GM.(経路)
目録
おもろまち南側斜面の半ば
R58を東に跨いだこのエリア,車道一本裏の小道には,苦い思い出がある。
おもろまちに歩いて入ろうとして,ここの急坂に喘いだのです。
意外に急勾配なんである。それは75年前,天久の台地を甘くみた米軍と同じでした。
自転車だからブレーキを離せば一気なんですけど……SOFTBANK裏を恐る恐る南行する。
〔日本名〕沖縄県那覇市上之屋1丁目7−26
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-
1808,タカマサイ公園が南側に現れた。
樹木に覆われ分かりにくいけれど東西に長い,こんもりした丘状。
つまり,おもろまちの南側勾配の途中に突き出たような場所です。
東口から西へ回りこむ。本来は園地中央を東西に突っ切れるらしいけれど看板あり。「破損箇所の修繕のためしばらく迂回お願います 那覇市公園管理課」
西からも入れたらしいことに,途中気付く。
西側から中央部へ登る。視界が開けてきた。おもろまちメディカルセンターのすぐ南です。
あれ?この道も半ばから下ってる?じゃあこの板貼りの道になる前はどこを通ってたんだろ?
あ,南ならも上がれるのか。つまりこれが正面か。とすると,安里八幡と同じ南向けの段差上にあった形らしい。
最高所に着く。
見当違いのタカマサイ
「白川宮」と石碑あり。
宮は屋根と4本柱のみで壁なし。新しいコンクリ造です。
神体は黒い石碑,左右に日本国旗。祭壇は6つ。臼のような形をとる。
右から3つ目のみ大きい。一番右にトラヌバ…帳主。二番目にサイヌバ…サル止め。五番目にミズヌス…水主,とそれぞれ表記あり。
那覇市教委の案内板。「この碑は昔,泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお,現在の碑は,沖縄戦で破損していたものを,1987年に復元したものである。」
つまり,14世紀頃ののろし台位置らしい。「灯火をつけない」と乱暴に書いてあるのは。のろし台だった名残か。
しかし大昔のそれだけにしては,きちんと祀られ過ぎてる。子孫がいるんだろうか?
と,当時は全く見当違いの推測をしてます。
タカマサイとは人の名前でした。
なぜこの南向き斜面の一ポイントが拝所になのか?
この場所は何なのか?
誰がこの拝所を維持し続けてきたのか?
まるで見当違い。土地の読み手としては完敗です。もう少し真相らしきものは,巻末参照。→小レポ:那覇から宮古を望む台場
三幸学園 琉球ブライダル&ホテル観光専門学校へ坂を降りていく。
夜の帳が降りてくる。
もう一ヶ所だけと目指した場所は,まさにその学校裏の公園脇でした。
〔日本名〕沖縄県那覇市泊1丁目
〔沖縄名〕とまりのろどんち
〔米軍名〕-
白猫だけが動かない
泊ノロ殿内,1838。
公園の北東角です。おもろまちの高層ビルが幻のように背景に立つ。
祠のすぐ後ろの壁上,白いものをよく見ると猫でした。動かない。主なのか?
祠は一基。祭壇はあるけれど供えはない。
碑には泊大阿母拝所とある。
よくみると左右に小さな祠。
左は井戸のようです。右は石ころに見える。文字は土帝君…か?右のに近づくと横向きにももう一つあった。
猫だけが動かない。
この場所には何の手掛かりもない。
「ノロ殿内」はノロが専住した建物のことで,現存のものは今帰仁に一ヶ所だけしかないという。泊にもそういう場所があって,その祀っていた神体だけが遺されたのがこの場所,と推測するより仕方ない。
公園そのものは方形の酷くありきたりなものです。形からして殿内の敷地を伝えるものとは思えない。
※ コトバンク/ノロ殿内(世界大百科事典内/沖縄県のノロ殿内の言及)
「ノロは〈ノロ殿内(どんち)〉に住んで,担当の祭祀管轄区域内の祈願儀礼を行い,御嶽(おたけ∥うたき)や拝所でオモロをうたい,オタカベ(お崇べ)を唱えた。オタカベは祭礼のよき日と神の出自をたたえた神への祈願の言葉をいう。」
帰路は既に真っ暗。沖縄とは言え結構肌寒い。
ファミマでタバコ吹かしてたら,店内からTシャツ姿の男がファミマから出てきた。身震いして「寒!」と叫ぶ。
着ろよ!
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首里城の外周を回りました。この一年後に無残に焼け落ちた朱の城でした。 |
【題字】美ら瘡ぬうとぅじ 遊ぶ嬉しや
[うちなーぐち]ちゅらがさぬうとぅじあすぃぶ うりしゃ
[やまとぐち]美しい疱瘡のお相手をして遊ぶのが嬉しい
※えのさんの琉歌ものがたり/病気の神様?
支出1500/収入1525
負債 25/
[前日累計]
/負債 345
§
→三月二十四日(天)
0959あやぐ食堂
Aランチ750
1548大東そば
ゴーヤチャンプルー550
1700エーデルワイス
レモンパウンド300
[前日日計]
支出1500/収入1600
負債 100/
[前日累計]
/負債 245
§
→三月二十五日(一)
レールが出来たころには野原だった
出でぬゆえ捻り出したる不如帰
え~と。まあ,やんごとなき事情で遅くなったのである。
0928,壺川駅に自転車を置いてゆいレールに乗る。
本日のユクエスタもだけど,旭橋の回りにはさらにホテルが増えた。昨日のMrKINJOもチェーンを急速に増殖してる。あれは香港方式というのだろうか。
旭橋。やはりこのバスターミナルの建物はすごい景観の変化になってます。これはむしろ美栄橋,牧志の方が大人しい町になってきてるんじゃないか?
牧志に向かって左側に2本の高層ビルが映える。その麓は確かに高台になってるのが見えるけれど,建物の高さでそれはほとんど目立たない。
安里はもう,ノスタルジックな色彩に感じられる町です。
おもろまちに向かう正面左手にひ東横インとロイネットが目につく。ここでの下車客は半数近い。
古島への右手東側はもう普通に町です。ゆいレールが出来たころには野原だったのを思い出す。
さて市立病院へのカーブに入った。左手,末吉の森はやはり鬱蒼。そして亀甲墓の砲列。
その森の北端,儀保のエリアにも,その続きっぽい丘は点々と続いてる。
あやぐ食堂 五つの掟
首里駅到着,下車。0947。
真裏の坂を登ってみた。首里中学校。花の道。「きよらか首里駅前」という老人ホーム。
あらら,レール下に戻っちゃった。やはりビンズルモーのNTT鉄塔には抜けれない。おかしい,地図上では道があるのに……。
すみませぬ,キチャない絵から入りましたけど,朝御飯の話です。0959あやぐ食堂
Aランチ750
この時間には既に客が9人。うち家族4人が観光客一組ですけど。今スマホにピースして記念撮影中ですけど。
なもんでここは少し上から目線で,あやぐのランチの作法を独断で綴りたくなった。
一つ 天ぷらをまず食すべし
あちこーこー(熱々)のうちにこそ,ピーマンやニンジンの沖縄天ぷらが信じられない旨さ!特にこの,ポークの天ぷらは熱々だと絶品なのじゃ!
二つ レタスをドレッシングだけで食うな
これだけおかずがあるんである。おかずと一緒にちびちび食せば,多彩なおかずに無限のバリエーションが生まれるのじゃ,わはははは。
三つ 卵はポークとともに食え
最初は頭を抱えてた味なし卵焼き,これはいわばケーキとブラックコーヒーのようなもの。ポークやハンバーグと交互に食えば,塩気や脂の絶妙なアクセントが生まれる。ここは食べ手のセンスが問われるのじゃ,おほほほほ。
四つ そばがのびるのを恐れるな
コシが強いからだろうか,ここのそばはやや伸びた位がちょうど旨くなってくる。日本そばとは全く違う粘着質の麺の旨味に酔え,ぎゃははは。
と自分が酔いしれつつ完食した1040には,もう客は満席!おおっ,時間的には危なかったながな。
五つ Aは笑わず寡黙に食え。
■小レポ:那覇から宮古を望む台場・タカマサイ
確かに那覇市案内板にも「泊の地が諸島を管轄していた頃」という文字はあります。
奄美や八重山が沖縄本島からは一段低く見られていたことも,これまでの沖縄滞在を通じて聞いてはきました。
けれども,例えば日本の関東に対する東北とは似て否なる構造的な格差が創られてた可能性に,ようやく気付かされました。
① 奄美・八重山専用港・泊港
「泊の地が諸島を管轄していた」とは,「泊御殿」(とまりうどん)という役所がここにあって,対奄美・八重山の交易を専属管理していたことを意味しています。
そのための港として,那覇港とは別に,泊港がありました。
那覇港は諸外国との交易に用いられていた。ただ,泊外人墓地が民間中国人墓地から始まったことを考えると,同じ中国交易でも民間部門は泊港に入港していたらしい。
泊は,元々奄美からの交易船専用に造られた。後に八重山からの交易が始まった際に,そこに対八重山交易の機能を付加したものと推測される。
この八重山交易を開始したのがタカマサイ(高真佐利屋)の主だった与那覇勢頭豊見親(ヨナハセドドミオヤ)です。
この奄美・八重山からの交易船は「入貢船」と呼ばれていました。島々からの貢(みつ)ぎ物に貯蔵されたと言われており,それが現在の聖現寺だと推測されています。
そして注目すべきは,それらの事実が,それぞれ凄く婉曲的に,接続されるのを恐れるように書かれてます。
※ OKINAWA CORE HARB/もしあなたが宮古島出身で,那覇に住んでいるなら,わかるよね?!
「宮古島の偉人、与那覇勢頭豊見親(ヨナハセドドミオヤ)さんが,逗留することになった際,その部下であった高真佐利屋(タカマサリヤ)さんが故娜を懷かしく思いながら,『あやぐ(宮古民謡)』を歌ったというお話が残されています。」
1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。
ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。
1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。
※ 日本1000公園/201/1000 タカマサイ公園(沖縄県那覇市)/與那覇勢頭豊見親逗留舊跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」
那覇市文化財指定史跡 昭和51年4月16日碑文
※ TIDA/122泊御殿(とまりうどん) ~琉球沖縄の民話
※ wiki/与那覇勢頭豊見親
「宮古島から初めて中山国に朝貢し、宮古島の首長に任じられた。」
「『与那覇』は地名。『勢頭』は『船頭』を意味し、『豊見』(とよむ)は『名高い』という意味である。また、『親』は尊称。名前全体では、与那覇の偉大な船頭(支配者)といった意味になる」
「『球陽』によれば、1388年に中山国に至るも、同国の言葉を解さなかったため、足掛け3年間言葉を学んだ後、察度王に朝貢したという。また、『白川氏家譜正統』によれば、中山国に渡った時に泊御殿に滞在したが、宮古の者の多くは琉語を解さなかったので、怜悧な者20名を選んで3年間言葉を学ばせたという。」「多良間島に残されていた『与那覇勢頭豊見親のニーリ』という神歌では、『宮古の島立ての頃、優れた人がいないので、統治する人がいないので、それでは私が出てみようと、それでは私が統治しようと、出世して島を治め、名高い豊見親といわれていたが(略)』」
② 二重の朝貢貿易体制
与那覇勢頭豊見親が開始したのは,八重山-首里の朝貢交易でした。
首里の尚(本格的には第二尚氏~)王朝は,対中国の朝貢交易を貿易のプロトタイプとして創始されてます。だから,八重山を征服した後も,それらの被征服地,はっきり言えば植民地との交易も朝貢の形を基本型にすることになったのでしょう。
首里王朝の経済力は,目上の中国との朝貢と,目下の奄美・八重山との朝貢と,二重の朝貢関係を源泉としていた。そういうことになります。
奄美は,薩摩藩の琉球侵略で薩摩領に編入されます。薩摩からすれば,首里王朝の北側への経済支配をなぞっただけなのかもしれません。そして奄美からすれば,単に宗主国が変わっただけ。
前掲のサイト名が,この辺の感覚を露骨に伝えてます。「もしあなたが宮古島出身で,那覇に住んでいるなら,わかるよね?!」
それと,これもないちゃーには感覚的には分からないけれど……八重山語は沖縄語とは本来相当通じ難い言語だったらしい。タカマサイは,そのために与那覇勢頭豊見親が八重山から那覇に連れて来られ沖縄語を勉強させられた学生の一人です。つまり通訳(通事)の養成です。
タカマサイ公園に祀られていたのは,このタカマサイの八重山への望郷の想い──と書くとあまりに綺麗事過ぎます。二重の朝貢体制下の「二重の収奪体制」──さらに江戸期以降は三重と言っていい──の底辺を一手に担った八重山への,嘆きと呪詛。
それ自体が信仰対象になるほどの悲嘆,というのがないちゃーにはやはり実感できませんけれど,この構造下からばそういうものが存在するのかもしれない,とは何とか想像できるようになりました。
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