m132m第十三波m水盆の底や木目の眩みをりm川内観音(破)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

▲上:千里が浜以西 下:川内町中心部(上地図の西端部)

成功への道からポロボウラーへの道

▲「成功への道」

功への道を辿ろう。1044。
 処世的にはそう成功していないのであやかろうとしたら……え?見えてきたのは金比羅神社?
 お狐さんかい。こりゃあんまりあやかれそうもないな。成功はどこだ,ワシの成功は?
 いや?その右手でした。「功盖千秋」とある新しい祠。
 手前に鄭成功母子像。間違いない,成功だ!

▲1048博物館の敷地

転車を停める。
 見た感じは日本の普通の神社です。
 鄭成功の形を取った絵馬がある。漢字だけで書かれたものもあるから,中国人も来てるっぽい。「偉大的中華民国」の文字──やはり台湾人が多いのか。

▲鄭成功絵馬。てゆーか,隣の日本語のは,なぜプロテニス選手がボウリングのプロを目指す?

鄭成功記念館に海神はいたか?

の前面にある鄭成功記念館は,完全に観光用。2010(平22)年に鄭成功生家再現事業計画がたてられ,2012(平24)「鄭成功を活かした中野まちづくり委員会」発足,2013(平25)の記念館開館となる。
※ 鄭成功記念館整備の歩み\鄭成功記念館 長崎県平戸市
 けれどこの配置は──ここが単なる作り物でないことを物語ります。

▲ともに国土地理院地図
上地図:平戸島北部全体
下地図:川内中心集落

内湾最奥,鄭成功廟や元祖丸山のあった岬の付け根に,僅かに南に突出した高台の先に当たります。何らかの霊地に思えます。元の金比羅は以前からあったもので,後から海神繋がりで媽祖が祀られたのではないでしょうか。

▲川内集落における鄭成功記念館の位置

戸には1550年に初めてポルトガル船が入港,1609年にオランダ商館、1613年にはイギリス商館が建っていました※。川内にも,オランダとイギリスそれぞれの活動の痕跡があります。
 元祖丸山の山手にはオランダ商館倉庫,北側にはイギリス商館のコックスの干薯畑(日本初の薯畑と言われる)がありました。川内港からはオランダ船錨と推定される錨が引き揚げられています(松浦史料博物館に展示)。この中でのこの,何かの海神の霊地はどういう性格の場所だったのか……想像を絶するのです。
川内港\CRUISE PORT GUIDE OF JAPAN\国土交通省
平戸島川内 かつては商館や遊郭まであった平戸の副港

※「たびなが」によると,イギリス商館は「オランダのハーグ国立文書館保存の1621年(元和7)の古地図によれば、今の親和銀行付近にアーチ式門、円筒形の建物が見え」るという。位置→GM.
第8回 大航海時代を物語る平戸城下町\旅する長崎学 ~たびなが~

▲文化財の妈祖像

祖,いや,まず,手前の「媽祖」廟から御参拝します。
 文化財になってる媽祖様が,ちゃんと祀ってあります。形式通りに千里眼と龍風耳とある随神二体も左右にいる。
 右手は彰化県鹿港天后宮寄贈の媽祖様。
 左手は台南市鹿耳門天后宮寄贈。
 その右手下壇に小さく,鄭成功生母・マツの位牌もありました。

▲1106祭壇の台湾妈祖

ちらには案内人のおじいさんもいて,ここがメインだよ,という雰囲気なのですけど……何だか整い過ぎてるし,あまり地場で拝まれてる気配がない。祭壇も,このおじいさんが手入れしてる感じです。
 なので一通り見て,裏手高台にある川内観音堂へ。1118。
「成功への道」側から見ると,記念館→媽祖廟→観音堂と高所へ連なっている配置です。金比羅は観音堂の右手東側。つまりこの高台が,本来の霊地と思われます。

テレサテンな妈祖様

▲川内観音堂

音堂の戸口は開いてない。おじいさんの媽祖廟とは打って変わって,ウェルカムな空気が皆無です。
 さっき主のおじいさんに「裏の観音さんは,ここと関係ある?」と訊いても,「さあ?」という口調でした。表示も第九番札所となっている。
 けどやっぱり中を覗くと……やはり妈祖です。戸口の間から激写してみる。

▲観音堂の妈祖

っぱり祀り方は普通に日本風です。ただ,地元で祭壇周りを整理してる気配。
 ここの境内から右手に小道が伸びる。辿ると小さな狐の祠。これが金比羅でしょう。
 テレサテンの夜来香が流れてくる。中国ムードのBGMってか?

▲1122小さな狐の祠への道

様への小道から集落を眺める。
 雰囲気のありそうで,ごく普通の過疎村のようにも見え,際立って指摘する点がない。この辺りに古い集落があったのだとしても,あらかた新しい敷地か野に埋もれたかしてる気配です。

▲1123博物館山手の民家にて

松浦鉄道車内で蒲鉾が買えた頃

れは川内地区の集落全体についても言えるようで,家並みはもちろん,石垣や道筋にも古みは特に感じない。
 港沿いには蒲鉾屋が立ち並ぶ。後で調べても,今はほとんどの観光客はこの蒲鉾を目当てに来るらしい。せっかくなので購入。
1135桝田蒲鉾店
えそ蒲鉾,あご天

▲川内かまぼこ(えそ)

ントに朝から売れてるらしく,この時間でも売り切れ多数。客層は観光客より地元の方が多い。夜に食べると──ホントに旨い。生々しいけど淡白で上品な味覚です。
 香港など広東系の魚丸に似た風味──と歴史を辿ってみたけれど,伝わっているのは明治期に関西方面からの漁民から技術移入したというもの。事業者数は昭和20~30年頃の百前後をピークに,平戸の観光化に伴って専売化したという。
 ただ以前は,この蒲鉾の行商は風物詩だったとの記述も見つかります。

▲川内かまぼこ(あご天)

師のオカミが、近郷近在の農家から島内の主要消費地である旧平戸町までリヤカーを引き、あるいはオウコに背負い行商人として売り捌くのである。島外は県北随一の都会である佐世保へ、ことに戦中・戦後は、海軍橋周辺に陣取れば、忽ち売り尽くすほどだったと言う。また最近まで、平戸桟橋の連絡船内や国鉄松浦線の車中などで繰り広げられたあの凄まじい行商合戦は、地元平戸の方なら何等説明の余地はない。
※ 特徴・歴史 | 川内かまぼこ 白孝屋(しらたかや)
出典として追記:「川内浦の蒲鉾(川淵 龍)」「平戸城民俗資料館」など

──何と!MR車内で蒲鉾を売ってたとは……それはまるで釜山地下鉄じゃないか!
 今も佐世保駅前に並ぶ行商は,平戸や五島からのそういう人たちの名残りなのかもしれません。

▲1130川内の集落中心部

路につく。
 やはり海面から30~50mの高台が目立つ地形です。瀬戸を挟んだ対岸もそうらしい。段丘と言っていいんでしょうか,それともリアス式海岸っぽいということなのか。

▲1139児誕石の湾にて

王直は牛蒡餅を食ったか?

掛バス停。1355。──ここから鞍かけて馬に乗れる,とかの地名でしょうか?
 ファミマで正午の鐘を聞く。
「子泣相撲会場」?という看板を見かけてメモってる。調べると──この地方から長崎にかけてある節分行事なんだって。「土俵上で1歳前後の幼児が泣き声を競い,早く泣いた方が勝ち」……ってのは赤子の泣き声に悪霊退散の効ありとする発想からだという。知らなかったけど,DV法的にギリギリじゃないのかそれ?
子泣き相撲|長崎・平戸の節分名物/平戸 | たびらい

▲子泣相撲の現場写真

内へ帰着……したけど急いでた。売り切れ?という懸念がよぎったからですけど──
 よし,まだあった!
1210牛蒡餅本舗熊屋
本牛蒡
 観光サイトには「松浦鎮信流の茶菓」「百菓之図掲載」さらには「王直伝来」と書かれる,カスドースと並ぶ平戸銘菓である。

▲ごぼう餅

で食すとシンプルかつ黒砂糖と薬じみた苦味が旨い。
 中国の菓子,と言われると少し首をひねるけれど,和菓子にはあまりない剣呑さがある味覚です。
 で,食いながら「百菓之図」掲載というのを原典で確認してみました。

▲百菓之図掲載の「牛蒡餅」
上から①百菓之図現物
   ②関係掲載部
   ③「カスドス」
   ④「山椒羹」

椒羹」が現在の牛蒡餅だ,というんだけど──ホントか?史料との類似って……黒いだけじゃね?
 だから王直の……というのも根拠とかいうと,客観的に薄いように見える。
「牛蒡」餅なのは,古くは本当に牛蒡粉を混ぜてたとか,色形からの類想とか説明されるけれど,個人的には──王直の異名「五峰」※に由来してたら面白いな,とも思いますけどね。王直の名を語り継ぐのは憚られるから「牛蒡」と書いた,とか。
※ 有吉佐和子(「日本の島々,昔と今。」)に(王直が)「種子島の砂浜に書いたという五嶋という文字が誤読されたからかもしれない」との記述がある。三宅享が「倭寇と王直」の注に記述しているけれど,学術的には論じられていない。

▲熊屋ガラスケースはハロウィン

平戸松浦王宮へ参内す

戸の町は微妙でした。
 古い風情がないわけではないけれど,観光色が表に出過ぎててあまり浸り切れない。かと言って,ちょっと脇を入るとこんな川沿いとかもある。長崎的に細かく歩くと,色々あるんでしょうか?

▲中心集落の川

て,まだ今日は飯にありつけてない。
 昨日の佐世保ではカレーに走ったので,まだちゃんぽんを食べてない。平戸ったってあるだろ?と急遽探して見つけたのが──
1221めしどころ一楽
あごちゃんぽん510

▲今回初ちゃんぽん

子抜けしつつ,満足の味でした。
 唐あくは感じない。味噌のような色になってるけど味噌もない。でも八幡浜のよりかなり濃厚。瀬戸内と同じで出汁が濃いらしい。おそらくアゴです。
 にしても──
 野菜が旨過ぎる!!出汁を吸ってるからでしょうか,旨味が絡み付いてる感じ。これにさらにアゴ天が載る。
 最後の一滴まで啜りました。
 常連はちゃんぽんじゃなく親子とかとり天とか頼んでます。有名店なのにモロ庶民的な店内。ちゃんぽんにこだわらず,どれもイケそうな店です。

▲1304鍛治屋小路

301。自転車を返却する時,初めて記念館まで行ったと白状すると──呆れられました。
 1302,鍛治屋小路。「小路」はジュージと読むとある。どこの語感だろう?
 隣の地蔵小路に入る。按針坂とあるadと祠。右面に六面を向いた仏塔。

▲1306花に埋もれる六面仏塔

のさらに奥は「御部屋の坂」。付近は御館(おたち)と呼ぶ平戸松浦氏居宅。この坂は中程に御部屋様なる側室屋敷があったという。つまり後宮か。
 一楽前には堀がありました。あそこから東の岬が城域だったらしい。古地図を見ると,この町は湾の北側沿いに形成された港町が元になり,それを圧するように配置された円状の城域区画がある。その間の,かつての湾奥の浅海が埋め立てられて新市街になった,という構成らしい。
 さて町を歩こう。

▲「平戸城下家中之図」市街部分
※ 「平戸城下家中之図」(1810年/松浦史料博物館所蔵):赤線は江戸時代の道

■小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係

 いわゆる鎖国令は,鄭勢力その他明朝勢力に対し,援軍を含む関わりを絶つために採られた,通説よりも積極的な外交政策ではなかったか?──という疑問提起です。

既に鎖国体制に入っていた江戸幕府は軍事的な支援には否定的であり、(略)支援そのものには黙殺の姿勢を貫いた。※1 wiki/日本乞師/概要

というのが通説でしょう。教科書的な解釈ならこの説明で納得してしまいそうです。
 教科書的な,とは,鎖国が消極主義=「退縮の姿」という井伊直弼の海防論以来のイメージ,ということです。

籠城も橋を引候得ば、居すくみに成、終始は難保、又川を隔戦ひ候にも、渡りて打て掛り候方勝利を得ると伝承候。行く者は進取之勢あり、待つ者は退縮之姿にて、古今之勢、必然に相見え候。祖宗閉洋之御法には候得共、支那和蘭之橋ばかりは残し被置候。
※2 井伊直弼の言として下記書に記述
・小林庄次郎「訂正増補大日本時代史 幕末史」 P.183 1915年
・雑賀博愛「大西郷全伝 第一巻」 P.295 1937年

▲浮世絵「國姓爺合戰」に描かれる鄭成功

1[事実関係]日本乞師を巡る周辺諸史料

1-1 日本援兵を求めなかった鄭成功

 最初に押さえておくべき点は,鄭成功が日本の援軍を求めた事実はない,ということです。
 この誤評の元になっているのは,1717(享保2)年刊行の「国姓爺忠義伝」に「国姓爺深智乞和兵」節があるかららしい。ここでの「国姓爺」は鄭成功の別称です。

国姓爺の援兵を我日本に請ひけるは実事にて,松平紀伊守の臣松崎左吉の著はせし窓のすさみ拾遺といへる書にたしかに載せたり。左に挙ぐ……
※3 西村富次郎編「国姓爺忠義伝」「国姓爺深智乞和兵」,154p

 出典としている「窓のすさみ拾遺」は,松崎尧臣という儒学者による享保年間の幕政見聞録で,この当時既に清朝に敵対する南部政権は滅びてます。よって過去の19回の「乞師」(援兵)のどれかが論じられた記録が出典ですけど,現在の通説は1646(正保3)年の鄭芝龍(鄭成功の父)発の南明による要請時に幕府内で交わされた激論について回想したものとされます。
 父子だから同じようなもの,と考えてしまいがちだけど,まさにこの1646年に父・芝龍は北京に投降してる。それに対して,その後も抵抗を続けたのが子・成功です。この段階では既に別勢力の色彩が強い。
 つまり,「鄭成功による日本乞師」と誤解される元となっている事実は次の3つです。
①鄭成功は南明政権の軍事的パトロン勢力だった。
②南明政権は日本へ援兵を要請した。
③南明政権滅亡後,鄭氏の台湾政権(二代・鄭経,三代・鄭克塽)もその「一方的親日」路線を継承した。
※4 年旭「南明情報の日本伝来とその影響」東アジア文化交渉研究9巻,2016
 だから台湾鄭氏王朝は,日本の援軍を前提にしたものでも,その援軍の有無で運命が決したものでもなく,創始時点から独立の軍事勢力を構想していた,と推測されます。おそらく20Cの台湾と同じ発想で,そのことからも(内部崩壊さえしなけれび)極めて現実的な選択でした。
 ただそれはひとまず置きます。ならば日本に援兵を請うたのは何国なのかというと,南明と呼ばれる諸勢力です。
▲南明の最大勢力圏(上図)及び1646年以後の永暦帝一行の進路(下図)

1-2 手当たり次第に援軍を募集した南明

「南明」という明朝より下位を指す語感の名称は,もちろん征服者・清朝側の呼称です。
 1644年に李自成の農民軍が北京を陥とし,明崇禎帝は自害。李自成は明の禅譲ではなく自王朝「順帝国」を建てたので,ここで清朝側の公式見解では明朝は滅んでます。
 この段階では首都を失っただけ,上地図のように南部の巨大な領土を持っていたわけですけど,福・唐・永明の3王(三藩),さらに鄭成功の担いだ魯王を加えて四藩に分裂する。いや正確には相次いで4人の先帝子息が担ぎ出されてて,よく読まないと訳が分からない。うち福王は史可法に担がれ,これが十日で80万と書かれる揚州大虐殺(→揚州再訪編31■小レポ:史可法)に繋がります。
 4王とも北京を追われて流浪したけれど20年と長らえなかった。永明王(即位後,永暦帝)がビルマまで逃れた後に捕らえられ昆明で殺害されたのが1661年。同年,大陸の抵抗拠点を捨て台南のオランダ領を攻略した直後,鄭成功と魯王も病死。
▲孝正太后(永暦帝の嫡母)によるローマ教皇への救援要請

 時点は不明ながら,永明王の母親名義で上記の書名が伝わる。ラテン語への翻訳者名「卜弥格」まで語り継がれてる。
 ビルマへの「亡命」といい,完全に他勢力頼みです。史料は出ずとももっと考えうるあらゆる勢力に要請したのではないでしょうか。日本への初回の援軍要請※は1646(正保2)年,北京を追われ揚州が陥ちた翌年です。
※5「日本乞師」の回数は,最新の通説では16回:石原通博『明末清初日本乞師の研究』正篇「明将周鶴芝・冯京の日本乞師に就いて」富山房,1945 1-27p 南炳文「南明首次乞師日本将領之姓名考」『史学月刊』2002年第1期
「環・東シナ海同盟軍」のような大きな構想を鄭氏が持ったのでは?という期待も実はしてましたけど──中華思想の建前を鵜呑みに考えうる全ての朝貢国へ救いを求め,自力では政治的にも軍事的にもなすすべもなかった,というのが現実のようです。鄭成功亡き後の台湾政権も同様。
 対照的に,東シナ沿海の制圧を目指し,最後は台湾での完全独立を企てた鄭成功であってこそ,たとえ母親の出身国ですら援軍を頼むことはなかった,ということではないでしょうか。
 だから,援兵を請われた徳川幕府も,援軍の相手は旧王朝「南明」であつて,台湾新政権「鄭氏」に対して,という認識はなかったはずです。もちろん鄭成功への援軍,という認識はなかった。
 この点は,現在の研究では確定的なものになってます。明末清初の幕閣への外交情報伝達者・林春齋の著書上,鄭成功が全く別の人物・鄭彩と混同されているからです。要するに,援軍拒絶当時の徳川幕府は鄭成功を知らなかった。

福州陥,芝龙为降虏,然其子森官,名彩,字成功,俗呼曰森官,尤奉明王,纔保南隅,賜国姓,号朱成功。
※6 林春齋「鹫峰先生林學士文集」巻四十八「呉鄭論」大阪大学図書館影写本

もう一人の明末海賊・鄭彩

 林春齋やその情報源だった中国海商が誤認しても仕方ないほど,鄭彩という人は鄭芝龍・成功と交差する人物です。

郑彩(1605年-1659年),字羽长,明末海盗,后受招安为将领。泉州府同安县安仁里高浦人。1625年(天启五年),与父亲郑明一起投奔郑芝龙,并自称郑芝龙的同族。
※7 維基百科/郑彩

「鄭氏同族」を称したけれど泉州同安県出身で,「父親の鄭明とともに鄭芝龍軍に参加した」のだから,鄭成功の近親でも鄭成功本人でもない。
 維基は「1659年卒于厦门」──1659年に厦門で死んだと書くけれど,これは諸説あるらしい。1655年に隐元和尚の渡日時に鄭彩は詩を送っており,かつ1663年に清兵の厦門大虐殺時に鄭彩の棺が暴かれた記録がある。この2事から,1655~63年に,いずれにせよ厦門で亡くなっている。
 もちろん,台湾には渡った記録はない。

1-3 海外出兵の機運があった日本世論

①1645(正保2)年 林恩(唐王(隆武帝)参将)からの書状2通(発信者:水軍総兵官・崔芝 主旨:隆武帝即位)を長崎奉行が受領,同時に口上として援兵の旨が伝えられる
②1646(正保3)年 黄徴明(隆武帝使者)からの書状(発信者:鄭芝龍 主旨:援兵)を受領
 ①が初回,②が二回目の乞師とされます。
 ①の口上内容とそれへの対応は,長崎奉行の公式報告「華夷変態」に書かれておらず,朝鮮使節の記事に残るだけです。

日本正官平成統来言,大明送使,請甲兵五千来援,而日本於明朝素無相交之義,不肯出兵。
「朝鮮仁祖実録」巻47,仁祖24年正月甲戌

 ②への回答は華夷変態に明記されてる。

福州既ニ敗レヌル上ハ,加勢ノ沙汰ニ不及ト,徴明ガ使者に申シ渡シ,進物共受納ニ不及,可令帰国と被仰出
※8「華夷変態」巻一「芝龍敗軍」24p

 つまり,①では明朝と日本は「素無相交」外交関係もないから,②では福州で既に敗れてるからとして,出兵を断ってます。特に,書面で援兵請求のあった②では「進物共受納ニ不及」贈り物も受け取り拒否して追い返してます。
 ただ,②の段階での朝鮮使節報告は

大納言※※欲赴援南京。……大君,叔父二人曰宣暇道朝鮮,出送援兵
※9「朝鮮仁祖実録」巻47,仁祖24年11月辛亥,12月甲午
※※権大納言だった家光と推測される。すると大君は秀忠を指すことになる。

と出兵ムードの高まりを伝えている。
※ ネット記事には「尾張義直は総大将を,紀伊頼宜は海軍の総帥を,水戸頼房は先陣を,などと強弁し出兵を主張」「徳川御三家が派兵に積極的で,紀伊侯は『天下に浪人を募ったらすぐに10万人ぐらいは集まるだろう。自ら総大将になって攻め入り、日本武士の手並みを見せてやろう。あぶれている浪人対策にもなる』と大乗り気」といった記事もあります。そうであってもおかしくないけれど,史料が確認できませんでした。
 また,幕府は世論の調査も行っていたらしい。

今度大明より御加勢申請度由越候義,唐王・一官かんなと越申候事,其元京都なとニて町人・牢人共如何取さた仕候哉,具ニ承可申上旨上意ニ御座候。※10「永井家文书」「江戸幕府近习出头奉书」「高槻市史」巻四,高槻市役所,1974 693p

 幕閣での議論は伝わらない。ただ「窓のすさみ」は家光が乗り気だったのに稲葉正勝の反対論が勝った,と書く。

本国の名折なれば,加勢遣わされなんとて,上意ありし時,各有無の御請なし難く見合せられし
※11 松崎尧臣「窓のすさみ追加」,稲葉正勝国姓爺への加勢に反対す 有朋堂書店,1915 255p

 稲葉の反論がどういう論拠のものだったのか,原文がみつかりませんけど──逆に賛成論者の名前が記されないのは,誰が特に,ということなく総論的には援兵すべし,との機運があったから,とも解せます。
 ただ,ルートからして極秘事項だったはずの援兵が,外国にも漏れ,巷でも知られている。幕府では相当話題になった議論だったと推定されます。また,世論を探らなければならないほど,民間での出兵熱の高まりが恐れられた。大阪の陣から30年,戦国の荒ぶる武者が血を欲してもおかしくない時代です。
 ただ,世論が高揚した,というにしては史料が少ない。台湾を領有していた戦前からの日本乞師研究の過熱ぶりほどには,つまり太平洋戦争前や日露戦前の狂気じみた好戦志向ほどには,江戸初期の海外派兵熱は高くはなかったと思えます。まさに,せいぜい「本国の名折」といった感覚でした。
▲東山島(福建省東山県)海底の鄭成功船隊遺跡で発見された「鳞甲残片」

鄭成功軍精鋭「鉄人部隊」「倭銃隊」伝説

 鄭成功軍団には,装備や戦術から,日本武士が参加していたと見られる。日本人又はマージナルな旧倭寇構成員は,公式な援軍要請以前から鄭成功軍に参じている。むしろ,だからこそ南明や鄭氏政権は,日本に公式な援軍を求めたのである――――という仮説も作れるんだけど,どうやらそれは,ややロマンの世界になってしまう。なので,まあ,そういうこともあり得たかもね,という以上は深入りしません。
 ただ,今の前提になっている「装備や戦術」が日本武士風というのはいくらか史料的根拠があるようです。

画样与工官冯澄世,监造坚厚铁盔、铁铠及两臂、裙围、铁鞋等项,箭穿不入者。又制铁面,只露眼耳口鼻,妆画五彩如鬼形,手执斩马大刀。每人以二兵各执器械副之,专砍马脚,临阵有进无退,名曰铁人。[台湾外记 卷四]

――――描かれるところでは,分厚い鉄甲を纏い,両肘・首回り・足元を鉄で覆っていて矢が通らなかった。鉄面から目・耳・口・鼻だけを露出し,鬼の形相で,手に「馬斬り大刀」を持っていた。二兵が組みになり,馬の脚を斬捨てるのを戦法とし,退くことを知らず,「鉄人」と呼ばれた。
▲オランダ東インド会社の「乔治弗郎希斯·米勒」の旅行日誌に描かれた挿絵中の,鄭成功鉄人軍団兵らしき人物

郑兵不动。俱铁甲胄、铁面头子,止露两足;用长刀砍骑,锐不可当。射中其足,则拔箭更战[明季南略 卷十一]

――――鄭成功兵は動かない。鉄の甲鎧を付け,鉄兜をかぶり,両足だけを露出している。長刀を用いて馬を斬り,鋭気あって当たるすべがない。その足を射ても,すぐに抜いて更に戦う。
※12 大明最后的重步兵:郑成功铁人军_百科TA说
▲オランダ兵士が描いた鄭成功-オランダ戦闘スケッチの中の「鉄甲部隊」

 中国史料中には,①鉄で身体を覆って②長刀を持ち,③2~3人が一組になって④馬(の脚)を狙って来る,というのが反復されるらしい。①の外見はオランダ側に画像として多数残っているから,この点はかなり確からしい。
 なお,ネットには「倭銃隊」という,日本式の種子島銃を所有した鉄砲隊が描かれるけれど,こちらは史料的にはヒットがありませんでした。
 まあ,鄭成功を含む海賊軍はマージナルな意味での倭寇と母体が同じと見るべきで,その軍が当時最も戦闘慣れしていた日本武士の装備・戦術を有した,というのはある意味当然でもある。また,旧倭寇集団なんだから,相当数の日本人が含まれ,ひょっとしたら松浦党などは一部が同化していてもおかしくはないでしょう。ただ,そうだとすれば,中国の蛋民も日本の家船も陸上民から差別又は異人視されてきていたわけで,彼らが参加を「日本は非公式に援軍していた」と豪語するのは,はっきり言って都合が良すぎるように思えます。
▲1654年に順治帝から下賜された琉球国王印(1756年改印)

1-4 琉球が綱渡りした「等距離外交」

 南明政権は,貿易立国・琉球にすら援助を求めています。
 琉球は,軍事・政治的な立場の弱さに加え,おそらくクレバーさ故に,南明を援助しています。それも大陸南明三藩だけでなく,その後の南部反乱政権・三藩も援助してる。一方で北京の清朝に対してはだらだらと,何と10年も冊封を延ばし続け,清政府側がキレる一歩手前の綱渡り外交をやってのけてます。
 1609年に薩摩の侵攻を受けて35年,論者によっては主体性を欠いていたはずの時期の琉球です。兵力がないのは中国側も知ってるので,琉球側の貿易品の手駒は鉄砲の火薬原料・硫黄です。

[対明]王銀詐取事件

 1644年北京陥落の7年前,琉球使節は密貿易摘発事件を起こし.白糸貿易を禁止されています。だから,当時の琉球の最大の外交課題はこの白糸貿易の再開許可でした。
 次章で詳述しますが,この課題は,琉球よりむしろ薩摩,さらに江戸幕府にとって本質的なものだったようです。

尚豊册封の翌年(1634 年)、薩摩藩は琉球の進貢貿易に介入し大量の資金を投入した。福建へ派遣された琉球使節は明朝の白糸貿易取り締まりが厳しいことを知りながらも、薩摩側の要求(圧力)を回避できず、福建で牙行(仲介商人)や通訳らの協力を得て大量の白糸を購入した。福建当局は琉球人が購入した白糸を密貿易品として摘発・没収した。同様の密貿易摘発事件は二年後の崇禎 9(1636)年にも繰り返された。明朝は翌年(1637 年)以降、琉球の白糸貿易を厳禁した。以後、琉球側にとっては、白糸貿易の再開・許可をかちとることが大きな課題となる。
(略)薩摩の期待に反して白糸貿易に失敗した尚豊王は、薩摩当局から拝領した抹茶を飲んで即死した。
※13 西里喜行「明清交替期の中琉日関係再考 : 琉球国王の册封問題を中心に」琉球大学,2010
※ 当該部分の出典として挙げらているもの:土肥祐子(1994)「中琉貿易における王銀詐取事件」『史艸』35 号、東京 及び 西里喜行(1997)「中琉交渉史における土通事と牙行(球商)」『琉球大学教育学部紀要』第 50 集、沖縄

 史実との確認は無理でしょうけど,上記記述を信じれば,最終的には,統治側の立場だった薩摩が国王を「処刑」するところまで行った事件です。

王銀詐取事件の全過程概略

 前置きの前置きで深入りしすぎると思われるかもしれませんが,なかなかその後の推移の環境認識としては重要なので,この事件の概略に触れておきます。ただし,この一件は非常に謎の部分が多くて,下記論文(西里1997)では各種史料を動員してなお詳細が掴めない状況を吐露しています。

①幕藩制確立の過程で,薩摩藩は財政的基礎を確立するために琉球経由の対明貿易拡張を企図し,1630年代以降琉球の進貢使節に委託する御物銀(渡唐銀)を増額し,白糸購入を強要したことが事件の背景となっていること,
②1634(崇禎7,寛永11)年秋の進貢頭号船と翌年春の進貢二号船に積み込まれたほぼ一千貫目の渡唐銀を,進貢氏設の蔡錦・毛紹賢・梁廷器らは31人の中国商人に前渡して湖糸の購入を委託したが,湖糸4594斤にあたる銀4998両を騙し取られたこと(第一次「詐取」事件),
③1636(崇禎9,寛永13)年の進貢船二隻に積み込まれた薩摩藩委託の渡唐銀(大和公銀)10万両と琉球王府の買物資金(琉球公銀)2万両,計12万両を,進貢使節の一人でありながら福州に留まった楊茂栄(向氏島尻中城親方朝寿)が59人の中国人商人に前渡して湖糸の購入を委託したものの,約4万両を持ち逃げされたこと(第二次「詐取」事件),
④再度の王銀「詐取」について,琉球側は三司官や長史の名義で福州海防館あてに「詐取」犯人の逮捕と現銀の返還を要請する書簡を送り,その中で犯人の指名と「詐取」金額を明示した外,琉球国王からも福建布政使司あてに「詐取」銀両の返還を懇請する咨文を提出していること,
⑤明国側の地方当局は琉球進貢船関係者の不法行為を疑い,琉球側の要請には直接応えることなく,進貢規定の遵守を要求するとともに白糸貿易を原則として禁止する旨通告したこと,
⑥薩摩藩は二度にわたる進貢使節の不始末を,薩摩藩の進貢貿易介入に対する琉球側の意図的なサポタージュとみなし,その責任を追及したことから,琉球王府は関係者を処分し,とりわけ第二次「詐取」事件の責任者の楊茂栄を闕所にして薩摩藩に処分を委ねたこと,以上である。
西里喜行「中琉交渉史における土通事と牙行(球商)」琉球大学教育学部紀要 第一部・第二部(50): 53-92,1997 による前掲土肥1994抜粋

[対南明]鄭彩は琉球船を襲わなかった

 明が北京から落ちた後,琉球は,南明の唐王・隆武帝に朝貢を続け,唐王が滅ぶと,魯王に同じく朝貢を継続します。この時,魯王は清軍迎撃用の軍需品として硫黄を特に求めました。
 琉球は,もちろん各政権に対し白糸貿易の再開を条件にします。卑劣なほど足元を見た貿易折衝です。各政権とももちろん白糸貿易は全面容認。琉球は要求に応えて硫黄を納品したため,配下の鄭彩(海賊的に描かれてます)は琉球船を襲撃しなかった。

隆武帝立於福建,遣指揮閩邦基詔諭琉球,琉球還繼續遣使向南明朝貢。1646年,隆武帝為清朝所滅後,琉球仍然向監國魯王朱以海朝貢。琉球王府也同支持魯王的建國公鄭彩關係密切,鄭彩也嚴禁手下船隻襲擊琉球貢船。魯王和建國公通過琉球的朝貢貿易獲得了抗擊清軍所需的硫磺;另一方面,建國公希望從日本購買武器,但由於江戶幕府堅持鎖國政策而失敗了。
※14 每日頭條/擁有半壁江山的南明琉球仍對其進行朝貢

 ただし,武器購入はしなかったとある。その理由が江戸幕府の鎖国政策だとされている,ということは,「軍需品まではいいけれど武器は断れ」という方針が,幕府・薩摩まで決裁の上で実施されたことを伺わせます。

[対鄭氏]賠償金を払ってくれた海賊王国

 ところで本編は元々鄭成功の話でした。
 1646年3月に琉球側が唐王・隆武帝の即位を祝う慶賀使として派遣した毛泰久・金正春は,清軍支配下の福州で独断で清に琉球の投誠を誓ってます。
 この「裏切り」行為に,鄭成功は当初は怒り,琉球船を襲っていた。これについて,当時の琉球政治家・羽地朝秀が薩摩に,鄭氏との中を取り持って襲撃を止めさせるよう依頼した書簡が残っているという(原典未確認)。
※15 鄭成功に襲われる!()(): 目からウロコの琉球・沖縄史
 それに対し,中国サイトの每日頭條はこんな書き方をする。

琉球受到華夷秩序的影響,同反清復明的鄭氏勢力來往密切,為其提供硫磺。鄭氏集團也約定其屬下船隻不得襲擊琉球貢船。[前掲每日頭條]

 明朝との関係が長い琉球は鄭氏とのコネクションも維持し,硫黄を通行料にして福州ルートの安全を確保していた。
 琉球に南下した薩摩藩がさらに勢力を拡大しようとした,という話も一定の信憑性がある。幕府が協力を厳禁する中,次の「強奪」事件が起きています。この事件はかなり多くの書籍にあります。

1670年,鄭經的部將蕭啟派遣海盜船,在福州五虎門之外海域襲擊了裝載有一萬二千六百斤硫磺的琉球貢船,綁架使臣,劫奪貨物。琉球王府將此事通過薩摩藩告知江戶幕府,江戶幕府向進入長崎的台灣商人收取了三百兩白銀,並將其給予了琉球。1673年陰曆三月,蕭啟再度派遣海盜船十三艘襲擊琉球貢船。[前掲每日頭條]

 1670年に福州に来ていた琉球船から,二代・鄭經の部將・蕭啟旗下の海賊が硫黄12千斤余を奪った。そこで3年後に長崎に来た台湾船から,日本側は銀3百両を取り上げた。
──これは,少なくとも中国的に見れば売買行為でしょう。
 薩摩,いやひょっとしたら幕府も,羽地からの調停依頼をこういう形で対応したのではないでしょうか。でなければ,台湾船がたまたま長崎に銀を持ってくることはないでしょうし,賠償することもありえない。そもそも長崎に来航しないでしょう。

[後三藩]蔡国器の懐の二通の書状

 明の北京落ちから30年,永暦帝殺害・台湾鄭氏建国から12年後,清朝第4代康熙帝治世の1673年に三藩の乱が起きます。琉球船の寄港地・福建は三藩の一角・耿精忠の支配下に置かれたので,琉球はこの時も硫黄を通行料にして交易を続けてます。

三藩之亂爆發之後,盤踞福建的靖南王耿精忠派遣游擊陳應昌來到琉球,要求琉球給予其支持,並希望琉球提供硫磺。琉球王府遣使將此事報告薩摩藩,薩摩藩則於陰曆七月二十二日又向江戶幕府報告。九月三日,幕府下達《然者硫黃之儀差渡後樣中山王可披及返書侯》的文件,要求琉球支持耿精忠的活動,並將硫磺送往福建。不過琉球王府是在薩摩藩壓力下將硫磺送往福建的,在另一方面,尚貞王派遣正議大夫蔡國器出使清朝。[前掲每日頭條]

 三藩は一時は長江以南を支配下に置いていました。この時は幕府が「然者硫黃之儀差渡後樣中山王可披及返書侯」,硫黄の受け渡しを公認してました。
 けれど事は曲折します。1676年6月に耿精忠使者・陳応昌が来琉,これに応えて硫黄を積んで持って上陸した福建は9月には清軍が占領していました。琉球使節・蔡国器は,万一のために耿精忠宛と清宛の2通の書状を持参してきており,直ちに硫黄を海中に捨てて耿精忠宛書状を破棄,清宛の書面のみを清軍に渡しています。
 これにはさすがに清側も疑いを持ち,関係者が厳しい詮議を受けたけれど,口裏合わせが徹底していたらしい。結局,琉球は耿精忠の援助要請を一顧だにせず乱の安否を尋ねる使者を送って来た,と上奏され清の信頼を得る──というのは表向きの大団円で,清中央はそんな大嘘を信じたふりをすることで琉球に二度と躊躇を許されない位置に置いたのでしょう。本音としては,これほどの狡知を見せる小国を逆に信頼するに至った,とも言えるかもしれません。
 琉球は,かくのごとく明末清初の30年,清に敵視されても仕方のない綱渡りの等距離外交を展開しています。
 長々と書いたのは,次の「if」を考えて頂きたいからです。──琉球又は薩摩がなければ,この綱渡りを江戸幕府本体がしなければならなかった。つまり,超大国・清と徳川・日本が直接接触又は対決することになった。そんなことが出来たのか?という点です。
▲江戸時代の銀輸出量
※16 中島信久「歴史シリーズ-鉛(2)-我が国の鉛需給の変遷と世界大戦前後の鉛需給動向」金属資源レポート,2007 原典:近世、銀・金の海外流出と銅貿易の動向、他

2[経済]完全鎖国を選択できなかった17C日本

 古い教科書史観での鎖国とは,長崎での清・オランダとのみの対外交易,というイメージでした。
 まず前提としたいのは,アジアの中国とヨーロッパのオランダ,と並べるけれども,貿易量的には大半が中国だった点です。
 当時の全般的な統計データというのは求めるべくもないけれど,控え目にもオランダとの交易量は中国の半分と言われます(wiki/鎖国/概要)。上の表のデータで当時の主要貿易品・日本銀のベースで見るなら,1742年行の対オランダ上限2千kg余に対し,中国は1673-83年行の12年平均で2.2万kg,十倍と換算できます。
 以下,再度教科書的な鎖国完成史を挙げます。
1612年 幕領下にキリスト教禁教令
1623年 イギリス平戸商館閉館
1635年 長崎出島に対外交易を限定
1639年[第五次鎖国令]ポルトガル船来航禁止
1643年 ブレスケンス号事件。オランダ船の自由来航を否定
1647年 ポルトガル船の国交回復依頼を拒絶
1673年 リターン号事件。イギリスとの交易再開を拒否
 1640年以降の諸国の貿易再開使節の動きを見ても分かる。誰も「日本が鎖国した!?」という認識は持ってません。1640年代以前は江戸幕府側も一国単位の交渉で交易を一時中止した,という程度だったのではないでしょうか。
「鎖国」に当たり,幕府が見据えていたのは,ヨーロッパではなく中国です。──と捉えるならば,江戸日本が自覚的に「鎖国」したのは明末清初,つまり1640年代と考えるべきです。
 そこでまず考えておくべきは,この時期,対欧ではかなり細っていた対外交易の状況下で,日本が完全に鎖国してしまわなかったのか,という点です。
▲1646年1~9月長崎来航唐船と主要貿易品表
出典:前掲年旭 原典:「オランダ商館長日記」『日本海外関係史料』第9冊

1646年にどこから何が輸入されたか?

 鄭芝龍名義の書面による南明援兵を日本が初めて受領した1646(正保3)年にも,既に清軍の支配下にあった南京から交易船が長崎に来ています。
 幕府はこれを,通商関係にない清との交易と見なし,輸入は今回限りとし今後は来航しないよう申し渡しています。
 結果,上記のとおり,その年の7月以降は交易船は福建からのものに限られていきます。
 ただ,貿易品の内容を見ると,生糸の量が一桁減っているのが分かります。幕府が問題視したのはここでした。
 当時の輸入品は,生糸と絹織物が大半を占めていたと言われます。明末に浙江を中心に副業として興隆していた白糸と呼ばれる生糸が,消費の過熱してきた日本へ,銀と引き換えになだれ込んでいました。
▲1637-83唐船中国糸輸入高(原典:岩生成一「近世日支貿易に関する数量的考察」『史学雑誌』第62編第11号,1953)
※17 梁灏・方蘇春「17世紀から19世紀前半期の中国対日貿易に関する研究」聖泉論叢2017 25号

 この状況は,上下のグラフで見る限り1660年まで上昇カーブを描きます。上昇の止まったのは,通説では日本国内にも養蚕業が興隆してきたから,とされます。ただこれも幕府による懸命の養蚕振興の成果がようやく出てきたから,とも言われます。
 ちなみに,ようやく国内での養蚕・加工の体制が整って輸出に転じたのは幕末,つまり絹を輸入に頼らなくてよくなると同時に,幕府は開国した,とも言えます。

1858年江戸幕府が横浜・長崎・函館を開港し,欧米諸国との貿易をはじめたことをきっかけに,日本糸は日本の重要な輸出品のひとつになり,国際市場の競争に参加した。横浜開港により生糸輸出が増加し,翌年には国内で生産される生糸の半分以上が輸出されたといわれる。(略)1862年には日本の輸出品の86%が生糸と蚕種になるまでに成長した。
[前掲梁・方]

▲清代17C~19C前期唐船生糸輸入高(出典:前掲梁・方 原典:山脇悌二郎:「長崎の唐人貿易」,吉川弘文館,1995)

 江戸期の日本の国内産業は,輸入なしでは消費生活を維持できない状況でした。国内の金銀を枯渇するまで輸出するほどに,です。つまり,完全鎖国は不可能でした。
 その時代に,海を隔てて勃興した清帝国は,江戸日本にとって何者だったのか。
▲清国とその服属国群

3[結論]陸域開拓時代のブロック経済促進策

 中華人民共和国・中華民国・ロシア・ベトナム・北朝鮮・モンゴル・カザフスタン・キルギス・ミャンマー・アフガニスタン・タジキスタン・インド。
 wikiが挙げる,旧清領の現在の国名です。
 清帝国は,現・中国東北の一地方から出て中国史上でも元に次ぐ巨大な民族ハイブリッド国家を形成しました。上記地図の如く,東アジアで清又はその従属国にならなかったのは日本とフィリピン位です。フィリピンは植民地でしたから,独立を保てたのは日本だけと言っていい。
 結果として,江戸幕府の外交は奇跡的とも言える成功でした。それが可能だったからこそ,前掲の生糸の例にも見える通り,清が弱体化するや否や近代化のスロットルをオンに出来た。
 なぜこんなことが可能だったのか?──「鎖国」したから,です。

清と江戸幕府のにらみ合い

 創早期の清は,明の侵略に先駆け,周辺地域をなべて侵しています。その中に朝鮮も含まれ,1636~7年,李氏朝鮮を制圧しています(丙子の乱,丙子戦争)。
 清が朝鮮と結んだ終戦協定・丁丑約条は,要人家族の人質などかなり屈辱的なものでしたけれど,その中に日本に関する条項があります。

日本貿易,聴爾如旧,但当導其使者赴朝,朕(亦将遣使)至彼也。[清太宗詔諭]

 日本との貿易は旧来通り続けろ。ただし,彼らの使者が来たら朕又はその使いの者のところへ連れて来い。
 この情報は,だから1630年代には日本側も認知していたでしょう。
 朝鮮使節は日本の情勢やその認知した南明情報を清側に報告していた,という研究もある※18 木村可奈子「三藩の乱時期の朝清関係と日本」。一方で琉球は,1670年に進貢使が入手した清国内情勢を薩摩藩に報告して以来,「唐之首尾御使者」として薩摩への情報提供が慣例化していました。前近代とは思えないインテリジェンス戦です。
 スペインと国交を断絶,ポルトガルの貿易再開使者を処刑,オランダの将軍面会要請を拒否した江戸幕府が,こと清に関してはこれほど臆病に対応しています。
 1647年,つまり明の北京撤退の3年後,清軍が広州に入った年には,幕府の指示により薩摩藩が八重山諸島に警備兵を派遣。時差は全くありません。江戸幕府は相当に神経を張りつめ,かつ的確に中国情勢を分析しています。
▲清軍の南明領域征服図

琉球の戦術,薩摩の戦略,幕府の政略の交差

 1940年代の日本乞師に話を少し戻します。隆武帝の援兵要請を知った薩摩藩は,幕府に「先陣を務めたい」との意思表示をしています (※ 前掲西里2010 原典:「鹿児島県史料 旧記雑録追録一」87号文書(pp.49-50),94号文書(p.217))。伝承通り旧倭寇勢力も鄭成功や鄭彩の海賊軍に加わっていたのなら,実際に個人単位では島津隼人も中国東南部沿岸で暴れていたのかもしれません。――――後期倭寇直後の時代です。例えばスペイン・ポルトガルと結んだキリシタンが九州を独立化する,厦門から台湾に進んだ鄭成功が生地九州に再上陸する,そういう形で海洋アジア勢力が陸上を侵すリスクが,まだ十分に現実味を帯びていた時代です。
 援軍を断った幕府は,幕閣よりも薩摩の押さえに苦労したかもしれない。
 福州で琉球册封使の準備が進んでいた1655(明暦元)年7月,薩摩藩は幕府に次の上申をしています。

韃靼人之為体ニ申越候ハバ,罷成候間敷,達て申断,冠船(册封使船)をも追返候歟,又ハ彼使者無合点追返候儀も不罷成,還て彼方より事をも仕出候ハバ,討果申体ニも可有之哉,是ハ急々御内談肝要之儀ニ候[前掲西里2010 原典:「島津家列車朝制度」巻之二十一,1228号文書,藩法研究会編「藩法集8 鹿児島藩上」創文社,1969:pp.645-647]

 冊封使が琉球に清の習慣を押し付けて来るなら,日本の恥ともなる。冊封使を追い返すか,もしくは殺してしまってよいか,と幕府に急ぎ了解を取ったわけです。
 薩摩としては,自領の「植民地」である琉球が,都合よく明の朝貢国から離脱できそうなところで,また清の朝貢国に戻るのは許せない。これは現代の感覚でも主権国としては当然の感覚だったでしょう。
 けれど,江戸幕府からの回答は「軟弱」でした。この回答が琉球の二重支配体制を決めた,とも言えるものです。

若使者琉球国江相渡候而,髪を剃,衣装等遣候ハ、,彼方之申通ニ可仕候 [前掲西里2010 原典:伊地知季安「琉球御掛衆愚按之覚」東京大学史料編纂所所属。紙屋敦之(1990:p.225)参照]

──清の冊封使からの指示に万事従うべき。
 この回答が,本当に軟弱かどうか,お考え頂きたい。
 生糸交易の絶対死守は,幕府→薩摩→琉球というルートでかかった圧力で,琉球の綱渡り外交も薩摩・幕府の逐一注視するところでした。ノウハウに長けた琉球の外交部員は,その難局を切り抜ける狡知な戦術を有した。それを見抜いてギリギリまで酷使した薩摩の戦略も,(琉球には誠に無慈悲ながら)豪胆だったと言えます。
 けれども,この二者の強兵を使って,琉球を二重植民地状態という訳の分からない状況に置き,超大国・清との緩衝地帯に据えて,日本本国が直接清と対決しないフォーメーションを敢えて選択した江戸幕府。おそらく,琉球が清を怒らせればその侵攻も見逃し,後の時代で言えば薩摩が密貿易で紛争を起こせば切り捨てる,という程の冷酷な計算も彼らはしていたでしょう。
 小牧長久手や関ヶ原で数に勝る敵をのらりくらりとかわして不思議な勝利をおさめた,家康の姿を彷彿とさせるような政略です。
「鎖国」という外交体制は,明らかにクレバーで,かつ成功している。そしてそれは,外交としてだけでなく,内政としても成功していると考えられます。

▲(上)日本の江戸時代の耕地面積増と人口増 (下)中国の人口推移
※19 岡本隆司「中国近代史」筑摩書房, 2013
※20 あすなろ学習室/社会科/幕府の豊かな財源 その1 原典:国土交通省水資源局

江戸日本と清の内地への航路転進

 それこそ教科書的マターですけど,日本と中国の人口は17~18Cに増加に転じます。日本のカーブは中盤は微妙ですけど(三大飢饉?),中国のそれは現在も謎とされる激増(百年で4倍?)。
 この,少なくとも一因として,海の向こうを目指した交易路開拓熱が内地への販路拡張熱に振り向けられたことがあるのではないか,という仮説です。

鎖国の年代に中国と日本両国とも海洋文明としての発展は一時頓挫した。それは世界貿易の方向に背いたが,陸地の貿易文明の発展は一時的に広がった。日本では近江商人,伊勢商人などは海の交通ルートを頼って商売をなすことではなく,鎖国時期に陸地での奔走のおかげで商売を大きく広がり,江戸時代の経済を豊かにしたのではないかと考える。中国では山西省商人「晋商」は内地のビジネスチャンスを掴んで,北はシベリア,南はベトナムへの大陸貿易ルートを開発したことと似ている。[前掲梁・方]

▲新田開発の地域タイプ別区分
※21 平野の拡張,新田開発 | 公益社団法人農業農村工学会

 日本の場合,人口増の直接要因は新田開発(上記副線参照)とされるけれど,この新田は河川を上流へ,あるいは支流へ移動した未開拓地に拓かれた,という。これは移民の容易さというより,流通路の拡大でしょう。産出した作物を消費地に運べる,という内陸交易路の拡大が新田開発の成功を担保したわけです。
 上記梁・方の書くモロ陸上を歩いた近江・伊勢商人に加え,千石船の行き交った沿海航路とその河口からの河川交通網が,江戸以前とは比較にならない密度でネットワークを築いた──かどうかを数値的史料で確認できないのだけれど……。
▲武蔵野台地地域における新田の分布
※22 コトバンク/新田開発

「鎖国」は,商圏拡大のベクトルをそれ以前の外洋から,内陸沿岸・河川系へと転じさせた。そして内陸への商業展開が終わると同時に,開国した。そんな都合のいいことが,と思えるような展開が現実に起こってる。
 これは,同時期に中国に起こったことと複眼で見ると,その性格付けがよく分かる。
※ ※5483’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:蕪湖大潤発/■レポ:ニッコリ笑って人を斬る 徽商
① No “BISHO” No Town revitalization
② 徽商は東の海で何だったか?
明末の海外交易からの鮮やかな撤退

 晋商もだけれど,明末に王直を産し,清に入って内陸経営に戻った徽商について,先の淮水編で触れました。清代の内水系は,その前の代の外洋港湾に劣らぬ賑わいを見せます。
 清は,上記グラフに現れるほどの大量虐殺を明末にやってのけた後,埋め合わせるように大開発を行ってます。例えば「填四川」と呼ばれる虐殺後の四川に湖広その他の大量移民を投入し,それ以前の四川が残らないほどの新社会を造った。
※ 油煳干青∈0首頁:决赛0∋糟酸麻蒜/填四川
※ 清は,日本とは別次元の徹底した軍事政権でした。もし援軍してたら,日本も四川のように無人化していたかもしれない,と考えるのは大変現実的な観測です。

 中国・清の遷界令と日本・江戸幕府の「鎖国」は,17C~18C半ばの限定された期間,海から陸へ移動・交易・居住域の急激な方向転換をなし,両国の内陸社会の規模を押し広げました。
 どうも歩調が合い過ぎてて,他に本稿で見逃してる何かの契機があるような気もしますけど──これだけの長期政略を,いかに江戸幕僚や清中枢が聡明でも,明確に見通せていたとは思えない。新井白石などのように「今の海外交易に自国を裸で晒すと危険」という程の危機意識は持ったでしょうから,その延長で実現した推移だったのでしょうか。
「鎖国」を含む沿岸陸上国家が時を合わせて押した「海域アジアの一時停止」ボタンは,絶妙な貿易量調整の効果を発揮しました。
 そうして,18C以降に再来する本格的大航海時代に,より巨大な姿を現すことになります。

4[結果]東シナ海大航海時代を準備した「静寂」

 東シナ沿岸の国々が陸を向くと,海は静かになったでしょう。
「静か」というのは,貿易規模の縮小を意味しない。17~18Cにもその規模は維持または微増してますけど,そもそも密輸や海賊は,官営又は公認の交易があって,後者が前者に拒絶し,それに対し前者が見せる反発によって差別的に「作られる」ものです。海外交易から後者(公)が手を引いて,密輸と海賊(民)だけになれば,海上は静かになる。
 静かなのであまり史料に姿を見せないけれど──この時代に,18C後半以降の大航海時代の環境が形成されたと思われます。

貿易商人たちが代わりの品を求めてネットワークを変えたばかりでなく、他地域での代替生産も進んだ。日本やベトナムの生糸および陶磁器はその好例である。こうして日本や中国における貿易管理にも関わらず、海域アジア全体では活発に貿易が行われ、各地の経済が結びつきを強めていった。
※23 オランダ東インド会社からみた近世海域アジアの貿易と日本 | nippon.com

 要するに,大物が消えた隙に小物が出てくる余地が生じた。交易のネットワークは多角的になり,交易品も質的にも種類としても多彩になった。
 最初はそうした一脇役として参画してきたヨーロッパが,インド・インドネシアから始めて東南アジア全域を傘下に収めると,そこからは西洋史に語られる「世界システム」の時代になっていきます。
 そこに,日本が俵物と生糸を,中国が膨大な労働力を携えて再登板してくると,教科書通りの近代史が始まります。
 つまり,日中の海禁は,海域アジアを2つの仕方で育む結果となりました。交易ネットワークの間隙を作ったこと,それから150年ほどを置き一回り大きな体格で再参画したことです。
 この18C頃に海域で起こったことは,こう考えると極めて本質的な変化であることは確かなのに,性格的にも非常に断片的で分かりにくい。なのでこのポスト鎖国時代の件は課題として今少し放置せざるを得ないけれど──事例紹介だけにしてひとまず筆を置きます。
▲[上図]更紗の模様帖。動植物・人物模様が描かれる。左上の模様は「阿蘭陀(オランダ)ツナギ」とある。おもにコロマンデル地方で日本向けに特別に生産された更紗は古渡(こわたり)と呼ばれた。現在は茶道具用などに加工されているものや裂帳(きれちょう/細工した布の切れ端が貼り合わせられた帳面)などしか残っていない。
[下図]「縞」はもともとは「島」を意味し,桟留縞(唐桟留(とうさんとめ)又は唐桟(とうざん)と呼称。インドのサントメ由来)や弁柄縞(同ベンガル由来)など「南方の島々」からもたらされた織柄だったことから名付けられた。江戸中期以降は木綿の普及と相まって庶民に大流行,粋な江戸美人にふさわしい着物として錦絵にもしばしば描かれた。上は染物屋に生まれた浮世絵師歌川国芳(1797-1861)の3枚続きの錦絵。[前掲nippon.com 原典:ともに国立国会図書館ウェブサイト]

東西に渡ったマドラス織物・更紗

 この時期に海域に新参入した交易品に更紗(さらさ)があります。
 元はチェンナイ(旧マドラス,主にコロマンデル地方)で産した図柄の織物で,VOC(オランダ東インド会社)が西に日本の金銀銅を運んだ帰路の東行便に載せたものらしい。デザインが斬新ととられたからと言われるけれど,まず日本向けの輸出品としてヒットしました。
 古代エジプトから出土するものもあり,現地での生産はかなり伝統がある。これがオランダの交易網に乗り,中国経由で日本の需要が高まったことで17C頃から花方商品になり,日本向けを意識して製作されるようになったらしい。
 日本ではまず「名物裂」(めいぶつぎれ)などと呼ばれる茶道具の一つとして珍重された。「サラサ」の呼称は,1613(慶長18)年のイギリス東インド会社の司令官ジョン・セーリスの「日本来航記」が初出。1778(安永7)年には更紗の図案集「佐良紗便覧」が刊行されており,18Cには大衆化した模様。
 上の図柄を見ると,まさに日本伝統と言いたくなるデザインですけど,これがインド由来なわけです。
 ジャワのバティックやタイのものも,この頃に生産を触発された模倣品。これはVOCが生産奨励したというより,多少品質は劣っても交易先の日本に近い生産地の競争力が勝った,というところから喚起され,次第に高品質化もしていったということらしい。
 日本でも鍋島を始め天草・長崎・堺・京・江戸の各更紗を生んでます。技術面が分からないけれど,奥義は本場のものでないと……という部分もあるらしい。
 この更紗が西へも波及します。ペルシャの織物がまずそう。ヨーロッパでは伝統織物が危機に晒されるほどの流行となり,17~18Cにかけてフランス・イギリス・スペインで相次いでインド更紗輸入禁止令が発布される。機械化されたイギリスの織物業の興隆が産業革命に繋がった,という言説すらあります。
※24 wiki/更紗
※25 更紗の歴史:欧州の織物業に大激震 18世紀の「更紗革命」|生地|デザイン一覧|FIELDTAIL Original Clothing/フィールドテイル

 これはまさに,景徳鎮の輸出用陶磁器を九州で模倣してるうちに,世界的芸術性を持つようになった成り行きにそっくりです。
▲1760~80年代のリアウを中心とする貿易ネットワーク
※26 太田淳「貿易、戦争、移民:18-19世紀マレー海域の海賊」広島大学大学院文学研究科 報告

マレー海域の「海賊」

 上記インドと東アジアの間の海峡海域,現マレーシアからインドネシアの海が,18C頃から賑やかになってきます。色々な民族がある場所に拠点を置き,繁栄の時代を迎えています。貿易の中心が幾つも咲いては散る,まばゆいような状況が展開されていきます。上記図は,そのうちの初期に栄えた,リアウ(現シンガポール沖合)という場所とそこをめぐる海路ネットワークを図示したものです。

まさにこの地域に現れる国家というものは蜃気楼でしかありません。国境も持ちませんし,政府も持ちませんし,中心というもものあったかどうかよく分からない状態です。では何でそういった国家が現れてきたかと言うと,これは人の動きと物の動きのためと言えます。[前掲太田] 

 インド方面からの交易品のみならず,東南アジア各地からの食料品,胡椒,海産物,森林産物,錫等が集積され,多くが中国に運ばれる。つまり東南アジアの対中国貿易センターとして機能する場所が出来てきたらしいのです。
 現地勢力の抗争が一時的に安定した1760年頃から繁栄したリアウは,現インドネシアのバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点とするオランダに1784年に軍事制圧されます。それは逆に,現地の海上拠点がそれほどの経済的脅威をオランダVOCに与えたということです。
 ただ,リアウの残党が移った西カリマンタンのスカダナが次の拠点としてすぐに勃興してきます。ここはどうやら海賊国家そのものだったらしく,近隣のポンティアナックという場所には海賊集団が王国を作っています。面白いことに,このポンティアナック海賊王国はVOCと連合してスカダナを攻撃しています。

1730年代ごろから新たな貿易構造が海域東南アジアに現れます。その要因には,まず中国で18世紀に非常に人口が増えたことが挙げられます。そして経済が発展した都市部では,東南アジア産のスズ,コショウ,海産物それから森林産物などの需要が拡大します。これはまさにケネス・ポメランツという中国経済史学者が述べているような消費社会の発達と,東南アジア産品の輸入というものが密接に関連していると私は考えております。と言いますのは,例えば,宮廷料理が宮廷を離れて広い階層に拡大していくのもこのころです。[前景太田]

 太田さんが紹介しているVOC文書のデータ(個別史料名不明)ですけど,1790年代の一定期間の資料では,オランダが確保した胡椒の38%が海賊に奪われた,とあります。2百年ほど前の東シナ海と同じような状況が,この時期に現出しているのです。

 このタイプの,海域沿岸の多元的な競争市場が,この18C前後,後期近世と呼ばれる時代に相次いで形成されているのは,やはり大きな規模での環境が働いているように思えます。少なくともその最初の舞台設定は,中国と日本の海域からの転進行動だったと見えるのです。

参照資料一覧

1 wiki/日本乞師/概要
2 井伊直弼の言として下記書に記述
・小林庄次郎「訂正増補大日本時代史 幕末史」 P.183 1915年
・雑賀博愛「大西郷全伝 第一巻」 P.295 1937年
3 西村富次郎編「国姓爺忠義伝」「国姓爺深智乞和兵」
4 年旭「南明情報の日本伝来とその影響」東アジア文化交渉研究9巻,2016。なお,同論文注2による日本乞師の研究は19C末から以下の通り多数ある。
小仓秀貫「徳川家光支那侵略の企図」(「史学雑誌」第二篇第十五号、1891、125-133頁)
稲葉岩吉「明末清初乞師日本始末」(「日本及日本人』第572号48-61頁、第574号46-58頁、1911)
中村久四郎「明末の日本乞師及乞資」(「史学雑誌」第廿六篇第5号1-25頁、第6号59-69頁、1915)
後藤粛堂「明末乞師孤忠張非文」(「史学雑誌」第廿六篇第八号、67-91頁、1915)
中村久四郎「明末の日本乞師補考」(「史学雑誌J第二十九篇第九号、901-903頁、1918)
辻善之助「徳川家光の支那侵略の雄図と国姓爺」(「(増訂)海外交通史話」二五、東亜堂書房、1917、450-471頁)
石原道博「明末消初日本乞師の研究」(富山房、1945)
石原道博「朝鮮側よりみた明末の日本乞師について」(「朝鮮学報」1953年第4号、117-129頁)
小宮木代良「『明末清初日本乞師』に対する家光政権の対応一正保3年1月12日付板倉重宗書状の検討を中心として」(「九州史学」1990年第5号、1-19頁)
南炳文「南明首次乞師日本将領之姓名考」(「史学月刊」2002年第1期、47-52頁)
劉暁東「南明士人日本乞师叙事中的倭寇记忆」(「歴史研究』2010年第5期、157-165頁)
5 石原通博『明末清初日本乞師の研究』正篇「明将周鶴芝・冯京の日本乞師に就いて」富山房,1945 1-27p 南炳文「南明首次乞師日本将領之姓名考」『史学月刊』2002年第1期
6 林春齋「鹫峰先生林學士文集」巻四十八「呉鄭論」大阪大学図書館影写本
7 維基百科/郑彩
8「華夷変態」巻一「芝龍敗軍」
9「朝鮮仁祖実録」巻47,仁祖24年11月辛亥,12月甲午
10「永井家文书」「江戸幕府近习出头奉书」「高槻市史」巻四,高槻市役所,1974
11 松崎尧臣「窓のすさみ追加」,稲葉正勝国姓爺への加勢に反対す 有朋堂書店,1915
12 大明最后的重步兵:郑成功铁人军_百科TA说
13 西里喜行「明清交替期の中琉日関係再考 : 琉球国王の册封問題を中心に」琉球大学,2010
※ 王銀詐取事件部分の出典として挙げらているもの:土肥祐子(1994)「中琉貿易における王銀詐取事件」『史艸』35 号、東京 及び 西里喜行(1997)「中琉交渉史における土通事と牙行(球商)」『琉球大学教育学部紀要』第 50 集、沖縄
14 每日頭條/擁有半壁江山的南明琉球仍對其進行朝貢
15 鄭成功に襲われる!()(): 目からウロコの琉球・沖縄史
16 中島信久「歴史シリーズ-鉛(2)-我が国の鉛需給の変遷と世界大戦前後の鉛需給動向」金属資源レポート,2007 原典:近世、銀・金の海外流出と銅貿易の動向、他
17 梁灏・方蘇春「17世紀から19世紀前半期の中国対日貿易に関する研究」聖泉論叢2017 25号
18 木村可奈子「三藩の乱時期の朝清関係と日本」
19 岡本隆司「中国近代史」筑摩書房, 2013
20 あすなろ学習室/社会科/幕府の豊かな財源 その1 原典:国土交通省水資源局
21 平野の拡張,新田開発 | 公益社団法人農業農村工学会
22 コトバンク/新田開発
23 オランダ東インド会社からみた近世海域アジアの貿易と日本
24 wiki/
更紗
25 更紗の歴史:欧州の織物業に大激震 18世紀の「更紗革命」|生地|デザイン一覧|FIELDTAIL Original Clothing/フィールドテイル
26 太田淳「貿易、戦争、移民:18-19世紀マレー海域の海賊」広島大学大学院文学研究科 報告