としての役割も、持ち続けてきた。(続)〔後掲藤川2014 4枚目〕

(続) 根拠港のある農村社会との密接なつながりを保ちながら、基本的には家庭ごとに船に乗り、九龍江河口に分散して漁や漁獲物の運搬などに従事していた連家船漁民たちにとって、農村の宗族組織としづ巨大な組織を除けば、自らを位置づけて考える集団のうち、最大の単位となっていたのは、近接する根拠港を用しも複数の同姓親族集団、複数の作業グループ。から成る漁船[封/口/巾](?)であった。 1990年になって漁業生産大隊全体を庇護する[几王](?)公(神明)が登場したことと、それを機にはじめられることになった五月節(端午節)の一連の儀礼からは、連家船漁民たちが従来の角頭や漁船[封/口/巾](?)としう血縁的・地縁的な関係に支えられていたつながりを超えたより大きな範囲の中で、「われわれ意識」を築くことが可能になってきたことがわかる。各漁[封/口/巾](?)を超えたより大きな範囲の連家船漁民を結びつける、こうした「われわれ意識」というのは、現在は Sm漁業社区へと名称を変えた行政単位に所属する人々が、近隣の市街地や村の人々に相対する時に、自分たちのことを「漁業大隊的J(漁業大隊の者)と呼ぶことからもわかる。〔後掲藤川2014 4-5枚目〕

陸人の「まなざし」▲▼

 第4章「連家船漁民の眼に映る陸上の人々との差異-葬送儀礼と『祖公』をめぐる理解」で
は、船上から陸上へと生活の拠点を移した後の現在でも依然として、連家船漁民たちと周囲の農村や市街地に暮らす人々との聞には、葬送儀礼や祖先祭杷をめぐって大きな差異が存在していることに注目する。たとえば、葬送儀礼の内容を詳しく見てゆくと、死者の遺体に触れる行為のほとんどを土公仔と呼ばれる葬儀専門職に任せようとし、それが孝、すなわち親孝行であると考える周囲の農村や社区に暮らす人々と、そうした行為をすべて死者の親族の手で担うことこそが自分たちにとっての孝で、あると考える連家船漁民たちの間にある大きな隔たりについては、自分たちの方法のほうが農民たちのそれよりも優れているのだと自負する連家船漁民の態度を見出すことができる。ここからは、自分たちと陸上に暮らす人々との聞に依然として横たわる民俗事象の差異と、何を孝と見なすのかとしづ考え方の差異を冷静に見つめながら、自らは農民とは異なるものの、その差異は一方的に陸上の人々から蔑視され得るようなものなどではないのだと主張する連家船漁民の姿が浮き彫りになることがわかる。
 祖先祭杷については、紛失したら新たに準備するということを繰り返しながら現在まで伝えられている香炉と、比較的高い頻度でその場所が忘却されてゆく墳墓、ごく最近になって登場した遺影を除けば、農民たちゃ市街地の人々の間では一般的に保持されているはずの死者個人を記念するためのツール、たとえば族譜の記述や位牌、墓碑といったものが連家船漁民に伝えられていることはほとんどない。それによって、遡ることができる「祖公」(祖先)が 2~5世代上までに限られるという世代深度の圧倒的な浅さと、血縁関係でつながることもなく、同姓父系親族の範騰に入ることもない死者、さらには異常死を遂げた死者をも祖公として認めることができるとしづ緩やかな祖公の条件を持つことが、依然として連家船漁民たちと農民や市街地の人々との問を隔てる特徴であり続けている。〔後掲藤川2014 5-6枚目〕

 これらの事例から導き出されるのは、自分たちの存在や自分たちの慣習が、農村に暮らす農民たちや市街地の人々をはじめとする他者からは常に奇異の目、あるいは侮辱の眼差しで見られていることを身に染みて感じる一方で、連家船漁民たち自身は、そうした差異を「異質なもの」「奇怪なもの」と捉えようとする(研究者をも含む)社会的・文化的マジョリティの眼差しに完全に屈している訳ではないとしう重要な事実である。彼らのそうした姿に注目することこそ、研究者である私たちに、「社会的・文化的マジョリティである陸上の人々の前では、連家船漁民たちというのは常に一方的に社会の周縁へと位置づけられる、弱きマイノリティであり続けるほかない」という得体の知れない、それでいて、とてももっともらしい仮定から離れる契機を与えてくれるものにほかならない。〔後掲藤川2014 6枚目〕

 第Ⅲ部「水上/陸上のはざまで」の第5章「移動を続ける連家船漁民の暮らし」は、連家船漁民たちにとっての水上/陸上の境界性について、具体的に検討する部分である。(略)それにもかかわらず、依然として船での移動生活を続ける連家船漁民たちが大多数を占めているとしち事実は、何を意味するだろうか。(略)
 実に労働人口の 77%を超える連家船、漁民が現在でも水上労働に従事し、陸上で、育った経験しか持たない若年層の中にも、両親の後を継いで漁船での移動生活へと慣れ親しみ、最終的には漁船を譲り受けて独立した形で漁業を成り立たせてゆく者が多いことは、つまり、水上の世界が一方的につらく、貧しく、悲惨なものと認識している訳ではないことを示している。そこから見えるのは、水/陸としづ二つの世界の聞に、それほど明瞭な境界を設けずに、境界をいとも簡単に乗り越えながら、どちらにも跨った生活を営もうとする人々の姿である
 そもそも、連家船漁民/農民・市街地の人々・一般的な漁民という両者の問に、陸上に土地や[厂<昔]を持つか否か、あるいは人生の大半の時間を家族とともに船上で過ごすか否かといったことを指標としながら、明瞭な境界線を引いてきたのは、連家船漁民の側ではなく、それ以外の(研究者も含めた)他者であった。これに対して、連家船漁民の側は一貫して、「自分たちは討海人・掠魚人(漁民)である」といい続けてきたのだが、この言葉を借りるならば、連家船漁民たちにとっては、「陸上に住居を獲得しようがしまいが、自分たちは今も昔も、水・陸のはざまを生きる討海人・掠魚人であり続けている」ということになるだろう。(略)  水/陸の問に必要以上に境界を見つけ出そうとしているのは、見る者の視点に立ちたいとどこかで願っている私たちのほうなのかもしれない。その境界領域をまさにジグザグと縫うように歩き続けてきた者にとって、そこは、境界であって境界ではないような場所なのである。〔後掲藤川2014 7-8枚目〕

 現代中国の政治や経済は、目まぐるしく動き続けています。その中で、水上居民の人々は政府の救済を受けて集合住宅を獲得し、子女に義務教育を受けさせることが可能になり、工場労働に就く人や農村の人と結婚する人も現れました。そう聞くと、彼らも以前に比べてずいぶんと「普通」で「まとも」な暮らしを手に入れることができたと感じるかもしれません。私は、こうした変化を経た後の水上居民のもとに赴いて、生活を共にしながら人類学的なフィールドワークをつづけてきました
 そうするうちに、だんだん不思議なことが見えてきました。彼らの実に77%以上が、陸上の家屋を手に入れた後でも、内海や外海へ漁に出ていて、その大半は夫婦や家族で3ヶ月から半年もの間、出漁先に泊めた漁船で寝泊まりしながら過ごすことがわかったのです。休漁期に漁港へ戻っても、船で食事を摂り、昼間は船で網を修繕したり、洗濯物をしたりし、夜は漁具を見張るためだといってやはり船で寝るという人も多くいます。そう、彼らは陸上の家屋に、あまり居ついていないのです。水上居民の人たちにとって、水上と陸上の世界を股にかけて生活を営むことが自然で、充実したものであるように見えます。だとすれば、彼らの船上に住まうという生活や生業の形を、「悲惨」だとか「可哀そう」、あるいは「救済すべき」と見せかけているのは、誰の、どのようなまなざしなのでしょうか。〔後掲藤川(2025)〕〕

大型漁船に集まって、神明の誕生日を祝う水上居民の人々〔後掲藤川(2025)〕

連家船革命小史▼▲

 1949 年 8 月、福州市における国民党軍との戦いに勝利を収めた人民解放軍は、厦門や州に向けて南下を開始。その結果、9 月 25 日までに九龍江河口に位置する龍渓県・海澄県(当時)の全域が解放された。10 月になるとより河口に位置する厦門島と鼓浪嶼島に暮らす人々を解放する「解放厦鼓作戦」が決行されることになり、連家船漁民の中にもこの作戦に協力する者が現れた。彼らには、人民解放軍を複数組に分けて船に乗せ、二つの島まで運ぶために人員と船を出すようにとの命が下された。
 連家船漁民のうち、船体が大きく海洋まで出ることのできる流動定置網漁船に乗る者が召集の主な対象となり、その中から、漁船 157 艘、13~60 歳まで 128 名の前線支援船員(通称「支前船工」)が選ばれた。彼らは 10 月 5 日の夜、人民解放軍の指揮の下に九龍江河口を出発し、作戦中、24 名が殉死した。参加者 128 名のうち、後に 1名が特等功、25 名が一等功、35 名が二等功、69 名が三等功として認められ、称賛された(張 2009: 112; 張・張・藤川 2009: 142-152)。〔張2009:「厦門島・鼓浪嶼島解放作戦に殉じた烈士」(通称「解放厦鼓戦役支前工」)を讃える物語←後掲藤川 2019 10枚目p54〕

※原注 張 石成 2009 『連家船』、私家版につき出版情報なし。
  張 亜清・張 石成・藤川 美

サンダカン中心部〔航空写真〕
代子 2009 『即将逝去的船影――九龍江上「吉普賽人」史迹』、海風出版社。

集団化と陸上定住化の動きは、九龍江河口の複数の地域に広がって根拠港を有し、互いの間で婚姻をはじめとする有機的な関係を結んでいた大勢の連家船漁民を、合計 5 カ所に分断し(=上流は州市、中流は龍海市 Fg 人民公社と Sm人民公社、河口は厦門市・鼓浪嶼島にてそれぞれ集団化された)、集団化した先の土地へと定着させていくものであった。こうして登場した集団は、連家船漁民から見れば、自身の意志が及ばぬ政治的決定の結果としてもたらされた、従来の地縁的・血縁的紐帯をちぐはぐに分断・接続する形の、いわば「お仕着せ」のものでしかなかったはずである。だが、現在 Sm漁業社区に所属する連家船漁民について見れば、彼らは今日、地域社会において自らを「漁業大隊の者(原語「漁業大隊的」)」と称するようになっている。これは、明らかに、集団化政策のごく最終段階として 1960 年に登場した「Sm 公社 Sm 漁業生産大隊」に由来する呼称である。つまり、この自称は、彼らが政府から与えられた定住地で生産・生活をともにする経験を 30 年以上積み重ねるなかで、この新たに登場した巨大な共同体に対する帰属意識を着実に生み出してきたことを示すものである。
 政策の影響を大きく受けたこの共同体に対する帰属意識を体現するのが、1990 年に Sm漁業村(当時)の成員全体を庇護する神明として登場した水仙王・媽祖・土地公と、これらの神像を安置するための廟宇(=Zd 宮)である(写真4~6)。神明の所持や祭祀が禁じられる文化大革命以前、連家船漁民にとって、神明を共同で祭祀する最大の単位は根拠港を共用する数十家族に過ぎなかったことを考えれば、それらの区別を超越して、4,000 人余りの成員全員で神明をもつことになったというのは、きわめて画期的なことであった。〔後掲藤川 2019 11-12枚目p55-6〕

改めて、洗江・巡社がもつ意味を考えてみよう。前者は Sm 漁業社区の連家船漁民が船を停泊させる水上の空間を、後者は Sm 漁業社区が有する陸上の空間をそれぞれ自らのものと読み替え、利用可能な空間として受け容れるためにおこなわれている。いずれにしても、連家船漁民が儀礼の開始を望んでから実施が実現するまでには、20~50 年という長い時間を要しており、彼らは現実の生活でそれらの空間を共用する経験を積み重ねることで、そこを「漁業大隊の者」という「われわれ」の空間として受け容れることが可能になったといえる。つまり、端午節の洗江と巡社の実践は、連家船漁民が、本来は果てしなく広がる水上と陸上の空間の中から、自分たちの空間を選び出し、その境界を画定しながら、自らの内に受容していくための民俗的な方法として機能しているのである。〔後掲藤川 2019 16枚目p60〕

9-SD サンダカン

(マレーシア サバ州)

サンダカンでヒットする画像(2025年付)〔skyticket〕

サンダカンでヒットする画像(2025年付)〔トラベルブック〕

サンダカン/Jalan Buli Sim Sim北〔航空写真〕

GM.

サンダカン/Jalan Buli Sim Sim東〔航空写真〕

GM.

Sim Sim(シムシム)水上集落入口「LORONG H 森森第八橋」〔後掲Milly〕

サンダカンはリトル香港と呼ばれています。ブルネイの初代の王様は中国から来たと言われています。さらに鯖(引用者訂正:サバ)にあるキナバル山はシナバル山が訛ったと言われています。いずれにしてもボルネオ島のマレイシア領は中国との関係が深いです。〔後掲koujin〕

サラワク。
このボルネオ島の南西部にあ

原書及び映画「泥の河」〔後掲水運ネットウォーク〕
る地域は、19世紀半ば、イギリス人が個人的に所有するサラワク王国という国でした。(略)
インドに住む富裕英国人の御曹司として育ったジェームス・ブルックは、(略)ブルネイの統治下のサラワクに、足を踏み入れたのは、1839年8月15日の事でした。
その頃、クチンでは、新しく配置された総督への不信感から、現地の支配層のマレー人やビダユ族の叛乱が巻き起こっていました。
ジェームスが訪れた際、その総督より相談され、叛乱を鎮圧させた暁には、領土の一部をくれるとの事。ジェームスは、最初は興味を示さなかったそうですが、その総督による懇願に承諾し、一度、シンガポールに戻り、体制を整え、1840年に再度クチンを訪れ、首謀者たちと会談し、叛乱を鎮圧しました。
そして、1841年9月24日に、ジェームズ・ブルックは、サラワク王国のホワイト・ラジャ(白人王)として、国家を掌握したのでした。当初は、現クチン市近辺の小さな領土のみでした。〔後掲ドリ鍋〕

クチンより北東部の地域は、イバン族の首狩りが横行している地域で、特定の占有権がない事もあって、ジェームズ率いる現地人を含む軍隊が、首狩りのイバン族を制圧する為の起点となる場所に、砦を築いて行きました。これが、領土の拡大となり、2代目のチャールズ・ブルック(ジェームスの甥)の旺盛期迄(20世紀初頭)には、現在のサラワクの領土迄拡大しました。この数々の砦は、サラワク州内の市や町に、現存し、中には、政府の機関として使われている場所もあります。〔後掲ドリ鍋〕

19世紀にはイギリス人のジェームズ=ブルックと言う人物が北部ボルネオの北部のサラワクをブルネイ王から買い取って、自らサラワク王を名乗り、後にイギリス領に編入された。南部はオランダが進出し、その植民地とされた。(続)〔後掲教材工房 世界史の窓〕

1883年、イギリス領北ボルネオの首都がクダッからサンダカンに移された。〔wiki/サンダカン〕

1930年代には、木材の輸出量が年間180,000 m3となり、南洋材の世界最大の輸出港となった。〔wiki/サンダカン〕

多くの日本人には、からゆきさんを題材とした山崎朋子著「サンダカン八番娼館」で知られているのではないでしょうか。〔後掲ぴあ〕

(続)そのような植民地の歴史が前提となったため、イギリス領サラワクとサバは1963年、マレーシア連邦に組み込まれ、オランダ領カリマンタンは第二次世界大戦後に独立したインドネシア共和国領となった。インドネシアのスカルノは、サラワクとサバのマレーシア連邦への編入に反発してマレーシア連邦を承認せず、1965年にマレーシア連邦が国際連合に加盟すると、インドネシアは脱退した。〔後掲教材工房 世界史の窓〕

サンダカンでは大プロジェクト「サンダカンウォーターフロント計画」が進行中です。サバのプライムミニスターがサンダカン出身なのが関係してるのかどうかはわかりませんが、この小汚い港町を美しいウォーターフロントにするべく工事が徐々に進められています。あと何年かかるか分かりませんが、多分10年後にはサンダカンはすっかり変わっているでしょう。汚いけど愛着のあるbandar(ダウンタウン)はすっかりつぶされ、綺麗な建物が建っていることでしょう。不法移民の水上集落はビーチリゾートになる予定だそうです。それはもちろんサンダカン市民にとっては喜ばしいことです。この計画が達成された暁には、サンダカンは大いなる発展を遂げるでしょうから。〔後掲ぴあ〕

9-HL ハロン湾 Tp.Ha Long

(ベトナム ハイフォン北東沿岸)

ハロン湾がユネスコの世界自然遺産として認定される前、またハロンが観光に開放される前は、多くの人が湾で漁師として暮らし、生計を立てていました。〔後掲VIETNAM360〕

・ クアヴァン、ヴォンヴィエン、バハンの漁村を紹介

クアヴァンの漁村〔後掲VIETNAM360〕

・ やや規模は小さいと思われる。

9-JS 日本水上学校

(横浜市山下町)

かつて、横浜港や大岡川、その分流である中村川などには、ハシケ(艀)と呼ばれる積荷運搬用の小舟がひしめくように停泊していたという。
ハシケの持ち主の中には、船尾のスペースを使って日常生活を営んでいる者もいた。
彼らは「水上生活者」と呼ばれていた。
「水上生活者は、横浜港でハシケを使った運送業に従事する人たちでした」
昭和20年代から石川町に住み、中村川とともに幼少期を過ごした田…和さんと姉の今…江さん、そして中区山手町にある日本水上学園の園長・松…之さんにお話を伺った。〔後掲はまれぽ〕

1921(大正10)年、東京にある芝浦小学校(現・竹芝小学校)に、日本で初めて、水上児童のための「水上学級」ができる。
同校の「水上学級」の担任となった伊藤氏は、沖に出た両親と船が戻ってくるまで岸壁や材木の陰で野宿せざるを得ないという、水上児童の過酷な生活環境を目の当たりにし、寄宿舎併設の必要性を主張した。(略)伊藤氏は自らの足で土地を探し、資金を集め、1942(昭和17)年、横浜市山下町に「日本水上学校」を創設した。〔後掲はまれぽ〕

同校は1967(昭和42)年、25年間の歴史に幕を下ろす。その理由は、水上生活者の生活環境が向上したこと、そして、水上生活者が減少したことにあるという。
1967(昭和42)年3月23日の神奈川新聞によると、同校で行われた最後の卒業式について、16人の卒業生の両親は千葉や東京方面へ運送に出掛けているため、式に姿を現さなかったとし、さらに、その様子が「水上学校らしい光景」だったと記している。
なお、同校は水上生活者の子どものための学校としてはその役割を終えたものの、学校部門は学校法人「聖坂養護学校」へ、宿泊部門は児童養護施設として社会福祉法人「日本水上学園」へと引き継がれ、現在に至っている。〔後掲はまれぽ〕

※原典参考資料
・読売新聞(昭和42年3月22日)
・神奈川新聞(昭和42年3月23日)
・「横浜・中区史」(中区制50周年記念事業実行委員会)
・「横浜港史 各論編」(横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編)
・「横浜港史 資料編」(横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編)
・「写真集 昭和の横浜」(横浜市史資料室編)
・「昭和30年代の神奈川写真帖(上巻)」(アーカイブス出版編集部編)

水上生活者の住環境にも、さまざまな形態があったようだ。
田中さんは、当時通っていた市立石川小学校での出来事を語ってくれた。
「学校で家庭調査票の記入を求められたとき、ハシケに住んでいた同級生の女の子の家が『社宅』に分類されていて、すごく驚いたのを記憶しています。その子の家は、お父さんの勤めている運送会社から手配されているハシケだったようです。そのハシケは岸壁に固定されていて、内部には電気も通っていました」
どうやら、住宅用と、運送専用とでハシケを分けて使う者もおり、その中には、ライフラインの整った環境で生活を営んでいる者もいたようだ。
一方で、松橋さんによると、水上学校に通う児童の住環境については、「住所も定まっていないし、電気も電話も通じていない環境だったから、当時は家庭訪問するにも全く連絡が取れない状態だったそうです。『〇日△時に、だいたい××あたりに停泊してる』などのように約束を取り付けて訪問していたみたいです」とのこと。〔後掲はまれぽ〕

昭和の木製のハシケ。物干し竿が設置され、水上生活者たちの洗濯物がひるがえる(資料提供:日本水上学園)〔後掲はまれぽ〕

1859(安政6)年6月2日、横浜港が日米和親条約によって開港すると、土地を持たない農民が、横浜湾岸労働者としての職を求めて全国から一斉に集まってきた。ハシケ運送業者が土地を持たず、水上で生活するという習慣は、彼らによって根づいたのだろう。
開港直後は港の整備が不完全であり、強風が吹き荒れている間は、貨物船を着岸させての積荷の受け渡しが危険な状態であったという。そのため、貨物船があえて着岸をせず、沖合に停泊し、ハシケ運送業者が沖まで出て荷を受け取る、という形態が定着していったようだ。
田中さんによると、「横浜港の沖合に貨物船が停泊すると、ハシケ運送業者たちはタグボートと呼ばれる小型船でハシケを引っ張って、一斉に沖へ出て行った」という。〔後掲はまれぽ〕

イギリスの貨物船からハシケに荷が積み込まれている(資料提供:日本水上学園)〔後掲はまれぽ〕

生活の河
放送年度:1961年度
だるま船が都市輸送に重要な役割を果たしていた時代、隅田川の水上生活者の一家が船の生活と陸の生活の選択に悩みながら、支えあって生きる姿をユーモラスに描いた。社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてた「テレビ指定席」の枠で放送。当時公開された、戦争における人間性を描いた超大作映画「人間の條件 完結編」の脚本や、名作映画「名も無く貧しく美しく」で監督デビューした松山善三が脚本を手がけた。(全1話)
脚本:松山善三 音楽:木下忠司 〔後掲NHKアーカイブス〕

泥の河(1981年製作の映画)
上映日:1981年01月30日製作国・地域:日本上映時間:105分 ジャンル:ドラマ配給:松竹
あらすじ 1982年度アメリカアカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。 自主製作、自主公開という小さな取り組みから始まった本作は、欧米はもとより、旧ソ連邦、中国やアジア諸国にまでその配給をひろげて、今日でも名作として語り継がれている小栗康平監督のデビュー作。 宮本輝の処女作を原作に、少年少女たちのひと夏の出会いと別れが切々と描かれる。〔後掲水運ネットウォーク〕

主人公は小学生の男の子で、子供の目から見た大人の世界が描かれている。川にかかる橋のたもとで食堂を営む両親。川の対岸に一隻の屋形船が停泊してて、そこ暮らす同級生の男の子と姉と母。
実はこの屋形船は船上遊郭であり、かつ生活の家でもあるのだ。屋形船は前後に2部屋があって、壁で仕切られていて、船の内部からは部屋を行き来できない構造となっている。前の部屋から後ろの部屋にいくには一度外に出てから後ろに回って入るしかない。前の部屋が生活空間であり、後ろが売春部屋というわけだ。船上遊郭とはいうものの、川をめぐるわけではなく、いつも橋のたもとに停泊していて、基本的には家として船が利用されている。
ただし、一定期間たつとまた別の場所に、移動していく。〔後掲水運ネットウォーク〕

9-XS 咸水歌

近年の珠江デルタでは、水上人の民謡といわれる「威水歌」が民間芸能として注目されている。また、威水歌をはじめ沙田地区の人々の風俗習慣を「水郷文化」と称し、観光資源として利用する動きも出てきている。第四章では、このように1990年代以降に活発化する新たな動きを事例に、水上人のエスニシティの現在と今後の可能性について考察した。従来、蛋家という名は他者から押し付けられた差別的な呼称であり、そう呼ばれた人々の側に帰属意識が生じることはなかった。しかし、沙田地区を水郷と言い換え、そこに住まう人々を勤勉で清貧な農民とする新たなイメージは、徐々にではあるが、かつて蛋家、今日では水上人と呼ばれる人々にも受け入れられつつある。その要因は、民謡の歌い手としての水上人が、政治的に評価されたことにある。このようにして創られた水上人像が、どのような形で当該社会に定着して行くかは、今後、政府とそれらを受け入れてゆく人々との相互行為によって決められる。この場合、受け入れてゆく人々のなかには、水上人のみならず、水上人を自らと差異化する陸上人や、水上人の歴史を再構築しようとする研究者や有識者なども含まれる。つまり、広東珠江デルタの漢族エスニシティの一側面である水上人というカテゴリーは、異なる文化を持つ集団(陸上人)との接触によって生成、維持されてきただけでなく、国家という枠組みや、他者により構築される歴史や語りの影響を受けながら今日まで変容を繰り返してきており、今後も変わり行く可能性を多分
に秘めているといえる。〔後掲長沼2010〕

再説“咸水歌”的来歴。許多中山人都[言人]咸水歌起源于沿海,因海水是咸的,生活在此的漁民或者農民互相伝唱的歌謡便称作咸水歌。換句話説,水上居民長期与大海的咸水打交道,所以他[イ門]所伝唱的歌謡就称之為“咸水歌”。由于演唱的人多,伝唱的歴史比軟悠久,因而這里便成了中国電唱咸水歌的代表区域。
関于咸水歌的得名,学者[イ門]又有[口/力]一種解釈:広州方言中的“咸”字,是継承了古義,《周易》中第三十一卦“咸卦”,用的就是“咸”的古義。此後,《晋書》武帝(司馬炎)時,又把“咸”化成故事記述――“以塩[シ十]洒地,而引帝車”。
実際上,咸水歌的内容除了情歌外,[シンニョウ+不]有“労働歌”、“時政歌”、“叙事歌”等。〔後掲個人図書館〕

咸水歌在初唐時,就已有了[竹/非]形,唐初詩人王勃在《広州寺碑》中写道:“場[奥/フ]当唐初,北人多以商至,遂家于此。六朝以来謡俗[言区]歌播于楽府,炎方勝事自是偏聞四海。然方言[ケモノ+尤]操蛮音,以邑里[ケモノ+尤]雑夷故也。”
有学者説,第一位戚耳聆听咸水歌的中原学者是中山古鎮劉氏的始祖,宋末元初的[又+]光[サ/存],在他選写的《浮虚山記》里,有這的描述:“来航去舶,擢歌相聞”,那漁歌,便是咸水歌的前身。〔後掲個人図書館〕

「中山泰寧涌」〔後掲個人図書館〕

・新市社区(広東省中山市小[木覧](欖)下[車害]社区)?

小[木覧](欖)民俗博物館
中山市云路83号 〔高德地図〕URL=https://surl.amap.com/f2GJ8hn1q6iI

小[木覧](欖)駅東1.5kmに釣魚台天后宮あり
     〔高德地図〕URL=https://surl.amap.com/2BjtGBLv1u0ag
 ※交通は非常に不便、自転車?街並みはこの付近はそれほど興味深くない(多分新市街)。

小[木覧](欖)-釣魚台天后宮付近〔高徳地図/航空写真〕

小民俗博物,前身是同寅医院,建于1919年,占地面4000平方米,于1941年停,重修后于1948年。建筑楼已超一百年史,修改造,保留原有建筑格局,一房一景,以食、婚俗、布、荼薇酒、理店、影展等主的原列,生形象的再小清末民初期至改革放初期的衣食住行、生活、生、日礼俗等方面,忱地将些秀文化一代代下去。〔後掲中山市小小[木覧](欖)鎮〕

シェンシュイ歌は中国全土に存在する多様な民謡の中でも、独特の特徴を持っています。まず、歌詞の内容が非常に生活密着型であり、特に塩田や海辺の労働をテーマにしている点が他の農村民謡や山間部の民謡と異なります。これにより、地域の自然環境や経済活動が歌に強く反映されています。
また、歌唱スタイルにも特徴があります。シェンシュイ歌はしばしば掛け合い形式や即興的な応答が含まれ、コミュニティ内の対話や交流を促進する役割を持っています。この点は、単に一方的に歌う形式の民謡と比較して、より参加型で動的な文化表現となっています。
さらに、メロディやリズムも他の広東省の民謡と比べて独特で、海の波のような揺らぎや塩水の流れを模したような抑揚が特徴的です。これにより、聴く人に地域の風景や生活感を強く喚起させる効果があります。こうした要素が組み合わさることで、シェンシュイ歌は単なる歌唱以上の文化的価値を持つ存在となっています。〔後掲ALA!中国〕

シェンシュイ歌のメロディは、広東地方の伝統音楽の影響を受けつつも、独自の抑揚や旋律を持っています。特徴的なのは、波のように揺らぐリズムや、塩水の流れを思わせる滑らかな旋律線で、聴く者に海辺の風景や生活感を強く印象づけます。これにより、歌は単なる音楽以上の情景描写の役割を果たしています。
リズム面では、シェンシュイ歌は比較的ゆったりとしたテンポで歌われることが多く、歌詞の内容を丁寧に伝えることが重視されています。時には掛け合い形式や呼応するリズムが用いられ、コミュニティの一体感を高める効果もあります。こうしたリズムの多様性が、歌の表現力を豊かにしています。
また、歌唱技法としては、装飾音やビブラートが用いられ、感情表現が豊かに行われます。これにより、歌い手の個性やその場の雰囲気が反映され、同じ歌でも異なる味わいを持つことが可能です。こうした特徴が、シェンシュイ歌の魅力を高めています。〔後掲ALA!中国〕

シェンシュイ歌は長らく口承で伝えられてきました。地域の年長者や歌い手が若い世代に直接歌い継ぐことで、歌詞や歌唱技術が保存されてきました。この口承伝承は、単に歌を覚えるだけでなく、歌に込められた地域の歴史や価値観を共有する重要な文化的儀式でもあります。
また、地域の祭りや集会、労働の合間の交流の場が伝承の場として機能しており、共同体の中で自然にシェンシュイ歌が継承されてきました。こうした場では、即興的な歌詞のやりとりや掛け合いが行われ、伝統が生きた形で受け継がれています。
さらに、伝承者同士の師弟関係も重要な役割を果たしています。熟練した歌い手が弟子に技術や知識を伝えることで、歌唱の質が保たれ、地域の文化的連続性が確保されています。これらの伝承方法は、シェンシュイ歌の独自性を守る基盤となっています。〔後掲ALA!中国〕

咸水歌,古称“家歌”,又名“沙田民歌”或“水上民歌”,数百年来流伝于中山坦洲一,是一些亦亦農的家人口耳伝唱的口頭文化。据北宋《太平[ウ/四/哀]宇記》中記載:“香山之民在婚喪嫁娶、典祀神時,均歌唱以尋其情,曰歌堂……”。明朝嘉靖年間的《香山県志》中記載有黄棠所写《洲煙雨》中民[イ門]生活場景的描述:“万中間螺髻青,人家環続住升平。鶴汀[烏/几]渚[口/虫]煙雨,長有漁歌牧笛声。”明代史学家黄佐的《石岐夜泊》里也有“漁歌菱唱不勝春,桂[木口/耳]蘭[木戈/元-一]光里。”又如清朝光緒《香山県志》巻四《興地上山川》記載有“風雨初晴歳欲除,舟維海漢意何如。村墟易米塩[金少],蛋艇提壺酒換魚”。〔後掲広東省人民政府〕

2000年5月12日,火炬区海傍村[女ヨ]女在慶“五一”[既/旦]首届民間芸術巡演活動中演唱咸水歌〔後掲広東省人民政府〕

梁容勝也是坦洲地区具有代表性的民歌手之一。20世50年代初,他加入了中山県文工隊,其高棠歌《送郎一条花手巾》就曾唱進了北京。梁容主勝一度成為広東省華南歌舞団民歌独唱演員。1960年梁容勝随華南歌舞団到北京参加全国文化芸術界代表大会并演唱《共産党恩情長》,受到毛沢東、劉少奇、周恩来等国家領導人接見。梁容勝与其他民歌手一起演唱的《釣魚仔》《対花》等中山民歌也被灌録成唱片。〔後掲広東省人民政府〕

9-DC

(アムステルダム・ロッテルダム)

「二酸化炭素の排出を極限まで抑えた新しい共同体を、水の上に作ろう」。そんな試みが今、アムステルダム市郊外の運河で、市民たちの手によって自発的に進められている。
プロジェクトの名称は「スクーンシップ(クリーンな船)」。
水上に浮かぶ住宅30棟を同じ場所に設置して、46世帯105人の住民が、「水の上でのご近所づきあい」を目指すという斬新な試み。すでに現場には住宅5棟が設置されており、3月からは一部の人々が実際に暮らし始める。2020年に完成の予定だ。(略)
エネルギー源として、運河の水と大気との温度差を利用してエネルギーを得る「ヒートポンプ」や太陽光発電を最大限活用し、二酸化炭素の排出につながる都市ガス(天然ガス)は一切使用しない。ITによって電力供給を制御する「スマートグリッド」で各住宅を結びつけ、電力を融通し合うことによって、自然エネルギーの弱点である供給の不安定さの克服を目指す。何よりも水上に浮かぶ生活であるため、地球温暖化で海水面が上昇しても影響を受けない。
水上住宅の建設や太陽電池などの設置にかかる費用は、一戸あたり30万~80万ユーロに達する上に、参加を希望する人々は、計画の詳細を話し合うために多くの時間を割くことを求められる。入居希望者は引きも切らず、キャンセル待ちの人も多い。〔後掲太田〕

「水上生活」のより積極的なビジネス化を目指すのが、オランダのハーグ近郊で設計事務所「ウォータースタジオ」を主宰するコーエン・オルトゥイス(47)だ。
同社はこれまでに、スクーンシップの住居を含め約250の水上住宅をデザインしてきたが、オルトゥスの野心は壮大だ。「大都市の大半は沿岸部のデルタ地帯にあり、海水面上昇の危機にさらされている上に、過密化が進んでいる。その行き詰まりを打開するのが、都市の沿岸部にまるごと新しい区画を浮かべることであり、それは既存の技術で十分可能だ」と主張する。
オルトウィスは、自らが創立・出資するディベロッパー「ダッチドックランズ」と共に、モルディブや米国・マイアミで人工島などの水上構築物をつくろうとしてきた。政府や自治体の規制の壁に阻まれることも多かったが、風向きが変わってきたという。「海水面の上昇が続けば、行政も海上構築物のルール作りに、重い腰を上げざるを得なくなる」とみる。
現在、ウォータースタジオ社は、欧州の16の企業と共に欧州共同体(EU)の資金援助を受けて、大規模な人工島を海上につくるために必要なノウハウの蓄積を目指す「space@sea(海の空間)」というプロジェクトに参加している。計画は、北海の海上に浮かぶ都市をつくることを想定しているという。〔後掲太田〕

■「地産地消」の新たな形
水の上で生産する動きも始まっている。ロッテルダム港の水上では近く、世界初の「水上農園」が開業する。40頭の牛を飼って1日800リットルの牛乳を作り、ミルクやヨーグルトとして販売する。
開発・運営にあたる企業「ベラドン」の社長、ペーター・フォン・ヴィンガーデン(58)が目指すのは、新たな形の「都会での地産地消」。海水面の上昇で農地の確保が難しくなることを見越し「水上なら過密な都市の中でも農業ができる」と考えた。
「生産する過程を直接見ることができて消費者は安心できるし、遠くから食べ物を運ぶことで空気を汚染することもない」。ニワトリや野菜を育てる第二弾、第三弾もオープンさせる予定だ。〔後掲太田〕

日本列島の大半が海底に沈んだ「異変」から25年が過ぎた。かつて日本列島があった海域は、領有権の主張はおろか、学術的な調査すらも凍結された状態で残されていたが、その付近には中国の海洋調査船がひそかに入り込んでいた。海上自衛隊のワタリ准尉らは、白山の一部[注釈 54]が岩礁として残っているのを発見する。
かつてのD計画の中心人物で、現在は日本国の首相となっている中田一成は、日本国を再建するために大和堆の上にメガフロートを建設する計画を進めようとする。しかし、それは中国をはじめとする周辺諸国との軋轢(あつれき)を招くことになった。〔wiki/日本沈没〕

9-HF ハウジングファーストとの関係性

Q 人間の行動パターンを遊動と定住に分けると、いわゆるハウジングファースト「先に住居を、治療・更生は後」という方法は、定住により該当者を統治の枠内に固定させ、不自由にする効果を持つ、とも言える。この点について、意見や、参考となる事例がありますか?
A # ハウジングファーストと遊動・定住の観点
ハウジングファースト(Housing First)とは、主にホームレス支援におけるアプローチで、まず住居を提供し、その後に治療や支援を継続的に行う方法です。対して「遊動」と「定住」は人間行動や社会学的視点での移動や生活様式を捉える概念です。
## 意見
– **定住による固定はコントロールとも捉えられる** 
  確かに、ハウジングファーストは対象者を物理的に一定の場所に留めるため、統治や支配構造の一部と見ることもできます。社会的なネットワークや監視の及ぶ範囲に置かれることで、支援者や行政による管理が強まる可能性があります。
– **自由の制約と安全の提供のバランス** 
  一方で、遊動的な生活(例えば野宿や不安定な住居)では安全・衛生面や社会参加の機会が著しく制限されるため、定住は主体の健康や社会的再統合に不可欠とされることが多いです。自由の度合いと安全・安定のトレードオフとして捉えられます。
– **対象者の主体性の尊重が重要** 
  ただし、定住が「不自由」であるかどうかは、個人が選択し受け入れているかに依存します。強制的な定住は抵抗やストレスを生むこともありますが、選択の伴う住居提供は主体のエンパワーメントにつながる事例もあります。
## 参考となる事例・文献
– **ハウジングファーストの海外事例** 
  カナダやアメリカの都市では、ハウジングファーストによりホームレス状態から脱却し、再犯率や医療利用頻度が減少した研究があります。例: *Housing First in Canada*, Gaetz et al., 2013 
  → 定住が安全を担保し、その後の支援を可能にしている。
– **遊動的生活と支援の難しさ** 
  野宿者など遊動的な生活者は支援へのアクセスが難しく、健康状態の悪化を招くことが多いです。 
  → 定住支援の必要性を裏付ける。
– **批判的視点とアンチハウジングファースト論** 
  一部の研究者は、住居提供だけでは根本的問題(精神疾患や貧困構造)を解決できず、結果的に「社会的抑圧」の一形態になる可能性を指摘しています。 
  → 定住による社会統制の側面を強調。
## まとめ
観点/ポジティブ側面/ネガティブ側面
定住(ハウジングファースト)/安全・安定した生活基盤の提供 医療・支援アクセスの向上/統治・管理による自由の制限感 強制的定住による抵抗感
遊動的生活/自由な移動と選択/支援アクセス困難
健康・社会的リスク増加
ハウジングファーストは「遊動と比較して定住化による支配的効果が否定できない」一方、支援の効果や生活再建の視点では重要な政策手法です。支配的効果を和らげるには、対象者の主体的意思を尊重し、柔軟で包括的な支援システムが求められます。

※# ハウジングファーストと遊動・定住に関する参考文献
## ハウジングファーストの効果・批判を論じた文献
1. **Gaetz, S., Scott, F., & Gulliver, T. (2013).** 
   *Housing First in Canada: Supporting Communities to End Homelessness.* 
   Canadian Homelessness Research Network Press. 
   – ハウジングファーストの理論的背景とカナダにおける実践例、効果検証がまとめられている。 
   – [オンラインで無料公開](https://www.homelesshub.ca/resource/housing-first-canada-supporting-communities-end-homelessness)
2. **Tsemberis, S. (2010).** 
   *Housing First: The Pathways Model to End Homelessness for People with Mental Illness and Addiction.* 
   Hazelden Publishing. 
   – ハウジングファーストの創始者による基本モデルの解説。 
   – 定住による安定化の重要性とその効果について具体的事例を示す。
3. **Padgett, D. K., Henwood, B. F., & Tsemberis, S. J. (2016).** 
   *Housing First: Ending Homelessness, Transforming Systems, and Changing Lives.* 
   Oxford University Press. 
   – 定住支援の臨床的・社会的効果の検証と課題を総合的に論じる。
4. **Cloke, P., May, J., & Johnsen, S. (2010).** 
   *Swept Up Lives? Re-envisaging the Homeless City.* 
   Wiley-Blackwell. 
   – 遊動・移動生活(ストリートでの生活形態)と都市空間における社会的コントロールの問題を探求。 
   – 定住政策の統治的側面を批判的に検討。
## 遊動・定住と社会統制に関する理論的文献・報告
1. **Scott, J. C. (1998).** 
   *Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed.* 
   Yale University Press. 
   – 国家による定住促進が形成する統治(国家の「視点」)と個人の自由との緊張を社会理論的に論じる。 
   – ハウジングファースト的政策の社会的統制側面の理解に役立つ。
2. **Foucault, M. (1977).** 
   *Discipline and Punish: The Birth of the Prison.* 
   Vintage Books. 
   – 監視・管理と自由の絡みを哲学的に検討。 
   – 定住化を通じての「規律化」や「監督」の機構分析に応用可能。
3. **Wacquant, L. (2008).** 
   *Urban Outcasts: A Comparative Sociology of Advanced Marginality.* 
   Polity Press. 
   – 都市の貧困層の隔離、監視と社会統制、遊動的な生活様式の社会学的分析。 
   – 定住化政策の社会学的影響を理解するための枠組みを提供。
# まとめ
分野/代表文献・著者/内容
ハウジングファーストの実践と効果/Gaetz et al. (2013)、Tsemberis (2010) /住居提供の効果と支援方法の提示                                     遊動生活と社会的統制/Cloke et al. (2010)、Scott (1998)、Wacquant (2008)/移動生活の特徴、定住による社会的拘束の問題                         監視と統治/Foucault (1977)/監視社会・規律化の理論

〔AIとの対話〕

9-RM(欧州類似事例)ロマ

申立15/2003 欧州ロマ権利センター対ギリシア6)2004年12月8日決定
 欧州ロマ権利センターの申立によると,ギリシア政府は,欧州社会憲章前文7)に照らした16条(家族の社会的,法的および経済的保護に関する権利)8)を満足させる形で適用していない。その理由は,ロマが住居に対する効果的な権利を否定されているからである。(略)
結論 委員会は,8対2により以下のように結論する。
・永続的居住施設が不十分であることは,16条違反。
・一時的滞在施設の欠如は,16条違反。
・ロマに対する強制立ち退き及びその他の制裁は,16条違反。
 以上の結論を導くにあたって,まず,委員会は,申立団体が行った16条違反の申立については,これを16条単独および前文における差別禁止との関連において,違反申立をしているものとみなす。言い換えると,多数派と異なる集団に対する社会的排除禁止の問題として捉え,以下のように述べる。
 「社会憲章が保護する権利の内在的目的のひとつは,連帯を表明し社会包摂を促進することであるということを,委員会は強調する。そこから導かれることとして,国家は相違を尊重し,社会組織が社会的排除を生み出したり強化したりすることのないよう確保しなくてはならない。この要請は,前文に規定される差別禁止,および,これと憲章実体的権利との相互作用に示されている。」12)〔後掲窪 2-3枚目、p124-125〕

※原注  6 )Complaint No. 15/2003 European Roma Rights Center v. Greece
 7 )欧州社会憲章前文の該当部分は以下のとおり。「社会的権利の享有が,人種,皮膚の色,性,宗教,政治的意見,国民的又は社会的出身による差別なしに保障されるべきであることを考慮し」以下を含め,訳は松井芳郎他編『国際人権条約・宣言集(第3版)』東信堂,2005年を参考にした。
 8 )「社会の基礎的単位である家族の十分な発展のために必要な条件を確保するために,締約国は,社会的及び家族的給付,財政的措置,家族用住居の供給,新婚者のための給付などの措置,並びに,その他の適当な措置によって,家族生活の経済的,法的及び社会的保護を促進することを約束する。
12)Ibid., para.19. ※具体箇所不詳。ここでの委員会は「欧州社会権委員会」

ロマについて,委員会は,「社会的排除を回避し,相違を尊重し,差別しないという責務は,移動しているか定住しているかにかかわらず,あらゆるロマ集団にあてはまる」ことを確認し,第16条の国家義務には,適切な住居を確保する義務が含まれるとして,その具体的内容を以下のように説明する。
 「適切な住居とは,低水準のものであってはならず,基本的な設備19) を備えた住居でなくてはならないというだけでなく,住居内の家族構成を考慮した適切な規模の住居でなくてはならないと,委員会は宣明してきた。さらに,住居の促進と提供義務は,不法な立ち退きからの安全におよぶ。」20)
 ロマの移動生活についても,第16条が,「適切な一時的滞在地が提供されねばならないことを意味する。この点に関して,第16条は,欧州人権条約第8条21) と類似の義務を含んでいる。」22) また,差別禁止を明記する憲章前文により,「平等及び差別禁止の原則が第16条の不可分の一部」23) であることが確認される。〔後掲窪 4-5枚目、p126-127〕

※原注 19)「暖房および電気」が同24段落において示されている。
20)Op.cit., para.24 ※具体箇所不詳。ここでの委員会は「欧州社会権委員会」
21 )「1,すべての者は,その私的及び家族生活,住居及び通信の尊重を受ける権利を有する。2,この権利の行使については,法律に基づき,かつ,国の安全,公共の安全若しくは国の経済的福利のため,また,無秩序若しくは犯罪の防止のため,健康若しくは道徳の保護のため,又は他の者の権利及び自由の保護のため民主社会において必要なもの以外のいかなる公の機関による干渉もあってはならない。」
22)Complaint No. 15/2003, para.25.
23)Ibid., para.26

(引用者追記:委員会は)このように,ロマの居住権を確認した後,具体的なロマの状況を審査していくのだが,その前提となったのは,国家によるデータ収集であった。ロマに対する差別申立を評価するために委員会は,イタリアにデータ提供を求めたが,イタリアは憲法上の理由により,関係集団の規模についていかなる推定資料も提供できないと主張していた。それについて,委員会は,「個人的データの収集と保存がそのような理由により妨げられる場合であっても,特定の集団が差別されている,もしくは,その可能性がある場合と一般的に認められる場合,当局には,憲法的制約にかかることなく,問題の程度と解決への進歩を評価するための,代替手段を見つける責任がある」という考えを述べ,国家によるデータ収集の義務を明らかにしたのである24)。さらに,「たとえ,国内法上,地域機関,地方機関,労働組合,職業団体が特定の機能の行使にあたって責任があるとしても,そのような責任が適切に行使されるよう確保する国家の国際的義務のもとで,憲章締約国にはやはり責任がある」ことを明らかにした25)。〔後掲窪 5枚目、p127〕

※原注(17)原注,Complaint No. 13/2002, Autism Europe v Franc, e decision on the merits, November 2003, §53.)
24)Ibid., para.27.
25)Ibid., para.29. Holly Cullen, op.cit., note 139参照

申立によると,購入可能な住宅不足の問題があり,最も恵まれない人々に対する社会住宅給付制度のあり方,ならびに,その待ち時間が長すぎる場合の訴え手続に問題があったからである。まず,前者の購入可能な住宅の不足について,委員会は,「購入可能な住宅の適切な供給がなくてはならない」74) ことを確認し,購入可能性 affordability について,「世帯が,初期費用(保証金,前払い家賃),長期的な通常家賃とその他の費用(水光熱費,維持費,運営費)を支払うことができ,そのうえで,世帯のある社会が定める最低生活水準を維持することできる」75) 場合と確認した。フランスがさまざまな政策を取っていることを委員会は認めつつも,「委員会の考えでは,この政策自体,十分な対策となるものではなく,社会的に最も恵まれない人々に対する社会住宅供給に適切な優先度を保障するための既存の政策メカニズムが,継続的かつ明白に不適切であることについて,十分な正当化をなすものでもない」76) として,「よって,当該状況は,31条3違反を構成する」77) と認定した。〔後掲窪 申立33/2006国際運動 ATD 第4世界対フランス2007年12月5日決定関係 13枚目、p135〕

※原注(69 )原注,International Commission of Jurists v.Portugal, Complaint No. 1/1998, decision on the merits of 9 September 1999, §32)
74)Ibid., para.94.
75)Ibid., para.94,なお,原注 Conclusions 2003, Sweden, p. 655参照。
76)Ibid., para.100.
77)Ibid., para.100

ルーマニア・ブルガリアEC加盟後の状況

ロマに関する統計調査を中心的に担っているのはEU基本権庁(European Union Agency for Fundamental Rights: FRA)である。ブルガリア、クロアチア、チェコ、ギリシャ、ハンガリー、ポルトガル、ルーマニア、スロヴァキア、スペインの 9 加盟国を対象に行われ、2016年にまとめられた報告書によれば、貧困線以下にある人の割合が、U平均が17%であるのに対して、ロマは80%にのぼる[FRA 2016a, 2016b]3。各国別にみると、スペインでは98%、ギリシャでは96%、クロアチアでは93%のロマが貧困線以下の収入で生活をしている(図表 1 )。住居の設備についてみてみると、30%は水道水がない家に、46%のロマは室内にトイレや浴室がない家に暮らしている。電気のない家に住むロマは10人に 1 人である。
 ロマ差別で特に深刻なのは教育における差別である。一部の国ではロマの子どもたちは知的に問題があるとされ、障碍児教室や学校に隔離されるということが続けられてきた。欧州人権裁判所でも争われ、違法と認定する判決が出ており、欧州委員会も是正を強く求めている。しかし 6 歳から15歳のロマの子どものうち、スロヴァキアでは62%、ハンガリーは61%、ブルガリアでは60%がほぼロマだけの学校に通っている。もちろんこれはロマの集住地域では起こることではあるが、ロマの子どもの隔離は大きな問題であり続けている。〔後掲土谷 2-3枚目 p50-51〕

図表1 2014年、加盟国ごとの一般人口と比較したロマの貧困リスク率(社会移転後の中位等価所得の60%未満)a,b〔出典:FRA 2016b, p. 14.←後掲土谷 3枚目 p51〕
※原注 FRA 2016b Second European Union Minorities and Discrimination Survey Roma  Selected findings

 EUがロマに注目するようになるのは東方拡大の過程においてである。平均的な推計では、中東欧諸国のなかでもブルガリアは75万人、ハンガリーが70万人、ルーマニアに185万人、スロヴァキアに50万人のロマが存在すると見積もられている[EuropeanCommission 2011: 15-18]。西欧諸国と比べて特徴的なのはロマが人口全体に占める割合である。西欧諸国のなかで最大のロマ人口を有するのはスペインであり、およそ72万人のロマが存在すると推計されているが、人口に占める割合はわずか1.57%である。これに対して、ブルガリアのロマの割合はおよそ10%であり、その他の 3 か国も 7 ~ 10%
弱と高い。
 共産主義時代の中東欧諸国ではロマには同化政策が取られてきた。しかし経済体制の移行のなかでロマは失業し、しかも経済的苦境のスケープゴートにされた。ナショナリズムが高まり、新たに獲得された自由が差別を可能にし、ロマはマジョリティに脅威を与える東から来た他者とされたのである。その結果、ロマは社会から排除されるようになった[Mizsei 2017: 127-131, Mireanu 2018]。(続)〔後掲土谷 5-6枚目 p53-54〕

※原注 European Commission 2011 ‘COMMUNICATION FROM THE COMMISSION TO THE EUROPEAN PARLIAMENT, THE COUNCIL, THE EUROPEAN ECONOMIC AND SOCIAL COMMITTEE AND THE COMMITTEE OF THE REGIONS, An EU Framework for National Roma Integration Strategies up to 2020’, COM(2011) 173 final
Mizsei, Klmn 2017 ‘Reconstructing Roma Integration in Central and Eastern Europe: Addressing the Failures of the Last Quarter Century’, in Jacqueline Bhabha, Andrzej Mirga & Margareta Matache eds., Realizing Roma Rights, University of Pennsylvania Press.

(続)周知のようにEUは域内の移動および居住の自由を保障しており、加盟国の国民はEU市民として他の加盟国で生活することができる[土谷 2006]。この自由移動の権利の行使には労働や資産などの条件が付いているものの、シェンゲン協定が発効し、シェンゲン空間内での国境管理も撤廃されるなかでは、条件を満たしていない者の越境移動を止めることは困難である。中東欧諸国と西欧諸国との経済格差が懸念され、なかでも差別されているロマの人々がよりよい生活を求めて大量に西欧に移動することが予測された。90年代末には主に庇護希望者として多くのロマが西欧諸国などに移動していた[Tanner 2005]。
 EUは加盟候補国に対してコペンハーゲン基準を満たすことを求めてきた。それには人権の保障とマイノリティの尊重および保護が含まれている。これを根拠にEUは中東欧諸国にロマへの差別対策を求めた[山本 2011: 109-112, Vermeersch 2015: 42]。EUは加盟候補国ごとに優先課題を設定するが、このなかでロマの状況改善を求めたのである。
 ロマ差別対策は、ロマの社会統合によりEU加盟後の西欧への大量移動の抑制を意図していた[Guy 2015a: 5, Jovanovic 2015]。すなわち、現在の居住国である中東欧諸国の差別と苦しい生活から逃れるためにロマが西欧諸国へ移動するのであれば、中東欧諸国においてロマ差別が是正され、生活改善されれば西欧に移動しなくなるというのだ。いうなれば、ロマは西欧への脅威であるがゆえに中東欧諸国内部で包摂されねばならなかったのである。
 これはEUの基本的自由のひとつである人の自由移動の論理からすれば奇妙であろう。確かに生産要素としての労働者や自営業者の自由移動から経済活動を目的としない自由移動へとその権利は拡張されてきたが、経済統合が中心にあるEUにおいて単一の労働市場の実現は重要な目的であるはずである。しかし、EU大の経済市場は加盟国ごとの社会と同時に存在し、EUシティズンシップというメンバーシップはEU全体での自由移動を保障するものの、居住する加盟国における社会統合を要請する[土谷 2005]。このため、加盟国を超えて移動するEU市民は移動先の加盟国での自らの経済的有益性と安全性の証明を求められると言えるだろう。〔後掲土谷 6-7枚目 p54-55〕

原注 土谷岳史 2006「EUシティズンシップとネイション ‐ ステート:セキュリティ、平等、連帯」『慶應法学』第4号
Tanner, Arno 2005 ‘The Roma of Eastern Europe: Still Searching for Inclusion’, Migration Information Source, May 1, 2005.
山本直 2011『EU人権政策』成文堂
Vermeersch, Peter 2015 ‘The European Union and the Roma: Am Analysis of Recent Institutional and Policy Developments’ , in Will Guy ed., The Challenge of Anti-Roma Politics, IDEBATE Press
Guy, Will 2015a ‘Introduction: The Challenge of Anti-Roma Politics’, in Will Guy ed., The Challenge of Anti-Roma Politics, IDEBATE Press.
Jovanovic, Zeljko 2015 ‘Why Europe’s “Roma Decade” Didn’t Lead to Inclusion’, OPEN SOCIETY VOICES, September 21, 2015, Open Society Foundation
土谷岳史 2005「EUと民主的シティズンシップ:第 3 国国民の包摂を中心に」『日本EU学会年報』第25号

中東欧諸国のロマは西欧諸国にとって脅威であり、移動してくる彼らを受け入れて統合することは否定されていた。統合はあくまで中東欧諸国においてなされなければならなかったのである。(略)
 中東欧諸国はこの要請に応えて各国内で改革を行う意思を見せるとともに国際的な取り組みも始められた。欧州安全保障協力機構(OSCE)と欧州審議会(Council of Europe)の動きに加え、中東欧諸国自身がロマ包摂の政治的意思を示した。それが「ロマ包摂の10年(the Decade of Roma Inclusion 2005-2015)」である[Brggemann & Friedman 2017]。2003年にハンガリーのブタペストで世界銀行とジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ財団の主導で開催された国際会議において設立が決定されたこのプロジェクトは2005年にブルガリア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、マケドニア、ルーマニア、セルビア-モンテネグロ、スロヴァキアの 8 か国で始められ、アルバニア、ボスニア-ヘルツェゴビナ、スペインが後に加わった。欧州委員会は当初からオブザーバーとして参加している。参加各国はロマ包摂のための国家行動計画を策定、実施するとされた。しかし各国での選挙による政治家の交代、EU加盟の実現、2004年の欧州委員会の交代などによりプロジェクト開始当初からその熱意は損なわれていた[Jovanovic 2015, Rorke 2015: 45]。ロマの状況は加盟前の年次報告書で分析されていたが、ロマの統合が加盟交渉過程のなかで解決への道筋が見えることのないまま中東欧諸国が2004年と2007年に加盟すると、EUは自身の内部の問題としてロマを扱わざるを得なくなる。〔後掲土谷 8-9枚目 p55-56〕

ルーマニアとブルガリアが加盟した2007年、はやくもロマを自国への脅威として捉える差別認識が顕在化する[土谷 2014: 63-64]。ルーマニア人のロマによる殺人事件のわずか 2 日後にイタリアは公共の安全を理由としてEU市民を追放できる立法を行ったのである。EU市民の国外追放には厳格な制約がつけられており、公の秩序、公共の安全、公衆衛生を理由として可能であるものの、それは集団に対しては適用されてならず、あくまでも個人に対する国外追放を正当化するものである。しかもその脅威は社会の存続自体に対する脅威でなければならない。しかしイタリアの立法は追放される者に意見聴取の機会すら与えないものであり、法施行後 3 か月で数百人が追放された。さらに、2008年にはイタリア政府は「緊急事態」を宣言し、国内の15万人のロマを追放すると発表した。個々のEU市民ではなくロマという集団自体が脅威とされ国外追放の対象とされたのである。イタリア当局は多数のロマのキャンプを強制排除し[ERRC2013]、一部のイタリア人によるロマのキャンプへの襲撃を政治家などはロマの側に問題があるとして正当化までした。条約の守護者たる欧州委員会は積極的な是正に乗り出さず、むしろイタリアの行為を容認した。〔後掲土谷 8枚目 p56〕

原注 土谷岳史 2014「ノマドという罪:EUシティズンシップのポリシング」『高崎経済大学論集』第56巻第 4 号
ERRC 2013 ‘FACTSHEET ON THE STATE OF EMERGENCY: ITALY’S DISASTROUS POLICIES FOR ROMA’, 26 March 2013.
 http://www.errc.org/press-releases/factsheet-on-the-state-of-emergency-italys-disastrous-policies-forroma

2007年以来のEU理事会や欧州議会の要請を受けて欧州委員会がロマに関するまとまった報告書を提出するのは2010年のことである[European Commission 2010]。欧州委員会はヨーロッパ2020戦略の包摂的成長のなかにロマの統合を位置づけ、人口減少社会でのロマ統合の経済的利益を強調する。経済成長のために、平均年齢も若く、労働力となるロマを排除してはいられないというのである。
 EUと加盟国が共同の責任を負うとしながらも必ずしも明らかでなかった両者の関係が明確にされるのは翌2011年の政策文書「2020年までの国家ロマ統合戦略のためのEU枠組み」によってである(以下、本政策を「ロマ統合枠組み」と略す)[EuropeanCommission 2011]。EUはすべての加盟国に2020年までのロマ統合戦略の策定を要請した。形式の上では東の問題としてのロマという構図が打ち破られたことになる。また前年の報告書と同様に本文書においてもロマ統合の経済成長の手段としての側面が強く出ている[Bartlett, Gordon & Kamphuis 2015: 10]。
 欧州委員会は以下のように述べている。ロマと総称される人々の内実は多様であり、居住している環境なども様々であるため、EUでひとつの統合戦略を策定すべきではない。その多様性を反映し、ロマ統合の責任は第一に加盟国にあるのであり、EUが加盟国の取り組みを評価し、加盟国によるロマ統合戦略を向上させていく。〔後掲土谷 9枚目 p57〕

原注 European Commission 2011 ‘COMMUNICATION FROM THE COMMISSION TO THE EUROPEAN PARLIAMENT, THE COUNCIL, THE EUROPEAN ECONOMIC AND SOCIAL COMMITTEE AND THE COMMITTEE OF THE REGIONS, An EU Framework for National Roma Integration Strategies up to 2020’, COM(2011) 173 final
Bartlett, William, Claire Gordon & Bregtje Kamphuis 2015 ‘Evaluation of the EU Framework for National Roma Integration Strategies’, Study PE 536.485, European Parliament Policy Department C: Citizens’ Rights and Constitutional Affairs.

(衝突事例)仏サルト県トロシェでの町長座込事件

北西フランスはサルト県の町、トロシェ(Teloch)にて、町の共同地に滞在を望む移動型民族「レ・ジャン・デュ・ヴォヤージュ(les gens du voyage)」が、キャンピングカーやトレーラータイプのキャラバンで侵入。
追い返しても戻って来る移動型民族に対し、町長が入り口に座り込んでこれを阻止するという事態に発展。
Sarthe: un maire s’assoit  l’entre d’un terrain communal, pour empcher les gens du voyage de s’y installer(BFMTV)とはいえ、フランスでは1990年、「自治体は、移動型民族を受け入れなければいけない」という法律が制定。実際に、人口5千人を超える町は、移動型民族を受け入れる土地(滞在サイト)を設けなければならず
しかし、トロシェの人口はおよそ3千人。「春以来、これで6度目の侵入」という町長は、「これまで寛容に対応したけれど、今回はもう無理」と。〔後掲エイメ〕

トロシェの移動型民族滞在サイト〔後掲エイメ〕

移動型民族の到着の知らせを聞いた町長が木曜日、問題の共同地へ駆け付けると、彼らはすでに南京錠をこじ開けて、正に侵入するところだったということで、町長は彼らが諦めて引き返すまで居座ることを決断。
「一台、一台、丁寧に挨拶をして、ここには滞在できないことを説明した」とし、水道水が使えないよう水道栓を締め、警察にも通報。
「彼らは2年前、私を押し倒し、溝に投げた」とし、「これは我々の命にかかわる事態」と警告。「町長を殺したとなれば、刑務所に行くのは確実。彼らだって、そんなことは望まないはず」と説明。
移動型民族は、町長が座り込みを始めてから1時間半ほどして退散したということ。
〔後掲エイメ〕

フランスの移動型民族は近年、定住化が進んでおり、実際に移動しているのは15%ほど。「フランスのロマ」と認識されているものの、ほとんどがフランス人で、ロマの元祖といわれるブルガリア人やルーマニア人はそれほどおらず。
英語ではジプシー(Gypsies)、フランスではゲルマン系の移住型民族をマヌーシュ(Manouches)、スペイン系の移住型民族をジタン(Gitans)と呼ぶことも。
移動型民族の法律を解説する政府サイト:-Chronologie politique d’accueil des gens du voyage depuis la loi Besson | vie-publique.fr
南西部のこの辺りでは「ジタン」と呼ばれる、レ・ジャン・デュ・ヴォヤージュ。立派なキャンピングカーが並ぶ、大きなキャンプサイトがあるな~と思うと、彼らの滞在地であったりします。
そして、人口500人の我が町(村)にもいます。定住型の方たちで、最近では自治体のメンテナンス、花壇の手入れをする仕事に従事。働き者の方たちですが、挨拶をしてもあまり笑顔を見せることはなく。
彼らの子どもたちは、地元の学校に通うので、うちの子どもたちのお友だちにもたくさんいます。
この方たちは移動型だったのかな。空き家に住み着いていて、知らないうちにいなくなりました:-〔後掲エイメ〕

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〉〉〉〉〉参考資料 

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※公立鳥取環境大学 鳥取環境大学紀要創刊号 URL=https://www.kankyo-u.ac.jp/about/publication/bulletin/1/
 PDF URL=https://www.kankyo-u.ac.jp/f/introduction/publication/bulletin/1/4.pdf
(あらち)ALA中国
/肇慶の文化財を探索:肇慶古城壁から包拯文化園まで
URL=https://alachugoku.com/11377
/広州の地下鉄の乗り方は? 
URL:https://alachugoku.com/15954
/シェンシュイ歌(塩水歌) | 咸水歌 URL=https://alachugoku.com/21674
(いのう)井上吉次郎 1958「トモド名義考」『史泉』巻10,p.18-25
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(えぬえ)NHKアーカイブス 放送史> 番組> 生活の河 URL=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009044274_00000
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2021-01「屈大均『広東新語』にみられる蜑民関係史料の価値とその限界」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』50巻 p71-88
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※岡山大学学術成果レポジトリ URL=https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/journal/hss/51/–/article/61591
2021-12「清代廣東省における蜑民反乱について─周玉・李栄の乱に着目して─」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』52巻 p83-98
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2023「明朝廷による蜑民への支配について : 廣東河泊所の統制を例にして」『文化共生学研究』 (22):2023 p.55-66
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(こすぱ)「コスパトラベル」
2025-03-02 中国のレンタル自転車を使ってみよう!哈(HelloRide)の利用方法徹底解説【シェアサイクル】
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2025-11-11 定番ツアーはもう飽きた?ローカル旅行情報発信サイト /中国の電動バイクは外国人でも無免許レンタル可能?多くの旅行客が活用している「」の種類と現地法律に則った賢い利用方法を徹底解説
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▼▲ さ
(しえん)SHENZHENFAN 深澳一通 URL=https://www.shenzhen-fan.com/news-2025-01-08-sz-macao-cross-border-transport-card-launched/
(しふぱ)WeChat PayとAliPay旅行者はどちらが便利?実際に中国で使って比較してみた | 中国旅行 2025-02-18  更新2025-12-05 https://x.gd/88mZL
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(そふ)捜狐 2023.05/个800多年史的古村,彰文化底……
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(とうじ)頭條[匚<シ隹] 2025/封州古城尋根探源 https://min.news/zh-hk/culture/94ee4e7c49b67e471dbb7ae506d8955c.html
(とはろ)とはログ/境界人とは?その概念と現代社会への影響について解説共起語・同意語も併せて解説! URL=https://toha.fromation.co.jp/archives/45549
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※総研大リポジトリ URL=https://ir.soken.ac.jp/records/39
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(なかやまぷ)中山+ 2022「村行⑧ | 濠村:文潮看世界 青云眺赤子心」
https://zsrbapp.zsnews.cn/home/content/newsContent/1/601130
(にうろ)中国旅ブロガーniurouのブログ
2024 /WeChat(微信) のQRコード(乗車券)で地下鉄に乗る方法 https://niurou-king.com/wechat_ditie_qrcode/
2025 /Alipay(支付宝) のQRコード(乗車券)で地下鉄に乗る方法 https://niurou-king.com/alipay_ditie_qrcode/
(につち)一般財団法人 日中経済協会/省別概況/2025.03 広東省
URL=https://www.jc-web.or.jp/pages/1015/
※PDF URL=https://www.jc-web.or.jp/relays/download/1015/2991/156/0/?file=/files/libs/7071/202503191408153336.pdf
日本神話・神社まとめ >日本書紀神代下>第九段本文―6出雲の三穗之碕にて URL=https://nihonsinwa.com/page/755.html
▼▲ は
(はくが)博雅特网 /梧州艇仔粥-万秀区特 http://shop.bytravel.cn/produce/82474ED47CA5/
ぴあ 2016/サンダカンってこんなとこ URL=https://8.sandakan.org/aboutsandakan.html
(はまれ)はまれぽ.com 2018「かつて水上生活を営んでいた人たちの生活環境とは?」 URL=https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=1706
(びいて)BTG城郭都市研究会 
/広東省 江門市 蓬江区
URL=https://www.iobtg.com/Cc.Pengjiang.htm
/広東省 肇慶市
URL=https://www.iobtg.com/C.Zhaoqing.htm
/広東省 中山市
URL=https://www.iobtg.com/C.Zhongshan.htm
藤川美代子
2014(平26)「連家船漁民の研究 : 水・陸のはざまを生きる福建南部の水上居民」博士論文 
※神奈川大学学術機関リポジトリ URL=https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/4423
 歴甲190 本文要約.pdf (7.2 MB) URL=https://x.gd/wAgOt(短縮)
 なお、本論文は、大幅に加筆されて「水上に住まう : 中国福建・連家船漁民の民族誌」(風響社, 2017)として出版された。(2025年12月現在電子書籍無)
2019「一所に根を張ることと、複数の空間に根を広げること―定住化後も水上・陸上を動きつづける中国の船上生活者とホームをめぐる実践―」『人類学研究所 研究論集』第7号
※URL=https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/records/3583 
 PDF URL=https://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication-new/item/ronshu7_04%20Fujikawa.pdf
2020「定住本位型社会で船に住まいつづける―国家による複数の管理システムを生きる中国福建南部の連家船漁民―」『年報人類学研究』第10号 2020年「特集 不確実な世界に生きる―遊動/定住の狭間に生きる身体」
※南山大学機関レポジトリ URL=https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/records/3658
 PDF URL=https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/record/3658/files/jinnen10_06_fujikawa_miyoko.pdf
(2025閲覧)南山の先生-知が広げる世界観-人文学部・人類文化学科 藤川 美代子 URL=https://www.nanzan-u.ac.jp/nanzan_faculty/foh/ha/012516.html
(ふれあ)ふれあい中国/肇慶観光・肇慶ツアー・肇慶
URL=http://www.chinatrip.jp/zhaoqing/
文化庁 1997up/国指定文化財等データベース/重要有形民俗文化財/名称:そりこ 指定年月日:1963.05.15(昭和38.05.15)
URL=https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/301/136
(べとな)VIETNAM360 目的地 | ハロン湾 ハロン湾の最高の漁村 5 By Romain Hutt 24.11月2024年 206 vues URL=https://x.gd/aexKM
▼▲ ま
(まいに)毎日頭條 
2017/探究廣東美食」艇仔粥「的文化淵源 URL=https://kknews.cc/news/jm4yaoq.html
2018/枝灣以前的老照片,還認得是裏? URL=https://kknews.cc/zh-mo/history/x85m5gg.html
(みりい)Milly 2025.8.10/サンダカン水上の街にあるレストラン|Seafood Sim Sim 88 行ってみた URL=https://x.gd/CIUup(短縮)
▼▲参考資料▼▲

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