m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m1八重瀬城(ニライF68)

本歌:深海魚群れゐる真夜(まよ)の冷蔵庫〔今治西伯方分校〕

往路三日目は
本島最南端の
媽祖宮──
唐の船御嶽を
目指して
走りました。
[前日日計]
支出1400/収入1900
    ▼14[204]
    /負債 500
[前日累計]
利益  -/負債 190
§
→十二月二十九日(天)
1212仲地山羊料理店
やぎ汁550
1524やんばる食堂
ピーマン牛肉焼き550
2000パティスリーアプリコット
かなぐすくロール250
[前日日計]
支出1400/収入1350
    ▼14[205]
    /負債 50
[前日累計]
利益  -/負債 240
§
→十二月三十日(一)

 

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.
:胡屋〜八重瀬城
GM.
:八重瀬城〜勢理城
(ともに経路)

🛵

朝焼けの南原を走る

ザから出走したのは0603。
 0658,那覇・おもろまちの東横イン駅前店に荷を預ける。
 今日は遠出です。時間を確保したい。
 おもろまちでガソリンを2リットルだけ入れる。
 朝焼けが,夢の始まるように美しい。
🛵
場交差点を右折したのが0728。R507の旧道を南行。
 0734,津嘉山交差点通過。前回は右折した地点です。
 0739,南部商業高校通過。土地のうねりが緩やかに続く。
 0743。R504新道合流。マックスバリュー八重瀬店。郊外型店の続く高台。ここも既視感があります。

▲南へのR504
🛵
▲南原の朝焼け

白梅の塔はどちらの方角ですか?

っと?
 0756,八重瀬グスク標識?通りすぎるとこだった!右折西行。富盛バス停。
 糸満7km標識。
 西に,南北に伸びる尾根が観えます。尾根の西側へ回り込む。
 0806,八重瀬グスクパーキング到着。コザから2時間でした。
🛵

重瀬嶽
〔日本名〕やえせだけ
〔沖縄名〕えーじだき
(中山伝信録)八頭嶽
(琉球国由来記)八重瀬嶽御イビ(四御前)
〔米軍名〕ビッグアップル  Big Apple

風平町教委生涯学習振興課の表示が登り口にあります。──この組織名は生涯学習行政の一部に文化財行政が包含する組織概念で,文化財は軽視されてる。東東風平町は2006年に具志頭村と合併し,八重瀬町(人口3万人)となり,同町組織にはかろうじて生涯学習文化課と「文化」が復活してます。
 案内板のタイトルは「史跡八重瀬グスク(本殿跡・物見台・城ガー・蔵当)
白梅学徒看護隊之壕」──と半ばは平和学習施設。

▲白梅学徒の碑

こにいた白梅学徒は県立第二高等女学校4年生56人。1944年の10・10空襲で久米松山(現・松山公園)の校舎が焼かれた後,この地の第24師団第一野戦病院(山3486部隊配属)に配属,6月4日まで73日間重症兵の看護に当たったとある。──2012年に天皇・皇后が訪沖の際,白梅同窓会の会長らに皇后が「白梅の塔はどちらの方角ですか」と訊ね,天皇とともにその方向へ拝礼した,という報道もなされており,要するに……知名度はまあ高い。
 とにかく登ろう。

八重瀬岳の鉄人カニカマルー

▲城から西遠望

西方遠景撮影。
 平らです。

八重瀬見下しの野山うち続き空にたなびきゆるむらの霞
大意:八重瀬岳から見下ろすと、四方に野や山がうち続き、空には一むらがりの霞がたなびいて、のどかな景色だ。
[尚育王『琉歌全集』所収]

 八重瀬岳は標高164m,丘と言っていい低山ですけど,ここから糸満の海まではこの高さの山すらない。
 この広がりの左手南方の海が摩文仁です。戦術的要地となる山は八重瀬しかないエリアで,沖縄戦末期の牛島第32軍が当てにできたのはここしかなかったはずだし(巻末参照),それはそれ以前も常識だったでしょう。

地理院地図(上)南部西半(下)八重瀬城及び山頂付近

中,左手に銘も神像もない祠所。
 そのすぐ上にグスク説明板。本殿跡とある。

一名富盛城とも呼ばれ島尻の世の主,八重瀬の按司の居城であったと伝えられ,今から約六○○年前に築かれたのではないかといわれている。
このグスクは標高一○五メートルから一二五メートルの間にあり,八重瀬岳とは地形的に上・下の位置関係にある。

 まず,驚くほど古い。15C,おそらくは三山争闘期の備えとして築かれたのでしょう。
 位置的に半端な7合目辺りの中腹にあるのは,この高地部が概ね南北に細長く,山頂部の平地が少ないからでしょう。それでも面積は狭いから,軍事的には北の勢理城と連携して運用されたのではないでしょうか。となると,沖縄の城としては珍しい縦深陣地志向の防衛施設です。
 この細長い部分より下は穏斜面を成し,現在の那覇GCや自衛隊施設はここに位置して,面積的には八重瀬岳域の大半を使用しています。

本殿跡・蔵当(クラントウ)・物見台といい伝えられたところがある。
現在でもグスク内には『城火の神』『ナカジク火の神』『グスク井泉』と呼ばれる三ヵ所の拝所・井泉があり,又『カニカマルー』の伝説や民話などが残されており(略)

 の神がやたら多い。ここから火山の噴火が見えたことがあった,とかでしょうか?(巻末参照)
 また,カニカマルーは沖縄各地に残る「鉄人伝説」です。カニカマルーのお話では,身分差のある父親を憚り母親が薬草や鉄を飲んで流産させようとしたけれど産まれた子があり,そのせいで全身が鋼になっていたという。当然,戦闘では無類の強力を誇ったけれど……というお話で,時代は違うけれど(先に触れた)鄭成功の鉄人部隊を思わせます。それが日本武士をモデルにしたものなら,同根の鎧武者を想像できます。

▲八重瀬本殿

「城火の神」の三角石

仰の表看板としての祠は上記の,コンクリートで整備されたものでした。
 その他には何もない。
 いや……高台樹下に「城火の神」だけが視認できました。0834撮影。

▲「城火の神」のある場所

き地のような野原です。
 古樹の影に隠れるように,ひっそりと小さな祠。
 イビ(聖域)を持たない位置です。すると拝所なのでしょうか。神体はここではなく,遥か遠くにある──火山ならばそれも納得できます。

▲「城火の神」祠

かし……これはどういう神なのでしょう。
 内部には,ブロック型の石の上に,小さな三角形が突き出しています(下写真)。この三角形が神体なのでしょうか。
──火山がここから見えたとすれば,その山容を表すような石を神体にしたのかもしれませんけど……もちろんそんな想像にも何の根拠も与えてはくれません。

▲祠内の神体

午之方に如何なる火の神が?

へ登る。
 0837最高所に物見台と看板。木柵で囲まれ,あと二ヶ所は確認できない。
 岳山頂の岩場が見えている。
 いや下でした。「ハブに注意!」看板の先の崖下に「グスク井泉」の表示──つまりこの岩の下部の小さな祭壇がそれだということになる。
 斎場御嶽に似た形状です。すごい神気がある。

▲井泉

851,園道を挟んだ向こうに「午之方火之神」(ルビ:ウマヌフアヒヌカン)という祠もありました。
 こちらはさりげなさがかえって凄い。しかし──「午之方」?

▲午之方火之神の祠

直には「午」,つまり南の火の神です。「之方」とわざわざ書き足すからには,時刻でなく方位たしての「午」でしょう。
 けれど八重瀬岳から南──その方角には絶海しかないはずです。南にどんな火の神が出現し得たのでしょう?
🛵
旦パーキングへ戻ったのがジャスト9時。
 北を眺めると,小さな丘が見えてます。おそらく富盛-糸満の52号線がS字にくれる箇所をまたいだ先。この丘が勢理グスクのようです。
 下って,北の丘を時計回りに回る。

勢理城の纏う三御嶽の結界

▲ビロウ御嶽

北東の場所にビロウ之御嶽を見つけました。0907。
 案内板には別名カニマン御嶽とある。カニカマルーに音が似ている。──他のプログ情報*ではさらにヒラウ嶽の別称があり,神名はコダイシラゴノ御イベという。
*沖縄島の写真「勢理城」
URL:http://withoutasound.web.fc2.com/yaese/tomori/jiri_gusuku_site/index.html
**富盛にて(勢理グスク、中間之御嶽、ビロウ之御嶽、波平之殿) – 沖縄島の写真
URL:https://sqb-blog.hatenadiary.jp/entry/20060122/p2
 なおこのプログに地誌「富盛字誌」(平成16年)でこれらの情報が参照できるとある。

 道端右側。焼香台2つ,神像なし。

▲0913中間之御嶽

ぐ先,三叉路に中間之御嶽。苔むしてる他は,ビロウ御嶽に酷似しています。──同じく神名はコダイシラゴノ御イベ。
 もう一つ,丘の南側に波平之殿というのがあり,これも雰囲気が似ている。北北東,東北東,南にある兄弟御嶽──に見えます。鬼門を封じつつ八重瀬岳との接続を保つ,といった風水上の呪法でしょうか。

(他サイトより転載)波平之殿

てここ中間之御嶽脇に……富盛の石彫大獅子という看板。グスクの方向なので登ってみます。0914。
──一般にはこの獅子が最も有名ですけど,この時はなぜかホントに知りませんでした。
 勢理グスクの標識には「じりぐすく」とルビがふってある。へえ,「せり」じゃないんだ?

「火山」としての八重瀬岳

▲富盛ライオン(大獅子)

獅子の説明標識。

火除け(火返し)として,尚貞王三十一年(一六八九年)に設置されたもので,フィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって蹲踞している。

 勢理城は八重瀬城の北側出城かと思ってたけど……信仰上はどうも勢理城の「火」に対抗する前章線が八重瀬岳みたい。その発想上は,八重瀬岳そのものが「火」を象徴し,その化身として,勢理岳側からダミーで呪われた,とも思えます。
 そう言えば,八重瀬岳の沖縄名「えーじ」(だき:岳)は,阿蘇や浅間,伊勢や宇佐に通ずる「母音+S音」です。

旧暦九月九日(タントゥイ棒)のときに,村の青年たちはこのジリグスクに集まり盆踊りを演じた。
沖縄各地にある,村落祭祀上の目的でつくられた獅子のなかでも,最大最古のもの

※ wiki/富盛のシーサー

▲0926元の霊場と比定できる場所

かに,山頂部は高台の平地になってる。ただここには,獅子の他には祭祀的なものはなぜか皆無。つまり三御嶽の結界だけがあり,八重瀬城の配置と明らかに異質です。
 途中の階段が枝分かれして岩の下へ続いてる箇所がありました。元々はここが霊場と窺える。そうだとすれば,獅子と同じく,八重瀬岳を神体としてこれに距離をとりつつ拝む,という拝み方になりそうです。あたかも,久高島に対する斎場御嶽のような──
 0927,南へ再度走り出す。

■研究読解:沖縄本島の南北構造線

 日本列島を地質学的に東西に分けるフォッサマグナ(中央構造線)は,人間の文化的にも動物の生態的にも分岐ラインになっていることは知られています。
 沖縄のそれは,北谷・嘉手納町からうるま市のラインに当たるらしい。丁度嘉手納基地の場所,つまり1945年に米軍が沖縄の軍事力を分断させるように上陸した場所で,地質学的には沖縄は既に分断されていた──というのが,この旅行の直前(2018)に産総研が発表した地質調査です。

二本のスレ違い直線

 この研究は,水溶性天然ガス地層の本島南部海域における産出可能性を探る,つまり鉱業開発が主目的だったらしいけれど,次の二点の成果を付随的に得ています。
・沖縄島を囲む周辺海域の海洋地質図(表層堆積図・海底地質図・重磁力異常図)を整備
・沖縄島の並びの屈曲が沖縄島の地質の形成に影響を与えたことを発見
*産総研(国立研究開発法人 産業技術総合研究所)地質調査総合センター 地質情報研究部門 荒井晃作 副研究部門長ら:沖縄島の成り立ちには南北で大きな違いがあることを発見,2018
URL:https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2018/pr20181206/pr20181206.html

 歴史地理の面から重要なのは最後の点になります。つまり,沖縄本島の軸が南部(ここでは沖縄市付近より南)で屈曲していることの意味です。
 そう言われて沖縄本島を見直すと,国頭から嘉手納の地塊と水平に,勝連から南部のラインのある,二本のスレ違い直線から成り立っているように見えます。

図4 約500~600万年前から約160万年前までの間の堆積盆の位置
当時は島弧の軸(黒の破線)に沿って島が並んでおり、今の沖縄島の南部は海中にあったと考えられる。

国頭-嘉手納の沖縄軸線とその南の広大な「遠浅」地形

 素人の強みで単純化して理解したところでは──原・沖縄本島は,嘉手納基地より南が海没した形状で存在していた。──ちなみに,この原・列島軸を辿るとまさに慶良間諸島に当たる。慶良間こそ,原・本島だったわけです。
 この軸の南東に,三角形の「うるま沖堆積盆」という緩斜面が,その先の琉球海溝まで伸びています。この基本構造は現在も変わりません。
 それでは160万年前に何が変化したかというと──

図5 うるま沖グループの形成過程の模式図

「うるま沖堆積盆」の堆積が進み過ぎ,その後の海面低下で陸地化した。こうして沖縄南部──沖縄人の言う「なんぶー」(那覇・首里より南)ではなく,嘉手納より南全部がこの時に大規模に海上に浮かびました。
 南部の「うるま沖グループ」堆積は厚さ1500mにも達するのに対し,北部ではこの発達が極めて少ないことが観測されています。この違いについての説明がよく分からなかったけれど,単純に三角形だから,つまり北部では琉球海溝への傾斜面の面積が狭くて堆積の受け皿が小さいから,ということでしょうか?
 つまり,沖縄本島は古い嘉手納以北の地塊に,それ以南の遠浅地形が160万年前に隆起した新しい堆積地形,この二者から成っていることが,地質学的に実証されつつあるのです。
 この両者が,中世の北山と中山との勢力圏と概ね重なるのは興味深いものがあります。前者が漁撈・交易経済に,後者が農業経済に適性を持つ,という対照関係からでしょうか?

▲(再掲)「城火の神」祠内の神体

■レポ:八重瀬岳から噴火は見えたか?

 八重瀬岳に祀られる火の神群は,ここから火山噴火が見えたから,というのが最もわかり易いストーリーです。
 でも,沖縄県域にある火山は少ない。一般に,硫黄鳥島と西表島北北東海底火山の二つとされています。標高160mの八重瀬岳から,この二峰が見えるはずはありません。

久米島西海底火山のカルデラで確認されたプルームの魚群探知機による記録

2012年:久米島沖海底火山群の発見

 火山噴火を含む天変地異の記録は,実はごく最近のものしか残っていません。日本の火山噴火も,その山を神体とする神社を噴火の度に昇格させて慰撫した記録から分かるだけで,その手は沖縄には通じない。
 ただし,ごく最近,久米島沖に海底火山が複数存在するという発見がありました。

池原研副研究部門長らは、2012年8月20日~9月13日に海洋調査船「第七開洋丸」(499トン、日本海洋株式会社所有)による沖縄県久米島および鹿児島県沖永良部島周辺海域の海底調査を実施し、久米島西方海域において新たな海底熱水活動域を発見した。この海底熱水活動域は海底火山のカルデラ内にあり、活発な熱水活動を示すプルームを音響調査で複数確認したほか、海底熱水活動に関係して形成されたチムニーの破片と考えられる試料を採取した。また、同様なカルデラをもつ海底火山がこの熱水活動域に隣接するように複数存在するが、これらの一部からは熱水活動により形成されたと考えられるマンガン酸化物が採取された。

*産総研/
沖縄県久米島西方海域に新たな海底熱水活動域を発見
-カルデラをもつ海底火山における熱水活動-,2012/12/12発表
URL:
**琉球新報/久米島沖にレアメタル? 熱水活動域を発見 経済 2012年12月20日
URL:https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2012/pr20121212_3/pr20121212_3.htmlhttps://ryukyushimpo.jp/news/prentry-200531.html

海底熱水活動域が発見された場所

 報じられ方から分かるとおり,これはレアメタルの鉱脈探知の副産物です。久米島にだけある,という証明ではありません。──例えば,慶良間諸島の形状というのは,沖縄島前と似て,噴火口が水没したものにしか見えません。
 ただ,実証された久米島沖の海底火山が,ここでは有史のどこかで噴火したと仮定して話を進めます。
 久米島と沖縄本島南部の八重瀬岳は100km離れています。久米島の噴火が八重瀬岳から見えた可能性はあるのでしょうか?

1914年:桜島噴火の視認事例

 水平線はもちろん無限の遠みではない。通常の客船のデッキから見える水平線は,約16km先だと言われます。
*商船三井客船(株)/ここから見える水平線までの距離ってどのくらい? – かもめ課長のブログ【にっぽん丸 公式サイト】
URL:https://www.nipponmaru.jp/kamome-blog/20191104-9834/#:~:text=%E6%B5%B7%E3%81%8B%E3%82%89%E6%99%AF%E8%89%B2%E3%82%92%E8%A6%8B,%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

 次のサイト「keisan」は(生年月日→年齢など多機能かつユースフルなので仕事でもよく使う),どの高さから見える水平線が何キロ先か算出できます。20mだと先の16km程度,八重瀬岳の160mでも50km先は水平線の向こうです。
 沖縄本島から100km先の久米島を見るには,700mの標高が必要な計算になります。沖縄本島最高峰は与那覇岳503mですけどこれは山原地方。ちなみに奄美大島の湯湾岳で694.4m,屋久島の宮之浦岳なら1,936mです。
*keisan/地上から見渡せる距離 – 高精度計算サイト
 さて,20世紀の日本で最大の火山噴火は1914(大正3)年の桜島噴火でした。ちなみにその前は,江戸期の浅間山だと見られています。
 近代にある程度のメディアが発達してからの噴火なので,記録は豊富です。これを山科健一郎さんが論文にまとめています。この中に,桜島の噴火が種子島や宮崎,甑島から見えたとする記録があります。以下,行政機関の報告書に残った種子島のものを挙げます。

種子島の熊毛郡役所(1914)の報告には,「本日[十二日]午前十一時頃ヨリ北西ニ当リ砲聲ノ如キ音響を灰[ほの]カニ聞クト同時ニ絶へス戸障子ハ微動ヲ感シ且同方面ニ当リ灰色ノ雲霞ニ似タル煙ト覺シキモノ盛ニ昇騰シ東方ニ向ツテ靉靆スルヲ見タリ(略)日没ヨリハ煙ノ上ニ電光ノ如ク時々火光ヲ顯ハセシニ(略)」と記され,
*山科健一郎「論説 桜島火山1914年噴火の噴煙高度一目撃資料の検討」火山第44巻(1999)第2号71-82頁

 種子島-桜島間はほぼ百km。つまり久米島沖で桜島同等の噴火が起これば,このような景色が見えたことになります。
 先の水平線と標高との関係からすると,噴煙の方が高く上がっているためです。山科さんの引用では,鹿児島の複数の算術者が噴煙の高さを測定しており,その結果は大変疎らながら5〜15千mと記されます。

(続)また,熊毛郡長の中山(1914)の報告には,「十二日午前十時頃ヨリ北西ニ當リ遠雷ノ轟々タルガ如キ音響ヲ聞キ仝シク異様の雲烟盛ニ天ニ沖シ殆ド数萬尺ノ上ヨリ倒レテ靉靆北東数十里ニ走レリ殊ニ當日ハ稀ナル靜穏ノ天候ニシテ猛烈に昇騰スル有様名状ス可カラス(略)鳴動ハ殆ンド終夜持續シ仝方面ニ火光ノ或ハ電氣ノ雲間ヲ走リ或ハ爆発ノ天ヲ焦スカ如キ凄愴ナル状ヲ認メタリ」とある。[前掲山科]

 種子島から見た桜島噴火は,「何とか見える」というレベルではなく,この程度に驚天動地の光景だったわけです。いつの時代かの八重瀬岳にも,そのように肝を縮ませ神に祈った人たちがいたことを想像させるのです。
 沖縄本島の人々は,基本的に火山を知らない人々です*。それが「鳴動ハ殆ンド終夜持續シ仝方面ニ火光」という情景に突然接するなら,これに宗教的な畏怖を感じるのは道理でしょう。
*沖縄県には火山が少ないという先の事実は歴史的にも変化していないと考えられか,星野之宣「ヤマタイカ」のイメージには敬意を表するけれど,これに関わらず,沖縄人が噴火慣れしていない人々であることは否めないと考えます。

1914年桜島噴火時の写真

■戦史:南部戦線最後の組織的戦闘 八重瀬岳攻防戦

 以下,沖縄第32軍の八原高級参謀の記録からの抜粋を3つ挙げます。後の2つは1945年6月12日と15日のもの。
*沖縄戦史/具志頭・八重瀬岳地区の戦闘
URL:https://web.archive.org/web/20171110125954/http://www.okinawa-senshi.com/shimajiri2012.htm

6/6:海軍勝田大隊を八重瀬山上に配置

 八重瀬岳頂上は6月14日に米軍第381連隊によって制圧されるけれど,その時点でも丘各所の洞窟から出没する日本軍と夜通し闘っていたという。
 米軍が八重瀬岳〜具志頭への攻勢に出たのは6月6日。その初手が第381連隊の八重瀬岳急襲で,これは日本軍に辛辣に撃退されています。ということは,次の八原記録は6日より前です。

【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
独立混成第44旅団は、平賀特設連隊(特設第6連隊)をもって八重瀬岳を、爾余の旅団主力をもって、与座・仲座を中心とする平地方面を占領した。ところがこの肝心な平賀連隊が八重瀬岳を直接占領せず、その北東麓断崖下に陣してしまったことが後日判明した。高地上は飲料水がなく、砲爆の目標となり、しかも拠るべき陣地がないためなのか、或いは部隊の素質に鑑み背水ならぬ背断崖の陣地を占領したのか? いずれにせよ、重要な八重瀬岳ががらあきになり、万一平地から敵が突破侵入してこの高地に駆け上がれば、苦もなく敵に落ちる。 そこで私は同高地の占領を強化するように督励したが、独立混成第44旅団は海軍勝田大隊を山上に配置したのみであった。[後掲沖縄戦史]

 戦史家の間では,八重瀬山上に部隊は配置されたのか,それは勝田大隊だけだったか,独立歩兵第23大隊の一部(同大隊第5中隊と言われる)もいたのかが問題になっているらしい。でもとにかく,八原参謀の頭中では八重瀬岳防御は最重要事と見なされていたことはよく分かります。
 素人のワシとしての興味は,なぜこの八重瀬岳がそれほどの要地になったのか,という点です。

現代の糸満市から見る南東方向の高地群

 日本ではほとんど書かれないのが,糸満南東の国吉台地での10日間(6月10〜19日)の戦闘です。米軍側はこの段階でのこれだけの抵抗を非常に高く評価する者が多い。バックナー中将はこの末期に真栄里で戦死しているし,歩兵第32連隊は地下壕に籠もって何と8月29日まで戦闘を継続しています。
 つまり,糸満から摩文仁に米軍は簡単には通れなかった。だから米軍は東側から侵入することを求められたけれど,その防御の中核になっていたのが八重瀬岳だったわけです。
 6日に撃退された米軍はその後10日間,猛攻を繰り返しました。

6/12:敵の戦車十数両が八重瀬岳に

【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
12日の夕方、軍砲兵高級部員砂野中佐から怒気を含んだ声で電話がかかってきた。 「敵の戦車十数両が二、三百の歩兵を伴い、安里から122高地の東側を経て八重瀬岳に進入中だ。同方面には旅団の兵が一人もおらず、今軍砲兵隊の一部で阻止している。 いったい旅団は何をしているのだ。不注意千万にも程がある。八重瀬岳は東方に対する重要な軍砲兵の観測地帯だ。これを敵に取られては一大事だ。早く軍において、対抗処置をとってもらいたい」と凄い剣幕だ。[後掲沖縄戦史]

 八重瀬〜具志頭の戦線で,米軍は,基本的に八重瀬岳の南側に回り込んで方位しようという行動をとっています。これに平行して,西でも与儀岳との間を拔けて側面を取ろうとする。この動きに対し,日本軍は連携する通信手段も不全のままに10日間持ち堪えたわけです。

1945/6/6(上)・13(中)・16(下)日米戦況図

*沖縄戦史/具志頭・八重瀬岳地区の戦闘
URL:https://web.archive.org/web/20171110125954/http://www.okinawa-senshi.com/shimajiri2012.htm

 結果的に,末期の南部戦線は,八重瀬岳を落として米軍が東から侵入することでようやく崩壊するに至っています。与儀岳はなお16日までは日本側が死守しています。つまり,南部戦線での,事実上の最後の決戦は八重瀬岳を巡って闘われているのです。
 ここから先は,映画などでよく描かれる一つ一つの洞窟を潰していく戦闘光景になるようですけど──この6月半ばに闘われた八重瀬岳の戦闘は──生存者がほぼなく,記録がないために語られない。

(12日続)私は独立混成第44旅団司令部の京僧参謀を電話に呼び出し、軍砲兵の報告通りの戦況か否かを詰問した。
京僧参謀は落ち着いた調子で 「こちらにも同じような通報があったので、将校斥候を派遣して偵察させたが、八重瀬岳の山中には敵影を見ない。なるほど、122高地東側付近より米軍が突破侵入せんとする気配はあるが、既に報告している通り、旅団としては配兵しているし、さらに旅団長の指揮下に入った臼砲第1連隊もこの正面におることであるからご安心願いたい」 との返事だ。[後掲沖縄戦史]

6/15:日本も敗亡の途をたどることであろう

 この京僧少佐という人は,対戦車築城分野の専門家だったという。歩兵学校に所蔵し,対戦車戦闘を重視した沖縄第32軍の要請により沖縄に派遣されていた,ということはおそらく八原参謀の意向を受けています。当時は,戦況悪化で帰還できないため,独立混成第47旅団司令部の参謀として配置されていました。
 この専門家ですら,12日時点では八重瀬岳の前線は維持できると考えていたらしい。ところがその3日後には──

【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
 15日夜、独立混成第44旅団参謀京僧少佐がやって来た。 彼は一般の状況を報告した後、声を落とし例の親しみ深い語調で次の如く語った。
「今では旅団は手も足も出ません。軍の右翼戦線を崩され、誠に申し訳ない次第ですが、各部隊長は空しく死んで行く部下を見殺しにする無念さに、皆男泣きしています。いくら戦っても、ただ我が方が損害を受けるのみで、戦果が揚がらないからです。これは各部隊長の最後に当たっての私的意見ですが、もはや沖縄における我が軍の運命は尽きた。大本営は何らの救援もしてくれない。残念ながらやがて祖国日本も敗亡の途をたどることであろう。この秋(とき)にあたり、我々は何とか処置はないだろうか・・・と言うのです」と京僧はいかにも言いづらそうに口ごもった。[前掲沖縄戦史]

 沖縄戦史著者は,この京僧から八原への進言を「暗に降伏を示唆したものと思われる」と解説しています。
 32軍の最後の段階で,実務者レベルで交わされた会話としては,非常に決定的な意味を持つものです。
 八原参謀が,これにどう答えたかは記されていません。

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